花 の お江戸 を歩 く会 塩 の 道・ 江 戸 の 村 を歩 く 「妙典 ∼行徳 ∼― 之 江界隈散歩」 ≪ コースガイ ド≫ 市川市行徳 は江戸時代 に家千軒 に寺百軒 と言われたほどの寺町で した。 また 徳川家康 は行徳 の豊富な塩 を重視 し江戸に運ぶため小名木川 をい ち早 く開削 し ま した。 また、江戸川 区一之江界隈は家康入府以降本格的 に耕地が開拓 され江 戸 の近郊農村 の道 を辿 り、今 もその面影 をとどめています。今 日はそんな江戸 とかかわ りの深 いの 「塩 の道」か ら 「江戸 の村」を歩きます。 ≪ コースの詳糸 田≫ 東京 メ トロ東西線 「妙典駅」→成 田街道→春 じ換 社→清寿等 →妙夕等 →徳願寺 → 法善寺→長松善寺→妙頂寺→神明神社→ 自性院→蔵→公民館→権現道→妙覚 寺→八幡神社→ 田中邸→行徳街道→加藤邸→笹屋 うどん跡→ 常夜灯→浅子神輿 店跡→ おかね塚→行徳駅 (ラ ンチ)⇒ 南行徳駅 (地 下鉄 で移動)→ 今井橋→今 井 の渡 し跡→香取神社→八雲神社→浄興寺→ 大雲寺 (役 者寺)→ 一之江名主屋 敷→城 立寺 (解 散)→ 都営新宿線 「瑞江駅」 ≪個別 ガイ ド≫ ◆妙典 の歴史 と地名◆ その昔、成 田山にお参 りする人達 は、江戸 より船 で行徳に着 き妙典 の道を行 き来 しま した。 これにより妙典 の道は成 田街道 と呼ばれ大勢 の人 々で賑 わ つた といわれています。特 に徳川家康 は鷹狩 りの際 この道を好 んで通 つたことか ら 「権現道」 と呼ばれた。 この地には古 くか ら、 日蓮宗を熱 心に信仰する人 々が 多 く住 んでお りま した。妙典 とい う地名は、その経典 より付 けられ た と伝 えら れてい る。 ① 成田街道 今は、江戸川放水路 で分断 されて しまいま したが、放水路 の対岸 の 田尻、高 谷、二俣付近 にも成 田街道 が続 いてお り、今 も古い町並みが残 つてい る。 ② 春 日神社 創 建 は境 内の燈籠 の刻字 か ら寛文 10年 (1671年 )以 前 と推定 され る。 ‐ 3年 に一 回大祭 が行 われ る。本殿 の彫刻 が素晴 らしい。 lタ 〔 ③ 清寿寺 元禄 8年 (1695年 )に 、荘厳律師 日聞大徳によって 開山され、清寿尼が開基 し た。釈迦如来、多宝如来、 日蓮上人像を本尊 としてい る。清寿寺は通称 「ぜん そ く寺」 と呼ばれてい る。先代上人の母がぜんそ くで難渋 してお り、そ の苦 し さを治 したい とい う信念 か ら中山大荒行参行 の折 に祈祷 し、母 の病 も全治 し神 持祈祷 を行 つて 仏 の尊 さを痛感 じ加持祈祷 を開始。毎年、旧十五夜 の 日だけカロ い る。→ 寺町公園 T ④ 常運寺 小 田原北条氏 の家 臣野地氏、常運院 日信 が 中山法華経寺に金銅 の大仏 を奉納 した代 わ りに本尊を授与 され、元和 2年 (1616年 )に 開いた。 小 田原 の北条氏 が滅びた とき、野地久右衛門 とい う武 士が北条家 の姫 を守 っ て行徳 へ落ちのびて、今 の常運寺のある場所 に住み き、頭 を丸めて、法華経寺 へ参詣す ることを 日課 としてい たが、ある 日のこと法華経 寺 のお祖師様 の像を 拝 んでい ると 「自分 の像をお前 の家 に連れて帰 って、堂を建 ててほ しい」 とい う。そ こでここに堂を建て常運寺 と名付けた とい う。 ⑤ 徳願 寺 (と くがん じ) 徳願 寺はもと普光院 とよぶ草庵 で浄 土宗勝願 寺の末寺であった。慶長十五年 (1610)徳 川家康 の帰依 により、新 たに堂宇 が建立 され、徳川 の徳 と勝願 寺 の 願 をとつて、改 めて『 徳願寺』 の名 がつ けられ、円誉不残 上人を開山に開創 さ れたものである。 本尊阿弥陀如来像 は、かつ て源頼朝 の室政子 が、仏師運慶 に命 じてちょ うこ │1家 康 が二代将軍秀忠夫人 のため、鎌倉か ら江戸城 くさせたもの といわれ、徳り に遷 したが、夫人 の逝去後、当山二世忠残上人 が請けて本尊 としたものである。 そ して、三代将軍家光 か らは本尊供養料 として、慶安元年 (1648)朱 印十石 が 与 えられた。本堂は安政三年 (1856)火 災に より焼失、大正三年 (1916)に 再 建 されたが、山門 と鐘楼は共に安政四年 (1775)の 建築で、本寺最古の 建造物 である。 山門に安置す る二王像等 の彫刻物 は、明治維新 の さい葛飾 八幡宮の別 当寺であつた法漸寺か ら移 されたものである。他 に輪 堂式経蔵や身代観音堂 が あ り、本堂 には湛慶作 と伝 える間魔大王像が安置 されてい る。 また、本寺 には文化四年 (1807)江 戸深川 の永代橋墜落による溺死者 の供養 塔や、宮本武蔵供養 のための石地蔵 をは じめ、武蔵筆 と伝 える書画、円山応挙 筆 と伝 える幽霊 の絵な どが寺宝 として保管 されてい る。 ⑥ 妙好寺 (み ようこ うじ) 永禄 8年 8月 15日 (1565年 )本 山法華経寺 11世 日典上人 の法孫、一乗阿閣梨 日宣法印に よつて開山創 立 されてい る。開基檀頭 は、千葉氏千田の子孫 で当時 小 日原北條家 の家士篠 田雅楽助清久。清久は、時 の地頭で永禄 7年 (1564年 )の (2) 国府 台合 戦 の折 、千葉 氏 と共 に小 田原 北條 氏 に味方 した恩 賞 と して この地 「妙 典 」 が与 え られ た。 妙典 の名 は、法華経 の経典 が 日蓮聖人 の 唱 えた 「南無妙 法 蓮華経 」 の如 く妙 な る経 典 で あ る ところか ら付 い た地 名 。 木 造切 妻茅葺 の 和様 四足 門 で す。建 坪 は 25平 方 メー トル 。柱 上 の組 物 は三 斗 、 中備 えにか え る股 を用 い 、頭 貫 の本 鼻 、 虹 梁 、花肘 木 な どの 文様 が 、江戸 中期 の特色 を示 して い ます。建 立年 代 はは っ き りしませ んが 、 山門修 築 の 際 に発 見 され た棟 札 に よる と、 「宝暦十 一 年 (1761)己 七 月 吉 日 ,妙 栄 山十 二 世観 樹 院 日秀 (花 押 )。 大 工 下総香取郡 千 田之庄 石橋杢 衛 門重親 」 とあ り、 工 事費 は村 民 と檀徒 に よ つて 喜 捨 され てい ます 。 市メ│1市 内 には 多 くの 寺社 が あ ります が 、江 戸 時代 の もの は比較 的少 な く、 この 門は 当時 の建築様 式 を よ く残 して い る建造 物 と して 貴重 な ものです。 ⑦ 長松 寺 (ち ょ うま つ じ) 長松 寺 は 山号 を塩 場 山 (エ ンジ ョウザ ン)と い う。 松 戸市馬橋 の 臨済宗 大徳 )に 開 寺派 万満 寺 の末 寺 で 、渓 山和 尚に よ り天文年 間 (1532-1555年 山 され た。 