更埴条里水田址 油田地点 - 長野県遺跡資料リポジトリ

長野県千 曲市
更埴 条 里水 田址 油 田地 点
一平成18年 度 県営ため池等整備事業に伴う発掘調査報告書 一
2007
千曲市教育委員会
千 曲市 の位 置
例
言
次
例言 。目次
2
本書 は、平成18年 度 県営 ため池等整備事業に
伴 う埋蔵文化財発掘調査報告書 であ る。
本書 の執筆 ・編集 は寺島が行 った。
3
調査 は、千曲市教育委員会文化課が主体 とな り、
第 2章
文化財係 が担 当 した。
第 3章
宜
第 1節
第 2節
保
隆
第 3節
幸
一
第 4節
千 曲市教育委員会事務局
教 育長
安
西
嗣
教 育部長
塚
田
金
文化課長
井
第 1章
調査 の概要 …………………………‥… … … … … …1
調査 日誌 ……‥……………………… … … … … …2
遺跡 の環境 ……‥………………… … … … … … …3
遺構 と遺物 ………………………… … … … … … …4
調査 の方法 ‥…………………… … … … … … …4
基本層 序・……………………… … … … … … …4
水 田跡 …・………………………… … … … … …6
溝状 遺構・………………………… … … … … …7
ま とめ ………………………………… … … … … …8
文化財係 長
矢
島
宏
雄
第 4章
文化財係
小
野
紀
男
写真 図版
寺
島
孝
典
報告書抄録
本文 中 の遺構 及 び遺物実測 図 の縮尺 は原則 的 に、
下記 の とお りで あ る。
溝状遺構
1:60
1:8
木製 品実測 図
本文 中 の 図版 の座 標 地及 び方位 は、 平面直角座
標系 第 Ⅷ 系 で示 して い る。
調査 に よつて 出土 した遺 物 の ほか 、実測 図 。写
真等す べ ての 資料 は、千 曲市教 育委員会 で保管
して い る。
なお、 出土遺物 には調査 記号
保管 して い る。
(ABR)を 付 し、
第 1章
調査 の概要
千 曲市大字屋代 ・森 ・雨宮地籍 に至 る広 い範囲に所在す る更埴条里水 田址 は、主 に平安時代初期 の
埋没水 田跡が検 出され る地域 で ある。
平成 18年 5月 31日 、長野地方事務所 よ り千 曲市立東小学校 グラ ン ドの一角 に、既存 の用水路 を利用
した親水公 園の建設計画がある との連絡があ った。
当該地 は更埴条里水 田址範囲内に位置 し、近 隣 におい て過去 に発掘調査が実施 されてお り、平安時
代 の埋 没水 田跡が検 出 されてい る。 この ことか ら、今 回の開発予定地 におい て も同様 に埋 没水 田跡 の
存在 を予想 で きたため、記録保存 を 目的 とした発掘調査が必要 となった。
平成 18年 6月 20日 、文化財保護法 に基 づ く第94条 の通知が提 出され、平成 18年 8月 1日 、長野地方
事務所 と当該事業 に係 る保護協議 を実施。平成 18年 8月 14日 、長野地 方事務所長
堀内清司 と千 曲市
宮坂博敏 との間で発掘調査業務 に係 る委託契約 を締結 した。
長
当該事業 は市 立東小学校 グラ ン ド脇 を東西 に流れる用水路改修 を含 めた親水公園の建設 で、長 さ約
100mに 及 ぶ細長 い トレンチ状 の調査 となる。
発掘調査 は、平成 18年 9月 25日 か ら開始 した。調査 は東側 か ら着手 し、平成 18年 10月 26日 に現場 に
お け る作業 をすべ て終了 した。
整理調査 は、平成 19年 1月 4日 か ら着手 し、平成 19年 3月 30日 、当該事業 に係 るすべ ての調査 を終
了 した。
1
