6 0 ア ドルノの 「 経験」概念について* - そ の社 会批 判 の再 検討- 木 村 Ⅰ はじめに- アドルノ社会批判の 可能性の再検軒に向けて ] 「美的経験」か? Ⅰ 青 草 皿「意弘の建廉の学」 Ⅳ 「経験」の不可能性 Ⅴ 「病理現象」 の持つ可能性 は じめ に - 7ドルノ社会批判の可能性の再検討に向けて 本論はア ドルノの社会批判の可能性の再検討に向けた ものである。あえて再検討 と述べ るの 紘, ア ドルノの社会理論のアクチ ュアリテ ィーに疑問が投 げか けられている現状を念頭 におい てのことである.今 日における7 ドルノを巡 る議鈴のなかで,その社会批判理論は時代遅れの ものであるとい う解釈が存在 しているO例 えばイー グル トンは,現代 の 「 資本主義的 システ ム」に対 しての対抗手段 をア ドルノはほとんど捷示 していないと解釈 している Ll ) ,さらにま た 「 批判理論」の視点か ら独 自なマルクス読解をおこなってい るボス トンも,7 ドルノ ( さら にはホルクハイマ-ち)描,その晩年において 「 悲観主義」に陥った と非難 している2)。 このような解釈をささえている主要な支柱の 1つが,ハーバーマスか らのア ドルノ批判であ , ろ う。聞知のようにハ-バ-マスは 「フランクフル ト学派」 の系譜のなかにおいて, 7 ドル ノの弟子 と見なされている社会理論家である。 この 「 弟子」 ・ハーバーマスによるならば,ア ドルノはその社会批判の議論を推 し進める歩みのなかにおいて, 1稜の 「アポ リア」に陥 った とされる。つま りア ドルノの社会批判は,解放されたより良 き社会を生み出す 「 実践」 のため 〔 キー ・ワーズ〕 経験.全体性,非同一性,病理現象 本稿は,1 9 9 9年 6月 5日の関西社会学会第5 0回大会において,不満と同じ表鬼のもとでおこなった 報告をもとにしている。その報告の際に席上の諸先生から有益なコメントを頂いた。ここに記 して感 計の意を示したい。 さらに本誌掲載にあたり.レフェリーより丁寧なコメントを頂いた。そのことに対しても感鰍を早 し上げたい。 1 ) イーグルトン 〔 1 9 96 〕2 2 6ページ。 * 2 ) Po s t one〔 1 9 93 〕 pp. 8 4. アドルノの 「 経顔」概念について 61 の批判ではな く,単に批判のための批判,す なわち 「 批判の自己目的化」へ と陥 って しまった。 7 ドルノの社会批判 は,その批判があま りに仮借のない ものであったために, 自らの批判の根 拠 さえも疑い始めざるを得な くな って しまった。そ してその社会批判紘,結果的に, 自己自身 を批判 によって乗 り越えて しまい,全面的批判- と変質3 )して しまっているとされ る。 しか しなが ら, 7 ドルノの社会批判は, このようなハーバーマス的な批判 によって簡単に片 づ けられるような ものであろ うか。む しろ,一見 「アポ リア」 に陥 っているとさえ見 えるよう な, ア ドルノの ラデ ィカルな社会批判の姿勢 は,社会の現状 に対す る鋭い洞察 を意味 している のではあるまいか。マルクス主義藷理論がかつての影響力を失 った今 E ]において,我々はもは や ア ・プリオリに社会批判の根拠 を提示することが不可能にな りつつあることは否定で きない。 つ ま りリオタールが 「 大 きな物語の終わ り」4 )として規定せ ざる得なか った 「ポス トモ ダン」 と呼称 され る思想状況下に我 々はいるのである。 7 ドルノのラデ ィカルな社会批判はこのよう な思想状況を先取 りしているのではあるまいかO また このような 「ポス トモ ダン」的思想状況の出現の背後には,ある種の社会的 ・経済的構 造転換が存在 していることは間違 いない5)。 フレア リク ・ジェムス ンも指摘 しているように, 「 東側諸国」が崩壊 し,完全に 「 後期資本主義」 によって,文化 的領域 も含めたあ らゆる領域 が統合されつつある今 日の世界 において,7 ドルノのい う 「 全体的システム」が現実の もの と な りつつあるように思われる6 ) 。 