Title Author(s) Citation Issue Date URL 散村における村落構造に関する考察(1) : 村落内の小地域 集団を中心に 新井, 桂子 お茶の水地理 1989-05-10 http://hdl.handle.net/10083/11869 Rights Resource Type Departmental Bulletin Paper Resource Version Additional Information This document is downloaded at: 2014-11-18T16:19:33Z 散村 にお ける村落構造 に関す る考察 (1) - 村落 内の小地域集団を中心に新 1 . は じめに わが国の地理学 の分野において村落に関す る研 究は,戦前の形態論的 アプ ローチか ら,戦後 ,水 津一朗氏 ( 1 949 )1 ) に よ り生活空間 としての地域 と い う観点が提唱 され ,様 々な形態を生み出す とこ ろの人間集団に関心が向け られ るようにな った。 また ,村落の内部構造に関す る分析 の重要性が認 識 されて きた。その後 ,石原潤氏 ( 1 965 )2 ) は ,近 世村落を対象 として,共同体 の物質的基盤 とその 上 にたつ地域 集 団の 2つ の面 か ら研究す る こと の重要性 を指摘 した上で ,それ らと密接に関係 し ているとい う点で形態 の持つ意義を強調 した。村 落共同体に関す る研究では ,農村社会学 の分野で 研究が蓄積 されて きたが ,山 野 正 彦 氏 ( 1 976 )3) は ,社会学や民族学 の社会集団に関す る分析 に空 間的視点が不足 していること,一方 ,地理学 にお 集落形態を人間集団 の空 間形態 と して いて も,「 とらえる観点」が欠けていることを指摘 した。そ して,人間集団が創 り出す空間形態 の背後 にある 意味を明 らかにす ることを 目的 として,まず ,人 間集団が地表に描 き出 した諸形態の分布につ いて 考察 した。 この ように,同 じく形態を対象 としな が らも,戦前のアプ ローチ と異なる点は ,形態を 人間集団 と自然的基盤 との 2つの面か らとらえ, その相互作用 の結果 であるとした点 ,形態を生み 出す要因を解 明 しよ うとす る点 ,動態的変化 をも 追究す る点である。 形態 とい う点か ら,散村は,集村の卓越す るわ が国では特色ある村落 として地理学者 の関心 を集 めて きた。小川琢治氏に よる砺波平野 の散村 に関 す る論文が発表 されて以来 ,その形態 ,起源 ,分 布様式が主な研究対象 とされたが ,戦後 の大 阪市 立大学 のグル ープに よる富 山県東砺波郡鷹栖村の 調査 ( 1 954 ) では,村落を形成す る地域集団や土 地所有状況について分析が行われた。 また,橋本 征治氏 ( 1 9 69 )は同 じく鷹栖村を対象 として ,村 落の小地域集団の諸関係 と成立基盤 ,及びその形 井 桂 子 成過程 について詳細 な分析 を行 っている。 著者 の関心は ,村落におけ る集団の存立様式を 土地所有 との関係か ら明 らかに し,種 々の集団に よって構成 されている村落の成立要因及び全体 と しての構造を解明す る ことにあるが ,その研究の 端緒 として ,本稿 では ,砺波 市宮村 を事例 と し て,散村地域におけ る小地域集団の存在形態を土 地 との関係に着 目しつつ予備的な考察を試みるこ とを 目的 とした。 したが って,散村 とい う村落形 態 の起源等については ,既存 の研究成果をふ まえ ている。 2 . 調査地域の概観 ( 1 ) 地形 砺波市宮村は第 1図aに示 した よ うに ,砺波平 野を構成す る庄川扇状地 の扇央部 ,庄川の旧河道 である千保川の左岸に位置 している。砺波平野の 東側を流れ る庄川は,中世以前は現在の庄川町金 屋か ら西北西の方 向-流れて小矢部川に合流 し, その後順次東-河道を移 して中世末には千保川を 主流 としていた。 宮村 は,この川の左岸 にあって,特に東部が河 川の影響を受けていた ことは,明治4 2 年 ( 1 90 7) 発行の 2万 5千分の 1地形 図か らも読み取 ること がで きる。すなわち,第 1図bに示 した よ うに50 mの等高線が宮村東部 で南下 し,600m余 を隔 て 対岸 と考 え られ る旧南般若村千保 で再び北上 して いること,この一帯を挟んで両側に堤防跡が認め られ ることである。聞 き取 りに よると,宮村側の 堤防は南側か ら 「 一番堤 ,二番堤 ,三番堤」 と呼 ばれていた。 ) と呼 ばれ る河川 で 旧油 田 一方 ,西部は祖父川4 村中村 と境を接 していた。 