次の文章を読んで、後の設問に答えなさい。 ①− FVふ き と う E E EE52m F ということを唱えだしたころには、まだどこにもそんな語をつかっ − 。 円 るので、 ﹁書くこと﹂をもって国の文芸の最初とみる者などは一人もいない。そうすると新たに問題になってく ろの言語芸術が、ずっとその以前から久しく存していたことは、これまた歴然として争うべからざる証跡があ ィーーー とか呼ぶか、 またはただ少しやわらげてフミというのが普通であった。しかも一方にはそのフミではないとこ れの常用に供せられるまでは、ここに該当する日本語はなかったとみえて、これを原音のままでモンとかブン 味しかもっていなかったもののようである。少なくとも王仁が千字文を朝貢する以前、すなわち漢字がわれわ 日本でも文芸または文学の﹁文﹂という漢字は、やはり原産国の説文に見えるとおり、もとは手わざという意 せつもん たことになる。気のきいた命名法であった。私も今度はこの新語を借用してみようと思う。 そういう﹁文芸﹂以外の文芸も、この世にはあるのだと思わせることができたならば、さらに第二の目的もとげ のがこの語であった。 そうしてそのついでをもって、今までいっこうに気のつかなかった人たちに、なるほど いというふうに考える人のあることを承知のうえで、わざとやや意外なる俳譜的興味を、喚び起こそうとした ァーーー の名ではないか。それをば口でかたり耳で聴いて、空に伝わることを詮とするものの、名称とするのはおかし せん くことであろう。文芸は本来書いたもの、主として人の眼にうったえるために、文字をやとうて表現するもの るが、この﹁口承文芸﹂などもきまじめな人の耳には、なにか落ち着きの悪い自家撞着を 、含んでいるように響 苦味をたしなむように、 いつも僅かばかり矛盾のあるような新語をこしらえて、感覚の刺戟を楽しむふうがあ わずげさ ていた者はなかったと、自分がいうのだから信用すべきであろう。いったいフランス人はわれわれが蕗の蓋の 年ほど前にこの人が、 はじめて口承文芸という名を用いた人は、 フランスのポォル・セビオという民俗誌家であった。今から五十 問 るのは、 その文でなかった一方の文芸を、本来の国語ではなんといっていたかであるが、今まではここをまだ く ) Ml( 7 8 3 2 ) 1 第 考えて見ようとした人がなかったのである。 あるいはウタとかカタリゴトとかいう名前が、 その作品の一種ごとについていて、 それを一括した総称はな かったものと、考えておいてもすむのかもしれぬが、 それは対立する相手がなかったころの話で、国の一区劃 に文筆の業が盛んになり、 しかも一方には全く文字というものを使うことのできなかった者が、あれほど一世 に充満していた時代を想像してみると、なにかここにいう﹁口承文芸﹂の代りになる名称、が、なくては困る場合 があったろうと思わずにはいられない。それを昔の人たちはなんと言い現わしていたろうか。中世の書物を読 んでいると、狂言椅語という文字がよく眼につくが、これなどは今私の説こうとする文字を用いざる文芸に、 ウ E1111111 もっともその意味が近いかと考えられる。狂言という語がわが邦ではとくに変わった内容をそなえていること は、説きたてる必要もないほどに諸君がジュクチしておられるが、精語というほうにも単なる詩歌文章以外、 いちだんと広い心持があったらしく、あるいはわざとその用法を筆の芸術でないものに、限ろうとしたごとく みえる場合さえあるのである。もちろんこんなむつかしい漢語を、発見したのは文人であったろうが、 それが 常の会話にはいり、 ほぼ通俗の聞に流伝することになったというのは、ちょうどまたそういった 一語の、時に 入用があったことを語るものかもしれない。