このような思想的 ・社会的状況下において,7 ドルノの社会批判の可能性 をあ らためて検討 す ることが急務であろう。 この課題 を果たすためにも,本論 においては, 7 ドルノの 「 経験」 ( Er L a hr ng)とい う概念に注 目す るo この 「 u 経験」なるものは,後で示 され るよ うにア ドJ t ,ノ の社会瓢 軌において極めて特殊な意味付 けをされている.さらにまた ア ドルノはこの 「 経験」 3) Ha be r m s〔 1 9 8 5 〕S 1 31 . 4) リオタール 〔 1 9 8 6 〕 8ページ。 .r 批判的社会理論」の再構築を進めているヨアヒム・ヒル 「グローバルな蓄横過程のダイナミクスやそれと結びついた シュは,このような思想状況の背後に, 暴力的な再編成」( ヒルシ. 1〔 1 99 8 〕1 3 9ベ-ジ)を伴う 「 ポス ト・フォーディズム的」社会構造への 移行が存在していると指摘している。 また,アドルノの理論,特にその弁証法を社会理論として捉えようと就みてきたエルグン・リッ ザt トも,教科書として書かれた7ドルノ静のなかで,8 0 年代に活発化する 「 ポス トモダン」の議論 ,「全体化」 した資本主義システムとの関連性を据満 している (RltSert〔1998〕S. とグローバル化 し 1 2)ら 6) ジェイムソンは,1 9 89 年にか書かれたアドl t , ノ論の序文のなかで次のように述べている。 「 今まさに終わろうとしている我々の時代である8 0 年代において,ついに7 ドルノの 「 全体的シス テム」という予言は完全に成就することとなった。それもまったく予期 しない諸形態のもとにおいて であるが。-後期資本主義は,日放や無意軌 破壊的なものや美的なもの.そしてまた個人的または 集E Z I 的実践といったものの最後の逃げ場所さえもついに抹殺 して しまったのである」 ( J a me s on 5 ) レギュラシオン理論の影響を受けつつ 〔 1 9 9 0 〕p5 ) 。 6 2 経済学雑誌 第1 01 巻 第 1号 なるものの 「 復興」7 ) が社会科学において必要であると強調さえしている。この 「 経験」なる ものが何を意味 し,そ して7 ドルノは,何故あえてこの 「 経験」の 「 復興」を求める必要が あったのか。これ らの問いに答えることが,アドルノの社会批判の特殊性,さらには可能性を 浮 き彫 りにすることになるであろう。 1 「美 的経験」か ? ア ドルノにおいて 「 経験」 という概念が極めて特殊な位置を占めていることはよく知 られて いる。彼の主著である 『 否定弁証法』の序文は 「 哲学的経験内容」の解明に当てられている。 また単に哲学的領域のみならず,彼の社会認識のなかにおいてもこの概念が重要視されている。 ア ドルノが社会理論について自らの立場を多様な視点から論 じている1968年の講義において, ア ドルノは,この 「 経験」なるものが自らの擁護する 「 弁証法的理論」の核心であると主張 し, 次のように述べているD 「 社会の弁証法的理静の理念 とは,本来的に社会システム自体によって拒否され.さらに 諸科学の規則によっても拒否されている経験を復興することにある」 8 ) 。 つまり,今日の社会状況.またそれを映 し出している社会諸理論によって忘れ去られた 「 経 , 廉」を想起 し 「 復興」することが弁証法的な社会理論の理念であるというのである0 ところで,この 「 経験」 という概念は,いわゆる 「 ハーバーマス学派」によ りいわば美学的 な直観 として解釈されてしまい,ひいてはア ドルノにおいての社会理論の実質的放棄を意味す るものと主張されてきた.7 ドルノの 「 美学論」 とハーバーマスの 「コミュニケーション的行 為論」の統合を目指すヴェルマ一によるならば,ア ドルノは,芸術作品のなかで 「 道具的」で はない,ユー トピア的なもの としての 「 宥和」が示され うると考えていた とされる。