ここは第 1図aに示 さ れている扇状地上の徴高地 にあた り,土壌 も深い。 ( 2 ) 村落形態 まず ,ここでは,宮村 の村落形態 の特徴を把握 す ることとす る。村落形態は,大 き く集村 と散村 に区別 され ,庄川扇状地 の集落は ,わが国の代表 18 - お茶 の水地理 第3 0 号 1 9 89 年 宮 第 1図8 砺波平野及び周辺の地形 出典 : 「 砺波市史 」 (1 9 6 5;新藤原 図 ) 的な散村地帯を形成 している。その形態 と起源に ついては,大正 3年 ( 1 91 4) に小川琢治氏の論文 が発表 され ,その形態を 「 孤立荘宅」 と命名 し, 起源を条里制 ,河 川 の氾濫 に よる家屋 の移転 , フ ェーンに よる火災の防止に求めた。以後 ,様 々 な議論が行われ5),現在では ,鎌倉 時代 か ら散村 の萌芽は見 られ ること,近世にな って農民が扇央 部を開拓 してい く際には ,個 々の家 の宅地 の周囲 に耕地を集めた散村形態 の利点が認識 されていた こと,水利 に関す る制約が少なか った ことが ,敬 村形態が扇状地上に広 く展開 した要因 と考 え られ ている6)0 0 mお きに宅地が点在す る散 宮村において も数 1 村 の特徴を表 してい るが ,その分布に偏 りの見 ら 1 875 ) れ る点が注 目され る。第 2図は明治 8年 ( の宮村地引絵図か ら宅地 の位置を示 した ものであ 第 1図b 宮村及び千保 (一部 )の 堤 防跡 ・水路の分布 る。当時は村 の中央やや東寄 りを南北に走 る堤防 上の道が主要な道路で ,宅地は これ よ り西部 の宮 島 ・中島に ,当時存在 した57戸 の うち4 8戸が位置 してい る。 これ に対 して ,東部 で は ,東 島に 8 戸 ,新戸 島に 1戸が存在す るのみである。東 島の 道に沿 った 7戸 は ,堤防に よって保護 された場所 にあ り,東部の中では河川の氾濫に よる影響 も少 なか った ことに よ り立地 した と考 え られ る。 この状態は,基本的には現在 まで存続 している。 先の明治 8年地引絵図 と比較 して変化 している点 は ,圃場整備 に伴 って整備 された市道砺波 一権正 寺線沿 いに宅地が集合 していることである。 しか し,東部に宅地が少ない ことは変化な く,散村形 態が維持 されてい ることを示 している ( 第 3図参 照)0 -9 - 島 E S]屋細 島 主な河川 団 ⊆∃ 堤防上の道 第 2図 地村の飛び地 ・ ・ ・ ・ ・ , 小 字界 宮村 における屋敷地 の分布 資料 :新川県管下第二十大区小四区越中砺波郡宮村地引絵図 (明治 8年 9月 ) 注 1 )縮尺 は約 85 0 0分の 1にな るよ うに縮小。 2 )図中の文字 は小字名,冊 は日吉神社,F t jは景完教寺を示す。第 3図, 第 4図 も同様。 3 )資料は砺波散村地域研究所所蔵。 3 . 行政単位 と しての宮村 村が ,中世の荘園であ る油 田条 の一部 であると考 え られ る7)ことか ら,居住 の開始 はか な り古 い と 宮村 の北部に位置す る 日吉神社 の塙 内か らは平 安時代 に遡 るとされ る須恵器が出土 し,また ,宮 され てい る.本章 では ,村 としての領域 が確定 さ れた江戸時代以降の宮村 につ いて概観す る。 -1 0 - お茶の水地理 ( 1 ) 藩政村 としての宮村 宮村の江戸時代初期 の状況については,元和 5 午 ( 1 61 9 )「 利波郡家高新帳」に よって知 ることが で きる8 ' 。 これに よると当時 の宮 村 の家 高 は 5戸 であった。千保川跡か ら西 の野尻川跡 にかけての 扇央部は,河川の影響 と開墾に必要な技術が未発 達 であった こと,労働 力 が不足 して いた ことに よって制限 され ,村落規模は小規模 な段階に とど まっていた。 江戸時代の宮村は加賀 ・越中 ・能登を領地 とし た加賀藩の支配下にあった9 ) 。 砺波 平 野 では ,江 戸時代 ,主 として南栃 山麓部や扇状地上 の徴 高地 を中心に展 開 して いた集落 が ,庄川 の固定化 に 伴 って扇状地上の旧河道跡や凹地に も拡大 してい く。一 一万 ,加賀藩では領内の農村を治め るために 末端 の村 々を統括す る十村を設け10),藩 財政 の基 礎 とな る年 貢 の納 入 を安 定 させ るた め に 田地 割 11),改作法1 2 ) を実施す るな ど支配体制 を整備 し ていった。 この時期 の宮村については不明な点が多いが , 石高及び耕地面積 について第 1表 に示 した。