F ´ 有機農業研究年報 Vol.6 2006412月 コモンズ や つ 耕作放棄谷津田の復田過程 に関す る研究 かみなが 一一茨城県阿見町上 長 地区 うら谷津 にお ける実践事例報告一= 鈴木麻衣子 竹崎善政 ・ 五月女忠洋 。 藤枝優子 ・ 田上耕太郎 。 中島紀一 ・ 耕作放棄農地や管理放棄林地 (以下では耕作放棄地等 と略記)は、山間地域 だ けでな く都市近郊地域 において も急激に拡大 しつつある。 この報告 は、都市近 郊地域 において、耕作放棄地等 の再生にむけて 自然共生的な農村空間の形成 を 図 ろ うとす る地元農家 と市民 の協働 プロジエク トの実践事例 を取 り上げ、その 実施過程 で直面 した技術的 ・政策 的諸問題 とそ こで模索 された対処方策 の概要 にういて、取 りまとめたもので あ る。 対象地域は、茨城県稲敷郡阿見町上長地区にあ る うら谷津 と呼 ばれる耕作放 棄 の谷津田で、対象 プロジェク トは耕作放棄谷津 田の再生に取 り組 む 「うら谷 (と 津再 生委員会」(代表 :飯野良治氏)の活動 である。なお谷津 田 とは、茨城県 くに霞 ケ浦流域地域)や千葉県 (とくに北総地域)の台地地帯 に発達 した、_特徴 の あ る水 田の地方名 であ る。標高 20∼30五程度 の台地面 に、掌状 に開析 された 小 さな谷状地形 に沿 って開田 された もので、 この地域 の水田の一つの基本 的類 型 をな している。 1 対象地域とプロジェクトの概要 1)対 象地域の概要 近年、茨城県で も耕作放棄地等 は急速 に増加 しつつある。茨城県は中山間地 域 を多 くかかえる県北地域、農業が盛んな県央 ・県西地域、首都圏の外縁部 に 位置 して都市化が進行す る県南地域に区分 される。耕作放棄地等の広が りは、 県北地域 と県南地域においてと りわけ顕著 となってい る。図 1に 2000年の茨 城県内各市町村の耕地利用率 を示 した。県北山間地域 と並んで、県南の阿見 町 167 も耕地利用率 が と く 耕地利用率 ‐ に低 い。県北山間地 75%未 満 棄 辱1群 熙III務 I 195%以 上 域 の 美和 村 の 6 8 . 2 %、 緒川ホ すの 71.8% に続 い て、72.2%と ワ ー ス ト3 位 で あ る。耕作放棄地面積 の正確 な把握 はたい へ んむず か しいが、 阿見町農業委員会 の 調査 に よれ ば 02年 の 遊 休 農 地 は 711 ha、農地 の総面積 に 5% 対す る比率 は 25。 だ。 ,県 南地域 にお け る 耕作放棄地 の広 が り 図1 茨城 県 の市町村別耕地利用率 (出典)『 2000年茨城県農林水産統計年報J。 は、地域農業 の空洞 化 によるもの と言 え ・ る。 この地域 は 1970年代 から80年 代 にかけて、首都圏の生鮮野菜需要 に対応 した活力ある露地野菜地帯 として発展 した。 しか し、80年 代 以 降 になると地 域全体が都市化 と開発志向 に転換 し、農業の活力 は急速 に失 われてい く。バ ブ ル経済 の崩壊以降 は、都市的開発 のス ピー ドは鈍 化 し、農地 は壊廃 されず に 残 ってはいるが、地域 の営農体制 は崩れたままとい う状況 となっている。 しか し、開発 のス ピー ドが鈍化 したとはいえ、開発志向が消えたわけではな く、開発 の潜在的圧力下 にあ る こ とに変 わ りはない。農地や林地 を含 む 自然 は、かな り消滅 して しまっている。そうしたなかで 田園都市的地域 ビジョンの 視点か ら望 まれる耕作放棄地等 の対策 は、単なる耕作復元ではな く、自然保全 。自然調和型農業 の形成 とい う方向であろ う。 うら谷津再生プロジェク トはこ う した地域課題 に応 えることを課題 として、地元農家 。