古記録にもとづく宝永東海地震と 富士山宝永噴火の推移分析 小山研究室 総合科学専攻3年 小川聡美 研究目的 宝永東海地震・富士山宝永噴火(1707年)に関する近世史料 は豊富であるが、そのほとんどにおいて活字化がなされてい ないため、これまでの研究例は限られている。それらの非活字 化史料を活字化し、噴火・地震の推移を分析することは、過去 の災害の実体をさぐる上で非常に重要である。 そこで、本研究は、それらの良質史料である『江戸幕府日記』 『外宮子良館日記』『蔵人日記』などの草書体原文を読み、そ こに記録された宝永東海地震・富士山宝永噴火に関する記録 をさぐることを目的とする。 研究方法 神宮文庫所蔵の『外宮子良館日記』『蔵人日記』のほ かに『江戸幕府日記』などの近世史料を読み、その中 に見られる地震・津波の記録を拾い上げる作業を行い、 宝永東海地震・富士山宝永噴火の推移について分析 する。 また、それらの史料に関する過去の研究についても検 証していく。 神宮文庫 神宮文庫とは、外宮の文書庫で あった豊宮崎文庫と内宮の林崎 文庫の所蔵文献をはじめとして 両宮の神官たちによって記され た文書類も含めて、明治四年 (1871年)に創立された伊勢神宮 の総合文書館である。 研究対象① 『外宮子良館日記』 三重県伊勢市の外宮にあった「子良館」において歴代の神官 が書き継いだ日記であり、208年の長期間に渡って、有感地震 や天候などが記された。 東海地方での地震の長期的傾向を見ることができる貴重な資 料であり、ほかの史料と合わせて東海地震の規則性を探るこ ともできると考えられる。 研究対象② 『浦田家文書 蔵人日記』 神宮文庫に所蔵されており、『外宮子良館日記』と類似している が独自の内容を含み、『外宮子良館日記』筆者以外の伊勢神宮 の関係者の記録と思われる。 『江戸幕府日記』 江戸幕府で長年にわたって記録された、公用日記。 行事の記録や、日々の出来事が記録されている。 古記録を調べた地点 (小山,2004) 東京『江戸幕府日記』 下伊那 伊勢 『蔵人日記 浦田家文書』 『外宮子良館日記』 宝永東海地震 宝永地震は、宝永4年10月4日(1707年10月28日)、 中部、近畿、四国、九州の広い地域にまたがり、東海・東南海・ 南海地震が同時に発生し、地震の規模はマグニチュード8.6と 日本最大級の巨大地震と推定されている。 地震による建物の倒壊と津波による被害は甚大なものがあっ た。宝永地震による倒壊家屋は、東海、近畿、中部、南部、四国、 信濃、甲斐の国々で多く、北陸、山陽、山陰、九州にも及んだと いう。特に近畿地方内陸部の揺れは激しく、記録によれば倒壊 家屋1800余戸、死者500余人となっているが、当時の人口か らすると甚大な被害をもたらした地震といえる。 富士山宝永噴火 宝永地震から49日後の宝永4 年(1707年12月16日)、富士 山で大噴火が起こった。この噴 火による溶岩の流失はなかった が、火山礫・火山灰を大量放出 し、約100Km離れた江戸にも 大量の火山灰を降らせた。 このときの噴火口は東南斜面 に第一、第二、第三宝永火口が 並んでいる。 その時できた山は宝永山とも呼 ばれている。 宝永火口(富士山自然探訪) 過去の研究例① 三重県伊勢・長野県下伊那などの西方遠隔地で書かれた 1707年宝永富士山噴火の目撃記録 (小山・西山,2005) 西方遠隔地で書かれた史料の分析は、壊滅的被害を受けた地 元の史料が乏しい中で、地震・噴火の状況の記録があり、貴重 である。→分析することは有意義である。 伊勢の2史料『外宮子良館日記』『蔵人日記』については、伊勢 での地震の状況のほか、江戸から伊勢への道中での富士山近 辺地域の状況や、火柱や火山弾などの描写や、小田原などの 被災状況、噴火に伴う地震の体験談が書かれている。 過去の研究例② 『外宮子良館日記』に記録された有感地震について (都司ほか,2005) 日記に記録された伊勢地域での有感地震の記録の分析を行い 規則性について、調べている。この日記の中に2つの巨大海溝 型地震(1707年宝永東海地震、1854年安政東海地震)の記録 を見つけた。 今後の課題 ①草書体原文の史料を読む練習を行い、『外宮子良館日記』 『浦田家文書 蔵人日記』『江戸幕府日記』を活字化し、 宝永東海地震・富士山宝永噴火についての記録を拾い上げ 推移分析を行う。 ②ほかの研究例を詳しく学ぶ。 ③拾い上げた記録と、過去の研究例を照らし合わせ、 検証を行う。 ④史料地震学についての知識を増やす。
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