Page 1 Page 2 プロタゴ~ラス説の自己論・・・受性 一 プラ ト ン 『テアイテ

KURENAI : Kyoto University Research Information Repository
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プロタゴラス説の自己論駁性 : プラトン『テアイテトス
』 169-171
大内, 和正
古代哲学研究室紀要 : HYPOTHESIS : The Proceedings of
the Department of Ancient Philosophy at Kyoto University
(1995), 5: 21-30
1995-12-01
http://hdl.handle.net/2433/70964
Right
Type
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Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
プE
]タゴラス説 の 自己論駁性
プ ラ トン 『テ アイ テ トス 』 1
6
9
-1
71大 内 和正
Ka2
1
l
l
maSaeUcHI
あ る説 や主 張 を論 駁 しよ うとす る とき, そ れ が 真偽 の 区別 を認 め ず, 知 識 の
可能 性 を否 定 す る よ うな性 格 の もので あ る場 合 に は, 論 駁 は きわ め て 困難 な も
の とな る(
〕「万物 の尺 度 は人 間で あ る」 「各 人 に思 われ る こ とは, そ う思 われ る
人 に と って ,事 実 また そ の よ うに あ る 」
日
とい うプ ロタ ゴラス説 は. ま さに そ
の よ うな性 格 を持 つ もので あ ったこ
ノ『テア イ テ トス 』(
169-171)にお いて , プ ラ
トンは この説 を論 駁 す るた め に, その 説 自体 が 自 らの立 場 を破 壊 して しま うこ
とを示 す とい う戦 略 を採 った ので あ る O この論 駁 で用 い られ た のか 自己論 駁 性
を 指摘 す る議論 で あ る こ とは,周 知 の 事 柄 で あ るが 21, この論 駁 の 有効 性 を め
ぐって ,今 な お活 発 な論 議 が な され て お り, 解 釈 者 た ちの 間 で一 致 した見解 は
得 られ て い な い 。:
論 議 の的 とな って い るの は特 に次 の 問題 で あ る。-
プ ロタ ゴ ラス は,各人
の思 いが真 で あ る とい う 自説 に固 執す るな らば, 自説 を否 定す る人 々の思 い を
も真 で あ る と承 認 しな けれ ば な らず, そ の結 果 , 自説 か偽 で あ る こ と も承認 せ
ざ るを得 な い (二これ が プ ラ トンの議論 の骨 子 で あ る
。
しか し, ここで は本 来 の
プ ロタ ゴ ラス説 に含 まれ て い る 「そ う思 わ れ る人 に と って 」 とい う重 要 な限定
句 が欠 けて お り, も しこの ま まで論 駁 が 成 立 す る とい うのが プ ラ トンの真 意 で
あ る とす る と, この議 論 は プ ロタ ゴラス説 の 論 駁 と して は無 効 で は な い か 。
本 稿 にお け る私 の立場 は, この議論 の論 駁 と して の有 効 性 を弁 護 す る もの で
1
)プロタゴラス説が導入されるとき,「
思い」(
8oxE
T
v)の代わ りに 「
現われ」(
,
Pc
L
L
v
e
JOc
u)
が用いられることがある。「
思い」が 「
現われ」あるいは 「
感覚」(
c
L
kO
iv
EqOc
L
L
)を含み,
61d3,1
66eト16T
bl.171
eト3,17
8b5-7,
それ らと置き換え られ うることについては,1
17
9(
二
2
-4な とを参照 。
2
)
〔e
pL
TPO可 と呼ばれている議論。セクス トゥス (A,
l
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SuSMal