市民 ・茨城大学が協働 して 自然共生型の耕作放棄地再生を図ろうとす る取 り組みであ る。 168 2)う ら谷津再生プロジェクトの概要 うら谷津 は、阿見町のほぼ中央部 にある約 5 haの谷津田(一次谷津 。谷津 頭) である1〉 。 ほとんどが耕作放棄 され、30年近 くが経過 してい る。 その周辺 には 平地林が広がってい るが、やは り管理放棄が大勢 を占める。 約 30 haの うら谷津 の土地利用 の状況 を図2に示 した。細長 く続 く谷津 田の両側 に用水 見沼 路が、中央部 に排水路 が掘 られている。 よ く知 られてい る見沼代用水 の 「 田んぼ」(さいたま市)と類似 した形状である。水田枚数 は約 80枚 で、03年 の段 階で耕作水 田は 3枚 のみであ つた。関係地権者 は 22名 でt地 元集落在住者が 大半 を占める。水田作土の土壌型 は湿性 クロボク土で、20∼30 cm以下 は地元 で 「 ケ ド」 と呼 ばれる泥炭土層 である。 03年 10月に、地元地権者有志 か ら再生利用 につい て茨城大学 に相談 があ り、両者 の協力 で 10年計画 の再生プロジェク トが ス ター トした。計画 の趣旨 は、地域 の 自然条件 を生か し、土地利用 の過去の経過 を尊重 し、行 きつ戻 りつ しなが ら、ゆっ くり時間 をかけて進めてい くとい うものである。机上の計画 を 優先 させるのではな く、実情 に則 して、時間をか けて取 り組 む点が留意 されて い る。耕作放棄地問題 には複雑 な背景がある うえ、農業 と自然が融合調和 した 図2 うら谷津 の土地 利用 の状況 (阿見町上長地区) く研 究 ノ ー ト〉 耕 作 放 棄 谷 津 田 の 復 田過 程 に 関 す る研 究 1 6 9 再生 の模索 は未経験 の新 しい課題 であるため、前向 きに進 めるには時間をかけ イ ることが と くに重要 だと考 えたのである。 プロツエクトでは、まず、通行不能になっていた農道の草を刈りt生物調査 を実施した。その結果、後述するように絶滅危惧種など8種類の希少生物の生 息が半J明した。続 いて o4年 度に源流近 くに 1枚 を復 田 し、o5年 度 には 2枚 を 復田。赤米 (モチ)、羽二重 モチ、黒米 (モチ)などを作付 け し、耕作放棄 の 畑地 に 自給畑 を拓 いた。o6年 には さらに 2枚 を復 田 し、自然 共生型 の市民農園を 開設したほか、平坤林の風倒木や間伐材を利用 した手作 り小合の建設などの計 画もあるo農 業再生計画については、有機農業を原則としている。 プロジエクトの参加者は、地元農家、市民グルニプ、進出企業、小学校、聾 学校、茨城大学有志などである。プロジェタト経費は主として、復田した水田 から収穫された米(モチ 。赤米など)の販売代金でまかなわれる。 2 谷津田源流 (谷津頭)の地域環境論的意義 谷津田の源流地を対象 とした 自然再生活動 とい う点に、 このプロジェク トの 地域環境論 の視点か ら見た独 自の意味がある。 ,こ こで、霞 ヶ浦流域における谷 1)。 津田源流の位置 と役割 についそ少 し述べ てお こう「 日本第 2‐ の湖沼である霞 ヶ浦 は、琵琶湖な どとは 自然立地を異に している 。 陥没地形 に山岳性河川が流入 して形成 されたのが琵琶湖である:そ れ に対 し て、霞 ヶ浦 の場合 は大河川河口に形成 された閉塞潟 であ り 、水涼 は山岳 (筑波 山)だけで な く、広 大 な関東 ローム台地 (稲敷台地など)も重要な位 置 を めて 占 いるё台地の水源 はほぼすべ てが谷津田である。 