2012年秋 - IMコンサルタント

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名1古 屋を信 じ●│1名 古屋 と共に
江 戸 時 代 か ら 明 治 にか け て、 こ
の輸 送 距 離 ・保 管 により こ の塩 加
う ど ん は、 麺 に塩 を 入 れ た も のを
堪 古 屋 の味 噌 薫 込 拳 0 ど ん
味 噌 煮 込 みう どん は、名 古 屋 地
使 わず 、味 噌 と直 接 煮 込 む こと が
減 が求 めら れ た のであ る。煮 込 み
方 の郷 土料 理 であ った。 と ころ で、
大 須 が繭 本 屋 を 育 ては
り 、 山 本 屋 に勤 め る こと に な る。
これ に感 謝 し た初 代 が、自 身 の高
齢 化 により 屋 号 を譲 り 渡 す こと と
山 本 屋 総 本 家 の基 礎 を 築 く こ と
で あ る こと か ら 保 存 が 効 か な い
し、加 工技 術 が難 しか った。
東京浅草吉原 と同 じよう に遊郭 が
名古屋 の商 いを表 す時 に、女系
以 後 、 雪 枝 と 夫 守 一が 今 日 の
な る。
山本屋 の初 代島本万吉 は、飲食
4年 に山
店 を営 ん でいたが、大正 1
本 屋 と いう 屋号 を買 い取り、初代
と な る。
更 に、 鍋 焼 き う ど ん を温 め る こ
数多 くあり、飲食店 は付 きも ので
家族 と いう言葉 をよく使う。俗 に
行 わ れ た のであ る。 そ の分 、 生 麺
店主 となり 大須 で開業 す る ことと
一般 に は、 ゆ で麺 を 温 めた も のが
と に主 眼 を 置 く た め に、 土 鍋 の表
あ った そう だ。 このよう な活気 の
男 はだらしな いと落語 では言 われ
味 噌 煮 込 みう ど ん と鍋 焼 きう ど ん
は、ど こが違 う かご存 じだ ろう か。
鍋 焼 きう ど ん であ り 、 生 麺 から煮
面 を コー テ ィ ング し て こげ つき を
あ る大須 で、島 本 万吉 は工夫 をし
ているが、そう ではな い。企 業 経
が深 い。
う どん は コシを強 く す るた めに、
な る。 当 時 の大 須 観 音 の辺 り は、
込 んだ も のが煮 込 みう ど ん であ る
少 なく す る ことを し ている。
て山本 屋独自 の ﹁こし﹂ のあ るう
どんを生み出していく のである。
営 を夫 婦 でささえ ていく と いう こ
資 系 家 族 の本 質 は
と言 わ れ ている。
噌 煮 込 みう ど ん の上 鍋 は コー テ ィ
名古屋 と いう と、八丁味噌 をイ
それ だ け ではな い。 も う 少 し奥
ング を せず に、日 の粗 いも のを使 っ
こと により 、気泡 を発 生
この目 の粗 い土 鍋 が 温 めら れ る
し て、﹁
こく﹂ のあ るダ シと合わせ
古 屋 の自 味噌 を合 わせ ている。 そ
屋総本家 では岡崎 の八丁味噌 と名
あ る。三女 の夫 の藤原 武志 は、店
営業 の常務大原良生 は次女 の夫 で
の長 女 の夫 であり、 それを支 え る
四代目店主小松原克典 は三代 目
とがその言葉 の一
異にあ る。
させ る。 この泡 が味 噌 を
て いく のであ る。 このた めに、山
舗 管 理 を担 当 し て いる。 そ し て、
メージす るかも しれな いが、山本
拡 散 さ せ る効 果 を 出 す
本 屋総本家 の煮 込 みう どんは、渋
四女も秘書業務 を行 っている。
これ に対 し、 山 本 屋 総 本 家 の味
塩 を 入 れ る。 そ のた め に、 鍋 で温
ている。
のであ る。
みやむせ返しを感じることはな い。