正確 な年 次 は不 明 で あ るが 、渓 山和 尚 の 寂年 が天 文 二 十 三 年 (15 54年 )で あ る こ とか ら、それ 以前 の 開 山で あ る こ とが 覗 える。 開基 は小 田 。 。 原 北条家 家 臣松原 淡路守重 之で あ る。 淡路守 は千葉 県市川 市行徳 大和 田 平 田あた りまで の領 主 で あ つ た とい う。 当時 は この あた りは塩 場 (塩 田)で あ り、 山号 は これ に由来 す る。 境 内 には 薬 師如 来 、塩釜 明神 を祀 り塩焼 き百姓 た ちの信仰 を集 めて い た とい う。 元文 五 年 に書 かれ た資 料 に よる と境 内地 は四反 二 畝十 六 歩。末寺 が 四 ヶ寺 あ り、 今 日の 千葉 県船橋 市丸 山町 に も存在 した。 ③ 妙 頂 寺 (み よ うち よ う じ) 弘安 元年 (1278年 )に 創 建 され た。境 内 には寺子屋 の往 時 を偲 ばせ る筆 小 塚 が あ る。 → 妙応 寺 ⑨ 神 明 (豊 受 )神 社 本社 の起 こ りにつ い て は 、金海 法 師 とい う山伏 が 、伊 勢 内宮 の 上砂 を 中洲 (江 戸川 区東篠 崎 町辺 り)の 地 に運 び 、 内外 両皇大神 宮 を勧請 して神 明社 を建 立 し た の に始 ま る といい ます。 金海 法 師 は土地 の 開発 と、人 々 の教化 に努 め 、徳 が 高 く行 い が正 しか った と ころか ら、多 くの 人 々 に 「行徳 さま」 と崇 め敬 われ た といい ます 。 この 「行徳 さま」 がや が て行 徳 の地名 にな つ た とい うのです が 、金海 法 師 が 行徳 を訪 れ た の は大永 七 年 (1527)の こ とといい 、 また天文十 一 年 (1542)の こ ととも、慶長 十 九年 (1614)の こ とともい われ て い ます 。 中洲 に建 て られ た神 明社 が 、現在 の 地 に遷座 した の は寛永 十 二 年 (1635)の こ とで 、葛飾誌 略 とい う本 には 「中洲 に在 る時 は小祠也 。 寛永十 二 乙亥 (き の 3) とい)大 社 に造立。その造 立の節、十五 ヶ村 より寄進有 りといふ。本願主田中 嘉左衛 門。元文 二丁巳 (ひ の とみ)年 ・享保元申 (さ る)年 とも田中三左衛 門 催 しにて、祭礼 に始めて屋台を出す。町内も比 の時四丁に分る。新 田とも屋台 五つ、新宿客祭 りとして屋台以上六つ 也。」 とあって、屋台の出る賑や かな祭 りの様子 が伺われます。 現在、三年 に一度 の祭礼には、神輿渡御 の行事が行われ、大神興 が町内を練 廻 ります が、その勇壮な揉み方 に特色が有 り、揉み方保存会 がその継承 に当っ ています。 ⑩ 自性院 (じ しよ ういん) 小岩 にある真言宗善養寺 の末寺で、法仙法師によ り天正 16年 (1588)に 開基。 本堂手前右 に田中家 の小作番頭、秋本 九兵衛家 の墓所に、勝安芳 (海 舟)筆 の熊 谷伊助慰霊歌碑 がある。勝 が 「よき友」熊谷伊助 の死を悼 んで建てたもの。 勝 の 「日記」 の 中には 「松屋伊助」 と記 されてい る。伊助 は、睦奥国松沢 (現 岩手県一 関市千厩町)の 出身で、屋号の 「松屋」は これに由来す る。