台地 に降 った雨 は土に浸 み込 み、土壌水 とな り、浅い地下水 となって、谷津頭 に絞 り水 (土の から 中 少 しずつ 浸み出 してはわずかな水が集まって小さな流れとなったもの)や湧水 として 表出す る。 │う した絞 り水 や湧水 を集 めて水源 と し、谷津田が拓かれて きた。谷津頭 ャ谷津田の側面からの絞り水や湧水は容津田を潤し、循環的に反復利用されな がら地域に面的な水環境を形成してぃる。 谷津頭および谷津田周辺は水源林で囲まれ、湿地や水場的条件も形成され て、鳥類をはじめとするさまざまな野生生 が集まってく る。鳥類によってさ 物 まざまな種も運ばれてくるので、植生豊かな自然環境が形成されてきた。ま 170 図3 阿見町 の谷津 田の 分布 ( 注) 黒塗 りの部分が谷津田である6 た、都市的開発 には馴染みにくい地形なので、地域 のなかでは緑 を残す場所 と 二 して も位置づ け られ ている。谷津 田、なかでも 次谷津、 さらには谷津頭 は、 開発 が進 む霞 ケ浦流域にあつて、源流的自然環境地域 として重要 な位置 を占め てい るのである。 こう して拓 かれた谷津 田は、大型機械化農業の時代 に入 つて土地条件が劣悪 と評価 され た。前述 の ように、地形 的 に都市的転用 もむずか しく、結果 とし て、現代 ではもっとも価値 のない土地 として見捨 てられることになる。図 3に 阿見町 における谷津 田の分布 を示 した。阿見町 には 182本の一次谷津 がある が、半数以上 は耕作放棄状態である。 また、 次谷津 の源流 (谷津頭)に関 して (1〕 一 は、77.5%が耕作放棄地 となっている 。 この台地地域にはかつて広大 な平地林が存在 していたが、普通畑作地域から 露地野菜産地べ と展開す る過程 で、林地の伐採 と開畑が広がる。そ こでは、 ト く研 究 ノ ー ト〉 耕 作 放 棄 谷 津 田 の 復 田 過 程 に 関 す る研 究 1 7 1 ラクタでの徹底 したロー タリー耕、化学肥料 や農薬 の大量使用が進む一方 で、 土づ くりの取 り組みはなかなか進 まず、麦の作付けが大幅 に減少 して、冬季 に は軽い火山灰土壌 が風 で舞い上が り、土 の嵐― のようになるといった状況が生 じ ていた。 こうしたなかで、自然地域 の縮小 と地域 の 自然 から切 り離 された農業 の拡大、地域環境 のバ ランスか ら見 れば過耕作 ともい うべ き状態が生 じたので ある。 このような地域 開発史 を経 て進行 した地域農業 の空洞化 と耕作放棄地の拡大 は、農業論的には深刻 な後退現象 である。他方、地域 自然論 からすれば、農外 転用 よ りもず っとま しなことであ り、ある種 の 自然回復過程 とも位置付け られ る。 こうした複眼的視点から考 えると、耕作放棄谷津田 を農地利用 と自然保全 の両者が融合、調和 した空 間 として再生 させてい くとい うこの プロジェク トの 課題設定 は、地域環境論 として も重要 な意味 をもっ。 また、耕作放棄地 の広が りに象徴 される ように農林地の維持管理 についての 農家の力が減退す る一方で、地域 の農林地保全へ の非農家市民 の関心 は高 まり つつあ る。阿見町の農家人 口比 率 は 11.9%で (2000年)、非農家人 口が圧倒 的 多数 となってい る。上述のような農業 と自然が融合調和 した形 での耕作放棄地 再生の方向は、農林地保全 に関心 を寄せる非農家市民 の支持 と参加 を期待 で き るあ り方だと考 えられる。それは、霞 ケ浦流域 の環境政策論 において新 しい見 地 といえるだろ う。 3 谷 津 田 の 耕 作 放 棄 が 地 域 生 態 系 に及 ぼ す 影 響 耕作放棄は地域 自然論的には自然回復過程 と位置付けられると述べ たが、自 然回復の過程 はそれほど単純ではない。