Page 1 Page 2 序 宮田村遺跡調査会は、 日召未ロ62年以来丶 土地

上水道施設工事 に伴 う埋蔵文化財発掘調査報告書
越 遺 跡
長野県上伊 那郡宮 田村
1992
宮 田村遺跡調査会
序
宮 田村遺跡調査会 は、昭和 62年 以来、 土地 区画整理 事業 が進め られて い る西原地籍 で、破壊 さ
れ る中越遺跡 の記録保存作業 を実施 して きました。
事業 の 中で上水道にかかわる工事 は、水道管 が道路部分 に施設 された下水道に併設 されてきた
ため、 そのこ とが直接、遺跡破壊 の原 因 となることはなかったわけですが、今 回、 それ と別 地点
での工事 が必要 とな り、別途 に調査 を実施 したので あ ります。 中越北線 の道路部分 であ り、す で
に破壊 されて しまって いて もおか し くな い状況 の 中で、幸 いに も 2軒 の住居址 を検 出 し、一定 の
成果 を上げ ることがで きました。
調査 を実施 した 8月 下旬 は残暑 の きび しい 日がつづ いた時期 で した。そのよ うな中で現場 の発
掘作業 にあた られた、 宮 田村遺跡調査 会会長
友野良一先生 をは じめ作業員 の皆 さんの御苦労 に
感謝 申 し上 げ、発干Jの こ とば といた します。
平成 4年 3月 31日
宮 田村教育委員会
教育長 林
目
金茂
次
序
例
言
I
遺 跡 の概 観 と調査 の経過 ……… …… …………… …………………………・… …… ……… ……… 。1
1
2
遺 跡 の立 地 …………… …… ………… …………… ………… ……………………………… … …
1
・:… ………… … …… ………… ……… …… … …………… ………… … … 3
調査 の 経過 … ………・
(1)調 査 の 経過
0)調
査 組織
遺構 と遺 物 ¨¨¨¨…… …… … ¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨…………¨“¨¨…… …… … … ……… … ………………4
Ⅱ
1
縄文 前期 の遺構 と遺 物 ……………… …………… … ……… ……………………………… …… 。4
0 178号 住 居 址
2
… …… ………………………… …… 。5
縄文 中期 の遺構 と遺 物 ………… … ……… … …………… 。
(1)149。 150号 住 居 址
Ⅲ
9)土
墳
調査 の成果 ………・……………・……… ………… … ………… ……………… ……… … … … …… 。7
例
言
1.本 書 は、平成 3年 度 に実施 した上水道施設工事 に伴 う埋蔵文化財発掘調査報告書である。
2.調 査 は、宮 田村 (村 長 伊藤 浩)の 委託 をうけ た宮 田村遺跡調査会 (会 長 友野良一 )が 、
平成 3年 8月 20日 か ら23日 にかけて実施 した。
3.記 録 図面、写真、出土遺物等 の資料 は宮 田村教育委員会 が保管 してい る。
′
ノ
遺跡 の概観 と調 査 の経 過
1
遺跡 の立 地
中越 遺 跡 は、天 竜川右 岸 に発達 した大 田切 扇 状 地 の 北側 の扇側部 、扇 端 で あ る天 竜 川 河 岸 か ら
約 l kmの 地 点 に位 置 して い る。 この扇 状地 面 は、小 河川 に よって放射 状 に 開析 され 、 い く筋 もの
長 峰状 の 台地 の連 な りとな ってお り、遺 跡 の位 置 は、 大 沢 川 と小 田切 川 の 間 の 台地上 の、大 沢川
が そ の侵 食面 を明瞭 に し始 め る地 点 で もあ る (図
1)。
姿
一 c巡 撻 ヾ
図
1
位 置図 (5万 分 の 1)
-1-
この大 沢 川 と小 田切 川 には さ まれ た 台地上 の ほぼ 中央 には、 中越遺 跡以外 に も、 向 山遺 跡 (縄
文 早期 ∼草創期 )、 姫 宮遺 跡 (弥 生 後期 )、 田 中下遺 跡 (奈 良 ∼平安 時代 )な どの大 遺 跡 が 集 中 し
てお り、 この付近 の 中核都 市 が 存在 し続 け た場所 とい う こ とが で きる。
中越遺跡 は、縄文前期 と中期 の大集落 と後期 の墓域 とを含んでお り、台地 の全面に広がって い
る。台地上面は、南縁 に部分 的 に形成 された低位面 と、北 の広 い高燥面 で構成 されてお り、後者
