永井 均

平成26年度 日本大学文理学部個人研究費 研究実績報告書
所属・資格 哲学科・教授
申請者氏名 永井 均
研
究
課
題
研究目的
および
報
研究概要
告
研 究
の
の
結 果
概
要
研 究
の
考 察
・
反 省
自
我 と 無 我
「自我」という概念は、哲学においてはもちろん、文学や社会学、あるいは日常会話におい
てさえ、問題なく流通している概念であるが、実はその意味ははっきりしない。とりわけ仏
教は自我の存在を否定して無我を主張すると言われているが、そもそもそのさい、最も肝心
な何の存在を否定しているのかが明確でない。それが明確でないままに「無我」という解釈
と「非我」という解釈の間で論争がなされたりしている現状である。西洋現代哲学の知見を
使って、仏教(やヒンドゥー教)の自我概念を解明し、無我論がそもそも何を「無い」と言
っているのかを明らかにし、そのうえでその議論の妥当性を正確に検討する。
初期仏教のヴィパッサナー瞑想について研究し、前反省的自己意識の視点から反省的自己
意識のはたらきを把握するのが、その本質であることを明らかにした。呼吸や体の感覚や意
味のない音のような明らかに前反省的な(無我の、すなわち「私」の統一を作り出すはたら
きのない)意識の存在に気づいて、そこに身を置くことが前反省的自己意識の水準に立つこ
との訓練になり、その視点から、実在的連関を構成してしまった後の、あるいはいま構成し
つつある(ふつうなら反省的にしか気づけない)心的状態に気づくのが、ヴィパッサナー瞑
想における「気づき(サティ、マインドフルネス)
」の本質である。しかし、この「前反省的
な水準」を、サルトルのように単に反省意識がはたらく以前の意識のあり方と取らずに、実
在的意味連関とは独立の現実的実存と取ると、ヴィパッサナーの本質は、自我を構成せずに
ただ現実に存在していること(実存)に気づくことにあることになるわけである。
ここには色々な問題が含まれていが、仏教を超えてユダヤ・キリスト教との関係が重要であ
ると思う。無我概念と〈私〉の唯一性とはむしろ一致することが明らかになったが、まさに
その場所こそが「神」の唯一性の顕現の場である。これは私が「現実性」と呼んできた存在
論的事実を「神」という伝統的形象を使って強調した表現である。もしそう取る可能性があ
るとすれば、仏教の場合もユダヤ・キリスト・イスラム教の場合も、その究極的なよりどこ
ろは同じところにあることになると思われる。
※この欄は,本報告書提出時点で判明している事項についてご記入ください。
研究発表
学会名
発表テーマ
年月日/場所
研究成果物
テーマ
誌名
巻・号
発行年月日
発行所・者
印
哲学探究――存在と意味
文學界
2014年7月号~2015年3月号
文藝春秋