そ して ヴェ) I , マ-はこのような真理は 「 美的経験の直観的な契機 において示される」9 )ものであると 論 じている。またアクセル ・ホネ ットも 「 7ドルノほ,すでに 『社会研究年報」で公にされた 初期の論文において,美的経験をリアリティ獲得の特権化されたメデ ィアであると見な してい た」1 0 )と主張する。つまりは,ホネットに従 うならば, この 「 美的経験」なるものこそが,ア ドルノにとって社会批判のための最終的な根拠であったとされるのである。従 ってホネ ットは ア ドルノの社会批判の 「 最終帰結」を次のようなものであると断ずる。「ア ドルノは,ついに 最終帰港 として,理論的認識を凌駕する認識能力が芸術作品にそなわ っていることを包み隠さ ず告白することを,批判理論に義務づけるに及んだ」11 )。 Ado mo〔 1 9 9 3 〕S 90. Ado mo〔 1 9 93 〕S.9 0. wel me l rl 1 9 8 4 ]S.1 42. Ho nne t h〔 1 98 5 〕S.7 87 9( 邦訳,8 6 ページ) Honne t h〔 1 985 〕ち.82( 邦訳,8 7ページ). アドルノの 「 経験」概念について 6 3 このようなア ドルノ解釈 は,「ハーバーマス学派」 自身の問題意識か らなされた ものであ り, ア ドルノの社会批判の意義を捉え損なっている。「 ハーバーマ ス学派」 によるならば社会批判 なるものはその批判を正当化す るための論拠 を持つべ きである とされ る。そ して, このような 「 ハーバーマス学派」の主張の背後 にあるのは, ア ドルノとも共通す る現状認識であろう。つ ま りは,今 日においては, もはや資本主義のオルタナティブを明示的に凍示す ることはで きな い とい う認識である。だか らこそ,「 ハーバーマス学派」 は,あえてそのオル タナテ ィブを言 語 に注目しつつ,道徳的 ・規範的根拠 とい う形で提示 しようとしているのである。 これに対 してア ドルノは彼 ら 「ハーバーマス学派」 とは異なったアプローチを目指 していた。 「 文化産業」 とい うカテゴリーに注 目しつつ, ア ドルノの社会理論 のアクチ ュアリティーを追 求 しているハイ ンツ ・シュタイナー ト1 2)も主張 してい るよ うに, ア ドルノは社会批判 をお こ な うための尺度,つま り 「 批判のための規範的根拠」な しで も,社会批判が可能であると考 え ていたB ア ド) I , ノは決 して 「ハ-バ-マス学派」 の持つ開港意識,つ ま り批判の根拠の正当イヒ とい う問題意識を共有 してはいない。 Ⅲ 「意識 の経 験 の学 」 このように, 7 ドル ノの 「 経験」 な るものは 「 ハーバーマス学派」 によって 「 美学的な も の」であると解釈 されて きた。 こうした解釈 に反 し,む しろア ドルノが この 「 経験」 とい う概 念を使用する際に念頭 においていたのは,ヘーゲルの 「 意識 の経験の学」1 3 ) であ ったように思 われ る。 F 社会学序論』 において 「 経験」概念の重要性を主張す る場合 において も, ア ドルノ は 「ヘーゲルがその最 も偉大な作品を 「 意識の経験 の学」 と名づ けた」1 4 )と述べてお り,彼 の 「 経験」概念 とヘーゲルのそれ との関連性 を強調 している。 それでは,ア ドルノの 「 経験」 とはいかなるものであるのか。 これをア ドルノのヘーゲル解 釈に従いつつ,検討 してゆ くことに しよう。 ,『三つのヘーゲル研究』 において 自らのヘーゲルに対す る立場 を集中 して論 じて ア ドルノは い るOそのなかの 1つ のエ ッセ イであ る 「 ヘーゲル哲学の経験 内容」 の冒頭 の部分で,かの 1 2) シュタイナー トによるならば.アドルノがおこなったのは 「 イデオロギー批判」である。さらにそ の課題は, 「 ハーバーマス学派」のように 「 規範的基礎から批判をおこなう」ことではなかった。む しろシュタイナー トによるならば.