常滑市民俗資料館

﹁
︱
常滑市民俗資料1館
研
究
紀
要
19192
常滑市教育委員会
V
常滑市民俗 資料館
研
究
紀
要
1992
常滑市教 育委員会
V
発刊 にあた って
常滑市民俗資料 館 は開館以来 10年 の 間、常
滑 の 窯業史 とその民俗 に焦点 をあて様 々な活
動 を展 開 して きた。 この研究紀要 も一 貫 して
そのテ ーマの もとに構成 され、 ここに第 五巻
を刊行す るは こび とな った。
近年、全国各地 における大規模 開発 に伴 う
埋蔵文化財 の調査 は、その 衰 えを知 らず増 加
の一途 を辿 りつつ あ る。 そ う した状況 の 中で
か つ て 常滑 の地で生産 された陶器 は、全 国 い
た るところで、 その出上が報 じられて い る。
その種 の 出土品 は以前 は中世前期 の 知多古窯
址群 の製品 が主であ ったが、近年 で は中世後
期 の城館址 の調査 か ら近世 の墓地遺跡、 さ ら
には明治期 の各種施設跡 に至 るまで調査 の対
象 が及ぶ よ うにな り、江戸時代 の 甕や近代 の
上 管 までが含 まれ るよ うにな って きて い る。
そ う した出土品が、 しば しば董 資料館 に もた
らされ るよ うにな った。消費地 におけ る資料
の 蓄積 とその研究 の進展がみ られ る現況 にお
いて 、生産地 の研究 も必然的 にその 向上 が 求
め られねば な らな い。最低限、常滑 で生産 さ
れて きた数 々の 製品 が、 どの 時代 にどの よ う
な広が りを もって生 産 された もので あ るか と
い う時間的、空 間的位置づ けの精密化 が必要
とな る。
第 五巻 と して上梓す る本紀要 で は、平安末
期 の消費地 と生産地 の 関係 を知 りうる貴重 な
瓦 の 出土 した濁池西古窯、資料 の 乏 しい室 町
前期 に属す る正法寺古窯、近代常滑窯業 の主
産品 で あ る土管 に対す る論考等、 ささやか な
が ら各時代 にわた る報告、研究 をま とめ る次
第 とな った。限 られた紙料 の 中で 寄稿 いただ
いた各氏 の労 に対 し深甚 な る感謝の意 を表す
るとともに、本書が各地 の研究者諸氏 の 活動
に資す ると ころ とな りうる ことを願 って や ま
ない。
常滑市教 育委 員会
教育長 竹 内鉄英
次
発刊 にあた って …………………………………
1
「土管」使用 の変遷
…
一古代か ら明治まで ― (柿 田富造)… … Ⅲ
3
…30
濁池西古窯址群 の発掘 (青 木 修)… …… Ⅲ
正法寺古窯 の研究
(中 野晴久)… ………・48
「土管 」使用 の変遷 ―古代から明治まで一
柿
1。
田
富
造
は じめに
わが国の歴史の 中で 「土管」が、 どこに、 どう使われて来 たのだろうか、 とい う視点
で文献 を調 べてみると、 その殆 どが弘化 4年 (1847)に 常滑 の鯉江方寿が製作 した真焼
土管を起点 に し、明治以降 は常滑を中心 とした製造 の流れ に力点を置 いて述 べ られて い
るに過 ぎない。
しか し各機関 による遺跡 の発掘調査報告 によれば、古代以来 の土管 の 出土例 は意外に
多 く、また、土管 の使用先・ 製造元 の 史実 に触れた地方史・ 産業史 も少 な くない。 そこ
で、 これ らを一括 して体系づ けてみ ることに し、有識者 の協力 を得て調査活動 を進 めて
きたが、ようや く全容 も見 えて きたので、小稿 では古代 より明治 に至 る土管 の使用先を
まとめ、その通史を概説す ることに した。
なお、古来 より多岐 にわたる土管 の形状 を図 -1、 図 -9に 示す よ うに分類 し、本文
中では、その分類記号 で述 べ ることに した。
A
I
A2
J
図 -1
土管 の形状分 類表 〔13
2.外 国
わが国の上管史上 におけるエ ポ ックといえば、 中国の土管技術 が朝鮮半 島 を経 由 して、
6世 紀に渡来 した ことと、西洋 の上管が明治維新 にお雇 い外国人 によ って もた らされた
ことの 2つ であろう。そ こでまず最初 に、外国の上管 の歴史の概要 について述 べ ること
にす る。
2.1西 洋 の上 管 (2,9)初 期 の 人類 に と って 、生活上 もっ とも必要 な もの は、水 で あ る。
