Hirosaki University Repository for Academic Resources Title Author(s) Citation Issue Date URL 葛西善蔵伝(一) 小山内, 時雄 弘前大学人文社会, 16, 1959, p.54‐67 1959-02-10 http://hdl.handle.net/10129/1429 Rights Text version publisher http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/ 葛 第 一章 西 蓄 幼 少 年 時 代 蔵 一 両親 の系譜 と善蔵 の生 い立 一 父方 の系譜 伝 葛 西家 の家 系'祖 父母と伯 母 ・父 小 山 内 時 雄 葛 西善蔵 が永 久 に眠 って いる菩提 寺 は, 青森県弘前市 新寺町 にある浄 土宗 の緑貴 山徳 増寺 である。葛 西家 の菩堤寺 はも とも と,貴 芳 山円城 寺 であ ったが、 この寺 はい つ創 建 され, また,ど こから来 たかも不明 であ るけれど も 、文 久 三年 四月 二十 1日,徳増 寺 より火を発 した時, 天徳 寺 ともども烏有 に帰 し てしま い、そ の再建 を謀 る- ち に、明 治 二 年円城 寺 は徳増 寺 に合併 され て今 日に至 って いるのであ る 。 そ の徳増 寺 の葛 西家 の墓 所 には、 三基 の墓 石 が並 ん で い 書順 原信瑞現 居士」 と 「順誉妙栄寿光女」 と並 べてある。 右側面 には、 「文政 七年 十 二月十 二日」 と 「天 るが,中央 の 壷 の正面 の右半 分 に, 「尋誉受法清 信士」 と 「善誉妙光清信 女」 と並 べて刻 まれ'左半 分 竺 字 下 っ て、 「誓 保 十亥年 二月 二七日」 と並刻 され ,左側面 に,明治 十 三辰年 十 二月十 二日、背面 は、境屋善次 とな って い る 。 こ の 「璽 量 順踊信瑞 現居士」 は,蓄蔵 の首祖 箕曹司 が生前 に受 け た戒名 で、穀 後、寿光院親善書 幅原信瑞 望 居 士 とな 54 .. . .∴ . + .. -''。 .., . . い くT. [ ・ .ド ; / f T . ・; . \ T . .I : ・ = ・ T 渦 った人 であ る。 それ から推 して、尋誉受法清信 士 は、善 司 の父 であり、善 薯妙高清信 女 は、そ の妻 の戒 名 であろ-0 ∽) ことがわ かるだ け である。善蔵 の高祖 父 にあた る人 で' 幸 司 の父は'俗名 を久左衛門 とい った (明治 五年戸籍註 文政 七年 十 二月十 二日、子 の善 司 が 二十三才 の時 に穀 し て いる。 そ の戒名 から察す るに、長寿を保 ったとは思われな い。 生業 ま た明 らか でな いが、代 々家勢 盛 んな家柄 でも な いよ- であ る。 高祖 母 の俗名 は、過去帳 はも ちろ ん、戸 籍 簿 によ っても明 ら か で な い。 曽祖 父善 司 は、享和 二壬成年 二月 十 1日生 (明治 七年 松森 町戸籍 簿 ) で' 明治 十 四年 1月 十 1日、 八 十歳 で穀 した が' そ の穀す る前年 十 二月十 二日、 父母 の墓 を建 立、背面 に'境 屋善 次 と刻 ん でいるC善 次 は善司 と同 1人 と考え て 間違 いな いだ ろ- から '屋号 を境 屋 とい ったよ- であ る。 津軽 地方 には葛 西氏を名乗 るも の多く、史 実明証 を欠 く の であ るが、境 屋宗家葛 西猛千代氏所蔵 の古文書 によると'秩父 三郎将常 の曽孫豊島 三郎康家 の子権 守清 光 は武州豊 島 部 に住 し、英 子 三郎清重 に至 って、下総 の葛 西郡 を領 しても って姓 とした。清重 十代 の孫清貞 は太 田遥 権 の魔下 に属 し、剛勇 をも って聞 え、そ の孫 左京亮清英 は北条家 に備 して いた が、里 見義亮 を 攻めた際 に放れ て其 子英房 と とも に 戦 死、た めに葛 西 の 一族 はそ の所領 に止ま ること ができず 、英 房 の子豊 三郎貞 方 は弘治 元年奥州 へ逃 げ て水沢 の葛 西 倍 量 に身 を よせた が、 天正十 四年信 重 は伊達 正宗 と合戦 し て放れ、貞方も これ に殉 じた。 この時 貞方 の子助 三郎次英 は幼少 で、戦塵 を遁 れ て津軽 に至り郷 士 とな った と伝 えられ ている。 次英 の嫡男 太郎兵衛 がはじめ て町人 となり、そ の祖先 の中 に泉州 堺 に所 縁 あ る者 があ った ので、家 号を境 屋 と称 した と いはれ る。 ( 小野慎吉﹃ 鶴亀洞春松と其遺詠﹄ )善 蔵 の家 は、 こ ゝから分 れ たも の であろ-。 それは表号 を同じく し、また円 城 寺を同じく菩提 寺 とし ているから であ る が い つの時代 、誰 の代 から分 れた かは今 のと ころ詳 ら か にしな い。 ただ、善蔵 の長男 が生れた時、父卯 一郎は、孫 に 亮 三(り よ-ぞ-)と命 名 した。 そ し て、 この 「亮」 の字 は 「左京亮」 から採 った のであ ると説 明 し て聞 かせた (つる 潮 ⋮惑 - 55- 溺 d 未 亡人儲 ) と いう ことから察 す る に、卯 一郎 はそ の家 系 を信 じ、現 在 は商 人 であ るが、も とを 正 せば歴 と した武家 の 兼 高 と い-家柄 に、 一種誇 り にも 似 たも のを、 そ の心底 に抱 いて いた と思われ る のであ る。 そ れ は安 政 に生 れ'華族 士族、平 民 と い-身 分 の等級 があり、 それ は表面 はは っき りし た上下 の差 別 とな っていた明治 の時代 に育 った人 間 と し ては'自 然な考 え方 で ある と思-0 さ て'曽 祖父善 司 (墓碑 には善 次 ) は'明治 五年 には陸奥津軽部 弘前 松森 町 百 四拾 五番 舗 に居住 し て いた。 当時 の ゝで'椛 造 、味噌'荒物 小 間物 、塩 小 売 '小売 米 、穀物 など を商 って'渡 世 し て も のと思われ る絵 図 (市 役所保存 ) には'間 口九間、奥 行 二十 四間 一尺 とあ って、間 口三 ・四間 とい- 同町内 にあ っ ては最も 大きな方 に属 し て いる。 こ いた善 司 は明治 七年 六月' 七十 三才 で隠居 を届出 、家督 を、長男 に譲 った. 善 司 の妻 たけ (文 化 五年 九月 十 四日生) は、同 じ松森 町 の商家 工藤弥 十郎 の長女 で、 二人 の間 には 一男 一女 が生 れ、 長女 ふで (天保 八年 十 二月 二十八 日生 ) には、 弘前 松森 町 の人相 谷 今 七 の四男末 吉 (文政 十 一年 十 一月 十八日生 ) を智養 子 にと って分家さ せ、向側 斜 の松森 町 百 十六番 屋舗 に住 まわ せて荒物 、小 間物 、穀物小売米 を渡 世 とさ せて いた。 この末 吉 の孫娘 が、善蔵 の弟勇 三の妻 とな った人 であ る。 祖父 母 と伯 母 長男善吉 は' 天保 三年 三月 七日生、家名相続 をした時 には 四十 三才 にな っていた が、荒物小 間物 '塩 小 売'小 売米 穀物 など の商 売 を やめ'専 ら、椛造 味 噌 を業 とした よ- であ る。善吉 は明治 十六年旧 二月 十七日' 五十 二歳 で病 死 し た。 法名善 了院 取替浄 得居 士。 善蔵 の祖 父 にあた る人 であ る。 ●● 善蔵 の祖 母すな わち、善 吉 の妻 は、 かよと い 1' 天保 九年 六月 二日生。中 津軽部 弘前 和徳 町 の士族 田中松太 郎 の長 女 である。 そし て明治 三十年旧 三月 二十 五日に数 え年 六十歳 で亡く な った。 全集年譜 に死 亡年 月 日を 「明治 二十 九年 ・ -56 ・ .・・[ 、 ∴・ .I . . I l l : p .. A. A Y .∫.. ・1 ・ ・ .; Lが [ ; ;,・T.i F i r t 讃PW \ 三月 二十 五日) は旧暦 で、新暦 では 四月 二十六日 であ る。﹃東奥 日報﹄(昭和 三年 十 二月六 日) に'竹内俊吉 の 「葛 西 善蔵 氏 の人生観 と作品 と故郷 と」 な る 一文 では、明治 三十 二年、善蔵 が十 三 の年 とし'坂 東 三百 の 「葛 西善蔵 研究」 巻末年譜 ( 昭和七年東北帝大法学部国文科卒業論文- 昭和三十年十月﹃ペン﹄第二十三号所載) が' これ に従 っている のは聞 違 いであ ろ-。 この祖 母 (前 記 二氏 は祖 父 とし て いる。 これも聞違 いによる誤 り であろ-。 戸籍 簿、 過去帖 とも に該 1 当 がな い) が亡く な る際、善蔵 の逸 話 が残 って いる。 「花見 の頃だ った が彼 は 一瓢 を携 え て山 へ花 見 に出 かけ、祖母 の死目 に遇 はせよ- と家 の者 が いく らさ がし てもみ つからず 、 よや っと のこと で接 しあ てると、彼 は陶然酔 ったま 山奥 の花散 る下 に眠 っていた。 