初期 の状態を代表す ると考 え られ る正保 3年 ( 1 646 ) には石高5 09石 ,田畑を合わせた耕地面積 339反余 8%が水 田で あ った 。 10年後 の明暦 2年 でその9 ( 1 656 )には1 7石増 えて537石 となる。しか し以後 0 年 ( 1 670 ) には41 1 石 ,2 74 反 とな 減少 し,寛文 1 り,文化 1 2 年 ( 1 81 5 ) に千保川跡 の開拓に よると 11 石 ,7 4 反が開かれ るまでは 6石 5斗 み られ る1 第 1表 年 次 正保 3年 ( 1 646 ) 第3 0 号 1 9 8 9 年 の増収に とどまった。 以上 の ように ,17世紀後 半 か ら19世紀 初 め ま で ,石高がほ とん ど変化 しなか った原 因 として考 え られ るのは庄川 に よる水害である。庄川は寛文 1 0年か ら正徳 4年 ( 1 71 4) にかけての松川除の築 堤工事に よって現在 の河道に安定 したが ,それ以 前は旧河道 の沿岸が洪水に よ り被害を受け ること も多か った。 また ,河 道 が安定 した後廃 川地 と な った千保川跡 では ,表土が 浅 く耕地 として利用 す るには困難 も多 く,その開拓 は容易に進行 しな か った。 しか し,旧河道 の うち最 も遅れていた千保川跡 の開拓 も文化年間に入 り急速 に進展 し1 3 ) ,宮村 に おいて も同様 に展開 した。 ここで,宮村 の特徴 は 開墾耕地に居住地の進 出を伴わなか った ことであ る。江戸時代後期 の状態を継承 していると考 え ら れ る明治 8年地引絵図に示 されているよ うに ,東 部に位置す る分掛 島,大 島,新戸 島,離 島には宅 地 が 1ヶ所 しか み られ な い 。 か つ て 水 津 氏 ( 1 954 ) は ,鷹栖村について ,同族を母体 とした 地域集団の成立基盤 としての 「シマ」 について述 べている1 4 ) が ,宮村では , 「シマ」におけ る集団に よる地域形成 はみ られなか った。 この原 因 として は,自然条件 の他に ,母村 の規模 の問題が考 え ら れ るが ,今後 さらに詳 しい検討を要す る。 生産力については ,宮村 の本 田は寛文 1 0 年以降 免 3つ 9歩 で変化 はな く,当時の砺波平野の平均 が免 4つであることか ら,中位 の生産力を持 った 江戸時代の宮村の石高 ・耕地面積 の推移 石 免 高 509 石 4 30 耕 3つ 85 地 面 積 339 反 6畝 0 7歩 1 65 6) 明暦 2年 ( 537 000 4 70 3 5 8 寛文 1 0 年 ( 1 670) 411 000 3 90 274 享保 1 3 年 ( 1 72 8) 41 7 3 90 27 8 3 33 500 資料 :砺波散村地域研究所資料に よる 2 年 ( 1 81 5 )に新開高 11 0 石 注1 )表 は宮村の古 田についての ものであ り,この他に,文化 1 4反 3畝33歩) が認め られた。 これは,嘉永 6年に も変化 して ( 免 2つ 9歩 ,面積7 いない。 2 )表 中の面積 は, 1石 -240 歩 , 1反 -3 60 歩で算 出 した。 -i fl - 地域 であった と考 え られ る。 ( 2) 明治時代以降の宮村 4. 宮村内部の小地域集団 明治時代 に入 り,廃藩置県の後 ,地方の行政区 画は何度か変更 されたが ,宮村については変化は な く,明治 5年 ( 1 8 7 2 )には田が約5 3 町歩 となっ 前章 までに述べた ように,宮村は 自然発生的に 成立 した集落が江戸時代に藩政村 として行政的な 単位 として認め られ ,以後現在 までその領域を維 持 してきた事例 として考えることがで きる。本章 ではその ような村落を構成す る集団 とその基盤に ついて考察す る。 ている。現在 の宮村 の耕地面積が5 0 h aであること を考慮す ると,この時期 まで に ,現在 の耕地は開 かれていた と考 え られ る。 以後 ,宮村は,明治 2 2 年 ( 1 8 8 7 )の町村制施行 に よって,矢木 ・庄下館 ・庄下新 ・大門 ・大門新 ・高道 ・坪 内の 7ヶ村 と五郎丸新 ・杉木 ・堀 内の 3入会地 とと もに庄 下村 を形成 した。 昭和 2 7 年 ( 1 9 5 2 )には,庄下村が油 田 ・中野 ・五鹿屋 ・出 町 ・林 の 1町 4ヶ村 と合併 して砺波町 とな り,昭 9 年 ( 1 9 54 ) 4月 に砺波 市 が誕 生 した。 この 和2 間 ,宮村は ,庄下村 ・砺波町 ・砺波市の大字 とし て存続 し,藩政村以来の領域に変化はなか った。 