2
3
4
5
6
7
8
調査遺跡名
所
在
地
更埴条里水 田址
油 田地点 (千 曲市遺跡台帳ヽ 29 調査記号 ABR)
千 曲市大字森 304番 地 1
ほか
土地所有者
千 曲市長
調査原 因
平成 18年 度
事業委託者
長野県長野地方事務所長
事業受託者
千 曲市長
調査 の内容
発掘調査
調査面積 340だ
調査期 間
発掘調査
平成 18年 9月 25日 ∼平成 18年 10月 26日
整理調査
平成 19年 1月 4日 ∼平成 19年 3月 30日
宮坂博敏
県営 ため池等整備事業
調査費用
10
調査主体者
千 曲市教育委員会
事
文化課文化財係
局
堀内清司
第
1-6工 区排水路工事
:
宮坂博敏
9
務
埴科 4期 地区
2,400,000円
(事 業者全額負担)
調査担当者
文化財係
調査参加者
小林直文 。高野貞子 ・竹之内常秋 。中村文恵 。間嶋今朝雄 。宮澤満希男
寺 島孝典
柳沢君雄 。米沢須美子
11 種別 。時期
水 田跡
12
検 出遺構
平安時代 埋没水 田 1面 (畦 畔11条 。溝状遺構 1基 )
13
出土遺物
土器片 。木製品 。木材
平安時代
古墳時代 ∼平安時代
-1-
コンテナ 2箱
調査 日誌
9月 25日 0
バ ックホ ー に よる表 土 掘 削。
(∼ 28日
9月 26日 の
9月 27日 ③
まで )
東 地 区 の遺構 検 出作 業 開始。
1号 畦 畔検 出。
9月 28日 内
東 調査 区、全 体写真 撮 影 。
9月 29日 ⑥
西調査 区 の遺構 検 出作 業 開始 。
2日 0)
降雨 に よ り用水 路 が増 水 し現場
10月
水 没 。終 日排 水 作業 。
10月
4日
Q
バ ックホー による表土掘削 (9/26)
2号 畦 畔 ∼ 3号 畦 畔 間、写真撮
影。
10月
6日 ③
降雨 。 用水 路 が溢 れ現場水 没 。
排水 作 業 (∼ 9日
10月 11日 ③
)
3号 畦 畔 に並行 す る溝状 遺構 検
出。
10月 13日 ⑥
4号 畦 畔西側 写真撮 影 。
10月 16日 個)
4号 畦 畔 に直行 す る畦 畔 (5号
畦畔 )検 出。
10月 17日 ω
水 田面検 出作 業 。溝状 遺構 掘 り
下 げ開始 。
10月 18日 ●
作業風 景 (9/29)
測量杭 設定 。東調 査 区、平安水
田面下 層調査 。
10月 19日 ω
溝状 遺構 掘 り下 げ。
多 くの 木材 が 出土す る。
10月 20日
0
溝状 遺構 内か ら杭 列 出土 。
出土状 況写真撮 影 。
西調 査 区、全体 写真 撮 影 。
10月 23日 帽
)
溝状 遺構 掘 り下 げ。
溝状 遺構 平 面 図作 成。
10月 24日
lxl
降雨 に よ り現場水 没 。
東小学校児 童発 掘現場 見学 会 (10/26)
本 日予 定 して い た東 小 学校児 童
の現 場 見学 会 を26日 に延期 。
10月 25日
③
杭列検 出 中 に壁 崩 落。
10月 26日
ω
東 小学校 児童 発掘現場 見学会 。
土層 断面 図作 成。基準 点測量 。
溝状 遺構 遺物 取 り上 げ。
本 日を もって現場 にお ける発 掘
調 査作 業 を終 了す る。
-2-
第 2章
遺跡 の環境
千 曲市 の北部、千 曲川右岸域 一帯 に広が る更埴条里水 田址 は、 昭和 30年 代 に実施 された学術調査 に
よ り、条里制地割 りによつて 区画 された平安時代 の水 田跡が埋没 してい ることが判明 し、長野県内で
も有数の広大 な生産遺跡 と して周知 されてい る。 また、近年実施 された多 くの発掘調査か ら、古墳時
