2011年夏

瘍本を支たたえたら襲鉄
て いる から であ る。 現 在 は、 近 藤
鉄 の商 業 製 鉄 と し て の活 動 は終 え
いう こと はし て いな い。 た た ら 製
の技 術 を 導 入 し た 八 幡 製 鉄 所 で、
こと と な る。 そ の 一つが、 ド イ ツ
て西 欧 の製 鋼 の技 術 が導 入 され る
う議 定書 を村 ととり交 わし、厳 し
徹底して行 った。鉄山稼ぎ議定とい
山を提 供 し てく れる村 と の協 調 を
また、下備 後 屋 近藤 家 では、鉄
登 志 夫 9代 目 ︶ と し て、林 業 、不
林 業 有 限会 社 ︵
代 表 取締 役 近藤
動産 管 理 を し ている。
それ ま で の間 、 日本 の鉄 の需 要 を
ア ニメ映 画 ﹃
も の のけ 姫 ﹄ を ご
覧 に な った こと は あ る だ ろ う か。
企 業 経 営 は そ の環 境 に適 応 しな
こ の撤 退 の美 学 を 貫 いた のが、 近
さ せ て いく か と いう こと に な る。
治 中 期 以降 、強 力 に近 代 化 を推 し
の育 成 を 是 と し て いた が、特 に明
域 と の協 調、後 継 者 や優 秀 な 手 代
近 藤 家 は元 来 、合 理的 経 営 、地
められ た のであ る。
るた め に、 地 域 全 体 と の調 和 が求
た めだ け ではな く 、 地 域 社 会 を守
受 け る こと と な る。 単 に近 藤 家 の
時 代 瘍後 押 し と
大 切 にす る職 人 達 と近 代 化 ・合 理
い った の であ ろう 。 古 来 の製 法 を
た と いう こと を 聞 いた が、 自 分 の
祖 父 が伯 母 に ﹁
贅 沢 は さ せな いけ
ど、 不 自 由 は さ せな い﹂ と 言 わ れ
現 9代 目 近 藤 家 当 主 に よ る と、
分 理 化 で伸 び る
化 を急 ぐ 経 営 陣 の間 では、 そ の軋
進 め、 こ れ が 増 産 を 可 能 に し て
藤 家 であ る。
下 鸞 後 屋 鍾 藤 家 の子 育 て
い規 則 の元 に鉄 山経 営 を行 い、地
主 人 公 の ア シタ カ と いう 少 年 が、
け れば な ら な い、 と いう こと を否
支 え て いた のは、たたら製 鉄 であ っ
た。 言 葉 を 変 え る のであ れば 、 日
下 備 後 屋 近 藤 家 の当 主 は、 幼 い
4年 に建 設 され た。と ころが、
明治 3
呪 いを解 く た め に旅 に出 る。 そ こ
で、 た た ら 場 と 言 わ れ る製 鉄 場 と
定 す る経 営 者 は いな いだ ろう 。 し
本 の近 代 化 、 日清 。日露 戦 争 を支
時 か ら 宴 席 や 会 議 に同 席 さ せ ら
域との協調を大切にしたのである。
出 会 う こと とな り 、 スト ー リ ー が
かし、大 きな時 代 のう ねり の中 で、
え て いた と 言 っても 過 言 ではな い
八幡 製 鉄 所 が本 格 的 に稼 働 す る の
8年 く ら いのこと であり 、
は、明 治 3
展 開 す る のであ る。
事 業 環 境 に適 応 でき な いと いう こ
れ、当 主 と し て の教 育 を徹 底 し て
た た ら 場 は、 火 山 の多 い日本 で
のであ る。
IMコ ンサル タ ン ト代 表 平 松 陽 一
こ の場 合 に、事 業 を いか に終 息
とがあ る のは事 実 であ る。
多 く産 出 さ れ る砂 鉄 ︵
酸化鉄︶か
ら 鉄 を 精 製 す る 我 が 国 独 特 の製
鉄 工場 であ った。
全 盛 時 、山 陰 地 方 ︵
西伯 者 ︶ に
H ヶ所 のた た ら製 鉄 を経 営 し、末
端 ま で含 め ると 3万 人 の 雇用 を創
出 し て いた のが、近藤 家 であ る。
近 藤 家 の活 動 は今 日 でも 続 いて
る が、 も う た た ら 場 を経 営 す ると
小 遣 いの体 験 と 同 じ考 え な ん だ と
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蝶 を 伴 いな がら も 成 長 し て いく の
下備後屋近藤家は、1700年
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思 ったと いう ことだ。
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であ る。
