1 コラム:医療と法 「医療と法と倫理」

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コラム:医療と法
「医療と法と倫理」
樋口 範雄
東京大学法学部・大学院法学政治学研究科教授
アメリカの医師国家試験の模擬問題に出会って本当に驚いたことがある。問題は、若い男性が交通事故
に遭って救急車で運ばれたが頭部を強打しており、人工呼吸器を付けられたものの、すべての基準に照ら
して脳死状態にあるという前提だった。サイフの中から臓器提供カードが発見され、そこには臓器提供の
意思がはっきりと示されていた。ところが駆けつけた家族は臓器提供を拒絶した。以下の 4 つのうちどれ
が正解か。
a.
臓器を取り出して移植する。
b.
患者の鼓動が停止するまで待ってから臓器を取り出す。
c.
その家族の反対を封じるために裁判所命令を申し立てる。
d.
家族の希望を受け入れ、臓器提供は行わない。
アメリカではいずれの州においても法律上、脳死が死と認められており、臓器移植については自己決定
が最重要とされている。言い換えれば、法律的には、本人の移植の意思が明示されている限り、家族の反
対は効果を持たない。したがって、これが司法試験なら明らかに正解は最初の a である。
ところが、医療倫理を問うための医師国家試験での正解は最後の d だという。これはいったい何を意味
するのか。
①法律通りにやればよいという医師は、試験に受からない。言い換えれば、a を選んだ学生は医師には
なれない(弁護士にはなれるかもしれないが)。
②法と医療倫理は明確に異なる。ただし、これは法に何の意味もないということではない。家族がいな
い場合もあるし、本件のような場合なら、家族も本人の意思を尊重しようとするケースが多いだろう。さ
らに、少なくとも医師が本人の希望を入れて移植を認めてくれるようお願いすることまで非倫理的とする
わけでもない。
③しかし、この問題が、医療において法でルールが定まればそれで終わりとするわけでない点を示すと
ころが最も重要である。法は、いわば最低限度のルールを定めるだけであり、本件の場合、法律の定めを
優先して移植を強行しても、少なくとも法の違反には問われない(医師には免責が認められる)。そしてそ
れはそれで意味のあることである。しかし、医療倫理は、その上を目指すべきだと教える。おそらくそれ
は次のような配慮を要求する。
イ)医療とは、医師と患者だけが当事者ではない。一方では、医師以外の医療者も関わることが多く、
他方では、患者サイドにもさまざまな事情がある。多くの場合、家族がいるし、しかもその家族もさまざ
まである。それぞれの経済的状況も大いに異なる。患者の生死は、家族にとっての一生の大事でもある。
それらをすべて医師が理解して配慮することまではできないかもしれないが、少なくとも、医師と患者だ
けを考え、患者の自己決定という単純な公式で医療を行うだけでは済まないと、医療倫理は教えている。
ロ)さらに本件の場合は、移植が問題となっているために、他に医療の恩恵を受けようとする患者がい
ることも忘れてはならない。ここで家族の希望を優先することは、患者本人の意思に反するばかりでなく、
誰ともわからないが他の患者の希望を絶つことにもなる。だが、そのような点を勘案してもなお、現代の
アメリカの医療倫理では、家族の反対を退けてまで移植すべきでないという。そのような見方は今後変わ
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るかもしれない。だが、今のところそれは、このような正解 1 つの選択肢問題にできるほど明確な医療倫
理なのである。
日本の状況を考えてみる。この問題に即していえば、アメリカの医療倫理が指し示す回答は、日本の臓
器移植法が示す回答である。逆にいえば、日本では、法と倫理が一致しているということなのだろうか。
そして、それは喜ぶべきことなのだろうか。
終末期医療であれ、生殖補助医療であれ、わが国では医療倫理の問題について、法を制定せよという声
が大きい。医師の中にもそういう人がたくさんいる。それを「医療の法化」と呼ぶとすると、一見それは
まさに医療倫理と法を一致させようとしているように見える。あるいは、まったくそうではなく、もしか
したら医療倫理の問題は考えたくないので、法でとにかく明確に画一的に正解を決めてもらいたいという
声のようにも聞こえる。
法で一定のルールを指し示しても、なお現場の判断で、あるいは個別の事情に応じて例外を認めるような
別種の規範(医療倫理という別の体系)が存在する社会の方が、ゆったりとした余裕のあるもののように
私には思えるのだが。
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