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2
COSVI
I389390)はこの方法を,デモク リトスとプラ トンがプロタゴラスに対抗す るために用いたも
のだと証言 している。『テアイテ トス』(
lTla-。)において展開されている議論がこれを指
す ことは,一般に承認 されている。
-21-
プロタゴラス説の自己論駁性
あ る。 プラ トンが ここで限定句 を意図的 に除去 し, まさにその ことによってプ
ロタゴラス説の 自己論駁性 を露呈 させ る ことができた と考 え る。本稿 では,限
定句か省略 されてい るとい う事実 に焦点を 当てなが ら, この議論が いかな る意
味で有効 な論駁 であ るのかを明 らか に していきたい。
Ⅰ
は じめ に, この議論 には どの よ うな問題 点があ るのかを確 認 してお きた い。
まず,一連の議論 に 目を 向ける ことに しよ う プロタ ゴラスに対す る論駁 はお
よそ次の よ うな手順 を踏 んで行 われてい る
。
。
A プ ロローグ (
169d-170e)
これか ら開始 され る議論 の考察対象が,知 の優劣 は存在す るか否か をめ ぐっ
て これ までに同意 された事柄 であ るとの確 認ののち,二つの立場が改 めて提示
「各 人 に思われ ることは, そ う思われ る人 にとって,事実 また
され る。一つ は,
てら 8
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∼
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-㊨8oxeT
,1
7
O
a3
-4)
その ようにある」 (
とい うプ ロタ ゴラス説 であ り, もう一つ は, これ に反対 し,
「知 とは真 なる考え
であ り無知 とは偽 な る思 いであ る」とす るすべての人 々の思いで あ る。そ して,
これ ら二つの立場か らそれぞれ 「
人 間の思 いは常 に真である」 「人 間の思いは,
ときには真であ り, ときには偽であ る」 とい う前提が導 出 され ,
「これ ら両方か
ら,人間は,常 に真 を,で はな く真 と偽 の両方 を思 ってい ることか帰結す る こ
,
,
とにな るだろ う」(
1
7
0
C
4
-5)と, これか ら行われ る議論の帰着点が示 唆 され る。
B 本論 (
170e
-171C)
実質的な論駁が開始 され る。 プロタゴラス 自身 も多 くの人 々 も人 間が尺度で
1)と,彼 だけそ う思 い,多 くの人 々はそ う思 わない場合
あ ると思わ ない場合 (
(
2)との,二通 りの選択肢 が挙 げ られ る。
(
1
)を運ぶ場 合,いかな る人 に とって もプ ロタゴラス説 は真ではない とい うこ
1
7
ne
7
-1
71
al
)
。 この選択肢 は議論 の形式を整 え るだけの
とが直 ちに帰結す る (
ものであ ると解 され るが, もちろん これ を選ぶ 限 りにおいて,論駁 は成立す る
ことにな る。
(
2)を運ぶ場合の帰結 と して次 の二つが示 され る
(
2
1
)そ う思わない人 のほ うがそ う思 う人 よ りも数が多いので,ち ょうどそれ
だ けプ ロタゴラス説が真 であ るよ りも,真で はない ことにな る (
1
71
aトa5
)
。こ
。
こで も論駁が成立す るが,人数 の多寡 によ って真偽 を決め るとい うこの帰結 は
-2
2-
重要 な ものだ とは言 えないで あ ろ う3)
。
(
22)プ ロタ ゴラス は, 自説 が偽 だ と思 ってい る反 対者 の思 い も真 で あ る と
承認 し, 自分 の思 いが偽 で あ る と認 め る ことにな る しか し,反対 者 は, 自分
。
た ちの思 いが偽 であ る ことを承 認 しない。 と ころが プ ロタ ゴラス はその人 た ち
真 理 』 は,
のそ うい う思 いを も真 であ る と同意す る 従 って,プ ロタゴラスの 『
。
他の人 に とって も,彼 自身 に とって も,真で はない (
171a6-C7)
。 ここにおいて,
プ ロタ ゴラス説が それ 自体 に よ って覆 されて い る こ とか示 され た とされ るわ け