慶応年間 に 横浜 のアメ リカ商館 の番頭 の職 を得 た伊助 は、奉公 した江戸 の酒屋 の縁 で行徳 出身 の妻 と結婚 した と言 われてい る。 「よき友 の消へ しと聞 くぞ、我 この方 心 いたむるひ とつ な りた り。」 ◆行徳 の地名◆ 大永 7年 (1527)金 海法印 とい う山伏 が、伊勢内宮 の土砂 を中州 (江 戸川区 東篠崎町辺 り)の 地に運び、内外両皇大神宮を勧請 して、神明社を建 立 したこ と に始まる。金海法印 は土地の開発 と、人 々の教化に努め、徳 が高 く、行 いが正 しか った ことか ら多 くの人 か ら「行徳 さま」と崇 め敬われた と言われ ている。 室町時代になつて、 ようや く記録上に「行徳」の地名 が現れ たのは、応安 5年 (1372)の ことで、集落 ができたのはそれ以前 のことと考えられ る。 「惣 て行徳 と名付る事、本行徳金剛院 の開山行人 よりして起る」 葛飾記 によれば、 とある。 ① 権現道 (ご んげんみち) 徳川家康 が秀忠 とともに、東金での鷹狩 りの際 にたびたび通 つた古い道 を、 相之川 では 「お成 り道」本行徳 では 「権現道」 と呼ばれてい る。 (因 みに権現 様 とは家康 の尊称 です)一 行は、今井 の渡 しで相之川 に入 り、関ヶ島を経由し て浅瀬 を渡 つて本行徳 に入 つたと思われる。 権現道 は、行徳街道が整備 され るまで、本行徳村 のメイ ンロー ドで し た。お 神輿道 か ら寺まち通 りに向かって右側に寺が続 き、当時は 10の 寺があ りま した。 現在 は廃寺になつた寺が多 く、その内の法泉寺は家康 が立ち寄 つた寺 として知 られてい ます。なお、当時の寺 の裏 はす ぐに海 であ り、塩 田が広がっていま し た。塩焼 きの様子を見て家康 は大いに喜び 「塩は軍用第一の品」 として行徳 の t44Pゝ 塩業を手厚 く保護す るこ とにな りま した。家康 の鷹狩 りが、 行徳 の発展 の きっ か け となつた と言えます。→法泉寺 ⑫ 妙覚寺 日蓮宗中山法華経 寺 の末寺であ り、天正十四年 (1586)に 創建 され、山号は 正覚山、開基は心了院 日通上人 である。境 内には東 日本 では大変 めず らしい、 キ リシタン信仰 の遺物 であ り、房総にただ一基 の「キ リシタン燈籠 (と うろ う)」 がある。 燈籠 の 中央下部 に舟形 の窪み彫 りがあ り、中にマ ン トを着たバテ レン (ネ 申父) が靴 をはいた姿が彫刻 されてい る。 (靴 の部分 は地 中に埋め られてい る) 戦 国時代 の大名古 田織部 の資1豪 であった といわれ、別名 を織部燈籠 (お リベ とう ろ う)と い う。 ≪行徳公民館 :小 休止 ≫→権現道 ≪→ 円頓寺→浄閑寺→正讃寺 ≫→行徳街道 → ≪澤本酒店→ 田中邸 (1国 家)→ 八幡神社→神明神社→加藤邸 (旧 家)≫ ⑬ 笹屋 うどん店跡 江戸時代 の笹屋は うどん屋 として大変繁盛 した うどん屋で船着場 にも近 い と の こともあ り行徳 の猛物 になった。 伊豆で挙兵 した源頼朝 が石橋 山の合戦 に敗れ て安房へ落ちのび る途中、行徳 へ立ち寄 り、 ここにあつた うどん屋に うどんをご馳走にな り、それで源氏の家 紋 の笹 りん どうを与 えて"笹 屋 "と 名乗 らせた との説 があ ります。 