静大24スマ

超基本問題 静岡大学
平 24
次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。
今日の学校でいじめが行われるきっかけは、それこそ千差万別だろう。そこにはかつてと変わらない側面を見
出すこともできる。現象の表層だけを眺めれば、事例の数だけ個別の理由があるともいえ、それらを幾らあげつ
らってもきりがない。しかし、最初のきっかけが何であっても、①いったん始まると悪循環のスパイラルにおち
いっていく現在のいじめには、個々の理由には解消されえない共通の特徴が、しかもこの時代に固有の特徴が潜
んでいる。
現在のいじめには、日常的にその行為が繰り広げられていくまさにその過程において、他人との違いに対する
感受性が研ぎ澄まされていくという独特のメカニズムが見られる。したがって、今日の若者たちの人間関係の特
徴に迫るためには、いじめが始まる契機となった個別の事情を探ることよりも、その集団的な行為が継続的に展
開されていくダイナミックな過程を探ることのほうが有意義だろう。
現代の若者たちは、自分の対人レーダーがまちがいなく作動しているかどうか、つねに確認しあいながら人間
関係を営んでいる。周囲の人間と衝突することは、彼らにとってきわめて異常な事態であり、相手から反感を買
わないようにつねに心がけることが、学校での日々を生き抜く知恵として強く要求されている。その様子は、大
人たちの目には人間関係が希薄化していると映るかもしれないが、見方を変えれば、かつてよりもはるかに高度
で繊細な気くばりを伴った人間関係を営んでいるともいえる。
このような「優しい関係」を取り結ぶ人びとは、自分の身近にいる他人の言動に対して、つねに敏感でなけれ
ばならない。そのため「優しい関係」は、親密な人間関係が成立する範囲を狭め、他の人間関係への乗り換えも
困難にさせる。互いに感覚を研ぎ澄ませ、つねに神経を張りつめておかなければ維持されえない緊張に満ちた関
係の下では、対人エネルギーのほとんどを身近な関係だけで使い果たしてしまうからである。その関係の維持だ
けで疲れきってしまい、外部の関係にまで気を回す(ア)ヨリョクなど残っていないからである。
こうして「優しい関係」は、風通しの悪くなった狭い世界のなかで煮詰まっていきやすい。そのような関係の
おもて
ざ
た
下で、互いの対立点がひとたび表 沙 汰 になってしまうと、それは取り返しのつかない決定的なダメージである
かのように感じられる。「今、このグループでうまくいかないと、自分はもう終わりだ」と思ってしまう。現在
の人間関係だけを絶対視してしまい、他の人間関係のあり方と比較して相対化することができないからである。
友だちとの衝突を避けるために若者たちが多用するテクニックの一つは、いわゆる「ぼかし表現」だろう。
「と
りあえず食事とかする?」「ワタシ的にはこれに決めた、みたいな」といった断定を避ける表現や、「あ、そう
なんだぁ」といった半独言・半クエスチョンと呼ばれる表現がそれである。彼らは、これらの表現を (イ)クシす
ることで自らの発言をぼかし、相手との微妙な距離感を保とうとする。
しかし、いくら相手の判断に踏み込まないつもりでいても、そして、いくら対立の芽をあらかじめ摘んでいる
つもりでいても、おのおのが勝手に「そうなんだなぁ」と納得しているだけだから、そこにはおのずと限界があ
る。互いの思惑のずれはどうしても広がっていきやすい。新聞記者の織井優佳の言葉を借りれば、そこに成立し
ているのは「対話」ではなく「共話」だからである。
そ
そこで、もっと積極的に対立点をぼかすために、互いの関心の焦点を関係それ自体から逸らしてしまう必要が
生まれる。②現代型と呼ばれるいじめの特徴はここに由来している。それは、互いのまなざしをいじめの被害者
はら
へと集中させ、自分たちの関係から目を逸らせてしまうことで、「優しい関係」に孕まれる対立点の表面化を避
けようとするテクニックである。言い換えれば、対立の火種を抑え込もうと (ウ)ヤッキになって重くなってしま
った人間関係に、いわば風穴を開けるためのテクニックの一つである。
生徒間のいじめが社会問題の一つとして人びとの注目を集めるようになったのは、一九八〇年代の半ば頃から
である。当時、いじめを苦にした子どもの自殺事件が相次いだことが契機となった。「昨今のいじめは、たんに
発生件数が多いというだけでなく、かつてのそれとは性質を異にしている」といった見解が、一般の人びとのあ
いだに流布しはじめたのもこの頃である。また、青少年白書の非行カテゴリーに「いじめ」という項目が設けら
れたのも、ちょうど八五年度版からだった。
いじめが問題視されはじめた当初は、いじめの加害者と被害者の双方のパーソナリティの特徴が探られ、その
類型化がさかんに行われた。そして、いじめの加害者にも被害者にも、それぞれ性格上の偏りが見られるという
見解が一般に流布された。当初のいじめ問題は、いじめをする側とされる側の、個々の性格上の問題として語ら
れたのである。当の生徒たちが発する言葉も、「いじめるやつは性格が悪い」「いじめられるのも性格が悪いか
ら」といったように、個々の性格に問題を(エ)キするものが多かった。こうして、いじめは「心の問題」として
語られ、スクール・カウンセラー制度が導入される契機にもなった。
いじめが当事者たちの性格上の問題であるなら、加害者と被害者の関係は、ほぼ固定的なものとなるはずであ
る。いじめに対するこのような見方は、当時のいじめの定義にも(オ)ニョジツに反映されている。たとえば、当
時の文部省によるいじめの定義は、「自分より弱いものに対して一方的に、身体的・心理的な攻撃を継続的に加