人類 はさまざまな環境 の もとに、時 には開渠を つ くり、 また暗渠 もつ くって い く。 そ し
て粘土製品 の発達 と共 に、既 に先 史 時代 よ り土管 は使われ て きた。 その最初 の 上 管 は、
西 ア ジアの メソポタ ミア地方、 カルデ ィアの ウルに あ る王 朝 の墳墓 に、見 る こ とがで き
る。
この土管 は、長 さ約 150cm太 口側 の 口径 76cmの 図 -2(1)の よ うな形状であ り、 それが
垂直方向に数個 つながれて い る もので 、 これ らは先史時代以来 引 きつづ き造 られて い た
と考え られて い る。 その用途 につ いて は、発見 したウー リー によ ると、 「地 中 の 神 のた
めに墓 の 中へ 酒 を注 ぎ込むた めの もの」 とされて い る。
0
10
20
30om
(1)
(1)カ
ルデ ィア、 ウルの
(2)ク
墳墓 の上 管
ソス宮殿 の上 管
レタ島 ク ノ ッ―
(8.C.3,000年 頃)
(先 史 時代以来 )
(3ン ヽゾール、 カナ ン市 の上 管
(B.C。
図 -2
1,300空F)
西洋の古代土管の形状(2.9)
しか し、 本来 の 陶製水道管 と して使われたのは、地 中海東部 の ク レタ島 にあ る クノ ッ
ソス宮殿か ら発掘 された紀元 前 3,000年 まで さかのぼ る土管が最古 の もの と思 われ る。
それ は図 -2(2)の よ うな形状で あ り、長 さ76cmで 細 口側 に次 の上管 の 端を支 え るつ ばが
ついて いる ものだ が、土管の 中 には胴部 に把 手が ついていて、 次 の土管 と互 に緊結 で き
るよ うにな って い るもの もあ った。
また、ア ング ロ・ イ スラエ ル 調査協会 によ って、 ハ ゾールの カナ ン市 か ら発掘 され た
土管 (Bo C.1300)は 、図 -2(3)の よ うに中央が膨 らんだ形 の パ イプであ った。
古代 ギ リシ ャで 使われ た土管 は、形 も大 きさ もまちまちであ ったが、 ローマ 時代 にな
ると完全 な円筒形 に、 つ ばが工 夫 して付 け られ るよ うにな った。 それ以後 の上 管 は特 に
大 きな発展 もな く、 よ うや く18世 紀 の 終 り頃 にな って 、 イ ングラ ン ドで土管が造 られ る
よ うにな る。 中で も1831年 および49年 にその地 方 を襲 った コ レラに対処す るため に、 下
水道 の発達が促進 され、土管 の 需要 が拡大 した といわれて いる(2,3)、 (2.11)。
1858年 フラ ンスの 東端、 ライ ン川上流 のオ ッ トヴ ァイ ラーで、 ライ ヒネ ッカ ー によ り
上管 の機械成形 が成功す ると、そ の 成形法 は ヨー ロ ッパ 全土 に急速 に広が り、各種 の成
形機 が 出現 した。 そ して土管 の形状 も図 -lA2・ 図 -9F5形 の 2種 類 および煙 管 が
多 く用 い られ るよ うにな った (2,2)。
1897年 に発 行 された フラ ンスの 「INDUSTRIES Cむ RAMIQUES」 には、 当時 の上 管 を図 ―
3に 示す よ うに紹介 して いる (2.1)。
この形状 は、明治初年 頃、 わが国 に輸入 された上管 に通 じるもの と考えて よい。
図 -3
西洋の近代土管の形状 (2.1)
2.2中 国 の上 管 (1.10)中 国 で 出上 した最 も古 い土管 は、紀元前 2100年 頃 の もので 、河
南省 の平糧台古城 遺跡で発見 され た。遺跡 は四方 が城壁で囲まれて い るので 、城 内 の水
を排 出す るた めに城門 の下 に土管が使 われ た。 その上管 の形状 は図 -4(1)に 示す よ うに、
長 さ30∼ 45cmで 、外側 には縄文 な どの 文様 が ついて いる。
(1)河 南省平糧台古城 (新 石器時代末
)
(2)河 南省鄭州市商城 (段 中期
図 -4
)
(3)欧 西省鳳雛村
(西 周)
‖)山 西省侯馬市 (春 秋、晋)
0
中国 の古代土 管 の形状 (1.10)
10
20
30cm
―
それ以 後 の 中国 の遺跡か らは、主 と して 形状 が Al形 や C2形 な どの土管が、王 城 の
内外か ら出土 して い るが、面 白 い ことに土管 と瓦が同 じ場所 か ら出土す るの は西 周 (B.
