国士舘史学 第1g号 (2015年3月) (論文) 応天門の変と 『伴大納言絵巻j~記録と記憶の間~ ‐-...---.…---.----..-----.--------…-…------.------.------仁藤智子----..---‐ 1 初期議会期の法典取調と司法省権限の形成一----一大庭裕介-------- 41 教導職期における神社の活動一大寓氷川神社と周辺神社の活動を中心に一 一…--------------------------..--.------------------徳永 (考古.日本史学専攻研究室便り) (2014年度) <卒業論文題目一覧> (2014年度) <執筆者紹介〉 国士舘大学日本史学会 暁一-----63 応天門の変と『伴大納言絵巻』~記録と記憶の間~ はじめに 仁藤智子 燃えさかる紅蓮の炎、集う野次馬たち、物々しい検非違使、静寂の宮殿、悲しみに包まれる屋敷…誰もが一度は 目にしたことのある絵巻、「伴大納言絵巻」(「伴大納言絵詞」とも)である。現在、出光美術館に所蔵され、国宝 (1) に指定されているこの絵巻は、十七世紀に、若狭国小浜藩主で大老を務めた酒井忠勝の手によって、現在の形であ る三巻に切断され、改装されたという。 絵巻の主題となった事件は、貞観八(八六六)年閏三月十日の夜半、平安宮内の朝堂院の正門である応天門が炎 上し、両袖の棲鳳楼と翔驚楼も延焼したことに端を発する。やがて、これが平安初期の宮廷を揺るがす政治疑獄事 件へと展開していく。世に言う「応天門の変」である。事態の収拾のために、十七歳であった清和天皇が、外祖父 藤原良 一下の政を摂行」させる。告発によって、放火犯として大納言であった伴善男が伊豆国へ遠流とさ 藤 良房 房に に「 「天天 れ、幕を閉じる。 この事件の経緯を今日私たちに伝えてくれる資料は、 1 ①「三代実録」 ②「大鏡裏書」所引「吏部王記』承平四年条 ③「宇治拾遺物語」 ④「伴大納言絵巻」 の四つである。①は言うまでもなく正史であり、事件の記憶も鮮やかな三十五年後の九○一(延喜元)年に醍醐天 皇に奏進された公式な記録である。②は「大鏡裏書」に残された醍醐皇子の重明親王の日記「吏部王記」の逸文で ある。事件の七十年後の人々の記憶にこの事件がどのように伝わったのか、興味深い記事が見られる。③は十三世 紀に成立したとされる説話集である。これと④の詞書は、大筋で一致しているので、一つの説話としての成立は説 話集としての「宇治拾遺物語」の成立に先行すると考えられる。絵巻が作られたのは十二世紀後半であるから、当 時の人々にどのような事件として伝えられ記憶されていたのか、物語ってくれる。 この事件に関する先行研究は多岐に及ぶ。大きく分野別に三つに分けることが出来よう。第一に、歴史学からの アプローチである。平安初期の社会を震憾させた政治事件として、あるいは幼帝の出現に伴い「摂政」という新た (2) な政治形態が出現した画期として評価する。第二は、美術史からのアプローチである。④は後白河院の宝蔵絵(絵 〈3) 巻コレクション)の一つとして、古くから評価され、研究が進められてきた。近年は、黒田泰三や黒田日出男など に代表されるような学際的な研究の対象ともなってきた。もっとも、研究層の厚いアプローチである。第三は、国 文学からのアプローチである。伝承の作品化として、説話文学研究の対象となっている。 本稿では、三つの分野からの精力的な研究の蓄積に導かれながらも、この四つの資料を基に、応天門の変がどの 2 応天門の変と「伴大納言絵巻」 ~記録と記憶の間~ ように記録されたのか、そして、後世の人々にはこの事件がどのように記憶され、言い伝えられていったのか、検 証していきたい。さらに、歴史書の記載による「事実」と、人々に語りつかれた「真実」との乖離の分析を通し て、当該期の社会的情勢を再考することを最終目的としたい。 一記録に残された応天門の変 二)「三代実録」に記録された事件 (4) 最初に、正史としての「三代実録」に、関連する一連の記事がどのように記録されているのかを見ながら、事件 の経緯を追っていこう。 貞観八年閏三月十日夜、応天門が炎上し、棲鳳・翔驚楼も延焼した。応天門は、平安宮の正門である朱雀門を北 上して、朝堂院の南正門に当たり、平城宮段階では「大伴門」と呼ばれていたことが知られる二図l】参照)。政 庁の正門という重要な門が、一夜にして焼失してしまったというので、大騒動になった。災異を払い、人心を治め (5) るために、同月二十二日に会昌門にて大祓が行われた。そののち、昨今の情勢を占わせてみると、「御疾病・火災. (6〉 兵乱」という卜占が下った。清和天皇はじめとする廟堂は、この卜占を相当気にしていたようで、度々記事に散見 する。七月六日には、伊勢神宮に使いが遣わされ、南海道の諸神社には班幣が行われた。その際の告文には、 遣二使於伊勢太神宮一、告以二応天門火一。告文日「(前略)去 圭閏三月十日〈が〉応天門井東西楼〈永〉火災在 〈天〉、焼蓋〈奴〉・其後頻有二物粧一〈永〉依〈天〉ト求〈永〉、 御 鵠 〈 永 〉 御 疾 事 、 又 火 災 兵 事 等 〈 乃 〉 事 可 レ 3 図1平安京大内喪図 路 大 左近衛府 職御曹司 左丘 衛 府 東雅院 (東宮) 西雅院 侍賢P 大炊繋 生巧“ Ⅱ■■■■■■■■■■■■■■■ 聯華門 陰礼門 舎人 従豚 陰隔喪 大政官 朝堂院会昌門 == 内教坊 梨下院 - 廩院 通専門1一雄 中和院 肝 茶圃 主殿寮 | | 大 宿 直 郡 」 」 L豊 1画 雅楽腰 r 西大宮大路 一 信 朱雀大路 壬生大路 一 大宮大路 二条大路 門 誰FlllllllllllllLlllllllllllLFIlllllllllILFlllllllllllL戸lllllトーllll」 連符門 長殿 采女町 内膳司 詞#厨 罰畷盧 大蔵 |壜’ Ⅱ剛伽間]富松原榊[四団陶] 。『。 豊楽院愚楽門 民 部 大蔵 大蔵 騎 lMに加筆・削除) 角田文衛監惟古代学協会・古代学研究所糧「平安時代史事典」 (町川杏店 職 勘行 大舎人寮 「:~r罰:';i:P;W 大 勝 」而了〔 侍従厨’ 砿1 窪 治 修 宮域10‘! 『幻 典薬寮 中務厨 大蔵 大蔵 司 造酒司 炎天門 偉盤門 安鳥間 大蔵省 正親司 采女司 兵庫寮 漆室 認 段 使 庁 御井町 阿 門 隅明 卸 聞寓門 j今 【壁門 上東リ 上西ド I 4 応天門の変と「伴大納言絵巻」 ~記録と記憶の間~ 有〈止〉申〈世利〉。(後略)」 l とみえ、火災後、たびたび物の怪に悩まされた清和が、占わせたところ、「御疾事」「火災」「兵事」があるという 結果が出たため、加護を祈って遣使したとある。 また同日に出された南海道諸神への告文には、 又班二幣南海道諸神一告文日「(前略)去閏三月十日夜、八省〈乃〉応天門井左右楼〈永〉失火事有〈岐〉。因し 弦神祇陰陽等〈乃〉官〈乎之天〉、令二占一求〈永〉、今亦火災兵警御病事等可レ有〈止〉申〈利〉。(後略)」 この の占 占い い峰 は 神祇官と陰陽寮によるものであったことがわかる。さらに、陰陽寮は十六日には「水疫」も重 とあり、こ ねて上申している。 言j) 当時の社会状況を概観すると、清和の不安はこの三点に集約されていたといっても過言ではあるまい。「疾病」 とは、自分の健康状態が芳しくないことで、貞観八年は天皇の不出御が時折みられる。何らかの過度のストレスが あったのかもしれない。「火気」とは、火災と日照りで、前者は応天門の焼失などの火災をさし、後者としてはこ (8) の年の春先から続く旱害を指していると思われる。濃尾平野での水騒動の勃発や南海道諸国への奉幣などからは深 刻さを垣間見ることが出来る。「兵事」とは、不穏な新羅との緊張関係や地方での小競り合いなど不安定な社会情 (9) 勢が考えられる。このような当該期における清和の不安を予兆・象徴したのが、応天門の火災であったようで、す ぐに再建に着手した。六月には再建のための料材確保のため、木工寮官人が派遣されている。 ラ いまだ不穏な状況を脱せぬ八月に、事態は急転することとなる。八月三日に左京に住む大宅鷹取という人物が、 応天門の焼失は大納言である伴善男と右衛門佐伴中庸父子による放火であると告発したのだ。すぐに、告発者であ (叩) る大宅鷹取の身柄が左検非違使のもとに拘束され、勅命にて、参議である藤原良縄と勘解由使長官を兼ねる南淵年 名が、勘解由使局にて伴善男を鞠問することとなった。一八日には文徳天皇の田邑山陵をはじめとする諸陵に山陵 使が派遣されて、報告がなされた。 十八日庚寅。分二遺使者於諸山陵一、 告二応天門火一也。田邑山陵告文云、「天皇掛畏〈岐〉御陵〈永〉恐く美〉 恐く美毛〉奏賜〈倍止〉奏〈久〉(①去閏三月十日夜。應天門及東西模〈永〉有二火災一〈天〉皆悉焼失〈奴〉。 l 其答〈乎〉卜求〈礼波〉・掛畏〈岐〉御陵〈乎〉犯穣〈世留〉事在。又猶火事可し有。又疾事〈毛〉可し有〈止〉 ト申〈利〉。因し蕊恐畏〈利天〉申奉出給〈牟止須留〉間〈が〉頻有二職事→〈天〉至レ今延怠〈礼利〉。②因以一《 去十四日一巡〈留永〉・御陵〈乃〉木數多く久〉伐事〈阿り止〉検申〈世利〉。今御陵守等〈乎波〉c随し法〈永〉 罪〈那倍〉賜〈牟止須〉。爲レ申二此状一・中納言正三位兼行陸奥出羽按察使源朝臣融。少納言從五位上良峯朝 臣經世等〈乎〉差し使〈天〉奉出賜〈布〉・此状〈乎〉聞食〈天〉・平〈久〉安く久〉護幸賜〈止〉恐くミ〉恐 く美毛〉奏賜〈波久〉奏。」自餘山陵告文准レ此。 この告文で注目すべきは、応天門の焼失の事には触れている(傍線部①)のに、犯人については言及していない ことである。これをどのように考えるべきなのだろうか。犯人が確定できていないとすべきなのか。とすれば、こ の日に山陵使を派遣した理由を、文字通り、一四日の巡検した際に発覚した山陵の木の伐採(傍線部②)に対する 6 応天門の変と「伴大納言絵巻」 ~記録と記憶の間~ 御陵守の怠慢を詫びるとすべきなのだろうか。翌一九日に、清和天皇は勅命で藤原良房に「天下の政を摂行せし 一 Ⅲ ) (吃) む」という措置をとっている。この後、二九日には、伴善男の子息である伴中庸も拘禁され、今回の告発者である 大宅鷹取の子を殺害した生江恒山、さらには伴清縄も拷問されている。 そして、告発から一か月半たった、九月二二日に事件は犯人五人が確定し、断罪された。以下のとおりである。 伴善男↓死罪減一等伊豆国へ配流(遠流) 伴中庸↓隠岐国へ配流(〃) 紀豊城↓安房国へ配流(〃) 伴秋実↓壱岐鴫へ配流(〃) 伴清縄↓佐渡国へ配流(〃) また、連座した八人も配流先も決定した。 紀夏井(土佐国)・伴河男(能登国)・伴夏影(越後国) 伴冬満(常陸国)・紀春道(上総国)・伴高吉(下総国) 紀武城(日向国)・伴春範(薩摩国) いずれも伴氏と紀氏の同族ばかりである。同日、太政官曹司庁にて公卿・百官に宣制された。 公卿就一一太政官曹司艤一・會二文武百官一宣制。其詞日。「天皇〈我〉大命〈良万止〉宣く久〉・去閏三月十日之7 夕〈永〉。應天門井左右模等。不慮之外〈永〉忽然嶢蓋〈多利〉・因し弦日夜無し間〈久〉憂〈礼比〉念〈保之〉8 熱く加比〉御坐〈須〉・然間〈永〉備中權史生大宅鷹取告言〈世良久〉。①大納言伴宿祢〈乃〉所爲〈奈利〉・ 髪或諸人等又並レロ〈天〉無し疑〈留倍久〉告言〈己止〉在。然〈止毛〉件事〈波〉世〈氷毛〉不レ在〈止〉思 〈保之〉食〈天那毛〉月日〈乎〉延引〈都々〉早く永〉罪〈那倍〉不し賜御坐〈都留〉・而今勅使等鞠問〈志天〉 奏〈須良久〉・初問伴宿祢〈永〉毎し事固争〈天〉不二承伏一・從者生江恒山。伴清繩等〈乎〉拷訊〈留永〉。② 伴宿祢身自〈波〉不し爲〈志天〉・息子右衛門佐中庸等〈加〉爲〈奈利介利〉・錐し然清繩恒山等〈加〉所し申口 状〈乎〉以〈天〉・中庸〈加〉申辞〈永〉蓼験〈須留永〉・伴宿祢〈乃〉初所二争言一〈乃〉殺人〈留〉事既知二 巧詐一・③即中庸〈波〉父之教命〈乎〉受〈天〉・所し爲〈止〉云事無し疑。価与二明法博士等一勘定〈が〉・大逆 之罪共難し可レ避・須同〈久〉斬刑〈永〉當虚〈止〉奏聞〈世利〉・然〈礼止毛〉。別〈永〉依し有し所し恩〈奈 毛〉・斬罪〈乎〉一等減〈天〉。遠流罪〈永〉治賜〈布〉。又同謀從者豊城等三人井其兄弟子孫等。從二遠流→ 〈倍〉賜〈波久止〉宣天皇〈我〉大命〈乎〉衆聞食〈止〉宣。」 これによれば、大宅鷹取は「大納言伴宿祢の所為なり」と告発した(傍線部①)。勅使による謝問に、伴善男は 否定を続けたが、従者であった生江恒山と伴清縄を拷訊したところ、「善男ではなく、子息の中庸がしたことであ る」と自白した(傍線部②)。そこで中庸を召喚したところ、「父の教命を受けて」やったことであると証言する (傍線部③)に至った。明法博士に罪科を審問したところ、「反逆の罪」に相当し斬刑にするべきであると奏聞した (卿) が、清和天皇は一等を減じて「遠流罪」とし、その他の関係者も断罪した、と見えている。 この断罪と処罰に基づき、二五日には伴善男の家財は没収され、山陵使が派遣され、仁明天皇の深草御陵と桓武 応天門の変と「伴大納言絵巻」 ~記録と記憶の間~ (M) 天皇の柏原御陵に、事件の経緯と解決が報告された。二九日には朱雀門にて大祓を行い、この事件に関するすべて が終焉したことが内外に表明された。 この事件の解決過程には、先学が指摘しているように不自然な点が見られる。三月一○日に起きた応天門の火災 が、人為的な所作によるものであると、放火であると告発されたのが、八月三日である。そして、一八日には山陵 使が、文徳はじめ諸山陵に派遣され、告文には応天門焼失が明記されるものの、背景については特定していない。 ところが、良房が「天下の政を摂行」した直後に、事態は終結を見て、五人の犯人の断罪と八名の連座が確定し 一喝) た。これによって排除されたのは伴氏・紀氏であることは周知であるが、事件の主犯格は、伴中庸の「父之教命」 が採用され、すべての責任は伴善男であると名指しされた。 六国史のなかでも編集までのタイムラグが比較的短く、内容が正確だと評される「三代実録」の正文では、事件 の首謀者は伴善男だけであり、以上のように他への言及ないことを確認した。しかし、「三代実録」には、ほかに も興味深い記述がある。 (二)記録の不協和音 正史としての『三代実録」は、応天門の炎上とその後の政治疑獄事件について、伴善男父子とそれに連なる伴氏 や紀氏のみが放火犯であり、当時の世情不安を煽ったと断罪するのみで、事件の背後関係については固く口を閉ざ (肥) していることは先に確認したところである。それにもかかわらず、『三代実録」思いがけないところで、興味深い 記述を残している。 俗猴にいう伴善男伝である。これによると、 その一つは、俗 , l (略)貞観之始、与二左大臣源朝臣信一有し隙。数年之後、証三告大臣謀為二反逆}、殆欲レ陥レ害。其後犯二大逆之 罪一 一、 、父 父子 子自 自絶 絶二 二干 干天 天一 一・ ・積 積悪 悪之 之家 家、 、必有二餘狭一、蓋斯之謂欽。 罪 とある。伴善男と左大臣であった源信との間には確執が清和朝当初からあったこと。さらには、数年後に伴善男 は源信が反逆を企てたと証告し、陥れようとしたこと。しかし、伴善男父子が大逆罪を犯して、ついには家門を (〃) 絶ってしまったこと、が述べられている。「積悪之家」という文言には、かつて「積善」の家を標傍した藤原氏と の対比が感じられ、編纂当時の認識が反映されているように思われる。次に掲げる源信発伝から類推するに、源信 {鳩〉 の失脚を企てたものの、反って自らが墓穴を掘ってしまったのも今回の応天門の事件に関わる。さらに詳しい経緯 略 は、源信の莞伝にもみえる。 … し行也。干し時太政大臣不し知有二此事一・及レ至二發聞一、惜然失し色。即便奏聞、探二認事由一・帝日。朕曾所レ ’ 錐し似二奨擢一・實奪二大臣之威勢一也。②八年春欲し遣一レ使園二守大臣家一・善男通二諮右大臣藤原朝臣良相一所 向様一・左馬少属土師忠道爲二甲斐椛橡一・左衛門府生日下部遠藤爲二肥後權大目一・皆是便二於搬レ鞍引膨弓者。 欲し爲二不善一既有二先聞一。今飲章如レ此・可レ謂其反有し端突。至二子七年春一、以二大臣家人清原春瀧一爲二日 源朝臣融、右衛門督源朝臣勤等一、兄弟同謀、欲し作一反逆一。令下二時世一嗽々上。善男乘レ此、顯言日、大臣 ①貞観六年冬先し是、大納言伴宿祢善男与二大臣一相杵、漸積二嫌隙一・至レ是有二投送書一日、大臣臣与二中納言 く君、 削 10 不し聞也。髪勅遣二参議右大弁大枝朝臣音人、左中弁藤原朝臣家宗等一、前後慰諭。中使相側。大臣始則危擢 在し心。救伽無し計。及レ蒙二勅慰一・死灰更燃、虎口既免。大臣献二家中所有駿馬十二疋、井賓從冊餘人一、 以示三軍子孤猫無二復勢援一焉。朝廷不し受。皆悉返し之。③大臣自後杜し門、不二肯諏出一。(後略) 傍線部①によると、貞観六年冬以前に、対立していた伴善男は「源信が、兄弟である源融や源勤らと謀って、反 逆を起こそうとしている」という投書をした。その結果、彼らに近かった清原春瀧らが左遷された。これは伴善男 が「大臣の威勢を奪おう」としたためであったらしい。 続く傍線部②は、今回の応天門炎上を受ける内容である。源信の邸宅が包囲されたのは、伴善男と右大臣であっ た藤原良相の所業であった。太政大臣であった良房は、まったくこのことを知らず、事実を知りすぐに、清和天皇 に事情をよく掌握すべきだと進言した。天皇も寝耳に水だといい、大枝音人と藤原家宗を勅使として遣わし、事情 を問い慰めた。これによって窮していた源信は九死に一生を得た。これ以降源信は、自邸の門を固く閉ざして、世 俗から一線を画した。失意のなか、貞観十年落馬によって命を落としたという。 以上のように、大納言伴善男と左大臣源信、さらに右大臣藤原良相の確執は周知であった。それならば、『三代 実録」はなぜ、閏三月の応天門の炎上から、源信との確執や善男による源信の認告騒動など、善男が告発される八 月以前の動向が、応天門の事件にかかわる一連の記事から省かれているのだろうか。 {卿) もう一つは、 紀夏井伝である。 11 ~記録と記憶の間~ 応天門の変と「伴大納言絵巻j (前略)有二異母弟豊城一・夏井以一→其放誕一、数加二督責一・。豊城苦し之、遂託二身大納言伴宿祢善男一・応天門火、 善男坐。以二男中庸行し火焼F之。父善男応し知し之焉。 豊 城 為 二 善 男 之 従 一 。 夏 井 為 二 豊 城 之 兄 一 、 、 韓 相 縁 坐 、 被し処二遠流→。(後略) 傍線部によれば、応天門に放火したのは中庸で、その所業を父親である善男は知っていて、坐して流されたこと がみえる。つまり、この史料によれば、主犯Ⅱ実行犯は伴中庸であり、善男自体はそれに連座した形で事件に関 わったということになる。これも、先述した「父の教命」によって行動したのとは、ニュアンスが異なる。さら (釦) に、中庸の子どもたちが幼くて、父親の配所へ共に落ちて行くのは困難であろうと、二人の幼児には都への召還を 赦している温情をみると、この事件に関する三代実録』の歯切れの悪さを感じずにはいられない。正確であると される正史の記録には、正文と異伝との間に若干の齪嬬が見られ、この事件に関するすっきりとしない歯切れの悪 さを残す結果となっている。善男と信との確執や善男による信の証告、善男が主犯ではなく中庸の罪に連座したと いう記述などは、正史の正文が記述しなかった「記録の不協和音」であり、そこに何らかの作為を感じるのは私だ けではあるまい。 (鍵) (訓) この事件の後十一月十七日に皇太后である明子が東宮より常寧殿へ移り、十二月に入ると清和天皇の手勅で藤原 (鍾) 基経を従三位とし、中納言に任じている。同日には、藤原良相の左近衛大将の辞職上表がなされ、これは十三日に (割) 裁可されている。事件によって廟堂の人事が大幅に塗り替えられたのは事実である。年も押し迫った二十七日に は、良房養女の高子が清和に入内し、女御となっている。このあたりのことについては、後で詳述したい。 12 応天門の変と「伴大納言絵巻」 ~記録と記憶の間~ 以上、正史である「三代実録」を検討した結果、「三代実録」の事件に関する正文には、応天門の焼失は伴善男 の放火である告発に沿って善男とその子息中庸、そして関連者の断罪のみ記載されていた。しかし、伴善男伝や源 信伝、紀夏井伝など正文と異なる記述には、別の様相が伺い知られ、『三代実録」の語らない諸事情が存在したこ とを匂わせていることを確認することができた。 (笛) 次に、その諸事情とはどのようなものか、後世の人々のこの事件に関する記憶を、他の資料から辿ってみたい。 二人々の記憶の中の応天門の変 (一)「大鏡裏書」に見えるもう一つの事実 今日、「大鏡裏書」とされる記事のなかに、本事件に関係する興味深い記事がみえる。 四品惟喬親王東宮靜事 文徳天皇第一皇子母從四位下紀靜子正四位下名虎女 嘉祥三年十一月汁五日戊戌、惟仁親王爲二皇太子一・誕生之後九ヶ月也。先是有二童謡一云、「大枝〈於〉超〈天〉 奔超〈天〉騰躍〈土那加留〉超〈天〉我〈那〉護〈毛留〉田〈仁耶〉捜〈阿佐留〉食〈母〉志岐〈那〉雌雄 〈伊〉志岐〈耶〉」 識 者 以 爲 、 大 枝 謂 二 大 兄 一 也 。 是時文徳有二四皇子一・第一惟喬、第二惟條、第三惟彦、第四惟仁。惟仁天意若 日超一}三兄]而立、故有二此三超崔之誰一焉・ 13 (猫) 文徳天皇には、臣籍降下させなかった皇子が五名いた。紀静子(更衣)の生んだ惟喬親王、惟條親王、滋野奥子 (宮人)の惟彦親王、そして藤原明子(女御)の生んだ惟仁親王、藤原今子(宮人)の惟恒親王である。八五○年 三月、文徳天皇の即位時に生まれていたのは、このうち四名であり、即位に伴う東宮選定の際に立てられたのは、 傍線部のように惟喬・惟條・惟彦を飛び越えて一番年少であった惟仁親王で、生後九か月であったという。もっと も注目されていた惟喬親王は、第一皇子でこのとき数え七歳であった。