今 でも彼 の村 の友達 の間 に語 られ て いる」 と い-0 (「葛 西善蔵 氏 の人生観 と作品 と 故郷 と」 ) 「一年 でど れだ け酒 を のんだ ら-、 一日 に 一升 として年 に三石 六斗余 り、 一升 五合平均 とすれば、ざ っと 玉石、毎月 四斗樽 一本 づ つ飲 ん で来 たわけ であ る」 (「酔 狂者 の独 白」 と書 いた善蔵 は、若 山牧水、吉 井勇 など と共 に酒豪 であ った ことはあまり にも 有名だ が、 「十 の年 から飲 み出 した酒だ、 止められ るも んか」 と 云 って いた。 そし て' つる未 亡人 の話 など による と、 ほ んと- に十位 の時 から飲 んだも のら し い。 Y また この人 に ついて誰 か から聞 かされ る ことも な か ったも のと息 さ て祖 母 かよに ついては、善蔵 は、 そ の作品 の中 でほと んど語 っていな い。 彼 が十 7歳 の時 に亡くな った のであ る から、 それ ほど 記憶 に残 る ことも あろ-害も なく はれ る。 ただ、善蔵 の小説 「父 の葬 式」 「落莫 のや- に」 など の中 で、 六 つ七 つの頃、 お寺詣 に連 れ て行 かれたり、 少 年 時代、 五所川原 に嫁 して いる長女 を訪ね る祖 母 と 一諸 に泊 ったり している ことを書 いているから、 この祖 母 のな く な るま で、幼少 の善蔵 は、面 倒 をみ て貰 ったも のであ ろ-。 彼 女 は、 一家 がまだ栄え て いた時代 に葛 西家 に擬 して 来 た。 長子 が生 まれ た のは、彼 女 十 九歳 の時 のことゆ え、 それ 以前 であろう。 そし て、 五十 一歳 の時、 一家没落 の憂 目 をみた の であ る。物 心 つかぬとは いえ、 そ- した不遇 の^ ち に、 し かも転 々と居 を変 えねはならぬ状態 の中 に育 た -57- 顔 ねは な らな か った, た空 と菖 ー モ JT 一 1郎 (安政 五年生 人 の男 の孫 であり、葛 西家 の後目 を立 て るべき幼 い蓄蔵 Li偶燐 を感 じ、 そ れだ け に深 い愛 f しま (安政 三年 生 ), 長男 は善蔵 の等 し まは、 安政 ( 五所 川 原市 本町) の 年 生 ), 四女 あさ (明治 三年 生) とな って いる 。 要 か よ と の間 には、 五人 の子 があり、 要 情 を注 ぎ, そ の成 長 に期待 を かけ た であ ろ- ことは想像 にかたく な い。 祖 父葦 )、次 女 なみ (文 久三年生)、 三女 は る (明莞 三年 十 方 十七日 に弘前 覧 まれ、 明治 十 四年、 二十 六歳 で北津軽 郡 五所 川原 字喰 川村 区 (翌 放 した。 この神 家 は、 「弘前藩 に於 け る私 塾 寺小屋調」 誌 ) と い- から' 教 育 には熱 心な ) に塾 主神 と見 え る家 ら し-、 明治 維 新 後も斉藤 (神 官 )、 佐 々木 (医師 )、 川越、 築館 、葛 西等 と 医 師神 祐益 の後妻 とな り, 昭和 十 三年、 八十 二歳 の高讐 日本教 育史 叢 共 に神 (医師 ) の私塾 があ った が、合 併 して 五所 川原小学 校 とな った (五所 川欝 を 身 の子 が生 まれな か った ことが、 ⋮ があ り, 長女 を た か、 長男 を竹 之助 (明治 十 1 家 であ ったら し い 。 しま の天 祐益 と い- 人 は、明治 維 新 当時 長崎 に遊 ん で医学を 修 めた と 云われ、晩 年、 町会萱 つとめ て、 町 政 にも尽 し た人 であ る 。 祐益 と先妻 と の間 には 妄 年 生) と云- 。 しまが擬 して来 た時 は、竹 之 助 はまだ数 え の 四才 であ った 。 し- かえ って幸 し た かと思 われ る のであ るが、幼 時 から養 育 した竹 之助 とは義 理 の間柄 にあり がちな何事も な か った よ- であ る 。 また、祐益 は 「1代 でかなり の大身 代 を作 った、質素 寛厚 な風手」 の持 主 で、 明治 二十年 に地聖 l 十円 以上 納 め る人 々の中 に入り、明治 二十 四年 五月初 の部会議員 の選 挙 当時 におけ る北津軽 郡 大地 主 の名 簿 に名 を連 ね て いる ことか ら推 して, 経済 的 にも 極 め て恵 ま れ て いた。 この ことは、竹 之助 の代 にな っても ' す こしも変 らな か った 。竹 之助 は、明治 三十 五年 千葉 医学専 門学 校 を卒 業 し, 同 四十 二年、 ド イ ツに留学 、 同 四十 四年 帰朝 し て青 森 市 浜町 に病 院 (現在 は竹 之助 の長男 祐逸 民院 長) を経 営 し て いたから であ る 。 小説 「落葉 のや- に」 (大 正 十 三年 五月) の中 で 善蔵 は 「G町 (現 在 の 五所 川 原市 ) は自 分 には十六 七年 ぶりだ った。