C.1000)以 降で あ り、それ以前 の遺跡 か らは土管のみで瓦 は出上 して いない。 つ ま り
中国 で は瓦 よ りも土管 の方 が先 に使われ て いたの であ る。
くだ って 秦
(B.C.221∼ 206)の 始皇帝陵か らは、土管 と石管が 出上 したが、 石 管 は
それ以 前 にはなか った。 中国 の平野部 は黄土 ばか りで石が非常 に少 ない。従 って 東 洋文
明 には水道管 に限 らず、焼 きものが 多 く使 われた の は当然 で あ って、西洋文 明 が 石 の 文
化 とともに発展 したの とは対 象的 であ る。 ところが、 秦 の始皇帝 は西方 のヘ レニ ズ ム文
化 を積極的に採用 したので 、 同時 に石管 も導入 したので あろ う。
(B.C.202∼ A.D.8)に 入 ると、土管の 出土例 は少 な く
な って くる。 その理 由は、従来、城壁 。城 門 の下 を くぐって いた土 管が、増 (煉 瓦 また
秦が滅亡 して前漢 の 時代
は タイル に分類 され る もの )に 取 って 変 ったためであ る。 中国 で埠が使われ た の は、戦
目時代末期 (Bo C.220頃
)か らで、漢 の 時代 には建築 のみな らず、溝や伏管 と して も
使われ るよ うにな った。 そ してわが国 に大 きな影響 を与えた唐の 時代 (618∼ 907)に な る
と、土管 はさ らに使われなか ったのか、 その 出土品 は非常 に少な くな るが、 その 反面、
瓦や痺 は建 築 の増加 ととも、 ます ます多 くな って い くので あ る。
2.3朝 鮮半 島 の上 管
朝鮮半 島 で瓦や土管が使 われ始 めた 時期 は、定かで はな い。 2・
3世 紀 の 頃宮殿 で 丸 瓦や平瓦が使われた記録 はあ るが、土管 について は不 明 である(1.1
1)、
(1.12)、
(1,13)、
(1.14)。
土管が朝鮮半 島 へ 渡来す るの は、 中国 か ら仏教が伝来 した 4世 紀後半 の 頃で はないか
と推 測 され るが、 それ につ いて もまだ 出土例 が ないので は っ きりしな い。今 の ところ朝
鮮半 島で土 管が 出上 したの は、百済 の都、扶餘 か ら 6・
7世 紀 の三 国時代 の もの、新羅
の都、慶州 か ら 8世 紀 の統 一 新羅時代 の ものが 数例 あげ られ る程度であ る。
その形状 は図 -5に 示す よ うに 5種 類 あ りDl・
E2形 が多 くてその他 は 1例 ず つ保
管 されて い る。
(1)伝 慶州四天 王寺址 (統 一新羅時代)(1.14)
(2)伝 慶州四天 王寺 址 (統 一新羅時代)(1.14)
(3)慶 州 (統 一新羅時代
)〔 韓国国立中央博物館〕
僻)扶 餘 (三 国時代後期)〔 韓国国立扶餘博物館〕
(5)扶 餘 (三 国時代後期
)〔 韓国国立扶餘博物館〕
図 -5
朝鮮半島 の古代上管の形状
0
10
20
30cin
―
中で も、大形土管は長 さ94cm太 口径41cmの 把手 のついた珍 しいものである。百済 の古
墳 には甕棺墓 が多 く、その甕棺 は長 さ1,7m、 日径 0.8∼ 1.lmぐ らいの大 きな もので、既
に 4∼ 5世 紀 には造 られて いることか ら、大形土管の製造技術 も当時確立 していたこと
が うかがえ る。
3.日
本古代・ 中世
わが国の土 管 の 起源 は、飛鳥 に仏教が伝来 してか らの ことで あ る。寺院建築 に屋 根 瓦
とともに土管 も使われ、 これが広 く伝播 して、 各地 で土管が採 用 され るよ うにな った。
しか し、 水道管 の主 体 は、や は り古来か ら使われて きた木樋 で あ り、土管 は屋根瓦 のよ