「イデオロギー批判」の課題は.r 支配的な知の矛盾」を浮き彫 り にすることであ り,さらにはその矛盾を生み出す社会構造を推測することなのである。Stel ner t 〔 1 9 9 8a〕S2 93 . またシ. 1タイナー トのアドルノ解釈ついては,これまでアドルノの思想的発展を,ウィーンにおけ る青年時代から.アメリカでの亡命時代を通じて,丹念に追いかけてきたシュタイナー トの仕事の 1 つの成果とも言える r 文化産業J( st el nモ r t〔 1 9 9 8b〕 )を参照。 1 3) 周知のように r 精神現象学Jのこと。この青は,最初に印刷された 「 緒静 」 の 1ページE l には r 意 識の潅験の学」と印刷されていたが,食後の印刷では, 「 精神現象学」と変更された。 1 4) Adomo 〔 1 9 9 3 〕S9 0. 6 4 経済学雑誌 第1 01 巻 第 1号 町 精神現象学lの 「 緒論」の次のような 1文に注目している。 「 経験 とは,そこか ら意識にとって新 しい真の対象が生 じるかぎ りで,意故が自分自身に おいて,すなわち自らの知においても,また自らの対象において もおこなうところの弁証 5 ) 1 6 ) 。 法的運動である」1 この一文からわかるように,7 ドルノのいう 「 経験」は 「 弁証法的運動」 となるのであるが, ここでのポイントは,その運動を生み出す契機が 「 新 しい対象」であるということである。ラ カンの精神分析的な概念装置を駆使 しつつ,極めて興味深いヘーゲル解釈を展開しているスラ ポイ ・ジジェタは,このようなヘーゲルのいう対象を 「 概念外的な剰余 として,主体の概念的 7 ) であると解釈 している。つまり,これまでの意識の フレームワークには還元で きない対象」1 rフレームワ-ク」に入 りきれない 「 剰余」 ,意織にとって直積的には意味不明なものとして現 れるもの。これこそが 「 新 しい対象」なのだ。アドルノ自身はこのような 「 新 しい対象」を, da s 意識 と意鼓が捉 えるべ き対象 との不一致を指 し示す もの としての 「 非同一的なもの」 ( Ni c ht i de nt i s c he)と呼ぶ。 この不一致に注目することの重要性 をア ドルノは強調 しして止まな い.この 「 非同一的なもの」 との出会いがないならば,意識は以前の対象 と一致 して しまい, 運動は生 じない。それはア ドルノから見るならば,意識はその対象のなかで自己を確認するに す ぎないのであ り,厳密な意味での認識 とはならない。意識が今まで見たことのない もの, 「 非同一的なもの」に出会 う場合においてのみ意識自体が変化 し,運動 し,其の認識が可能に なるというのである.端的に育って しまうならば,7 ドルノのいう 「 経験」は 「 非同一的なも の」を通 じておこなわれる意識自体の運動なのだ。それゆえかのエ ッセイのなかでア ドルノは 弁証法について次のように述べている。 「 弁証法とは,=-・ 矛盾それ自体である。つま り,保挿された概念 と動かされた概念 との 間の矛盾であ り,哲学的思索の起動国となるものである。 もし,我々が,概念を動かない ように保持 して,その意味を,この概念のもとに考えられる事柄 と突き合わせて見れば, 定義の論理的形式が要求するような概念 と事柄 との同一性のなかにち,同時に非同一性が 8 ) あることが明らかになるであろう。」1 ある概念 と 「 動かされた概念」 との矛盾,厳密に言えば,ある概念 とその概念外のもの,そ の概念からこぼれおちてゆ くものとの矛盾を挺子としつつ.哲学的思索を推 し進めること,こ れこそがア ドルノの目論見なのである。 1 4) Ado mo 〔 1 9 93 】ち.9 0. 1 5 ) He ge l〔 1 9 8 6 〕S 7 8( 邦汎 65ページ) ,Adomo 〔 1 9 6 3 〕5 2 95( 邦訳,8 4 ページ) . 1 6 ) リッザッー トもこのヘーゲルの文章を7 ドルノの社会理論の核として注目している ( Ri tsert 〔 1 9 9 8)S.1 4 9 )。 