藤 井 隆 輔

八 幡 大 菩 薩 の慧 依 と 託 宣
藤井
隆輔
① ﹃沙石 集 ﹄巻 五末 ノ七 ﹁権化 の和歌 翫び 給 ふ事﹂
主 に そ れ ら を 用 い て論 じ ら れ て き た (
)
。
こ の 八 幡 託 宣 の こ と は 、以 下 の資 料 に よ って も 知 ら れ 、従 来 は 、
八 幡 大 菩 薩 の託 宣 を 記 録 し た も の であ る 。
す る三巻 の託宣 記 が伝 わ って いる。 これは 、右 に概 略 を示 した 、
和 歌 山 県 紀 美 野 町 に 鎮 座 す る 野 上 八 幡 宮 に は 、 ﹃御 託 宣 記 ﹄ と 称
いた 。
降り 、由 良 の西方寺 に場 を移 し て下 さ れた 。 それ は十九 日 ま で続
一度 は 終 え た 託 宣 が 、 同 月 十 三 日 に 、 件 の 女 性 に ふ た た び 八 幡 が
野 上 八 幡 宮 所 蔵 ﹃御 託宣 記 ﹄ 三巻 を中 心 に
(一二 七 八 ) 正 月 晦 日 、 紀 州 野 上 荘 に お い て、 ふ た り
はじ めに
建 治 四年
の 若 い女 性 が 病 に 罹 っ た 。 病 状 は す こ ぶ る 悪 く 、 種 々 の祈 祷 が な
され るも 、験 は なか った。 同年 二月 十 八日 、 同州由 良 荘 の西方 寺
から 、心 地房 覚 心 が招聰 さ れた 。覚 心 に加 持祈 祷 を行 な わせ たと
聴 聞 を 所 望 す る彼 女 に 対 し て 、般 若 心 経 、法 華 経 観 音 品 が 読 ま れ 、
② 乙本 ﹃八幡愚 童訓 ﹄下 ﹁
四 仏法 事﹂
③ ﹃鷲峰 開山 法燈 円明 国師 行実年 譜 ﹄﹁師七 十 二歳 ﹂条 (
以下 、
﹃年譜 ﹄)
こ ろ 、 翌 日 、 女 性 の う ち の ひ と り が 物 狂 い の様 相 を 呈 し た 。 経 の
宝 号 が 唱 え ら れ た 。 そ こ で覚 心 が ﹁経 を 聴 聞 し て い る の は 誰 か ﹂
④ ﹃紀 州 由良 鷲 峰 開 山法 燈 円 明国 師之 縁 起 ﹄下 巻 ﹁
師七十二
と 問 う と 、彼 女 の 口 か ら 、自 身 は 八 幡 大 菩 薩 で あ る と 告 げ ら れ る 。
時には
歳 ﹂条 (以下、 ﹃縁起 ﹄)
⑤ ﹃紀伊 続風 土記 ﹄巻 之 三十 六 、那賀 郡第十 ﹁野上庄 ﹂
彼 女 の身 に は 、 八 幡 大 菩 薩 が 降 り て い た 。 以 後 、 託 宣 は 問 答 の 形
続 いた 。 問 答 を 終 え た 覚 心 は 西 方 寺 に 帰 り 、 八
式 を と っ て、 二 月 十 九 日 か ら 二 十 九 日 ま で の間 、 毎 日 一日 に 数 度 も -
幡 の愚 坐 と な った 女 性 は 翌 三 月 三 日 に 平 癒 し た 。 し か し そ の後 、
}
﹁
63
た とえ ば、萩 原 龍夫 は、 この伝承 か ら は密教 を 併修 す る当 時 の
禅 僧 の神 祇 観 を 問 う こ と が で き る だ ろ う と の見 解 を 示 し た 。ま た 、
(
臨 済宗 法 燈派 ) に注 目 し て、当
カら
あら か じめ整 理し ておく 。
野上 八幡宮 と ﹃御託宣 記﹄
紀 州 野 上 荘 は 、 現 在 の和 歌 山 県 海 南 市 東 部 か ら 同 紀 美 野 町 西 部
に ま た が って 存 在 し た 荘 園 で あ る 。 立 荘 時 期 は 不 明 だ が 、 延 久 四
す る 禅 僧 ・無 本 覚 心 と そ の 一派
原 田 正 俊 は 、 紀 州 野 上 荘 に お け る 八 幡 託 宣 、 お よ び そ の伝 承 を 有
年
(
引用 者注
一〇 二 二) 十 月 九 日 国 司
高 階 朝臣 成章 牒 彼宮 寺状 ﹂ に云 わく と し て、石 清水 八 幡宮 造営 の
ら に 同 牒 状 は 、 ﹁治 安 二 年
﹁紀 伊 国 陸 箇 処 ﹂ の ひ と つと し て、 野 上 荘 が 数 え ら れ て い る 。 さ
(一〇 七 二 ) 九 月 五 日 の ﹁太 政 官 牒 (
,)
﹂ に は 、 石 清 水 八幡 宮 領
し た 。 ま た 、土 屋 有 里 子 は 、 建 治 四 年 の 八 幡 託 宣 が 、 同 時 代 の ﹃沙
時 の禅 宗 が 地 方 に 展 開 し て ゆ く 、 そ の活 動 実 態 の 一端 を 明 ら か に
石 集 ﹄ に 説 話 と し て採 録 さ れ て い る こ と を 傍 証 と し つ つ、 鎌 倉 仏
そ し て近年 、櫻 木 潤 によ って、野 上荘 にお け る八幡 託宣 を 記録
教 界 におけ る各寺院 の活発 な交流 を論 じ て いる。
こ の 野 上 荘 の 鎮 守 社 と し て 、 野 上 八 幡 宮 は あ った 。 い つご ろ の
後 に 、 野 上 荘 を 八 幡 宮 の ﹁根 本 庄 ﹂ と し た 、 と 伝 え て い る 。
に さ れ た 。 以 後 、 こ の託 宣 記 は 、 ﹁
当 時 の 人 々 の 神 祇 観 ・宗 教 観 を
口 伝 を も って 野 上 八 幡 宮 の 沿 革 を ま と め た ﹃八 幡 宮 歴 代 記 ﹄ や 、
創 建 で あ った か は 、 詳 ら か で な い。 諸 家 に 伝 わ る古 文 書 や 旧 老 の
す る ﹃御 託 宣 記 ﹄ が 、 い ま も 野 上 八 幡 宮 に 伝 わ って い る こと が 公
よ く 示 し て い る と と も に 、 = 二∼ 一四 世 紀 に お け る 野 上 庄 を 中 心
目 さ れ て き た と いえ よ う 。 な か で も 坂 本 亮 太 は (
3、 先 学 の 問 題 意
八 幡 宮 に伝 わ る縁 起 (
と も に 慶 安 元 年 (一六 四 八 )成 立 )な ど は(
,︾
、
と し た 地 域 の 歴 史 を 考 え る 上 でも 貴 重 な 史 料 で あ る (
、)
﹂ とし て注
識 を 踏 ま え つ つ、 ① 宗 教 観 ② 社 会 観 の ふ た つの 観 点 か ら ﹃御 託 宣
ら 大 和 国 比 木 嶺 へと 東 上 す る 途 次 、 野 上 荘 の ﹁聖 仙 山 ﹂ に 立 ち 寄
欽 明天 皇 の御宇
(
五 三 九 ; 七 一年 頃 )、 八 幡 大 菩 薩 が 豊 前 国 宇 佐 か
記 ﹄ を詳細 に分析 し 、鎌 倉後 期 に おけ る禅 宗 の地 方展 開 を物語 る
八 七 ) に は 石 清 水 八 幡 宮 の別 宮 と な り 、 本 社 の 社 例 に 倣 っ て放 生
り 、 そ の際 に 社 殿 が 造 営 さ れ た と し て い る 。さ ら に、 永 延 元 年 (
九
会 を は じ めとす る神 事仏 事 が始 めら れ たと も し て いる。 これ ら の
も のと し て そ れ を位 置 づ け た 。 し か し 、 ﹃
御 託宣 記﹄ は、 中世 に お
う 点 か ら も 読 み う る 可 能 性 を 秘 め て い る 。 本 稿 で は 、 そ のよ う な
積 を 記 録 し た 坪 付 の 中 に ﹁別 宮 西 東 弐 段 ﹂ と 見 え 、 延 久 四 年 当 時
伝 承 の当 否 は さ て置 き 、 先 の ﹁太 政 官 牒 ﹂ の、 野 上 荘 の 四 至 や 面
け る ﹁託 宣 ﹂ と い う 宗 教 事 象 が ど の よ う な も の で あ った か 、 と い
観 点 か ら 、 ﹃御 託 宣 記 ﹄ を 分 析 し て い き た い。 そ こ で 、 ま ず は 、 櫻
に は す で に 、 石 清 水 八 幡 宮 の別 宮 と し て 、 社 殿 が構 え ら れ て いた
木 潤 や 坂 本 亮 太 の詳 細 な 報 告 も あ る が 、 野 上 八 幡 宮 、 お よ び ﹃御
託 宣 記 ﹄ に つ い て の情 報 を 、 稿 者 が 実 見 し た 際 の 記 録 (
、}
を交 えな
一
一
64
よ う であ る 。
一三 八 九 ) 三 月 九 日 書 之
嘉慶 ) 三巳 巳
(花 押 )﹂ と 記 さ れ て い
(
引 用者 注 -
別峰嬰
年 三月 九 日 、心 地上 人御 問 答記 三 巻、 別 峰僧 書 写奉納 有 之。 紙 墨
る 。 こ れ を ﹃八 幡 宮 歴 代 記 ﹄ は ﹁同
者注 i
下 、 先 学 の分 類 に 従 っ て、 便 宜 的 に上 中 下 と す る )。 布 地 の 表 紙 に
れ て いた ﹃御 託 宣 記 ﹄ に 、 別 峯 が 自 署 を 加 え 、 再 奉 納 し た 折 の も
斉等 噺 友之内 直 判加也 ﹂ (