この立太子に疑問や不満を持つ人がいたこ とは、「三超之謡」と呼ばれた童謡が広くうたわれていたことからも、容易に察しがつく。文徳天皇の後継者問題、 いわゆる「ポスト文徳」が大きな関心事であったこともうかがえる。これに対する文徳の考えや周囲の雑音が次の 記事からもわかる。 (”) これは、先述の 「大鏡裏書』の一部であるが、今日散逸してしまった「吏部王記」の逸文でもある。 承平元年九月四日夕、参議實頼朝臣來也。談及一古事一陳云、「①文徳天皇最愛惟喬親王。千時太子幼沖。帝 欲三先暫立二惟喬親王一。而太子長壯時、還繼二二 洪洪基 基一 一。 。其 其 時先太政大臣仰日、「太子祖父爲一朝重臣一」。帝偉未し 發。太政大臣憂云、「欲下使二太子]辞讓上」。是 是時 時藤 藤原 原三 三仁善二天文一諌二大臣一日、「懸象無愛事、必不レ遂焉」。 菱帝召二信大臣一清談良久、乃命下以立二惟喬親王一之之 趣趣 上 上。 信大臣奏云、「②太子若有レ罪須レ嬢。鮎更不二還立一・ 若無し罪、亦不レ可レ立二他人一・臣不レ敢一奉詔一」。 帝 甚 不 レ 悦 ・ 事 遂 無 し 鍵 無 し 幾 帝 崩 。 太子績位後應天門有し火。③良相右大臣伴大納言計謀欲し退弐信左大臣一、共蓼一陣座・時後太政大臣、爲二近 衞中將兼参議一・良相大臣急召之、仰云、「應天門失火、左大臣所爲也。急就レ第召之」。中將對云、「太政大臣 14 応天門の変と「伴大納言絵巻」 ~記録と記憶の間~ l 知之欺。」良相大臣云「太政大臣偏信二佛法|、必不レ知二行如レ此事一・」中將則知下太政大臣不二預知一之由上報云、 「事是非し輕。不し蒙|太政大臣虚分一、難二諏承行一・」遂辞出到|④職曹司→令レ諮一→太政大臣一・大臣驚令レ人奏 日、「⑤左大臣是陛下之大功之臣也。今不レ知其罪一忽被し戦未レ審。因二何事一・若左大臣必可二見謙一、老臣先 伏し罪。」帝初不し知。聞大驚粧報詔、以二不し知之由一・於レ是事遂定臭。永後太政大臣莞。清和天皇爲レ之碁中 不し塁し樂也。⑥此等事、皆左相公所し語也。」 (麹) これは、承平元(九三四)年九月四日に、重明親王のもとを訪ねた参議藤原実頼が、父親である忠平から聞いた古 事(傍線部⑥)として、語ったことを重明親王が記したものである。それによれば、文徳天皇の皇位継承計画は、 まだ幼い皇太子惟仁親王を飛ばして最愛の息子である惟喬親王に皇位を譲ろうというものであった。もちろん、皇 太子が成人するまでという期限付きではあるが、文徳は何としても惟喬に譲位したいと考えていたらしい(傍線部 ①)。だが、先太政大臣であった藤原良房は皇太子惟仁の祖父であり、朝廷の重臣であったために、文徳天皇は 憧って実行に移せないでいた。天文に通じていた藤原三仁は「文徳天皇の意志は遂げられない」といったものの、 良房は外孫惟仁の行く末に不安を覚えずにはいられなかった。 文徳天皇は、歓談した源信に惟喬立太子を命ずるが、信は道理を説いて不服従だった(傍線部②)。文徳は不満 に思ったが、そのまま数年後に亡くなった。こうして、皇太子惟仁が即位して清和天皇となった。数年後、応天門 が炎上した際に、右大臣藤原良相と大納言伴善男は共謀して、左大臣であった源信を陥れようと(傍線部③)、近 衛中将と参議を兼務していた藤原基経に源信の召喚を命じた。しかし、基経は機転を利かせて、父である藤原良房 に、「職曹司」にて(傍線部④)事態を報告することに成功する。良房は清和天皇に、源信は「陛下大功之臣」(傍 15 線部⑤)であるので、処罰してはならないと進言し、信は赦免されたことが知られる。 これら一連の内容から、応天門の変から七十年後における人々の記憶が浮き彫りにできよう。右大臣藤原良相と 大納言伴善男が結託して、左大臣源信を冤罪に問おうとしたこと。良相が、太政大臣であった良房を通さずに、強 制的に権力行使しようとし、それが可能であったこと。基経の機転と良房の暗躍は、源信を救済することで、権勢 を伸長しつつある良相らを牽制しようとしたことが考えられる。清和の後宮でも、八六四年に清和の元服の際に添 臥として入内した良相の娘多美子は、清和の寵愛を一身に受け、この年の三月に正三位まで昇叙したばかりであつ (”)(鋤) た。姉の多賀幾子も文徳女御として入内しており、良相は文徳l清和の二代にわたって娘を後宮に送り込むことに (蛇) (別) 成功していた。一方、良房は清和の後宮に入れる娘がなく、基経と高子を養子として迎い入れたものの、高子は醜 聞があり、入内にまで漕ぎ着けていない有様だった。良相の「太政大臣偏信佛法」というフレーズにからは、良房 に対する多少の侮蔑を感じられ、良房と良相の亀裂も相当深かったことが推測できる。 さらに、注目したいのは「陛下大功之臣」という論理である。これは上述した傍線部②の、文徳天皇が惟喬親王 へ先に譲位しようとしたところ、源信の阻止に逢って、実現しなかったことを指している。源信の真意がどこに あったにせよ、彼による惟喬立太子の阻止を良房以来、恩義に感じていたことを示している。 そして、もう一つが「職曹司」に良房の直瞳が置かれていたことである。【図1】を参照していただくと、「職御 (漣) 曹司」は内裏の東、後宮からは嘉陽門を出たところにある。「職」とは中宮職あるいは皇后職の家政機関が置かれ 〈鈍) た役所のことであり、当該期にはその両者が置かれていなかったことを考え合わせると、皇太后宮職であったこと になる。当時の皇太后は清和生母の藤原明子である。母后といわゆる摂政・関白の誕生が「職曹司」での出会いに あったことは偶然ではない。「天下の政を摂行」すべき太政大臣良房の執務空間としての直臓が、彼の実娘であっ 16 応天門の変と「伴大納言絵巻」 ~記録と記憶の間~ 図2平安京内璽図 号 e ◆ → [団 昭 昭悶北舎 従隅殿 校寄殿 ● 桜 橘 熟 「輪腿 jl蝋門 女月順 ●丹 邪興殿 安隅殿 進物所 作物所 修現内懐 園 回| 田 寮 角田文衛監修古代学協会・古代学研究所網『平安時代史邸典」 (角川書店 島曹司 l"4に加節) 建春門 内記所一一。。。 紫展殿 軒 ← 遍 梁 |:|片 鶚酔 測 □ 北舎 崎殿 綾 湿 付付所 湿明 明殿 殿 二 内内 所 典 測竹」 也刷Ⅲ 北舎rユ可‐南寺〒LIr卜Ⅲ 殿 - #・上 、 17 雨 崎町井 町井 承 門 後宮小’二 鹿殿殿 {后町鹿〉 徹殿 i 外遡物所 h膣 ◆ IE.’ I 「 ● 舎 淑 腫訓 遊 辞舎 .率 の 餓 雨 倣 登華殿 圃 貞観殿 ● ●の等 ● 宣曜 曜殿 殿 再誉 峠宣 喋 腿 腫 誉浦 汀円 円一 一言 一岸二 。 玄邸門 。 ● 。 号 ・・・砥 岳 ● 倣 門 門 倣誓 門 ● た皇太后明子の家政機関が置かれた職御曹司に置かれていたことこそ、幼帝清和を輔弼すべき態勢として清和朝に肥 創出されたのであろう。 (弱) 平安初期に嵯峨上皇が内裏を退出し、嵯峨院に移居して以降、太上天皇が宮外へ退去する際には、天皇の生母で あってもキサキはすべて宮内から宮外へ退出することとなった。このことによって、内裏は初めて天皇一人の空間 となったのである。しかし、この応天門の変後、清和は成人しているにもかかわらず、生母である皇太后明子が宮 内(常寧殿)に入り、居住を復活させた。常寧殿は、【図2】に見えるように、後宮の中心殿舎である。ここに母 后明子が再入内したということは、後宮の支配統括権が母后に掌握されたことを物語っている。キサキの居住形態 (弱) が大きく変化したのである。それだけではない。明子の内裏復帰によって、新たな清和の妃選びが行われた結果、 (”) 高子が入内する運びとなったのであろう。高子は、良房の兄長良の娘で、兄の基経と共に良房の養子となってい た。年頃には五条にあった藤原順子のもとにおかれていたらしいが、その後移されている。順子は仁明天皇の女御 で、高子にとっては父方の伯母に当たる。「伊勢物語」に「(前略)ほかにかくれたり。あり所は聞けど、人のいき (銘〉 通ふべき所にもあらざり」とみえ、人の行ける場所でなかったというのは、おそらく後段に「いとこの女御の御も とに、仕うまつるようにていいたまへりける」とあるように、文徳女御であった明子のもとに出仕するようになっ たことと関連していよう。【図3-にあるように、高子と明子は本来従姉妹に当たるが、養子縁組によって義理の 姉妹にもなった。高子が順子や明子の監督下にあったことは、清和の妃がねとして養育されたことを物語ってい る。高子の入内は、このような明子の内裏復帰を前提として可能になったと考えられる。このことにとどまらず に、母后が天皇と内裏内で居住するケースは、明子を噴矢として内裏内の権力構造に影響を持ってくるようにな る。この応天門の変が、天皇・母后・摂関などの関係性に大きな変化をもたらす契機となったことは、評価しなく 応天門の変と「伴大納言絵巻」 ~記録と記憶の間~ 図3天皇家・藤原氏関係系図 〈天皇家〉 h” 2平城 源信 (忠仁 2 1 てはならない。 さて、承平元年の九月の夕べに、このようなこ とが話題になったのは理由がある。この年の七月 (”) に宇多太上天皇が仁和寺にて没した。この会話が 重明親王の日記に記された二日後の六日には、字 一回 のような話題が、宇多太上天皇の火葬を前に、 おり、当時でもそう認識されていたからこそ、こ 摂関忠平に補佐される態勢は、清和朝と類似して れた。宇多・醍醐という後見がなくなり、幼帝が (枢〉 原忠平が政を摂行し、藤原実頼は蔵人頭に任じら 朱雀天皇に譲位したばかりであった。この時、藤 天皇は亡くなる一週間前の九月二二日に、八歳の に没した醍醐太上天皇に続く衝撃であった。醍醐 (似) る勢力を持っていた宇多太上天皇の死没は、前年 (側) 惟喬親王 多の火葬が行われる運びであった。朝廷に隠然た 清和 后 良房 長良 蛙霊 成 7 汁嵯峨仁仁明l捲孝l響多l醍醐l朱雀 桓武 1 淳和 藤原 冬嗣 良相常行 "へ古・* 多美子(浦和女御) 「古事」として語られたのであろう。 以上の記事から、応天門の変から七○年後に、 19 計畿侭単… 古子(文徳女御) 一 T 棊子 孟順 当該者の子孫たちがどのようにこの事件を記憶し、語り継いでいたか知ることができた。良相と伴善男の結託によ る源信の追い落とし陰謀や、良相と良房・基経父子との間に横たわる溝、さらに、良房と清和天皇が源信の窮地を 救った理由など、正史である「三代実録」には記録されていない、或いはできなかった事件の一端を知ることがで きよう。記録されなかった事実が、人々の脳裏に記憶として伝えられていく様相を『吏部王記」逸文から看取でき ヲ(や0 (二)「伴大納言絵巻」と「宇治拾遺物語」 今日、東京の出光美術館が所蔵する国宝「伴大納言絵巻」は、十二世紀後半に、後白河院の周辺で作成されたと 推定されている。いわゆる後白河院の絵巻コレクション「宝蔵絵」の傑作の一つに数えられている。宝蔵とは、平 清盛が造営・寄贈した蓮華王院の一角にあった宝蔵のことで、ここには「源氏物語絵巻」「鳥獣人物戯画」「信貴山 縁起絵 絵巻 巻』 』「 「年 年中 中行行事絵巻』悪獄草子」など多種多様なモチーフを扱った優れた絵巻が収集、製作・所蔵されてい たことが知られる。 「伴大納言絵巻」は現存は三巻(上・中・下)であるが、これは十七世紀に大老であった酒井忠勝によって切断・ 改装されたためである。もともとは、宝蔵から流失したこの絵巻は、十五世紀には若狭国松永庄新八幡宮に伝来し (躯) たが、十七世紀に入って若狭国小浜藩の藩主であった酒井忠勝が所有するようになり、二十世紀(昭和五○年代) になって酒井家より出光美術館へ渡った。 絵巻の現状は【図4】のようである。 20 応天門の変と「伴大納言絵巻」~記録と記憶の間~ 垂一等 翼二層冨調 ▼碁毎諄 司絃藷】 ■一屋 竃毎房 蝿 峰 【華善一 ~ と一一一エーシ 0 =一一一色や詞 【薄判子 z脚弄 ▼巧堂荘 T望『国‐ ▼葛輯ヨ 廷1超撰曇華⑭や鑑至 ▼毒呈垂 塗霞 腫一qpU・浄寺密 ー一一F…名園 一一草一言一 蕊 一マー_音百一コーー L =←~デー←4 yz『廃 ▼舎営守屋 石哩苗 亭 で 合一一言一一 ▼画邑歸 (有呈鎮誕)導く樫喜ぶご昌罫 電撃震▼胃■▼ く ご毒 享マ呑昌 ▼竃邑臣 囲醐竃遥 一両■ご】 一.一一一 一一一一 T薯画厚 i q 郎毒辮鎭伽羅K詮苛函皿 長浮く裡鼻心圏今雰 墾鋼栓塞T含毎里替砿ゆ拳 ▼竃←E く劇や躍剖頃Ⅸ : 一一 幸■ 》 鍾之“ロー一 手一E旬ーーd 溺言1国露I嗣麗念9面麓朴〃ご『獅鍋胸棄K詮抽駐淵」球三画田雛 難 一》一 レーGご←…一 ーー一一済 多くの人を魅了するこの絵巻には、多くの謎がある。例えば、最大の争点として、絵巻の「謎の人物」論が挙げ られる。 (1)庭に佇む後姿の人物は誰か? (2)清涼殿の広庇に坐する人物は誰か? (幅) (3)清涼殿で清和天皇と語らう人物は誰か? これに関しては、多様な説が出されているが、ここでは論じない。ただ、一つ言えるのは、十二世紀にこの絵巻 が作られた当時、「謎の人物」は謎ではなかったということである。当該期の人々は、絵巻を見て、あるいは詞書 を見ながら、その人物が誰なのかわかっていたということである。人々の記憶が、特定の人物と絵巻の「謎の人 物」をむすびつけ、私たちが今日抱く「謎」は存在しえなかったのである。 また、絵巻の一部の人物らしきものが切り取られている痕跡も見える。中巻の第三紙には赦免使と思しき人物が 切り取られている。さらに、第一五紙の最後にも噂をする人々のとその噂を伝えようとする水干の童の先も切り取 られた跡がある。水干の童から報告を受ける人物なのであろうか。 絵巻全体を見渡して、上巻に詞書が抜けていることや、各所に切り取られた跡や、紙の不自然な継接ぎなどがみ 22 応天門の変と「伴大納言絵巻」 ~記録と記憶の間~ られ、絵巻が制作された十二世紀後半以降の伝来の過程で故意や事故による喪失があったことは周知である。た だ、念頭に置いておかなければならないのは、今日「謎」とされる論争点の多くが、製作時点では「謎」ではな く、衆目が理解でき納得する内容であったということである。絵画自体のより詳細な分析は、美術史家に譲ること にして、次に詞書の内容に注目して考察を加えていきたい。 現存する詞書については、 先学の検証によって、 (上巻)なし (中巻)(下巻)「宇治拾遺物語」巻十第一話とほぼ同文 とされている。そこで、詞書と「宇治拾遺物語」から十二世紀後半の人々の記憶を読み解いていきたい。 上述したように「伴大納言絵巻」の詞書と宇治拾遺物語の関係が近いことは、周知の事実である。現存する上巻 には詞書はない。おそらく、伝来の過程で欠落したものと思われる。続く中巻と下巻には、「宇治拾遺物語」巻十 第一話とほぼ同文と言ってもいえる類似した詞書がある。このことを勘案すると、先学が指摘しているように、上 巻にも「宇治拾遺物語」と同内容の詞書があった可能性が高い。煩雑になるが、両者を対照させてみていきたい。 「伴大納言絵巻」詞書に欠けている上巻の部分を、『宇治拾遺物語」から推測してみよう。該当する箇所は次のと おりである。 今は昔、①水の尾の 御門の御時に、應天門やけぬ。②人のっけたるになんありける。それを、伴善男といふ大 納言、「③これは信の大臣のしわざなり」と、おほやけに申ければ、その大臣を罪せんとせさせ給うけるに、 23 ④忠仁公、世の政は御おとうとの西三條の右大臣にゆづりて、白川にこもりゐ給へる時にて、此事を聞きおど ろき給て、御烏帽子直垂ながら、移の馬に乘給て、乗ながら北の陣までおはして、御前に参り給て、「このこ いとことやうのことなり。か、る事は、返々よくたずし と、⑤申人の謹言にも侍らん。大事になさせ給事、い て、まこと、空事あらはして、おお }こなはせ給べきなり」 と奏し給ければ、⑥まことにもとおぼしめして、たず させ給に、一定もなきことなれば、 ⑦ 「 ゆ る し 給 よ し 仰 よ 」 と あ る 宣 旨 う け た ま は り て ぞ 、 大 臣 は か へ り 給 け る。 傍線部①に「水の尾の御門の御時」とあるように、清和朝の出来事である。 この内容は、先述した「三代実録』の伴善男伝の一部と合致する。すなわち、伴善男が放火(傍線部②)は、左 大臣である源信の仕業と証告し(傍線部③)、謹言を信じた清和天皇の怒りに触れそうになるというくだりである。 このことは、『宇治拾遺物語」のこの箇所が、史実として記憶されていたことを示すことになろう。さらに、政界 (価) から距離を置いて隠居していた良房が、これをきっかけに政局に復帰したこと(傍線部④)や、清和天皇が良房の 言(傍線部⑤)に一理ありと理解を示したこと(傍線部⑥)も、「三代実録」で良房に勅で天下の政を摂行させた ことや、『吏部王記」逸文で基経の機転でことが良房の知るところになったことや、良房の説得に清和が同意する ことに符合する。一方で、傍線部⑦のように、源信の処分が撤回されたことは、『三代実録」に記述がみられない のは、編纂者から見れば、削除に価する箇所であったのかもしれない。 次に、中巻に該当する「宇治拾遺物語」をみてみよう。 24 応天門の変と「伴大納言絵巻」 ~記録と記憶の間~ ①左の大臣は、すぐしたる事もなきに、かゞるよこざまの罪にあたるを、おぼしなげきて、日の装束して、庭 にあらどもをしきて、いでて、天道にうたへ申給けるに、②ゆるし給ふ御使に、頭中將、馬にのりながら、は せま まう うで でけ せ けれ れば ば、 、い いそ そぎ ぎ罪 罪せ せら らる る魯 魯使 使ぞ ぞと と心 心得 得て て、 、ひ ひと と家 家な なき きの の慾しるに、ゆるし給よしおほせかけて蹄ぬれ ば、又、よろこび泣きおびた、しかりけり。ゆるされ給にけれど、 ③ 「 お ほ や け に つ か う ま つ り て は 、 よ こ ざ 】7匪引1Vて刺 此ことは、過にし秋の比、右兵衞の舎人なるもの、東の七條に住けるが、っかさに参りて、夜更て、家に歸 るとて、應天門の前を通りけるに、人のけはひしてささめく。廊の腋にかくれ立て見れば、桂よりか、ぐりお る、者有。あやしくて見れば伴大納言也。次に子なる人おる。又つぎに、雑色とよ清と云者おる。何わざし て、おる魁にかあらんと、露心も得でみるに、この三人おりはつるま勘に、走ることかぎりなし。南の朱雀門 ざまに走ていぬれば此舍人も家ざまに行程に、二條堀川のほど行に、「大内のかたに火あり」とて、大路の域 しる。みかへりてみれば、内裏の方とみゆ。走り歸たれば、應天門のなからばかり、燃えたるなりけり。この ありつる人どもは、この火つくるとて、のぼりたりけるなりと心得てあれども、人のきはめたる大事なれば、 あへて口より外にいださず。その後、左の大臣のし給へる事とて、「罪かうぶり給くし」といひの、しる。あ はれ、したる人のあるものを、いみじきことかなと思へど、いひいだすべき事ならねば、いとほしと思ひあり くに、「大臣ゆるされぬ」と聞けば、罪なきことは遂にのがる、ものなりけりとなん思ける。 かくて九月斗になりぬ。か、る程に、伴大納言の出納の家の幼き子と、舎人が小童といさかひをして、出納 の封しれば、いでて、とりさへんとするに、此出納、おなじく出でて、みるに、よりてひきはなちて、我子を 2う 0 ば家に入て、この舎人が子のかみをとりて、うちふせて、死ぬばかりふむ。舎人思ふやう、わが子もひとの子 も、ともに童部いさかひなり。たぎさではあらで、わが子をしもかく情なくふむは、いとあしきことなりと腹 だ、しうて、「まうとは、いかで情なく、幼きものをかくはするぞ」といへぱ、出納いふやう、「おれは何事い ふぞ。舍人だつる。おればかりのおほやけ人を、わがうちたらんに、何事のあるべきぞ。わが君大納言殿のお はしませぱ、いみじきあやまちをしたりとも、何ごとの出でくべきぞ。しれごといふかたゐかな」といふに、 舎人、おほきに腹だちて、「おれはなにごといふぞ。わが主の大納言を高家に思ふか。をのが主は、我口によ りて人にてもおはするは知らぬか。わが口あけては、をのが主は人にてはありなんや」といひければ、出納は 腹だちさして家にはひ入にけり。 中巻の冒頭にみえる「おとど」は、「宇治拾遺物語」には「左の大臣」と明記され(傍線部①)、庭に荒薦を敷 (鞭〉 き、冤罪を天道に訴える主体として明確である。清和の勅命を伝えた「許し賜う御使に、頭中将」(傍線部②)は、 絵巻の詞書には見られない。この頭中将とは、藤原基経を指すとみられる。「三代実録」の源信伝には、「差勅遣参 議右大弁大枝朝臣音人。左中弁藤原朝臣家宗等。前後慰諭。」とあり、勅使は基経と別人で、大枝音人と藤原家宗 だったとする。基経は『宇治拾遺物語』では、この赦免使として華々しく登場するが、前述した「吏部王記」逸文 では は、 で 、‐上段部分に相当する場面で、隠居している良房に源信が証告されたことを告げる重要な人物として記憶され ている。 無罪放免となった左大臣源信は、 「おほやけにつかうまつりては、よこざまの罪出で来ぬべかりけり」といひて、もとのやうに、宮づかへもし 26 応天門の変と『伴大納言絵巻」 ~記録と記憶の間~ 給はざりけり。(傍線部③) と、朝廷への出仕を止めて、隠居してしまったとされる。実際に、源信は事件の二年後、貞観十年閏十二月に (鴨) 五十九年の生涯を閉じている。前掲した蕊伝には、「大臣自後杜門。不肯諏出。」とみえ、この事件をきっかけに源 信は閉門してしまった様子が、史実としても確かめられる。 後半は、「右兵衛の舎人なるもの」の事件当夜の目撃が噂になるまでを語る。事件当夜に、応天門から「伴大納 言」「子なる人」「雑色とよきよ」が逃走した様子が、市井の人に目撃された。そして、思いもかけない「伴大納言 の出納の家の幼き子」と「舎人が小童」の識いから風聞が広まっていく。 下巻に該当する「宇治拾遺物語』は次のとおりである。 