代の中頃に近藤彦四郎が下備後屋
の商号 で分家独 立 した こと に始 ま
る。そし て、たたら製 鉄 の事業 を
始 め、江戸中期 には大阪 に直販店
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34年 )
(明 治
部門別の経費対照表
を設 け るなどし て、以後順調 に発
展することとな る。
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明治 に入り、富 国強兵 の政策 に
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より、急 速 に鉄 の需 要 が拡 大 し、
同時 に安価 な洋鉄 が輸 入され追 っ
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登志夫
近藤
代表取締役
や
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町
下備後屋近藤家 靡 脚日
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近藤林業有限会社 ■ ■ ■■ ・
〒689-4503 鳥取県日野郡日野町根雨 620
TEL 0859-72-0003
│
∪RLi http://tatara21 com
かと感 じる時 があ る。
何 でも 好 きな こと
親 が子 供 に ﹁
ていく。また製炭事業 部 を設 けた
り、原野 を開墾 し て水 田を造成 す
下 備後屋近藤 家 であ るが、や がて
このよう に、隆盛 を極 めてきた
建設 す る。 これが、今 日 の協 和発
技術 を確立し、製薬 工場を大阪 に
正 5年 には、本材 から酢酸 を取 る
事 業 饂櫃 雰 吻 糞 極 め 膠
著 者 は 殆 ど 見 て いな い。 そ れ は、
日本 の近代化 の中 で存在価値 が問
酵 の前身 とな る。更 には、大正 7
るなど労働 の場を用意 しな がら大
何 を し てよ いか 分 か ら な い小 さ な
われ るよう にな る のであ る。西洋
年 日本ク ロムエ業 の設立となる。
を や れ、 自 由 に や れ ﹂ と いう が、
子 供 に自 由 にや ってよ いと いう こ
製鉄 とたたら製鉄 では、生産効率
これ以後 の近藤家 の経営 を支 え
これ で上 手 く い った と いう 老 舗 を
と であ る から、 結 局 はお金 を使 い
に大 きな差 があ ること は、明ら か
Ю年 以上前 であ った。合理化 を進
近藤 家 の生産 高 がピークを迎 え る
であ った。近藤 家 では、早 く から
情 報 の収 集 に努 め、明治 8
1年 には
合理化案 を検討 している。それは、
根雨酒造株式会社、更 に、地方銀
これとは別 に、大正醤油株式会社、
の経済基盤 を支えることとな る。
ド で売り出 す こととなり、近藤 家
た のが、海外 から の特殊鋼 の輸 入
過 ぎ て自 分 の生 活 を持 て余 し てし
と が多 いのではな いだ ろう か。
めるにあ たり、地域 経済 の崩壊 さ
行 の設立、木材会社経営、森林組
ま う と いう こと にな ってし ま う こ
畿鋒顧騒集N の管理技磯
せな いこと に主 眼 を置 いた。 そし
て、何 より も人 の生活 を守 ると い
教 材 な ど 必 要 な も の に つい て は、
た と いう こと があ った。 逆 に学 習
ら って いる のを 見 ると羨 ま し か っ
ら、自 分 の友 達 が毎 日 小 遣 いを も
9代 目 は、 これ と い った 小 遣 い
を も ら った こと はな か った。 だ か
し て いた。 事 実 、 明 治 時 代 にはす
に会 議 等 で話 し合 う と いう こと を
近 藤 家 のあ る べき方 向 を 当 主 と共
徹 底 的 な 計 数 分 析 により 下 備 後 屋
達 か ら 構 成 さ れ て いる。 彼 ら は、
手 代 集 団 は総 勢 0
7人 く ら いの人
鉄山組合を設
師 と 共 に雲 伯
6年 に
く。明 治 3
は、出 雲 の鉄 山
の手 を打 って い
ら次 へと合 理化
き た のが、 手 代 集 団 であ る。 今 日
言 え ば 買 って く れ た と いう こ と
でに部 門 別 損 益 管 理 が、徹 底 し て
立 し、需 要 に応