建物は安政元年 (1854)の 建物でそ のまま今 も残 つてい るが、個人宅になって お ります ので 中を見学す るこ とは出来ません 江戸末期 に店 の宣伝 として描 いた屏風 、また太 田蜀山人 が書い た といわれ る ケヤキの大看板 も残 されてお りいずれ の貴重秘蔵看板・ 屏風は市川市立歴史博 物館に寄贈 され展示 されてい る ⑭ 常夜灯 行徳は古 くか ら塩 の産地 として知 られ、 この塩 を江戸へ運ぶために開発 され た航路 も、 や がて人や物資 の輸送 に使われ るよ うになつた。寛永 9年 (1632)こ の 航路 の独 占権 を得たのが本行徳村 だ つた。新河岸 と呼ばれたこの船着場 か ら江 戸 日本橋小網町 までの間を往復 した就航船を 「行徳船」または 「長渡船」 と呼 ん だ。行徳船 を利用 した人たちには、松尾芭蕉、十返舎一九、小林一茶、渡辺 睾山、大原 幽学な ど、歴史上、文学史上に著名 な人物 も多 く、特に文化 。文政 (1804∼ 30)の 頃か らは、行徳 を訪れ る文人墨客や、当時ますます盛んになつて きた成 田山参詣 の講中 (信 者 の仲間)た ちによつて、船着場 は賑 わい を極 めた。 この常夜燈 は、文化 9年 (1812)江 戸 日本橋西河岸 と蔵屋敷 の講 中が、航路 の 安全を祈願 して成 田山新勝寺 に奉納 したもの。正面 の裏面 に 「日本橋」 と筆太 く刻み、左側 に 「永代常夜燈」、右側に 「文化 九壬申年 二月吉 日建立」 と刻み、 鯉 〕》 台石 には 「西河岸町太 田嘉兵衛、大黒屋太兵衛」ほか 21名 の 氏名が刻み込ま れ てい る。 ≪浅子神輿跡→ 頃九神社→徳象寺→清岸寺 ≫ ◆行徳神輿◆ 行徳 の町で神輿 が作 られたのは、江戸中期頃か らで、堅牢な神輿が有名 にな って、神輿づ くりが盛んになった。その神興 の商談 に欠かせない ものが、 行徳 の塩だ った。造 られた塩が新潟、長野などの 山間部へ と運 ばれてい く時、神輿 製作 の依頼 も受けてきたわけで、1,2年 後完成 した神輿はまた、塩 ととも に、 行徳河岸 か ら船 で江戸川 を下 り、東京湾 か ら隅田川 を上 り、千住 まで行 き、 日 光街道、中仙道 を通 つてソル トロー ド(塩 の道)沿 にある宿場や村 に運ばれて い つた。 神輿は古 くは仏教彫刻 を生業 とする仏師たちによつて造 られた といい、港町 でお寺が多かった天領行徳 に仏師が住みつ き、神輿製作が始まったのではない か とい われてい る。 行徳 の神輿は、北は北海道、南は九州まで、 日本全国の神社、町会等に数多 く納入 されてい る。浅子神輿店 (浅 子周慶)、 後藤神仏具店 (後 藤直光)、 中 台神輿製作所 (中 台祐信 )三 軒 の神輿店 があつたが、室町末期応仁年間倉J業 の 浅子神輿店 は 16代 浅子周慶氏 の急死により、平成 19年 10月 、500年 の歴史に 幕 を閉 じた。現在は、唯一 中台神輿製作所 が製造 か ら販売 まで一貫 して神興を 手掛けている。 ⑮ おかね塚 寛文 5年 (1665)建 立の阿弥陀石像がある。押切 には古 くか ら 「おかね塚」 の 話 が語 り継 がれてきた。話 の概要は、押切 の地が行徳 の塩で栄 えていた頃、押 切 の船着場 には、製塩 に使 う燃料 が上 総 から定期的 に運ばれ て きた。 