1 コラム:医療と法 「医師の常識と法律家の常識」

1 コラム:医療と法
「医師の常識と法律家の常識」
藤田 眞幸
慶應義塾大学医学部法医学教室・教授
医療関連死の問題が大きく取り沙汰されてから、もう十年余りになるが、多くの医師から、自分たちの
仕事に対する社会の理解が不十分であるという声が聞こえてくる。
医師が期待するような理解を社会がしてくれない理由には、一般市民や法律家に十分な医学的知識や医
学的常識が備わっていないということもあるが、医師の常識が社会の常識や法律家の常識とは、かなり異
なることがあげられる。
医師の常識の根本は、患者の治療を最優先に考え、そのためには、どんなことを犠牲にしても正しいと
思って、疑わないことにある。それは、医師自身の私生活や健康さえも例外ではない。問題は、いつもそ
うやって仕事をしているために、患者や社会の側も、自分たちの活動にすぐに理解を示し、協力してくれ
て当然だと思い込んでいる点にある。
たしかに、こういった医師の常識が、社会によって半ば無条件に尊重されてきたからこそ、医師は医療
に専心できてきた面がある。しかし、一般社会であれば、本来は、念入りな交渉や納得のいく説明が必要
なはずの状況でさえも、もっぱら「人の命を預かっていますので」の一言で、結局は済ませてきたために、
社会的な面では成長していない医師がいるのも事実である。
そういう彼らが医事紛争に直面した場合、これまでのようにはうまくいかない。患者が死亡すると、そ
ういった常識は通じなくなる。もう、「人の命を預かってはいない」からだ。
多くの医師は、医事紛争を医学的な問題だと思って、医学的な説明で解決しようとするが、紛争自体は
社会的な問題であり、その解決には、社会的な常識というか、感覚が必要である。
一般社会では、法律家といえば、法律を盾に相手を攻撃する人たちだと思われているが、法律家の本当
の役割は本格的な争いそのものを回避することにある。
「 こういった場合は死亡するのが普通です。治療上、
全く問題はありませんが…」と最初から自分たちの正当性ばかりを強く主張することが、法律家のやり方
だと思っている医師も多いが、これは、社会的感覚に乏しい医師が陥りがちな誤りである。
法律家は、まず相手の言い分を十分に聞くところから話を始める。いろいろと責め立てる遺族もいるが、
最大の言い分、つまり本音は、実は「大切な家族を失って悲しい」というところにある。なのに、これに
医師が共感を示さないで、
「 死亡したのは(医学的に)当然だ」と迎え撃ったのでは、うまくいくはずがない。
一生懸命治療に取り組んできたのに責められて、怒る気持ちもわからないではないが、問題の解決にはつ
ながらない。裁判でも、
「ばかな質問、いいかげんやめてもらえますか」と繰り返す医師がいるが、裁判は
納得のいく説明が求められている場なのだから、こういう態度では反則負けとなるのが社会の常識である。
法律家の仕事は、自分たちの主張を社会的に通すところにある。裁判に勝つとはそういうことだ。そこ
で求められるのは相手を攻撃する能力よりも、相手側の言い分をよく聞いた上で、相手を、そして社会全
体を納得させる力である。
裁判官は、納得しない者がいることを前提に考える。そのためには、医師からすれば当たり前のことま
で、しっかりと検証する。その姿は、善良な医師の目には、理解のない者、いや悪意のある者にさえ映る
かもしれない。だが、民事裁判のように原告と被告が対立する図式の中では、一方の言い分だけが無条件
に認めてもらえるはずがない。多くの医師は、いつも、
「私はちゃんとやっているのに、なぜ納得しないの
か」と怒るばかりであるが、それでは、医師の常識の世界から一歩も外に出ていないことになる。
一方、
「社会はなかなか納得してくれない、だから納得してもらうために全精力をつくす」というのが法
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律家の常識である。
私は「医師の常識」を非難しているわけはない。
「熱心に取り組むことと引き換えに、簡単な説明で、自
分たちの活動を社会に受け入れてもらう」、これは専門家に共通する常識であり、医師だけに限ったことで
はない。一般市民には簡単に理解できないことをやっているのが専門家なのだから、この常識が認められ
なければ、専門家はたいへんである。ただ、他の専門家と違って一般市民と深く接することの多い医師は、
この常識に頼ってばかりではいられないことを知っておく必要がある。
そもそも医師は患者に説明するのが上手いと思ってしまう傾向にあるが、医師を信頼しているから通院
してくる患者に説明するのと、医師を疑っているから何度も病院に来る遺族を納得させるのとではわけが
違う。
法律家は、納得していない人、いや納得しない人たちを、納得させる専門家である。医師はそういった
専門家ではないことを自覚して、法律家から学び、知恵を借りる必要がある。しかし、法律家といえども、
医師を納得させることは困難なようである。二つの専門家が寄り添って、お互いの理解、そして社会全体
の理解を深めていくことが今後の大きな課題ではないだろうか。
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