0 年代後 半 土地利用上の変化か ら見れば ,明治 2 0 年 頃 にかけ て 1 0観 が 北 海 道 - 移 住 か ら昭和 1 し1 5 ) ,その宅地は田に変わ った例がある。 また ,昭和 4 1 年 ( 1 9 6 6 )∼4 3 年 ( 1 9 6 8 )に実施 0 aあるいは4 0 a に整 された囲場整備事業に よって3 然 と区画 された水 田と直線上に走 る道路 ・水路が 実現 し,従来の景観は一変 した。景観 とい う点で は散村 に欠かせない要素であった 「カイニ ョウ」 も,第二次大戦中供木 として伐採 され ,戦後 は家 屋 の新築 ・増築用 として利用 されたが ,その後 の 生活様式の変化 は,木材利用 を減 少 させ ,「カイ ニ ョウ」 は重要性を失 っていった。 宮村は現在砺波市において旧村 とな った庄下地 区に統合 され る行 政 の末端組織 と して とらえ ら れ ,市 の 自治振興 会 と土地 改 良区 の最小単位 と な って い る。 また ,昭和 4 8 年 (1 973)∼52年 ( 1 9 7 7 ) と5 5 年 ( 1 9 8 0 )∼5 7 年 ( 1 9 8 2 )に北部の 1 世 田が宅地に変わ り,宮村以外か ら,それぞれ 1 帯 ,1 0世帯 が入居 した 。 そ の結 果 ,昭 和 63年 ( 1 9 8 8 )人 口3 1 2 人 ,世帯数 71を数えている16)。一 方 で,耕地面積 は先に も記 した ように ,水 田が5 0 8 年 ( 1 9 7 3 )に開通 した北陸 自動車道 h aと,昭和4 な ど道路用地に転用 された以外は面積的には大 き な変化はな く,通勤兼業 と機械化農業 を特徴 とす る水 田単作地帯 とな っている。 小地域集団について考察す る前 に ,宮村全体を 母体 とす る社会集団について述べてみたい。宮村 の社会集団 としては ,歴史的に形成 の古い宗教を 紐帯 とした集団,明治期に形成 された 「 組」を母 体 とした 自治及び社会的相互扶助 の機能を果たす 集団 ,同族 ・姻戚 を基礎 とす る集団 と 「トナ リ」 とい う地縁的集団が代表的な もの として考えられ る。以下 ,その内容 について概観す ることとす る。 ( 1 ) 宗教的社会集団 宮村では氏神 を 日吉神社にまつ り,宮村のすべ ての家が氏子 とな って,氏子総代 と宮番 を置いて 管理運営がな されている。 日吉神社は中世には越 中国砺波郡油 田条 1 1ヶ村の総社 として存在 し,現 在 の神社は当時の拝殿 の位置にあた るとい う。神 社 を中心 とした行事は秋祭 りが主な ものであ り, 盆 と秋祭 り前には各家か ら人が出て神社 の清掃が 行われ る。現在では ,公民館が併設 されて集会 の 場 ともな り,境 内を利 用 して ,ゲ ー トボ ール ・ ビーチバ レーな どの ス ポ ー ツも行 わ れ るo Lか し,お宮参 りや七五三 な どの儀式的な事柄の行わ れ る場所 とはな っていない。 また,宮村には浄土真宗景完教寺があ り,従来 か ら居住す る4 7 戸 の うち3 1 戸が壇家 とな っている。 また景完教寺以外 の寺の壇家である場合 も,浄土 真宗 を信仰 している家が大部分である。 寺を中心に営 まれ る行事には 「 報恩講上 「 太子 伝」,「 尼御講 ( 十 日御講) 」がある。 「 報恩講」は 「 太子伝」は ,壇家であ 壇家に よる行事であるが , るな しにかかわ らず宮村では先の4 7 戸すべてが参 加 し,他に隣接す る千保 ・中村 ・坪 内の景完教寺 の壇家である家 々も参加 して行われ る。 「 尼御講」 0日ご は無常仏様をお守 りす る女達に よる講で ,1 とに無常仏様を預 り,次 々に回 してい くもので, 女のいる家はすべてが参加 している。 以上の ように,信仰に係わ る集団は ,宮村にお いては内部を分割 して存在す るものではなか った。 -1 2 - お茶 の水地理 それは ,一般 に北陸地方 で根強い浄土真宗-の信 仰 に起 因す ると考 えられ る。 ( 2 ) 「 範」 の役割 とその変化 年 宮村におけ る 「 阻」 は衛生組合 として明治 21 (1888) に 誕 生 した。 富 山 県 で は 明 治 12年 ( 1 879 ) に コレラが大流行 し以後大正時代にかけ て何度か多数 の患者が発生 している。宮村ではそ 1 年に 「 衛生離合設立 認 可額」1 7 ) の予防のため明治 2 を砺波郡長に対 して提 出 した。 これに よると村 内は 4組に分け られ ,当時存在 した61 戸が 1番細か ら 4番組に組織 された。その 内訳は 1- 3番髄. に1 5 戸 , 4番範 に 1 6 戸 が所属 し 組長が 1名指名 された。 