代 か ら縄 文時代 に至 る集落遺跡 も展 開 していたことが 明 らか となって きてお り、当該地が人 々の居住
域 として、あるい は生 産域 と して長 い 間活用 されて きた ことがわかる。
今 回調査 区全域 にわたって検 出された水 田跡 は、仁和 4年 (888)に 起 こった千 曲川 の大洪水 による
土砂 に被 覆 された平安時代初期 の水 田跡 とされてい るが、時代 を明確 に裏付 け る遺物等 の 出土が期待
で きない水 田跡調査 にお いて、 この被覆砂 の存在 は水 田跡が洪水 とい う自然災害 によ り埋 没 した時期
を唯一特定 で きる もので あ り、更埴条里水 田址 のみ な らず、千曲市力石条里遺跡群や更埴条里水 田址
の対岸 に位置す る長野市石川条里遺跡群な どで も同時期水 田へ の洪水砂 の被覆が認 め られてお り、当
該地 を襲 った洪水が大規模 な ものであった ことを うかがわせてい る。
今 回の調査 地点 は、北緯36度 32分 27秒 、東経 138度 08分 46秒 付近 に位置 し、更埴条里水 田址範囲内で
は最東端 にあたる。周辺では過去 に森地区農業集落排水処理場建設 に伴 い発掘調査 (高 月地点)が 実
施 されてい る。
高月地点 の調査 にお いて、平安時代埋 没水 田跡 の下層に古墳時代 か ら弥生 時代 にか けての水 田跡 の
存在 が推 察 されてい る。 また、長野県埋 蔵文化財 セ ンターが実施 した上信越 自動車道建設工事や北陸
新幹線建設工事 に伴 う発掘調査 な どで も古墳時代 もしくは弥生時代 の水 田跡が確認 されてお り、当該
地域周辺が長 きに渡 って水 田を営 んでい た形跡が た どれてい る。
第 1図
調査地位置図 (1:5,000)
-3-
第 3章
第 1節
遺構 と遺物
調査 の方法
今回の調査 は、用水路の改修 を含 めた親水公園の建設工事 に伴 うもので、保護対象面積 は610ぷ で
あったが、公園 として造成す る部分 についてはグラン ドから水路 に向か う斜面 とな り、深部へ の掘削
は行 われないことか ら調査対象 とはせず、用水路改修 により遺跡が破壊 される340題 について調査 を
行うこととなった。
幅が 3m∼
5mに 対 し、長さ95mを 測 る細長い トレンチ状の調査 となったが、過去の調査事例を参
考 に畦畔の位置などをある程度予測 しなが ら調査 を進めた。
なお、市立東小学校 グラン ド排水 のため作 られた排水溝が調査区を分断 してお り、東小学校 との協
議 によりこの排水溝 を残す こととなったため、分断 された調査区を便宜的に「東調査区」 と「西調査
区」 に分けて調査 を行 った。
第 2節
基本層序
調査 地 の地 目はか つ て水 田 で 、東小
学校建 設 の 際 の造成 に よ り盛 土 を行 っ
一一-3535m
て い る。
第 2図 は 3号 畦畔付 近 の北側 の壁 の
土 層 断面 で あ るが、 グ ラ ン ドか ら用水
路 に向か つて地 表面 が傾斜 して い るた
一一-353.Om
め、 グラ ン ド面 は図 の地表 か ら約40cm
上 にある。第 1層 はグラ ン ド造成時 の
盛土 で、第 2層 は旧水 田、第 3層 は鉄
分沈殿層 となる。第 4層 ∼第 6層 は砂
一一-352.5m
が堆積 してい る。砂層 は大 きく 3層 に
分 け る ことがで き、第 4層 は明黄褐色
の細 か い砂 、第 5層 は褐色 の粗 い砂 、
第 6層 は黒褐色 の粗砂 の堆積 とな り、
これ ら砂層 が仁和 の洪水砂 にあたる と
第 2図
見 られる。第 7層 は砂 と粘 土が混合 し
基本 層序
(1:20)