であ る。
さて,議論 は以 上の よ うに多 岐にわ た ってい るが, その要所 とな るの は ,「き
わめて巧みな 」(
xo両 6
て∝てOV 4),1
71a6)議論 と呼ばれてい る (
2-2)の部分 で あ
る ことは間違 いない。 さ らに絞 り込 め ば次 の部分 であ ろ う プ ラ トンは, プ ロ
。
タゴラス説 自体 か ら次 の よ うな帰結 が生ず る ことを ソクラテスに語 らせ て い るO
「あの人 【
プ ロタ ゴラス】は とい うと, 自分 の思 いにつ いて反 対 の こ と
を思 ってい る人 々が,彼 は間違 って い る と考 え てい るその思 いを真 で
あ る と承認す る ことにな るだ ろ う,誰 もが その通 りあ る もの を思 って
い るとい うことに同意 してい るのだか らね。- そ うす る と,あの人 は
自分 の思 いが偽 で あ る ことを承認す る ことにな るので はないか, も し
彼 が間違 って い る と考 えて い る人 々の思 いが真 で あ る ことに同意 して
い る とすれ ば 。
」(
171a6一
一
b2)
これ らの言葉 を整理す る と次 の よ うにな るで あ ろ う
。
(
1) プ ロタゴラス説 に よれ は,各人 の思 い は真 であ る
。
(
2) しか し, あ る人 々はプ ロタ ゴラス説か偽 で あ る と思 う
.
(
3) 従 って, プ ロタ ゴラス説 が偽 で あ る とい う思 い は真 であ り, プ ロタ ゴ ラ
ス説 は偽 であ る。
ところで,す で に触 れ た よ うに,多 くの解釈 者 た ちは この議論が プ ロタ ゴ ラ
ス説 の 自己論駁性 を示 して い ない とす る5㌧ その無効 性 を指摘す る諸家 の意見
3)cf
.McDowe
l
l
,17
0・
4)cf
.LSJs・
V・
"
xo両
66
"I
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2・'
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e
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que,
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C・
5)この ことを最初に指摘 したのは Gr
ot
e(
c
h.
28,13ト 8)である。その後 しば らく
時をおいて,Vl
a
st
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27)
,Rt
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16)
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Yr
e(
8ト8)
,Magui
r
e(
13ト 1
36)
.
Bos
t
・
oc
k(
89-92)等によって,同様の批判が繰 り返されている。また,Le
e(
244-247)は
彼 らとは違 う角度か ら論 じている。- プラ トンはプロタゴラス説をそのまま受け取る
161e-162a)にもかかわ らず,その直
と問答の営みは無意味になることを指摘 している (
後にまじめな対話を要求す るプロタゴラスの代弁を している (
162d-e,168b)- こう
した事実か ら,この議論をアイロニーの枠組みでなされたものと判定 して考察を進める。
-
2 3
-
プロタゴラス説の自己論駁性
は ほぼ一致 して い る。す なわ ち, この議論 で は 「∼ に と って」 とい う重 要 な限
定句 が欠 けて い るのであ る6)。そ こで (
1け ら (
3)に この限定句 を付 けると次 の
よ うにな る。
(
1′
) プ ロタ ゴ ラス説 に よれ ば,各人 の思 い はその人 に とって真で あ る。
(
2′
) しか し, あ る人 々は プ ロタ ゴラス説が偽 で あ る と思 う
。
(
3′
)従 って, プ ロタ ゴラス説が偽 であ る とい う思 い は彼 らに と って真 であ り,