傍点 稿者 )と伝 え 、野 上八幡 宮 に奉納 さ
こ の野 上 八 幡 宮 に 、﹃御 託 宣 記 ﹄は伝 わ る 。巻 子 本 に し て 三 巻 (
以
外題 も 、本 紙 に内 題も 、 特 に持 たな い。 いま これ を ﹃
御 託 宣記 ﹄
いま 、 ﹃御 託 宣 記 ﹄ 三 巻 と と も に 木 箱 に納 め ら れ て い る (
、}
。
別 峰 自 署 の真 贋 鑑 定 を 、 龍 源 寺 の 縁 巌 に 依 頼 し た 。 そ の 返 書 は 、
た た め 、 井 沢 弥 惣 兵 衛 為 永 に よ っ て修 繕 さ れ る 。 さ ら に 為 永 は 、
﹃
御 託 宣 記 ﹄は 、享 保 二 年 (一七 一七 )、損 傷 が 目 立 つよ う にな っ
の だ と いう (
8)
。
と 呼 ぶ の は 、 当 の 巻 子 本 が 納 め ら れ て い る 木 箱 に 、 ﹁御 託 宣 記
三 軸 / 井 龍 源 寺 縁 巌 和 尚 之 書 一巻 ﹂と 墨 書 さ れ て い る こと に 拠 る 。
な お 、 先 に紹 介 し た ﹃八 幡 宮 歴 代 記 ﹄ に は ﹁心 地 上 人 問 答 記 三 巻 ﹂
と 、 ﹃紀 伊 続 風 土 記 ﹄ に は ﹁御 託 宣 ノ記 ﹂ な ど と 見 え る 。
上 巻 を 経 け ば 、 冒 頭 か ら ﹁八 幡 宮 御 領 紀 州 名 草 郡 野 上 庄 の下 司
以 上 の こ と か ら 、 ﹃御 託 宣 記 ﹄ は 、 至 徳 元 年 (= 二八 四 ) に、 野
木 工助 入道 信 智 のむ す め延命 井 よ め如 意女 建治 四年 正 月晦 日 の申
剋 よ り 二 人 同 時 に 重 病 を う く ﹂ 云 々 と あ り 、 さ ら に 中 ・下 巻 へと
そ れ で は 、 呑 空 が 書 写 す る際 に 原 本 と し た 託 宣 記 は 、 ど の よ う
永 が 修 繕 を 施 し て、 今 日 に 至 る 。
上 八幡 宮 を 中興 し た呑 空 が書 写 し、 同宮 に奉 納 し たも のであ ると
誌 之 / 当 社 一宿 旅 僧
いえ よ う 。 そ の 後 、 別 峰 が 自 署 を 加 え て 再 奉 納 。 井 沢 弥 惣 兵 衛 為
= 二八 四 ) 捗霜 月 初 卯 日
一の筆 跡 で 記 さ れ て い る こ と に 気 づ く 。 上 巻 の 末 尾 に は ﹁至 徳 元
(
引用 者注
読 み 進 め て い く と 、 後 述 す る 下 巻 奥 書 の別 筆 を 除 い て 、 す べ て 同
年
誌
に 成 立 し た のだ ろ う か 。 ﹃御 託 宣 記 ﹄ に 見 ら れ る 次 の 一節 は 、 託 宣
呑 空 子 ﹂ と 、 中 下 巻 の末 部 に は ﹁
至 徳 元 年 押霜 月 初 卯 日
記 成 立 の事 情 を 考 え る た め の 、 ひ と つの 手 が か り と な る 。
令曼
之 ﹂ と そ れ ぞ れ あ り 、 そ の筆 跡 は ﹁呑 空 ﹂ な る 人 物 の も の で あ る
る 呑 空 が 願 主 と な り 、 荘 内 の 人 び と に紙 墨 を 募 っ て ﹃御 託 宣 記 ﹄
と 見 て よ い だ ろ う 。 ﹃八 幡 宮 歴 代 記 ﹄ に よ れ ば 、 奥 州 の生 ま れ であ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
へ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
ヘ
へ
今 生 て ハ繁 昌 し
ヘ
ヘ
ヘ
へ
後生 て ハ
又、 御 詫 宣 二云 ﹁此事 ﹂蛭 諭 どざ す い みレ で\夫 ㈹ に つだ
ヘ
ふ へし 。 こ れ を た も た ん も の ハ
を 書 写 し 、 八 幡 宮 に 奉 納 し た の だ と い う 。 ま た 、 呑 空 の名 は、 野
個 道 か ㊧ ん 事 \ ヶ だ か ぴ な レ 。 こ の よ し 披 露 す へし 事 、 ひ さ
(
中 巻 、 二 月 二十 九 日 午 刻 。 傍 点 稿 者 )
上 八 幡 宮 が 所 蔵 す る ﹃大 般 若 経 ^
,)
﹄ 三 六 二 巻 の奥 書 に ﹁中 興 比 丘
云 々。
呑 空 僧 奥 州 人 也 ﹂ と 見 え 、 八 幡 宮 を 中 興 し た 人 物 であ っ た こ と が
(
引用
し く お ほ へ候 ヘ ハ、 つと め せ さ せ 給 へ。 た ち さ り 候 ハん ﹂ と
さ ら に ﹃御 託 宣 記 ﹄ 下 巻 の 奥 書 に は 、 別 筆 で ﹁
嘉 慶 三年
知 られ る。
一
一
65
八 幡 は 託 宣 の中 で 、 こ れ ま で の問 答 を ﹁一も 落 と さ ず ﹂ 記 録 し
上 荘)
上 巻 ⋮ ⋮ 建 治 四年 正 月 晦 日 ・二 月 十 九 日 ∼ 二十 三 日
(
於 ・野
中 巻 ⋮ ⋮ 同年 二 月 二十 四 日 ∼ 二十 九 日 (
於 ・野 上 荘 )
(
於 ・興 国 寺 )
下 巻 ⋮⋮
ご く 簡 単 に 確 認 し て お き た い。
建治 四年 砿二月廿九 日 任 御 詫宣 記之
由良 心地房 上人 覚 心 在判
同弟 子僧 崇心在判 同弟 子僧 心海在判
蜜教 房義 弁
山東 入道向 西 同舎弟 木 工助 入道信 智
同舎 弟僧 長慶 同舎弟 僧 渕覚
ニ 蔵人 平向 西三 男重直 平 重光同四男
聴聞衆交名
す で に 櫻 木 潤 や 坂 本 亮 太 に よ る詳 細 な 報 告 が あ る た め 、 こ こ で は
宣 の場 に 連 座 し た 人 び と の名 が 記 録 さ れ て いる 。諸 人 に つ い て は 、
さ て、 ﹃御 託 宣 記 ﹄ 中 巻 の 末 部 に は 、 ﹁聴 聞 衆 交 名 ﹂ と し て、 託
一一 託 宣 を め ぐ る 群 像
た い 誰 が 参 与 し て い た の か に つ い て 、 述 べ て お き た い。
つ い て の情 報 を ま と め て き た 。次 に 、 こ の建 治 四 年 の託 宣 に 、 い っ
以 上 、 本 項 で は 、 野 上 荘 お よ び 野 上 八 幡 宮 、 ﹃御 託 宣 記 ﹄ 三巻 に
(
弘安 改元) 三月 十 三日∼十 八日
て 末 代 ま で伝 え る よ う 命 じ 、 現 当 二 世 に お け る 仏 果 の 獲 得 と いう
け た と さ れ る 時 点 か ら 、 あ ま り 時 期 の下 ら な い う ち に 、 問 答 は 記
託 宣 記 の 功 能 を 説 く 。 こ の言 を 素 直 に 取 る な ら ば 、 八 幡 の命 を 受
録 さ れ た と 見 て よ いだ ろ う 奪 。
そ の託 宣 記 は 、 そ の後 、 ど こ へ行 っ た の か 。 無 本 覚 心 の 伝 記 で
万 之 一写 之 ヲ 託 宣 ノ記 之 真
あ る ﹃縁 起 ﹄ 師 七 十 二 歳 条 は 、 託 宣 の こ と を 抄 録 し た 上 で 、 記 事
の 最 後 に 、 ﹁右 八 幡 託 宣 ノ記 三 巻 ノ内
在 リ宝 蔵 二(
、v
﹂ と 、 割 書 き で付 言 し て い る 。 託 宣 後 に記 録
(
現 ・興 国 寺 ) に 納 め ら れ た よ う だ 。 呑 空 が 原 本
さ れ た ﹁八 幡 託 宣 ノ記 三 巻 ﹂ は 、 ﹁
真 本 ﹂ と し て 、 覚 心 の住 す る 紀
本 ハ者
州 由良 の西方 寺
(
弘 安 元年 ) の託宣 後
と し た の は、 興 国 寺 に納 め ら れ た そ れ で は な か った か 。
現 存 す る ﹃御 託 宣 記 ﹄ 三 巻 は 、 建 治 四 年
す ぐ に ま と め ら れ 、 興 国 寺 に 納 め ら れ た ﹁八 幡 託 宣 ノ記 三 巻 ﹂ の
写 し で あ ると 推 測 さ れ る 。 だ と す れ ぼ 、 ﹃御 託 宣 記 ﹄ は 、 諸 先 学 も
評 価 し て い る よ う に 、 建 治 四 年 当 時 の人 び と の 価 値 観 や 地 域 社 会
の様 相 を 知 る 上 で 、 そ し て、 本 稿 の目 的 で も あ る 、 ﹁託 宣 ﹂ と いう
宗 教 事 象 に 対 す る 当 時 の人 び と の 理 解 を 考 察 す る 上 で も 、 ま さ に
な お 、 最 後 に な った が 、 こ こ で ﹃御 託 宣 記 ﹄ 三 巻 の構 成 に つ い
有 用 な 資 料 で あ る と いえ よ う 。
て触 れ て お く 。
︻
一
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道信 智 ﹂と あり 、野 上荘 の下 司と し て荘 務 をあず か って いた在 地