義 従 兄 (竹 之助 のこと) が青森 市 に病 院 を経営 - 58- ヽ , \ 実 事 は で の あ な る 。 _ I . 稚 7 7 . . 二・ . .r .-・; .I L r .: . . . p rT ・ ・ ト h tj , 小 次 母 伯 云 で い に せ わ そ 筋 て の 中 あ よ る と ' 。 福 す 事 子 達 れ ね 身 大 だ 前 お せ 供 」 で そ に 皆 者 を ん な ろ こ よ と も ? り 。 入 分 れ か ん ほ 「 に は だ 生 後 云 が へ 耳 呉 お た 多 そ 兄 で 前 出 ひ の い て あ こ な と ま ら し っ ' 。 、 私 か れ 大 云 知 「 ふ は ず だ 幸 に 事 不 皆 で の 死 け て 何 な を ほ い ん さ 由 こ ら 自 と る 、 59 - 嫁 が 人 家 神 胞 か だ 生 没 前 母 伯 上 落 は た 態 状 で の そ い に 中 同 て な こ と よ も ら っ ' 、 惰 る 1 妻 責 凍 夜 村 か れ た だ 半 つ い 思 笑 に め 敗 そ 冷 は な て の ろ さ ら と こ 見 し 、 M 界 十 文 か 書 『 章 年 翌 九 の 月 、 大 八 正 ) 葬 父 十 」 三 や ( 二 無 は に 伯 葉 落 年 式 「 心 母 貴 の 出 て る と く し 、 。 蔵 御 局 結 市 が 酒 走 け だ た ( 森 ) 母 伯 頼 に を 策 金 失 馳 で 青 の て い さ と こ も ゝ っ '手 碇 短 郡 軽 津 南 時 が 大 発 れ 正 初 に た 篇 七 関 代 冬 表 5 で あ ヶ さ こ る と ' れ 滞 な ら り く 、 か 妻 家 実 無 彼 け 酒 飲 れ 心 描 代 女 体 を 断 に 渋 出 そ い て の よ さ ま る ぐ っ ' 。 、世 ぶ で ら 1 運 説 来 送 生 仕 番 善 衰 家 実 小 だ れ た が 涯 せ け 「 合 は に 痛 出 の で を 心 め そ な い て あ る こ ま と し 、 。 一 書 た か れ 子 達 娘 従 」 ず ひ が つ 見 い や 思 わ 哀 け 更 に を 義 て 今 の 兄 な ゐ る と こ ら っ 。 、 れ 育 沢 賛 来 て に 挨 交 行 鋳 か 裏 拶 た が 賭 私 病 出 は 入 這 院 そ 略 の な 中 る ら 口 こ 什 と ー し っ ′ 、 。大 好 依 義 普 れ 7 に 請 た 妻 か 年 塀 瓦 煉 兄 住 宅 本 君 母 伯 二 な ふ 方 は 囲 前 略 い き 中 の ち 商 こ と ら っ 、 。 物 建 敷 屋 町 浜 ( 私 派 影 面 の 角 通 は な 八 正 ) 」 無 書 れ 家 立 年 「 に た 直 昔 心 き て さ と も り く っ 、 従 ) 母 伯 方 病 ( 院 に で な ち る こ ょ と ま し も だ が た け 明 宅 本 町 閤 永 の て い は あ G っ ' ・ . ' J A d l : .j < : ・u JI T . T,r 聴 れ 入 達 理 が 云 け お は 前 義 不 へ 私 か い に 出 ほ で な て ん の を き こ ま し ど 口 も 、 。 l. r ・ 私 の身 としては辛 いことぢ や。 何 と い っても義 理 の仲 です。 だ から今夜 は後 生だ から何も 云ひ出 さん と、 ゆ っく り お酒 を飲 ん で、泊 って い ってお呉 れ。 - -私 が頼 む のだ がな' ほんとに私 は明 日 に死 んで行 っても' この世 に残 り 惜 し) と思 ふ こともな いけど'唯 々お前 のお父 さ んとお前達 のことだ け が案 じ られ る・ ・ ・ -」 小説 は小説 であ るから'多少 の フィ ク ショ ンはある。 しかも この作品 は善蔵 の初期 に属 す る のである から、後期 の 諸作 に比 して尚更 であ る。 然 し、実家 のことを 心配す る気持 を 云 った伯 母 の言葉 と しては、 これ はそ のま 1受 け と っ ても 誤 はな いであろ- 0 伯 母 しま は'小柄 な、 き ゃ しゃな身体 で脚気 を病 に持 ち' かなり物 事 に屈託 の風 を見 せな い質 の人 であ ったが' こ んな話 にな る と' や はり眼 がしら に涙 を にじま せる、 そ- いう 人であ った よう であ る。 また心に思う ことは卒直 に い ぅ 人 であ った ので'善蔵 には こわ い伯 母 であ った よ- であ る。