プ ロタゴ ラス説 は彼 らに とって偽 で あ る。
こ う して限定句 を補 った場合 には, この議論 が 自己論駁性 を示す ものだ とは
1
′
)か ら (
3′
)の反論 が な され て も, プ ロタゴラス
もはや言 え ない。 なぜ な ら,(
には, な お 自説 を守 る方法 が残 されて い るか らで あ る。す なわ ち, この反論 で
実 際 に明 らか に され るのは,プ ロタゴラス説が 「その反対 者 に とって」偽 であ る
とい うこ とだ けであ り, プ ロタ ゴラス は,「自説 は他人 に とって偽 であ るか も し
れ ないが, 自分 に と って は真 で あ る」 と言 い返 す こ とに よ って∴ この反論 を免
れ る ことが で き るのであ る。結論 と して後 に述 べ られ る 「プ ロタゴラスの 『真
理 』 は,誰 に と って も真 で はあ り得 ない ことにな るだ ろ う,他 の人 だ けで な く
1
71
C
5
7
)とい う言葉 は,直 ちに導 き出す
あの プ ロタ ゴラス 白身 に と って も」(
こ とはで きない。
実 際 にな され てい る議論 の よ うに限定句 が な い場 合 に は, プ ロタ ゴラス説 は
論駁 され はす るが,本来 あ るべ き形 の プ ロタ ゴラス説 が姐 上 に載せ られて いな
い とい う決定的 な再反論 を免れ得 ないであ ろ う。他方, この議論 に限定句 を補 っ
て理解 す る場合 に も, プ ロタ ゴラス にはなお再 反論 の余地 が残 され る ことにな
る。 いず れ にせ よ, この議論 は論駁 と して成功 して いな いか の よ うで あ るC
,
た しかに,この議論の うちには多 くのアイロニーが看取され うるが, しか し,その事実
を もってこの議論そのものをアイロニーと解することには,無理があるように思われるC
私はプロタゴラス説が問答の営みを無意味にするとの指摘は,後述するように,自己論
駁の議論の帰結を予告 した ものであると考える。他方,限定句が付加されていても,こ
の論駁は有効であるとする立場をとる論者 として,Burnyeat(
39-59)
,Ti
gner(
366-9)
,
Wat
e
r
l
ow(
1
9-36)等を挙げることができるo私の立場 もこの議論の有効性を弁護するも
のであるが,私はむ しろプラ トンが意図的に限定句を排除 したと考える。なお,この論駁
はプロタゴラス説を問答の営みを無効にする立場-と追い込むことによってなされたとい
う本稿の基本的な路線は,藤落合夫先生の研究講義 (
1982年度)か ら大きな示唆を受けて
成 ったものである。同様の解釈は,小池 (
17
-19)において もなされている。
6)テクス トに即 して言えば,少な くとも 1
71
a8の o
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J
YX
OP
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で7
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)
0
句Tもv8
6ミ∝Vにおいては,r彼 ら【
プロタゴラス説の
反対論者】にとって」を本来補わなければならない。
-2
4-
Ⅰ
Ⅰ
この論駁 の有効 性 をめ ぐって疑義 が 出 され るのは,以 上 を見 る限 り. 当然か
も しれ ない。 しか し,少 な くともプラ トン自身 が この論駁の有効性 に疑いを持 っ
て い るとは考 え られ ないであ ろ う それ は, プ ロタ ゴラス説批 判が完 了 した後
のテオ ドロスの ま とめの言葉か らも明 らかで あ る。
C
「
[
プ ロタゴラス説 は]他 人の思い も権威 ある もの とす るが,その他人の
思いはあの人の説を決 して真でない と考 えていることが明 らか になった,
とい う点で もその説 は押 さえてや りこめ られ るのであ る。」(
179b7-9)
われわれ は,諸家 の見解 に与 して この論駁 が不成功 だ と即断す る前 に, はた