領 主 層 であ った 。交 名 に よ れ ば 、平 俊 範 が真 値 の 嫡 男 と し て い た 。
であ った 。 交 名 に は 見 え な い が 、 こ の ほ か 、 ﹃御 託 宣 記 ﹄ 中 に 、 延
に ﹁信 智 の 次 男 判 官 代 ﹂ と 傍 書 さ れ て い る よ う に 、 信 智 一族 の 者
平 重正 同五男 平俊 範儘智嫡男
蔵 人平 家経
生地胴捨 聯僧 性実
蔵 人坂 上家 澄 判官代 平光 直在判
已 上 、挙 為宗 人 々交名 。 惣 上下 内外 諸 人 、 依不 知 其数 、 不能
ま た 、 ﹁判 官 代 平 光 直 ﹂ も 、 ﹃御 託 宣 記 ﹄ に お い て 、 そ の 名 の右 傍
委注 。出 家輩 少 々在之 。 ︹⋮⋮︺
さ ら に 、信 智 嫡 男 の 俊 範 に は 、如 意 と いう 十 七 歳 の嫁 が い た 。﹃御
命 と いう 娘 、 助 太 郎 と い う 息 子 を 確 認 す る こと が で き る。
入 道 のむ す め ﹂ (
上 巻 冒 頭 ) で あ った 。 津 守 家 と は 、 摂 津 国 住 吉 大
託 宣 記 ﹄ に よ れ ば 、 彼 女 は ﹁住 吉 の 肥 後 前 司 津 守 宿 祢 次 男 掃 部 助
まず 交 名 は、 ﹁
由 良 心 地 房 上 人 覚 心 ﹂ の 名 を 記 し て い る 。 ﹁由 良
心 地 房 上 人 覚 心 ﹂ と は 、 無 本 覚 心 と も 呼 ぼ れ る、 鎌 倉 後 期 に 活 動
社 に 代 々仕 え た神 主 家 で あ る 。 ﹃御 託 宣 記 ﹄ で は 、 如 意 と 、 先 の 延
し た 臨 済 宗 の禅 僧 で あ る 。覚 心 は 、高 野 山 で 真 言 密 教 と 禅 を 修 め 、
命 と の病 が 、 八 幡 に よ る 託 宣 の要 因 と な って い る 。
(
興 国寺 ) の住持
そ のほか、交 名 には 、 ﹁
蔵 人 平 家 経 ﹂ と そ の ﹁舎 弟 ﹂ で あ る ﹁僧
入宋 も経 験 し、 帰朝 後 は紀 伊 国由 良荘 の西方 寺
覚 心 の弟子 とし て崇 心と 心海 の名 を、 さら に、 ﹁
蜜 教 房 義 弁 ﹂ の名
つ い て は 詳 し く わ か っ て いな い が 、 櫻 木 潤 は 、 坂 本 家 澄 を 紀 伊 国
性 実 ﹂、 そ し て ﹁
蔵 人 坂 上 家 澄 ﹂ が名 を 連 ね て い る 。 家 経 と 性 実 に
を 務 め て 南 紀 一帯 を 中 心 に 活 動 し て い た 璽 。 続 け て交 名 は 、 そ の
が挙げ ら れ ている。崇心 や心海 のよう に ﹁
同 弟 子 僧 ﹂ と な いた め 、
マ マ リ
こ の託 宣 に は 、 覚 心 を は じ め と す る 臨 済 宗 法 燈 派 の僧 徒 や 、 野
伊 都 郡 の在 地 領 主 で あ った 坂 本 氏 の者 で は な い か と し て いる 。
義 弁 を 覚 心 の法 弟 の ひ と り と 数 え る の は た め ら わ れ る が 、 覚 心 の
伝 記 であ る ﹃
縁起﹄に ﹁
師 、 以 二神 託 一不 レ辞 。 率 二寺 僧 三 員 ︿宗 心
義弁﹀ 一
(
Bv
﹂ (︿ ﹀ 内 は 割 注 ) と あ り 、 後 代 に は そ の 一
上 荘 を は じ め と す る 近 隣 荘 園 の在 地 領 主 層 が 集 っ て い た 。 ま た 交
心海
員 で あ る と 認 識 さ れ て いた よ う で あ る 。 な お 、 こ れ ら 覚 心 を 祖 と
す こ と 能 わ ず 。 又 出 家 の輩 少 々 こ れ 在 り ﹂ と あ り 、 こ の託 宣 の 場
名 に は 、 ﹁惣 の上 下 内 外 の 諸 人 、 そ の数 知 ら ず に よ り て 、 委 し く 記
以 上 、 簡 潔 に で は あ る が 、 八 幡 の託 宣 に 参 与 し た 人 々 に つ い て
が 、 き わ め て 開 か れ た 性 格 のも の で あ っ た こ と を 伝 え て い る(
撃。
次 に 、交 名 は 、 ﹁山 東 入 道 向 西 ﹂ と 、そ の舎 弟 ﹁木 工 助 入 道 信 智 ﹂
す る 一派 は 、 覚 心 の誰 号 に 因 ん で、 法 燈 派 と 呼 ば れ る。
を 挙 げ る 。 向 西 は 、 野 上 荘 に 隣 接 す る 山 東 荘 の有 力 者 で あ った 。
移 り た い。
確 認 し た 。 そ れ で は 、 よ う や く で は あ る が 、 ﹃御 託 宣 記 ﹄ の 分 析 に
交 名 に よ れ ば 、彼 の息 子 で あ る 重 直 ・重 光 ・重 正 ら と 、舎 弟 で あ っ
﹁
木 工 助 入 道 信 智 ﹂ は 、 ﹃御 託 宣 記 ﹄ に ﹁
野 上 庄 の下 司 木 工 助 入
た 長 慶 と 渕 覚 ら と が こ の場 に 訪 れ て いた 。
一
一
67
三
いか にし て託宣 は 下され たか
﹃御 託 宣 記 ﹄ は 、 次 の よ う に 筆 を 起 こ す 。
翌 二月 十 八 日 、 ﹁由 良 の心 地 房 覚 心 上 人 ﹂ (
﹃御 託 宣 記 ﹄ で は 、 ﹁上
人﹂﹁
聖 ﹂ ﹁ひ し り ﹂ と も 。) が 請 じ ら れ た 。 延 命 と 如 意 に 対 し て 、
覚 心 が 加 持 を 施 す と 、 翌 日 の 巳 刻 に 、 如 意 だ け が ﹁こ と さ ら 例 よ
り も 物 狂 ﹂ の 状 態 と な った 。 彼 女 の ﹁物 狂 ﹂ は 、 同 座 の 人 び と に
同 時 に 重 病 を う く 。 と も に 年 十 七 也 。 彼 よ め ハ、 住 吉 の 肥 後
め 延 命 女 、 井 よ め 如 意 女 、 建 治 四 年 正 月 晦 日 の申 剋 よ り 二 人
心 経 三 巻 を よ む 。 な を 経 の 聴 聞 あ る へき よ し を す ﹀め 申 に 、
経 の 聴 聞 あ る へき よ し を す ﹀め 申 に 、 う な つ き て 領 掌 。 価 、
人 々 あ や し み て 、種 々 の 事 を と ふ に 、す へ て返 事 な し 。平 光 直 、
不審 を抱 かせ た。
前 司 津 守 宿 祢 次 男 掃 部 助 入 道 の む す め な り 。 所 労 の体 つね な
﹁法 花 経 を 聴 聞 す へし ﹂ と 云 々 。 傍 、 観 音 品 を よ み、 井 宝 号
さ き の こ と く 領 掌 。 ﹁い つれ の 経 を 聴 聞 あ る へき そ ﹂ と 問 に 、
八 幡 宮 御 領 、 紀 州 名 草 郡 野 上 庄 の下 司 木 工 助 入 道 信 智 の む す
(
上 巻 、冒 頭 )
ら さ る 間 、 種 々 の い の り あ り と い ゑ と も 、 そ のし る し な し 。
﹁い か
﹁か や う に 聴 聞 あ る 人 ハた れ そ や ﹂ と 。
﹁
仏 の みさ き、 水神 山 神 なり ﹂ と 云 々。光 直 間云
百 反 唱 了。 上 人間 云
答云
重 ノ宝 塔 一。 其 ノ内 二奉 三安 二置 大 日 ヲ一
。 彼 ノ搭 破 壊 シタリ﹀。 こ の 御
﹁よ も し ら ぬ 事 あ ら し 。 わ か ま
へに あ る 大 日 の み さ き な り ﹂ と 云 々 ︿野 上 庄 八 幡 宮 ノ前 二有 二三
な る仏 の みさ き そ﹂ と。 答 云
(一二 七 八 ) 正 月 晦 日 、 石 清 水 八 幡 宮 領 紀 州 名 草 郡 野
上 荘 に て 、 ふ た り の 女 性 が 病 に 罹 った 。 ひ と り は 、 野 上 荘 下 司 ・
建 治 四年
木 工 助 入 道 信 智 の娘 で あ った 延 命 、 も う ひ と り は 、 信 智 の嫡 男 で
あ った 俊 範 の嫁 ・如 意 で あ る 。 こ の 如 意 は 、 住 吉 社 家 の娘 で あ っ
言 に より て 、 八 幡 大 菩 薩 の御 詫 宣 な り と し る 。
し か る あ いた 、 二 月 十 八 日 に 由 良 の心 地 房 覚 心 上 人 を請 し て、
て 、 般 若 心 経 三巻 が 読 ま れ た 。 光 直 が ふ た た び 経 の聴 聞 を 勧 め る
は な い。平 光 直 に よ る 経 読 諦 の 打 診 に の み 反 応 が あ る 。そ れ に よ っ
﹁物 狂 ﹂ と な った 如 意 に 対 し て 、 人 び と が 声 を 掛 け る も 、 返 事
(