この細分 けは家 に よるも 細. 合 内二於 テ名望 アル現住 老」 が組 長 と ので ,「 な るため各魁 に村の地主である 「クジオヤ」1 8 ) が必 ず含 まれ ,細長 を勤め られ るように細分 けが行わ れた。 「 認可願」 に添 えて提 出 され た 「 衛 生組 合規 約」 には主に各家で守 るべ き事柄に加えて 「 観合 内二貧病者 アル トキ-組合長ノ 、 其親戚-救療 ヲ促 ス ト錐 モ,其親戚赤貧 ニシテ救助 ノ資カナキ トキ -観長 -組合 内二協議 シ応分 ノ救療 ヲナス コ トア ル- シ」 との一文が見 られ る。 この ことか ら家の 災難にあた ってはまず親戚が助け ,それが不可能 な場合には組合 とい う地縁的集団が援助す るとい う原則が示 されている。以上の ように ,「 阻」は, コレラの流行を契機 として阻織 されたが ,宮村の 衛生管理に留 まらず ,社会的な相互扶助 の役割を 担 うもの として機能 した といえる。 第二次世界大戦中に も,この 「 阻」組織 は解体 され ることな く受け継がれたが ,現在は宮村 とい う行政 の末端観織 の さらに下位 の集団 として位置 づけ られ ,行政的な役割が大 き くな っている。宮 村 の北部に居住す るようにな った2 1 戸は先に入居 した 1 1 戸が 5魁 ,後 の 1 0 戸が 6組に阻織 された。 また ,生産範織 の末端 として も位置づけ られてい る従来か らの 1- 4組 は,自治 と農業を担 う自治 第30号 1 9 8 9 年 け持つが , 1- 4組 は所 有地 の位 置 にか かわ ら ず ,水路 に沿 って南北 に 4つに分け られた区域 の 毎年異な った場所 を担 当す る。 この時併せて道路 の修繕が行われ ることもあ り,道路 の位置 に関係 なく 「 組」単位 で人が出て作業にあた る。 以上の ように ,水利 に関す る作業が ,各家 の所 有地 に関係な く,全体 を公平に分割す る形で行わ れ ることは,宮村 の村落構造を考 える上 で注 目す べ き点であると考 え られ る。 ( 3 ) 「 阻」 と土地 「 細. 」は設立 当時家 を主体に作 られた もので , 「 阻」 内の家は距離的に近 い家同士が まとめ られ ていたが ,道路や 田の畔な ど明瞭な地物 に よって な された区分ではなか った。 また ,農地改革以前 の地主小作制 の もとでは ,小作は 「 観」 に関係な く 1- 4戸程度 の地主か ら土地を借 りて耕作 して いた。 したが って,借入れ地を任意に選択 で きな い立場にある小作 に関 しては ,必ず しも小作地が 1ヶ所 に まとまっているわけではな く, したが っ て ,特定 の 「 組」 に帰属す る農家 の耕地が 「 観」 ごとにまとまっていたわけではなか った。 しか し,農地改革に よって小作地が開放 され耕 作権即 ち所有権 とな り,他方で,労働生産性 の向 上に よる農業の合理化が求め られ る中で ,分散 し た耕地の集団化が問題 とな った。長年 の経験か ら 耕地が家 の周囲にあることの有利性 は広 く認識 さ れていたので ,農地 の交換分合1 9 ) が若 干 の 曲折 を 経なが らも昭和 2 7 年 ( 1 9 5 2 ) に実施 された。 これに よって居住地 の周囲あるいは近 い位置に 耕地が集め られ ることにな り,暇和3 0 年代後半か ら4 0 年代前半にかけて行われた圃場整備事業 にあ た って も,原則的には直前に所有 していた耕地 の 位置 と面積が保証 された20)0 その結果 ,第 3図に示 した ように現在 では同 じ 「 組」に属す る家 の耕地が集 まることにな った。 しか し,現在で も,「 組 」は家 に よる ま とま りで あって ,土地 とは無関係な ものであるとい う認識 「 魁」単位 で行 われ る仕 事 の第一 は 「-ザ ラ イ」 である。例年 3月20日以降の 1週間の うち土 が一般的である。一方 で , 「 阻」は宮村を東西に分 割す る形で存在 していることも認識 されてお り, これは,第 3図の耕地 の分布 と一致 している。 こ の ような認識 は ,圃場整備に よって一段 と進 んだ 耕地 の集団化 に よるものであるのか ,それ以前か 曜 ・日曜の 1- 2日で宮村 内の各用排水路 の点検 ・修理を行 う。 5・6範 も居住地に近 い箇所を受 ら存在 した ものであ ったのかについては今後 の調 査か ら明 らかに したい と考 えている。 班 と生産班の 2つの側面を持 ち, 5・6観 はすべ て非農家であるので 自治班 としてのみ機能 してい る。 -13 - 市道 大 門 一千 代 捉 6. 孤 + : I . : ' I . : l : r : . ◎ 令 r √ 二 凡 各 r組 」 の耕地 ● ■ ● ■ ● ■ 一 ● 一 ● ■ ● ■ 一 〟 ● ▲ ■ ● ■ ■ ● 例 匹 租 Ⅲ 詔 1 租 に 迅3 軌 2 巨∃道路 ⊂ コ 4姐 巨⇒ 主な用排水路 亡妻コ墓地 第 3図 宮村 における 「組」の土地の分布 (昭和63 年1 0 月2 5日現在 ) 資料 :砺波散村地域研究所資料による。 注 1)図中の 「5組 」「6組 」は,各 「 組 」の家の 敷地を総合 して示 した。 2 )原図は 「 砺波市庄下地区全図 (昭和48年 1 0 0 0 分の 1)」0 月 1日現在 ,縮 尺 3 -1 4- や お茶の水地理 市道大門 一千 代 役 凡 例 [ 画 - 本家 画 分家 [ 亘】本家 -分家の軒 rトナ リJ 一一一 本家 ・分家及び 同族飼係 第 家 ・ ・ ・ ・ . ・ ・ 姻戚関係 4図 宮村 におけ る 「トナ リ」と同族 ・姻戚関係 注 1)道路,用排水路,墓地の凡例については,第 3図 に同 じ。 2)1 9 8 9年 2月の聞き取 り調査により作成。 3 )原図は第 3図に同 じ。 -1 5 - 第3 0 号 1 9 89 年 また ,第 3図に よると,市道大門一千代線 の東 部 と西部 では 「 組」 の耕地 の集中度に違 いが見 ら れ る。すなわち,東部の,市道砺波 一権正寺線 よ り南の耕地 では,西部 よ り 「 組」 の耕地が交錯 し ている。それに対 して,西部では ,南か ら北へ向 か って , 1観か ら 4魁 の耕地が東西方 向に集団化 されている。 この原因 としては ,東部 と西部 の自 然条件 の違 いに よる開墾時期 の差が考え られ る。 ( 4) 「トナ リ」 と本家 ・分家関係 「 阻」 は 1 0-1 3 戸 の家のまとま りで,自治的 , 生産的な役割を担 うものであった。 この他に ,宮 村 には 「 組」 とは異なる 2- 8戸 の家のまとま り である 「トナ リ」と呼ばれ る集団が存在す る。「ト ナ リ」 は 「 向かい三軒両隣」 とい う言葉で表 され る,近隣の,行 き来す る機会 の多い家 々のまとま りである。地主小作制 の もとで もそれに関係な く 「トナ リ」 のつ き合いは行われて現在に至 ってお り,その発生は古い と考え られ る。 「トナ リ」 は葬式 の際に最 も機能を発揮す る。 「トナ リ」 の家に不幸があった場合は ,男 も女 も 手伝 いに出かけ ることが ,昔か ら変わ らず続け ら れている。また ,「トナ リ」の家に病人がでた時の 見舞 いは欠か さず行われ る。その他に ,かつて屋 根 を萱で葺いていた当時は 「トナ リ」 の家が萱を 葺 き替 える時には,材料 となる萱を持参 して手伝 いに行 った。瓦葺 きの木造建築 あるいは鉄筋 の家 が立つ よ うにな る と,建 前 の手伝 いがそれ に代 わ った。 この ように 「トナ リ」 は,相互扶助 を基 礎 に した地縁的集団 として位置づけ られ る。 しか し,「トナ リ」 が農作業 を共 同 して行 う際 の単位 となることは少な く,「トナ リ」 に病 人 が 発生 して農作業に支障が出るような場合以外 は, 共同で作業を行 うことはなか った。 また ,この地 域 では昭和 30 年頃 まで牛馬耕が行われていたが , 使用す る馬や牛を借 りる際に も,必ず しも 「トナ リ」が単位 となるわけではな く,親戚や気 のあっ た老 同士が集 ま り,それは家 と家 との距離に もあ ま り影響 されなか った ようである。 この 「 仲間」 は農業機械が導入 され ,その共同利用が行われ る ようになると解体 されて ,前述 した ような形 の別 の新たな 「 仲間」が魁織 された。 葬式や建前な ど日常生活の節 目に当た る出来事 に際 しては ,「トナ リ」 とともに本家 あ るいは分 家 とい う同族や姻戚が加わ った。第 4図に宮村に おけ る 「トナ リ」と同族 ,姻戚関係を示 した。「ト ナ リ」 は 1つの家が敷戸 の家 の 「トナ リ」 となる 形を とってお り,いわゆ る両隣 ,向かいにあた る 2- 4戸 の家のまとま りが基本である。 ここに比 較的近 い位置にある地主 と小作が 「トナ リ」 の関 係を保 っていた り,現在機械の共同使用を行 って いる 「 仲間」が加わ っている例があ り,その場合 は通常 の 「トナ リ」に比べて構成す る家の数が多 くなる。 また ,内部で家を移 した場合 ,以前家が あった場所で結ばれていた 「トナ リ」 の関係が , 新 しい場所に移 った後 も続いている例がある。