今月の表紙・広告「東京自慢名物会」 - e

(今月の表紙)
広告
「東京自慢名物会」
解酒厭
説
井 シ ヅ
堂大学 助教授 医史学
明治二九年︵一八九六︶の売薬の広告である。名妓の浮世絵が人の目を惹
きつける。名妓は﹁よし町 ほていや よう 橋谷なお﹂である。﹁よう﹂に
見立てた模様がそれに並ぶ。﹁浅草山谷橋染﹂とあり、﹁待ちしずんで﹂とこ
とぱが入る。﹁よう﹂の果たせぬ恋を暗示させる。
さて、広告の本題は、薬剤師高木與八郎の製造販売した﹁小児生長丸﹂と
﹁頭痛静靖丸﹂である。高木與八郎は東京日本橋区両国薬研堀四十三番地に住
んでいた。この広告の触れ書に﹁高木氏の薗中池あり 是れなん○の薬研堀
の残遺るなりとて 名実相加わりてここに良薬を整出するを寿と云ぷべし へ
丸薬のまるい頭の痛みもほんに治ってせいぐする薬﹂と記す.﹁頭痛
静靖丸﹂とは、せいせいすることからのネーミングであろう。
これらの売薬は明治二八年一二月二一日に官許を得たぱかりのものであっ
ている。それをここに載せなかったのは、癩滴薬は他の二つに比べて限られ
た。高木はこのとき、もう一つ癩滴の特効薬﹁蘇神丸﹂の製造販売許可も得
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た人を対象とするからであったのだろうか。
ところで、売薬は長い歴史を持つ。それがいつ始まったかは、何を売薬と
呼ぶかによって違ってくる。富山の売薬のような配置薬に起源を求めれば、
それは江戸初期になる。しかし、寺院ではそれよりはるかに早い。施薬の形
で庶民に与えていた薬がいつの間にか売られるようになった。また、中国か
ら名薬の処方集である﹃和剤局方﹄が普及した室町以降、それに載る﹁合せ
つて浸透していった。
薬﹂を常備する習慣が上流階級の間で生まれた。それが庶民の問に売薬とな
江戸時代は売薬の全盛期であった。製造権の株を得て、販売区域の許可を
得れば、誰もが自由に製造販売できた。効くか、効かないかは客の判断に任
となっていった。
せた。いきおい広告は派手になり、豪華な看板は薬屋というのが、通リ相場
明治に入って、政府が手をつけた最初の医療行政の一つが売薬の審査であ
った。明治三年︵一八七〇︶一二月、太政官布告で売薬を取締まることとし、
審査を大学東校において行うことと定め、業者に各売薬の処方、効能、用法、
定価を詳述して大学東校に提出させた。このとき、御夢相薬とか家伝秘法な
ど誇大な表現を用いることを一切禁∪、薬効のないと判断されたものを、販
り、古来の売薬のほとんどを無効なものと決めつけてかかった。しかし、当
売不許可とすることにした。審査にあたった者は洋方医あるいは西洋人であ
時、医者にかかれる者は限られ、大多数の庶民は配置薬など売薬に頼らざる
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明治四年︵一八七一︶、政府の官制改革により文部省が誕生した。翌五年、
を得ない社会状況に置かれていた。そのため、有害な売薬だけが禁じられた。
東校が受持っていた医療行政事務は、同省内に移管された。売薬取締も移管
された。明治八年︵一八七五︶、再び官制改革があって、文部省から内務省に
同事務が移された。
明治一〇年︵一八七七︶には﹁売薬規則﹂が布告され、大正三年︵一九一
四︶に﹁売薬法﹂が公布されるまで施行されたが、この規則に売薬売上税が
実に向けることにあったが、現実には、そこに向けられなかった。また、税
設けられた。この税を設けたときの意図は、それで得たお金を衛生行政の充
を設けることで売薬の数を減らそうとしたが、それも期待を裏切った。それ
まで古くからの売薬の中には審査に通らず、無免許で販売していたものがあ
った。その罰則規定がこの規則に盛られているために、この規則布告と共に
姿を消していったものもあった。それ以上に、ここに示した高木與八郎のよ
うに、新しい教育を受けた薬剤師が、新しい売薬をつぎつぎと売リ出してい
ったのである。
︵表紙の広告は、内藤記念くすり博物館展示品︶
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