今はまだ単なる想像説に過ぎぬが、ことによるとその前既にアヤ コトパという日本語ができていて、精語はたまたまこれとよく一致する文字なるがゆえに、 それを用いてあの たど ように人望を博することになったのではないか。狂言というほうもタフレゴト、もしくはタクラダという国語 を仲に置いて、辿って行くとその推移のあとが察せられる。アヤという語のもとの意味も、確かに今よりは範 回が広かった。たとえば沖縄では九州と往来する彩色した船を、 アヤフネ︵紋船︶といっていた。われわれが言 辛仇 ル ﹂ 葉のアヤなどという場合にも、 アヤシ・アヤカル・アヤマチなどの同系語の、かねての心持もつき纏うていた ので、必ずしも織物の綾のみから、思いついたものではなかった。別な言い方をするならば、平凡単調でない ある人の心の働きが、ものの言いように現われて聴く者を動かすことであれば、至って単簡であってもこれを ) く Ml( 7 8 3 3 ) 2 アヤコトバと名づけ、ないしは絹語という漢字をこれにあてて、今でも少しも無理はないのであ った。従うて もしこの矛盾ある ﹁ 口承文芸﹂の語を借用せず、ぜひとも在来のいわゆる文学と引き離し、相対立せしめて考察 するがよいというならば、他の欧米の国々はいざしらず、 日本ばかりは格別その用語のなきに苦しまない。絹 語またはアヤコ トパといっていれば用はたりるのである 。 ③1I ・ l111Illli − −Illll111Illl − ・l ただしそういうことをしないほうが、文学の研究にはかえってはるかに有利なのである 。わが邦には限ら ず、この口承の文芸が孤立していた園、すなわちその隣にある手承眼承の本格文芸と、手をつないで歩んでい なかった固などは 一つもない 。民に文字のない時代または種族があ って、まるで 書物の文学を持たなかった場 合はいくらでも想像することができるが、これと反対に今日いうところの文芸のみはあって、絹語は解しない Ill11111111111111Illi 社会というものは絶対に考えることができぬ 。 そうしてこの 二 つがならび存すとすれば、互いにまた交渉せず ④Ill111li li − − −− にはいられなかったはずである 。早い話、が日本国民の持ち伝えているもっとも古い昔話の一つは、そのかみ記 憶力のす、ぐれたある一人の若い女性が、暗請していたものの筆録であった。建国一千二百年ののちに至つ はなしか エ I I I I B I−− て、はじめて編修せられたる漢文の国史には、王仁帰化以前の神々と貴人との、御歌をあまた載せているので りきた ある 。他の一方にはまた後代の言語芸術においては、いかに無識なる拙家たちのマンダンでも、かつて読書 裡より導き来った話柄を、少しも応用していないものなどはどこにもない 。われわれは単に各時代の横断面に おいて、ある種の文芸が口頭に伝承せられているために、今日は集拾がややむつかしく、他の若干のものは記 ひね 録をも って保存せられてある結果、比較的いつでも手にしやすくなっていることを知るのみで、前者が識者学 ォIll111 問僧の指導のもとに、時々のカイテイを免れえなかったと同様に、他の一方もまたすべて石山寺の紫式部のご 合川 ・t−−E E とく、紙を伸べ筆を捻って無より有を作りだしたものと、推断することまでは許されていないのである。もち ろんこの中には文人の棄てて省みず、もしくはこれと反対に随喜して必ず写し伝えようとしたものがあって 、 二種はおのずから 二つの流をなしていたであろうし、これを問い 尋ねて前代を明らかにする者にも、興味の向 > く Ml( 78 3 -4 ) 3 すうこう う所はそれぞれの別れがあったろうけれども、 しかも全然他の一方の側に無関心で、なお一国文芸の趨向を説 きうべしと信じた者は、幸いにまず近いころまではなかったのである。