上 巻 、 二 月 十 九 日 日 刻 。 ︿ ﹀ 内 は 割 注 。)
た 。 と も に十 七 歳 で あ った 彼 女 ら の ﹁つ ね な ら さ る ﹂ 病 に 対 し て
加 持 せ さ せ た て ま つ る に 、 次 の 朝 十 九 日 の巳 剋 に 、 よ め 如 意
は 、 ど の よ う な 祈 り も 功 を な さ な か った 。
女、ことさ ら例 よりも 物狂也 。(
上 巻 、 二月 十 八 ・十 九 日 巳 刻 )
と 、 如 意 は首 肯 し 、 法 花 経 の聴 聞 を 求 め た 。 そ こ で、 法 華 経 観 世
一
一
68
音 菩薩 普 門 品が読 諦 さ れ、 宝号
種 の も の で あ る と いえ よ う 。 そ し て そ の 春 属 が 、 八 幡 大 菩 薩 だ っ
女 を 殺 し て し ま う 。 如 意 と 延 命 の 身 に 起 こ った 現 象 も 、 こ れ と 同
り 葱 い た ﹁御 先 ﹂ の 崇 り は 、 御 台 の身 に 病 と し て 現 れ 、 や が て 彼
(お そ ら く は 観 音 の御 名 だ った ろ
と問う と、 ﹁
仏 の み さ き 、 水 神 山 神 な り ﹂ と 答 え る 。 光 直 の ﹁い か
う ) が 百 遍 唱 え ら れ た 。覚 心 が ﹁か や う に 聴 聞 あ る 人 ハた れ そ や ﹂
た の であ る 。
の存 在 が 降 り て いた 。娩 曲 的 に で は あ る が 、如 意 に 降 り た そ れ は 、
れ を か か こ つ へき ﹂ (
上 巻、 二月十 九日 巳刻 )と あ る。す なわ ち、
に ふ か る ﹀ ハ、 い か ほ と ︾か お も ふ 。 入 道 を か こ た す し て ハ、 た
め のも り 、 風 の す く と こ ろ に ハゐ し と す る や う に 、 あ め に ぬ れ 風
な ぜ 八 幡 は延 命 と 如 意 に 崇 った の か 。 託 宣 の 中 に は ﹁凡 夫 の あ
な る 仏 の み さ き ぞ ﹂ と いう 問 い に は 、 ﹁よ も し ら ぬ 事 あ ら じ 。 わ が
こ こ で 自 身 の 正 体 を 明 か す 。 そ れ に よ っ て、 人 び と は こ れ が 八 幡
塔 の 破 損 を 嘆 く 八 幡 が 、﹁
入 道 ﹂す な わ ち 信 智 に 修 繕 さ せ る た め に 、
ま へに あ る 大 日 の み さ き な り ﹂ と いう 。 如 意 の身 に は 、 す で に別
大 菩薩 の託宣 であ る ことを 了解 し た。 野 上 八幡宮 境内 に祀 られ 、
どう か。
(
上 巻、 二月 十九 日巳刻 )
﹁い か な る も の に て候 や ら ん ﹂ と 。
れ る 。 そ こ で光 直 は 、 ﹁
も の﹂ の正 体 に つ い て 問 う 。 八 幡 の 答 え は
﹁
も の﹂ が、如 意 と延 命 とを悩 ま し て いた こと を示 す言 辞 と思 わ
し て 愚 き た る も の ︾あ る 也 ﹂ だ ろ う か 。 こ れ は 、 八 幡 の 遣 わ し た
八 幡 の言 う ﹁
吾 は な し て つき た る も の ﹀あ る 也 ﹂と は 、﹁吾 放 (
離)
光 直間申 云
又 御 詫 宣 に 云 ﹁吾 は な し て つき た る も の ︾あ る な り ﹂ と 云 々 。
いる。
さ ら に 八 幡 は 、 こ の 崇 り に は 別 の 目 的 が あ った こ と を も 告 げ て
そ の 家 の者 で あ る延 命 と 如 意 に 崇 っ て いた の で あ る 。
当 時 殿 壊 し て い た 大 日 塔 の 存 在 が 思 い浮 か べ ら れ た た め であ った 。
当時 、 野上 八幡 宮 には、 大 日如 来 を祀 った宝塔 が 安置 さ れ て い
た 褒 。 ふ た り の 女 性 の 病 の 原 因 は 、 ﹁仏 の み さ き 、 水 神 山 神 ﹂ ﹁大
日 の み さ き ﹂ の 崇 り に あ った 。 ﹁み さ き ﹂ と は 、 あ る いは ﹁小 神 ﹂
とも呼ば れ、 ﹁
大 神 ﹂ と 尊 称 さ れ る高 位 の神 の ﹁
使 はし め﹂ とし て
不 浄事 ) に見え る、 八幡 大 菩 薩 が応神 天皇 陵 を荒 ら す
は た ら く 、 春 属 神 の謂 で あ る奪 。 そ の性 格 は 、 乙 本 ﹃八 幡 愚 童 訓 ﹄
(
下 、三
輩 に 対 し て下 し た 、 ﹁広 大 慈 悲 の体 な れ ぼ 、 吾 は兎 も 角 も 思 は ね ど
も 、 春 属 の小 神 共 が い か れ る 也 。 無 レカ 。 (
π)
﹂ と いう 託 宣 や 、 ﹃
宮
寺 縁事 抄﹄ (
巻 一末 、 巻 十 一) に 見 え る、 八 幡 の春 属 神 であ る 松 童
の、 ﹁
小 神 俄 唄 、 大 神 稻 怒 。 § ﹂ と い った 託 語 か ら 、 端 的 にう か が
い 知 る こ と が で き る だ ろ う 。 ま た 、 時 代 は 降 る が 、 説 経 ﹃し ん と
く 丸 ﹄ に は 、 し ん と く の 母 で あ る御 台 の 諦 言 に 憤 った 清 水 観 音 が 、
﹁御 先 ﹂ を 御 台 の も と へ派 遣 し 、 そ の 生 命 を 奪 お う と す る 例 が 見
ら れ る 。 つむ じ 風 と な っ て信 吉 の館 へ翔 け て いき 、 御 台 の 体 に 取
一
一
69
答云
慧 坐 と な った 如 意 と の関 係 を 捉 え た 時 、 日 本 の民 間 信 仰 に し ば し
が か ら せ 、 神 の名 を 明 か し 、 八 幡 の託 宣 を 導 いた 覚 心 と 、 八 幡 の
こ で は 、 司 霊 者 の役 に 覚 心 が 、 神 が か る 巫 者 の役 に 如 意 が 、 そ れ
﹁ほ ゆ る こ ゑ を ハ、 き か ぬ か み ぬ か 。 河 の い ろ く つ を と
り 、 又 、 わ か 使 者 を こ ろ し て 、 足 の つま さ き よ り 頂 に い た る
る セ ット型 シャー マン のあり 方 を見 て取 る こと も でき よう(
聖。 こ
ば 見 ら れ る 、 "神 が か る 巫 者
ろさ れ てお も ふ事 か きり な し。 山 さ かを 隔た る と こ ろた にも
ぞ れ相 当す る。
神 がか らせ る司 霊者 " と呼 ぼ れ
ふ そ 。 凡 夫 の 乗 物 死 ぬ れ ハな け く か こ と く 、 吾 乗 物 を 其 数 こ
ま て皮 を は き 、 し ﹀ む ら を や く ほ の を ハ、 いか は か り と お も
あ る に 、 わ か 前 二 し て ま の あ た り 、 使 者 に 箭 を い た て ﹀、 し
わた って
下 さ れ る と いう 点 に お い て
特 異 であ る 。 そ し て 、 連 日 の問 答 の 始 め と 終 わ り に は 、 ほ と ん ど
四
託官一
の作法
そ の点 に つ い て 、 次 節 で 具 体 的 に確 認 し て い き た い。
時 に は 一日 に 数 度 も -
わ か 前 に ま いり て 、 お や を う し な い て ハ子 か な し ミ 、 子 を う
必 ず と い っ てよ いほ ど 、儀 礼 的 な 所 作 が 伴 わ れ る 点 も 注 目 さ れ る 。
し か し 、 ﹃御 託 宣 記 ﹄ は 、 八 幡 に よ る託 宣 が 、 連 日 、 十 数 日 間 に
し な い て ハお や か な し む 。 凡 夫 ハ鹿 の な く と こ そ き け と も 、
な ぬ い の ち を こ ろ さ ん と し た る ハ、 い か は か り と か お も ふ 。
わ れ ハな け き 申 こ と ハと こ そ 聞 な り ﹂ と 云 々 。
(
上 巻 、 二 月 十 九 日 巳 刻 。)
こ こ で の 八 幡 は 、 ﹁わ が 前 ﹂ に て ﹁
わ が使 者 ﹂ ﹁
吾 乗物 ﹂ が数 多
ふ た り の 女 性 の 病 の 原 因 が ﹁大 日 の み さ き ﹂、 す な わ ち 八 幡 大 菩
く 殺 さ れ て い る こと に つい て嘆 い て いる 。 ﹁山 坂 隔 た る と こ ろ だ に
薩 の崇 り で あ る と 明 ら か に さ れ た 翌 日 、ふ た た び 八 幡 が 影 向 し た 。
﹁
種 々 の秘 印 を む す
も あ る に 、 わ が 前 に し て 目 の 当 た り 、 使 者 に 箭 を 射 た て ﹀﹂ と あ
の狩 猟 を 戒 め る た め に 、 八 幡 は ﹁