先 に述べ たように、谷津田は霞 ケ浦源 流の自然条件を生か して人為的 に形成 されてきた農業的自然であ り、そこで農 業が崩れることはt形 成されて きた地域自然の構造が崩れることを意味 してい る。 とくに、霞ヶ浦流域環境 の心臓部 とも言 える谷津田源流の耕作放棄は自然 論 として も大 きな問題点をもつ。阿見町における耕作放棄谷津田を観察 してみ ると、自然の現況 として次の 3点 を指摘で きる。 ①乾燥化の進行 谷津田は湿潤湿地地形 と考 えられがちだが、耕作放棄谷津田の多 くは著 しく 172 乾燥化が進 んでいる。乾燥化の指標 としては、セイタカアワダチソウ優先植生 があげられる。それは、元来むしろ水利 に恵まれない乾燥型の地域である谷津 こと 田を開田 しく水田耕作 していたからこそ湿地的自然環境が形成 されてきた め反証ともいえよう。阿見町の谷津田源流(一次谷津の谷津頭)の耕作放棄地に 9 %で あつ 乾性植生優先地は73。 つぃてみると、湿性植生優先地は26.1%、 1)。 た〔 ②希少生物の生息 と生物多様性の確保 表 1に うら谷津で確認 された希少動植物種 を示 した。水田のほとんどは基盤 整備が完了 し、農地 とその周辺からは里地里山的生物の姿は消 えた。 しかし、 の 耕作放棄谷津 田は未整備である事情 もあつて、ホ トケ ドジ ヨウやメダカなど 里地里山的希少生物が生 き残 っていることが確認 されている。 表1 動 うら谷津 で確認 された希少動植物種 植 物 物 ホ トケ ドジ ヨウ 絶滅危惧 IB類 イチ ヨウウキ ゴケ 絶滅危惧 I類 メ ダカ 絶減危惧 Ⅱ類 ミズ ニ ラ 絶減危惧 Ⅱ類 カヤネズ ミ 茨城県希少種 コイヌ ガラシ 準絶 滅危惧種 ヒ タチチ リメ ンカ ワニ ナ 茨城県希少種 ミズ ワ ラ ビ 茨城県希少種 ③帰化移入生物による生態系の圧迫 ` 水系においてはアメリカザリガニが圧倒的優先種 となり、わずゃに生存 レ下 いる希少生物を圧迫し、生物多様性を破壊 してきている。阿見町の谷津田源流 (一次谷津の谷津頭)の耕作放栞地についてみると、セイタカアワダチソウ優先 〔 ° 地は46.7%を占めていた 。農業 と自然の融合調和の方向で耕作放棄谷津田地 い 域の再生を図ろうとしたとき、まず問題になるのは、圧倒的優占種 となって るセイタカアワダチソウとアメリカザリガニをどのように抑制 し、地域の在来 的自然植生を回復 してい くのかであろう。 4 耕作放棄谷津 田の復 田過程で観察 された技術的諸問題 谷津田の耕作放棄がもたらす自然論的構造 と問題点 を以上のように把握 した この点に 場合、そ こか ら引 き出される再生へのプロセスはどうなるだろうか。 〈研 究 ノー ト〉 耕作 放棄谷 津 田 の復 田過程 に関す る研 究 173 ついて 「うら谷津再生委員会」 では、あらか じめ再生へ のシナリオを定めるの ではな く、時間をかけた少 しずつの取 り組みのなかで地域 の生態系 の動 きを見 定めつつ、徐 々に土地に則 したシナリオを探 し出 してい くとい う態度 で臨んで きた。 藪 を刈 って道 を拓 き、自んぼに密生す るセイタカアヮダチソゥを刈 り払 うこ とから作業 を始めた。最初に直面 した課題 は、セイタカアヮダチソウの抑制 と 在来型の植 生回復 をどのように図るかである。草刈 りだけではこの課題 の解決 にはな りに くい ことが、2 0 0 4 年2 月 か らの 1 年 目の取 り組 みで はっ き り し た。 復田は 04年 4月 から、開畑 は 05年 4月 か ら少 しずつ取 り組 まれているが、 その植生 コン トロール機能の大 きさには驚 かされる。