1 7 ) ジジェク 〔 1 9 9 8 〕3 9ページ。 邦訳,1 0 7ページ) . 1 8) Ado mo 〔 1 9 63 )S 3 0 9( 7ドルノの 「 准験」概念について 65 このように見て くるならば, ア ドルノのい う 「 経験」 とは,意識 とその意識が凍 える対象の 不一致を 「 経験」することを意味す ることになるのであろ う。 このような 「 経験」 こそが, ア ドルノの 「 非同一性」の哲学の核 なのだ。A ・テ ィーエ ンも主張す るように, ア ドルノのい う 「 経験」 とは 「 非同一性 の経験 」1 9)なのである。 Ⅳ 「 経 験 」 の不 可 能性 ここまで,我 々は, ア ドルノのヘーゲル解釈に従いつつ,ア ドルノのい う 「 経験」を検討 し て きた。 ア ドルノの 「 経験」は, この意識 と対象 との不一致,「 非同一性」 に注 目しつつ,忠 考 自体を変化させ,それが凍 えるべ き対象に適 した思考の枠組みを生み出 して行 こうとするも のであったO社会寵誠 に即 して言 うならば, これまでの社会構造を艶明す るパ ラダイムと,そ のパ ラダイムが捉 えるべ き対象である社会 自体 とのズ レを 「 起動困」 とした,社会構造を鋭明 す るパ ラダイム自体の運動なのであ った. この意味において, ア ドルノの 「 非同一な もの」 と は, リッザ ッー トが述べてい るよ うに 「 閉息概念」であ り,「 極 めて多様 な哲学的 ・社会学的 藩閥題 を稔括的に表現 した もの」2 0)であると言えるであろ う。 このような 「 経験」概念にア ドルノが固執せざる得なか ったのは,逆説的に も, このような 「 経験」が今 日おいてはほ とん ど不可能にな りつつあるとい う彼の現状理解がある。「 後期資本 主義か産業社会か ?」 とい う帝済 においてア ドルノは,「 かつて相互 に分離」 して した 「 社会 プロセス」の個々の契機 は,お互いに 「 溶け合 って しまった」 と主張 し,今 日の 「 社会 プロセ ス」 において 「 全 てが 1つ になっている」 2 1 )と緒摘 している。今 日の社会においては,それ ら 諸領域が緊密 に連関 し合 って しまってお り,「 経験」が可能で ある場所 は失われつつある。か の 「 社会 システム」の持つ矛盾, そこに 「 鍵 を入れ」2 2 ) ,反省 をお こな うことがで きるよ うな 1 9) Thye n( 1 9 8 9〕S.1 61 .7 ドルノの r 否定弁証割 を r 非同一性の経験」か ら読み解こうとする ティーエンの読みは論者も同感するところが多かった。 しかしながら,ヘーゲル ・7 ドルノの弁証法を巡る,つまり 「 軽巌」概念を巡るティーエンの放論 には問題があるように思われる。 ティーエン自身も,7 ドルノは 「 否定の経験」についてのヘーゲルの分析を引き継いだと見なして いる。しかしながら.ティーエンによるならば,ヘーゲル自身は,「 否定的なものの契機」( 非同一性 の契機)を十分展開していないとされている。そしてその展開の不十分性の原E E l を,ヘーゲルが 「 構 Thye n〔 1 9 8 9 )1 6 9 ) 。このような 成的主観の観念的優位を措定 したからであろう」と述べている ( ヘーゲル哲学に対する判断が妥当なものであるのどうかは疑間が残る。7ドルノの 「 否走性」の漁網 は,ヘーゲル哲学の潜在力の解放 として解釈すべきではあるまいか。アドルノが単純にヘーゲルを乗 り越えたと断定するよりも,むしろヘーゲル哲学の解放としての 「 否定の哲学」という視点から,ア ドルノ・ヘーゲルの弁証法に対する認弘の違いをより線密に検肘することの方が,両者が持っている 思想的可能性をより展開できると思われる0 2 0) Rl t S e r t〔 1 9 9 8〕S.1 61 . 21 ) Adomo 〔 1 9 6 8 〕S3 6 9. 22) Adomo 〔 1 96 8〕S.3 6 9. 