これ ら輸送船 の船頭や人夫 の 中には停泊中に江戸吉原 まで遊びに行 く者 もあ り、その 中のひ とりが 「かね」 とい う遊女 と親 しくなつて夫婦 約束をす るまでに至 り、船頭 との約束を堅 く信 じた 「かね」 は年季 が明ける と す ぐに押切 に来て、上総 か ら荷 を運んで来る船頭に会えるの を楽 しみに待 つた。 しか し、船頭 はいつ にな つても現れず、やがて 「かね」 は蓄 えのお金 を使 い 果 た し、悲 しみ のため憔悴 して、 この地 で亡 くなった。 これ を聞いた吉原 の遊女たち百余人 は、 「かね」 の純情 に うたれ僅 かばか り のお金 を出 しあい、供養 のための碑 を建てた。村人たちもこの薄幸な 「かね」 のため花や線香 を供 えて供養 した とい う。 1 のか の たとえ遊 りそめ 恋物語 で も、 女 行徳 の街 が 日増 しに変 わ りゆく今 日、 語 り伝 えて供養 してきた先祖 の人たちの心を後世 に残そ うと、地元有志 によつ て 「行徳おかね塚 の 出来」を書いた碑が建立 されてい る。→押切稲荷神社 (ι ) ⑩ 法伝寺 芝増 上寺の末寺で、天文 22年 (1553)観 竜上人 の創 建。昔、地域 の学問の場 と して、明徳尋常小学校 とい う現在 の南行徳小学校 の前身があった。境 内には、 明徳尋常小学校 の記念碑 がある。 本堂裏に地獄 に落ちた人 の生前 の善悪を判定す るエ ンマ大王 とそ の判 のため に死者 の衣をは ぐ奪衣婆 の石像 と墓地に聖・ 十一面 0千 手・ 准抵・ 馬頭・ 如意 輪 の古い観音石像がある。 ① 善照寺 芝増上寺 の末寺、寛永 2年 (1625)開 創。覚誉潮随上人 が開山、青山四郎兵衛 正 貞が父伊予守家貞の菩提 を弔 うために建立 した とされている。 山門を入 つて 左側に大 日如来 の智慧を表す、五智如来 の大きな石仏がある。青山四郎兵衛正 貞 の子息である、青山四郎兵衛吉貞に よつて、万治元年 (1658)2月 15日 に青山 家有縁 の供養 のために建立 されたもの。 梵鐘 は太平洋戦争時に供 出 し、現在 の梵鐘 は昭和 30年 に新鋳造 した もので、 鋳造師は人間国宝香取正彦氏である。重 さ 120貫 、梵鐘 の撞座 (鐘 をつ く場所) は通常 2ヶ 所 であるが、 この梵鐘は 4ヶ 所 と特殊なデザイ ンである。 ⑬ 源 心寺 芝増 上寺 の末寺。慶長 15年 (1610)源 誉 上人観智国師が狩野浄天 の私財によっ て堂宇 を建立、開山 した。境 内左手にある高 さ 2メ ー トルほ どの六地蔵は、狩 野氏が寄進 した もの。墓地奥に観音国師、狩野浄天夫妻 の五輪塔 がある。市指 定文化財。→ 日枝神社 ⑩ 了善寺 行徳 で最古 の寺である。足利持氏 の家 臣といわれ る吉田佐太郎 の陣屋跡 とし て知 られ 、以前 は、水路や土塁な どの遺構 があった とい う。→今井 の渡 し跡 の 碑→今井大橋→江戸川 区へ。→香取神社→八雲神社→篠崎街道→椿通 り・ 。・ この間長 いです・ 0・ ④ 大雲寺 (役 者寺) 浄土宗 で、長行 山専称院 と号 し、京都知恩院の流れ である。元和元年 (1619 年 )二 代将軍秀忠か ら寺域三千坪を賜 つて浅草 に開 山。 の ちに本所押上に移 っ たが、大正 12年 の大震災で焼け、昭和 6年 ここに移転 した。 │1羽 左 歌舞伎役者 のお墓 が多い ことか ら「役者寺」 とも呼ばれています。