はさらに、やや低 い南側 と高 い北側 とに分 け ることがで きる。 それ らはいずれ も東へ ゆる く傾斜
す る平坦面 となって い るが、今 日までの発掘調査 で、東流す るい くつ かの小規模 な流れ、 あるい
は溝 が確認 されてお り、本来は起伏 に富 んだ地形であった こ とが想定 され る。道跡地は、昭和 40
年代以前 は一 面 の畑地 で、 しか も、古 い集落 である中越 か ら見 た呼称 である「西原」 が、一帯 の
字名 として定 着 して い るこ とか ら、畑地 であった歴 史は きわめて長かった と考 えられる。遺物 の
保存状態は決 して良 くはない。
遺跡付近 の土 中には、大 田切扇状地 を構成す る人頭大 か ら拳大 の礫が多 く、所 によっては集中
して もお り、表 土の下 が礫層 となって い る場所 もある。
調査地′
点は、 台地 中央 に東西 に走 る中越北線 の道路上 の 2箇 所 である
(図 2)。
●
調査地′
点
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図
2
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i
調査 地 点 図 (宮 田村 平 面 図」― 平 成 元 年 12月 作 成 ― を も とに 作 図 )
‐
2-
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2
調査 の経過
(│)調 査 の 経 過
は じめに中央 グラン ド北で15m×
3mの 範囲 を発掘 した。舗装 と砕石 の下は包含層 まで工事 に
よって削 られて いたが縄文時代 の住居址 1軒 を検 出 し、引 き続 き1990年 の西原区画整理事業 に伴
う第10次 調査 の際一部 を検 出 した住居址の、今 回の工事 によって破壊 されて しま う道路下 の部分
を調査 した。昭和 53年 に設定 した遺跡全面 にわたる10mメ ッシュの グ リッ ドであらわすな ら、前
点、後者は BM o N33地 点 とい うこ とになる
者 が B M17・ 18地 ′
(図 3)。
調査期 間は、平成 3年 8月 20日 か ら23日 までであ った。
(2)調 査 組 織
今 回の遺跡 の調査 にかかわる組織 と、現場 の発掘調査 に参加 され、実際 の作業 をしていただ いた
皆 さんは次 の とお りである。
◇宮 田村教育委員会
◇宮 田村遺跡調査 会
青木
三男
教育次長
〃
伊東
醇一
係
貞治
〃
唐木
哲郎
和雄
教 育 長
林
金茂
会
長
友野
良一
委
員
宮木
芳弥
〃
片桐
〃
平沢
員
委
◇調査参加者
小田切守正 木下道子 西村アグ子 松下末春
図
図3
遺構全体 図
3
調査 区遺構 全 体 図
-3-
長
係
小林
守
古 河原正 治
小池
孝
Ⅱ
1
遺構 と遺物
BN17
縄文前期 の遺構 と遺物
Bヽ117 Bヽ 118
0 178号 住居址
BM17と 18グ リッ ドの 界 の 北隅 に位 置す る住 居 l■
で、南 の ご く一 部 を発掘 しただけ で あ る (図
4)。
平面形 が 、 円形 もし くは北東方 向 に軸 線 をお く丸
み を もった隅丸 方 形 とな るで あ ろ う小 形 の住 居 llLで 、
壁 は削 られ、検 出面 か ら床 面 までは20cmほ ど しか な
い。 埋 土 の下 層 に黒 色 土 が部分 的 にみ られ た。床 面
A
1
6360B
にやや粘 質 の黄色 上 を貼 って あ るが、壁下 の わずか
に浅 くな る部分 は軟 らか く、 あ るい は周溝 とな るの
V
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%
か もしれ な い。柱 穴 は調査 区 の外 とな る。
VI
I
ア ス フ ァル ト
II
砂利
Ⅲ
褐色上
IV
V
黄 色土粒 炭 混 入 黒 褐 色土
黒 色土
Ⅵ
黄 色 t粒 混 人 褐 色土
2
0
図5
10cm
14 178号 住居址実測 図
178号 住居址 出土土器拓影
図
0
6 178号 住 居 址 検 出状 況
-4-
2m
遺物 は ご く少 な く、 15′ 点の土 器 は前期 初 頭 の斜格 子 目文 と無文 部 で (図
5)、
他 に黒 曜石 の景J片
類 が16点 あ る。 中越期 の 古 い住居 址 であ る。
2