6 6 経済学雑誌 第1 01 巻 第 1号 「その本来的な不一致」 2 3 ) が明示的に存在 しているような場所を見出すことができな くな りつ つあるというのである。我々は,日々,コンフリク トを経験 してほいるのであるが,そのよう な特殊な経験自体が社会全体に対する視座 ともほや容易に結びつかない。 このような現代社会 と比べて,ヘーゲルの時代は 「ブルジョワ社会」の創世期であ り,その 「 社会システム」の統合が完全なものとして成立 していなかった と7 ドルノほ考える。それゆ え 「 根源的なブルジョワ的思想家」 2 4 ) であったヘーゲルは,諸個人の誇 「 経験」を社会全体へ の視座 と結び付けることが比較的容易であった。「ブルジョワ社会」の生成過程の只中であっ たという彼の生きた時代のいわば特権的な社会状況によって.ヘーゲル哲学は極めて豊かな細 部を持ちつつ,その一方で同時に極めて壮大な 「 体系」を持つ ことが可能であった。ア ドルノ にとってほ,このようなヘーゲル哲学こそが,近代社会の生み出 した最 も偉大な 「 批判的な」 , 社会認蝕の成果の 1つだったのである。 しか しなが ら 「ブルジョワ社会」が完全に成立 して しまい,その 「システム」の競合が精赦なものとして立ち現れつつある今 日において, もはや ヘーゲル哲学が持 っていた豊かな社会認識は不可能になりつつある。 このように見て くるならば,ア ドルノに対するへ-ゲルの立場は,ハーバーマスのように, 「ァ ドルノはほ とん ど実存主義的といってよいほどにヘーゲル論理学を退けた」2 5 )として片づ けるわけにはゆかな くなって くる。むしろ逆に,ア ドルノにとっては,ヘーゲル哲学の体系が 1つの理想であったとも言えるであろう。 しかしその理想を直荏的に追求することをア ドルノ は自ら禁 じていた。客観的な社会自体の体系,商品交換に基づいた資本主義 「システム」が完 成 し, もはや 「 非同一性」の契機,その社会が持つ矛盾が覆い隠されつつある今 日の状況下に おいては,もはや主観的な社会理論における 「 体系性」を安易に描 くことはもはや許されない。 そのような安易に体系を目指す社会理論は,抽象的なものと化 して しまい,対象である社会自 体か ら轟離 してしまう危険性を常に持つからだCこのような間屠意識を常に持 っていた7 ドル ノはヘーゲル的な体系へと向うことはなかったO , つまり,ア ドJ L , ノが 「 非同一性の経験」 にこだわ り 「 体系性」をあえて否定 しようとする その姿勢は,ヘーゲル哲学の全面的否定 というよりは,ヘーゲルの潜在力を如何にして解放さ せるかにあると言えるであろう。「 体系的」な社会理論が, もはや抽象的にしか社会全体を措 けないという自覚のもとで,如何にして社会構造に具体的に凄近するか。この課題を果たすた めには,ア ドルノは 「 体系」 と容易に同一化できない 「 非同一的なもの」にあえてこだわらざ る得なかったのである。 2 3 ) Adomo〔 1 9 6 8〕S3 6 9. 2 4 ) Adomo〔 1 9 6 3 1S.3 2 3( 邦訳.1 28ページ) . 2 5 ) Ha be r ma S〔 1 9 81 〕( Ba ndl ) S49 9( 邦訳,中巻1 3 9ページ) . アドJ I , ノの 「 軽廉」概念について 6 7 Ⅴ 「病理現象」 の持つ可 能性 このような7 ドルノの批判的視座が今 日忘れ去 られてゆ く傾向にあるOその弟子であるとさ , れるハーバーマスの社会理論 においてさえも 「 非同一的なもの」,またそれ を通 じての 「 経 験」を重視するア ドルノの社会批判の特徴的な視座が入る余地がな くなって しまっている。周 知のようにハーバーマスは 「 物象化」 とい う現象を,市場 ・国家 といった 「システム」が相対 的に自律化 した 「 生活世界」-の介入にすることで発生する 「コミュニケーションの歪み」で , あり 「 病理現象」である主張す る。それゆえ,ハーバーマスにおいては 「 病理現象」の解決 は 「 生活世界」の自律化を促進す ることによって解消されるとされている。