た層 で、洪水 によ り浮遊 した粘土が混
ざり込んだものであろ う。水田面 となる第 8層 は灰色 のかな り粘 りの強い粘質土 となるが、田面部分
と畦畔部分では僅 かに粘質性 に差異が認められる。第 9層 は黒色粘質土で30cm以 上の堆積がある。
調査 の結果、水田面が西に向か うにしたが つて傾斜 していることが判明 し、比高差 は東西隅で約20
cmを 測 る。洪水砂 もこれに応 じて西に行 くにしたが つて厚 く堆積 してい くが、第 4層 の厚 さにそれほ
どの変化がないのに対 して、第 5層 及び第 6層 は厚 さが徐 々に増 してい く。
-4-
AI=_乳 話
驚:
―
―
薦1%
=瑠
CI=瑠
細:観
DO=瑠 麟1器
EI=瑠 聯
1%
Bφ
l
9号 畦畔
・352.27m
Fφ
Gφ =瑠
=瑠
確男:
瑞濡6
A+
35223m
西調査 区
352.29m
華
難
東調査区
352.12m
10号 畦畔
︱
・
・
・
・・
・
・・
・串
9
第 3図
全体図 (1:200)
-5-
-
110m
第 3節
水 田跡
水 田面
第 2図 に示 した第 6層 を取 り除 くと灰色粘質土の水 田面が検 出され る。表面 は凹凸が著 しく、全体
的に粘 りが強 く弾力性 がある。
水 田面 を被覆す る砂層 中か ら僅 かに土器 の 出土が見 られた。 いず れ も小破片 で 図化す る ことがで き
ないが、平安時代 に比定 される土師器 と須恵器 が出土 してい る。
1号 畦 畔
東調査 区で唯一検 出された畦畔 で、グラ ン ド排水用側溝 を残 した ことによリー部調査 で きてい ない
部分 がある。上底幅60cm、 下底幅95cm、 高 さは10cmを 測 る。方位 は N-7° ―Wを とる。
2号 畦 畔
1号 畦畔か ら西惧12mほ ど離 れた場所 に検出 された畦畔で あ る。上底幅30cm、 下底幅90cm、 高 さは
1lcmを 測 る。方位 は 1号 畦畔 と同 じである。
3号 畦畔 ・ 4号 畦畔 ・ 5号 畦畔
(溝 状遺構 )
3号 畦畔は2号 畦畔から7m西 に検出された。 1号 ・2号 畦畔に比べ14度 西 (N-22° ―W)へ ず
れてい る。上底幅30cm、 下底幅85cm、 高 さ25cmを 測 る。
4号 畦畔 は 3号 畦畔か ら僅 か lmほ ど西側 に検 出され た畦 畔 で あるが、 4号 畦畔 と 5号 畦畔 との 間
に溝状 の落ち込 みが確認 されてい る ことか ら、水 田区画 のための畦畔 とい うよ りは溝1大 遺構 を構成す
る もの と思われ る。 方位 は 3号 畦畔 と同様 となるため、溝状遺構 は 3号 畦畔 も含 めた遺構 となる可 能
性 が高 い。なお、溝状遺構 の概要 については後節 で説明す る。
6号 畦 畔
5号 畦畔 に接続す る形で東西方向 に走 る畦畔 で、西側 で 7号 畦畔 とも接続す る。上底幅25cm、 下底
幅55cm、 高 さ17cmを 測 る。一部暗渠排水 により破壊 されてい る。
7号 畦 畔
2号 畦畔か ら西 に約21m離 れた位置 に構築 された畦畔 で、1号 。2号 畦畔 とほぼ同 じ方向 となる。
上底幅60cm、 下底幅90cm、 高 さ 6 cmを 測 る。
8号 畦 畔
調査 区南壁際 で東西方向 に検 出 された畦畔 で、 7号 畦畔 と10号 畦畔 とに接続す る。上底 幅30cm、 下
底幅60cm、 高 さ12cmを 測 る。
9号 畦 畔
7号 畦畔か ら約20m西 に構 築 される。方位 も 1号 。2号 畦畔 と同様 となる。上底幅60cm、 下底幅95
cm、
高 さ13cmを 測 る。