市り 衛門 (初 代 か ら十六代)、 板東彦三郎 (三 代 か ら六代)、 瀬川菊之丞 (初 代 か ら五代)、 松本幸 四郎 (四 代 か ら六代)、 中村勘二郎 (初 代 か ら十三代)な ど の名優 のお墓があ ります。 tV》 21 -之 江名 主屋 敷 この屋敷 は 、江 戸 時代初頭 以来 、 一之 江新 田 (現 在 の江戸川 区春 江 町 )の 名 主 を代 々務 めてい た 田島 家 の住 宅 です。 田島家 は も とも と堀 田姓 を名 乗 る武 家 で 、初代 田島図書 (ず しょ)は 堀 田図書英丈 といい 、 関 ヶ原 の戦 い で 豊 臣方 と して参戦後 、関東 に 下 り、大杉村 の 田島庄兵 衛 方 に寄 寓 し、 田島 図書 と して 改 名 して この 地 の 開発 に当た っ た 人物 と伝 え られ てい ます し 田島家 は元禄 年 間 (1688∼ 1704)に は既 に名 主 を務 めていて 、江 戸 時代 を通 じて 、代 々名 主役 を世 襲 して きま した。主屋 の建 立 は 、安 永年 間 (1722∼ 1781) 頃 と推 定 され 、江戸 近郊農 村 の名 主屋 敷 の風 格 を伝 えて い ます 。 敷 地 の周 囲 に は堀 が巡 らされ 、約 2000坪 の敷 地 内 に長屋 門 曲 り屋 造 の 主屋 、蔵 な どの建 物 、 庭 、屋 敷林 、屋 敷畑 (跡 )な どが あ り、裏 手 に屋 敷神 の稲 荷 も祀 られ てい ます。 22城 立 寺 城 立 寺 は 、本 高 山 と号 し千葉 県松戸 市平賀 にあ る本 土寺 の末 寺 で 、 開基 は元 和 二 年 (1616年 )と い われ てい る。境 内 にあ る鬼子母神 堂 には 、伝 教 大 師 の 作 と伝 え られ る鬼子母神 像 が 祀 られ て い る。名 主屋 敷 の 田島 家 の菩提 寺 で もあ る。 です。歌 うことは歩 くことと並んで健康に良いです。 好評の「花のお江戸 :青春歌露」 ●Ill山 脈◆ 1.若 くあかるい 歌声に 雪崩は消 える 花も咲 く 青い山脈 雪割桜 空のはて 今 日もわれ らの 夢を呼ぶ 2.古 い上衣 よ さようなら さみ しい夢 よ さようなら あこがれの 旅 の乙女 に 鳥も暗 く 青い山脈 バラ色雲へ 3.雨 にぬれてる 焼けあとの 名も無い花も ふ り仰 ぐ なつかしさ 見れば涙が またにじむ 青い山脈 かがや く嶺 の 4.父 も夢見た 母も見た 旅路のはて, その涯 の 青い山脈 みどりの谷へ 旅をゆく 若いわれ らに 鐘が鳴る ◆ilン ゴ0歌 ◆ 1 赤い リンゴに 日びるよせて だまつてみている 青い空 リンゴはなんにも いわないけれど リンゴの気持は よくわかる リンゴ可愛いや可愛いや リンゴ 2 あの娘(こ )よ い子だ 気立てのよい娘 リンゴによく似た かわいい娘 どなたが言つたか うれ しい うわさ かるいクシャミも とんで出る リンゴ可愛いや可愛いや リンゴ 3 朝のあいさつ タベの別れ い としい リンゴに ささやけば 言葉は出さずに 小くびをまげて あすもまたネ と 夢見顔 リンゴ可愛いや可愛いや リンゴ 4 リンゴの歌を 二人で歌 えば なおたのし みんなで歌えば なおなお うれ し リンゴの気持を 伝 えよか リンゴ可愛いや可愛いや リンゴ 歌いましょうか (8)
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