これに対 して,ア ドルノが重視する 「 経験」の契機 となる 「 非同一的なもの」は,直接的にはこのハーバーマス のい う 「 病理現象」 として しか現れざるを得ない ものであろう。例 えば, ア ドルノにとって 「 非同一的なもの」の 1つの典型であると思われるシューンベルクの音楽などは,人間的な了 解をあえて排除す るものであ り,人間的な 「コ ミュニケーション」の歪み としてしか現れざる 得ない ものであろう2 6 ) 。 ア ドル ノの社会憩鼓の姿勢 とは, このような 「 病理現象」 と思われ るものを通 じて,これまでの社会理論の枠組みを揺 り動か し,その枠組み自体を,かの 「 病理 現象」 と思われるものを生み出す社会構造自体へ,その現象の原因へ と向かわせようとするも のである。ハーバーマスが 「 病理現象」の原因を市場 ・国家による介入 として結論づけ,その 解決を早急に求めているのに対 して,ア ドルノはこれらの 「 病理現象」 自体が持つ可能性をよ り積極的に捉えようとする。つま りそれらの 「 病理現象」 と既成の社会諸理論 との矛盾を思考 することで,社会の構造へのより具体的な視座を獲得 しようとしているのである。それゆえ, ア ドルノほ 『 社会学序説」 において, 「 時には,まさにいわゆる病的で,不透明な現象を取 り扱 うことが,非常に重要な社会理 解- と至るのである」27) と主張するのである。 , 8 ) ,「相互人格関係の レベルでのコミュ ハーバーマスが指摘 しているような 「 文化的貧困」2 2 9 ) 等の 「 病理現象」 と思われるものに何 らかの解決が求め られていること ニケーション障害」 」 ,「逸脱」 として 「絶対悪」であ は事実であろう。 しか しなが ら.それ らの現象を単に 「 病理 ると見なし,その早急な解消を願 ってはならない。むしろこのような現象に止 まり,思考を撮 けることの方が重要なのだ. このことを7 ドルノは主張 し続けていたように思われるoつま り まずその現象に注 目し,それらの現象をこれまでの諸社会理論 と対置 してゆ くことの重要性を 新音楽の哲学』 ( Ado mo 〔 1 9 49 〕 )を参照。 アドルノのシェーンベルク解釈については r Adomo 〔 1 9 93 〕S.3 4. 邦訳,下巻324ペ ー ジ). Ha be m s〔 19 81 〕( Ba nd2 ) S 48 8( Ha be m 8( 19 81 〕( Ba nd2 ) S 40 6( 邦訳,下巻40 7ペ ー ジ). 6 8 経済学雑誌 弟1 0 1 巻 第 1号 主張 して い た ので あ る。 この よ うな一 見, 遠 回 りを してい る よ うな ア ドル ノ的 な批判 の ス タイ ルが ,社 会構 造 の よ り深 い理 解 につ なが り, ひい て は この よ うな「 現 象 」の解 決 , いや厳 密 には その 「 解 放 」 につ なが って 行 くので はあ るま いか 。 そ して この よ うな作 業 は ,「全 体 化 」 した 3 0 ) の可 能 性 の模 索 につ なが って 現 代 社 会 に対 す る オル タナ テ ィブ, つ ま りそ こか らの 「 解 放」 布 くよ うに思 わ れ る。 参 考 文 献 Adomo,Theo do ∫Wi eち e ngr und l 1 9 4 9],Phl l os ophl ede rne ue nMt l Si k. m ; The o do rW.Ado noGe r ms a mne l t eSc hr i f t e n( 以下 GSと略す)Bd1 2 ,Fr a nn kL t/M 1 9 7 5. ( 渡辺健訳 r 新音楽の哲学,音楽之 9 7 5 年) 。 友社 ,1 - 【 1 9 6 3 ) ,J h lSt udl e nZ uHe ge l ,l n.GS,Bd51 9 71. 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