うには発達 しなか った。
3.1飛 鳥寺 の上 管 百済 の聖明王 は、欽明 7年 (538)使 者 を遣 わ して、天皇 に金銅 仏、
経巻な どを贈 り、わが国 に仏教 を伝 えた。(「 日本書記 」 には欽 明 18年 (552)と あ る。 )
その後蘇我馬子 は、崇峻元年 (588)に 、わが国最初 の本格 的寺 院飛鳥寺 の建立 に着手す
る(1.2)。 百済 はその 時、僧侶や技術者 とともに、 4人 の瓦 博 士 を派遣 した (1,4)、 (2.1
2)。
従 って飛鳥寺 は、百済 様式 の瓦 葺寺院 とな ったが、 その 飛鳥寺 か らは図 -7(lX2)に
示す よ うに 日本最古 と思われ る土管が、 2種 類 出上 した。 前者 は長 さ51cm、 外径 22cmの
明 るい灰色で あ り、後者 は長 さ40cm、 広 日外径 18cm、 細 日外径 1lcmで 、青灰色であ る。
この両者 の土 管を縦方向 に半哉 した ものを玉 縁式丸瓦 と呼 び、後者のそれを行基葺式丸
瓦 と呼んで い るが、飛鳥寺 の丸瓦 は、その両者 が 使われ て い た。
なお、 飛鳥寺以前 の 、土管 の 出土例 は、今の ところ見 当 らな いが 、古墳で 円筒埴輪を
排水管 に転用 した事例 は、和歌 山市 と広 陵町 (奈 良県 )で 発見 されている。 その紹介 は、
別 の機会 にゆず りた い (1.15)、 (1.16)。
図 -6
屋根 の丸瓦
〇
所
形
状
御 所市古 瀬 ウエ 山
橿 原市飛解 町
橿 原市 高殿 町
橿 原市和 田町
生 駒郡斑鳩 町
生駒郡斑 鳩 町
生 駒郡 斑鳩 町
生駒郡 斑鳩 町
生駒 郡斑鳩 町
奈良市 登大路 町
奈 良市西 ノ京 町
水泥古 墳
藤原 宮 日高 山瓦窯
藤原 宮
和 田廃 寺
法 隆寺
法 隆寺
法 隆寺
法 隆寺
法 隆寺
興 福寺
唐招大 寺
石舞 台古墳 周辺地
吉野郡 吉野 町宮滝
高市郡 明 日香村 島之庄
飛鳥 坐 神社 北接地
北 葛城郡 広 陵 町大塚
高市郡 明 日香村 飛鳥
飛鳥 坐 神社 北接地
於 (う え の )古 墳
高市郡 明 日香村 飛鳥
酒船 石東方
宮滝
高市郡 明 日香村 川原
高市郡 明 日香村 岡
川原寺
高市郡 明 日香村飛鳥
飛鳥 寺
Bl
Bl
Bl
Dl
Bl
D3
E2
F2
F2
Cl
Dl
円筒 埴 輪
図 -6
復 元前 だ
特殊
Bl
Dl
丸半径管
住
高市郡 明 日香村 川原
現
川原 寺
所
高市郡 明 日香村 飛鳥
場
飛鳥 寺
上
76
47
26
21
36
37
欠除
56
56
56
58
月]42
99
形状
57
45
48
欠損
102
41
51
長 さ
15
21
24
16
13
11
23
19
16
21
27
51
大 きさ 宮 滝 に
21
40
18
似
8
17
11
11
11
14
32
15
18
31
12
ヨ筒 外 俗 太日外 径 佃 日外 径
1 17世 紀 以前 の大 和 の上 管
Bl
Dl
図 -6
出
表
国
所
奈良 時代前半
奈良 時代
江 戸元禄 時代
江 戸 時代 初期
室 町 中頃
鎌 倉初期
平 安 中頃
原
原
原
立
立
立
立
立
立
立
管
立
立
立
立
立
立
立
立
橿
原
興福寺
国
国
国
国
国
国
個 人蔵
橿
橿
橿
国
国
国
国
国
国
国
期
7,8世 紀
時
国
置
i cm
6世 紀
6世 紀
7世 紀
7世 紀
7世 紀
7世 紀後 半
7世 紀後 半
7世 紀 中頃
7世 紀
6世 紀 前半
7世 紀 前半
7世 紀 末
7世 紀 末
設
単位
現
住
状
奈良市 二 条大路 南
奈良 市 四条大橋