老舗企業 が長期 に渡り安定 し て
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め る前 に塩 分 を取 り 除 く た め にゆ
でる のであ る。
そ の た め に、 山 本 屋
ちな みに、 この調理方法 の秘伝
著者 は、多 く の老舗 企業 を見 て
総 本 家 で は 信 楽 焼 の窯
初 代島本万吉 の山本屋 に勤 めて
きたが、 そ の殆 どが ファミリ ービ
いる背 景 には、 ファミリービジ ネ
いた のが、町 田雪枝 であ った。今
ジ ネ スであ る。 そ の特 色 は、私 生
を継 承 し ている のは、 三代 目夫 人
こ のよ う な 技 術 を 永
日から見 ると不 思議 に思われ るか
活 と企業 での生活 が 一体 化 し て い
元 か ら 特 別 に注 文 し た
年 に渡 り 守 り 続 け てき
も しれな いが、当時 の日本 で終身
ると ころにあ る。夕食 を取り なが
スがあ る。
た のが、 山 本 屋 総 本 家
永 年 勤 務 ︶ は珍 し か った。
一
屋用 ︵
ら経営 に ついて考 えたり、話 し合
とそ の娘達 である。
︵四 代 目 店 主 小 松 原 克
そんな時代 に町 田雪枝 は永年 に渡
て いる。
典 ︶ であ る。
土 鍋 を 直 送 し ても ら っ
氏
大原良生
常務取締役
山本屋総本家
株式会社
屋市・ 帽
齢
家
本
総
屋
本
株 式 会 社 山
IMコ ンサル タ ン ト代 表 平 松 陽 ―
区
栄3丁 目12■ 9
市
中
震
認
契
隧 屋
雫診 〒光
2-1-8
膨オ
八
苺 爵簿一
怒 颯
魏
ヽ
変化 を 読 お 4鳥 占 鍾 蒔 豊
であ る。
そう めん ﹂ も
めん ﹂ ﹁ひや むぎ ﹂ ﹁
販 売 し て いる。 こ の3品 は、 百 貨
店 を中 心 に販 売 さ れ て いる。 ま た
食 し てみれば 分 か る が、 そ の味 は
美 味 であ る。 と ころ が、 山 本 屋 総
本 家 と言 えば 味 噌 煮 込 みう どん と
いう イ メ ージ が広 く 知 れ 渡 って い
るた め に、 お客 様 に 3品 に ついて
知 名 度 は それ程 高 く な い。 そ れ だ
け に物 販 を 仲 ば し て いき た いと 大
原 常 務 は言 う 。
名 古 屋 の人 でも 百 貨 店 によく 行
く 人 は、 山 本 屋 総 本 家 が物 販 を し
、
て いる こと は知 って いる が そう
でな い人 には知 名 度 が そ れ 程 では
な いと いう ことだ。
同 じよう に名 古 屋 の繁 華 街 と い
であ れ ば 安 いはず だ った も のが、
に重 点 が移 ってき た。 か つて大 須
名 古 屋 駅 前 の再 開 発 により
えば 、 知 ら れ て いる のは栄 であ る
具 を 一つ 上 一つ乗 せ て いく 内 に気
が遊 興 街 であ り 、 それ が栄 に変 わ
著 者 がう ど ん チ ェー ン店 の顧 客
局いと いう こと があ
づ いて み る と一
が、 そ の重 点 は変 わ り つ つあ る。
、そこ
これ が変 わ ってき た。 名 古 屋 市 内
ると いう ことだ。
か ら よく 聞 く も のに、う ど ん だ け
事 実 、営 業 活 動 を中 心 に行 って
を 歩 いて分 か る のは、 き じ め ん と
て いる。名 古 屋 の商 売 を考 え る時
に、 そ のこと を 考 え てみ る と名 古
う と いう こと がご く自 然 に行 わ れ
鐸瑯
ヽミ
膀
き じ め ん は さ っぱ り し て いる と い
いる のが、 他 の産 地 。四 国 な ど の
、