このいさかひをみるとて、里隣の人、市をなして聞きければ、いかにいふことにかあらんと思て、あるは妻子 にかたり、あるはつぎつぎかたりちらして、いひさわぎければ、世にひろごりて、おほやけまできこしめし て、舎人を召して問はれければ、はじめはあらがひけれども、われも罪かうぶりぬくくとはれければ、ありの くだりのことを申てけり。その後、大納言も問はれなどして、ことあらはれての後なん流されける。①應天門 ③かへりてわが身罪せられけん、④いかにくやしかりけん。 をやきて、信の大臣におほせて、かの大臣を罪せさせて、②一の大納言なれば、大臣にならんとかまへけるこ との、 l 市中の風聞が広がり、とうとう舎人は朝廷で尋問されることとなり、放火犯として伴善男自身が断罪されるに 27 至った。「応天門をやきて、信の大臣におほせて、かの大臣を罪せさせて」(傍線部①)とは、源信を冤罪とするた めに伴善男が謡言したことをさす。「一の大納言なれば、大臣にならんとかまへけることの」(傍線部②)は、この 動機が出世(大臣への昇進)であったことを記す。 だが、「三代実録」伴善男伝では「貞観之始、与左大臣源朝臣信有隙。数年之後、謹告大臣謀為反逆、殆欲陥害」 とみえる。また源信伝では、「貞観六年冬先是。大納言伴宿祢善男与大臣相杵。漸積嫌隙」として、これ以前にも 両者の確執がいくつもの事件を生んでいたことを明記している。両者とも、明らかに源信と伴善男の政治的対立が 原因であったことを記している。しかし、伴善男の計画は上手くいかず、「かへりてわが身罪せられけん」(傍線部 ③)と、自らの足元をすくわれた結果になった。最後の詞書「いかにくやしかりけん」(傍線部④)は意味深な言 葉である。何に対して「くやしかりけん」としているのだろうか。伴善男の、自分の愚かな行動に対してだろう か。それとも、後日怨霊になったとされる善男が自分を陥れた人々に対してであろうか。前者であれば、源信の権 勢失墜と政界からの左遷を企てて証告したものの、まわりまわって自分が罪人として都を追われるようになった伴 善男の口惜しさととることができる。後者とすれば、踊らされた挙句に自滅することになった善男を憐み、同情を 寄せる十二世紀の人々の嘆きと受け取ることができる。いずれにせよ、この言葉は時の文であり、当時の人々の認 識や感情を表しているのは間違いない。 絵巻は、前の簾を垂らして後を巻き上げられた八葉車に、罪人として後ろ向きに座らされる善男が検非違使に連 行されて行く場面で終わっている。 「絵巻」と聿治拾遺物語」を考察してきたが、これらは当時の記憶’十二世紀の京周辺の人々の記憶lを伝え 28 応天門の変と「伴大納言絵巻」 ~記録と記憶の間~ る貴重は史料である。事件から三百年後の人々には、応天門の変はこのように伝えられた。応天門の焼失後、伴善 男によって「放火犯は左大臣源信」であるという謹言が成されたが、基経の機転や隠居していた忠仁公良房の再登 壇により、清和天皇は説得に応じた。天道に無実の訴えていた源信は、赦免されると政界から引退してしまった。 市井の子どもの喧嘩に端を発し、放火犯として伴善男が断罪されて、事件はあっけなく幕を下ろした。当時の人々 の事件に関する認識は、「いかにくやしかりけん」という言葉で表され、伴大納言は冤罪と認識されていたことを 窺わせる。そこには、「三代実録」の記録とは異なる人々の記憶があることが明らかになった。 このような記憶が、一つは画像化されて「伴大納言絵巻」という絵巻として、もう一つは文字に書き記されるこ とによって「宇治拾遺物語」として、新たな形で「再記録」されて、後世まで繰り返して語りつがれることになっ たのである。 むすびにかえて~記録と記憶の間~ 八六六年の応天門の変を題材に、事件がどのように史書に記録されるのか、さらに、真実が人々の記憶の中でど のように生き続けるのか、その実態を考察してきた。 九世紀の記録である「三代実録』の正文は、ただひとえに伴善男を断罪するのみで、歯切れの悪さを残してい た。一方で、同書の中で個人の伝として採録された異伝の中に、当該期の社会政治情勢を物語る記述や、事件の背 後関係に関する言及を垣間見ることができた。許されるのであれば、正文には残されなかったそれを「記録の不協 和音」と呼びたい。事件に対する朝廷の正式認定された「事実」以外にも、物語が存在することを示している。 29 さらに七○年後の十世紀の記憶は、「記録の不協和音」である「三代実録』の異伝や後世の「宇治拾遺物語」に 相通じる記述がみえる。孫の代に伝わる「吏部王記』逸文からは、事件当時の利害関係が浮き彫りになった。 十二世紀になると、この事件は平安期のミステリアスな事件の一つとして、絵巻の題材に選ばれて画像化され、 さらには説話化されるに至った。今でこそ謎に包まれた「伴大納言絵巻』は作成当時には「謎」は存在せず、観る 人には内容が素直に理解されていたはずである。ここに記憶の画像と文字による再記録のプロセスを見ることがで 些弍ごヲ(》◎ 応天門の変が起きた清和朝は、史上初めて幼帝の出現した時代でもある。幼帝である清和の登場と惟喬親王との 皇位争いの伝承は、清和という王権が必ずしも貴族層の支持を得ていない実情を表している。九世紀以降、幼帝の (袖) 出現は、血統の重視によって必然的に起こるようになっていった。もちろん、その前提には、官僚制が成熟して、 (釦) 国家機栂が安定してきたことを忘れてはならない。その幼帝をどのように補佐していくかが大きな問題として浮上 してくる。即位当時の清和の場合、同興して内裏に臨んだという祖母である太皇太后藤原順子の存在抜きには語れ (別〉 まい。この順子の手足となって政界での地歩を固めてきたのが、伴善男その人である。彼の失脚は、順子の政治的 権力の失速を物語るのかもしれない。 かわって、この事件後、内裏内での影響力を強めたのが、清和の生母である藤原明子である。平安初期以降、太 上天皇が宮外へ退去する際には、天皇の生母であってもキサキはすべて宮内から宮外へ退出することとなった。し かし、この事件後、清和は成人しているにもかかわらず、母后明子は宮内(常寧殿)に入り、内裏内居住を復活さ せた。このことによって、家政機関(皇太后宮職)も宮中におかれ、「職御曹司」として機能するようになった。 30 応天門の変と「伴大納言絵巻」 ~記録と記憶の間~ (露) このようなキサキの居住形態の変化は、とりもなおさずキサキという立場の変化を物語っている。この事件こそ が、天皇の配偶者(妻后)というより、天皇の母(母后)という立場へ大きく変化する画期ともなったと評価する ことができる。その母后の政治的背景として、「摂政の出現」という事態を想定することは難しくないであろう。 先述したように、太政大臣良房の執政空間としての直臓が「職御曹司」におかれていたのは、偶然ではなく、母后 と藤原摂関家の「職御曹司」での出会いは、八六六年応天門の変を画期として成立したといえる。 この変によって、政界の勢力範囲図も大きく塗り変わった。太政大臣であった藤原良房は「天下の政を摂行」す る権限を付与され、実権を握ることとなる。左大臣であった源信は、事件後政界から引退して失意のまま翌々年死 没している。伴善男と共謀したとされる右大臣藤原良相は影響力が失墜し、翌年死没した。参議に登った藤原基 (郭) 経 、政界へ大きく躍進しただけではなく、実妹である高子を年内に清和の後宮に入内させることに成功したので 経は は、 ある。 論じ残した点も多々あるが、歴史の中で、何が「事実」として記録されたのか、それとは必ずしも合致しない 人々の「真実」として記憶がどのように伝えられていったのかを、応天門の変を一つの題材として明らかにすると いう本稿の課題を果たしたものとし、ここで筆を掴くことにしたい。 註 (1)小松茂美三伴大納言絵詞」の誕生」(「日本の絵巻」所収、中央公論社一九八七年、初出は二伴大納言絵詞」成立の周辺と 背景」「日本絵巻大成」一九七七年)。 (2)応天門の変に言及した歴史研究は枚挙に過ない。敢えて主要な研究を挙げるならば、佐藤宗諄「「前期摂関政治」の史的位世」 31 へへへへへ 5 一二’二二○○二年)。今正秀「摂政制成立考」(『史学雑誌」一○六’一一九九七年)。坂上康俊「関白の成立過程」 (「平安前期政治序説」所収東京大学出版会一九七七年初出一九六三年)。神谷正昌「承和の変と応天門の変」「史学雑誌」 (「日本律令制論文集」下吉川弘文館一九九三年)。米田雄介「藤原摂関家の誕生」(吉川弘文館二○○二年)など。 美術史研究による主な争点は二つである。 人物は謎ではなかったということであろう。 ①「謎の人物」論↓上巻の宮中にいる三人の人物比定。さまざまな説が出ているが、重要なのは、絵巻が制作された時点では、 な復元説が出されている。 ②作成された時点での原型 「絵巻」論↓省略されたのは一体何か、原型はどのようであったか復元しなければならない。多様 「同」貞観八年四月一四日条及び七月六日条。 「三代実録」貞観八年閏三月一○日条。なお、「三代実録」は国史大系本による。 「同」貞観八年七月六日条。木工寮の藤原直宗らは近江国へ、中臣伊度人らは丹波国へそれぞれ派遺きれた。 乞う祈願がなされている。 上述の伊勢太神宮への告文は二条あり、後者には「今年旱災ありて、百姓農業みなことごとく枯損せぬ。」とみえ、「甘雨」を 例を挙げれば、「三大実録」同年四月乙亥朔条、五月十一日条、十月壬申朔条、十一月二日条など。 6 黒田泰三・黒田日出男による研究の進化 5期(乞駅年~現在)山根有三による発見と研究の深化 4期(ら己年~ら鴎年ごろ)研究の展開期 3期(岳余年~らご年ごろ)鈴木敬三による風俗史的研究 2期(ころ年代~ら命年ごろ)研究のパラダイム形成期 1期(明治初期~己ら年代)研究の胎動期 分類できるという。 小学館、二○○二年)。美術史による、「伴大納言絵巻」に関する膨大な先学の成果は、黒田日出男氏の整理によると、5期に (3)黒田泰三・城野誠治・早川泰弘「国宝伴大納言絵巻」(中央公論美術出版、二○○九年)。黒田日出男「謎解き伴大納言絵巻」 4 …ーーーー 7 8 32 応天門の変と「伴大納言絵巻」 ~記録と記憶の間~ (皿) (9) このような勅命に対して、良房は九月二二日と二四日に抗表して固辞している。近年の研究では、これを摂政という官職の創 「同」貞観八年八月三日条、七日条。良縄は右衛門督で、伴中府の直属の上司となる。 「同」貞観八年六月三日条。 では はな なく く、 、あ あく くま までで 始で もも 臨臨 弛時の措置であり、機能であると評価するようになってきている。神谷正昌前掲注(2)論文、米田 (Ⅲ) 雄介前掲注(2)著書など。 (吃)「同」貞観八年八月二九日、三十日条。恒山と同謀した清縄は伴善男の従僕であった。直後には、美作国の兵庫が鳴動するなど、 不穏な空気が濃厚になった。 (喝)「同」貞観八年九月二二日条。 、)「同」貞観八年九月二五日条、二九日条。生江恒山と占部田主は、十月十四日に殺人罪で処分された。 (喝)井上薫「日本三代実録」(「国史大系番目解題」上所収吉川弘文館二○○一年初出は一九七一年)など。 して佐渡国に配流されたが、のちに許され入京し、従四位上、参議まで昇った。善男は国道の第五子で、敏捷であったが人に (肥)「同」貞観八年九月二二日条。これによると、善男の祖父は、藤原種継暗殺事件にかかわった大伴継人で、父の国道はそれに坐 「鶏児 児」 」と と言 言わわ れれ てて いい たた 。。 仁 明 天 皇 の 傍 に 仕 え 、 そ の 知 寵 を 得 て 、 出 世 し た 。 法 隆 寺 僧 善 榿 事 件 で 立 ち 回 り 、 太 皇 太 后 宮 大 夫 兼 大納言にまで上りつめた。 (Ⅳ)積善という言葉は「易経」に「穣善之家必有余慶、祇不善之家必有余残」とみえる。「貞慧伝」には「積善余慶」、「武智麻呂伝」 には「祇善之後、余慶篭郁」とあり、藤原氏が自らの家を積善と意識していたことがわかる。さらに正倉院宝物の中に光明皇 后の錐によると伝えられる「杜家立成雑普要略」の捺印に「積善藤家」がある。「易経」の「欲不全之家」が〃ここで言う「薇 悪之家」に当たる。 (肥)「同」貞観十年十二月二十八日条。源信は清和皇太子時の「皇太子傳」であった。 われたほどの人格者であった。異母兄に紀大枝、異母弟に豊城がいる。今回は豊城に連座して、赴任先の肥後国から土佐国へ (岨)「同」貞観八年九月二二日条。夏井は善岑の第三子で、小野篁に師事して書を学んだ。地方官としても善政を敷き、領民から慕 きは、領民たちが道々に逢迎し、数里も従行したという。 流刑となった。任国の肥後から流されるとき、領民たちは夏井を偲んで泣き悲しみ、かっての任国であった讃岐国を過ぎると 33 (釦)「 「同 同」 貞観 観八 八年 年九 九月 月二 二五五両日 条。 (皿)「 「同 同」 」同 同年 年十一月十七日左 条。 (躯)「同」同年十二月八日条。 へ 「同』同年十二月二十七日条。 右大将から左大将へ転じている。 (認)「 「同 同」 」同 同年 年十 十二 二月 月八 八日 日・ I十 一 日 旬 十 三 日 条 。 良 相 は 三 度 、 病 気 に よ る 左 大 将 の 解 職 願 い を 上 表 し て い る 。 代 わ っ て 、 藤 原 氏 宗 が 262524 へ へ 輔l兼家l道長 良房側蕊経晶卵鵬 川弘文館二○一四年)でも指摘されている。 (認)実頼は基経の孫にあたる。文徳天皇と良房の関係がよくなかったことは、佐々木恵介「日本古代の歴史4平安京の時代」(吉 仁鯛鳳薫押雛‐璽鯛親ゞ である。 し合わせながら、基本的には史料纂集本によることにした。また、「吏部王記」の作者である重明親王と清和の関係は左のよう (”)史料纂集三九「吏部王記」(米田雄介・吉岡真之編)とは多少字句の異同がある。ここでは、古典文学大系『大鏡」所収と照ら 藤原朝臣守貞の女今子、晏子内親王の母の藤原朝臣是雄の女列子がいる。 藤原朝臣明子だけで、二男女を生んだ更衣紀朝臣静子が続き、あとは惟彦親王の母の滋野朝臣貞主の女奥子、惟恒親王の母で 真人某女・菅原朝臣某女・布勢朝臣某女らの所生子は源氏を賜り臣籍降下している。女御で子供をもうけたのは、一男一女の (妬)文徳天皇の子女は、史料上知られるだけでも一二男一二女いる。そのうち、滋野朝臣岑子・伴宿祢某女、多治真人某女・清原 (妬)「大鏡」は古典文学大系本(岩波沓店)による。 ……ー 34 応天門の変と「伴大納言絵巻」 ~記録と記憶の間~ (羽)「三代実録」仁和二年十月甲戌条の蕊伝には「性安祥にして、容色研華なり」とみえる。さらに、婦徳も高く、清和の寵愛を集 めていたことや、清和が出家すると同時に尼となって、仏門に帰依したとみえる。 (釦)「 「三三 実」 録」天安二年十一月十四日条の蕊伝には「雅操あり」とみえる。西三条女御と言われたのは、父の良相の邸宅があった 代代 実録 ためである。 (瓠)貞観八年春に清和天皇は、三月に良相第と、閏三月に良房第をそれぞれ行幸している。「三代実録」同年三月乙亥条に西京第へ の行幸がみえ、桜花を観じながら百花亭にて詩賦や競射、音楽の宴が催された様相が知られる。良相第への行幸が華々しかっ の娘多賀幾子の安祥寺での法要の様子がうかがえるc多賀幾子が没したのは、天安二(八五八)年二月のことであるが、そ た様相は、「伊勢物語」七八段の三条の大御幸のくだりから伺える。また、「同」七七段・春の別れには文徳女御であった良相 の段の登場人物である藤原常行が右大将なったのは貞観八年一二月であり、在原業平が右馬頭になったのは貞観七年のことだ から、この法要は応天門の変後のことになるか。供物が山のように積まれたみえ、変後でもそれだけの権勢があったとなると、 京三条にあった良相第への清和天皇の行幸の様子がうかがえる。その後、「三代実録」同年閏三月丙午朔条には、良房の東京染 変前はかなり隆盛を極めていたと思われる。七八段山科の宮でも前半は、多賀幾子の安祥寺での七七斎の話である。後半は西 ており、清和天皇はバランスをとるかのように双方の臣下第への行幸を行っている。なお、「伊勢物語」は新編古典文学全集本 殿第への行幸がみえ、様々な催しが一行を歓迎したことが知られる。このように太政大臣良房と右大臣良相は権勢を競い合っ (福井貞助校訂・小学館.一九九四年)による。応天門の変直前は、良相の全盛期にあたる。 仁明 〒lll文『llll清和 肌祷‐同修臘仔l多美子 る西の対に住む人」「二条の后」「女のえ得まじかりける」などは藤原高子を指し、「男」である在原業平との醜聞は周知であった。 (躯)「伊勢物語」三段ひじき藻、四段西の対、五段関守、六段芥川に見える「懸想じける女」「東の五条に、大后の宮おはしましけ 3う 岡村幸子「職御曹司について」(「日本歴史」五八二一九九六年)、吉川直司「摂関政治の転成」(「律令官僚制の研究」所収、 塙書房一九九八年)。吉川氏はキサキや臣下の内裏直臆の成立に摂関政治の成立が関連することに着目した。 母后に関する研究は女性史研究の進展に伴い近年成果が蓄積されている。本稿に直接関連するものとして、西野悠紀子「母后 と皇后’九世紀を中心に」(前近代女性史研究会「家・社会・女性~古代から中世へ」吉川弘文館一九九七年)、同「九世紀 一九九八年)、同「九世紀の天皇と国母l女帝から国母へ」(「物語研究」三二○○三年)。末松剛「即位式における摂関と母 の天皇と母后」(「古代史研究」一六一九九九年)。服藤早苗「王権と国母l王朝国家の政治と性l」(「民衆史研究」五六 后の登壇」(「日本史研究」四四七一九九九年)。東海林亜矢子「母后の内裏居住と王権」(「お茶の水史学」四八二○○四年)。 仁藤敦史「太上天皇制の展開」二古代王権と官僚制」臨川書店二○○○年初出一九九六年) 東海林亜矢子前掲注(拠)論文。 「同」六段関守。 同年九月六日条。 承平元年七月十九日条。仁和寺御室にて六十五歳で没した。 「伊 伊勢 勢物 物語 語」 」四 四m 段西の対。 「大日本史料」 同年九月二十二日・二十五日条。 延長八年九月二十九日条。 ’ ’ ’ ’ 「大日本史料」 「大日本史料」 「大日本史料」 六六六六 実頼 村上 朱雀 宇多l醍醐1重明親王 一一一一 へ へへへへへへへへ ー (認) 34 4241 403938373635 …-ーーー--- 36 応天門の変と「伴大納言絵巻」 ~記録と記憶の間~ 日本の美術一二、一九九一年)などで自説をまとめられている。 (蝿)黒田泰三ほか前掲注(3)著書。黒田泰三は早くから伴大納言絵巻に注目し、「伴大納言絵巻」(小学館ギャラリー新編名宝 G卵1)藤原良相 F函1)藤原基経 E”l)源信 D”1)源信 C》l)伴善男 B》l)伴善男 Am1)伴善男 2)藤原良房 2)源信 2)藤原基経 2)源信 2)源信 2)藤原良相 2)藤原基経 2)伴善男 3)伴蕃男 3)藤原良房 3)藤原良房 3)藤原良房 3)伴善男 3)藤原良房 3)藤原良房 3)藤原良房 ↑源豊宗 ↑竹村信治 ↑田中豊蔵・鈴木敬三・田中一松・奥平英雄・小峰和明 ↑小松茂美・松尾剛次 ↑桜井清香・藤田経世 ↑黒田泰三・高畑勲 ↑上野憲示・山根有三・若杉準治・黒田日出男 ↑福井利吉郎・上野直昭・五味文彦 (妬)著名な説を整理すると次のようになろう。 (“)現存する各巻の紙数は以下のとおりである。(上巻)第1~賜紙(中巻)第1~賜紙(下巻)第1~略紙 H“l)藤原良房 (妬)藤原良房は冬嗣の次男、良相は五男で、共に母は藤原美都子の同母兄弟。 (娼)「三代実録」貞観十年閏十二月二十八日条、「公卿補任」貞観十年条。 (仰)当時近衛中将は、右近衛府が藤原常行で、左近衛府が藤原基経であった。 (⑲)拙著「平安初期の王椎と官僚制」(吉川弘文館、二○○○年) (釦)天皇と母の同輿に早くに注目したのは、野村育世「中世における天皇家」(「家族と女性の歴史」所収吉川弘文館、一九八九 言及するようになったが、拙稿「「都市王権」の成立と展開」(別冊「歴史学研究」七八九号、二○○二年)でも王椛の問題と 年)、同「王権の中の女性」(「中世を考える家族と女性」所収吉川弘文館、一九九二年)である。その後、多くの研究者が して扱っている。 (別)大胆な想定が許されるなら、次のように考えられる。 37 藤原順子(太皇太后)伴善男(太皇太后宮大夫・大納言) 藤原良相(右大臣・文徳女御多賀幾子の父・清和女御多美子の父) 、 グ 源信(左大臣・嵯峨源氏) <-う ■■■■■■■■■■■I■■■ 右大臣 左大臣 太政大臣 藤原良相 源信 藤原良房 藤原氏宗 伴善男× 平高棟 権大納言 大納言 (右大将から左大将に昇進、翌年大納言へ) (配流) (翌年死没) (左大将を辞職、翌年死没) (事実上閉門、翌々年死没) (銘)廟堂の構成変化は以下のとおりである。 るが、応天門の変がその大きな画期になったことをここでは積極的に評価したい。 (艶)妻后から母后への質的重点の変化は、すでに西野悠紀子前掲注(鈍)論文や服藤早苗前掲注(弘)論文などでも指摘されてい 藤原高子(清和女御)藤原基経(参議・高子の実兄) 藤原明子(皇太后)藤原良房(太政大臣・明子・高子の父・満和外祖父) 清和天皇 ’ 38 中納言源融 111 藤原基経(参議から七人超) なお、このとき入内した高子がのちの陽成天皇を生むことになる。 1 I ’ 応天門の変と「伴大納言絵巻」 ~記録と記憶の間~ 1 ” ’ 初期議会期の法典取調と司法省権限の形成 はじめに 大庭裕介 一八八五年に内閣制度が導入されることで、王政復古から始まった近代日本の一連の政治制度改革は一応の結実 を迎える。内閣制下では各省に個々の主幹業務が割り振られ、相互調整と縦割り行政による政策決定がされていく (l) こととなる。そうした中で司法省は裁判所や検事局の設置・統廃合を中心とする司法行政が主幹業務となる。