10号 畦 畔
9号 畦畔か ら西へ約21mの 位置 に構築 された畦畔であ る。上底幅60cm、 下底幅90cm、 高 さ15cmを 測 る。
11号 畦 畔
10号 畦畔 に接続 し東西方向へ走 る。上底幅35cm、 下底幅70cm、 高 さ18cmを 測 るが、10号 畦畔 との接
続部分 が僅 かに凹んだ状 態 となるため、 この部分 が水 口になる可能性があ る。
-6-
第 4節
溝状遺構
4号 畦畔 と 5号 畦畔 との間で検 出 された遺構 で、 3号 畦畔 も当該遺構 に関 わる もの と考 える。
3号 畦畔 の西側約 lmに 4号 畦畔があ り、そ こか ら約30cm落 ち込 んだ後 5号 畦畔へ と立 ち上が って
い く構造 となる。 3号 畦畔か ら 5号 畦畔 までは幅 6m10cmを 測 る。
4号 畦畔 と 5号 畦畔間 は中央付近が僅か に窪み、底面 よ り木材 な どの 自然遺物が出土 してい るほか、
北壁際 に杭列が検 出 されてい る。
杭列 に用 い られた木材 は、 自然本 の皮 を剥 い だままの状態 で、先 を加工 した ものの他、建築廃材 を
杭 に転用 した と思われる角材 も出土 してい る。なお、杭列検 出作業 中に壁が崩落 して しまい 出土状況
等 の記録 がで きなか ったが 、遺物 は崩落土の中か ら数点辛 う じて探 しあてる ことがで きた。
当該遺構 内か らの遺物 については第 5図 に示 した とお り木製品 (木 材 )の みであ り、年代測定等 の
科学的調査 は行 ってい ないため 出土遺物 だ けでの時期比定 は難 しいが、平安時代 の埋 没水 田跡 を被 覆
す る仁和 の洪水砂 が当該遺構 に も同様 に入 り込み、溝 の底面 を被覆 してい る ことか ら、水 田跡 と同時
期 に存在 していた可能性 は高 い。 よって、出土 した木製品 も同時期 と見 てまず間違 い ない と思われる。
なお、図示 した 3点 のほか に も多 くの木材 が出土 してい るがそのほ とん どは 自然木 で あ るため、加
工状態が明瞭 に解 る もの を実測 の対象 と した。
1は 建築材 の転用 で、厚 さ 4 cm程 の板材 の一方 を削 って杭 と してい る。上部 は欠損 してい る。 2は
建築材 で あ るが、杭状 に加工 は行 ってお らず 、廃材 をそのまま転用 してい る。 2箇 所 に面取 りが行 わ
れてお り、その他 は割 ったそ のままの1大 態 としてい る。 3は 自然木 を加 工 し杭 としてい る。
当該遺構 が粘 土質 の比較的柔 らか い土質 で あ り、そ こに打 ち込む杭 で あ る ことか ら先端はあま り鋭
角 に加 工 されてお らず、 3な どは先端 を僅かに削 り杭 としてい る。
第 4図
溝状遺構実測図
-7-
(1:60)
︲
︱
皿
酬ⅧⅧ訓硼︲
︱
︱
一趙舅
―
幽
屏
黎
一開
第 5図
出土遺物実測 図
第 4章
0
20m
(1:8)
ま とめ
1.条 里 水 田 につ い て
条里制水田については昭和48年 に長野県教育委員会が編集 した 『地下に発見された更埴市条里遺構
の研究』の文章 を引用すれば、
“一般 に「条里」 とい うのは、わが国古代において、水田等の耕地 を中
心 にして行 われた典型的な土地区画である。長さ六町 (654.6m)の 幅をもって東西 に土地 を画 し、同
じ六町の幅で南北 を区切 り、 これにより碁盤 目状の基本的な地割 を行った。 この東西に拡がる六町幅
の帯状の土地 を「条」 と呼び、これに対 して南北に延びる帯状の地 を「里」 と称 した"と 記述 されて