う ど ん 屋 であ る。 そ の背 景 に は
店 と し ては減 って いると いう こと
ん ﹂ の総 販 売 量 は減 って いな いの
であ る。 つま り 、 名 産 。進 物 と し
、
ては根 強 い ニーズ があ るが 飲 食
はな いだ ろう か。
屋 企 業 の強 さ が分 か ってく る ので
、
いる大原 常 務 は、大 阪 での勤 務 後
書 いた のぼ り が減 ってき て いると
こ の時 に、 抵 抗 はな か った か と
が事 実 な のであ る。
大 切 な のは、 ﹁お金 より も 人 材 の
向 け て事業展開 をし ていくために
このよう な状況 の中 で、将来 に
お金 より 入 輔
であ る。
て いく こと は避 け ら れ な いと ころ
り と いう よう に商 店 立 地 が変 化 し
以前 か ら交 際 し て いた次 女 の実 家
いう 事 実 だ。 そ の代 わ り に増 え て
聞 いた と ころ、自 分 は名 古 屋 出 身
な る。
であり 、 周 り の環 境 も あ り 、 ご く
う 先 入観 があ るた め に、 あ まり 具
。
を乗 せ る と いう こと を し な い そ
山 本 屋 総 本 家 で販 売 し て いるも
きし
のは、う ど んだ け ではな い。 ﹁
自 然 にそう す る こと が出 来 た と ふ
のた め に、売 上 単 価 が伸 び な い の
きじ め
と ころ が面 白 いも ので ﹁
であ る山本 屋 総 本 家 に入 る こと と
名 古 屋 を 代 表 す る 名 産 に ﹁き
し めん ﹂ が あ る。 と ころ が、 最 近
繁盛 の図 (大 正か ら昭和 にかけてのイメージ画)
山本屋総本家
店舗外観
山本屋総本家
株式会社
り 返 って いる。
20I2 FUKUHo Media
sur'rtt',ten
22
名古屋市 中区西 日置
454-0004
■ 営業部 /〒
TEL 052∼ 322-0521
FAX 052-322-5930
URL http://WWWyamamotoya cOjp/
日18年
昭禾
太平洋戦争 によ り営業中止。
昭不口24年
二代 目店主 :町 田守 一
‐
名古屋市中区南呉服町 2丁 目 7番 地 (現 在の中区栄
3丁 目)に て開業。守― は煮込みうどん―筋 の厳 し
い人であった。
1969年 日
日44年
召添
4月 山本屋食品株式会社を設立。家への土産 に した
いという多 くの顧客の要望で 「煮込み味噌付 き手打
ち生 うどん」の製造販売を開始。 │
1983年
58年
│
三代 目店主 :町 圏善―
手作 りの味に職人魂を燃やす。山本屋の味を頑なに
‐
守 り続けた。
24年
‐
四代 目店主 :小 松原克典
│
‐
先代、先々代か らの煮込み うどんづ くりに励み(現
在 に至 る。
│
山本屋総本家 の歴史
体 験 す るも のは、飲 食店 の店 員 は、
余 裕 であ る﹂ と いう 。著 者 が よ く
いのではな いか と 考 え て いる。 著
れば 、外 に出 て いく こと が出 来 な
と し て正 し いと思 い込 ん で いる節
開 し た のであ る が、 そ の発 想 は交
いる こと があ った。 そ の代 表 的 な
も のが ﹁
銀 座 ﹂と いう 地名 であ る。
﹁
銀 座 ○ ○ ﹂ と 銀 座 を 冠 にし て展
を行 わな い﹂と いう ことがキ ャリ ア
があ るが、必ず しも そう ではな い。
通 が不 便 な 時 代 には意 味 があ った
いる こと があ る。 そ れ は、 本 来 の
商 売 を守 ろう と いう も のであ る。
し か し、今 日 の社 会 にお いては
のかも しれな い。