よく自 分 の子 供 に、 何 不 自 由 な く
は な いだ ろ う か と 思 う 時 が あ る。
手 計 算 、 墨 書 き で行 って いると い
あ る時 代 にお いても 難 し いも のを
今 日 のよ う に、 コンピ ュー タ ー の
工場 へと発 展 し
日立金属安来
る。これ が後 に、
じ る こと と な
﹃塊へ 語訳 地域末来﹄
お 二 いに什え く や って、 不都合が 生したらよく 話し合 いま し ょう
山内 で出たゴ ミなど は、 近く の便利 のよ いと ころ に捨 てき せ て下さ い
賭博な どさ せる のは、 当然 ご濃度 と し て下さ い
ま た、 何か物 品をも って借全 を頼 ん でき ても、 たじな いて短ら せ て い■だき た ぃ
一晩 でも 宿 泊 さ せな いよ う 願 いま す
鉄 ム の労 働者 は、
占力 の 下 に は菜 園 に使 い、 残 れ ば 村 に渡 し ま す
常 周 労 働者 ︶ が t く な った 場 合 、 村 のよ ●墓 に葬 り ま す
鉄 占 の地 子 ︵
馬 の餌 の提 供 は自 歯 契 約 と し、 そ の場 所 は 野 薔 ど こ でも 自 昔 と さ せ て 下 さ い
薇 占卑 月 の馬 ︶ は 勝 手 に使 わ せ てく だ き い
子間 ︵
こ の問 村 で作 った 人 炭 や 小 炭 は狭 蒟 に 納 入 し て いた だ き た い
契 約翔 間 は 九 八年 間 と し ま す
た た ら や 餃 治 場 は村 のど こ に でも 作 ら せ て いた だ き た い
1837︶ 作成︶
鉄 山稼ぎ議定書 ︵人保 八年 ︵
このよう に、表 面 的 には、次 か
合 の育成などを行 った。
であ った。旭 ハガネ と いうブ ラ ン
的 に言 えば 、 戦 略 管 理 部 門 と いう
う ことを大切にしたのである。
このよう な 歴 代 の当 主 を支 え て
こと にな る のであ ろう か。
だ。 よく 考 え て見 れば 、 今 日 の子
行 わ れ て いる の に は 驚 か さ れ る。
育 てた と いう が、 そ れ は贅 沢 を さ
う レベルの高 さ があ る。
夫保3年 当時め鉄山稼ぎの議定書 (意 訳)
そし て、次 か
供 達 は贅 沢 な割 には不 自 由 な ので
せ ただ け だ った のではな いだ ろう
ニ
六
七
歴史を感 じさせる下備後屋近藤家 の仔 まい
近藤喜八郎 (26歳 )奥 日野郡 (黒 坂以南 )大 庄屋 となる。
1865(慶 応元年 )
lB者 国 7ケ 所、美作国 4ケ 所、合計
7月 頃 よ リ コ レラ が 流 行
881(明 治 14年 )
仲間入札 による在庫調整。
喜八郎、合理化を模索 (忘 備録 「手飛 可恵 J)
1885(明 治 8年 )
891(明 治 24年
政府筋 への販売 に関 して、出雲鉄 と競合。
893(明 治 26年 )
異例の村下会議を開催 (夏 )
この 頃、近藤家経営 8鉄 山合計錬鉄生産高は最高を記録。
1894(明 治 27年 )
山陰鎮撫使・ 西園寺公望中将一行への対応 (1月
868(明 治 元 年 )
6鉄 山 と付属鍛治 8軒 を経営。
873(明 治
4代 平右衛門が 62歳 で没 し、 5代 喜八郎が 35歳 で当主 となる:
年)
日野町出身の加藤正義、合理化を進 言。
る のであ る が、 これ に伴 い、 人 の
異 動 を 行 い、 新 し い部 門 へと振 り
向 け る こととな る。 それ は、 明治 、
大 正、 昭 和 と いう 長 期 間 を かけ て
の壮 大 な 撤 退 劇 であ り 、 た た ら 製
鉄 だ け に依 存 し て いた 地 域 経 済 を
美 事 に ソ フト ラ ンデ イ ング さ せ て
いく こととな る。
実 は、山陰 の他 の鉄 山閉 鎖 では、
働 いて いた 少 な か ら ぬ人 達 が流 れ
者 と し て九 州 の八幡 製 鉄 所 や炭 鉱
造兵廠か ら伯雲 4家 へ 、玉鋼 7万 キ ロの注文。
903(明 治 36年 )
雲伯鉄山組合の設立
海外か ら特殊鋼を輸入 し、旭ハ ガネ として売 り出す。
近藤本店林業部を設置。多里 に新屋製炭所を開設。
1922(大 正 11年 )
大宮の吉釘・ 阿昆縁 の 。江尾の川平山に製炭 所を開設。
1943(昭
大阪鉄店 (近 藤鋼商店 )開 店。
低燐銑鉄の製造を開始。
大正
2年 )
木材乾溜工場を根雨地 内に建設。
大正
5年 )
大阪に 「 日本 クロムエ業株 式会社」が設立 され、株主 となる。