して この議論 に限定句か必要 であ るのか ど うか , また必 要 であ るとすれ ば, プ
ラ トンは限定句 を不注意 に落 と して しま ったのか,それ と も意 園的 に除去 した
のか を考 えてみ よ う。
プ ロタ ゴラス説が最初 に導 入 され る場 面 (151e-152C)を見 るか き り,限定句
は本来必要で あ ると言 うことかで き る プ ロタ ゴラス説 は, ものは各人か ら独
。
c
x
l
jて吊 ダ t∝uT
01
∼
J)何 か であ るので はな く,r誰か に とっ
立 して 「それ 自体 で 」(
TL
VL)何 かであ る とい う立場 を表 明 して お り, この説 に よれば,各 人 の思
て 」(
い とその人 に とっての もののあ り様 とは完全 に対応 し, この こ とがすべて の思
いや現 われ の不 可謬性を保証す るのであ る。 当た り前の話 で あ るが,逆 に も し
その説か 限定句を必要 と しない と考 え るな らば 7) , そ もそ もプ ロタ ゴラス説が
紹介 され るいかな る場面 で も,限定句 が付加 され る必然 性 な どなか ったはずで
ある
む ろん、文脈上限定句が必要不可欠ではない場面で は,それ は省 略 され うる8)。
しか し,少 な くともこの議論 で は, 限定句 は必 要で あ ろ う なぜ な ら, この議
論 において限定句 か不要 だ ったな らば,論駁 は実 際行 われてい る通 りの もので
。
。
1
)
∼(
3
)で見 た よ うな
はあ り得ず,少 な くとももっと簡単 にた と ば先の (
内容が論 じられ るだ けで - 完 了 して いた はずだか らであ る。
事実 , プ ラ トンの限定句 の取扱 い は慎重 で あ る この議論 は読者 に限定句 の
重 要性 を再確 認 させ ようと してい る と言 って もよいか も しれ ない。 とい うのは,
この一連 の議論 には,意識的 に本 来 の プ ロタ ゴラス説 を扱 お うと して い る こと
。
「他 の もの を通 じてで はな
を示す, 際だ った特徴 が見 られ るか らで あ る。 まず ,
7)
限定句がないのが本来の説であると考える場合,プロタゴラス説は 「すべての思
いは,事実そうあり,真である」とい う債権的な主張となる。Cf
. Sext
us,Adl
J
er
S
uS
J
t
/
IauL
Emal
i
c
osVII390.
8)プロタゴラス説の表現として限定句が正式につけられることもあるし(
e.
g.
158a6-7,
162C81dl,170a314,177(
二
7-8)
,省略されることもある (
e・
g,
158a2.158d314,161C2-3)
。
-2
5-
プロタゴラス説の自己論駁性
く, あの人 [
プ ロタ ゴラス]の言葉 か ら,で き るだ け簡 潔 な仕 方 で, その 同意 を
取 り付 ける こ とに しよ う」(
1
69eト 1
70al)とい う状況設定か行 わ れ, は っき り
と限定句 をつ けた 「各人 に思 われ ることは, そ う思われ る人 に とって,事実 ま
たその よ うにあ る」(
170a34)とい うプ ロタ ゴラス説 が改めて提示 され てい るO
そ して,議論 の途 中で もプ ロタゴラス本人 が相手 にな って い る ことが しば しば
e・
g・170a6,C2,e7)
。特 に, 問題の箇所 における議論 は 「きわめて
確認 され る (
巧みな」 もの と特徴づ け られ,議論が プロタ ゴラス本人の 同意 (
bl
J
l
0人
oYc
r
v)や
ot
J
YXOPC
T
v)や書いた こと (
171b7)に基づ いて展開 されてい る ことが,異
承認 (
常 とも思 え るほ どに強調 されてい るのであ る。
従 って, これ らの事実か らすれ ば,批判 の要 と も言 え る決定 的に重 要 な場面
で, プ ラ トンが 限定句 を不 注意 に落 と した な どとは とて も考 え られ ない。む し
ろ,諸家 の見解 とは反対 に, プラ トンは少 な くと も限定句付 きの本来 の プ ロタ
ゴラス説 を念頭 に置 きつつ , ここで は限定句 を意 図的 に除去 した と考 え る方が