いる。さらに、 この条里区割 りを 6等 分 した一町を「坪」 と称 してお り、 これが更埴条里水田址 で検
出されている約109m四 方 に区画 された、いわゆる大畦畔
(後
に説明)と 呼称す る区画がそれである。
「坪」の中を南北に約54m、 東西 に約21mに 細か く分割された「半折型」の水
更埴条里水田址 では、
田が存在す ることが周知 されているところであ り、今回の調査 においてもこの成果 を基に畦畔の位置
を概ね特定 しなが ら調査 を行 うことができている。
この ように、統一 された規格 によって水田を区画 している状況は更埴条里水田址 だけではな く、千
曲川をはさんだ左岸域 に展開す る長野市石川条里遺跡群の調査 においても、同様 に条里水田跡の検出
がされている。 しか も、更埴条里水田址 での坪境幅である約109mと い う規格が石川条里遺跡群で も
採用されていることは、千曲川 とい う大 きな隔た りがあ りなが らも、条里水田の造営規範が確 立され
ていた ことを如実に物語 っているものと言える。
-8-
2,畦 畔 につ い て
畦畔の大 きさを示す場合、その幅 を基 とした規模 で表 されることが多い。 この場合、畦畔の上底に
よる ものと下底によるものとがあ り、第 3章 において双方 を提示 して畦畔の大 きさを表現 したが、本
章 においては畦畔の上底幅の法量 を用いて記述す ることとす る。
これまでの更埴条里水田址の調査事例 をみると、畦畔幅は大 きく3種 類に区別することができる。
これら畦畔幅の差については、それぞれ違 った役割 を持 った ものとして理解す ることができるが、
果たしてどのような役割を持 っているのか概観 してみたい。
先述 した とお り畦畔幅には 3種 類、つ ま り、 lm以 上の大型畦畔 (=大 畦畔)、
lm未 満の中型畦畔
(=中 畦畔)、 50cm未 満の小型畦畔 (=小 畦畔)に 分けることができる。 この中で、幅が lmを 上回る
大畦畔 については、約109m間 隔で東西南北 を区切 っていることが これまでの調査 か ら明 らか となっ
ていることか ら坪境 を示す畦畔 と言えよう。 また幅が lmに 満たない中畦畔は坪内 を細か く分害Jす る
半折型水田を形成す る畦畔であることが解 る。 この 2種 類 の畦畔については、ある程度規則的に構築
され条里水田を経営す る上で欠かせない、重要な位置を占める永年的性格 を持 った畦畔 とな り得 る。
これに対 し中畦畔区画内を区切る小畦畔は、すべ てではないが畦畔の方向や区画 によつてで きる水
田面積な どが一定でな く、ある意味不規則 に区画されている。言い換えれば、耕作 の度合いに応 じて、
あるいは短年間の うちにその都度造 り変え られてい く畦畔であることが予想 される。
3.1号 02号 畦 畔 につ い て
昭和60年 度に調査 された屋代遺跡群馬口遺跡では、1号 畦畔 とされた幅2.8m(下 底幅4.lm)を 測
る巨大 な畦畔が検出されている。また、平成元年度 に調査 した同遺跡の 1号 畦畔 は幅3.7m(下 底幅
4.2m)を 測 り、昭和60年 度調査地の 1号 畦畔 と、方向や規模 などか ら同一の畦畔 として捉えることが
で きる。 このように大畦畔 として捉えられている中に明らかにその幅が突出 した巨大 な畦畔がある。
今回検出された 1号 畦畔 と2号 畦畔の関係 について、①断面及 び平面 において後世の掘 り込みによ
る畦畔上面への破壊 は見 られないこと。②畦畔間が約 2mと 水田を営 むには難 しい状態であること。
このことから一体 の もとして捉えることがで き、その大 きさから坪境 の畦畔である可能性がある。