そ して,宮村 と隣接す る地域 との境界は所有地や水 路に よって認識 されているた め ,「トナ リ」 の関 係はその境界の内部で完結 している。 次に ,本家 ・分家関係について見 ると,宮村に は本家 ・分家関係にある家が 1 7 阻 あ り,本家が北 海道に移住 し分家のみが存在 しているものが 2組 ある。本家は宮村の西部に,分家は本家の東に位 置 している場合 が大部 分 で あ る。 前述 した よ う に,宮村 では西側ほ ど土壌が深 く,耕作に有利 で あるとされてお り,分家 は本家 より生産力の低い 土地を分け与 え られ て家 を建 て ,周辺 を開 いて い った ことが うかがえる。 5. おあ りに 以上 ,宮村 とい う散村 の内部に見 られ る小地域 集団 と土地 との関係につ いて述べてきた。 宮村では,東部が庄川 の最 も新 しい旧河道 の氾 濫原にあた っていたため ,河川に よる影響を避け て東部に家屋が進 出 しなか った点に特徴がある。 このため宮村では,扇状地 の他の地域に見 られ る ような 「シマ」を基盤に した集団は成立 しなか っ た。 明治中期に結成 された衛生魁合は,家を単位 と し,当初は土地を伴 う区分ではなか った とい うこ とであるが ,各 「 組」 に江戸時代の有力者 であっ た 「クジオヤ」が所属 していることか ら,「 阻」の 生産力の平均化 とい う点が考慮 されていた ことも 考 え られ る。 農地改革 ,交換分合を経 て,各家 の所有す る耕 地が集団化 され るにつれて 「 組」 として土地が集 まる傾 向が見 られ るが ,「 細. 」 が宮村 を分割す る 存在 とはな り得ない と考 え られ るo宮村には 「ト -16 - お茶の水地理 0号 第3 1 9 89 年 市役所 ,1 0 32 p. +20p. ナ リ」 とい う 「 阻 」 を越 えてつ なが り合 う家 の集 団が あ り,同族 や 姻戚 も全 体 に広 が り,信 仰 の面 8) 同上 で も同 質 性 が 高 い か ら で あ る 。 しか し , 現 在 9 ) 宮村を含む砺波郡は,天正 1 3 年 ( 1 5 85) に後の加 「 組 」が宮 村 を東 西 に分割 す る形 で存 在 して い る 賀藩主 とな った前 田氏 の領 有 とな り,明治 4年 ( 1 871 ) まで変化はなかった。 とい う認識 が な され て い る点 は注 目され ,領 域 の 形 成 に果 たす 土 地 所 有 の役 割 は今後 の課題 で あ る。 1 0 )十村が置かれたのは,慶長 9年 ( 1 6 0 4)か らとさ また ,「 細. 」や 「トナ リ」 とい う地 縁 的集 団が農 れているが,明確ではない。 業 生産 の中心 とは な らなか った点 は ,従 来 か ら指 l l )-村内の各 自の耕作地を,ほぼ20 年 ごとに くじで 摘 され てい る散 村 に おけ る農 業経 営 の独 立 性 が現 交換すること。碁盤割 ともいう。加賀藩農政の柱 と れ て い る もの と考 え られ る。 なったもので,水害な どの自然災害に よる年貢負担 2 )実施の基盤 とし の不公平を防止 し,改作法 ( 注1 本稿 では ,人 間集 団 と成 立 基 盤 と して の土地 と て,寛永 1 9 年 ( 1 64 2 )か ら地租改正まで続け られた。 の関 係 を考 察 して い く上 で ,各 家 の土 地所 有 に関 す る分析 を十 分 に行 な うこ とが で きなか った。 宮 1 2 )-村内の草高 ( 生産高)を一定に定め,免につい 村 で は墓 地 以 外 に 全 体 で 共 有 して い る土 地 は な ては-村内平均免 ,永年定免 とす ることな どを定め く,残 りの土 地 はす べ て私 有 地 で あ る。 また ,農 た もの。慶安 4年 (1 651) に着 手 され 明暦 元年 ( 1 65 6 )にはぼ完成 した。加賀藩の封建的支配体制 地 改革 以前 に お い て も小 規 模 な 地 主 しか 存 在 せ を確立 させたものとして評価 されている。 ず ,村外 の所 有 者 に よる土地 も少 なか った。 この よ うに土地 所 有 に お い て平 均化 され て い る とい う 1 3 ) この時期に,加賀藩か ら,遅れていた千保川跡の 点 も考慮 して ,宮 村 とい う村 落 の存 立 基 盤 と して 開拓を推進するよう命があ り,土地の状態 も耕作が の土 地 の役 割 を 明 らか に し,居 住 地 の進 出を伴 わ 可能な段階に達 していた ことか ら開拓が進んだ。 