根雨近辺 の板丼原・宝 仏山・ 黒谷山での製炭を試産 。
各鉄山を製炭所 とす る。
就労を望む炉の村下、大鍛 冶の大工以下の就業者
)
7つ の鉄山の 内、吉領、新屋 山を残 して休・廃 業 (9月
重 さを知 ったと いう ことだ。
時 に、自 分 に残 されも のの大 き さ、
てか ら のこと であ ると いう 。 そ の
ると いう こと を 知 った のは成 人 し
屋 近 藤 家 が これ程 ま で の集 団 であ
さ て、 9代 日 であ るが、下 備 後
偉入さ借鰺り 9代爾となる
れ ている。
な った 人 は殆 ど いな か った と 言 わ
人 生 を 歩 む こと と な り 、 流 れ者 と
達 は地 域 に住 み着 き、 それ ぞ れ の
製薬工場を堺市外 向井町に建設
現 在 は、残 さ れ た 山 林 、不 動 産
18年 )
(「
協和発酵Jの 前身 )
41年 )
)
労 働 者 と し て移 って い った のであ
る。 し かし、近 藤 家 に関 連 す る人
大戦終結、鉄価 3分 の 1に 下落。
1918(大 正 7年 )
日立金属・安来工場 Jの 前身 )
895(明 治 28年 )
)
868(慶 応 4年 )
ら 次 へと事 業 を 展 開 す る こと と な
877(明 治 0年 )
1lヶ 所の鉄 山を経営。
1864(元 治元年 )
地域未 来〉
「たたら楽校」の展示場
かし、事 業 を辞 めたり す ると、﹁
落
ち 目 に な った ⋮﹂ と いう こと で、
賞 賛 されな いと いう ことがあ る。
著 者 は、事 業 撤 退 も賞 賛 され て
よ い の で は な いか と 思 う こ と が
多 々あ る。事 業 を辞 めたと ころ で、
そ の事 業 主 、家 族 、従 業 員 は生 き
ていかな け れば な らな い。
な ら ば 、 そ のこと を第 一と考 え
る撤 退 が あ っても よ いの ではな い
だ ろう か。
鳥 取 県 日野 町 にあ る下 備 後 屋 近
環 境 に大 き く 左 右 さ れ る。 こ の経
藤 家 は、 そ のこと を や り 遂 げ て い
る。経 営 の善 し悪 し は、 そ の経 営
まだまだ解 明 され ていな い古 文 書
はな いだ ろう か。一
V▼
で乗 り 切 る のは、 限 界 があ る の で
な いだ ろう か。 そ れ を テク ニック
藤 家 の教 訓 が教 え てく れ る のでは
そ の場 合 にどう あ る べき か、 近
営 環 境 だ け は、 どう にも な ら な い
と いう と ころがあ る。
す る時 に、 そ の人 を賞 賛 す る。 し
人 は、 新 し いこと にチ ャレ ンジ
賞賛されは ﹁
轍な﹂も鯰燿
り組んでいきたいという ことだ。
協調していくためには、前向きに取
近藤 家 が この先 続 き、地域 社 会 と
抵 のことではな いという。それでも
た資 産 を管 理し ていく ことは並大
せがある。9代目によると、残され
日 でも、全 国 から資 料 の問 い合 わ
て残 っていることにあるからだ。今
がある。これは、近藤家 の管理レベ
ルの一
昌さから、その殆どが書類とし
承に努めている。実は、近藤家 には
調 しな がらたたら製 鉄 の歴 史 の伝
を管 理す る傍 ら、地域 の人達 と協
く資料 提供
│
‐
‐
の屋号で分家独立 :
200人 を雇用:
1920(大 正 9年 )
1921(大 正 10年 )
和
建設中の大型溶鉱炉の建設を中止。
8年 )
正
1919(大
7ケ 所 の鉄山を経営。
1858(安 政 5年 )
時 51歳 )が 大庄屋 に抜擢 され る。
(当
3代 目平右衛門
文政 13年 ・ 天保元年
(現 自南町)に 初めて製鉄の事業を興す:
日野郡笠木村谷中山
1779(安 永 8年 )
(「
明治
913
トロンプ送風器 と吹差輔の導人。
頃
889(明 治 22年
この 頃よ り海軍省に造艦用 として鉄の 納入を始め る。
年
884(明 治
福岡山鉄案 (近 藤福 岡製鉄所、福岡山鉄鉱 所 )開 業式 (2月
21年 )
治
1888(明
5年 )
製鉱所を 5ケ 所 に増設。 この 頃、 4代 平右衛門が大庄産 に任命され、
1852(嘉
6年 )
治
1883(明
大坂 に近藤鉄 店 を設け、販路 の拡 張をはか る。
永
7年 )
天保
「備後屋 Jと 称 した本家元祖 伝兵 衛の 孫 t彦 尋、Ъが 現在地 に「 下備後屋 J
…1700年 代 中 頃
後には鳥取藩内大庄屋首座 となる。