印刷という事業は社会文化の上に、 ⑤lIll111Ill111Ill1Illi − − − そろしいほどの大きな変革をもたらしている。以前双方がほぼ歩調をそろえて、各自の持場を進んでいたもの キIlli− − が、またたく聞に両者その勢力をカクゼツしてしまった。必ずしも智識の欲求が急に片方に偏傾したためでは クーー ヶ| 無くして、ただあるものがとくに与えられやすくなったのである。同じ書物の中でも数少ないものは退き隠れ コ1111 ている。いわゆる定本の権威は専横になってきた。個々の小さな口から耳への伝承が、これと対立してそのユ イシヨを語ることをえなくなったのも、ないしはその特殊なる流布の様式によって、国の文芸の大体を説明し えなくなったのも、 ともに前人の全く予想しなかったことである。国の文芸の花模様は、色とりどりに人の心 −− P I l l i Ill111Ill111Ill111Illl1Illi −−ー ) く Ml( 7 8 3 5 ) -4- をひくけれども、われわれはもうその下染を忘れようとしているのである。だから文学が当初字で書くことを 条件としたというのゆえをもって、 その研究の対象をこれまでのように、眼の前に伝わっている文献に限ろう 口伝えの﹂を意味す ︵柳田園男﹃口承文芸史考﹄による︶ Oポォル・セビオl フランスの民俗学者・画家︵一八四六一九一八︶。 とする不利益は、今日においてことに忍びがたくなっているのである。 ︵ 注 ︶ o s E E EF|口承文芸。ロ門広EE2は ﹁文学、文芸﹂、cEFは ﹁口頭の、 。 円 − 。 円 るフランス語。 O説文|﹃説文解宇﹄のこと。漢字を部首によって分類した最古の字典。 O単 簡 簡 単 。 お 傍線部ア i コの、漢字をひらがなに、カタカナを漢字にしなさい。 傍線部①﹁口承文芸﹂の言 い換えとして最も適切な部分を、同じ段落の中から十字以内で抜き出しなさ 傍線部②﹁蕗の墓の苦味をたしなむように﹂とあるが、この比輸によって何を述べようとしているのか 、 具体的に説明しなさい。 そういうことをしないほうが、文学の研究にはかえ ってはるかに有利なのである﹂について 、 傍線部③ ﹁ ︶ ﹁はるかに有利﹂なのはなぜか、説明しなさい。 ﹁そういうこと﹂とは何か、書きなさい。 次の間いに答えなさい 。 1 ︶ ︵ ︵ が、これはどのような意味において﹁不利益﹂なのか。わかりやすく説明しなさい。 あ 2 傍線部④﹁日本国民の持ち伝えているもっとも古い昔話の一つは、 そのかみ記憶力のすぐれたある一人 の若い女性が、暗請していたものの筆録であった﹂とあるが、この説明に当てはまる文学史上の作品名を 漢字で 書きなさい 。 傍線部⑤﹁あるものがとくに与えられやすくなった﹂とあるが、これはどのような状況をいうのか。 傍線部⑥﹁研究の対象をこれまでのように、眼の前に伝わっている文献に限ろうとする不利益﹂とある るもの﹂の内容を明確にしつつ説明しなさい。 /¥ 七 > くMl( 7 8 3 6 ) 5 問 い。 四 五 _L. 号店 員又 くぐっ くくつめ ァー 次の文章は、今様を好んだ後白河院が、今様の歌い手である健偶女たちとの交流を記したものである。 1l ① すゑ と き に ふ だ う ② iiili lili− − − だいしん こだい しん lIl ⑦llIll111Ill111IllIll111Ill1111111 いとまこ かやうに、男女これかれ、我に歌を習ふもの、その数ありしと言へど、みな好みさしつつ、始終習ふものな おぼえき 。 l111Illi− − とうたひたりしかば、感に堪へずして、唐綾の染付なる 二 衣を纏頭にしてき 。