内閣 制度発足当初は司法行政のみに特化していた司法省であったが、山田顕義法相のもと、徐々に権限を拡大してお り、民法・商法の下案起草に携わる。 これまでの研究では、内閣期に下案の起草がなぜ再び司法省の権限となったのか充分に明らかにされてこなかっ た。こうした点がなおざりとされた要因として、法制史研究が法lあるいは法制度lの内容や整備過程という側面 を重視してきたことが考えられる。すなわち、法や法制度がどういった社会的・政治的背景のもと整備されていっ たのかという根本的な点が、これまでの研究では評価されてこなかった。こうした先行研究に対して、これまで筆 者は近代法制度が整備されていく背景を検討すべく、太政官期の政局の中での司法省の位置づけを明らかにしてき 41 (2) た。本稿では筆者のこれまでの研究を念頭に置きつつ、内閣制導入後に司法省が政府内でどの様に位置づけられた のかを明らかにしたい。そのために、明治中期、とりわけ内閣制の下での司法省の職権拡大がどのような政局のな かで企図されていったのか、その要因を検討していきたい。この点を通して、司法省で法律の下案を起草し、内閣 や国会でチェックするという現在の法案作成過程の原型lすなわち、司法省の政府内での位置づけlがどのような 政治過程のもとで整備されていったのか、その端緒を明らかにしたい。 そこで本稿では一八八六年に外務省に設置され、後に司法省に移管された法律取調委員会と、一八九三年に内閣 (3) に設けられた法典調査会を分析対象として、法案審査が制度化されていく過程の一端を明らかにする。本稿が対象 とする時期は、民法や商法が起草されたものの、民法典論争や商工会議所の反対が巻き起こり、民法と商法の再起 草が行われることからも、旧民法・旧商法は起草直後から日本の旧慣との整合性という「法の質」が問われること となる。しかし、そもそも何故「法の質」が問われることとなったのか。本稿では「法の質」が問われることに なった背景である山田法相のもとでの下案起草の問題点を検討し、草案のチェック機能を必要とした要因を明らか にする。 (4) (5) 本稿で取り上げる時期の法制度をめぐる研究としては、民法典論争に軸足が置かれつつも、法律の下案起草にっ いては吉井蒼生夫氏や鈴木正裕氏らの研究がある。吉井氏の研究は法律取調委員会から法典調査会までの組織変遷 の過程を描いているものの、概略的説明に終始しており、それらの組織が設置された背景や司法省との関連といっ た点が明らかにされていない。また、鈴木氏の研究では法律取調委員会や法典調査会の構成員と議事内容という基 礎的な点が明らかにされてはいるものの、吉井氏同様にそれらの組織が持つ特質や評価という点が不明確である。 このように先行研究では政治史との関連がないため、なぜ法典調査会などの法律のチェック機能が必要とされたの 42 初期識会期の法典取調と司法省権限の形成 かという点が明らかにされておらず、当該時期の司法省の位置づけや法制度の評価を暖昧にしてしまっているよう な印象を受ける。そこで本稿では行政と司法との関連の一端を法律取調委員会・法典調査会を通して明らかにして いきたい。 なお、本稿引用史料中の傍線・波線・補足は適宜筆者が付したものである。 一法律取調委員会の移管と山田顕義 (|)法律取調委員会の司法省への移管 旧刑法の制定以降、日本では商法や民法の制定が企図される。商法と民法の制定が企図された背景には、条約改 正交渉を進めるためには西洋法の導入が必要とされたものと思われる。そのため、政府内では条約改正交渉の下準 備としての西洋法の制定が急がれており、当初、民法・商法の取調は外務省内に設置された法律取調委員会で進め 〈6) られることとなる。本節では外務省に設置された法律取調委員会が、司法省へと移管されていく背景を明らかにし ていきたい。 肴B) 一八八六年八月六日、外務省に設置された法律取調委員会で実際にどのような審議が行われたかは定かでない (【j) が、一八八七年に定められた略則には次のように、審議内容に関する取り決めがされている。 法律取調ノ目的ハ民法商法及訴訟法ノ草案条項中実行シ能ハサルモノァルャ否、又他ノ法律規則二抵 法律取調委員会略則 第一条 触スルコトナキャ否ヲ審査スルニ在り。故二法理ノ得失、実施ノ緩急、文字ノ当否ハ之ヲ論議スルコ 43 トヲ許サス。 第二条第二条前条法律ノ草案及現行ノ刑法・治罪法中、裁判所構成法ノ草案二抵触スルモノニ改正モ亦法 律取調委員ノ責任トス。目下外国委員ノ起案二係ル刑法及治罪法ノ改正案ハ民法・商法・訴訟法ノ審 査ヲ終ダル後、之ヲ委員ノ調査二付スヘシ。 ここでは法律取調委員会では、民法・商法・訴訟法のチェックが行われるとされており、実質的な法典の起草は お雇外国人に委ねられていた。あわせて、「法律ノ草案及現行ノ刑法・治罪法中、裁判所構成法ノ草案二抵触スル モノニ改正モ亦法律取調委員ノ責任トス」とあり、裁判所構成法の草案との関連性が重視されている点が見受けら れる。 このように司法省ではなく、外務省で法典のチェックや審議が行われた原因は、鈴木正裕氏が指摘するように条 (9) 約改正のためには、欧米なみの法典が必要とされたためであり、法典編纂事業が外交交渉の一環であった。また、 (脚) 司法省が当初管轄とされなかった背景には、法典起草機能が一八八一年一二月の各省章程変更によって司法省事務 章程から除外されたためであろう。しかし、立法府として成立した元老院も徐々に権限が弱くなり、官吏の待機ポ ストという色彩が強くなっていった。こうした政府の事情を背景として法律取調委員会を外務省に設置したものと 思われる。また、元老院・外務省・司法省に跨るような広範な章程の改正をせずに済むことも、外務省に設置され た要因の一つであることも推測できる。 では、こうした外務省の動きに対して、旧刑法を起草するなど近代的法典の整備を担ってきた司法省はどのよう に対応したのであろうか。裁判所構成法との関連を重視することを示した法律取調委員会略則の制定を受けて、司 法省では官制改革が企図されている。一八八七年一○月二六日に司法省単独で太政官に提出された司法省官制の改 44 初期議会期の法典取調と司法省権限の形成 革案では、司法省総務局文書 (皿) 課の規程に「裁判所ノ構成権 限二関スル事項」が追加され ており、法律取調委員会の審 議内容である裁判所構成法と 大きく重なるよう司法省官制 を改正することが企図されて いる。また、【別表}からも わかる通り、法律取調委員会 に所属する人員の多くは箕作 麟祥ら司法省関係者であるこ とから、司法省が有力な移管 先に挙がったものと思われ ラ(》0 このように審議内容や人員 の面でも司法省へ法律取調委 員会が移管されるような条件 が整えられていったが、何 【別表】法律取飼委員会棡成メンバー 名 井上馨 カークウッド ロエスレル モッセ 蜂須賀茂詔 山田顕義 細川潤二郎 南部塾男 松岡康毅 槙村正直 尾崎三良 北畠治房 1"7年4月-1887年11月 司法大臣 元老院議官 元老院識官 元老院議官 元老院議官 元老院議官 大審院長 東京控訴院長 大審院民事第一局長 大審院刑事第二局長 元老院議官 元老院識官 東京控訴院評定官 鈴木正裕「近代民邪訴訟法史」(有斐閣、二○○四年)より作成。 45 1887年11月- 1887年11月一 1887年11月-1888年4月 一一一一一一一 村田保 尾崎忠治 西成度 委員 委員 委員 委員 委貝長 委貝 委員 委員 委貝 委貝 委員 委員 委員 委員 委貝 委貝 委貝 月月月月月月月 11 11 11 11 11 11 2 1 年年年年年年年 7777777 鎚錫錫鎚鯛記鎚 lllllll 鶴田皓 清岡公張 渡正元 副長 18M年8月-1"7年11月 1886年8月-1887年11月 1886年8月-1887年11月 1886年8月-1887年11月 1886年8月-1887年11月 1887年4月-1887年11月 月月月 444 年年年 777 鯛記鎚 111 郎吾直雄六光祥 和省康力馨宗麟 村塚田浦築奥作 今栗本出都陸箕 ルードルフ 司法次官 内閣法律顧問 司法省法律顧問 司法省法律顧問 法制局参事官 司法大臣秘書官 司法省参事官 司法番記官 外務省瞥記官 外務省在勤弁理公使 元老院識官 内閣法律顧問 内閣法律顧問 在任期間 1886年8月-1887年11月 1886年8月-1887年11月 一一一一 ポアソナード 兼任の役職 外務大臣 月月月月 8888 年年年年 齢職職鐡 西園寺公望 三好退蔵 法律取鯛委員会での役職 委員長 委員 委貝 委員 委貝 委員 委貝啓記 委貝啓記 委員瞥記 委員掛記 委員替記 1888年5月- 1888年5月1888年5月一 (吃) 故、外務省は法律のチェック機能という新たな権限を手放すにいたったのであろうか。明治期に司法省出仕として 民法編纂に携わっていた磯部四郎は次のように回想している。 大隈伯力井上侯二更ハリテ外務大臣ノ任二就カレマシタカ、夫レハ明治二十年若クハニ十一年ノ頃ト思上マス 力、当時モ井上侯ノ時ト同シク外務省内二法律取調所トイフモノカ出来マシテ、其時モ矢張り毎日々々議論力 喧力マシカッタケレトモ、其時此取調所モ亦成功セス。 ここでは外務省に設置された法律取調委員会では「成功セス」として実績を挙げることが出来なかったとあり、こ (胸) うした点が外務省から司法省への移管につながったのであろう。当然、この移管には外相であった井上馨の意向が 踏まえられており、伊藤博文に宛てた山田顕義の書簡には次のようにある。 法律取調一件井上と御協議被下、弥司法省に而引請候方可然との事に相決候趣敬承仕。素より井上に於ては真 最前 前よ より り申 申述 述置 置候候小小 実司法省に而引請候方可然と申事ならは、最 坐生 見込通に専決致し異存無之義と存候得共、亦 閣中之議論如何可有之哉、総体之意見も一応御聞取被成下度候。 於 小 生 は 司 法 行 政 之 事 務 多 端 を 極 め 将 来 之 進 歩如何と懸念罷在候場合に付、決而此上事務増加を翼望するの念慮毛頭無之候間、其辺は万々御諒察被下誰歎 相当之人物御撰定被下候半々大幸に奉存候。 この史料の傍線部には井上馨の意向によって法律取調を司法省へ移管することが企図されており、移管にあたって 山田の「見込通に専決」することが条件とされている。山田の「見込通に専決」するとあることから、司法省にお ける法律取調委員会は山田の主導のもと審議がされ、やがては民法の是非をめぐる山田の辞任問題に発展すること となる。山田は移管に際して主導権を握るため、波線部にあるように司法省では「事務多端」にも関わらず引き受 けると伊藤に示していたものと思われる。この書簡の二日後の一八八七年一○月二一日に伊藤は山田を委員長に任 46 初期識会期の法典取調と司法省権限の形成 命することを上奏し、法律取調委員会は翌月、司法省に無事移管されたことから、山田に法律取調の主導権が委ね られることが政府内で合意にいたったのである。 (二)山田顕義と民法・商法の施行 (脚) 一八八七年に司法省へ移管された法律取調委員会では、民法・商法の審議が本格化する。ここでは法律取調の主 導権を握った山田顕義の動向を明らかにしていきたい。山田は一○月五日、伊藤博文に宛てて書簡を送っている。 そのなかで山田は法律の取調・編纂の方法について次のように述べている。 本日井上に御面会法律取調事件御相談の処、結局に不至候に付三人会合相談可致旨承知仕候。 御 高 案 の ナ ポ レ オン法を基礎とし、日本に適する様編成候と申事も中々容易の事に有之間敷、等しく新案起草程の手間を要す へく、是迄民法、商法、訴訟法杯の編纂に日子を費したる有様を考ふれは、二年間の成功は無覚束と存候。寧 ろイラボレートに過るとかコンプリケトに過ると云共、実際施行に差障無之ければ、編纂の手際や文章の善美 四年妻肺グ 大綱不相立、権利財産保護の要具不相備して、国会開設は万不得為事と存候に付、何の手にしても廿二年内に は完備に公布相成候様祈祷仕候。 このなかでナポレオン法典を基礎として日本の実情に即した方法で法律を編纂するとしても、「手間を要す」とし て山田は井上の持論を一蹴している。その上で山田は詳細すぎるような内容であっても差し支えがなければ、その ままの条文で施行し、施行後に文章や不完全な点を漸次改正していくことを提案している。つまり、山田は熟議を 尽くして詳細な法を編纂するのではなく、国会開設との兼ね合いもあることから民法・商法の早期施行を企図して 47 いる。山田が早期施行を目指した要因として、枢密院書記官であった金子堅太郎は、後に「議会が開けて法典問題 (脂) を出したら、仲々法典問題というものは、二年経っても三年経っても出来やしない。そうすると条約改正は容易に 出来ない。条約改正をやると決して居る以上は、之を議会へ掛ける訳にはいかない」として、条約改正を行うこと が目的とされていたためと回想している。こうした政府内の思惑も司法省に法典編纂が移管し、早期施行が企図さ れる要因であった。 (脇) では、山田は早期施行をどのような手順で実現しようとしていたのであろうか。民法・商法が完成した一八八九 年一○月八日、山田は「商法等枢密院諮詞を経ず公布の件に付き上奏案」を提出する。 商法、民法、民事訴訟法、枢密院諮諭を経す公布の義に付上奏案 今般商法御裁可を経候処、民法及民事訴訟法も目下審査中に付、追て上奏裁可を可奉仰筈に有之、右は枢密院 官制第六条に拠り同院へ御諮詞あらせらるへきものに候得共、此諸法案は急速発布を要し、殊に各国条約改正 の上は一日も早く施行を要すへく、加之各案何れも数百箇条に渉り候ものにて、同院の会議を経るときは迅速 の決議にも至り難からん歎・(後略) この意見書は民法・商法の完成後、内閣に宛てて山田が提出したものである。この中で山田は正規の公布手順であ るはずの枢密院諮諭を経ずに、条約改正のためと称して商法の「急速発布」を企図していることがわかる。この点 は は後述 述す する るが が、、急進的かつ独断的な手法で法典を発布することが山田司法卿のもとでの法典編纂の特色であること が指摘できる。 山田が条約改正を目的として「急速発布」を企図したように、条約改正交渉が法典取調に大きな影響を与え始め たことがうかがえる。民法・商法よりも先に取調された旧刑法は、識誇律・新聞紙条例と新律綱領・改定律例の処 48 初期議会期の法典取調と司法省権限の形成 (Ⅳ) 罰規定の剛嬬を解消することが目的とされたのに対し、山田法相のもとで編纂された商法・民法は条約改正の実績 を挙げるため早期施行が目指される性格のものであった。この点は先行研究が司法省では旧刑法の編纂以来一貫し て条約改正を念頭に置いていたと指摘してきたのに対し、実際には商法・民法の編纂に際して初めて条約改正が念 頭におかれたものといえる。その背景には法律取調委員会が外務省より移管されたことと、同時期に井上馨や大隈 重信ら外相のもとで外国人判事の任用が企図されるなど、法制度に密接に関わった条約改正が本格化していたこと (服 服) ) ( が考えられる る。 。実 実際 際に に外 外務省に法律取調委員会を設置した井上は「二十年七月九日井上外務大臣ョリ内閣へ提出ノ 上 うに法典編纂の重要性を指摘している。 意見書」において次のよ 法典ノ編纂二就テハ イ条約批准十六ヶ月内二法典ヲ編制スル事。 ロ泰西ノ主義二基キ諸法典ヲ編制スル事。 ハ日本国ノ法律ヲ外国人二適用スル時ヨリ八ヶ月以前ニ其英語正文ヲ外国政府二送付スル事。 このように外相であった井上は「西洋ノ主義」に基づいた法典を編纂することとし、「条約批准十六ヶ月以内」 を期限とする早急な施行案を示している。こうした井上の意向もあったことから山田もまた商法・民法の早期公布 (い) を企図したものと思われる。しかしながら、井上の条約改正方針が徹底した欧化を目指したものであったのに対 (鋤) し、山田は「ナポレオン法を基礎とし、日本に適する様編成候と申事も中々容易の事に有之間敷」と伊藤に宛てて いるように、ナポレオン法典を参照とするような西洋的な法の編纂には一定の留保をしめしている。そのため、山 田自身は全面的な欧化へは異論があった。むしろ法典施行後の修正を企図していることからも、山田は日本社会の 実情に即した法体系の整備を企図していたのであろう。 49 (三)山田顕義の辞職 山田を中心とした法律取調は施行後の修正を念頭に置いていたため、委員会の移管から僅か三年という驚異的な (劃) 速さで民法と商法が公布される。しかし、山田が中心となって完成した民法は民法典論争のなかで様々な批判を受 け、商法もまた東京商工会などの反対により一八九○年一二月の議会で施行延期が決定される。こうした批判に対 して政府ではどのような対応が取られていくのであろうか。 民法・商法の延期論を受けて山田は辞職の意向を固める。 昨日以後、山田伯御面会被成候哉、萬一同伯にして、是非々々辞職するとの事に御座座 候候は は、 、、 同伯よりも申出 又世 世間 間之之釦與 望をまく為め、田中子爵不二麿を其後任に御撰定相成候而如何、 世間之輿望とは、余り申過 候通、又 (型) かは不存候得共、 官海特に司法部之人は、頗る同子二望ヲ属し居候事は実事に外ならず候間、御参考までに右 内啓仕候。 この書簡にあるように、田中を後任とすることは山田の意向であり、法制官僚らにも配慮した人事であることがわ かる。辞任を選んだ山田であったが、民法・商法への批判を全面的に受け入れたわけではなかった。民法・商法を (麹) 改正するという「世間之輿望をまく」ために田中を後任に推薦したのであった。こうした山田の姿勢は辞任まで一 貫しており、松方正義が伊藤博文に宛てた書簡にも次のようにある。 商法延期に関する諸条例延期之案壱件に而有之候得共、是は御聞及通山田伯副書無之候而は不相済事故、甚前 後込りたる形勢に御坐候。同人義は池も最早辞職に決し副書も不致との事に有之候。 松方が頭を悩ませているように、山田は早期施行の立場から商法延期を拒絶し、延期への合意書類への副書も拒否 していた。では、山田の辞職を受けて、政府内では商法・民法の修正審議はどのように推移していくのであろう ラ0 初期議会期の法典取調と司法省椛限の形成 (割) このように法律取調委員会では「法律ヲ心得」て居ないものに議決権を与えたことが特色であった。【別表】から 〈調)(万) ヘス、其心得ナキ委員ニハ議決権ヲ有セシメタ点テアリマス。 同局(法律取調委員会l筆者補足)ノ特色ハ取調委員中、法律ヲ心得テ居ル者ニハ委員会二於ケル議決権ヲ与 法を執っていたことがわかる。 〈為) 山田の意向により司法省へと移管された法律取調委員会ではあったが、磯部四郎の回想によると、独自の審議方 め、ここでは民法・商法の編纂上の問題点を明らかにしていきたい。 るような法典が完成してしまったのかという点は充分な検討が踏まえられていなかったように思われる。そのた 先行研究では民法典論争で戦わされた議論やその内容に検討が終始してきたが、そもそも何故、修正を加えられ きたい。 ろう ろ うか か。。そもそも何故、民法と商法は修正を必要とすることとなったのか。こうした点を本節では明らかにしてい 年まで施行が見送られることとなる。民法・商法の延期について、政府ではどのような対応が取られていくのであ 山田法相主導のもと、松方内閣で成立した民法・商法ではあったが、一八九○年一二月の国会において一八九三 (一)民法・商法修正要求の原因 二法典編纂の混乱と政局の影響 ○ もわかるように、明治初年にフランス法受容を担った箕作麟祥や旧刑法の編纂に中心的な役割を果たした鶴田皓、 う1 か (銘) 元老院議官として旧刑法の審議に携わった村田保らが決定権を持たずに、専門的でないような官吏が中心となって 決定したことから、民法典論争で問われたように「法の質」が問題となっていったのである。 {釣) また、審議そのものも「早期施行」を企図する山田の意向が反映されたためか、充分な審議が尽くされたとは言 いがたい。このことは法律取調委員の一人である尾崎三良の日記には会議の様子が次のように記載されている。 箕作・松岡等ノ別二調査スル所ノ民法草案ヲ会読シ、ボァソナード起草ノ草案ヲ棄テ、別調査案ヲ用ユベキヤ 否二付討論アリ。此別調査案ハ、其組織ハボア起草案二依拠シタレドモ、原案不用ノ分ヲ削除シ学理的講義的 ノ文章ヲ省キ、且其文体モ務メテ我人民二解シ易キ様二修正シ、反訳文ヲ用ヰズ簡明実用ヲ旨トシタルモノニ シテ、原案二比スレバ数等我国法二適セリ。故二余(尾崎l報告者補足)之ヲ採用シテ逐条修正ヲ加ヘン事ヲ 主張シタレドモ、賛成者総二渡〔正元〕一人ノミ。 尾崎の日記では、箕作麟祥や松岡時敏ら法律の知識を持った官吏から日本の実情に即した民法草案を起草すること が提案されたものの、既に完成したボアソナード草案が支持されていたことが記されている。このように法律取調 委員会では新規に法を起草しようとする意識が希薄であり、ボァソナードの草案を支持することで、審議の時間を 省いていったのである。また、こうした早急な審議は尾崎と渡正元を除く殆どの委員において了解事項となってい たことも十分な審議がつくされなかった原因であろう。 法律取調委員会では、時間のかかる審議を明らかに避けており、山田の意向を踏まえたためか、法の施行が目的 化しているものと思われる。法の施行が目的である以上、条文に十分な審議が尽くされたとは言い難く、法学知識 を持つ者にとって、山田のもとで起草された民法・商法は改定の対象でしかなかった。そのため民法典論争では法 の全面改定が問題となっていったのである。法律取調委員会では山田主導のもと、法律家ではなく官吏が起案の中 52 初期議会期の法典取調と司法省権限の形成 心となっていった。このことは条約改正交渉の材料として民法・商法を制定するという色合いの強いものであっ た。