自然 であ ろ う。
Ⅰ
Ⅰ
Ⅰ
さて, も し以 上 の理解 が動か しか たい とす れば,なぜ プラ トンは この箇所 で
限定句 を意 図的 に除去 したのであ ろ うか。 そ して, この議論 はいか な る仕方で
プ ロタ ゴラス説 の 自己論駁性 を示 してい るのであ ろ うか。 これ らの問題 を明 ら
か にす るために,われわれ は視野 を 『テアイ テ トス』第一部 で展 開 され るプ ロ
タ ゴラス批判 の全体 - と広 げ ることに したい。
i
)批判序 論 (
1
61ト 165e)
,(
i
i
)プ ロタ ゴラスの
プ ロタゴラス批判 の全体 は,(
165e
-168C)
,(
i
i
i
)批判本 論 (
168C-1
79d)とい う三つ の部分 か らな る。順
弁明 (
を追 って見 てい こ う。
i
)において , も し各 自の現 われや思 いが その もの に とって その まま真
まず (
であれ ば,
(
1)あ らゆ る もの の間 に 「知 」(
oo(
p
i
∝)の優劣 が な くな り,人 間 の知
ひ ひ
は,豚 ,才
弗才
弗,オ クマ ジャクシと違 わ ない ことにな る,
(
2)お互 い に相手 の思 いや現 われ を 吟味 した り論駁 を試み た りす ると
恒 ol
T
)8L
C
t
L恒 oOc
u7
T
PC
X
YドCm i
c
t
)が 冗長 で うん
い う 「問答 の営 み 」(
ざ りす る無駄話 にな って しま う,
ことが指摘 され る。これに対 してプ ロタゴラス側か ら,一方では,俗衆 を相手 に し
た 「説得 目当てで ま こと しやかな ものによる」(
m触 vo入oY極 TCX∝te
i
x6oL
)読
X
論が拒否 され・他方 では,「反論だ けを こととす るよ うな仕方の 」(
dvてL
入oYLわく
)
議論 が後 に禁 じられ る。
-
2
6-
次の (
i
i
)において は, プ ロタ ゴラスの立場 か ら, プ ロタゴラス説 と知者 の存
在 が 両立す る ことを示 そ うとす る弁 明が提 出 され,知者 の再定 義 がな され る。
す なわ ち,知 者 とは他 人 の現 われや思 いを 「悪 しき もの 」(
xc
t
x&)か ら 「良 き
iYc
t
Oi)へ と変化 させ る人 であ る。 さ らに,議論 の方法 と して,質問 に
もの 」(
8L
C
I
LE
YE
OOc
z
L
)か奨励 され る
よ って反論す るとい う 「問答 」(
そ して (
i
i
i
)において は,以 上 を承 けて二通 りの批判か な され る 第一 の批 判
(
169d-171d)と して, われわれの扱 ってい る 自己論駁 の議論 がな され る。続 い
171d-172b、177C
-179b)と して, プ ロタゴラス説 が成 立 しな
て,第 二の批判 (
い領域 ,す なわ ち 「価値 」「
未来 」の領域 を指摘す る ことによ って,批判 が な さ
。
。
有益 な もの 」(
Tb(
叫玖L
ドOV)を 目指 し
れ る た とえは・立法 は国家 に と って 「
て行 われ るか, しば しば この 目的 は達成 で きない とされ る。
。
さて, この批判 の全体 を見渡す とき,われわれ の問題 を解 くい くつか の手 か
か りを得 る ことがで き る。 まず注 目す べ きは, この批判全体 において は一貫 し
て知 の問題 が論 点 とな って い るとい う点であ ろ う。 プ ロタゴラス説 と知 の優劣
や知者 の存在 とは両立す るか とうかをめ ぐって議論 は進行 して い る。 ところで,
自己論駁 の議論 において, プ ラ トンの最終 的な 目標が本 来 の プ ロタ ゴラス説 の
論駁 にある以上 .最初 か ら限定句 をつ けた方 か よ り効 果 的な論駁か可能 で はあ
るO しか し,は じめか ら 「∼に とって」 とい う限定句 を付 けた場合,思い は各個
人 に とって のみ 固有 な思 い とな り,その結果 ,知 も各人 に相対化 され,知 の問
題 は限 りな く希 薄 にな る ことは明 らかであ ろ う 意図的 な限定句 の除去 は, あ
。