上信越 自動車道建設工事 に伴 う更埴条里水田llLの 発掘調査 でも、同様に畦畔が 2m内 外 の間隔で並
走す る畦畔が確認 されてい る。今回の 1号 ・ 2号 畦畔のあ り方は大変似通 っているところではあるが、
馬 口遺跡で検出された巨大畦畔の範疇 として考えてよいのか、それ とも単 なる 2本 並走の畦畔なのか、
今後の研究が期待 されるところである。
4.溝 状遺 構 と杭 列 に つ い て
今 回の調査 は東西 に細 長 い トレンチ状の調査 で あ ったため、主 として南北方向 の畦畔が検 出され て
い る。 この中で 1・ 2号 畦畔は先述 した とお り坪境 を形成す る畦畔 の可能性が高 いため、そ こか ら約
21m間 隔で西 に構築 されてい る 7号 。9号 。10号 畦畔は坪内を分割す る中畦畔 と理解 で きる。
これ ら条里水 田を構成す る畦畔 とは別 に、方位 が西 に14° ず れて 3条 の畦畔状 の高 ま りが併走 し、
畦畔間 に窪 み をもった溝状遺構が検 出されてい る。
調査 の段階 で上部 か らの後世 の掘 り込み もしくは破壊 は確認 してお らず、水 田面 を被覆す る洪水砂
が 同様 に当該遺構 に も入 り込 んで い るため、水 田跡 と同時に存在 してい た遺構 で あ ると認識 してい る。
-9-
当該地 は湧水 が激 しく、加 えて老朽化 した用水路溝 の隙 間か らの漏水 も著 しか ったことか ら、常 に
水 が遺構面 を覆 ってい る状態であ り、良好 な調査成果 を得 る ことがで きた とは言 い難 いが、そ の 中で
調査 区北壁 に沿 うよ うに杭列 が確認 されてい る。
杭列 の検 出作業 中 に壁が崩落 して しまい、出土状況 に関 して写真 以外 の記録が残 せ なか ったのは残
念 であ るが、調査 中の所見 と出土遺物 の様相 を総合 す ると以下の とお りとなる。
杭列 は20cm∼ 30cm間 隔 で溝状遺構 に直行す る形 で打 たれて い る。調査 区壁 に突 き刺 さる ような状態
で検 出されてい るため、そのほ とん どが調査 区域外 となって しまい詳細 は不明で あ るが、 自然木 の先
端 を加工 して杭 に してい る ものの他、建築廃材 とも思えるよ うな角材 や加工材 を杭 に転用 して い る も
の も見 られる。 また、杭 の打 たれて い る方向 は、溝状遺構 に対 して垂 直 になるもの と、斜 めに打 たれ
る もの とが あ る。杭 の上 部先端 が折れてい るため判然 としないが、すべ て第 5層 中か ら見 る ことがで
きるため、洪水砂 による埋没以前 は溝状遺構 内か ら飛 び出ていた状 態 で あ り、下部 の先端 は第 9層 を
貫 く形 で打 ち込 まれてい る。 この杭 の隙間に細 い 自然木や板材 が横 になってい る状 況 を見 る ことがで
きた。杭 の隙間に引 っかかるように出土 した横木には加工されたような跡はない。出土位置 も溝状遺
構底面直上から杭上部先端の間にあるが、意図的に杭 と組み合 わせたような痕跡は見 られないことか
ら、洪水 の際の流木が杭に引 っかかったものと思われる。
この杭列 の性格 については溝 を渡す橋脚や漁労の梁 などの可能性 も想定で きるが、全体 を検出で き
ておらず、 また壁 の崩落 によ り詳細な調査ができなかつたことか ら現状では判然 としない。
5.平 安 時代 以 前 の 遺 構 につ いて
隣接す る高月地点の調査 において、平安時代水田の下に弥生時代 の水田跡 の存在が推定 されている。