そのため、条約改正交渉を急ぐあまり政局が優先され、法の審議が十分に尽くされないという官吏主導の限界 性をもつような審議になっていったのである。 (二)山田顕義辞職後の司法大臣と法律取調 民法・商法の延期問題に端を発した山田顕義法相の辞任問題は、田中不二麿を後任に据えることで一応の結実を 見る。民法延期派の意向を受け入れた政府は法律の再審議を決定する。本節では山田の辞職を受けて、後任の田中 隆ように取り扱おうとしたのであろうか。この点を通して、政府の民法・商法に対する姿勢を明 が民法 法・ ・商 商法 法を をど どのの らかにしていきたい。 民法・商法の延期を受け入れた松方内閣で法相を引き受けた田中もまた延期論を唱える。第三議会では衆議院議 員渡辺又三郎ら三六名の議員が商法の一部施行の要望を提出する。こうした部分的ではあっても早期施行を要求す る意見に対して、田中は断固として延期を主張して譲らなかった。渡辺らの要求に対する田中の第三議会での答弁 (鈍) には以下の ようにある。 糾二政府ハニ十三年三月ヲ以テ商法ヲ発布シ、二十四年一月ヲ以テ実施セントセリ、是固ヨリ緊急ノ要務ナレ ハナリ、其後第一期議会ハニヶ年ノ延期ヲ議決シ、政府モ亦其輿論ヲ容ル、二吝カナラス遂二之二同意ヲ表 シ、夫ヨリ相当ノ手続順序ヲ経テ、既ニニ十六年一月ヨリ実施スルコトト定リタリ、即此既定ノ法典ハ独り既 定ノ期限二依リテノミ実施セラルヘキハ筵二正当ノ事ト信ス、然ルー今又其期限ヲ短縮シ其一部ヲ実施セント スルカ如キハ既定ノ法典ヲ紛擾シ錯雑セシムルノ端緒ヲ開クモノニアラスャ、是本官力此案二対シ遺憾ヲ抱ク う3 次第ナリ。 第三議会で答弁しているように、田中は一八九三年までの商法延期に同意しており、期限を繰り上げての早期施行 には反対している。では、田中はどのような点に留意した上で延期に同意したのであろうか。 然ルー初期帝国議会ノ議決ニ依り商法ノ施行ヲ延期セラレ、其結果遂二特別委員ヲ設ケ民法商法ヲ併セテ審査 修正セシメントノ建議ヲ為スモノアルニ至しり、其説二日ク、該法ノ既定スル所往々民情二違上習慣二背キ、 且其法文難渋ニシテ意義明蜥ヲ欠ク云々ト、夫レ或ハ然ラン、然リト錐モ入定ノ法律ハ初メョリ其完全無欠ヲ 期シ難シ、宜ク数年経験ノ後実際ノ利害得失ヲ考究シ改正修補シテ以テ其完全ヲ望ムヘシ、故二民法商法ノ如 キモ之ヲ実施シテ多少ノ歳月ヲ経過スルトキハ、始メテ其果シテ民情二違フャ否、習慣二背クャ否ヲ論議スル コトヲ得へシ、若シ夫レ実際ノ経験二拠ラス徒ラニ其利害得失ヲ評論シ(中略)修正又修正、空論更二空論ヲ 加フルトキハ、到底窮極スル所ナカルヘシ(中略)抑民法商法ハ未タ之ヲ施行セサルモ、政府ハ既二之ヲ執行 スルノ責任ヲ負上、人民ハ之ヲ遵守スルノ義務ヲ負うタルモノニシテ、固ヨリ他ノ法律ト択フ所ナシ、然ルー 民法商法ヲ見ルコト恰モ未定ノ草案二対スルカ如ク直二之ヲ審査修正セントスルハ、法律ヲ蔑視スルノ所為ニ シテ、実二法律歴史上ノー大汚点タルヲ免レス。 (机) この史料は法相就任直後に提出した意見書である。ここで田中は修正期間の徒な延期には反対であるとしたもの (蕊) の、どのような民法・商法を起草するのかという法典の内容へは言及していない。そのため、第三議会で決定され た修正延期のみを了承していたに過ぎず、積極的な改正論ではなかったものと思われる。史料の中にも「修正又修 正、空論更二空論ヲ加フルトキハ、到底窮極スル所ナカルヘシ」とあり、修正を過度に加えることを避けつつも、 「然リト錐モ入定ノ法律ハ初メョリ其完全無欠ヲ期シ難シ、宜ク数年経験ノ後」に部分的な改正を加え、法典を完 54 初期議会期の法典取調と司法省権限の形成 成させようとしている。このことから、既に完成された法典を基本線に据えつつ更なる審議を加えようとしたもの と思われる。そうした既存の民法・商法に依拠して、改定を行うとする方針は、山田が示した「施行の後(中略) 修正」する方針と近似するものであった。つまり、この時点では政府内では施行延期が決定されたに過ぎず、全面 的な改正にまで議論が踏み込んでいなかったのである。 児島惟謙の司法官弄花事件の責任をとって田中法相が辞任したことで、山田法相以来の方針であった既存の民 法・商法を踏まえ、改正を最小限に留めるとする方針が頓挫することとなる。田中法相の後任の河野敏鎌・山県有 (鄭) 朋まで司法官弄花事件の処理が長期化したことで、司法省内では法典の改正は後景に追いやられていた。また、 (劃) 一八九○年に条約改正交渉の最中、大隈重信外相が来島恒喜に襲撃されたことも、法典の改正が停滞していた要因 であった。こうした司法省内外の様々な事情のもとで法典の改正が停滞していく。そのなかで、伊藤博文の肝いり で内閣に法典調査会が発足し、法典の取調は司法省から再び移管されることとなる。 (三)法典調査会の内情 司法省内外の事情を踏まえて、法典の取調は司法省から内閣直属の法典調査会によって管轄されることとなる。 本節では内閣直属の審査機関である法典調査会の特質や設置の背景を検討していく。この点を通して、内閣におい ても法典の取調が始まる背景を明らかにしたい。 典典 (の質」が問題となっていたが、そもそも何故、こうした質が問われるまでに充分な審 これま まで での の研 研究 究で では は「 「法法 議ができなかったのだろうか。 法典の全面的な改正に消極的であった田中不二麿法相が司法官弄花事件の責任をとり辞任した後、司法官弄花事弱 件が河野敏鎌法相・山県有朋法相のもとでも最大の政治問題となり、法典取調は後景に追いやられる。しかしなが 〈弱) ら、法典の全面的な改正に難色を示していた田中不二麿が辞任したことで、法典の全面的改正が可能となる。 一八九三年に第二次伊藤内閣のもとに発足した法典調査会は、第三議会の貴衆両院における延期決定を受けて法 典の再度取調を企図して設置された。このことから再度取調の必要が政府内で高まってきたものと思われる。司法 〈銘) 省は司法官弄花事件の処理が長期化していたことから身動きがとれなかったため、内閣直属の組織を設けて法典取 調が開始されたのである。こうした政府内の動きについて、磯部四郎は次のように回顧している。 延期ノ目的ハ更二其間二民法ヲ鋳直ス考テアッタト見へ、其延期ノ理由ノー全体此民法ハ怪力ラヌモノテアル (中略)蓋シ延期派ハ其目的ヲ達シ、即チ伊藤博文公主裁ノ下二前法ヲ鋳直シタル現行民法ヲ得ルー至しり。 (訂) 磯部の回顧によると、「民法ヲ鋳直」そうとする全面的な改正論者が「延期派」として台頭し、伊藤内閣での法典 の改正が企図されていることが述べられている。伊藤博文自身も延期派であったこともあり、このような延期派の 主張が容れられ、法典調査会が発足した。首相であった伊藤の方針は、それまでの司法省の方針と異なるもので あったことから、司法省のイニシアティブを排することも法典調査会設置の目的であったと思われる。 法典の全面的な改正を企図して発足した法典調査会ではあるが、審議は第二次伊藤内閣期には完了せず、第二次 松方内閣にまで持ち越しとなる。第一次松方内閣で田中法相が答弁したように、民法・商法の取調は喫緊の課題で (勢) あった た。 。こ こう うし した た認 認識 識港があるなかで民法・商法の再度取調は何故遅れていったのであろうか。 ①伊藤博文の指導力 法典調査会の総裁に就任した伊藤博文は、法典調査会の席上で五九四回の発言をしているが、伊藤に宛てた西園 寺公望の書簡には「昨日も依例議長相勤候。原案乙第七号第二項議決は延引候事に相決候(入会権を地役とする う6 初期議会期の法典取調と司法省権限の形成 (調) 議)。其他は皆進過致候。此段申入置候」とあり、総裁の伊藤ではなく、実質的には西園寺が議長を勤めることも (柵) あり、伊藤は西園寺から議事の進行状況を聞くことが多々あった。また、「(法典調査会の開催は)是迄の如く一週 間二回の会議にては成功の見込無之候に付、九月よりは一週三回の開会の事に申渡し置候」ともあり、伊藤は決定 事項についても事後報告のかたちで西園寺を通して間接的に聞いており、伊藤の意向は法典調査会には充分に反映 されていなかった可能性すらあった。 ②法典調査会の内部 (杣〉 では、肝心の法典調査会における審議とはどのようなものだったのであろうか。法典調査会委員の一人である尾 崎三良の日記には、法典調査会の様子が次のように記されている。 法典委員ハ多ク官吏又ハ弁護士ナルヲ以テ昼間職務二鞁掌シ、夕景ニハ皆已二疲労シタルヲ以テ或ハ席上仮睡 スルモノアリ。兎角二早ク散会ヲ欲シ、今夜モ四時三十分ニ始メ中間弁当二三、四十分ヲ費シ、八時五分前ニ テ則三時間足ラズシテ議決スル事僅一一三条、衆皆休会セント欲ス。予(尾崎三良l報告者補足)ハ今少シ継続 スベシト論ジタレドモ衆寡敵セズ、衆皆立帰ル。如何トモスル事ナシ。此ノ如キノ有様ニテハ中々民法ヲ議決 スル事ハ何年ノ後ナルャ、荘乎トシテ際涯ナシ。嘆息スヘシ。 ここでは法典調査会委員の殆どが官吏や弁護士であるため、法典調査会の開催時間には既に疲労困蝋で、ろくな審 議ができていないことが記されている。特に休憩時間の超過による審議の遅延についても尾崎は問題視しており、 委員の大半は尾崎とは違い職務に熱心でないことがうかがえる。こうした状況からも法典調査会では充分な審議が 行われなかったことが推察できる。 本節では法典調査会の状況を明らかにしてきた。延期派の期待を集めて発足した法典調査会ではあったが、尾崎 57 の日記にあるように法典取調は難航していった。こうした取調難航を背景として、伊藤内閣での民法・商法改正は 行われなかったものの、司法省から法典改正のイニシアティブを奪い、全面的改正を企図する意向は、その後も引 きつがれたものと思われる。こうした状況を背景として内閣での法案のチェック機能が形成されていったものと思 われる。 おわりに 本稿では内閣制度発足後の司法と行政の関連の一端を明らかにするために、山田顕義法相のもとで取調が本格化 した民法・商法の位置づけを検討してきた。法案起草権は外務省に管轄されていたが、外務省は本来法律を編纂す るような機能がなかった。そのため磯部四郎の回想にもあるように実績を挙げることができなかった。その上、井 上馨自身も一八八七年九月には条約改正交渉の内容を批判されて辞職した。領事裁判権の撤廃を目標とした井上は 法制度との関連のもとで条約改正を企図しており、法制度の改革を継続するためにも法制度を管轄する司法省へと 起草権を移管させたのである。 そうした経緯を踏まえて、民法・商法は条約改正の交渉材料として山田法相主導のもとで企図された。しかしな がら、山田のもとでの法典取調は政府の意向により早期施行に主眼が置かれるものであったため、議論百出になら ぬよう法典の知識がない者を議決の中心に据えたため、充分な審議が尽くされなかった。そうしたことから法典を 全面的に修正する必要が生じていく。民法の公布後、「延期派」が多数化していくなかで、山田の意志を継いだ田 中不二麿法相は法典の逐条修正を避け、あくまで期限内での施行を企図し、法典をそのまま施行する可能性を残し 58 初期議会期の法典取調と司法省権限の形成 た。こうした司法省の方針は全面的改正を目指す伊藤の方針とは異なるものであった。そのため、田中法相の辞任 後、伊藤博文は、内閣直属の法典調査会を設け法典の全面的改正を目指していく。第二次伊藤内閣では改正は終わ らなかったものの、法典改正の本格的な審議を司法省に行わせず、司法省は草案の起草に終始するとする点は、そ の後も制度化していくこととなる。 山田法相のもとでの法典取調とは、法典の内容が杜撰なものであったこともあり、取調の必要性が高まった。法 律取調委員会から法典調査会までの一連の取調は、法を丹念に審議するという意味では内閣制下の法案審議機能で ある内閣によるチェック機能へと連続する性質のものであった。司法省は法典を編纂するという立場から法典のた たき台を起草することへと特化していったのである。こうした点は、まさに内閣制下の司法省の特色であり、司法 飯尾潤「日本の統治構造』(中央公論新社、二○○七年)。 省の職務が固定化していく契機が法典取調の是非をめぐる動向のなかから見出されてきたのである。 冨了註 拙稿「明治初期の政局と裁判所設置構想」(「ヒストリァ」二三四号、二○一二年)、同「明治初期の法運用と旧刑法編纂の契機」 (「東アジア近代史」一七号、二○一三年)。同「旧刑法認識の諸相と明治中期の元老院」(「風俗史学」五五号、二○一三年)。 民法典論争の研究としては、中村菊男「民法典論争の経過と問題点」上中下(「法学研究」二九巻四・七・八号、一九五六年)、 田村譲「明治民法典に関する一考察」(「帝京法学」二巻一号、一九八○年)、白羽祐三「民法典論争の理論的性格」(「法学新 吉井蒼生夫「近代日本の国家形成と法」(日本経済評論社、一九九六年)。 報」一○○巻一号、一九九四年)などがある。 (4) 3 鈴木正裕「近代民事訴訟法史」(有斐閣、二○○四年)。 へ (5) う9 一… … (6)前掲鈴木「近代民事訴訟法史」。 略則や規程は管見の限りない。 (7)内閣記録局編「法規分類大全」一九巻、官職門一○、四一七頁には設澄直後に出された各委員への就任辞令が掲載されているが、 (9)前掲鈴木「近代民事訴訟法史」。 (8)国立公文書館所蔵「公文類聚」第二編明治二○年第二巻官職門・職制章程二。 (皿)元老院への法典編纂機能の移管については、前掲拙稿「旧刑法認識の諸相と明治中期の元老院」。 (吃)磯部四郎「民法編纂ノ由来二関スル記憶談」(「法学協会雑誌」三一巻八号、一九一三年)。 (u)国立公文書館所蔵「公文類聚」第二編明治二○年第二巻官職門・職制章程二。 (昭)伊藤博文関係文書研究会編「伊藤博文関係文書」八巻、一六九頁。一八八七年一○月一九日付伊藤博文宛山田顕義瞥簡。 (M)前掲伊藤博文関係文番研究会縞『伊藤博文関係文瞥」八巻、一六八頁、一八八七年一○月五日。 (略)金子堅太郎「明治初期の法典編纂事業について」(「法曹会雑誌」二巻一号、三五頁、一九三三年)。 (肥)前掲伊藤博文関係文書研究会編「伊藤博文関係文番」八巻、一七三頁。 (Ⅳ)前掲拙稿「明治初期の法運用と旧刑法編纂の契機」。 (肥)「条約改正関係日本外交文書」二巻、五四七~五六二頁。 (岨)五百旗頭薫『条約改正史」有斐閣、二○一○年、二七四~二七五頁。 (釦)前掲伊藤博文関係文書研究会編「伊藤博文関係文書」八巻、一六八頁、一八八七年一○月五日付伊藤博文宛山田顕義書簡。 が詳細に明らかにされている。 (釦)村上一博「東京日々新聞の旧商法延期論」(「法律論叢」八六巻四・五号、二○一四年)では東京商工会の批判以降の報道や社説 (磐松方峰雄・大久保達正編「松方正義関係文普」六巻、三頁。一八九○年五月九日付松方正義宛背木周蔵書簡。 (羽)前掲伊藤博文関係文普研究会編『伊藤博文関係文瞥」七巻、一三五頁。一八九○年一二月二四日。 (別)かって松岡開作「商法典論争史序説」(星野通博士退職記念「法史学及び法学の諸問題」、日本評論社、一九六七年)が商法典 論争の背景となるような編纂の挫折を明らかにしようとしたが、未完で終わっている。 (お)前掲磯部「民法編纂ノ由来二関スル記憶談」。 60 初期議会期の法典取調と司法省権限の形成 (”)前掲拙稿「明治初期の法運用と旧刑法編纂の契機」。 (妬)拙稿「司法省におけるフランス法受容の端緒」二国史学」二○九号、二○一三年)。 (錫)三田奈穂「旧刑法の成立と村田保」(「法学政治学論究」七九号、二○○八年)。 (羽)伊藤隆・尾崎春盛編「尾崎三良日記」中、二一○頁。一八八八年七月五日の条・ (鋤)「帝国議会衆議院議事速記録」四巻、五五五頁、一八九二年六月一○日。 (瓠)日本大学編「山田顕義関係文瞥」七巻、四二二~四二四頁。 (犯)第三議会では賞族院より一八九二年五月二八日「民法商法施行延期法律案」が提出されている(前掲「帝国議会衆議院議事速 記録」四巻、三九五~三九六頁)。 (詔)楠精一郎「明治立憲制と司法官」(慶應通信、一九八九年)。 (弘)前掲磯部「民法編纂ノ由来二関スル記憶談」。 (調)貴衆両院の審議については、「法典問題」(「法学新報」一五号、一八九二年)に延期派議員の一覧が掲赦されているほか、法典 延期について詳述されている。 (調)前掲磯部「民法編纂ノ由来二関スル記憶談」。 (訂)七戸克彦「法典調査会の構成メンバー」(「ジュリスト」一三三一号、二○○七年)。 (詔)七戸克彦「現行民法典を創った人々(1)」(「法学セミナー」五三七号、二○○九年)によると、伊藤の発言は一四番目の多さ であることも明らかにされている。 (調)前掲伊藤博文関係文瞥研究会編「伊藤博文関係文書」五巻、五一頁。一八九四年五月二七日付伊藤博文宛西園寺公望書簡。 (㈹)前掲伊藤博文関係文書研究会編「伊藤博文関係文書」五巻、五一頁。一八九三年七月三一日付伊藤博文宛西園寺公望書簡。 (“)前掲伊藤隆・尾崎春盛編「尾崎三良日記」下巻、四一~四二頁。一九八四年五月一日。 61 徳永暁 教導職期における神社の活動l大宮氷川神社と周辺神社の活動を中心に1 はじめに 本稿では、教導職が活動していた時期(一八七二(明治五)年~一八八四(明治一七)年)における神社の活動 実態を明らかにすることを目的とする。明治初期より始められる神道国教化の動きの中で設けられた教導職期にお ける神社の活動は、各地域で行われた「三条の教則」(敬神愛国・天理人道・皇上奉戴)に基づく説教活動や、教 化活動の一環として行われた各神社での教会講社の結成などが挙げられる。特に教会講社の結成は、それぞれの神 (1) 社の信者組織を作ることにあり、教化活動には神社にとって信者の基盤形成や神社の勢力拡大が一つの目的として あったことが評価されている。ただし、組織の結成や拡大のより具体的な過程や、主体となる人物達(教導職)の 活動が不明確であることは否めない。加えて、それらの活動を見た場合、大社(出雲・伊勢)などの活動に限定さ れており、大社以下の神社を含む重層的な活動実態の検討が課題として残されている。 この様な教導職期における神社の活動に対する評価がある一方、一八七一(明治四)年以降、神社は「国家ノ宗 祀」とされながらも、明治初年の世襲制廃止や社寺領上知などに始まるその後の神社政策によって、宗教活動や経 63 (2) 済面において制限が加えられ、国家による神社の保護が十分ではなかったという、国家による神社保護の希薄性が“ 指摘されている。 これら双方の神社に対する評価を並べた時、国家の保護が不充分であった神社が、どの様に神社を存続させ、国 民教化活動に力を注いだのかという疑問が浮上する。よって、神社政策による制限下での活動実態の分析が必要で あると考える。 また、神社の成立や存続は元来、「神社は神を祀る「場」である。そして、神社における神祭は、ある個人の行 為のみでは成立せず、複数の人間の行為によって初めて成立する。(中略)その行為の最も基本的なことは、神社 (3) に実際に詣でて(参って)、祭り・儀礼を行うこと、参拝をすること」にあるとされ、神社への参拝者・参詣者の 存在が重視されている。このことは、神社への信仰という点で注目すべきものであり、特に、先述した様な神社の 活動が制限される状況下においては、各神社でも重要視されたのではないかと考えられる。そこで本稿では、教導 職期の神社の活動を追うなかで、神社への信仰という問題を分析対象軸の一つに加えたい。 対象とする神社は、埼玉県大宮氷川神社と周辺に在する神社とし、教導職期における活動を通じて、大社と郷村 社との関係性を明らかにすると共に、教導職期の神社の活動の意味を考えていきたい。 一大宮氷川神社信仰の概要 大宮氷川神社を中心とした教導職期の活動を見る前に、本節ではまず、近世と近代以降の大宮氷川神社への信仰 の状況について触れておきたい。 教導職期における神社の活動一大宮氷川神社と周辺神社の活動を中心に- (4) にしつのいひおうじ おおなむらひがしつのい 近世期の大宮氷川神社は、武蔵国一宮の社格を有し、幕府より三○○石の社領を受ける。また、 岩井家(男体 宮、祭神”素斐鳴尊)、西角井(簸王子宮、祭神“大己貴)、東角井(女体宮、祭神“奇稲田姫命) の 三 家 に よ る 年番神主制と別当観音寺による運営がなされていた。 (5) (一)近世期における大宮氷川神社への信仰 近世期の大宮氷川神社においては、「氷川講」という大宮氷川神社を参詣する事を目的とした、五穀豊穣・雨乞 郡名 分布数 郡名 分布数 豊島郡 12 比企郡 28 葛飾郡 2 横見郡 8 多摩郡 17 埼玉郡 8 足立郡 142 幡羅郡 1 入間郡 37 計 281 高麗郡 1 その氏神、あるいは産土神としての氷川社の信仰を中核に講がつくられて 「氷川講の成立として、その初期には氷川社が祀られている地域において、 社の神主家や社人によって、勧化・組織化されたものであった。そして、 勢神宮などのような「御師」の働きかけによる結成ではなく、大宮氷川神 社」を信仰圏の基盤としていた(表①参照)。講の組織化については、伊 いたとされ、武蔵国一帯に村の鎮守・産土神として点在していた「氷川 照乞などの祈願をして、太々神楽を奉 てて いい たた 。。 「「 氷氷 川川 講講 」」 のの 分分 布布 はは 荒荒 川川 水水 系系 をを 中中 心心 にに 分分 布布 しし 一て 』納 奉す 納る す講 るが 講設 がけ 設ら けれ られ 2 宮 (6) 極照宮様厚ク御由緒有之御朱印被下、当国最初之御祈願所、御在国第一ノ御 鋸していたことが述べられている。その他にも、大宮氷川神社の信仰は「東 巻 軸なった。」