くまで プ ロタ ゴラス説 を積極 的な主張 と して扱 って知 の 問題 を活 かせ る枠組 み
を保 つ ことを意 図 してな され た ものだ と解 す る ことがで きるので あ る。
i
i
)のプ ロタゴラスの弁明 において,「価値」とい う領域が議論の場 に持
他方 ,(
ち出 されて い る点 に も注 目す べ きであ ろ う。 そ こで は,現われや思 い にお ける
「真 」 と 「
偽 」の区別か否 定 され ,「良」 と 「
悪 」の区別 とい う観 点が導入 されて
i
i
i
)の段 階 において, プ ロタ ゴラス説 に対 して, そ
い るのであ る。 とす る と,(
れが真 であ る とか偽 であ る とい う仕方 で批判 して も,論駁相手 が納 得す る有効
な論駁 とはな らないので はなか ろ うか。われわれ が通常 了解 してい る意 味で の
真偽 を前提 と して議論 に持 ち込 まず に, プ ロタ ゴラス説 を正 当に論駁す る こと
は, まず不 可能だ と言 って よい。 ここか らわれわれ は このプ ロタゴ ラス説 に対
す る攻撃 にな って い るのか第 二 の批判 であ る と推 定 でき る。 そ こで は, ま さに
「価値 」の領 域でプ ロタ ゴラス説が成立 しない ことが示 されてい るので あ る9)。
以上 の考 察 を もとに,実 際 の議論 はいか な る意 味でプ ロタ ゴラス説 の 自己論
駁性 を示 してい るかを明 らか に してい くことにす る。
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)の プ ロタ ゴラスの弁 明 において, プ ロタ ゴ ラス は議論 の方 法 につ いて次
9)第二の批判の哲学的な意味の解明については,本稿では論 じることはできない。今後
の課題としたい。
-2
7-
プロタゴラス説の自己論駁性
の よ うに述べている。
「質問によ って異議 を唱え るとい う方法 は -・心あ る者な ら何 よ りも
まず追い求め るべ きである。ただ し,それ はこ うい うふ うにや って も
らいたい。つ ま り質問す る場合 に不正 を働 くな とい うことである。-・
問答をす る場合 には, ま じめに行 い,問答相手 に対 して,彼 が 自分 自
身 によってかそれ以前の交際によって見 当違 い していた誤 りだけを示
167d6-1
68a2)
してや り, これを正す ことである。」(
自己論駁の議論 は,プロタゴラス とその反対者 との間で, プロタゴラス 自身
が注文 した とお りの問答法 によって行われてい る。そ して,実際の議論のよ う
に限定句がなければ,論駁 は一応成立す る。 しか し, これは本来のプロタゴラ
ス説で はな く,直 ちに再反論が行われ るのは明 らかであろ う。 われわれの考察
が告 げてい るのは, この議論では,プロタゴラスが反論できる余地を残す とい
mpl
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tに提起 され,実質的
う仕方 で,本来の限定句付 きのプ ロタゴラス説が i
な論駁 が行 われてい るとい うことであ った。 そ して, プロタゴラスが この議論
で限定句 を補 うよ うに要求す る場合,論駁 は完全 に有効 な もの とな る。すなわ
ち,限定句を補 った彼の説 によれば,人 々は 「
各人に とっての真」 しか主張でき
ず,人 々か個 々に自分だけの思 いを持 っているにす ぎないことになるのである。
プ ロタゴラスが何かを主張す ると して も,それ は単な るモノローグであると言
わなければな らない。彼 は問答法での議論 を選んだに もかかわ らず,逆 に互い
に相手 の思いを吟味 した り論駁を試みた りす るとい う問答を拒否す る立場 にあ
ることが ここで暴露 され るわ けである。 も しプ ロタゴラスが この帰結の受 け入
れを拒み,再反論 しよ うと してみた ところで無駄であ る。その時まさに,限定
句 を除去 した実際の議論が発動 し.「プロタゴラスの 『
真理』は -・あのプ ロタ
171
C57)とい う
ゴラス 自身 にとって も真 ではあ り得ない ことになるだろ う」(
