国史跡上 野城跡 ・ 城代 屋敷跡 伊 質市教 育委 員会 上 野城 の歴 史 くにしせきうえのじょうあと 国史跡上 野城跡 は、上 野盆地 のほぼ 中央部 に位置す る標高 1 6 0 ∼1 8 0 m の 丘 陵 に築 かれた ひらやまじょう て んしょう やまとこおりやま つつい さだつ ぐ tヽほ う 平 出城 です。天 正13年 (1585)に大 和郡 山よ り伊賀国へ 移封 された筒井定次 によ り丘 陵最高 所 に本 丸が造 られ、本丸北東 に三 層 の 天守 が建 て られ ま した。筒井天守跡 の 音卜 再(1936),こ 酉己 ガく ゴヒ西倶Jには昭禾日11左 ゴヒ に天守 が所在 し 池が造 られ、その南倶」 た こ とを記す石碑が建て られて い ます。 にのうほう と う 慶長 1 3 年( 1 6 0 8 ) に 新 たに入封 した藤 堂 高虎 によって、上 野城 は大 きな変貌 をとげます。従来 は豊 臣方 の城 として の役 目を担 った上 野城 は、江戸開府後 は逆 に西 の豊 臣方 に対す る備 えを任務 とす るよ うにな り、郭が新 たに西へ 拡 上野城遠景 うちぼり た かいしがき 張 され、そ こに 内堀 や 高石 垣 に囲 まれた本丸 が新 たに設 け られま した。本 丸 ほぼ 中央 には 五 層 の 天 守 の 築造 が 始 ま りま したが 、完 成 暴 風雨 によ り倒壊 直前 の 慶長 1 7 年 ( 1 6 1 2 ) に しま した。や がて 、慶長 1 9 年( 1 6 1 4 ) の 大坂 ムゆ じ ん ば んながz/t なつ じ ん と くがわ 冬 の 陣 、元 和元年 ( 1 6 1 5 ) の 夏 の 陣 で 徳 川方 が 勝利 を得 た ことによ り、藤堂藩治世 下 で は 天 守 閣 は 再 建 の 機 会 を失 い 、 昭 和 1 0 年 ( 1 9 3 5 ) に故 川 崎克 氏 によ り復 興 天 守 ( 伊賀 文 化 産 業 城 ) が建設 され るま で 、天 守 台 の 石 垣 だ けが 残 され ま した。 そ の た め、寛永 1 7 年 ( 1 6 4 0 ) 以 降 の 藤堂藩 によ る伊賀 国 の 治世 は、筒井 時代 の 本 丸跡 に設 け られ た 城代屋敷 で政務 が 執 り行 わ れ ま した 。 上 野城代職 は 代 々 藤堂采 女家 が 勤 【 奥向建物西側 ・南から】 城肉絵図)と焼 捉 協 た遺構 絵図 1徳 揮 カオ:ゴ 押 【台所門西側石垣 ・西から】 夢 軍桟良 証捧 ⋮≡ ・ 直 い状 ■! 一 蝉 ! 一 帥い 一 riず 1労│ 方 向 の 異 な る南 北 方 向 の lH列が 2列 校 出 され ま した。 西側 は台 所 llll lll側 柱 コ1、束側 が 奥 向建 物 内側柱 列 に相 当 します 。台所 IⅢ 北 側 に 向か う L字 状 に ll山す る百組 沖iも枚 出 され て い ます 。 【台所門東側石組溝 ・ 南か ら】 【南側周縁建物群 ・ 北から】 繊 クラレ ク状 に屈曲 した在i細満で、方形の割石が 使われています。 【台所棟 北 側 土 塀 。東 か ら】 が 17Lら れ、北側 に も雨落 ち満が検出 さ た,上 記に示 した台所11町 れ まtン の満に つ なが ります。 ィ 一 オ 瓦 を章 いたIrll!に 沿 って南側に石組満 ″ ‐ `ア モ ― ,ど ヽ 丁 1諌 御城 内絵 図 (名張 市 教 育委 員会蔵 ) をiイェ字 食^二じ■ め、城 代 屋敷 には城 代 として の 公 的 な建 物 と、 存 在 しま した。 