をりふ しにつけては興がりて からあやそめつけふたつぎぬてんとう⑥ 四大声聞いかばかり 喜び身よりも余るらむわれらは来世の仏ぞと確かに聞きつる今日なれば し だいしゃうもん 疾くとでありしをよび返して、うたはせて聞きしに、﹁神妙なり﹂と言はれて、 エHH ころも 、かたはらいたくおぼえて、え直さで、我、良くなるまでうたひてぞ教へし 。その後、暇請ひしに、 ありて、聞きとられなむずるは 。ひとりあらむ時に、さらば教へむ﹂と言ひしを、 ﹁ 残りとどまりて習はむ﹂と a﹀﹀﹀﹀﹀主﹀﹀﹀﹀﹀﹀﹀﹀﹀﹀﹀﹀ おとまへ いたく言ひしかば、乙前に﹁いたく言ふ 。 いかに﹂と語りしを 、 ﹁さ申さば、教へさせたまへかし 。さやうにい bE5ミ5 j j ゥ みじがり申さば、さやうの料にてこそ候へ﹂と乙前申ししかば、夜々 二三 夜ばかりにぞ教へたりし 。似1 せぬと ⑤llli− − たるぞとおぼつかなく候ふ 。またこれらも、さ申せば、かたがたに﹂と申せば、﹁のちにこそ 。 これら居るとき ④Ill1Illi − − らせて候はむこそ 、 この世のよろこびにては候はめ 。あこ丸は、大進も小大進もみな知り候はぬを、誰に習ひ ー かでさることはあらむずるぞ。逆さまごとにてぞあらむ 。我がためは名聞にてこそあれど、かたはらいた し。さはのあこ丸うたふめるは。それに習へかし﹂と返事に言ふ 。延寿また申すやう、﹁いかさまにも習ひまゐ みやうもん③ | に聞かれ候ふ﹂と言ふと聞きしかども、聞き入れぬやうにでありしほどに、季時入道して申し出だしたり。﹁い 111111Illi− − lili− − Illi− − − | 五月、花のころ、江口 ・神崎の君、 美濃の偲偏子あつまりて、花参らせしことありき。歌沙汰ありしに、 え ん ず ィー ﹁延寿、﹃恋せば﹄と申す足柄をいまだうたはぬとて、御所に習ひまゐらせたきを、え申し出でぬと、これかれ これを読んで、後の 設問に答えなさい。 問 11Illli− − −。 くて、あひ継ぐものなし 。としごろ好みたることに、たしかに伝へたる弟子のなき、口 惜しきことなり ︵﹃梁塵秘抄口伝集﹄による︶ Ml( 7 8 3 -7 ) 。 6 第 設 くげ主 O江口・神崎の君|江口や神崎に居た遊女。健備子同様、今様の歌い手。 O美濃の保協子|美濃 l ︶ ︶ ﹁ 逆さまごとにてぞあらむ﹂とは、どういうことか。わかりやすく説明しなさい。 ﹁さること﹂とは、どのようなことか。旦︵体的に説明しなさい。 ︵ 注 ︶ O季時入 O大進、 小大進健儲女の名。 O御所|後白河院。 O﹃恋せば﹄と申す足柄i今様の秘曲 O花参らせしこと供花会。仏前に花を供える法会。 O延寿|健備女の名。 国青墓の宿を拠点とした芸人。健儲女。 O歌沙汰|今様に関する評判。 Oさはのあこ丸|塊儲女の名。 ﹁足柄﹂のうちの一つ。後白河院はこの曲を伝授されていた。 道ー後白河院の近習。 かせふしゅぽだいかせんねんもくれん O乙前|美濃出身の健備女で今様の名手。後白河院の O四大声聞いかばかり i今日なれば仏に教えを受けた迦葉・須菩提・迦賄延・目連 Oまたこれらもまた延寿の仲間たちも。 今様の師。 O纏頭|褒美 という四名の声聞︵仏弟子︶が、来世に仏になるという保証を授けられた喜びを歌った今様。 うちき ︵ ︵ 2 傍線部③﹁かたはらいたし﹂、④﹁おぼつかなく候ふ﹂を、 それぞれ現代語訳しなさい。 傍線部⑤﹁ひとりあらむ時に、さらば教へむ﹂と言ったのはなぜか。その理由を説明しなさい。 く ) M1(783 8 ) 7 O唐綾の染付なる二衣|中国伝来の絹織物を染めて作った桂を、二枚重ねたもの。 として衣などを与えること。 傍線部②﹁いかでさることはあらむずるぞ。