復 田 と開畑 でセイタカア ワダチソウはほぼ完全 に姿 を消 し、農耕 のあ り方や程度 に対応 して、 コナギや セ リなどの水田雑草、アカマ ンマやエ ノコログサなどの在来 の乾生雑草、 ヨシ やガマ などの在来の湿生野草な どバ ラエ テイに富 む植生が形成 されることも判 明 してきた。さらに、後述 のように復田 と開畑 一年 目の作物 の生育 はきわめて 良好であ ることも確認 された。要す るに、耕作放棄地の植生管理 において、部 分的であ って も農耕 の回復 の意味 は きわめて大 きい とい うこ とである。 ただ し、 アメ リカザ リガニ に関 しては当面、捕捉 ・回収以外 に有効な手段が 見つけ られていない。現在、平飼 い養鶏の飼料、食用などの用途開発 が試み ら れている。 小面積 であって も、復田は耕作赦 棄谷津田 に面的水環境 を創 り出す。復田に よつて地下水位は上昇 し、絞 り水 が復活 し、セ イタカアヮダチソウ群落 は、 ヨ シ、マコモ群落、あるいは草丈 の低い複合的 な湿性野草群落へ と変化 した。 な お、「うら谷津再生委員会」 ではt耕 作放棄谷津田のすべ てを復 田する計画 を もっているわけではない。最終的には、1/3∼1/4程度 の復 田が輪換的 に実現 で きればよいのではないかと考 えている。 この地にも半世紀 ほど前 までは、林地 と畑地 の 30∼40年 サイクルの輪換利 用 (マッー陸稲など)に よる移動耕作が ご く普通 に存在 していた。移動耕作方式 による耕作放棄地再生 とい う構想 は、かつての伝統的土地利用 の知恵 にも学 ん でいこうとす るものである。 まだ端緒的な取 り組 み段階ではあるが、 こうした 意味をこめた復田作業 のなかか ら明 らかになって きた技術 的問題点について、 174 以下に紹介 したい。 ①用水 の確保 うら谷津 の場合、すでに深井戸用水 に切 り替 えられてお り、復 田の当初 はそ れを使用 した。 しか し、耕作放棄谷津田での深井戸用水 の維持管理 は経済的 に 相当な無理がある。谷津田本来の水循環 を再生 したい とい う思 い もあ って、地 域 の 自生的用水 の開発確保 を模索す ることにした。 そ こであらためて気付 いたのは、当地 の谷津田には確 かな水源がない とい う こ とだ。 うら谷津 には溜め池 はな く、田を十分 に潤すほどの湧 き水 もない。 し か し、谷津田の両倶1に掘 られた小 さな水路 には、谷津頭付近についてはわずか な流水 があった。それは谷津田 を囲む水源林 からの流れである。水 源林 を調べ てみると、かなり奥 まで開削 された小 さな水路が確認 された。 これをわれわれ は谷津田の 「 集水堀」 と名付けた。 また、谷津 田 と水源林が接 してい る小 さな 斜面 の際 に溝 を掘 ると、かな りの絞 り水 が出て くることも判明 した。 こう してわか って きたのは、わずかな、 しか し、地形 によって構造的につ く られてい るとい う意味 で安定 した絞 り水 をていねい に集めるのが谷津 田の水源 の仕組 みであるとい うことだ。 また、 こう したわずかな絞 り水 を灌漑用水 とし て有効 に利用す るためには、ツト 水路 を堰上げ して谷津 田全体 の地下水位 を上昇 させる ことが有効 である。 ②水 田構造 の構築 畦畔 はすでに消滅 していたので、セイタカアワダチソウを刈 り払 い機 で整理 し、痕跡 に沿 つて畦畔 を再建 した。そ して、耕萩後 に湛水 し、代掻 きをした。 長 く乾燥化が進 んでいたので、耕紙 と荒代掻 きは トラクタで行 えたが、それ以 降は トラクタを入れ られない。湛水 のための耕盤 (透水性が小 さな土層)がほぼ 完全 に消滅 していたため、漏水 が激 しく、植代掻 きは人海戦術 で、足踏みによ る床締 めを行 った。