え、相手が深刻な苦痛を感じているもの」だった。しかしその後、子どもたちの世界にきめ細かなまなざしが注
がれるようになるにつれ、この定義では把握しきれない事例が多く見られることに気づく。現代のいじめは、い
ろいろな意味で非常に流動的な現象だということが分かってきたのである。
現代のいじめの特徴としてまず注目されたのは、ある特定の生徒だけがいじめの被害に遭うわけではないとい
うこと、すなわち被害者の不特定性だった。生徒たちの日常世界をよく観察していくと、一般的にみて攻撃され
やすい属性をもった生徒だけがいじめられるわけではないことが明らかになってきた。引っ込み思案がいじめら
れる一方で、出しゃばりもいじめられる。大人から見れば優等生のような生徒もいじめの対象となりうることが
見えてきた。
さらには、いじめの加害と被害の関係が固定化されたものではなく、時と場合に応じて両者が容易に入れ替わ
る流動的なものだということも徐々に分かってきた。いじめの加害者には、かつてはいじめの被害者だった生徒
も意外と多いし、逆に、かつてはいじめる側にいた生徒がいじめられる側に転じてしまったというケースもよく
あい
まい
見受けられる。そして、両者の立場が容易に逆転しやすいというだけでなく、その境界線自体もじつに 曖 昧 で、
状況に応じて微妙に揺れ動くことが指摘されるようになった。
このような観点から眺めれば、いじめの加害者や被害者の特徴とみなされがちだった性格上の偏りは、いじめ
の原因というよりも、むしろそのいびつな人間関係を生きる過程で作られてしまった結果なのかもしれない。こ
うして、いじめに対する認識は徐々に変わっていく。その結果、二〇〇六年には、文部科学省によるいじめの定
義からも、
「自分より弱いものに対して一方的に、心理的・身体的な攻撃を継続的に加え」という文言が外され、
「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を
感じているもの」と再定義されることになった。
いじめの被害に遭う生徒は、あたかもロシアン・ルーレットのように気まぐれに次から次へと転じていき、固
まれ
定化されることはむしろ稀であることが、国立教育政策研究所の滝充らによる大規模な調査からも明らかになっ
ている。いじめがきわめて流動的な現象であり、その理由に客観的な根拠を見出すことが難しいのは、それが加
害者や被害者の内面に固有のものとして存在するわけではないからである。あくまでも人間関係の重さを軽くす
るためのテクニックとして生まれたものだからである。
このように、今日のいじめは、性格上の偏りによって引き起こされるものではない。どこにでも、誰にでも起
こりうる現象である。したがって、従来の差別とは性質を異にしている。差別の場合には、それを生み出す偏見
が、外見や職業、生まれなどの外的な基準として存在する。しかし、今日のいじめの場合には、加害と被害の関
係の流動性が示すように、その明確な基準が存在しない。③むしろ、ささいな違いをなんとか探し出し、その拡
大解釈を行ってまでも、いじめの根拠をあえて創り出そうとしている。
きわめて特殊なケースを除いて、いじめの加害者として特定の生徒を認定することが困難なのはそのためであ
る。今日の被害者も、明日にはいじめの標的が他の生徒へと移って、今度は加害者の側へ回っているかもしれな
い。そんな状況のなかで、それでもあえて加害者を特定しようとすれば、場合によっては生徒全員ということに
もなりかねない。いじめの主導権を握っているのは、いわば場の空気であって、生徒たちは誰もがそのコマの一
つにすぎないからである。
(土井隆義『友だち地獄─「空気を読む」世代のサバイバル』による)
出典内容
誰からも傷つけられたくないし、傷つけたくもない。そういう繊細な「優しさ」が、いまの若い世代の生きづらさを生
んでいる。周囲から浮いてしまわないよう 神経を張りつめ、その場の空気を読む。誰にも振り向いてもらえないかもし
れないとおびえながら、ケータイ・メールでお互いのつながりを確かめ合う。いじめ やひきこもり、リストカットとい
った現象を取り上げ、その背景には何があるのか、気鋭の社会学者が鋭く迫る。
著者について
土井隆義(どい・たかよし)
1960 年山口県生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程中退。現在、筑波大学大学院人文社 会科学研究科
教授。社会学を専攻。博士(人間科学)。著書に『<非行少年>の消滅』(信山社)、
『
「個性」を煽られる子どもたち』(岩波
ブックレット) が、共編著に『社会構築主義のスペクトラム』(ナカニシヤ出版)がある。
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問一
傍線部(ア)~(オ)のカタカナの部分を漢字に改めなさい。
問二
傍線部①「いったん始まると悪循環のスパイラルにおちいっていく現在のいじめには、個々の理由には解消され
えない共通の特徴が、しかもこの時代に固有の特徴が潜んでいる」とあるが、「この時代に固有の特徴」を、筆者は
どのように述べているか。70字以内で説明しなさい。(句読点なども一字と数える。)
問三
傍線部②「現代型と呼ばれるいじめの特徴」を端的に要約した表現が、本文中にある。15字以内で抜き出しな
さい。
問四
傍線部③「むしろ、ささいな違いをなんとか探し出し、その拡大解釈を行ってまでも、いじめの根拠をあえて創
り出そうとしている」とあるが、このような状況が発生するのは、なぜか。わかりやすく説明しなさい。
問五
筆者は、現代型の交友関係について論じている。それを踏まえた上で、あなたの意見や考えを300字以内で述
べなさい。(句読点なども一字と数える。)