として、武蔵国一帯に、地縁的にな広がりを持つ信仰圏が存在 り “いて、その集団から総鎮守である大宮氷川神社に参詣が行われるように 男衾郡 毎J〃 2 14 吠宮二而、御府内始国中氏子なれば、日々再拝各第一二尊験可致御宮、よっ 6う 大里郡 新座郡 荏原郡 H召 【表①】武蔵国における氷川神社の郡別分布数 (7) て近来別而年増太々講御加入数多出来参詣群衆之社頭磐栄」と、家康の信仰も受け武蔵国一宮であるという由緒を 以て、氷川神社信仰の繁栄を築いてきたことが分かる。 (8) (二)明治初年における氷川神社への信仰 明治に入ると、一八六七(明治元)年に大宮氷川神社への天皇行幸に伴って、大宮氷川神社は勅祭社となり、近 世期には同格であった三社(男体宮・女体宮・簸王子宮)の内、男体宮のみが本社、他二社は摂社となる(主祭神 かたのときつむ は素芙鳴尊のみとなる)。また、一八七一(明治四)年には神主の世襲制が廃止され、神主に代わる役職の大宮司 に精選補任された交野時万が就任し、祢宜職には旧神主家の東角井・西角井家が就任することになる。また、同年 には社格制度の導入により、大宮氷川神社は伊勢神宮に次ぐ官幣大社に列することになる。 (9) そのような状況下における大宮氷川神社への信仰とは、どのようなものであったのかを次の史料より見てみた 0 御宮勤今朝出勤一同無之、但祭礼(報告者註‐橋上祭)二付追々門人等参候得共、其外一切不参、門人も五六 (筆者註l明治五年六月)十五日 【史料三 (㈹) 永代太々講中当年ハ至て少二て去年よりも集金も少々ナリ (筆者註l明治四年三月)十五日 【史料二 い 66 教導職期における神社の活動一大宮氷川神社と周辺神社の活動を中心に- 人ナリ当年ハ小麦之初穂当家へ一向二持参無之候間、客人も一切参不申尤官邸へ信心之者少々シ、 (Ⅲ) 【史料三 (筆者註l明治六年三月)十五日 人参り 永代太々御神楽(報告者註‐太々神楽祭)神楽殿ニテ執行(中略)当日太々講中一向に参り不申凡ソ廿四五 1 【史料二から【史料三一は、大宮氷川神社の旧神主家の東角井家が書き残した、「年中諸用日記」(以下「日記」 と略す)である。いずれも、大宮氷川神社で行われていた大祭とされる橋上祭や太々神楽祭が行われていた時期の 記事であり、大祭として設けられていた祭礼に、地域の人々が集まっていない状況を示している。このことは、神 主の世襲制の廃止と、それに替わる精選補任による大宮司の着任という新たな神社内部の変動により、近世期まで (吃) 行われていた旧来の神主家による祭礼の統括・執行権が失われたことが一つの要因としてあったと考えられる。明 治初期においては大宮氷川神社への信仰が、衰退傾向にあったことが確認できる。 二明治初年の神社政策と大宮氷川神社による周辺神社との運営策 (一)明治初年の神社制度 本節では、明治初年の神社政策による大宮氷川神社とそれ以下郷村社のおかれていた状況と、その政策に対する 67 大宮氷川神社と周辺神社による運営策について見ていくこととする。神社の主な諸経費には神社の営繕費、祭典 費、神職の給与が挙げられ、それらに関わる明治初年の諸制度について確認したい。 (咽) ・官社以下諸社の営繕 【史料四} 官社以下定額及神官職員規則 (前略) 一、官幣社式年ノ造営年分ノ営繕祭典公事ノ入費等一切大蔵省下行タルベシ ー、国幣社祈年ノ幣帛官祭ノ仕度等凡テ公事ノ入費ヨリ出ベシ ー、同上式年ノ造営年分ノ営繕等ハ公癬入費之外タルベシ、尤地方ノ見込二任セ或者従来ノ処分二任スモァル ベ、ン 一、官国幣社ノ外社領公収ノ諸社営繕社用ノ入費等適宜ノ所置取調ノ上伺出可シ (後略) (M) 【史料五】 国幣社及府県郷社造営修繕官費ヲ廃ス 官国幣社規則辛皮五月十四日相達置候処、国幣社造営修繕ノ儀ハ自今一切官費ニハ難相立候条此旨更二相達候 事 68 教導職期における神社の活動一大宮氷川神社と周辺神社の活動を中心に- 但府県郷社モ可為同様事 まず、神社の経済面に関する布告は、【史料里にあげた一八七一(明治四)年五月十四の「官社以下定額及神 官職員規則」によって定められるが、祭典・営繕費については官幣社は「大蔵省下行」と国費によって賄われ、国 (鴫) 幣社以下府県郷村社については、各県の地方費によって賄われる事が定められる。しかし、二年後の【史料五一 一八七三(明治六)年五月十五日の太政官布告により、国幣社以下府県郷村社の地方費支給は廃止される。次に神 職の給与について見てみたい。 (随一 ・神職の給与 【史料六一 官社以下神官給禄制定 官社以下府県社郷社二至迄神官給禄ノ定額別紙ノ通り相定メ、郷村社ノ儀ハ官幣国幣府県社ト違上民費ヲ以テ 課出 (W) 【史料七】 郷村社祠官祠掌給料民費課出ヲ廃ス 壬申第五十八号布告ノ通、各地方郷村社祠官祠掌給料ノ儀ハ、是迄民費課出ノ規則二候処、自今相廃止シ候 条、人民ノ信仰二任セ適宜給与為致可申此段相達候事 69 (鵬〉 【史料八】 府県社神官ノ月給ヲ廃ス 府県社神官ノ月給ヲ廃止シ、 自今郷村社同様人民ノ信仰ノ帰依二任セ給与可為致、此旨布告候事 神職の給与については、【史料六】一八七二(明治五)年二月の「官社以下神官給禄制定」によって、官社以下 府県社神職については、国費によって賄われ、郷村社の神職である祠官・祠掌については民費によって賄われる事 が定められる。しかし、【史料七】で挙げた様に翌年二月には郷村社祠官・祠掌の給与について民費支給が廃止さ れ、加えて、府県社神職についても同様に【史料八】同年七月には廃止される。傍線部に示したとおり、以後府県 郷村社の給与は「人民ノ信仰」とあるに、神社への祈祷料や初穂料の如何によって給与が定められることになる。 以上のことから、大宮氷川神社のような官幣社以外の神社は営繕費・神職の給与ともに、「人民ノ信仰」如何で 左右される状況下にあったことが確認できる。つまり、信仰如何で神社自体の存在が問題となる状況下でもあった と考えられる。以上の様な政策が出された後に、大宮氷川神社と周辺神社の神職らによって、神社の運営策につい ての取り決めがもたれることになる。 (旧) 【史料九一 神官掌心得書 一、郷社祭日等区内之祠掌一同奉務之事 70 教導職期における神社の活動一大宮氷川神社と周辺神社の活動を中心に- 但、交代毎日一人宛郷社へ相詰神務可取扱事 神事式之儀、総而官幣神社二相倣上一定神務可致事 、 但、入費ハ神入ヨリ算計祠官祠掌ヨリ取扱可差出 一、諸廻達ハ総而数通分認メ、郵便ヲ以テ各区祠官へ逓達之事 分ハ祠官掌並出仕共月給等差之振合ヲ以分配可致事 入二属スル物ハ、 諸入費ヲ逓減シ、残高金分之壱割ヲ以テ其区内神社常備トシテ郷社社務所へ積置、残九 一、各区郷社村並平社共氏子有之社之営繕筋、奉納物者置而不論、其他四時之初穂、臨時守札或ハ祈祷等之社 但、参務懇願候共忌憧るへき事 一、仏葬跡祓之儀、氏子より申出候ハ、賢木之枝へ垂ヲ付、渡すへき事 但、位階有之候ハ、本文同断 一、霊位墓誌認方当人在官中死亡二候ハ、、官可相認事 一、守札紙ハ一般程村紙を可相用事 附、祠掌二而札守製造有之上者祠官検査シ社印ヲ押スヘキ事 但、郷社ハ勿論村社平社共、札守玉串虫封等之社印板木共一切祠官之進退たるへき事 一、札守玉串等製造之事 但、平社ハ同社より遙拝すべし、祭日者此限二あらず 村社並氏神社祭日ヲ除ク之外、月次神務ハ一ヶ月上旬之中一度事務可致事 、 五里以上往復一泊之分但、日当廿五銭 71 一一 一、七十五銭 ″ 一、六十五銭 日帰り之分 一、等 等差 差二 二 寄り日当ヲ賜ル 祠 祠 出廿 仕銭 出 在 明治六年第五月十四日 武笠幸息西角井正一 (虫損) て、その取り決めを行った人物たちにも注目でき、郷村社の祠官・祠掌たちのほか「武笠幸息」や「西角井正こ ノ帰依」によって、神社の運営が左右されることとなった郷村社の維持運営対策が設けられているのである。そし 割を神社の備蓄費として、残りの九割を祠官・祠掌の給与として設けている。ここには、「人民ノ信仰」や「人民 が郷村社の営繕費や給与配分についてである。収入源は神社への初穂料や祈祷料、守札などを主として、収入の一 営すること。次に、各神社の祭礼日以外にも毎月上旬には月次として神務を行うこと。そして、最も注目されるの り決め内容が注目される。まず一つ目は、郷村社の神事等の神務といった、神社運営を各地域の祠掌らによって運 【史料九】の「神官掌心得書」は【史料七】の郷村社祠官・祠掌の給与廃止から三ヶ月に結ばれており、その取 武笠幸美 仲田寛 網野長雄青柳恒藤岡口右衛門岡村覚太郎 右者仲間一統評議之上決定候也 右、祠官祠 掌公務二掛り、本県又ハ仲間寄合等二而社務出在等ハ、祠官祠掌割合出納可致事 官但官 並 、 出 三日在 等当 72 教導職期における神社の活動一大宮氷川神社と周辺神社の活動を中心に- (釦) といった、大宮氷川神社の神官達が加わっていることである。取り決めの最後の文に「仲間一統」とあるように、 官幣社の神官からそれ以下の郷村社祠官・祠掌達が協同して、神社の運営策を考えた結果として、この取り決め結 ばれたと考えられる。 前節と と本 本節 節で では は、 、坐教導職活動に入る以前の大宮氷川神社とそれ以下の府県郷村社の置かれていた状況について確 てみ みた た。 。大 大宮 宮氷氷、川神社では、明治初年の神社内部の組織変化により、祭礼への参加者・参詣者への減少が見ら 認して れ、一方の郷村社においても明治初年の神社制度により、「人民ノ信仰」如何で神社自体の存在が左右される状況 にあった。大宮氷川神社は一八七一(明治四)年以降、官幣大社となるため、営繕費・祭礼費等の神社入費につい ては一切国費で賄われるようになるため、郷村社に比べて神社自体の存続が危ぶまれる訳ではない。であるにもか かわらず【史料九】のような取り決めに参加しているということは、神社の存在が地域の信仰によって守られるべ きものであることを、自覚・意識しているあらわれではなかろうか。官幣社や郷村社など待遇は違うにしても、同 じ神社人としてまさしく「仲間一統」として連携して神社運営を図っていこうとする意識が読み取れる。 このような、大宮氷川神社から各地域の郷村社との連関した動きや、神社への信仰の意識は、次節に見る教導職 期における教化活動の中でも同様に見られることになる。 三大宮氷川神社における講を介した教化活動 一八七二年(明治五)年以降、教導職による「三条の教則」(敬神愛国・天理人道・皇上奉戴)を普及するため の教化活動が行われていく中で、大宮氷川神社内部の組織に再度変化が生じる。一八七三(明治六)年三月四日、 73 【表②】 大宮氷川神社における説教活動(「年中諸用日罷」 (「大宮市史資料調」三)より作成) 年 月日 5〃21日~溺日 9jj l6日 夜 参加者 大宮氷川神祉 大宮氷川神社 lOjl25日~27日 岩槻町 11〃15日~17日 大宮氷川神社 12〃15日~17日 大宮氷川神社 1511:大宮氷川神社 2〃 5日~18日 16日:大宮氷川神社 3II 4日~l7p 近村の者、集まる 昼:参加考一向に集まらず 夜:余程集まる 一向に典まらず 昼:参加稀黛し 夜:4.釦人狸参加 勝槻町 天弧悪きゆえか、28人参加予定の所、 15人のみ参加 参加者集まらず 15日:大成村6.70人参加 16日:”人参加 大成村孝右衛門より規軟錦の話あI) り金馳疋 大成村孝右衛門参り諸す当家にて鯏低 3〃 9日 1873年 (明治6) 5m 5日 7日 0日 7日 候鋭教議之耶につき 大官氷川神社 大宮氷川神社 御薗付 大宮氷川神社 大成村孝右衛門、説赦瞬釦人参加 卿蔵村 大成村の鋭軟露釦人穆加 大成村:孝右衛門・治兵衛参り説軟簿 8日 '〃 7日 9月 5日 oIl5日 011 17日 1M10日 1M14日 の件、期日取極について飴し合い 大官氷川神社(定例日) 大官氷川神社 夜 大宮氷川神社 大1『氷川神社 夜 大宮氷川神社 夜 大官氷川神社 宮的村□口梱正参I)、向ら作成した鋭 l2jl28m 2月9日 3月9日 大成村内田孝右衛門より鋭牧依献 脱軟麻の件につき、大成村孝右衛門よ 3〃 6日 4M 5〃 5ノI 5m 儲考 大成村、其外から40人ほど集まる 大宮氷川神社 大1『氷川神社 昼夜 0〃 1872年 0Ⅱ15日 (明治5) 10〃17日 官邸(大宮氷川神社) 大宮氷川神社 大官宿清水隈 昼夜 8〃15日~17日 脱教埋所 大官氷川神社 軟廓録の兇分顧い 大官氷川神社 伊苅付 不二癖侭肴 伊町村 大成村孝右衛門、鋭敬の依顔につき期 3j121日 日取り決め 中敬院(大宮氷川神社)において妊月 16日に鋭教の話、県内の閥敏一同集会, 4月5日 桁古 18祠年 (明治7) 4〃10日 4〃14日 4月16日 4月17日 4m27日 中教院(大宮氷川神社) 中敬院(大宮氷川神社) 5〃18日 中敦院(大宮氷川神社) 6月1日 6月6囚 粕醸耐 砂材 中軟院(大宮氷川神社) 〔 中教院(大宮氷川神社) 6月17日 7〃19日 中軟院にて刷官・詞華巣会(説教の件) 中軟院にて風官・闘歳集会(規教の件) 埼玉雌 御眠山讃中が「しせい」 (修成碑)と称 え堀之内村外14.15ケ付から参抑 〕議社の者、大勢参詣に参る。商 人も余程集まる。 8月鎚日 9月1日 中軟院(大宮氷川神社) 911811 中敬院(大宮氷川神社) を集めて説軟につき集会、大勢、販々 9M15日 9jl l6H 9f1 17日 9〃釦Ⅱ 10〃24日 11ノ1 11日 11〃21日 中教院(大宮氷川神社) 中敬院(大宮氷川神社) 511程前から、中教院にて地方の新共 しい 1875年 (明治8) 3Ⅱ21m 11m1日 l鯛1年 (明治14)11〃25日 砂付より脱軟の依頼 中軟院(大宮氷川神社) 中敬院(大宮氷川神社) 硬虜中大勢参加 丸ヶ崎村 九ヶ崎村 九ヶ崎村 九ヶ崎村 九ケ鰯村 九ヶ崎村 釣上村 釣上村 大崎村 大海村 大崎村 大源村 74 教導職期における神社の活動一大宮氷川神社と周辺神社の活動を中心に- (望} (劃) 教導職権大教正平山省斎が大宮司に着任、同年穂積耕雲が小宮司に着任、一八七四(明治七)年一月五日、東宮千 別が権祢亘が着任したことである。 また、同年六月三日には大教院の下部組織で教導職の地方統括局である中教院が大宮氷川神社内に設置されるこ とになり、大宮氷川神社は埼玉県内の教導職を養成する機関となる。 前記の人物達の着任と中教院設置に伴って、大宮氷川神社でも説教活動や教会講社などの講を回路とした国民教 化活動が展開していくことになる。 (二大宮神社における説教活動 【表②】は、東角井家の「日記」にみられる大宮氷川神社の説教活動に示したものである。表を見てみると、教 化活動が開始された一八七二(明治五)年から翌年頃までは、毎月一四日から一七日までを定日として大宮氷川神 社において説教活動が行われていたことが分かる。参加している村々も大宮氷川神社の隣村の大成村からの参加が 目立ち、それ以外の村々ついては特に参加は見られない。また、一八七四(明治七)年以降になると、説教は定日 を設けずに行われており、参加形態も村としての参加から、村で結成される講を単位とした参加形態へと変化して (魂) いる。加えて一八七五(明治八)年以降になると、大宮氷川神社での説教活動は極端な減少をみる。右はあくまで 東角井家の「日記」のみから分かることであり、これをもって大宮氷川神社で行われた説教の参加状況の全てであ るとは言えないが、少なからず大宮氷川神社での説教活動に対しては開始当初に比べると減少傾向にあり、参加者 についても開始当初から盛況ではなかったことが指摘できる。では、こうした説教活動減少の要因として何が考え られるのかを次で見ていく。 75 【表③】 教派神道系講社の大宮氷川神社参脂肥録 年 月日 1874年 (明治7) 教会 参鮨村 2月1111 覗教 拝加美調侭新が東角井家の座敷に 逗留 5月18日 修成 堀之内村外14.15ヶ村 宮市史 参鮨人数 世騒人 備考 14.5ケ付 神楽殿抑兇所を硬鱒参押濁卯用の集会 所に定める 1月8日 水波田村慈眼寺釧音寺卿無阿弥陀仏 4月17日 1875年 (珊治8) 6〃2日 7月14日 虜 所々村々 旗教 知人 70人 硬教 新座郡の硬碑、他4組参拝 6.”人 硬軟 画涌在台3ケ付、喫喫簿中 即人 台治定(内台村岡な) 9月鋤日 硬軟 洞戸村の旗屡 l伽人 矢作滴一 lljl llH 硬敬 3.4ケ付10人 右F1 11月15日 硬軟 軸硬逓辺3.4ヶ材 斬井田新田村 7月15日 7月21[1 4.駒人 台治定(内台村刺草) 鞭事教会の旗を東阿井家門前に寄せて 3m14m 砿設 3月18日 硬軟 3月23Ⅱ 腰教 4月10【1 硬軟 4月15日 硬軟 4月16日 資料鍋」三)より作成) 鹿製付48人、土呂村鋤人、釣上村. 計】“人 笹久保村弱人、奥樋寺村溺人 当日より、硬耶敬会を東阿井康新座 敷にて執行 平林緑村・岡村・合繁付 村々の旗事軟会飼中84人、消河好村 踊中37人 計l鋤人 計121人 岡安正能 l“人 占挿肺(釣上村間な) 占滞師(釣上村閏な) (硬教) 釣上村 4月濁日 硬軟 釣上村 5月1日 硬軟 釣上村 丹後 大適付37人、大師村12人、恩問田 18祁年 (明治9年) 5月511 (鞭教) 新Ⅲ15人、珊111新旧4人、恩間村 計l溺人 八坂一(大道村岡軍) 濁人、大竹村14人、三ノ宮村12人 5月12日 釣上村 幌敬 釦人 5〃15日 襖教 村々硬事軟会謝中118人参拝 118人 台治定(内台村岡草) 岡安正能 5月17日 硬軟 喜代久村 32人 台治定(内台村岡傘) 5月釦日 (硬軟) 5月湖Ⅱ 鞭教 7月l5p 梗教 10月2日 硬教 11月認日 硬軟 5jI lOH 18詔年 (明治11年)5月23日 ニツ宮村配島八百吉父、砿て心願二て 当家へ太々神楽奉納致度存居候処、此 箇柄之事二付、教会虜中として取立、 弥出来二今日納候由二て廓中一同連立 詮贈二参り此方にて賄錦人参拝 謁人 鞭耶教会簿中刷人参拝 鞭卿中参拝 晩人 大宮楢5ヶ村 計1溺人 大卿1日材 巽人 剛草加村 蛇人 右京(中川村神主) 片柳村 謁人 守囲吉之丞 3月鋤日 (幌軟) 大皮付 59人 守賦古之丞 4月68 (鞭敬) 長野村 48人 守厭宙之丞 4月7日 年) 4月l4n 5m15日 幌軟 硬軟 大宮術5ヶ町外 (硬軟) 本郷村 脚儘軟 瀬棚柵一郎 伽嵐山簿中l釦人参拝(太々神飛). l釦人 眼虜中も厩やか 3月l5H 18帥年 (明治13年)4月5日 禰田滴一脇 大村庄吉(詞官) 磯敬 4月15m 硬軟 下赤塩村 1㈹人 井上札 4月釦日 硬軟 87人 矢作滴吉 3月22日 簾在青木村始4.5ケ付 草加樹 顧鷹鋤人参拝 西阿井止禰にて太々簿中25人参押 4月68 神楽殿二おいて太々鱒中参拝l鈍人 l釦人 5月7日 8月3[I 4月15日 1錦1年 (明治14年)4月28[1 5m9日 5m15日 硬講 硬軟 硬瞬中涕人参拝 御岳教 伽砺臓中'㈹人狸参拝 頗教 砂村庄古世路二て門人人二相成、尤 先日参り(加藻福泰・大作相三郎) 但右両人之稀、是迄参り侠得共、猶又 改テ来年三ノ'十五日二1r之太と之心二 て参論二謬り上り度存寄二候問、左橡 伽承知披下候揮頼固 井上糺より旗事敬会謝GI】参拝につき、 東角井家御鯉敷の拝倍依価 鋤人 鋤人 岡安術鵬(正能) 濁人 認人 l伽人 鋤ヶ付 47人 宮下付より銘人硬虜中 認人 杉'''一個 76 教導職期における神社の活動一大宮氷川神社と周辺神社の活動を中心に一 (二)謨教を中心とした教化活動 (漣) 【表③】は、先記の「日記」にみられる大宮氷川神社への教会講社の講中参詣記録である。表を見ると、神道修 成派や御嶽教の講中がいくつか見られるものの、それ以外のほとんどが旗教の講中が参詣している事が分かる。膜 (濁) 教とは井上正鉄の創始したものであり、涙教の根本儀は「古事記」に記される伊弊諾尊の涙(身の稜を洗い清め る)神事と素菱鳴尊の膜(犯した罪稜を清める)神事という心身の清浄を根拠としていた。 その涙教の大宮氷川神社参詣が明治七年以降に多くの数を占めるようになる要因の、一つには、「平田学系の神 道家が多くの講を擁する大社の宮司などに任命されたのは、ほとんどが明治六年のことで、宍野半↓浅間神社、西 川素賀雄↓出羽神社、平山省斎↓氷川神社、深見速雄↓琴平神社、落合直亮↓塩釜神社、青山景通↓大鳥神社、権 田直助↓大山阿夫利神社などがその事例であ」り、そして、「活力ある講を手中にすることが、神道勢力拡大の重 (調) 要な手段となった。」とあるように、平山省斎の大宮氷川神社の大宮司着任が大きいと考えられる。確かに、それ らの人物達が神道勢力の拡大を図ったことは考えられるが、一方でその教会の拡大活動を具体的に見てみると、単 に神道勢力の拡大だけとは言い難い。次の史料より大宮氷川神社での涙教の拡大活動を見てみたい。 【史料一 織津比曄神・秋津比曄神・気吹戸庄福速佐須良比洋神之を祓戸の大神と言ふ、之乃ち誤祓の根源也、其後素尊 原に於て海水に浮き沈み身心を湯糠して汚稜迷濁を祓ひ除き本明の厳の御霊ふ帰り給ふて四柱の神あれます瀬 抑身旗祓の事は神代の古に起こる其事は、諾尊杖履衣帯を投棄して自ら正体に帰したまひ日向の橘の小戸の憶 ○2 日神の御許に於て許々多久の罪事を犯し玉ふ日神之を答めずして天の岩戸に入玉ふ、於是乎諸神等天の安河 77 - に相会し素尊に千倉置度の祓具を科せ、天津児屋根命をして解除の太諄辞事を以て是を宣らしめ、其罪事を しるし 解除して是を下土に降し玉ふ、素芙鳴尊出雲の国に至て八岐大蛇を斬りて宝剣を得たり、之を日神に高天原に まかこと 奉る、曰く鳴呼心弦に至て清々しと終に八雲の詠歌を発し玉ふに至る、是乃膜祓いの功効なり(中略)蓋し人 の天地の間二生るや諸の狂事罪稜なしといふものあるとなし、況や吾においてや自ら省みるに過犯せし種々の よごれ 罪事ともて量り先ずもて数ふるも、挙て尽くすへからす、故に之を唱へて数千編に至る之声音を以て我心の みな 汚濁を祓い尽くす所謂洗心の術なり天御中主神高御産霊神神御産霊神伊弊諾尊神天照大御神素斐 鳴尊神の神号を唱ふる所以のものは蓋人窮すときは本に帰る(中略)庶くは同志の士宜しく此意を体認して掛 巻くも畏き氷川大神天上の解除の神伝に因って、之を拡充し推して之を他に及さは宇内広しと云トモ人物多 しと云トモ数十年を出すして、皆神法の版図せんと云 明治七年十月 日本氷川神社少宮司兼大講義穂積耕雲謹んで識 【史料一○】は大宮氷川神社で発行された涙教の教本の冒頭部分に掲げられたものである。