先回は` 聖壺が醍醐派 分教会の認可を得て、 北 本宿に大日如来を祀り、

高 尾 山 報
平成27E
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j邪617号
高 尾 山 報
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3)平 成27咋6n H]第6】
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Lt報 恩 の行 とし て、書
大本教 は明治 二寸 五年 が当局 の取り締ま り対象
(1八九 二)一
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都府綾部 となり、先 に述 べた大 朝
き社会 を造 る ことが大神
御心 の使命 でもあ ると説 で出 口ナオが神懸 りし て 圧 に つなが った のである。
く。そして、それにはまず ' 聞 いたとぎれる神i
山系 の t
I名 以上 の信省 が取り調
5であ る。 「
良 べを受け' 三・
一家を正しき迫 に少ませ、 新 宗 教 教 E
L名が検挙
これを 1村、 町、 郡、爪、 の金神」 による 「
tJ の立 された。火本数 の本部 は
国 へと拡大し て いく こと
街
え
ダ イナ マイトで煤破 され'
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訴
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大本教 の勢力 も、 この時
で、 「
卦好 の御世」 「
人生
ろく の世」 の到氷を説 い
の楼 よき国家」 を成す こ た。大本教が大 きな勢力 大 きくそが れ てしま った
とが でき ると いう のであ を保 つよう にな った のは、 のであ る。ま た、同じ月
る。
明 治 三 十 三 年 (一九o の十六 日には.<理教本部
さ て'解脱会 の所動 が 〇 ) に女婿 ・山 口r
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仁三 が脱税容疑 で捜 X
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を受 け
軌道 に乗り、地方 への布 郎を迎え てから のこと で、 た。 こうしたt
lf教統制 の
教 が 進 ん で いく に つれ' 「
嫡気 治し」 「
予rE
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S( 威し さは'天紬教 に対 し
聖寮 も他方 へ出 かけ る こ 団的神懸 り修行」 と い っ ても向けられ て いたから'
とが 多 く な った。 一方 、 た行為 によ って'全 回に 聖憲 は I
Jの段階 で天津教
日本全体 の社会状 況は風 勢力を伸ば した。大 正五 から疑 れ'雇用派解脱分
雪急を告げ て いた のであ 午 (1九 1六) に 「
皇道 教会 としての立 ち位匠を
る。昭和六年 (1九 三 1) 大本」 と名称を改めた後' 堅持す る ことを決 めた の
には満州不変 が勃発'翌
「
神政実現」を呼びかけ であ る。
七年 二 九 三二) には満 て政治色を雌 めた ことか
州国姐 同が・:
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され'昭 ら'知識人や耶人 の人C2
和八年 (一九 三三) には が増 え、そ の ことで危険
国際連盟を脱退して いる。 鮎 され'大 tt
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十年 (1九
そう した社会状 況 の中 で 二 一) に 1度新庄を受 け
昭和十年 (一九 三五)十 て いるC この弾 圧後、人
二月八 日に'新宗教 の中 知愛善会 とし て復活 を架
では瓜も大きな勃力を保 たしたが、天 E
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制 と相 い
って いた大本教が不敬 罪 れな い光蛸的な教▲
確の相
および治安維持法迎反 の 木と'昭和九年 (1九 三
嫌疑 によ って大御庄を受 四) に砧成した政治 団体
けたのであ る。
「
昭和神聖会」 の活動等
答
祈 る こ と の 心 の底 に あ る 軒 触
帰依 とは、サ ンスク リ ット講 の シャラナ (
症
三宝
裾を求 め る こと'避難所) で、優 れたも のを信
じて全 てを重ね る ことを いう。
仏教徒 とな る第 一歩とし ての誓 いの瞭 依
帰依仏 (
仏に帰依す る こと)
帰依活 (
仏法 に帰依す る こと)
帰 依僧 (
僧 に帰依す る こと)
またへ難戯桂から探られた句 であ る三相礼文
もまた、仰依 三宝 を唱えるも のである。