采女 家 の 私 的 な建 r f a が 『二 十 三 号 上 野城 内屋敷 図』 で は、屋 敷 の 赤 ( 御上 作事 ) 平面 が色 分 け して 示 されて いて 、 。黄 ( 自分作事 ) ・紫 ( 勝手建 物 自分作事 ) 。青 ( 自分 作事 ) のただ し書 き も見 られ ます 。 この こ とか ら、 主 に屋 敷 南 側 に公 的 な建 物 ( 表向 建物 ) が 配 され 、北 側 に 私 的 な建 物 ( 奥向建 善屯 ュ 畿 ・1↓ 呼 ■あ音︼と 毎一rチヤ● 江戸 時代 に破損 と修理 ・増 築 を繰 り返 した ■あ み予 子 車 ! ■! 物 ) が 造 られて いた こ とが わか ります 。 ==■ ■ : 城代 屋敷 の建物 は明治 6年 (1873)の上 野城廃 じょう はきゃく 城とともに破却 されたとされ、上野城内は荒 二 十 三 号 上 野城 内 屋 敷 図 ヽ も` っと は時 は公 園化 され、昭和 に入 ると当時上 野町長 廃 の一途 をた ど りま したが、 明治 1 9 年( 1 8 8 6 ) に は伊 を務 めた田中善助氏 らによ り本格的 な公 園整備 が始 め られま した。 昭和 1 0 年( 1 9 3 5 ) に 賀文化産業城 の落成 を記念 して全 国博覧会 が催 され、昭和 2 7 年( 1 9 5 2 ) に「世界 こど も博覧 開催 された際には城 代屋敷跡 で も野外濠J 場等 のパ ビ リオ ンが建設 されたよ うです。 会」 力ゞ 一方 、筒井時代 の本 丸 は上 野市街地 の最高所 に位置す ることか ら、昭和 1 1 年( 1 9 3 6 ) に は にまず北部第 1 配 水池 が建造 され、その 筒井天守台付近が南西 に拡張造成 され、その東倶」 は隣接 して給水 タ ンクが建造 さ は第 2 配 水池 が 、昭和 3 9 年( 1 9 6 4 ) に 後 の 昭和 2 7 年 ( 1 9 5 2 ) に れま した。 こ ういった部分的 な改変 を後世 に受 けなが らも、本 丸部分 とその周辺 は築城時 の 旧態 を良 くとどめてい る こ とか ら、昭和 4 2 年 ( 1 9 6 7 ) に 国史跡 に指定 されま した。 城代屋敷跡 の発掘調 査 伊賀市教育委員会 ( 旧上 野市教育委員会 ) では、平成 1 1 年度 か ら平成 1 3 年度 にか けて 「史 跡 上 野城跡保存管理 計画書」 ( 平成 7 年 3 月 策定 ) に基 づ き、保存整備事業 を進 めるための 基礎 資料 を得 るために 3 ケ 年 にわた って発掘調 査 を実施 しま した。 さらに平成 1 4 年度 か ら は、平成 1 4 年3 月 に策定 された 「史跡上 野城跡保存整備 ( 前期 ) 実施 計画」 によ り、3 ケ 年 の調査 で得 られ た成果 を元 に して、城代屋 敷 が所在 した 間井本 丸 の全域 に発掘 区域 を拡張 して調査 を継続 して実施 して います。 これ らの発掘調 査 によ り、絵図 ( 特に幕末 に描 かれ た 『御城 内絵図』 ) に描 かれた建物 と、実際の遺構 との対 比が可能 とな り、絵図 には見 ら れな い筒井時代 もし くは江戸前期 の遺 構 も検 出 されて い ます 。
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