1 コラム:医療と法 「医師と法律家の相互理解に向けて」 藤田 眞幸 慶應義塾大学医学部法医学教室・教授 医師と法律家が意見を分かち合うための集いが、本会以外にも、いろいろなところで繰り広げられてい るが、本質的な相互理解は困難なようである。 相互理解を目指すとは言うが、こういった場にやって来る医師の多くが望んでいることは、実は、 「法律」 を理解することでも、「医師の仕事」を理解してもらうことでもない。彼らが理解して欲しいのは、「医師 の仕事」の「専門性」である。つまり、 「専門的」な仕事として尊重して、黙っておいてもらうにはどうし たらよいかということなのである。一方、法律家の意見は、 「法律的には、そうはいきませんよ」という話 である。 このように、医師は専門家の囲いの中に閉じこもり、法律家も、その囲いの外をうろつくだけに終わる のはなぜであろうか。このような集まりでは多くの場合、法律家の間でさえも、意見が分かれるようなテ ーマを選んで、医師と法律家の間で真剣な議論をするようなものが少なくない。もちろん、こういったこ とについて意見を交わすことも重要であるが、このような複雑な系では、専門性の囲いの中に議論が引き ずりこまれ、医師と法律家の考え方の本質的な違いが見えてこない。 法律家に対する医師の理解を深めるためには、まずは、比較的単純な系で、そして、どのような結論に なっても、医師が気にする必要がないような、すなわち、医療とは関係のない話から始めるのがよいと思 う。たとえば、次のような場合を考えてみる。 ある男性が、電車の中で何もしていないのに、女子高生に痴漢だと騒がれて、取り押さえられた。逮捕 され、会社も辞めたが、刑事裁判では、この男性以外に真犯人がいるかもしれないという理由で無罪とな った。やっとわかってもらえたかと安心した、この男性が、女子高生に対して、損害賠償請求の民事裁判 を起こしたところ、請求は棄却された。 彼は、裁判官はとんでもない間違いを犯していると思った。しかし、彼の裁判を担当してきた弁護士に とっては、これは十分予想していた判決であった。一方、彼の会社の同僚の間では、やはり彼は痴漢行為 をやっていたのかということになってしまった。 この男性の側からみてみると、痴漢でもないのに、犯人扱いされて会社も辞め、無罪になったのだから、 当然、かなりの損害賠償請求が認められるはずであるということになる。多くの医師の視点はこういうと ころにある。これは、善良な市民として、当然の気持ちではあるが、一方の当事者の視点に過ぎない。 法律家は、当事者双方の視点で、そして社会的な波及効果などを考えた上で、総合的に判断する。法律 的にみると、刑事と民事では、挙証責任(証明責任)が異なり、刑事事件では「痴漢行為があった」ことが 証明されなければ有罪とはならないが、民事事件では、 「痴漢行為がなかった」ことを証明しなければ請求 は認められない。この場合、いずれも十分に証明されなかったのだから、こういう結果になって当然とい うことになる。しかし、そういった専門的な説明をするのではなく、もう少し、一般市民も納得できるよ うなレベルで考えてみたい。 女子高生の側からみてみると、人違いであれ、被害にあったのは確実である。また、立証できなかった だけで、実は、やはりこの男性が犯人だったかもしれない。犯人を間違った点において大きな落ち度があ る場合は別として、こういった場合に多額の賠償金を払わされることになれば、女性は本当に被害にあっ ても訴えることが出来なくなってしまう。また、いつも完全に立証できるとは限らないので、ともすれば、 本当の犯人に対してさえも、賠償金を払わされることになりかねない。こうしてみると、この判決は、無 1 実の男性にとっては理不尽であるが、多額の賠償金を女子高生が払わされるという判決にも問題があるこ とがわかる。つまり、損害賠償請求を棄却するのは、社会的には、ある程度妥当な判決ということになっ てしまう。そして、気の毒ながら、男性は、こういう力学を知らない同僚や一般市民に白い眼で見られる わけである。 私は、もちろん、このような男性がどんどん出現するのがよいと言っているわけではない。しかし、こ のような構図で、何も悪くない医師が、何もおかしくない法律家によって、全く理不尽な結果に追い込ま れる可能性があるということを、医師も十分理解しておく必要がある。また、場合によっては、この男性 の名誉のみを救済するという意味で、女子高生にも落ち度があったとして 10 万円払えなどという判決もあ り得るということも知っておく必要がある。 この男性を主人公としてのみ話し合いをすれば、男性医師の間では、法律家はやはりおかしいという理 解に終わるかもしれないが、女性医師に、この女子高生を主人公として話し合いをしてもらえば、法律家 の考え方が見えてくるかもしれない。 医師と法律家が歩み寄るためには、意見をともにしても差し支えないような題材から議論をするのが よい。医師と法律家が真っ向から対立するような議論は、お互いの考え方が十分理解できるようになって からでも遅くない。 医師の側も、法律家に自分達の仕事について理解してもらうには、医事紛争の相談をするばかりでなく、 まずは、簡単な話から始めるのがよい。患者に説明するときに、心がけている注意点や、よく患者が勘違 いすることなど、法的な利害から離れて、話し合ってみるところから始めるのがよいのではないだろうか。 2
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