書 けば 金 にな る原稿 を書 かず '貧 乏し' そ のため に妻 子 を不幸 に陥 れ'剰 え'他 人 と の附合 にも 不義理 を余儀 な- され る のは、 やはり怠惰 と映 った のだ ろ- か。 善 吉 の長男宇 一郎 のことは'後 に述 べ るから' こ ゝでは ふれな い。 次 女なみ' 三女は る' 四女 あさ'す な わち善蔵 の叔 母 たちに ついては' ほ とんど詳 ら か にしな い。善蔵 の小説 の中 にも 出 て来な いのは'早く 亡くな った から であろ - か。 なみ は'明治 十 二年 三月 二十 九日、 十 七才 で和徳町百 五十 三番原 田九兵衛 の長男平蔵 に嫁 したが' 三十 九歳 の 秋離噂 し、 五年後 の明治 三十 九年 一月 に没 し て いる。 はるとあさ に ついては' 明治 十 二年' それぞ れ 十 二歳 と十歳 に な っていた と いう こと以外' 今 のと ころ不明 であ る。 父 註仇 善蔵 の質は'善書 の長男 で'名 を宇 1郎 とい った。 また卯 1郎 とも書 かれ て い る。 安政 五年 十 二月 二十 八日 の生 れ - 60- / ∵.. ! ・ ・ 1 . . i .{ ・ , 5 ' '. 溝7 Ti -f 領一 薫W 満 」 であ る。彼 が蓄蔵 の母 ひさを迎 えた のは'明治 十年 とい- から、数え 年 二十 の時 で、 まだ 部屋 住み の身 であ った。 妻 は 四 つち がい の十六 であ った。 二人 の間 には、翌 十 一年 一月 二十六日、 長女 いそ が生 れ ている。 「姉」 (大 正六年 五 月 、早稲 田文学 ) の主人公杉 田は つは、す な わち、 いそ であ る。 ま た十 五年 七月 九日 には 二女 ち よが生ま れ て いる。 「婦 を訪ね て」 (大 正十年 七月﹃人間﹄) で佐 々木 という男 に嫁 いで iる姉 が' この姉 であ るが、 とも に後 に 触 れ よ う0 宇 一郎 は、明治 十 六年、父善 吉 が 五十 二歳 の働き盛 り で病 没 したため に、 二十六 で家督 を相続 し て戸 主とな った。 この時 は、 松方財政 によ って ]般物 価 は低落 し、同 十 四年 には、 1石 当り 八円 五十 五銭 した米価も 四円 五十七銭 に激 落 したり、 一方消費 税、 地方税 の増 徴 など が加 わ って、 一般 に世 は不景気 と変 り はじ め ていた。 とく に青森 県 は、 こ の年 の不作 、翌 十 七年 の冷害 による凶作 と で、 い っそ-深刻 であ った ので' こ- い-時 に 一家 経営 の負担 は、宇 一郎 註側 の若 い肩 に重く のし かか った のであ る。 彼 は努 力 した であ ろ- が、 し かし、 そ の危機 を乗越え ることが出来ず、故郷 を売 って'北 海道 の地 に再起 を図らな ければならな か った のであ る。 と ころ で' 父宇 一郎 は、善蔵 が生 まれ た明治 二十年 には、 米 の仲買 を業 とし ていた とい- 。 そ の時期 は、資料もな - 明 ら かでな いが、彼 が家業 を継 いだ 十六年 には、前 記 の事情も 手 伝 って既 に家業不振 に陥 って いた のではな いか。 そ の打開 策 とし て米 の仲買 に手 を染 めた のではな いか、 とも考 えられ る。 こ の年 の三月、津軽部農事資 本 米坂 扱事務 に関す る規 定 が公布 され、 これ によ って資 本米 の整 理 をな し、有益 に使 用 し よ- とす る こと が企 てら れ、 十 八年 には 輸 出 米 は漸 次増加 し、 そ の数 、数 十万石 に達 し七 のであ るが '需用 地 (北海道 が第 一であ った) から粗製渡 道 の非難 .て 。 を 受 け、 裾引 が円満 を欠く よ- にな った ので、時 の県令 福島 九戊 は、 十 二月 二十 五日 の県達 をも って、 米穀卸売、小 註糾 売 ・仲買営業者 をし '津軽 五部 米穀 商 組 合 を組織 せしめ、 これ によ って改善 を図 ろ- とし た 宇 一郎 が この組 合 に I -61- L I ヽ t 思 の も と 0 ㈲ 註 榊 註 ㈲ 註 ( 保 所 役 ) 道 推 二 市 地 帳 海 北 住 治 前 弘 土 取 年 存 に 移 明 考 れ は 十 起 台 て の い え な を ら と し く 、 ' 。手 」 実 ぬ 彼 訪 ず 必 か 書 が 他 作 え ゆ を 姉 事 れ い 年 令 の 品 合 場 「 て で は あ や な 月 こ る も と 日 し 、 '知 が 難 避 つ 分 す ) 一 倒 三 私 の た そ 寿 ( に 家 産 年 都 べ 代 げ 志 後 は 国 挙 を て し っ り 。 ' 度 か 一 宅 家 他 産 放 年 父 集 が 動 不 た 十 二 郎 従 を 月 宇 に い の そ お て め は あ で る し 日 と 。 、時 全 蔵 善 残 譜 年 成 作 た か 険 を 危 性 は で の て ず 信 あ る っ こ し ゝ 、 。 歳 三 」 い 書 「 そ ま と ' ね れ 語 」 信 ず ね 蔵 拝 説 か い 物 た 録 実 善 小 架 で だ て は が な え 空 に ま も よ と こ ら じ っ 、訪 」 『 姉 ) 』 「 を 蔵 説 ね 間 拠 善 小 年 七 十 正 大 ( 人 い あ は 憶 記 て で ほ に の ん 月 な る と ど っ 。 時 o ] は れ 年 歳 二 て 蔵 治 十 従 い 善 の 家 道 住 来 葛 文 を 海 北 移 明 西 ほ 献 る こ ん と ど し ' 別 板 百 集 年 不 東 は 従 に の そ 認 確 か 明 譜 あ で 思 れ が 全 た わ 何 て い る と よ も し っ 、 。 、全 越 れ 三 た 初 最 峡 津 二 は で を ) え 軽 譜 治 十 年 あ 明 が 私 海 ( の い て 「 る 目 こ と っ し 1 。 、 。 三 彼 証 た 入 加 時 業 が 明 は れ ほ 仲 米 吟 に の 買 い 事 な あ で 傾 仕 ろ ら こ い ど し じ う ' . 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J、 、 / l J ・ l ′ .) ノ′ を 二つ越 したは かり の彼 が、 こ ゝでど んな職業 に ついた か、 それ は詳 ら かでな い。渡道 の年 の十 一月 には、後年 兄善 蔵 と交渉 の深 か った 二男勇蔵 をも- け' 七人世帯 とな っていた ので、生計 は決 し て楽なも のではな か ったろう。 そ の た め か、年 月不明だ が、島 牧部 本日 (はん め)村 二十番 地 に移 住 し て いる。 明治 二十 二 ・三年 頃 の木 目村 の戸 数 ・人 口は資料 なく、明 ら かでな いが、 同 三十 二年 は、戸数 五百余、 人 口 二千 六百を数 え、 二百余戸 が漁業 に従事、農業 九 工業 二、商業 十 八、其他 八、 同 上兼業 二五四と い- よ- な、寿都 からみると約半 分 の漁村 である。 そし て木目村も ' 津 軽 出身者 が全体 の五十 パ ー セ ントを占 め ている。 や はり天保年 間 より'代 々島牧 の請負人 が'秋 田県 人 であ った関 係 であ る。 木目 村 に移 っても '生活 の安定 は得 られな か ったらしく、家名 再興 の夢破 れ て、再 び海 を渡 って、青 森県 東津軽郡 。 青 森 町 (現在市) 大字裳 町 三十番戸 、秋 本宇書方 に同居す るよ- にな った。明治 二十 四年 八月十 一日に転籍 にな って 註㈹ い る し かし、青森も 安住 の地 とはな らず 、 同 二十 六年 一月 九日、今度 は北津軽郡 五所川原村 二百 三十三番戸 に転 じ 註㈹ 註㈱ ねは らな か った。 五所 川原市役 所同年 除籍 簿 では、 三百三十番戸 に借家 した ことにな っている。 青森 ・五所 川原両市 の戸籍 簿 で、番 地 が異 っている のほど - し た ことか。 戸籍簿 に誤 記あ るとは普通考 えら れな いゆえ、 これは 五所 川原 で 二度 はど居 を変 えた ことにな る のか。 しかし、 三百三十番 地 は、現在 川端町 八十 1番地 とな っおり、毛内源次郎な 註咽 る人 が住 んでいるが、 こ の人 が家 を建 てた のは後年 で'建築 当時 こ の辺 には 一軒 も家 はな か ったと い- 談 話 からす れ ば 、 この点未詳 とし ておかねばならな い。 とも あれ、宇 一郎 一家 が 五所 川原村 に移 った のは.姉 しま (善蔵 の伯 母) が神家 に擬 して いた ので、 これを頼 る気 だ った のであろう。 宇 一郎 は、 呉服 反物 の行商 を して生計 を立 てた とい-0 五所 川原村 は' 津軽 平 野 の中央 に位 し'岩木川 を隔 て ゝ西津軽 部 と接 し' 四囲 に農村 を擁 し てこれを相 手 の商 業地 で あ り'ま た当時漸く 紡薦業 が発展 し てき た ので、 この商売 が出 来 た のであろう が、結 局 は思う様 には いかな か ったも - 64- 、 . ・・ , I l′ 6 5 ∵. ・ .; ., .1 J T. T , .▲ ・ . . ( . . T h J ....t ' ., .. . \∵ ㈱ の と見 え'妻 の実家 のあ る南津軽 鮮 碇 ヶ関 村 四十 八番 戸 に住 ま- こと にな った。