も の﹂を 延命 と如 意 に遣 わ し、
同 月 廿 日 の巳 剋 二 、 又 御 影 向 。 上 人 間 云
る こ と か ら 、 そ れ は 荘 内 で の 狩 猟 行 為 を 指 し て い る と 思 し い。 そ
崇 り を示し て いた のであ る。
云 々 。 又 御 詫 宣 二云 ﹁つと め せ さ せ 給 へ﹂ と 云 々 。 価 上 人 観
わ れ を お こな ゑ ハ、 わ れ も ひ し り を お こ な ひ か へす な り ﹂ と
は せ 給 候 ハ、 な に と お ほ し め さ れ 候 そ ﹂ と 。 答 云 ﹁ひ し り も
狂 ) を 契 機 と し 、 覚 心 の 加 持 に よ っ て神 が 降 り 、 神 が 自 身 の正 体
音 経 を よミ給 に、 御詫 宣 云
(
物
明か し、 崇り の理由 を説 明
以 上 の よ う に 、 八 幡 託 宣 ま で の過 程 は 、 ふ た り の 女 性 の病
に ついて ー
よ む 。 又 御 詫 宣 に云 ﹁つと め あ る へし ﹂ と 云 々 。 上 人 間 云 ﹁
何
﹁
弟 子 も よ め﹂ と云 々。価 同 音 に
す る と い った も の に な っ て い る 。 こ の 一連 のプ ロ セ ス は 、 事 例 と
娩 曲的 ではあ ったが ー
し て は よ く 見 ら れ る も の で あ る 。 そ こ で 、 加 持 に よ っ て如 意 を 神
[
一
70
経 を よ ミ 候 へき そ ﹂ と 。答 云 ﹁
心 経 三 巻 よ ま る へし ﹂ と 云 々 。
陀 羅 尼、 観 音 経 、錫 杖 、 心経 を よ む に、 これ を付 てあ そ ハ
経 、 尊 勝陀 羅 尼 、 千手 陀 羅 尼、 観 音 経、 錫 杖 、 心経 、 聴聞
同 廿 三 日 の巳 剋 二、 又 御 影 向 。 す な は ち 御 詫 宣 二云 ﹁梵 網
(
上 巻 、 二 月 二 十 一日 戌 刻 )
し 、 種 々 の印 を む す ひ 給 事 さ き の こ と し 。
︹⋮
価 よ ミ た て ま つ る に 、 こ れ を 付 て あ そ は す 。 つ と め の間 ハ合
(
上 巻 、 二 月 二十 日 日 刻 )
掌 。 経 の お ハり こ と に 種 々 の 秘 印 を む す ひ 給 。 上 人 間 云
⋮︺
○
せ ん ﹂ と 云 々。 傍 、 こ の経 陀羅 尼 を よ む に、 これ を付 てあ
八 幡 の ﹁つと め せ さ せ 給 へ﹂ と いう 言 に 従 い 、 覚 心 が 観 音 経 を
読 む 。 す る と 八 幡 が ﹁弟 子 も よ め ﹂ と 命 じ 、 弟 子 た ち が 覚 心 の 読
そ は し 、 種 々 の印 を む す ひ 給 事 、 さ き の こ と し 。
(以 上 、 中 巻 )、 託 宣 の
(
以 上、 下
(
下巻 、 三月十 三日 辰刻 )
以 上 、 列 挙 し た よ う に 、 八 幡 が 影 向 し た 際 に は 、 経 陀 羅 尼 の読
(
下巻 、 三月十 六日 日刻 )
○ 同 十 六 日 巳 剋 二、 又 御 影 向 。 勤 等 作 法 、 如 レ前 。
お ハり て、 上 人 間 云 ︹⋮ ⋮ ︺
向 。 所 詫 の 人 如 意 女 。 上 人 井 諸 僧 経 陀 羅 尼 を よ み 、 つと め
○ 弘 安 元 年 三 月 十 三 日 辰 剋 、 由 良 西 方 禅 寺 に し て、 重 て 御 影
(
中 巻 、 二月 二 十 四 日 申 刻 )
は し 、 種 々 の印 を む す ひ 給 事 さ き の こと し 。
に、 今度 より 五 大 尊 の真 言 を副 てよ む 。 これ を つけ てあ そ
○ 同 廿 四 日 の申 剋 二、 又 御 影 向 。 す な は ち 経 陀 羅 尼 を よ も む
マヱ
(
上 巻 、 二月 二十 三 日 日 刻 )
経 に 続 く 。 重 ね て 八 幡 が 般 若 心 経 三 巻 を 読 諦 す る よ う に い い、 心
経 が 読 諦 さ れ た 。そ の際 、八 幡 も そ れ に 付 け て 読 み 、 さ ら に は ﹁つ
と め ﹂ の間 に は 合 掌 、 経 の 終 わ り 毎 に 結 印 し た と いう 。 そ の 一連
の 行 為 を 経 て、 よ う や く 本 格 的 な 問 答 が 開 始 さ れ る。
こ こ で 、 前 項 に て 引 用 し た 、 二 月 十 九 日 日 刻 に お け る 一連 の や
り 取 り を 思 い返 し た い 。 そ こ で は 、 如 意 の 口 を 借 り た 八 幡 の要 請
に 従 って 、 般 若 心 経 、 法 華 経 観 音 品 が 読 ま れ 、 宝 号 が 唱 え ら れ て
いた 。 右 に 引 用 し た 二 十 日 の 例 と 同 様 に 、 託 宣 の場 に お い て行 な
わ れ る ﹁つと め ﹂ は 、 神 の側 か ら の要 求 に よ る も の で あ った 。
そ れ で は 、 二 十 一日 以 降 、 八 幡 が 影 向 す る 場 面 は 、 ど の よ う に
(以 上 、 上 巻 )、 二十 四 日 申 刻 条
描 か れ て い る の だ ろ う か 。 試 み に 、 二 月 二十 一日 戌 刻 条 、 二十 三
日巳 刻条
場 を興 国寺 に移 し た 三月十 三 日辰 刻条 、 十 六日 巳刻 条
巻 ) を、 それぞ れ摘 出し て みよう 。
○ 同 廿 一日 の 戌 剋 二、 又 御 影 向 。 す な は ち 尊 勝 陀 羅 尼 、 千 手
一
一
71
諦
羅 尼 の 読 諦 が 法 燈 派 僧 に よ る も の で あ った 点 を 鑑 み れ ば 、 こ こ も
ら れな いた め、推 測 す るほ かな いが、 八幡 影向 時 に おけ る諸経 陀
と 、八 幡
が そ れ に 付 け て読 み 、 さ ら に は 結 印 す る と い った 所 作 と が 、 欠 か
お そ ら く は 、 法 燈 派 僧 に よ る も の だ った ろ う
さ ず 行 な わ れ る 。 も ち ろ ん 、 右 に 挙 げ な か った 日 に お い て も 、 そ
○
す な ハち 御 掌 を あ わ せ て、 上 人 を 三 反 礼 し 給 て、 ﹁あ す の
に 、 いく つ か摘 出 し 、 列 挙 し て み る。
以 後 、 八 幡 退 去 の場 面 は 、 ど のよ う に 描 か れ る の か 。 先 と 同 様
彼 ら に よ る も の で あ った と 考 え て よ い だ ろう 。
れ は 見 ら れ る 。 こ れ ら 一連 の 行 為 が 、 問 答 が 開 始 さ れ る 前 の 、 あ
る 種 作 法 と し てあ った と 言 っ て も 過 言 で は な い だ ろう 。 ま た 、 二
十 三 日 条 で は 、 十 九 ・二十 日 と 同 様 に 、 八 幡 に よ って 、 ど の 経 陀
巳 の時 二き た る へし ﹂ と て 、 た ち さ ら せ 給 ぬ 。 心 経 を よ む
羅尼 を 読諦 す る のか が命 じら れ て いる。 二十 四 日条 では ﹁
今度よ
事、 さき の ことし 。
(
中巻 、 二月 二十四 日申刻 )
り 五大 尊 の真言 を 副 てよ む﹂ と あ る。あ え て憶 測す れば 、 これ も
そ れ で は 、 一日 の問 答 の終 わ り 、 す な わ ち 八 幡 が 慧 坐 の如 意 か
八 幡 に よ っ て 命 じ ら れ た 結 果 、読 む よ う に な った も の と 思 わ れ る 。
す な ハち 御 掌 を あ わ せ て 、 上 人 を 三 反 礼 し 給 て、 ﹁又 申 の
時 に き た る へし ﹂ と て 、 た ち さ ら せ 給 ぬ 。 心 経 を よ む 事 、
○
さき のことし 。
ら離 れ 、 こ の場 から 退去 し てゆく 場面 では、 どう だ ろう か。 そ れ
が は じ め て記 述 さ れ る よ う に な る の は、 ﹃御 託 宣 記 ﹄ 上 巻 の 二 月 二
(
上 巻、 二月 二十三日 巳刻 )
(
下巻 、 三月十 三日 辰刻 )
(
下 巻 、三月 十四 日巳刻 )
以上 の四 例 から明 ら かな よう に、野 上 荘 におけ る託 宣 に お いて
は八幡 によ る合 掌 ・礼拝 と法燈 派僧 によ る般 若心 経 の読諦 と が、
場を 興国 寺 に移 し た下巻 以 降 で は心経 の読 諦 が、 そ れぞ れ欠 か さ
ず 行 な われ て い る。 先 に見 た影 向 の場 面 と同 様 に、 八幡 が退 去 す
○ 即立 さら せ給 ぬ。心経 如前 。
