飛騨高山 の歴史 飛騨高山 の歴史

飛騨高山
の歴史
市内から見た乗鞍岳
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近隣九町村と合併、新高山市となる︵2005︶
大八賀村と合併︵1955︶
上枝村と合併︵1943︶
大名田町を合併し高山市となる︵1936︶
明治以降
高山線が全通する︵1934︶
高山町と灘村が合併する︵1926︶
高山一之町村、二之町村、三之町村が合併し高山町となる
︵1875︶
飛騨国分寺の三重塔が建つ︵1821︶
大原騒動おこる︵1773︶
幕府直轄地時代
高山城、幕府の命により取り壊される︵1695︶
金森氏、出羽国上ノ山に転封される︵1692︶
高山城の築城・城下町の整備始まる︵1588︶
金森長近、三木氏を滅ぼし飛騨国主となる︵1585︶
金森氏による藩政時代
高山外記が天神山︵現在の城山︶に城を築く︵1504∼︶
白川郷中野に照蓮寺が建つ︵1504︶
安国寺の経蔵が建つ︵1408︶
平安時代∼戦国時代
姉小路家綱、飛騨国司に任ぜられる︵1334︶
奈良時代
飛騨の匠、都へ
国分寺が建つ
飛騨に国司・郡司がおかれる︵645︶
飛驒高山
両面宿儺の乱︵377︶
堂之上遺跡
縄文∼古墳時代
飛騨国分寺
御殿風の城 高山城復元推定図
高山陣屋
■平安時代∼戦国時代
平安時代、飛騨は平家の支配を受け、鎌倉時代には高山市北方の国府町周辺に政治の中心地が移ったといわれる。
室町時代になると、京極家の被官多賀徳言が文安年間(1444∼)天神山城(多賀山城ともいう。現在の城山
(P.11)
を
築いた。後、永正年間(1504∼)高山外記(たかやまげき)
が天神山に城を築き、城の近くを高山と呼ぶようになったとい
う。
戦国時代になると飛騨も群雄割拠の時代となり、
その中で三木氏が飛騨を手中に収めた。
しかし、富山の佐々成政と同
盟したため、豊臣秀吉は越前大野城主であった金森長近に飛騨の攻略を命ずる。長近は三木氏を攻めて、
1585年に飛
騨を制圧した。
■金森氏による藩政時代
太平洋戦争終戦︵1945︶
第一次世界大戦︵1914︶
日露戦争︵1904︶
大政奉還︵1867︶
江戸幕府開府︵1603︶
豊臣秀吉が全国統一する
︵1590︶
室町幕府が滅ぶ
︵1573︶
建武の新政︵1334︶
鎌倉幕府開府︵1192︶
平安京遷都︵794︶
平城京遷都︵710︶
大化の改新︵645︶
日本
1586年、金森長近は飛騨国3万3千石の国主となり、
ここから金森氏6代、
107年の政治が始まる。関ヶ原の戦いで
は徳川方について前線で戦い、美濃国と河内国にそれぞれ加増を受けている。飛騨に入国した長近は高山城の築城を15
88年から始め、以後およそ16年をかけ城を完成させた。記録には
「日本国中に5つとない見事な城」
と残っている。
また、城と同時に城下町の整備も行われている。城を取り囲むように高台を武家地とし、一段低いところを町人の町とし
た。
この町人町が現在の
「古い町並(P.10)」
の元となった。
また、町の東側に寺院群を設けており、東山遊歩道(P.11)
を歩
くことでこれらの寺々を巡ることが出来る。
これとは別に、城と向かい合わせる形で照蓮寺(現在の高山別院 P.13)
を設
置するなど、今日の高山の基礎が作られた。
高山における金森氏の政治は、
1692年、金森氏が出羽国上ノ山に転封されたことにより終了した。
■縄文∼古墳時代
■幕府直轄地時代
高山には縄文時代の遺跡が数多くある。高山の縄文文化は、信州・東海・北陸方面からの影響を受け、土器に様式を取り
入れるなど複雑、華やかに発達した。国史跡に指定されている堂之上(どうのそら)遺跡(P.21)
を始め、高山市内各地域か
ら美麗な土器や異形の石器が発見されている。
『日本書紀』
には、仁徳天皇65年(377年)
に飛騨の両面宿儺(りょうめんすくな)
が天皇の命に従わなかったとして、朝
廷の軍勢によって討伐されたとある。
この両面宿儺は飛騨大鍾乳洞(P.19)
にある出羽ヶ平に住んでいたという伝説があり、
千光寺(P.18)
には円空などによる彫刻の宿儺像が祀られている。
幕府直轄地となった後、
1695年に幕府から高山城破却の命令が出され城は取り壊された。現在は
「高山城跡」
として
県史跡、天然記念物に指定され、緑豊かな城山公園となっている。
1771年、第12代代官として飛騨を治めていた大原彦四郎の圧政により、足掛け18年にもわたる農民一揆が起きた。
この騒動の中で9千人余りの農民が罰せられ、若き指導者本郷村善九郎ら多くの農民代表が犠牲になった。
しかし、郡代の
政治不正も問われるところとなり、彦四郎の子である大原亀五郎郡代は流罪となった。
善政を尽くした代官・郡代もおり、
19代郡代大井帯刀(たてわき)
は天保飢饉の際に領内で救済措置を講じた。
また20
代郡代豊田藤之進は渋草焼(P.27)
を起こし、養蚕を奨励した。
■奈良時代
645年の大化の改新において税制が確立した頃、飛騨では優れた飛騨の匠の技(P.27)
を、
中央政府が都の造営に活用
する制度を作り、
その替わりに庸・調といった税を免じた。制度の仕組みは、家50戸ごとに10人ずつを労役として割り当
てるもので、飛騨からは毎年100人前後が都へ行ったとされ、宮殿や門、寺院などを造る仕事に携わっている。
日本最古の
歌集「万葉集」
の中に飛騨人を詠んだものがあり、木工技術者としてその名は広く知られていた。
さらに都で得た建築技術
により飛騨の匠の名声は益々高まっていった。
飛騨には、国分寺(P.13)
を始め古代寺院が多い。現在の国分寺本堂建物は室町時代の建築だが、下層には奈良時代の
金堂建物跡が確認されている。
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初代 高山城主 金森長近
■明治以降
明治維新後、町村制の導入により明治8年(1875)に高山一之町村、二之町村、三之町村が合併して高山町となった。
当時の岐阜県では一番人口の多い町であった。明治22年(1889)に、15,385人で新しい町制が実施され、大正15
年(1926)に灘村を合併、昭和11年(1936)に大名田町を合併して高山市となった。その後、昭和18年(1943)に
上枝村、昭和30年(1955)に大八賀村と合併し、平成17年(2005)に近隣9町村(丹生川村、清見村、荘川村、宮村、
久々野町、朝日村、高根村、国府町、上宝村)と合併して、新高山市が誕生した。
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