なか った 旧河 道 の 自然条 件 と開拓 状 況 に よ り異 な 1 4 )水津一朗 ( 1 954) :土地 占居か らみた散居 の機 7-40 能 ,大阪市立大学人文研究 , 5 (9),2 る と考 え られ る地 域 集 団 の形成 要 因 につ いて も考 1 5 )北海道の他 ,国外では満州 ,国内では金沢-移住 察 を深 め て い きた い と考 えて い る。 した例がある。 最後 に ,今 回宮 村 の調査 で お世 話 に な った砺 波 市 立砺波 散 村 地 域 研 究所 の皆 さん と宮 村 の方 々に 1 6 )砺波市役所市民課資料に よる。 1 7 )庄下村史誌編纂委員会編 ( 1 9 7 9 ) :庄下村史誌 , 9 2p. 庄下地区自治振興会 ,8 深 く感謝致 します 。 オヤ ッサマ」 とも呼ばれ る。宮村 では 1 3戸 の 1 8) 「 注 「クジオヤ」が現存 している。 1 9 )農用地の集団化を 目的 として,主に農用地に関す 1 ) 水津一朗 ( 1 9 6 4 ) :社会地理学の基本問題 ,大明 る権利の交換を行 うこと。 これに より,宮村の耕地 壁 ,2 4 8 p. + 6p. 集団化率は7 2% とな り,平均5 2%の集団化率 となっ た宮村を含む庄下村は この年交換分合模範村 となっ 1 9 6 5 ) :集落形態を村落共同体一特に讃 2 ) 石腐潤 ( 岐の事例を中心に一,人文地理 ,1 7(1),3 8-6 4 た。 2 0 )換地処分 と呼ばれ ,宮村では昭和46 年 ( 1 9 71 )∼ 3 ) 山野正彦 ( 1 9 7 6 ) :丹波山地における村落の空間 4 7年 ( 1 9 72 )に行われ ,旧庄下村では 1筆当 りの平 形態 とその内部構造 ,大阪市立大学人文研究 ,28 (2),2 3-5 3 4) 砺波郷土資料館長佐伯正一先生に よると,祖父川 iか ら換地 後 に1 89 0m2とな 均 面横が換地前 の302n った は,中世の油田条の水路であった とも考えられ,古 くから安定 した河川であるとい う。 参考文献 5 ) 石田龍次郎 ( 1 965) :砺波散村研究譜 ,砺波荷 9 7 9-1 01 7 史 ,pp. 石腐潤 ( 1 9 64 ) :ムラの中の小地域集団について,人 6) 佐伯正一先生のご教示による。 7 ) 砺波市史編纂委員会編 ( 1 9 6 5 ) :砺波市史,砺波 文地理 ,1 6(2),1 0 2-1 1 0 石腐潤 ( 1 9 65 ) :集落形態 と村落共同体一特に讃岐の - 17- 事例を中心に-,人文地理 ,1 7 (1)3 8-6 4 同上 ( 1 9 6 4 ) :社会地理学の基本問題 ,大 明堂 ,248 小川琢治 ( 1 91 4 ) :越中国西部の荘宅に就て,地学雑 31 2 ), 1-l l 誌 ,( p. + 6p. 関谷俊作 ( 1 9 8 8 ) :改訂版 日本の農地制度 ,農業振興 岩 田慶治 ( 1 9 5 4 ) :家か らみた散村の性格 ,大阪市立 6-8 8 大学人文研究 ,5 (9),7 大 田栄太郎 ( 1 9 7 4 ) :日本の民俗 2 8p. 地域調査会 ,3 砺波市史編纂委員会編 ( 1 9 6 5 ) :砺波市史 ,砺波市役 0 3 2 p. +2 0 p. 所 ,1 富山,第一法規出 版 ,3 01 p. 橋本征治 ( 1 9 6 9 ) :散居村における社会構造の地理学 木村宏 ( 1 9 5 4 ) :村落構成 と土地所有形態 ,大阪市立 的研究 一砺波におけ る事例 -,人文地理 ,21(6), 1-2 8 -51 大学人文研究 ,5 (9),41 金 田章裕 ( 1 9 8 6 ) :砺波散村の展開とその要因,砺波 浜谷正人 ( 1 9 89 ) :日本村落の社会地理 ,古今書院 , l 散村地域研究所研究紀要 ,(3), 1-l 1 2 2p. 庄下村史誌編纂委員会編 ( 1 9 7 9 ) :庄下村史誌 ,庄下 山野正彦 ( 1 9 7 6 ) :丹波山地における村落の空間形態 地区 自治振興会 ,8 9 2 p. 8(2), とその内部構造 ,大阪市立大学人文研究 ,2 水津一朗 ( 1 9 5 4 ) :土地 占居か らみた散居 の機能 ,大 2 3-5 3 7-4 0 阪市立大学人文研究 ,5 (9),2 A St udyofRur a lSt r uct ur ei nDi s per s e dSe t t l ement s( 1) -Fo cus i ngonRur alCommuni t i e sKei koARAI -1 8 -
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