明治 二十 六年 五月 1 1 1 十 ]日'転簿 と 註 な って い 3. gR, 処 は, 妻 の実 父 の宅 の裏 手 、通 称 「お か。 や」 と呼ば れ て いる地域 の 高 であ ったと いう 。 碇 ヶ関 に移 住 した当 初、 宇 一郎 は呉 服 反物 の行商 を続 け た かど う か'妻 の実 父 の世話 を受 け た であろ- こと は' 北 「 丸 海 道 移 住 の際 の こと からも 容易 に想像 さ れ る。 そう し て明治 二十 八年 十月 二十 一日'現在 の奥羽 線 碇 ヶ関駅 が開駅 に な った ので' 父宇 一郎 は、翌 三 二十年 、鉄 道 運送 業 を はじ め、 一家 は碇 ヶ関 字 山神 堂 八拾 八番 地 壱号 に移 った。 木 」 と いう のがそ の屋 号 と いう から '青 森 駅 の支店 であ った のだ ろう。 碇 ケ駅前 で' 現 在 碇 ヶ関農 業事 務 所 の東 隣 り 丸 通 運送 店 の倉 庫 にな って いると ころ が' そ の旧 居 跡 であ る。 かく し て漸 く 生活 の安 定 を得 る よ- にな った が' 間も なく 長年 苦 労 を共 にし て来 た妻 を 亡く し'南都 垂柳 から小 野 み よを後 妻 に迎 えた が' そ の後 添 にも先 立 たれ てしま った ので' 運送店 は妻 の弟 の子供 に譲 って、大 正 十年 十 一月出 京 、牛 込 区納 戸 町 四十 二番 地 の 二男勇蔵 の家 に寄 寓す る こと にな った。 が、翌 十 一年 七月 十 三日' 永 年 の持柄 の脚気 が嵩 じ て' 享 年 六 十六 才 をも って較 した. 郷 里 弘前 の菩軽 寺 に葬 ら れ'法名 を 白雲 院道 屋外 空居 士 と い-。 父 宇 1郎 旺' こ- し てそ の生涯 を終 った が' 「見 るから善良 で'朴 訴 な'典 型的 の東北 人だ った。 酔 ひ が廻 る と' 大 き な 声 を出 し て義 太 夫を謡 ひ出し た。葛 西 は多少 筆者 に気 兼 ね しな がら ' 父 のさ- した酔態 を潜 めよ- とも しな か 註胸 証㈹ った 」 とか 「実 によ い顔 を したお爺 さん' 風 格 のあ る好 々爺 」 とか の印象 を他人 に与 え る人柄 であ った。善 蔵自 身 も 作 品 の中 P、 「私 と 同じ やう に父 は酒飲 み で、ど んな病 気 の場合 でも 酒 を鮮 す ると か'善 生 に勢 め たりす ると か 云 ふ な はど 覧 容 な態 度 の人だ ったが, 好悪 とか、 この父を描 いて いるが, つく 。ご とで はな いと考 え て い ゝで やう な性質 の人 でな か っ髄 SJ と か, 「]体 私 の父 は, 人 に対 し 三 見票 の観 念 は かな 。潔 癖 で厳し いところ があ った鳶 あ ろう。 とす る と' こ ・ j fに は いわゆ る津軽 人気 質 のタイ プ を見 る ことが出 来 る. 酒呑 み は よく 酒 に命 を とられ る のは :: 蔓 j i ・ 十 禦 、 l も 1 1 I 撃 ' 11 . り 註 .I・ ・ . J J 山 三 ・t T 宇 l郎としているのは、註 の戸籍、明治二十年税超の弘前市役所の土地台帳、明治二十二年二月十八日付の 「 地所売渡 契約証書」、徳増寺の墓面等であり、卯 一郎としているのは'明治七、十二、二十年弘前戸籍および、木目村'青森市' 碇ヶ関戸籍である。かく卯 一郎としたこともあるが'正しくは字 一郎であろう。 lt E . T j ・ ; , ;:( . ) 転 .し か ; .・ ・ i ・ . 、L . 1 J j 巾 Y. ∫ _ L T . r N J ; T EJ E..".J . ・ p ・ t .I . I 脚 「 明治五年戸籍 陸奥津軽都弘前 松森町」に 百四拾五番屋舗居住 椛造味噌 ・荒物小間物 ・塩小売 ・小売米 ・穀物渡 世 父久左 ヱ門亡 ・ 葛西幸司 壬申年七十 一とある。 る中 にも '善 蔵 をさ ゝえ て いた のが' こ の父 であ った ことを知 る ことが出 来 る。 (未完 ) でも 述 べら れ ており、 父 の死後、 頓 に崩 れ出 した。 そ- いう自 分 の生 活 を 「汚辱 そ のも の 1や- な生活」 と い って い 述懐 し ているが、 い つあり のな い気 持 であ ろ-。 父 を送 った感懐 は、 「あ る夜」 「歳 晩」 「迷 信」 「遺 産」等 の作品 はち っとも かけ てゐな い.