今回の調査 において も検出 されることが予想 されたため、東調査区において平安時代水 田の下層 の調
査 を行 った。畦畔等水田に関係す る遺構 は検出されなかったが、第 9層 中か ら平安時代以前に比定さ
れる土器片が出土 していることか ら、水田跡 とは言及で きない ものの、古墳時代 もしくは弥生時代の
遺構が存在す る可能性 は高い ものと予想 される。
最後 に、調査遂行にあた り様 々な面で ご協力賜 った関係諸氏 に感謝申 し上 げ、 まとめとす る。
引用 。参考文献
長野県教育委員会
1968『 地下 に発見 された更埴市条里遺構 の研究』
更埴市教育委員会 。更埴市遺跡調査会
1986『 屋代遺跡群馬 口遺跡』
更埴市教育委員会 ・更埴市遺跡調査会
1987『 屋代遺跡群馬 口遺跡 Ⅱ』
更埴市教育委員会 。更埴市遺跡調査会
1988『 屋代遺跡群馬 口遺跡 Ⅲ』
更埴市教育委員会 。更埴市遺跡調査会
1989『 屋代遺跡群馬 口遺跡Ⅳ』
上山田町教育委員会
1990『 力石条里遺構』
更埴市教育委員会
1991『 屋代遺跡群馬口遺跡 V』
長野市教育委員会
1993『 石川条里遺跡仔
更埴市教育委員会
1995『 更埴条里水 田址高月地点遺跡』
更埴市教育委員会
1996『 更埴条里水 田址遺跡』
)』
長野県教育委員会 。長野県埋蔵文化財 セ ンター
1999『 更埴条里遺跡
-10-
。屋代遺跡群 一古代 1編 ―』
図版
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東調査 区作 業風 景
東調査 区全体 写真
(東 よ り)
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図版 2
東調査 区
1号 畦 畔 断面
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西調査区
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3号 畦 畔検 出状 況
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報
ふ りが な
圭日
名
副 書
更埴 条 里水 田址
抄
録
油 田地点
名 平成18年 度 県営 ため池等整備事業 に伴 う発掘調査報告書
寺 島孝典
編 集機 関
千 曲市教育委員会
在
書
こ うしよくじよう りす いでん し あぶ らだちてん
編 著者 名
所
告
地
文化課
文化財係
〒389-0892 長野県千 曲市大字戸倉2388番 地
TEL 026-275-0004
発行年 月 日 2007年 3月 30日
Jヒ
糸
章
東経
主 な時代
平安時代
20218
6
4
水 田跡
ほか
8
0
種別
1
主 な遺構
水 田面
畦畔
溝状 遺構
調査期 間
調査 面積
調査 原 因
340rご
水路改修
公 園整備
遺跡番号
8
3
︲
り里
¨麟 一剛
↓更
更埴条 里
水 田llL
市町村
貿鼻箕皐冨キ笑寧纂
304番 地
所 収遺跡
コー ド
ふ りがな
所在地
ふ りがな
所収遺跡
1面
11条
1基
20060925
20061026
主 な遺物
平安時代 土器
平安時代木製品 ・材木
特記事項
溝跡 内か ら杭列 出土。
杭 の一 部 に建築廃材
を転用 した ものが あ
る。
更埴条里水 田址
発行 日
平成 19年 3月 30日
発
千 曲市教 育委員会
行
油田地点
〒398-0892 長野県千 曲市大字戸倉2388番 地
電話 (026)275-0004
印
刷
鬼灯書籍株 式会社
〒381-0012 長野市柳 原2133-5
電話
(026)244-02350