そこには、涙教の根 みな 本が記載されており、素斐鳴尊の罪稜解除(旗祓)を神徳として述べ、天御中主神高御産霊神神御産霊神伊 弊諾尊神天照大御神素斐鳴尊神の神号を唱えることによって人間の中にあるあらゆる罪事を洗い流す、いわゆ る浄心を目的としたものであることがわかる。ここには、教会講社を中心とした教化活動も「三条の教則」を浸透 させる活動の一環であった、教化のための中心に据えられた、造化三神と天照大御神を掲げている。しかし、後方 で注目したいのが、「氷川大神天上の解除の神伝」と記しており、明治元年以降、大宮氷川神社の主祭神に据えら 78 教導職期における神社の活動一大宮氷川神社と周辺神社の活動を中心に一 れた素斐鳴尊の神事・神徳を中心に述べていることである。元々涙教とは先述の様に、伊弊諾尊と素芙鳴尊の神事 を根拠としていたが、この大宮氷川神社で発行された涙教会の教本には大宮氷川神社の主祭神である素菱鳴尊の神 一】 (銘) 事を特化させてアピールしている事が分かる。次に涙教での実践方法についても見てみたい。 {史料一 千倉置戸祓 l 高天原永神留座須神魯岐神魯美乃命以天、八百万乃神等乎神集比永、神議給比天天津祝詞乃太祝詞乎以天速 素斐鳴大神氷千倉置戸乃解除乎科勢奉幾、如此科勢奉志永、依天罪止云罪波不在止祓比給閉、清米給閉戸 清々乃御心永立帰良勢給比志事乃由乎以天、各々身中永過犯気牟雑々乃罪、最多計礼婆畏古久母皇大神達乃 御事業永倣比奉天天津祝詞乃太祝詞事乎以天宣礼」 実践方法については、【史料一二の祝詞を読むことが中心として掲げられているが、そこでも注目されるのが、 「氷川大神天上」である素芙鳴尊にまつわる罪稜解除の祝詞を読むことが中心となっている点である。 (認) 【史料一三 講義天地神人の始より説き起こして皇統の由て起こる所に及ふ、講畢て暫時休息教師教徒を率て神前に進 む如前唱へ罷て各別席へ就いて休息す 講義道の大原天神より出るを論して而して君臣父子の倫常に及ぶ、講畢て暫時休息す、教師教徒を率て神前 79 に進む前条ノ如く唱へ罷て各別席に就いて休息す 講義三条の教憲に基づき倭漢天竺西洋其他小説新聞等を論せす、大体其人を視て法を説き信心得道の場に 至って心魂帰着の節に安定せしめん事を要す 三日同断但し余日も倣之如前神号を唱える事数千度に至り、其人自然に神名の導を得て心の百念皆除き去 り、至誠無為の地に至るを観て別神殿へ招き席に就かしむ 【史料一三は涙教会入会後に行われる講義内容について記したものであり、その講義からは「三条の教則」を 浸透させるための内容となっていることが分かる。旗教会への入会によって「三条の教則」に基づく講義が行われ 趣教義やその実践活動が「氷川大神天上」である素菱鳴尊にまつわる内容が中心に据えら るものの の、 、重 重要 要視 視す すべ べき きはは れているということである。 素菱鳴尊の神事を教義とする涙教会に入会・実践させるという右の実態からは、素菱鳴尊を主祭神とした大宮氷 川神社を信仰させることを狙いとしていたことがうかがわれる。本節の最初でみた説教活動の減少には、大宮氷川 神社での教化活動が説教活動よりも教会講社の拡大活動へとシフトチェンジしていたことが考えられ、その教会講 社の拡大には大宮氷川神社への信仰を集めようとする目的があったと考えられる。 四郷村社祠官・祠掌の旗教会入会活動 (一)漠教会講中の大宮氷川神社参詣を促す人々 80 教導職期における神社の活動一大宮氷川神社と周辺神社の活動を中心に- (抑) 【史料一三一 (筆者註l明治八年七月)廿一日 菖蒲在台三ヶ村之内台村祠掌臺治定(報告者註l参詣の世話人) 今日も八拾人程参詣二参り候由、当家ヲ昼食休二願度旨申出候間、承知之上参り尤座敷斗借ス (訓) 【史料一四 (筆者註l明治九年五月)五日 大道村祠掌八坂一事兼テ申込有之講社参詣中食並二御神酒等賄もらい度一同同道二て参る 一、金五円四十銭大道村三十七人 一、同一円七十四銭大戸村十二人 一、同二円十七銭五厘恩間木新田十五人 一、同五十八銭増田新田弐拾四人 一、同二円三分卜四貫四文恩間村二十二人 一、同二円卜三銭大竹村十四人 一、同一円七十五銭三ノ宮村十二人 本節では、大宮氷川神社への旗教会の講中の様子について見てみたい。【史料一三】【史料一四]は旗教会の講が 大宮氷川神社へ参詣する際に事前申請している様子である。そこで注目されるのは、【表④]でも確認出来る様に 81 教導職へ任命された各村神社(郷村社に属する)の祠掌たちが講中の世話人となって地域の人々を大宮氷川神社へ 参詣をさせているということである。このことから、郷村社の祠掌達が各村において旗教会の講を結成させ、大宮 氷川神社へと参拝させているという流れが見えてくる。そのような郷村社の祠掌達が各村で涙教会の講を結成させ る背景を次の史料より見てみたい。 (塊) 氷川簿 粛社 【史料一五]〔氷川講社規約〕 旗事教会結社規約 第一条信心篤志ノ輩、教会二入ラント欲スル者、 先名簿ヲ出サシメ神前二誘ヒテ誓約ス、而シテ後入社スル 第二条 数小社ヲ合シテー大社トシ、正副取締各一員ヲ置キ社中ヲ監セシム 凡五拾名ヲ以テー小社トシ、世話掛七名ヲ置、内二名ヲ抜擢シテ頭取トナシ社中ヲ督セシム ヲ許ス 第三条 天祖天神ノ大訓天津祝詞太諄辞ヲ云う素尊垂世ノ大教膜祓ノ事ヲ云ヲ奉スルコト斯教余ノ緊要ナレハ 露社 第四条 受ル所ノ神符ノ旨趣ヲ常二服晦センコトヲ要ス 第五条造化ノ三社天祖皇大神素菱鳴尊ノ神号ヲ正床二掲ケ朝夕神前二向テ天津祝詞大諄辞ノ祝詞ヲ数篇 唱フヘシ 第六条社中親睦一家ノ如ク、相互困難病厄ヲ救上鰈寡孤独ヲ助ヶ、専ラ協力同心ヲ主トスヘシ、若シ社中異 蕊 端邪説ヲ信シ惰慢放逸ナル者アル時ハ社中ヨリ懇切教諭ヲ加フヘシ 第七条社中忠臣孝子貞婦義僕等アラハ取締へ達シ取締ヲ教長へ具状スヘシ 82 教導職期における神社‘ 【表④】大宮氷川神社が管 役職 郡 村 軟導融 足立郡 峰村 軟導唾試補 埼玉邪 埼玉村 神社名 八幡社 名前 役斑 詞官 顧波爪好 役職 邸 村 神社名 役職 牧導唾試補 足血郡 宮煎付 倒官 大地茂む衛門 敦塀職試補 足立邸 上谷村 倒承 青木知顕 軟導職試補 足立郡 桶川術 八幡神社 制敢 氷川神社 閏承 稲荷社 岡承 敬塀戟試補 足立郡 篠泳付 多気比売神社 倒敢 名前 宮鴎柳之助 岩城秀雄 軟導蔵 埼玉郡 宵柳村 埼玉神社 八幡社 教導城 足立郡 蝋加宿 氷川社 閥章 田中古明 戦導載 戟導戟拭袖 軟導吸試杣 軟導載試袖 足立郡 野堀村 稲荷社 閏挙 金剛寺春明 教導職試補 足立郡 領家村 氷川社 創承 榎本蕪治 葛筒扉 平沼付 葛飾郡 大広戸村 葛飾郡 宙谷村 諏肪神社 倒掌 戸弧真舎男 敦導職試補 足立郡 下石戸上村 氷川社 間な 小口瀬武知 香取社 倒敢 田中広郷 菊池雄戚 倒な 遡沼義邦 倒敢 渡辺綱範 敬祁戯試補 足立郡 小室郷本村 氷川社 敬導職試補 足立郡 平方村 氷川社 劇掌 香取社 創敢 福田良中 宮本灘義 今井昇 占滞師 仙波消奨 石井満常 神山滴宗 石井寛 稲畑新右衛門 鈴木力 小沢正治郎 小山耗僧 十賭武治 赤尾光碇 石井源太 敦導戟試胡 葛筒郡 谷口村 軟導取試袖 葛跨郡 、n村 教導戯拭補 葛筋郡 下□口付 桶荷社 □口神 t 存取神 t 軟導敏試補 葛簡郡 下内川村 女体社 倒掌 鈴木Ⅲ栄 倒掌 渡辺元善 闘敢 鈴木1X昶 軟導風試補 埼玉郡 内牧村 鷲宮神 上 女体神 t 芥取神 t 閥掌 松間棄光 閥拳 八坂一 軟導職試補 埼玉郡 梅田付 教導駐試補 埼玉郡 大道村 教導戟試袖 葛筒郡 蓮沼村 教導国試補 葛跨郡 大塚村 香取神 上 香取神 t 教導融試袖 埼玉郡 百間須賀付 身代社 教導駁試補 葛箇郡 上海野村 八坂社 閥敢 春日郁孝純 閣拳 服郎慶治 閏承 松本茂樹 岡掌 加瞳福光 倒寧 梅林寺栄明 教導駐試補 葛箇郡 大給村 八幡鷲社 軟導戟以袖 埼玉郡 商岩村 天満社 閏掌 藤村宗四郎 閏掌 菅原佃道 敦導融試袖 葛筒郡 木立付 教導融試棚 埼玉郡 愛倉付 八幡社 周掌 梱飼武清 鷲宮神社 閥掌 石川一 教導融試袖 葛筒郡 栗僑宿 八坂社 軟導風試翻 葛笛鄙 下商野村 軟導風試繍 埼玉郡 鷲宮村 軟那敏試袖 埼玉郡 鷲宮村 教海域試袖 埼玉郡 悪梅村 木々子社 鷲宮神社 鷲宮神社 稲荷社 闘掌 禍栄行賢 閏草 東大定 詞掌 大内山伎雄 同掌 東大路碇江 詞掌 相沢墓平 軟導域試補 埼玉郡 鋼影材 八幡社 閏な 甑野広凝 教導職試補 埼玉郡 砂山付 教導職拭補 埼玉郡 阿左間肘 教導戟拭補 埼玉郡 大桑村 愛宕社 八幡社 喬取社 閏掌 宮崎桂 教導風試捕 埼玉邸 加羽ヶ崎村 敦導唾試補 埼玉郡 本川俣村 八幡社 詞掌 久鴎碇助 長良社 闘承 小西肺麿 祠挙 南條茂江 闘承 永野幸治 高泳臆□ 敬導戟試補 埼玉郡 上大越村 鷲宮神祉 倒敏 教導風試補 埼玉郡 稲子村 諏訪社 倒草 諏訪個代 敦導駁試補 埼玉邸 上岩瀬村 伽盆社 間な 小松綻明 敦埠駐試補 足立鄙 中釘付 軟瀞敏試袖 足立郡 上雌竹 氷川社 劉掌 氷川社 閨な 神明社 久伊皿神社 閣な 氷川神社 倒な 牧椰載試補 埼玉邪 鉤上村 牧源斑試補 埼玉郡 浮谷材 牧海戦試補 足立認 囲沼付 軟源理試補 足立郡 神IH付 軟源風試補 足立郡 本太付 氷川社 底】な 敬那職試補 足立郡 鈴谷村 敬導唾試補 足立郡 青木村 天満社 氷川社 閥戴 軟導風試繍 足立邸 投岸付 教導唾試補 足立郡 新竹村 春日社 閏な 氷川社 倒な 軟導職試補 足立郡 内谷村 軟郡風試葡 足立郡 醸耐 軟塀風試補 足立郡 木的呂村 倒承 倒敢 氷川社 刷傘 八幡社 倒承 氷川社 倒軍 倒傘 飯田正忠 創敢 葛飾郡 松伏村 氷川祉 氷川社 香取社 宮本蝿永 青木文吾 埼玉郡 西方付 日枝社 1承 秋111灘蛸 魁鋒郡 清池付 埼玉郡 上新郷 近泳神社 1敢 口薩滴光 愛宕神社 1承 田原知雄之介 足立郡 飯田村 氷川神社 4承 河野一郎 1承 軟導融試補 足立郡 本郷村 敬獅風試補 足立郡 舎人町 敬導斑試補 軟導駁試補 戦導融試補 軟導唾試補 敬導唾試袖 軟導職試禰 牧導唾試補 氷川神社 倒承 稲山正宜 金H1州 埼玉郡 戸ケ崎村 袋剛社 1承 埼玉郡 大田村 軟導風試補 足立郡 大谷口付 軟埠駁試補 足立鄙 柏崎村 軟導域試補 足立郡 片柳付 久伊皿神社 氷川社 副敢 台治定 玉間福二 閥敏 野口昭 氷川社 閏敢 武笠輔樹 熊野社 倒掌 内IHX僧 敬導戯試補 足立郡 上木崎村 商鯏社 倒敢 真Ⅲ万 軟導唾試補 足立郡 小渕村 敬源敬試補 足立郡 大門町 氷川社 閥掌 十二所社 倒章 洩ⅢI社 剥敢 倒敢 松間伊三郎 牧導融試補 足立郡 蓬間村 軟導敬試補 足立郡 戸噸付 氷川社 倒欺 河原采兜 熊野義正 酒井綻孝 新井紋左衛門 救導風試補 埼玉郡 屈巣村 久伊豆神社 倒掌 中捜志泳麿 牧導腫試初 埼玉郡 鷲宮村 鷲宮神社 底I掌 宮内佃陸 教導風試補 埼玉郡 刎岡村 教導風試捕 埼玉郡 谷癌 熊野神社 氷川社 扇】な 山崎房兵衛 愛宕神社 鹿1承 千紫松彦 教導国試補 埼玉郡 上之村 教導恩試補 埼玉郡 今井村 上之村神社 自官 供伯孫雄 軟導戟試袖 足立郡 田島村 軟導戟試初 足立郡 原川獺村 較導職試補 足立郡 明用付 三島神社 喬取神祉 劇承 副斌 教導職拭補 埼玉郡 三田ヶ谷村 八幡社 教導風試補 埼玉邸 行田町 八幡神祉 春日神社 赤殿神社 代綱野長雄 閥堆 三m耐 周な 加納登 目掌 園田正行 倒掌 今井雌雄 軟導風試緬 埼玉郡 備後村 篠原伝右衛門 石井之駿 浅野吉之助 教導融試補 埼玉郡 池上付 古官神社 軟導団試補 埼玉配 皿尾村 久伊豆神社 目な 青木知血 詞掌 茂木昇 軟導職試補 足立郡 円阿弥村 浅野忠三郎長 平腿 男 軟導風試補 埼玉郡 不動岡村 伊甑肺海 河野没之介 教導載拭補 埼玉郡 河原村 河原神社 同な 松本英之介 敬獅職試補 足立郡 甑Ⅲ村 氷川神社 閏挙 代父河野一 郎 吉Ⅲ政保 軟導唾試捕 埼玉郡 佐間村 天満宮社 倒掌 梅村守人 敬導職試補 足立郡 大間村 氷川神社 制準 代父吉田栄 義 和mfJ1吹 教導駁試袖 埼玉郡 安饗寺村 軟導戟試袖 足立郡 大間村 八幡大神 氷川神社 同掌 杉lll安彦 倒掌 宵111栄義 敬獅職試袖 敬導戟試補 足立郡 小針舗家村 軟導唾試繍 埼玉郡 古沢付 香取社 風 氷川神社祢亙 東阿井福臣方 寄留 宮本脳敬 元刺掌 井上畷郎 (埼玉鼎立文書館マイクロフイルム収蔵資料西刈井家文番5知 明治7年1月御荊帳(教職補佐))より作成 83 第第第 社中二入ルモノ誠ノー字ヲ以テ終身ノ神符トシ、質素節倹ヲ苓トナシ人ヲ救ヲ以テ勤トナスベシ 但臨時派出説教モ亦同斗 紀元節、天長節、祈年祭、新嘗祭等ノ御祭祝日ニハ其産土神二参拝シ、宝詐無窮国家安寧ヲ祈ルヘシ 条条条 祭ヲ行フヘシ 明治九年二月 官幣大社氷川神社社務所 元節、天長節、祈年祭、新嘗祭の祭日には、各村の産土神、神社への参拝規定が設けられている事である。つま 祭神である素菱鳴尊の神事に奉する事がここでも述べられている。その他で特に注目されるのは、第九条にある紀 その条文の中では、第四条・五条において、【史料一○】にみたような旗教会の講を結成する大宮氷川神社の主 る。 {輿) なっており、膜教会の講社名を後々には大宮氷川神社の「氷川講社」へと転じさせようとしていた事が読みとれ 名をみても分かる様に、元々は涙教会講社の規約として取り扱われていた。傍線部と脇書している部分が手書きと 【史料一五】は大宮氷川神社で作成された「氷川講社」の講社規約であるが、史料は印刷物であり、冒頭の規約 右畢 第十工条入社セシ者其寿終二及ヒシ時、頭取其喪ヲ弔上生前授クル所ノ守札ヲ以テ本人ノ霊主二添テ永ク莫 第十十条他ノ宗派ヲ討破シ或ハ他ノ講社ノ者卜埼關ノ弊生セサランコトヲ要ス 十九八 84 教導職期における神社の活動一大宮氷川神社と周辺神社の活動を巾'L、に- り、この条文は各村神社と地域住民との結節を目的としていた事がわかる。 二節でも見た様に郷村社の神社は「人民ノ信仰」如何によって、神社の存在が左右される状況にあった事を考え ると、各地域の神社祠掌たちが渓教会の講を各地域で結成させる事の意義は、一つに大宮氷川神社という大社に帰 属する神社としてとの繋がりを持つことが出来、二つには各村の神社へ人々を集めさせることが出来るというメ リットがあったと考えられる。 また、次の第十条では、元々設けられていた各地域においての教典講義をする為の会議所設置項目が削除されて いる。これには、膜教の講義を大宮氷川神社でのみ行うことによって、大宮氷川神社に各地域の涙教会に属する 人々を集中させようとする狙いがあったと考えられる。 一ハ】 (調) このような、動向に関連して大宮氷川神社でも次の様な動きが見られる。 【史料一 (筆者註l明治八年一月)八日快晴 「四五日以前より御神楽殿拝見所ヲ涙講中集会二定候由二て、右講中之者参詣之節ハ同所二於て直良会致候由 ナリ」 (弱) 【史料一七】 ママ (筆者註l明治九年三月)十四日 「此度潔事教会之旗当家之門前より少し脇へ寄せ建候」 85 【史料一六}はそれまで神楽殿拝見所として利用していた場所を、旗教会の講集会所として設定しており、【史料 一七]では、東角井家の門前に涙教会の旗を立ている様子がうかがえる。これらの動きからもやはり、旗教会の拡 への入会促進で得た大宮氷川神社への信仰 大と共に大宮氷川神社への参拝者増加を企図していたということが考えられる。 〈弱) 会 (二)漠 謨教 教〈 【史料一八】 官幣大社氷川神社御神伝旗事教会二加入致シ、時々拝参仕候毎二、窺二以為御本社井御構等如何二も狭院ニシ テ御神事御祭典ノ節、御差支之御容姿県郷社ニモ不及御体裁と奉恐察候、依之依願ハ私共教会中同志申合、教 会他ノカヲ借ラズ、各分二随ひ尽力仕悉皆御造営申上度奉存候、尤官国幣社御造営御修復等総テ朝廷二於テ 御規則も被為在候義者、兼々拝承仕居候得共、私共信徒之志願御憐察被下度御聞届相成候ハや百事朝廷之御 指揮ヲ伺上従事仕度一同之懇願二御座候間、何卒願之通り御聞届相成候様其御筋へ御進達被下度、此段奉願上 候也 明治九年 涙事教会惣代 埼玉県第十七区武蔵国足立郡鴻巣駅百三十四番屋敷平民 教導職試補島田伊左衛門(印) 同県管下第廿四区同州同郡辻村戸長長澤平左右衛門長男 86 教導職期における神社の活動一大宮氷川神社と周辺神社の活動を中心に- 教導職試補長澤源吉(印) 同県管下第十九区同州同郡上尾村戸長遠山幸七長男 教導職試補遠山忠七(印) 同県下第十七区足立郡糠田村七十番屋敷 訓導河野権兵衛(印) 副戸長長嶋清松(印) 同同六十八番屋敷 官幣大社氷川神社大宮司県兼権大教正平山省斎殿 同少宮司権少教正穂積耕雲殿 旗教会の拡大活動がどの様な結果をもたらしたのかを【史料一八}から見てみたい。この史料は、一八七六(明 教会の入会者の手によって造営希望していることがわかる。この志願書は一八八七(明治一○)年三月に、平山大 他ノカヲ借ラズ、各分二随ひ尽力仕悉皆御造営申上度奉存候」と、国費によって賄われる大宮氷川神社の造営を旗 治九)年に涙教会員から提出された、大宮氷川神社の造営志願書である。傍線部には「私共教会中同志申合、教会 I 宮司 より埼玉県令へと提出され、その文中にも「本社信仰涙事教会之者共申合、悉皆御再建仕差上度旨出願仕候 (中略)尤願人共申合即今金一万円備置候得共、尚不足之分ハ同志申談調金仕(中略)一切官費ヲ不奉仰」と、涙 教会が「本社信仰」と大宮氷川神社を信仰する教会であることが記され、また造営費として「金一万円」を準備し 87 ていることが分かる。その後、同月二二日には埼玉県令より内務省へと提出されるが、内務省からの返答には「人 (調) ’ (銘) 民限り造営之儀ハ難及詮議、尤再建ノ為メ崇敬上ヨリ寄附献金ノ筋ヲ以願出候ハミ其県見込相添更二可伺出」 と、膜教会員による造営は認められず、その後再度の申請が一八八○(明治一三)年に提出され、大宮氷川神社の 造営が国費によって決定するといった経過をたどる。 このような、涙教会員からの志願書の提出は、大宮氷川神社自体を信仰しているからこその動きであり、素菱鳴 尊の神事にもとづく旗教会へ入会させたことが大宮氷川神社への信仰として結びついた結果であると考えられる。 以上のような大宮氷川神社と周辺神社の活動が、一八七九(明治十二)年、平山省斎による大成教会設立(穣事 教会はその傘下に属することになる)に結実することになるc同年に平山省斎によって設立された大成教会に関す るものとしては、次の表を見てみたい。 【表⑤]は、大成教会の創立委員として大宮氷川神社の旧神主である西角井の名前が含まれている。更に大成教 (犯) には旗教がその一部に属していたことから、それまで涙教会員として大宮氷川神社に参拝を促した祠官・祠掌達も 大成教会に入会している事が確認できる。 このような動きからも、涙教を含む大成教会といった教会講社の更なる拡大を企図していたことが読み取ること ができ、地域の人々の信仰を大宮氷川神社へとより一層集約させようとした狙いがあったと考えられる。 しかしながらこのような活動も、政府の政教分離政策を採る政府によって、一八八二(明治一五)年には官国幣 社の神官教導職廃止、一八八四(明治一七)年には府県社以下神社神官教導職廃止が発せられ、神社における教会 講社の活動は行うことが出来なくなる。では、その後の神社の動きはどの様であったのかについて簡単に触れてお きたい。 88 辺神社の活動を中心に- 教導職期における神社の活動一 新潟県有志総代 水野忠輔 花六位 桜井能監 中教正従五位 土屋寅直 中教正従五位 永井尚服 少教正従四位 井上正直 少教正従五位 板倉松聖 椎大講義 東宮千別 中講義 村越鉄善 中講義 熊谷東洲 少講義 黒川常徳 権少識義 川尻義裕 訓導 横尾信守 訓導 三谷謙翁 大講義 亀掛川政隆 権大講義 西角井正一 少教正従諏位 大給近悦 少教正従五位 細川利永 椛少教正従五位 松平頼位 権少教正従五位 牧野忠泰 少教正 磯部鼠信 少教正 秋山光條 椛少教正 穂積耕雲 正七位 八木彫 正七位 尾越蕃輔 二等属 中村秋香 四等属 宇都野正武 七等属 野沢俊元 権大講義 斎藤多須久 少講義 湯沢義路 権少講義 阿久津盛為 少講義 小川実 大講義 重野七郎 大講義 山田方雄 少講義 花井豊臣 権少講義 藤井重容 馴導 三浦恭満 (埼玉県立文瞥館マイクロフイルム収蔵史料 5427(年代不詳)「本教大成教会創立会貝」より作成) 89 (杣) 神奈川県 戸田忠至 従四位 皇大神宮大麻頒布之儀ハ、素ヨリ深ク注意ヲ尽シ、其拝受者ヲシテ真二信仰ノ念ヲ振起セシメ、毫モ不都合不 群馬県有志総代 正四位 埼玉県下大麻頒布事務所 埼玉県有志総代 諏訪忠誠 体裁無之様保護致スヘキハ無論之儀二候処、猶今般改正二際シ一層御配念可有之、此段予テ申進置候也 華族 本居豊頴 中教正 粕壁宿松園恭光殿外御中 華族 平山省斎 権大教正 明治十六年一月 大教正 【史料一九] 【表⑤】大成教会創立会員一覧 (蛇) 教導職活動の停止後における大宮氷川神社と周辺神社の活動は、皇太神宮大麻の配札活動が中心となり、埼玉県 下の大麻頒布事務所は西角井家内に設置される。その大麻頒布活動は、【史料一九一傍線部のような神社への信仰 (縄) を振起させるものとしての活動であり、教導職期と同様に大宮氷川神社と郷村社の祠官・祠掌達との連関した活動 であったことが伺える。