○ 即立 さ らせ給 ぬ。 其間、 心経 を よむ事 、如前 。
(
中 巻 、 二 月 二十 五 日 巳 刻 )
十 三日巳 刻条 であ る。
加 様 に御 詫 宣 あ り て 、 な ミ た を な か さ せ 給 あ ひ た 、 上 人 、 御
た も と を う る ほ す 。 す な は ち 御 掌 を あ ハせ て上 人 を 三 反 礼 し
手 を と り て と も に 流 涕 。 其 外 、 こ の座 に つら な る 人 々 、 みな
三巻 よ ミ た て ま つり お ハり ぬ 。
給 て、 ﹁
事 な か く に 候 ヘ ハ﹂ と て た ち さ ら せ 給 ぬ 。 其 間 、 心 経
注 目 され る のは、 如 意 の体 から離 れ よう と す る八幡 は合 掌 し て
覚 心 を 礼拝 し、 そ の八幡 に対 し ては般 若 心経 三巻 が読 諦 され た、
と し て いる点 であ る。 心経 を読 諦 した のは誰 か。 明確 な記 述 が見
[
一
72
住 吉 の 氏 人 ハわ か 氏 人 也 。 さ れ ハ、 こ れ に も ひ と り お か ん と
こ れ に いり か ハる 事 ハ、 す ミ よ し と わ れ と ハ ひ と つな れ ハ、
思 ゐ て 、 こ の いり か ハり た る も の を ハ、 わ か む か へた る な り 。
る場 面 にお いても、 あ る時 点 を境 に し て、 八幡 の所 作や 心経 読 諦
こ の よ う に 、 八 幡 の 問 答 の始 め と 終 わ り に は 、 ほ と ん ど 必 ず と
と が 、 作 法 と し て定 着 し て ゆ く の で あ る 。
こ れ ハ、 さ き の よ に 入 道 と 親 子 のち き り あ り し に よ り て 、 今
(
上巻 、 二月 二十 二日巳 刻)
︹⋮ ⋮ ︺﹂
い っ て よ い ほ ど 、 経 陀 羅 尼 の読 調 や 、 八 幡 の 所 作 が 伴 わ れ る 。 そ
も お や 子 と な り た り 。 な を さ り の事 と 思 へか ら す
﹁いり か わ ら せ 給 て候 も の ﹂ と は 、 愚 坐 と し て の如
そ の如 意 は 、 ﹁鈍 根 ﹂ と い う 性 質 の持 ち 主 で あ った ら し い。 ﹁
鈍
わ る ﹂ こと に よ っ て起 こ る も の だ と 認 識 し て い る 。
意 を 指 し て い る。 光 直 は 、 愚 依 現 象 を 、 如 意 と 八 幡 と が ﹁入 り 替
光 直 の いう
し て そ れ ら は 、託 宣 の 中 で生 み出 さ れ 、定 着 し た も の で あ った 点 、
そ し て、 影 向 の 場 面 に 限 っ て 見 れ ば 、 唱 え ら れ る 経 陀 羅 尼 の選 択
が 、 託 宣 の 主 で あ る 八 幡 に 委 ね ら れ て い た 点 に特 徴 を 見 出 す こ と
神 と人 とを つなぐ存 在
が で き る(
2
。
)
。
五
﹁天 に 口 な し 、 人 を 以 て 言 わ せ よ ﹂ と いう 浬 諺 も あ る よ う に 、
ニー 一 ﹁
仏舎 利感 得 シタ ル人事﹂ は、 ﹁
鈍根 ﹂ であ ると いう須 利桑
根 ﹂ と は 、 頭 の働 き の に ぶ い こ と を いう 。 た と え ば 、 ﹃
沙 石集 ﹄巻
ニ、 箒 ノ名 ヲ 復 ス レ バ 、 掃 ハ ワ ス レ 、 掃 ヲ 覆 ス レ バ 、 箒 ハ忘 ル程
止 観 ノ 法 門 ノ 讐 二、 ﹁
観 ハ箒 ノ如 シ、 止 ハ塵 ノ如 シ ﹂ ト 、 教 ヘケ ル
特 の話 を 挙 げ 、 そ の 質 を ﹁
余 リ ニ鈍 根 ニ シ テ 、 我 名 ヲ モ忘 ケ リ 。
神 の言葉 は、人 の口を 介 し て届け ら れ る。神 と 人と が交 歓 す る場
野 上 荘 に お け る 八 幡 大 菩 薩 の託 宣 で は 、 本 稿 第 三 項 に て述 べ た
に は 、 か な ら ず 、 両 者 を つな ぐ 媒 介 者 の 存 在 が あ っ た 。
よ う に 、 巫 者 と し て の如 意 と 、 司 霊 者 と し て の無 本 覚 心 が 、 そ れ
也藝﹂ と説 明し ている。
ま た 八 幡 は 、 如 意 に つ い て 、 次 の よ う に も 述 べ て い る。 住 吉 と
いだろう か。
根 ﹂ と いう 性 質 も 、 あ る い は 生 得 の 巫 者 的 資 質 と し て 捉 え ら れ な
と し、 そ こに巫者 の生来 的 な資 質 を見 出 し て いる(
磐。 如 意 の ﹁
鈍
か つ て 堀 一郎 は 、 シ ャ ー マ ン (巫 者 ) は ﹁
例 外 なく 子供 の頃 か
に当 た る。 し かし 、な ぜ 、如意 と 覚 心 が、 それぞ れ そ の役 たり え
ら 偏 食 で あ り 、 憂 鯵 で 内 攻 性 、 病 弱 で夢 み が ち な 性 格 であ った ﹂
﹁そ れ こ そ あ る な れ 。
﹁こ の いり か わ ら せ 給 て候 も の ﹀鈍 根 に 候 を ハ、
た のだろう か。
﹃
御 託宣 記﹄ に は、如 意 に ついて、次 のよう にあ る。
光 直 間申 云
い か ﹀ つか ま つり 候 へき そ ﹂ と 。 答 云
文 殊 二申 へし 。 な と か ハか な ハさ ら ん 。 人 こ そ お ほ け れ と も 、
一
一
73
め 、 如 意 を こ ち ら の氏 人 と し て ﹁む か へ﹂ た の だ 。 こ れ は 、 前 世
八 幡 と は 同 体 であ り 、 住 吉 の 氏 人 は 八 幡 の氏 人 で も あ る 。 そ の た
言 され て いる のである。
八 幡 の神 慮 は 語 ら れ え な いも の で あ った と 、 八 幡 自 身 に よ っ て 明
む ろ ん 、 覚 心 の こ と で あ る 。 覚 心 と いう 媒 介 項 を 通 し て で し か 、
さら には、次 のよう にもあ る。
に お け る 信 智 と の 親 子 の契 り に よ るも の でも あ る 、 と 。 こ こ で と
り わ け 注 目 さ れ る の は 、 神 慮 に よ って 、 住 吉 社 家 の娘 で あ った 如
意 が 、 野 上 荘 へ迎 え ら れ た と し て い る 点 だ ろ う 。 如 意 は 、 八 幡 に
お ハし ま す 事 に て 候 そ ﹂ と 。 答 云 ﹁
わ れ ハ八 幡 二住 し て、 処 々
上 人 間云
か な ふ ま し き を ハか な へす 。 ︹⋮ ⋮ ︺﹂ と 云 々 。上 人 間 申 云 ﹁い
の末 社 に ハ光 を さ し て 、凡 夫 の申 事 の か な ふ へき を ハか な へ、
や わた
よ っ て召 命 さ れ た 存 在 で あ り 、 そ れ ゆ え 慧 坐 と し て 選 ば れ た 。 ﹁人
﹁処 々 二大 菩 薩 を あ か め た て ま つり 候 ハ、 い か に と
こ そ お ほ け れ と も 、 こ れ に い り か ハる 事 ハ﹂ と いう 言 が 端 的 に 示
し て い る よ う に 、 八 幡 に と っ て愚 坐 は 、 延 命 で も そ の他 の 人 物 で
ま も 光 を さ し て 御 知 見 候 か ﹂ と 。 答 云 ﹁わ れ 聖 に 対 面 の た め
に直 に来 れ る也 ﹂ 云 。 又問 云
そ れ で は 、 司 霊 者 で あ った 覚 心 の場 合 は ど う だ ろ う か 。 こ の託
も な く 、 如 意 で な け れ ぼ な ら な か った 。
宣 に は 、 覚 心 の存 在 が 、 少 な く と も き っか け と し て は 必 要 で あ っ
給 候 へき そ ﹂ と 。 答 云 ﹁聖 の こ れ に 御 わ た り あ ら ん 程 ハ こ れ
﹁
八 幡 ヘ ハ何 比 二 か へり い ら せ
た 。病 者 に 対 す る 覚 心 の加 持 は 如 意 を 神 が か ら せ 、 そ れ に よ っ て、
に 候 へし ﹂ と 云 々。
る。 今も 本 社 から光 を 指 し て いる のかと 。 八幡 は、 覚心 と対 面 す
放 っ て凡 夫 を 擁 護 す る のだ と いう 。 さ ら に 覚 心 は 問 い を 投 げ か け
﹁八 幡 ﹂ つま り 石 清 水 八 幡 宮 に 常 住 し て 、 諸 所 の 末 社 に は 神 光 を
や わた
八幡 を祀 る社 に ついて であ る。 それ に対 し て八幡 は、本 社 であ る
﹁上 人 ﹂ す な わ ち 覚 心 が 問 う て い る の は 、 全 国 に 分 布 し て い る