縄文 中期 の遺構 と遺物
(│)1490150号 住 居 址
BN33グ リッ ドの南西隅 に検 出 された。1990年 に実施 した北半分 の調査 によれば、150号 住居址
の東 を149号 住居址が切 って い る状態にあったが、今 回調査 した部分 では、道路 に関連 した もの で
あ ろ う削平 が深 く、150号 住居 llLは す でに消滅 して い た
(図 7)。
また、北東 の破線部分 は区画整
理 の 中で破壊 された ものだが、新設 した道路 の隅にあたるわけで、その時′
点に発見す るの は困難
であったろ う。P3か ら炉 の南 にかけては電柱 を立て る時 に破 壊 されてお り、周溝 を切 るまでには
いた らなか ったが、東西方向の溝状 に壁 と床 の一部 が破壊 されて もいた。
以前 の調査結果 とあわせ てみ ると、 149号 住居址の平 面形 は、径約 3.8mの 南東 に軸線 をお き、
南東辺が強 く張 りだ した五角形 に近 い円形 が考 えられ る。今 回調査 した部分 の壁 はご く低 くて数
cmの 埋土 しか残 されてお らず、周溝 によって住居址 の範囲 を確定 したほ どであった。 その周溝は
壁下 をほぼ全周 して い る。柱穴 は Pl・ P2・ P4・ P5と 調査 できなかった北東壁下 の 1本 の 5本 で
あろ う。 P4の 南 に石皿が伏せ て置かれて い るが、周溝上 の深 い P7・ P8の 存在 とあわせ ると、 こ
1990年 調 査 範 囲
P2 29
図
7 149。 150号 住 居 L実 測 図
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10cm
図8
149号 住居 址 出土土器拓影
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グ リッ ド
0
図9
1ocm
149号 住居 址 、 グ リッ ド出土土器実測 図
の部分 が入 り口であった とも考 えられ よう。ただ、 P3が 袋状 であ り、その部分 を入 り口 とす る考
え も捨て きれない。 P6内 の上 層か ら、 中期末第 Ⅱ段階 の 1個 体 の土器 の口縁部 10片 ほ ど (図
9-
1)が 、 まとめ られたよ うな状態で出土 した。
遺物 は少 ない。埋土か ら出土 した土器 (図
8)に は 中期初頭 か ら末葉 までの ものが混在 して い
る。石器 には、先述 した石皿 のほか、部分磨製 とい って いい硬砂岩製 の石斧が出土 して い る
10)以 外 は、黒曜石 と硬砂岩 の争J片 類 が少量あるだけである。
-6-
(図
o
20cm
図 10 149号 住居 址 出土石 器実測 図
北側 を調査 した段階では縄文中期末葉の住居址 としておいたが、P6内 の土器か らその うちの第
Ⅱ段階の遺構 とすることができよう。
(a
土
渡
149号 住居址の南西に径
lmほ どの落ち込みがある。東壁上か ら出土 した大破片の土器 (図
9-
2)か ら、縄文 中期初頭の土墳 とした。あるいは、150号 住居址 と関連 した遺構か もしれない。
Ⅲ
調査 の 成果
今 回の調査 は、遺跡 のほぼ 中央 を東西に貫 く中越北線 の道路上 の、 ご く狭 い範囲 で実施 した も
の で、検 出遺構 も、上方がかな り削 られて しまって薄 い包含 層 しか伴 わない 2軒 の住居址 と、1
基 の土墳 だ けであった。
縄文前期 の住居 Lは 、一部 が用地 にかか る程度で遺構や遺物 に 目新 しい点はないが、50cmの 砕
l」
石 を敷 いた上に12cmの アスフ ァル ト舗装 をして周囲 よ り低めに作 られた道路 の下 か ら検 出 された
とい う事実 は、今後 の 同様 な地′
点におけ る調査 の要否 を決め る上 での参考 となろ う。
一 方、以前 にや り残 した部分 を調査 した形 となった縄文 中期 の住居址 は、 ビ ッ ト内か らの一括
遺物 の 出土に よ り、遺構 の所属時期 をよ り正確 に決定す るこ とができた。
-7-
図 11 149号 住居 址検 出状況
図 12
10号 住居 l■ P6遺 物 出土状 態
上水道施設工事に伴 う埋蔵文化財発掘調査報告書
中 越 遺 跡
平成 4年 3月
発 行
発
行
宮 田村遺 跡調査 会
印
刷
ほお ず き書籍 (株 )
長野市中越293