結論が告 げ られ るのであ る。
われわれが取 り組んで きた議論の実質 は, プラ トンはプ ロタゴラス説を問答
を無効 にす る窮地 に追い込 む ことによって, その 自己論駁性を露呈 させた もの
と解 され るが,それ は次の よ うな ソクラテスの言葉で締 め くくられている。
「
実際に も し [
プ ロタゴラスが】す ぐにこの場-,地面か ら首 まで頭を
迫 り出 して くると した ら, 当然の ことなが ら,私 には馬鹿 げた ことを
喋 っていると言 って,あなたにはそんな ことに同意 してい ると言 って,
い ろいろ と反論 し,首 を引 っ込 め る と急 いで退散 してい くだ ろ う。」
(
171
dl
-3)
プ ロタゴラスが出てきて反論 し,す ぐに引 っ込 む とい うこの描写 は, さまざ
-2
8-
まな解 釈 を許 して き た10)。 これ は, 自己論駁 の議 論 との 関連 で読 まれ るのか 自
然 で あ ろ う しか し, プ ロタ ゴラスが この議論 に不 満 の意 を表 明 した もの 11)と
。
して で はな く, む しろ, この論 駁 を完結 させ るた めのエ ピロー グ と して理解 さ
れ るべ き もので あ る。プ ロタ ゴラス には再反 論 の余 地 は もはや ない 。彼 が
再反 論 す るため に問答 の現 場 に出て くる と して も,せ いぜ い首 まで だ けで あ っ
て,全 体 が 出て くるの で はな く, しか も予想 され るよ うにい ろい ろ と反 論 して
も, す ぐに立 ち去 らざるを得 ない ので あ る。
ところで,第 一の批 判 と第 二 の批判 を通 じて示 され て い るの は,「す べ ての人
の思 いがす べて真 で あ る とい うよ うな ことはない 」(
179C2)とい うことで あ る
プ ロタ ゴ ラス説 か含 み持 つ す へて のア ポ リア に決 着 がつ け られ たの で はない 「っ
C,
「しか し,各人が現 に持 ってい る情 態 につ いて は, そ こか ら感覚 と こ
の感 覚 に基 づ く思 い も生 じるの だが, これ ら感 覚 や思 いを真 で はない
と して取 り押 さえ る こ とは, もっと困難 な こ とで あ る。-・これ らの も
のは,ひ ょっと した ら,難攻不落の ものなのか も しれない(
l
」(
179C2-4)
「現 在 」 に関わ る個 々の感覚 や思 いが虚偽 で あ る可 能性 につ いて は, まだ少
しも明 らか に されず, む しろそれ は難 攻不 落 の防壁 と して残 され て い るので あ
るr
lこの防壁 に対 す る攻 撃 は ,
『テ アイテ トス 』 に続 く対 話篇 『ソ ビス テ ス 』に
持 ち越 され,対 ソフィス ト戦 の総括 とい う文脈 の中で ,「現在 」に関わ る 「言 明」
(
)
\
dYoく)の虚偽 を立証 す る とい う仕方 で,完遂 され る こ とにな るので あ る12)。
(
京 都大 学 文 学 部 ・研 修員 )
参照文献
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199O.本 稿 で のペ ー ジの言及 は後 者 に よる。
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18.
10)諸解釈の紹介と検討は,Bu
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22)お よび
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199-21
8)に詳 しい。
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-2
9)は.この解釈 に批判を加え,この描写を
含 む 関連 箇所 (
17l
c
9-d3)のテクス トの分析 と再構成を行 っている。参照されたい。
12)このことについては.拙論を参照されたい。
-
29-
プロタゴラス説の自己論駁性
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