(
上 巻、 二月 二十 三日日 刻)
人び と は神 慮 をう か がう機 会 を得 た から であ る。 八幡 は、覚 心 に
﹁
仏 の み さ き ハ、 な に 事 に よ り て た ﹀り を な し
つ い て、 次 の よ う に 述 べ て い る 。
光 直 又問 申 云
ひ し り に む か い て い は ん と て、 日 こ ろ ハも のも い は て あ り つ
る た め に ﹁直 に ﹂ 来 て い る のだ 、 と 答 え る 。 先 に 見 た 本 社 末 社 に
給 そ ﹂ と 。 答 云 ﹁凡 夫 ハ、 わ か い は ん 事 を も ち い ま し け れ ハ、
(
上 巻、 二月 十九 日日刻 )
へ。 も の お し ゑ せ ん ﹂ と 云 々。
在 で あ った 八 幡 が 、 覚 心 の た め に 直 接 訪 れ て い る か ら で あ る 。 さ
とが 明ら か だ ろう。 本来 な らば 常 住す る本 社 から 神 光を 届け る存
関 す る や り 取 り を 踏 ま え る と 、 こ の託 宣 が 例 外 的 な も の であ る こ
れ と も 、 い ま は ひ し り に む か い て い ひ そ め た れ ハ。 入 道 を よ
崇 り の 理 由 を 問 う 光 直 に 対 し て 八幡 は 、﹁ひ し り ﹂に 対 面 し て ﹁
も
の﹂ を 言 う た め に 影 向 し た の だ と 託 宣 す る 。 こ の ﹁ひ し り ﹂と は 、
一
﹁
74
ら に八 幡 は、覚 心 が こ の場 に いる限 り は、 こ こに居 続 け るだ ろう
マ ニズ ム 研 究 に お い て言 及 さ れ る よ う に 、 霊 的 存 在 に よ る ﹁お 召
い 力 の発 現 に よ っ て ﹁む か へ﹂ら れ た存 在 であ った 。し ば し ば シ ャ ー
し ﹂ は 、 人 が シ ャ ー マ ン化 す る た め の ひ と つ の 条 件 で あ る 牽 。 如
と も し て い る 。 や は り 、 こ の託 宣 に は 、 覚 心 の存 在 が あ っ て こ そ
下 さ れ た も の であ った 。
と し て の 如 意 と 司 霊 者 と し て の 覚 心 は 、 人 智 を 超 え た と こ ろ で操
意 と 覚 心 の 召 命 も 、 そ の視 点 か ら 捉 え る 必 要 が あ る だ ろ う 。 巫 者
る。
作 さ れ 、 あ る 種 の必 然 性 を も っ て 、 こ の 場 に 連 座 し て い る の で あ
加 え て 、 別 の箇 所 を 参 照 し て み よ う 。
れ ハ、 わ か い ふ 事 を も も ち ひ ま し く 、 き た な け れ は 、 ひ し り
"
神 がか る巫 者 -
神 が から せ る司霊 者 " モデ ル
のあ り よ う を 見 た 。 ま た 、 こ の 八 幡 の託 宣 は 連 日 に わ た って 下 さ
稿 では そ こに、
心 の 加 持 に よ っ て 、 如 意 の 身 に 八 幡 が 降 り 、 託 宣 が下 さ れ た 。 本
と し た 。 そ こ で 、 病 の 治 療 の た め 、 禅 僧 ・無 本 覚 心 が 招 か れ 、 覚
野 上 荘 に お け る 八 幡 大 菩 薩 の託 宣 は 、 ふ た り の女 性 の 病 を 契 機
お わり に
再 三 又 御 詫 宣 二 云 ﹁験 者 を 請 し て い の れ と も 、 凡 夫 ハ信 な け
の 威 を う し な ハし と 思 。 名 を あ け ん と お も ヘ ハ、 ひ し り の ほ
か へた か ふ へき に て あ り し を 、 わ か 方 便 し て と も と お も ひ て
ハ凡 夫 と 見 れ と も 、 わ れ ハ仏 と お も ふ な り ﹂ と 云 々 。
む か へた る な り 。 ひ し り ハ人 間 のす か た を う け た れ は 、 凡 夫
(
上 巻 、 二月 十 九 日 巳 刻 )
こ こ で は 、 八 幡 の覚 心 に 対 す る 敬 意 が 、 よ り 具 体 的 に 表 わ さ れ
れ 、 日 々 の 問 答 の 始 終 に は 、 ほ と ん ど 必 ず と い っ て よ いほ ど 、 八
て いる 点 に注 目 し た い 。 ﹁
名 を あ け ん と お も ヘ ハ、 ひ し り の ほ か へ
た か ふ へき に てあ り し を ﹂ と は 、 こ の 場 に覚 心 を 招 い た の は 、 覚
そ の場 で読 ま れ る経陀 羅尼 の数 々 は、 八幡 が影向 し た場 面 に限 っ
幡 の所 作 や 経 陀 羅 尼 の読 諦 が 、作 法 と し て伴 わ れ て いた 。そ し て、
て 見 れ ば 、 神 の 側 か ら の要 請 に よ って 定 め ら れ た 点 に 特 徴 が あ っ
心 の名 を 上 げ る 、す な わ ち 験 者 と し て の功 名 が 目 的 な の で はな い、
そ れ を 八 幡 は 、 ﹁と も ﹂ と し て ﹁む か へ﹂ た た め であ る と述 べ る 。
と いう こ と だ ろ う 。 覚 心 が こ の 場 に い る の に は 、 理 由 が あ った 。
の は 、 八 幡 の神 慮 に よ っ て 招 か れ た た め であ っ た 。 彼 ら が こ の 場
に 連 座 し て い る の は 、 偶 然 で は な く 、 八 幡 の 召 命 が あ った と いう
た 。 ま た 、 八 幡 託 宣 に お い て如 意 と 覚 心 が 巫 者 と 司 霊 者 た り え た
合 理的 な説 明 がな され る のであ る。
覚 心 も ま た 、如 意 と 同 じ く 、八 幡 に よ って 招 か れ た 存 在 であ った 。
る人び と と八幡 大 菩薩 と を仲 介 す るも のと し て、重 要 な役 を担 っ
こ の 八 幡 託 宣 に お け る如 意 と 覚 心 は 、 野 上 荘 官 家 を は じ め と す
て い る 。 こ の ふ た り は いず れ も 、 八 幡 の 神 慮 と いう 、 目 に 見 え な
一
一
75
﹁
無 住 著作 にお け る
法 燈 国師話 - 鎌倉 寿福 寺 と高 野 山金 剛 三昧 院1 ﹂ (
﹃国 語 と 国
吉 川 弘 文 館 、 一九 九 八 年 。)。 土 屋 有 里 子
文 学 ﹄ 東 京 大 学 国 語 国 文 学 会 、 二 〇 〇 三 年 三 月 号 。)。
以 上 、 本 稿 で は 、 ﹃御 託 宣 記 ﹄ を 、 中 世 に お け る ﹁託 宣 ﹂ と いう
の と し て分 析 し て き た 。 し か し 、 残 さ れ た 課 題 も 多 い 。 託 宣 の 場
宗 教 事 象 が ど の よ う な も の で あ っ た の か 、 そ の 一事 例 を 伝 え る も
と の関 係 を も 踏 ま え た う え で 、 考 察 し て ゆ く 必 要 が あ る だ ろ う 。
本 稿 で は 検 討 の 対 象 と し て こ な か った 、 託 宣 を 見 聞 く 他 の 人 び と
関 西 大 学 出 版 部 、 二 〇 〇 九 年 。 同書 に は 、 ﹃御 託 宣 記 ﹄ の櫻 木
(2)櫻 木 潤 ﹁野 上 八 幡 宮 所 蔵 ﹃御 託 宣 記 ﹄ に つ い て ﹂、 薗 田 香 融 編
﹃南 紀 寺 社 史 料 ﹄ ︿関 西 大 学 東 西 学 術 研 究 所 資 料 集 刊 2 5 >、
に お い て、 司 霊 者 で あ る 覚 心 は 、 いか に ふ る ま う のか 。 そ れ は 、
別 稿 に 譲 る が 、 そ れ に よ って 、 無 本 覚 心 を は じ め と す る 臨 済 宗 法
﹁
鎌 倉 後 期 の禅 僧 無 本 覚 心 と 地 域 社 会 1 ﹁野 上 八 幡
に よ る翻 刻 が掲 載 さ れ て い る 。
燈 派 が 南 紀 一帯 に 教 線 を 伸 ば し て い く 、 そ の宗 教 実 践 の内 実 を 明
宮託 宣記 ﹂を読 むー L ﹃
和 歌山 県立博 物 館紀要 ﹄第 十九 号、 和
(3)坂 本 亮 太
お け る 八 幡 託 宣 に関 す る 論 考 に は 、主 に 、以 下 の も の が あ る 。
た 、 読 解 の 便 宜 を 図 っ て、 句 読 点 や 鉤 括 弧 を 付 し た 。 虫 喰 等
た 。 た だ し 、 漢 字 を 通 行 の 字 体 に 改 め た 箇 所 が 一部 あ る 。 ま
際 し ては 、原 文 を 尊 重 し 、漢 字 変 換 な ど の 操 作 は 行 な わ な か っ