これは、教導職期の大社と郷村社の連関した活動がその後に活かされていることを示して いしよ、つ◎ おわりに 最後に、本稿で検討してきた神社の動向についてまとめておきたい。教導職期における大宮氷川神社と周辺神社 の活動については、その教化活動である、説教活動と教会講社の活動とを比較した場合、教会講社(膜教会講中の 結成)を介した教化活動に力点が置かれていた。また、地域の人々を涙教会に参加させることは「三条の教則」基 づく講義による教化活動である一方で、一義的には、教本に見られた教義内容や実践方法から大宮氷川神社や周辺 神社への信仰を振起させるためものであったとみる。そのような活動の背景には、明治初年の神社制度による、大 宮氷川神社への説教参加者数から推察しうる信仰の減少や、それ以下の郷村社の存在自体が「人民ノ信仰」如何で 左右される状況におかれていたことが挙げられる。それゆえに、まず大宮氷川神社と周辺神社の神職たちは、「仲 越社の維持・運営方法を協議するとともに、大宮氷川神社と郷村社との連関した組織的な活動 間一統 統」 」と とな なっ って て郷 郷村村 基盤を設けるにいたる。 そのような連関した動きは、教導職期の活動にも発揮され、樮教会の入会促進には、大宮氷川神社だけでなく、 90 教導職期における神社の活動一大宮氷川神社と周辺神社の活動を中心に- 郷村社の祠掌たちによる涙教会の結成・拡大が行われた。郷村社の祠掌達が積極的に活動した要因には、涙教の講 を結成させることで地域の人々を郷村社へ集めさせようとする狙いがあった。それは、郷村社の維持・運営の助成 に繋がり、それゆえに郷村社の祠掌達は積極的に樮教の拡大活動に動いたのだと考えられる。教導職期の活動は、 教会講社を介した国民教化活動であり、神道界の勢力拡大と評価されているが、その活動を具体的に見てみると、 教会講社を拡大させる意味には、国民教化とともにまずは神社と地域の人々とを結びつけるといった存続にからむ 現実的な課題への対応がその目的としてあったと考えられる。その拡大活動の結果として、神道界の勢力拡大へと 結実してゆくのである。 (帆〉 よって教導職期における大宮氷川神社と周辺神社の活動は、大社から郷村社が組織的に連関し、教化活動を通じ て神社を存続させていくためのものであったことを指摘したい。 (1)安丸良夫(「文明化の経験l近代転換期の日本」二○○七年岩波書店二一七頁)。その他にも、中島三千男氏は、「大教宣布運 動の進展、教会講社の活動の進展は、必ずしも政府や復古神道のイデオローグが意図した教化政策の貫徹を意味するものでは なかった。(中略)当の国学者・神官にあっては財源的にも、また組織の獲得という点からも、教会・講社の結集を図っていっ た。」とし、教導職期の神社の活動が国民教化の過程ではなく、自己の勢力拡大過程であったことを明らかにしている(「大教 の教導職活動の過程を追った研究には、説教活動を追った藤井貞文「静岡・浜松県下における教導職の活動(上)」(「神道学」 宣布運動と祭神論争l国家神道体制の確立と近代天皇制国家の支配イデオロギーl」「日本史研究」第一二六号五一頁)。神社 「島根県下に於ける教導職の活動」(「神道学」第一二号)「島根県下に於ける教導職の活動続」(「神道学」第百十二号)など 第七五号)、同氏「静岡・浜松両県下における教導職の活動(下)」(「神道学」第七六号)や、出雲大社の動向を追った同氏 91 註 が挙げられる。 (一九九一年神社新報社)など。 (2)阪本是丸「国家神道形成過程の研究」(一九九四年岩波書店)、他にも、神社新報政教研究室「増補改訂近代神社神道史」 (3)森悟郎(『八久伊豆神社小教院叢七V言説・儀礼・参詣’八場Vと八いとなみVの神道研究‐坐(弘文堂二○○九年二四一頁) (4)近世期の大宮氷川神社研究に関しては、靭矢嘉史氏が神職の身分意識を検討した「近世神主と幕府権威l寺社奉行所席次向 上活動を例に」(歴史学研究八○三号一’一六頁)や、「幕末維新期における神主の「支配」認識l「寺社奉行直支配」意識に 着目してl」(「早稲田大学大学院文学研究科紀要」四九輯四一’五二頁)、「近世神主の江戸城年頭独令l大宮氷川神社・府中 六所宮を事例にl」などが挙げられる。 (5)「大宮市史」第三巻中二四’四九頁。 (6)「大宮市史」第三巻中四五頁。 (7)埼玉県立文書館マイクロフィルム収蔵資料西角井家文書九八六六元治元年七月御家名〔永続講積〕金規定御連名帳。 ノ宮大宮氷川神社を事例にl」のみである二史艸」四八号四七’六九頁)。 (8)近代以降の氷川神社研究は神仏分離期における氷川神社の動向を検討した、井上麻衣子氏「神社における神仏分離l武蔵国一 (9)「年中諸用日記」明治四年三月一五日(「大宮市史資料編」三二七三頁)。 (皿)「年中諸用日記」明治五年六月一五日(「大宮市史資料編」三六五○頁)。 (u)「年中諸用日記」明治六年三月十五日(「大宮市史資料編」三四三九頁)。 る大宮司が精選補任きれた人物にが就いた事による影響は、少なからず考えられる。ただしそれのみにおいて神社への参加者・ (吃)大宮氷川神社では、近世期まで三神主家で年番制で取り仕切っていた神主職に祭礼や神社の運営権があった。その神主に代わ を追う必要もあるが今後の課題としたい。 参詣者の減少の要因づける事は出来ない。近世期と明治期においての祭礼の変化や、神社内部の変動への旧神主家の動向など (喝)明治四年五月一四日太政官布告。 (M)明治六年五月一五日太政官布告第飢号。 (巧)この当時の官国幣社以下府県郷社の官費廃止について、阪本氏は「(筆者註l明治)四年五月の「神社改正規則」にいう国幣社 92 教導職期における神社の活動一大宮氷川神社と周辺神社の活動を中心に- あった。(中略)だが、これは国家の財政事悩からいっても、また廃藩による神社の維持主体の変化からいっても到底大蔵省の とは、府藩県制度の存続を前提とした上で、その府藩県(特に藩)の責任によって主に経済的に維持さるべき神社のことで 容認できるところではなかった」として廃止に至る経緯を述べている(坂本氏前掲箸七三頁)。 (恥)明治五年二月二五日太政官布告第五八号。 (〃)明治六年二月二二日太政官布告第六七号。 (焔)もっとも、府県社神官についても明治六年七月三一日達によって「月給ヲ廃シ自今郷村社同様人民ノ信仰帰依二任七給与致サ ル可シ」と府県社神官の給与も官費支給が廃止される。 (四)埼玉県立文書館マイクロフィルム収蔵資料西角井家文響一三二一(明治六年)〔徴兵調・社務所分課外綴〕。 (釦)註8前掲井上氏論稿では、神仏分離期においても大宮氷川神社が各地神社の取調掛になっていたことや、各神社への神拝式授 与など地域神社の指導的存在であったとされる。 (皿)近世期には幕臣で外国奉行なども勤めた人物。明治期に入ると神道への転身を図り、明治十二年には各地に点在する宗教の譲 成」弘文堂一九九一年)また、井上氏は平山省斎の氷川神社大宮司着任に関し、「この年(明治六年l報告者註)には鴻雪爪が 教・淘宮教・天学教・連門教・御岳教などをまとめて、教派神道の一派である大成教を創始する。(井上順孝「教派神道の形 院の経済的基盤をしっかりしたものにしようとする意図があった。」としている(井上前掲書三一七頁)。 琴平神社祠官となり、宍野半は浅間神社宮司になるなど有力な神道家達が各地の神社に配置されている。これをもって、大教 (羽)「大宮市史」第三巻中資料解説二一頁~二二頁。資料解説においても氷川神社に誤教が参拝した事実が触れられている (躯)「大宮市史」第三巻中資料解説一九頁。 が、ここではその意味について言及していくものとする。 (鯉)東宮千別は、天保二年に井上正鉄が創始した漂教の弟子。井上正鉄の死去後、同弟子であった坂田鉄安と別れ、東宮は漂教 吐菩加美識と名称を変え継ぎ、明治一二年には、平山省斎の創始した大成教に所属する事となる。一方、坂田鉄安は惟神教会 旗教と名称を変え継いでいく事となる(井上前掲書)。 (妬)田中義 義能 能「 「神 神道 道十 十三 三派 派の の研究」下巻(昭和六二年第一普房)。 (妬)前掲安丸氏著五三三頁。 93 埼玉県立文書館マイクロフィルム収蔵資料東角井家文瞥一六六八明治七年一○月「譲事神伝式」。 333231 30292827 「年中諸用日記」明治九年五月五日(「大宮市史資料編」三六○五頁)。 「年中諸用日記」明治八年七月二一日(「大宮市史資料編」三六○五頁)。 註”に同じ。 註訂に同じ。 -ーー…ー…ー 「年中諸用日記」明治八年一月八日(「大宮市史資料編」三五七五頁)。 膜教会の講中を大宮氷川神社の講中として、転じ設けようとしていた大宮氷川神社側の意図はくみ取る事が出来る。 実際に、「涙教会結社規約」が「氷川講社結成規約」としてその後利用されていたかについては、現在のところ不明であるが、 埼玉県立文番館マイクロフィルム収蔵資料西角井家文瞥一四一五明治九年二月「氷川講社規約」。 40393837363534 一四年~二○年「大成教会加入願」など。 埼玉県立文書館マイクロフィルム収蔵史料西角井家文書五六六四明治一三年「大成教会教費録」や同家文瞥五四三八明治 埼玉県立文書館所蔵行政文書明三七社寺戸籍部明治一三年七○「氷川神社社殿造営ノ件宮内卿へ進達」。 註記に同じ。 註調に同じ。 埼玉県立文書館所蔵行政文書明三七社寺戸籍部明治一○年「氷川神社再建ノ件内務卿へ内申」。 「年中諸用日記」明治九年三月一四日(「大宮市史資料編」三六三○頁)。 --……ーー… うな活動が可能となる前提として、今回検討した様な明治期の活動の意義があると考えられる。 舎)において、大正期における村の鎮守の活性化に伴い、神社と地域が密接になっていく姿を描かれている。大正期にそのよ (“)近年では国家神道の確立として、畔上直樹氏が「「村の鎮守」と戦前日本l「国家神道」の地域社会史‐坐(二○○九年有志 (鯛)註似に同じ。他にも埼玉県立文書館マイクロフィルム収蔵資料西角井家文書八四六九明治一七年「神宮大麻頒布員」など。 (蛇)註牡に同じ。 書類綴〕。 埼玉県立文書館マイクロフィルム収蔵資料西角井家文書八五一五明治一五年一○月~一七年一二月〔皇大神宮大麻頒布関係 41 へへへへへへへ へへへへへへへ へ 94 戸田有二先生の計 本学文学部史学地理学科考古・日本史学専攻教授戸田有二先生は平成泌年7月8日に逝去された。享年銘 歳。昭和皿年4月岨日生まれ。昭和如年秋田県立鷹巣農林高校卒業後、国士舘大学文学部史学地理学科国史学専攻 に入学。同学部卒業後、昭和駆年に国士舘大学文学部助手兼同大学イラク古代文化研究所研究員となり、昭和認年 に専任講師となる。その後、平成8年助教授、平成Ⅳ年教授となる。 本学においては、文学部鋤周年記念準備委員、同如周年記念準備委員会副委員長、同考古・日本史学専攻主任な どを歴任された。 先生は、古代を中心とした歴史考古学を専門とされ、出身地である東北地方の古瓦を通じた官衙・寺院研究に業 績をあげられた。また、韓国留学を機として百済の古代瓦研究に領域を広げ、百済の瓦工人をベースとして成立し た、日本の飛鳥寺との技術的関連に関する優れた研究も発表されている。近年は、西アジアの調査に参加して東西 交流にも関心をもち、新たな研究分野に挑戦されていた。ここに、謹んで先生のご冥福を祈る。 (勝田政治) 95 考古・日本史学専攻研究室便り ○フレッシュマン・キャンプ 平成二十六年四月六日(日)・七日(月)、一泊二日の日程で、新一年生全員を対象としたガイダンスを秩父 ミューズパークスポーッの森において、実施した。専攻教員六名(勝田・須田・保坂・佐々・玉木・仁藤)と四年 生十名が指導にあたった。一日目は、夜9時まで履修指導を中心にガイダンスを行い、翌日は、ドッジボールの リーグ戦を実施、昼食後自己紹介のあと、西武秩父駅で解散した。 ○三年生学外(卒論指導)研修旅行 平成二十六年五月二十七日(火)から二十九日(木)の二泊三日の日程で卒論指導のための学外研修旅行を実施 した。 今年度は、考古ゼミ(須田先生指導)と文献ゼミ(保坂・佐々・勝田・玉木・仁藤先生指導)の二班に分けて行 動した。 文献ゼミは、全行程貸し切りバスを使用し、五月二十七日(火)朝、大学を出発。中央高速道を通り、まず、諏 96 考古・日本史学専攻研究室便り 訪大社・高島城、さらに松本城・旧開智小学校を見学した。宿舎において「卒業論文作成の手引き」を用い、卒業 論文作成についての全体説明会を実施した。翌、二十八日(水)は、松本市歴史の里にある司法博物館、長野歴史 博物館・将軍塚古墳を見学後、松代町に向かい自由見学(真田宝物館・真田邸・文武学校・旧大本営地下壕・象山 神社・松代城跡・武家屋敷など)を行った。宿舎では、卒業論文個別指導を各ゼミごとに実施した。二十九日 (木)、上田城跡、横川鉄道文化むら、富岡製糸場を見学し、夕方、全員無事大学に到着、解散した。 考古ゼミは、須田教授指導のもと鉄道を利用、奈良市に二泊し、全日、奈良・飛鳥における遺跡などの実地研修 を実施し、二十九日(木)に帰京した。 ○日本史講演会 平成二十六年六月二十七日(金)考古・日本史学専攻及び国士舘大学日本史学会の主催により、日本史講演会を 多目的ホールで実施した。 講演は、長年、長野県松本地方における史料収集やその研究を続けられている、丸山康文氏にお願いした。講演 題目は「長野県松本地方における史料採集と活用l〈弘化二年の取調書上帳〉と〈甚左衛門日記〉を基本として l」であった。 なお、講演に先立ち、本学大学院修士課程二年の香川将慶氏が「武蔵国豊島郡のミヤケに関する考古学的検討」 の題目で研究発表を行った。 ○考古学実習 97 夏期実習八月三日(日)から八月二十四日(日)まで、栃木県那珂川町で実施した。 春期実習二月十一日(水)から三月四日(水)まで、栃木県那珂川町で実施予定。 ○史料学実習 九月十六日(火)・十七日の二日間、梅ヶ丘校舎三十四号館A棟の史料実習室などにおいて、阿部家文書(才野 氏寄贈)を使用して文書整理・翻刻作業を実施した。指導には、保坂智・佐々博雄教授があたった。 【専任新任} 菊池紳一非常勤講師(平成二十六年四月一日) 仁藤智子准教授(平成二十六年四月一日) ○教員異動 【再任】 ○計報 国士舘大学文学部考古・日本史専攻戸田有二教授は、病気療養中であったが、七月八日(火)逝去された。享年 六十八歳。合掌。 98 《二○一四年度考古・日本史学専攻 藤澤優美 日高廉 小山詩織 東祥吾 森一輝 石井秀樹 長谷川将 山口多聞の生涯l飛龍と共にl 松代大本営l計画の背景と全容l 明治時代の日本の食文化 桐野利秋 幕府、西南雄藩における軍制改革 戦時下体制期のキリスト教界の動静 江華島事件の研究 古代製鉄炉の形態1両総地域の製鉄炉の移行についてl 卒業論文表題 横沢友希乃 舟運から鉄道への転換’十代目星野仙蔵を中心として1 氏名 山内祥弘 ” 川村恒星 亀田勇也 加藤春佳 松田佑斗 須藤大貴 若生吏氏 岩井直人 杉田健 福岡愛理 鈴木椋 星亜由美 金子順 久坂玄瑞の研究 横浜の戦災復興事業について 芹沢鴨観の研究 明治天皇と西洋化 源頼朝と九条兼実の関係性 富岡製糸場の工女について 日本占領改革I明治憲法改正の意義l 関東における古墳時代終末期の様相 古代知識の文字瓦 佐倉惣五郎物語の比較 戊辰戦争と庄内藩l降伏と転封阻止運動についてl 日系人たちの歴史とその戦い 縄文時代晩期の耳飾りの研究l北関東地域を中心としてl 卒業論文表題 大河原一樹 明治政府の外交l神戸事件を中心に1 氏名 高橋優輔 100 卒業論文題目一覧 十文字元気 増山奈美 宇田川昌寛 籏禮桃花 堀江駿太 新藤大次郎 渡邊和也 宮原朋美 大西沙耶 道口摩耶 和田悠作 所瑞穂 河野真也子 増田彩花 西宮沙樹 鎌倉時代の天象l武家社会を中心に1 明治時代の祝祭日l小学校式日儀礼と「渡辺清絵日記」l 岩倉使節団と留学生 幕末長州藩の内部対立 拉致問題l世論と風化1 西南戦争における民衆l政府軍軍夫を中心にl 藤原清衡の目指した平泉 京都守護職期の会津藩 竪穴建物の屋内祭祀と民衆の信仰に関する研究 小林多喜二とプロレタリア文学についてlなぜ社会主義思想にめざめたのかl 木戸孝允と征韓論 下総台地における縄文時代の貝塚に関する研究l貝塚の中の漁携・狩猟を中心としてl 寺谷廃寺の諸問題 平塚らいてうの女性思想l母性保護論争を通してl 三国同盟締結の要因 101 柏倉令美 原田智加 森美幸 伊藤利光 入倉若菜 佐藤綾香 中島涼 田続良太 定彩加 角屋千夏子 小野瀬一路 河瀬明香 新渡戸稲造と国際連盟l国際連盟協会と日本への影響l フィリッピン沖の戦いを考えるl佐多直久大佐を中心にl 謎多き法隆寺の研究l若草伽藍から西院伽藍へl 戦後の沖縄における米軍犯罪と人権認識 地震による世直りについてl安政江戸地震、鯰絵を参考にl ペリー来航と日本の医学 菅野直と柴電改 信濃海外協会の設立とその事業 浄法寺廃寺と尾の草遺跡の研究l有稜素弁八葉蓮華文鐙瓦の分析を中心にl 幕末から明治期の八王子千人同心の動向からみる彼らの意識について 持統天皇l採用人事からみる国家形成l 相模国分寺の瓦生産体制l造営期の相模国と武蔵国の関係を中心にl 幕末・明治における会津女性l会津女性たちの生き方l 卒業論文表題 堀川舞 中江兆民とフランスー仏学塾の変遷I 氏名 池田はるか 102 卒業論文題目一覧 中山喜貴 和田巧 石井望 萩原将也 杉本隆文 木村桃子 中島綾 押山藩 沼野瑞季 関口優太 大野裕貴 石渡友樹 原晟 沼野友朗 尾崎杏香 戦中期における自動車製造事業法の成立l日産コンツェルンと他自動車メーカーとの関わりを中心に1 石原莞爾と満州問題 児童雑誌からみる戦前戦中教育l幼年倶楽部に焦点をあててl 西南戦争においての警視隊の役割 家康大御所期の政治lなぜ、駿府政権が存在したかl 近代ホテルの形成l横浜居留地と築地居留地I 木下河岸からみる近世の河岸 近世の人と宗教l民間信仰としての宗教からみる民衆の思想l 近世の飢繊l飢瞳の食樋事情l ラース・ビハーリー・ボースと日本のアジア主義 現代の公害問題l公害がなくなるまでl 「常陸国風土記」に関する一考察lヤマトタヶル伝承を基盤にl 装飾大刀の分布状況の意義と社会情勢 平氏と後白河院の軋礫からなる治承三年の政変 義民物語l加助騒動を通してl 103 宮崎那央 田代将希 伊藤慧 松本美穂 青木翼 教育としての高校野球 幻の東京オリンピックと日本のスポーツ 神仏習合と八幡’二つの史料を題材としてl 日本の瓦伝来期における初期瓦の〃日本化″l初期瓦系統と百済との関連を中心にl 大正十年裕仁親王の訪英 戦後の農地改革l改革を経て高度経済成長へl 卒業論文表題 斉藤飛翔 山口多聞l真珠湾奇襲・ミッドウェー海戦を中心に1 氏名 竹内祐貴 104 執筆者紹介〈掲載順〉 国士舘大学文学部史学地理学科考古・日本史学専攻准教授 仁藤智子 国士舘大学大学院人文科学研究科人文科学専攻博士課程 大庭裕介 国士舘大学大学院人文科学研究科人文科学専攻博士課程 10う 徳永暁 ’ 国士舘大学日本史学会会則 第一条本会は国士舘大学日本史学会と称する。 本会は歴史学を研究し、その啓発と普及に努める 研究室内に置く。 第二条本会は事務局を国士舘大学文学部考古・日本史学 第三条 てあてる。 第八条本会の経費は会費・助成金・寄付金その他をもっ 一 三十一日をもって終わる。 第九条本会の会計年度は四月一日に始まり翌年の三月 付則 することができる。 本会則は委員の三分の一以上の賛成をもって変更 細則は別に定める。 平成十六年四月一日改正。 本会則は平成五年四月一日から実施する。 藤原印刷株式会社 印刷所〒三九○1○八六五長野県松本市新橋七,二一 国士舘大学日本史学会 発行所〒一五四‐八五一五東京都世田谷区世田谷四,二八,一 編集兼発行人国士舘大学日本史学会代表保坂智 二○一五年三月二○日発行 国士舘史学第十九号 四三二 ことを目的とする。 研究会・講演会の開催。 本会は前条の目的を達成するため次の事業を行う。 その他必要な事業。 機関誌の発行。 第四条 一一 本会の会員は左記の通りとする。 一一一 国士舘大学文学部考古・日本史学専攻の学生。 第五条 国士舘大学大学院人文科学研究科人文科学専攻日 国士舘大学文学部考古・日本史学専攻専任教員。 一一 本会の役員の任期は一年とする。 監査二名。 委員若干名(うち一名を代表委員とする)。 本会に左記の役員を置く。 その他入会を希望して委員会の承認を得た者。 会を希望する者。 卒業生及び考古・日本史学専攻の非常勤講師で入 国士舘大学文学部国史学、考古・日本史学専攻の 本史コース学生。 一一一 五 第六条 第七条 一一 四 恥 No.19(March2015) Note AstudyofapoliticalchangeintheearlydaysHeianperiod "Ohten-monnoHen''andapicturescroll .@Ban-dainagonEmaki'' ~Betweendocumentsandmemories~ ToMoKoNito PositioningoftheDepartmentofJusticeinJapanesegovernmentduring theearlyyearsoftheDiet YusuKEOba ActivitiesofOmiyaHikawaShrineandthesurroundingshrinein Kyodos/io☆〃period AKIRATokunaga Repolt 一 KOKUSHIKAN-DAIGAKU-SHIGAKU-KAI 4-28-1SETAGAYA,SETAGAYA-KU TOKYO154-8515,JAPAN
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