今 、低 成 長 の中 で変 わ ってき て
と を 数 多 く 見 てき た。 こ の ﹁
販売
売 には向 かな い人 が多 いと いう こ
接 客 。調 理 に は長 け て いても、 販
薬味入れは、60セ ンチほどもあるす
す竹製。真中で区切 って一方が一味で、
もう一方が七味 (本 家使用)。
者 が数 多 く 見 てき て失 敗 し たも の
に、地 名 とブ ラ ンド を 勘 違 いし て
け れば な ら な い。 そ れ が出 来 な け
側 を固 め ると いう こう こと を し な
山本 屋 総 本 家 でも 、名 古 屋 の内
1943年
平成
2012年
昭和
た 達 は そ の分 野 の エキ スパー ト で
葉 の 異には、 仕 入先 に対 し てあ な
て欲 し い﹂ と いう も のだ。 こ の 言
値 段 は高 く ても よ
う 。 そ れ は、 ﹁
いが、 間 違 いのな いも のを 納 品 し
大 原 常 務 の 耳 に 残 って い る と い
人 達 を集 めた集 会 で話 した言 葉 が
先 代 ・三代 目 町 田善 一が業 者 の
のため の方向 転 換 をし ている。
銀 座 の老 舗 企 業 は確 実 に生 き残 り
う にな った。 そ の こと が気 づ いた
地 名 であ ると いう こと に気 づ く よ
銀 座 ﹂はブ ラ ンド ではなく、
す でに ﹁
1949年
初代店主 :島 本万吉
「山本屋」 という屋号の店 を買 い取 って大須で開業。
万吉は趣味が広 く、味 にうるさい人であ った。研究
に研究を重ね、山本屋の うどん独特 の「こし」、真似
で きな い 「味」・「こく」 を生み出す。
当時は朝 の 10時 に起 きて女 中と男衆達 で客を迎 え
る準備 を整 えてか ら 11時 半 に店 を開 けた。 昼食や
夕食時は言わず もがなの こと、いつも客の絶える こ‐
とな く、 映画や芸居 の跳ねたあ とでは 2∼ 30人 客
がぞろぞろと入 ってきた りして、夜中 の 1時 までぶ
っ通 しで営業 していた。
1925年 大正 14年
(本 家使用 )。
味噌煮込み うどん、箸 は角箸
あ ると いう 信 頼 感 があ る。
名 古 屋 を代 表 す る生産 方 法 にカ
ンバ ン方 式 があ る。
これ は、 仕 入先 を信 じ る こと に
より 、生 産 効 率 ・品 質 を向 上 さ せ
ると いう も のであ る。
三代 目 の言 葉 の中 に、 そ の強 い
意 思 が感 じら れ る。
山 本 屋 総 本 家 を 支 え て いる の
は、 地 域 社 会 であ ると いう こと で
あ り 、 これ が地 域 で生 き て いく 山
本 屋 総 本 家 の生 き様 ではな いのだ
ろう か。7▼
ひらまつ よういち 玉川大学 工学部経営
工学 科卒 業後、経営 コンサルティング 活動
︵
会社経営 研究所︶を経 て、IMコンサルタ
ント代表 となる。現在、経営 コンサルタ ン
トとし て、指導 業務、教 育、講演 を行 って
いる。コンサルティング活動 の傍 ら、企業に
入り管 理職 を兼 務。主 な 著 書 F﹂の老 舗
、﹃
に学 べ員 フォレスト出 版︶
必ず 売 れる営
業 マンにな れ るヽ 営 業 幹 部 のため の指 導
力倍増講座L 以上すばる舎︶など多数。
● 5名 様 に本 のプ レゼ ント
﹃
新 規 開 拓 営 業 が 企 業 を 救 う﹄
平松陽 一著 産業能率大学出版部刊
田 ム5 〇一
FF m ■ O N O N J 合︶5 ■ 一く 5 0 ﹂.
0
・
プ レゼ ント 希 望 の方 は 、
宛 メー ルに てお申 込くだ さ い。
1M コ ンサ ルタ ント 平松 陽 一
ξUMME負 201'Fむ Kむ H61M`di=123