が 撮 影 ・記 録 し た も の を も と に 翻 刻 し た も の を 扱 う 。 引 用 に
翻 刻 の誤 り が 見 受 け ら れ る た め 、 本 稿 に お け る引 用 は 、 稿 者
は、す でに櫻木 潤 によ るも のもあ るが、私見 によ れば、若干 、
託 宣 記 ﹄ 三 巻 を 実 見 す る機 会 に 恵 ま れ た 。 ﹃御 託 宣 記 ﹄ の翻 刻
ら か に す る こ と に つな が る も の と 思 わ れ る 。
(
日 )。 こ のた び 、 稿 者 は 、
歌 山 県 立 博 物 館 、 二 〇 = 二年 三 月 。
(
4)調 査 日 "二 〇 一四 年 九 月 二 十 八 日
﹁洞 門 禅 僧 と 神 人 化 度 の 説 話 ﹂ (
﹃駒 沢 史 学 ﹄ 十 周 年
に よ る 破 損 で 判 読 で き な か った 箇 所 に つ い て は 、 桜 木 潤 に よ
野 上 八 幡 宮 の現 宮 司 であ る 薮 洋 平 氏 のご 高 配 に あ ず か っ て ﹃御
記 念 号 、 一九 六 二年 )。 萩 原 龍 夫 ﹁法 燈 国 師 と そ の 伝 承 ﹂ (﹃巫
(1 ) ﹃御 託 宣 記 ﹄ が 櫻 木 潤 に よ っ て 公 に さ れ る 以 前 の、 野 上 荘 に
注
女 と 仏 教 史 - 熊 野 比 丘 尼 の使 命 と 展 開 1 ﹄ (明 治 大 学 人 文 科 学
葉 貫 磨哉
﹁法
紀 州 ゆら 由良 記 ﹄
研 究 叢 書 、 吉 川 弘 文 館 、 一九 八 三 年 。) 第 七 章 )。 大 野 治
三 、 一九 八 六 年 。 のち 、 同 氏 ﹃還 暦 記 念
家 わけ第 四
石 清 水 文 書 之 一﹄ 一二 二 号 文 書 、
東 京 大 学 史 料 編 纂 所 、 一九 五 二 年 。
(
5)﹃大 日 本 古 文 書
る 翻 刻 を 参 照 し つ つ、 適 宜 本 文 に組 み 入 れ て補 った 。
燈 国 師 と 伊 勢 熊 野 ー 神 仏 混 清 の 思 想 ﹂ (﹃由 良 町 の文 化 財 ﹄ 十
一九 九 八 年 )。 原 田 正 俊 ﹁中 世 社 会 に お け る 禅 宗 と 神 祇 - 紀 伊
半 島 ・臨 済 宗 法 燈 派 を 中 心 に ﹂(同 氏 ﹃日 本 中 世 の禅 宗 と 社 会 ﹄
[
一
76
(
6)森 本 喜 代 一 ﹃野 上 八 幡 宮 誌 ﹄ (
野 上 八 幡 宮 、 一九 九 七 年 )所 収 。
二〇 こ
の 春 日 大 明 神 託 宣 が 想 起 さ れ る 。 た と え ば 、 ﹃春 日 権
こには 、縁 側 に座 し て託 宣 を見聞 く も の、 垣を 隔 てた 側 から
現 験 記 絵 ﹄ 十 七 巻 に は そ の場 を 描 い た 絵 が 伝 わ って お り 、 そ
そ の場 を覗 き見 るも の、 いまま さ に参上 し たば か り のも のら
な お 、 本 稿 に お け る ﹃八 幡 宮 歴 代 記 ﹄ の引 用 は 、 同 書 に掲 載
が 、 老 若 男 女 を 問 わ ず 描 か れ て いる 。 ま た 、 そ の様 子 を 、 ﹃古
さ れ て い る写 真 版 を 稿 者 が 翻 刻 し た も の で あ る 。
(7)前 掲 森 本 著 書 所 収 。
今 著 聞 集 ﹄ 巻 第 二 ・六 四 は 、 ﹁
其
(
引 用者注 -葱 坐 であ る橘氏
女 ) 顔 の色 、 瑠 璃 の ご と く に あ を く す き と を り 、 口 よ り 白 き
(
8 )こ の 別 峰 と は 、 臨 済 宗 東 福 寺 聖 一派 の 別 峰 大 殊 で あ る 。 彼 は
無 本 覚 心 と つな が り が あ り 、 そ れ は ﹃天 照 大 神 相 伝 袈 裟 記 ﹄
人 あ や し み つ ︾、 き を ひ あ つ ま り て 、 お が み た う と ぶ 事 限 な
淡 を 垂 す 。︹
⋮ ⋮ ︺彼 白 淡 の か う ぼ し き 事 、他 郷 ま で匂 け れ ぼ 、
な ど に 詳 し い。 前 掲 櫻 木 論 文 参 照 。
書 に詳 し い。
(
9 )為 永 に よ る ﹃御 託 宣 記 ﹄ 修 復 の 経 緯 に つ い て は 、 前 掲 森 本 著
(
15)時 代 は 降 る が 、 文 化 八 年 (一八 一 一)刊 行 ﹃紀 伊 国 名 所 図 会 ﹄
かり けり ﹂と伝 え ている。
中 巻 に 相 当 す る部 分 だ ろ う 。 場 を 興 国 寺 に 移 し た 託 宣 は 、 ま
(10) こ の 時 点 で ま と め ら れ た の は 、 野 上 荘 に お け る 託 宣 を 記 す 上
の ﹁野 上 小 畑 八 幡 宮 ﹂ 項 に は 、 八 幡 宮 の 境 内 に ﹁大 日 塔 ﹂ が
る 。 稿 者 は 中 で も 、 原 田 正 俊 ﹃日 本 中 世 の 禅 宗 と 社 会 ﹄ 第 二
一九 九 〇 年 。
九 〇 年 。氏 ﹁雷 神 信 仰 の変 遷 ﹂﹃柳 田 國 男 全 集 ﹄ 11 、筑 摩 書 房 、
(
16)柳 田 國 男 ﹁み さ き 神 考 ﹂ ﹃柳 田 國 男 全 集 ﹄ 15 、 筑 摩 書 房 、 一九
つ い て は前 掲 森 本 著 書 に 詳 し い。
来 像 は 、 平 安 時 代 に 彫 像 さ れ た も の で あ る と いう 。 大 日 塔 に
は吉 野東 南 院 に移 築 さ れ て いる。塔 内 に祀 ら れ て いる大 日如
た そ の際 に 改 め て記 録 さ れ 、 あ わ せ て 三 巻 に な った も の と 推
(
資 )料 編、 由良 町 、 一
描 か れ て い る 。 こ の 大 日 塔 は 、 廃 仏 殿 釈 運 動 の 一環 で 、 現 在
﹃
由 良 町誌 ﹄史
測 さ れる。
(11)由 良 町 誌 編 集 委 員 会
九 八五 年。
部 第 一章 ﹁
中 世社 会 におけ る禅僧 と時 宗﹂ (
初 出 は ﹃日 本 史 研
(12)無 本 覚 心 に つ い て は 、 先 学 に よ る 彪 大 な 成 果 の積 み重 ね が あ
究 ﹄ 三 一三 、 一九 八 八 年 。)、 お よ び 、 第 二 部 第 二 章 ﹁禅 宗 の
石 清 水 文 書 之 五 ﹄﹁
宮 寺 縁 事 抄 ﹂、
(
17) ﹃
寺 社 縁 起 ﹄ ︿日 本 思 想 大 系 2 0 > 岩 波 書 店 、 一九 七 五 年 。
(
19) セ ッ ト 型 シ ャ ー マ ン に つ い て は 、 岩 田 勝 ﹃神 楽 源 流 考 ﹄ (
名著
東 京 大 学 史 料 編 纂 所 、 一九 五 二 年 。
家 わけ 第 四
地 方 展 開 と 神 舐 - 紀 伊 半 島 ・臨 済 宗 法 燈 派 を 中 心 に ー ﹂ に 学
(
18)﹃大 日 本 古 文 書
(一
んだ。
(13)前 掲 ﹃由 良 町 誌 ﹄。
(14)開 か れ た 場 で の託 宣 と い う 例 と し て は 、 ほ か 、 建 仁 二 年
[
﹁
77
出 版 、 一九 八 五 年 )、 同 氏 ﹃神 楽 新 考 ﹄ (
名 著 出 版 、 一九 九 二
年 )参 照 。
品 ・梵 網 経 ・尊 勝 陀 羅 尼 ・千 手 陀 羅 尼 ・九 条 錫 杖 経 ・五 大 尊
(
20)読 ま れ る経 陀 羅 尼 の 数 々 (
般 若 心 経 ・法 華 経 お よ び そ の観 音
真 言 )は 、原 田 正 俊 ﹁中 世 に お け る 禅 宗 の展 開 と 地 域 社 会 ﹂(﹃歴
史 と 地 理 ﹄ 六 二 七 、 二 〇 〇 九 年 。) に よ れ ば 、 ﹁顕 密 諸 宗 で も
読 諦 さ れ る が 禅 宗 も 用 い﹂ ら れ る も の で あ った よ う であ る 。
﹁シ ャ ー マ ニズ ム の問 題 ﹂ ﹃聖 と 俗 の 葛 藤 ﹄ ︿平 凡 社 ラ
(
21)﹃沙 石 集 ﹄ ︿日 本 古 典 文 学 大 系 8 5 >、 岩 波 書 店 、 一九 六 六 年 。
イ ブ ラ リ ー ﹀、 平 凡 社 、 一九 九 三 年 。
(
22)堀 一郎
(
23) こ の いわ ゆ る 召 命 型 の シ ャー マナ イ ゼ ー シ ョ ン に つ い て は 、
﹃シ ャ ー マ ニズ ム の 世 界 ﹄ (︿
講 談 社学 術文 庫 10 55 >講 談
多 く の研 究 書 に て触 れ ら れ て い る が 、 稿 者 は 特 に 佐 々木 宏 幹
社 、 一九 九 二 年 。) に 学 ん だ 。
(
本学 大学院 生 )
一
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