作土中にはセイ.タカアワダチソウの根株 が大量 に残 されて いたが、そ こからの発芽 はほとんど認められず、雑草の根株 の残存 による稲ヘ の悪影響 も認められなか った。 ていねい な代掻 きとできるだけの耕盤形成が、安定 した復田のための基礎条 水路 の堰上 げによる地下水位 の上昇 も、谷津田耕作 の不可 件 であ る。 また、リト 欠の技術要素である。 ③ 地力 と施肥 く研 究 ノ ー ト〉 耕 作 放 棄 谷 津 田 の 復 田過 程 に 関 す る研 究 1 7 5 耕作放棄 はすなわち植生による地力蓄積 の過程 で もあ り、耕作放棄地 は著 し く地力条件 に恵 まれていた。o4年 ∼06年 のプロジェク トの経験 によれば、完 全無肥料 で も旺盛 な稲 の生育 が実現 した6確 認 された最大 の分 けつ本数 は 83 本 であるも復 田 3年 目で も地力窒素の発現 は著 しく、無肥料 で も窒素過多 の様 相 を示 してい る。 ④栽培様式 このようなややワイル ドな生育環境 においては、稲個体がた くましく生育す ることが重要 で あ る。そ こで、超薄播 (育苗箱 1箱 10g播 )。疎植 (坪30株 )・1 株 1本 植 え 。深水 の栽培様式 を採用 した。残念 なが ら、用水確保が十分 ではな く、常時深水 は実現 で きなか ったが、成育 は順調 で、病虫害 の被害 もなか っ た。作付 け した品種 は、 コシヒカ リ、羽二重モチ、赤米、黒米。赤米 と羽二重 モチの生育が もっともよ く、 コシヒカ リと黒米 はそれ よ り劣 っていた。生育 は 復 田 1年 目が もっとも良好 で、2年 目以降 は しだい に稲熱病 (イモチ病)、紋枯 れ病 の部分的な発生など独特 の問題が生 じた。 ⑤雑草対策 乾燥環境 で長 く経過 し、セ イタカアワダチソウなどの野草優先 の植生下に長 くおかれてきた耕作放棄谷津田では、 コナギ、 ヒエ、オモ ダカ、ホタルイなど の通常 の水田雑草 の発生ばきわめて少 ない。復 田 1年 目は、完全無除草 での栽 培 が可能であ った。 ヨシ優先植生だった場所 で も、 ヨシ も含 めて雑草発生はほ とんど認 められなかったも しか し、復 田 2年 目になるとコナギ、セ リ、アメ リ カセ ンダングサなどの発生が認 められ、 コナギやセ リの発生水田では除草が必 要であった。 この プロジェク トが 志向 してい るよ うな 自然共生型 の谷津 田再生 にお いて は、農耕 を介在 させた草生地の生態系 コン トロール とい う視点が重要 となる。 そのため、セ イタカアワダチソウなどの侵入優先野草、在来の乾性あ るいは湿 生の野草、農耕地 の雑草 などの概念的区分 とそれぞれが優占種 となってい く条 件、相互 の関係 の解明 と整理が、 と くに意味 をもつ と考 えられる。 L》 《だ 1)台 地から流れ出した最初の谷 に開かれたものを 次谷津、一次谷津 と一次谷津が 一 合流 した地点 よ り下流部を二次谷津、二次谷津 と二次谷津が合流 した地点より下 176 流を三次谷津と呼称している。また、一次谷津の原流部分を谷津頭と呼称してい ・ る。 《参考 文献》 . i由 茨城県 上耕太郎 :藤枝優子 ・竹崎善政 。鈴木麻衣子 「 1〕申島紀■ ・五月女忠洋 ・ 〔 「 茨城大学農学部 フイエル ド 阿見町における谷津田源流の土地利用の実態(2006)」 サィェンス教育研究センター報告』1号、2006年。 ¨ 籠 . 一 ´・ ト潮 作晟棄 蓉 澤 日 の復 由過 程 に 関す る研 究 177 く研 究 'ニ
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