死 んだ 後 にだ って何 ]つ面倒 な こと って残 ってな いし' 実 に簡 単明 諒 な往 生ぢ やな いかO僕 詳細 な ん かには ち ょ っと真 似 が出 来 そ- にな いね。考 え て見 るとお や じ 一代 の苦 労な ん てた へんなも のだ ったら- よ」 と る。 「父 の葬 式 」 の中 で、 「それ にし ても い ゝお やぢだ った ね。 子供等 には随分 厄介 をか けら れ通 した が、子供等 に 義 太 夫 を謡 い出 した 父 を'客 に気 兼 ね しな がらも 別 に潜 め よ- とも しな いと い- ところ にも ' そ の気 持 が現 わ れ て い 「父 の人物 観 には いろ- れ る ことも なく 'す べ て善 意 をも って扱 わ れ ている。 こ ゝにも善 蔵 が如 何 に父 を敬 し愛 し ていた かがわ か ると息-0 註胸 な 場合 で散発 され て来 た。 父 の言 葉 は大抵自 分 に信 用す る こと が出 来 た 」 と い 1、酔 - て は私小説 家 であ った た め、 そ の周 辺 の人 を描 いた が' 歪 め て描 か れた場合 が多 い。 しか し父 を括- には誇 張 が加え ら から '葛 西家 の遺 伝的 な ' 体 質 的 な病気 であ った と思 わ れ る。 気 質 的 にも善 蔵 は この父 の血 の 一部 を享 け ついだ。 彼 があ ら わ れ て いる。善 蔵 は体 質 的 にも ' この父 の血を享 け て' 脚気 に悩 まされ た。脚気 はま た こ の父 の姉 にも あ った も 云える が 、また 、そ こに津軽 人 のいわゆ るジ ヨ` ツパ- があ る よ- に思 われ る。 またそ の対 人態 度 にも 津軽 人的 なも の 本 望 だ と いう。 口で はそう い って いても 案 外養 生 して いたりす るも のだ が'病 気 でも節 酒 しな いのは、兵 に酒 好き と ㌦ . j P Y■ l i 転 66 - 葛 西蓄蔵全集黄玉巻年譜 ∵. . I ・ . . 二言 . : T : . 濁{ : 」 ・ 5 .i ;. . ; り T JI .・1 . J 唱吋 へ l L .I ; I : [ ・ ・ f T u∴ .; : . T j ・・r. T J で/ :I . . . J .. , .[ 言 .I ;AT・. J .I : ・4 ..: I : . ・ . 青森県史 第八巻、明治十 八年十 二月 二十 五日青森県連丙第八拾 七号 「文学」 ( 岩波書店)昭和 二九 ・十 一 「葛西善蔵仮説」 ( 田中保隆) ; fl . I , . i :T q・ 欄. 4'・ r T L dづ 川 1 巧T qr: 明治 二十年根起土地台帳松森町会 ( 弘前市所役)'外 に紙数 の都合 で 一々あげ な いが'地所、建物売渡実証約書が六筆現 字 一郎 一家が北海 道移住するよう にな ったのは、妻 ひさの実父佐 々木 三治 の世話 によるも のであ った。三治 には娘が三 存するO 人 あ-'そ の嫁先 がみな没落するなど内地 にあ っては生活が立ち行かなくな ったので'三治自身 北海道 に下見 に出 かけ、 には母 方の従弟 に当 る) が、三十 二 ・三歳 の頃その母から聞 いたと いう。昭和 三十三年十 一月九日同氏談。 生活 が成- 立ちそうなのを見 とどけて来 て、はじめて移住をさせた のであると いう。北川清蔵氏 ( 三治 の二女 の子'善蔵 「ペ ン」 ( 室蘭地方簡易 保険局 ペ ンの会、昭和三十年十 二月発行)所載坂東 三百 「 葛西重 蔵年譜」 北海道島牧郡木 目村 役場 の明治 二十四年除籍謄本 による 寿都村 役場より 昭和三十 一年六月十 四日付高木梅蔵氏宛 回答 青森町役場 明治 二十 六年除籍簿 北津軽都五所川原村 役場明治 二十六年除籍簿 昭和三十 一年六月十五日毛内原次郎 氏妻 つるの筆者 への談話 註 叫の除籍簿および碇 ヶ関村 役場大正十 1年除籍 縛 谷崎精 二 「放浪 の作家」 花 田実 「葛 西善蔵 」的 ( 陸奥新報昭和 三十 一年五月 二十 一日) 水 守亀之 助 「 わ が文壇紀行」 「奉 く者」全集 第三巻三四百 I . P 「従弟」全集 第三巻 一〇三頁 「 父 の葬式」全集琴 一 巻四三〇 二 百 ・ ・ -67 l l l ● 註脚に同じ 枚数 の関係から打切らざるを得なくなりまとまり のないも のとな ってしま った。 Tl I ( 6)6日 4 )( 3 ) 叫 ㈹ ( 9 日 8)I T) ( I b( 1 3 )的 附 記 軸 胸 腺 ㈹ 胸 胸
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