逆さまごとにてぞあらむ﹂について、次の間いに答えなさ 二重傍線部アーエ﹁せ﹂のうち、使役の助動調を一つ選んで、記号で答えなさい。 傍線部①﹁美濃﹂は、現在の県ではどこにあたるか。漢字で答えなさい。 問 い。 四 五 さはのあこ丸 延寿 オ 乙前 波線部a﹁いたく言ひしかば﹂、 b ﹁教へたりし﹂の主語を、次の71オの中からそれぞれ選び、記号で答 季時入道 ウ エ /¥ えなさい。 イ おほかた、詩を作り、和歌を詠み、手を書く輩は、書きとめつれば、末の世までも朽つることなし。 も、習ふ輩あれど、これを継ぎつぐべき弟子のなきこそ、遺恨のことにてあれ。 ともがら A としごろかばかり噌み習ひたることを、誰にでも伝へて、その流れなども後には言はればやと思へど 白河院が本書を執筆した意図を説明しなさい。 河院は﹃梁塵秘抄口伝集﹄の中で、左記A、Bのようにも述べている。傍線部⑦および A、Bをふまえ、後 傍線部⑦﹁としごろ好みたることに、たしかに伝へたる弟子のなき、 口惜しきことなり﹂とあるが、後白 て、このように思ったのか。 ﹁四大声聞いかばかり・:﹂という今様の内容をふまえつつ、説明しなさい。 傍線部⑥﹁をりふしにつけては興がりておぼえき﹂とあるが、後白河院は延寿のどのような行為につい ア 見よとて、 いまだ世になき今様の口伝を作りおくところなり。 声わざの悲しきことは、我が身隠れぬるのち、 とどまることのなきなり。その故に、亡からむあとに人 B > くMl( 7 8 3 9 ) 8 御 所 ム 七 八 第 F ノニ ノ ル 一 ルヲ リナ 一 ル ルげっ しょ リテ テ ラ ス 有 二 因以白号。 三 寸許、 キコト 長 ヲ リ’ヤ八着目寸丁、 未 1 4 f 岡ムタ一 哀一 日﹁人 生 必 有 レ 死 、 目 六一 所レ居月渚山房、 見三案頭有ニ紫檀木小棺材 ノ 次の文章を読んで、後の設問に 答えなさい︵設問の都合により送りがなを省略したところがある︶ 。 ル− 蘇州府城陸廟住持有二哀守中者一 テス 嘗借コ寓其斎一 ルノミニシテ 一 チテテテ 即以当二厳師之訓戒、 /> 、 ニナル 座右之簸銘一可 ︵﹃履園叢話﹄による︶ 0 Ml( 7 8 3 1 0 ) - 9- ハク A ヲシテ ナ ラ ナル 礁シ 刀て 死ス i ヒテ シムノダ B 忙 蓋一可レ闇可レ開。 笑 日 ﹁ 君 製 ニ 此 物 一 何 用 耶 。 ﹂ すなはちルノニ ひひナルヲ 則便入二此中↓ 吾 怪 下 世 之 人 但 知 ニ 富 貴 功 名 、 ヲシテシ レ 守中其有道之士欺。 C 心J頁 市尺 万事皆空一 叩草かも キテヲ 然。Z タ J 可 レ J 不レ知レ有レ死者、 比比是上也。故吾毎レ有二不レ如レ意事一 組取視レ之。 而 耳 。 ﹂ 余聞レ之 i ' [ 束 7 ~ 使ム 斗 問 言 支 ︵ 注 ︶ O住 持 | 住 職。 O月 渚 山 房l 居 宅 の 名。 O棺材|ひつぎ。 O頓 釈 ! 即 座 に 迷 い が 解 け る 。 O煉然|おそれおののくようす。 O比比|どれもみな。 O紫 檀 木| 木 の 名 。 家具 などの材料となる。 O城 陸 廟 土 地 の 神 を 祭 っ た や し ろ。 O案 頭| 机 上 。 O仕 時 | あ く せ く す る。 O簸 銘 戒 め を 記 し た 文 章。 傍 線 部Aを、﹁此物﹂の指す内容を明らかにして、平易な現代語に訳しなさい 。 傍 線 部Bをひらがなだけの書き下し文にしなさい︵現代かなづかいで よい︶ 。 傍 線 部C について、作者は童守中のどのような態度を賞賛しているのか、説明しなさい。 Ml( 7 83-1 1) 。 - 1 0- 問
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