奈良 市 大安寺 町
奈良市 大安寺 町
奈良市 七条 町
奈良市 佐紀 町
奈良市 白亀 寺 町
奈良市 高畑 町
奈良 市高畑 町
奈良 市高畑 町
奈 良市古市 町
天理 市豊 井 町
河井 町川井
平城京 左京三 条 一 坊
平城 京左 京 四条 二 坊
平城 京左京六 条 三 坊
平城 京左京 六 条 三 坊
平城京右京七 条 二 坊
平城 京北辺
白亀 寺
元興 寺 旧境 内
元興 寺 旧境 内
元興 寺 (大 乗 院 )
古市 (お 、る い ち )城
布留 (ふ る)遺 跡
市場 垣 内 (が いと)遺 跡
備考
奈良市 北魚屋 西 町
11
12
29
37
文献
子 大 (奈 良女子 大学 )
河井 町 (河 井 町教育 委員 会 )女
立
立
立
管
橿
室 町 ∼江戸 時代
16世 紀
河井 町
天理教
奈良市
16世 紀 中頃
15世 紀 末・ 16世 紀 前半
奈良市
奈良市
17世 紀 前半
16世 紀
奈良市
16世 紀
原
元興 寺
奈良市
奈良 時代
17世 紀
奈良市
17世 紀
16・
奈良 市
11世 紀 末
奈良 市
女子 大
国
国
国
所
奈良 市
期
8世 紀以 降
奈良 時代
奈良 時代後 半
奈良 時代
奈良 時代 中頃
時
元興 寺 (元 興 寺文化財研 究所 保存科学 セ ンタ ー )
(1.3)(1.5)(1,16)(1,17)(1.18)(1,19)(1,20)(1,21)(1.22)(1.23)
天理教 (埋 蔵 文化財 天理教 調査 団 )
橿原 (奈 良県立 橿 原考古 学研 究所 )
国立 (奈 良 国立文化 財研究 所 )
所管
置
12世 紀 頃
設
奈良市 (奈 良 市教 育 委員会 )
分類番号 は図 -1、 図 -9に よ る。特殊 とは土管 の 中央 につ ば のつ いた もの
形状
12
明
分類毎 に 1例 のみ 掲載
33
13
16
64
45
18
13
30
69
のため
14
復元
19
23
18
15
16
34
司筒 外 径 太 口外 径 個 日 外 雀
39
67
45
57
72
43
40
長 さ
寸法
F2
F2
F2
F2
El
F2
丸瓦転 用
Cl
Bl
F2
F2
B2
丸瓦転用
奈良市 法華 寺 町
平城 京左 京 二 条七 坊
丸半径管
形
平城 京左 京 一 条 三 坊
所
Bl
B2
Cl
奈良市 佐紀 町
所
平城 宮
場
奈良市 西 ノ京 町
上
薬 師寺
出
3.2各 地 の上 管 大和地方で は飛鳥寺建立後、土管 は寺院や宮殿 に使われ た。表 -1に
は大 和 か ら出上 した古代 。中世 。近世初期 の土管を示 したが、 それ によれば主 流 となる
土管 は、奈良時代 まで は前項 で述 べ た Dl形 を含む異 日径形 と玉縁付 の Bl形 であるこ
とがわか る。 7・ 8世 紀 の異 日径形 は和 田廃寺・ 興福寺・ 唐招大寺 などか ら、 Bl形 は
藤原宮・ 酒船石東方 。平城宮 な どか ら出土 してい るが、 その ほか に も Bl形 を長 くした
B2形 が 8世 紀 の平城京か ら、 また長 さ約 lmの 大形 つ ば付異 口径形土管が 7世 紀 の川
原寺、石舞台古墳周辺地、吉野 の宮滝か ら出上 してお り、 中 には内面 に同心 円の 叩 き目
文 を有す る須恵器系 も発見 された (1.8)、
(1.5)。
大和以外 の土管で は、朝鮮半島に近 い太宰府 (福 岡県 )の 観世音寺か ら 8世 紀 の 異 口
径 Cl・ Dl・ E2形 が 出上 して い る。 ただ しこの 3種 類 はテ ーパ ーがわずか に異 な る
程度 であ って 1種 類 と見な して もよ い程で ある(1.7)。
また信楽 (滋 賀県 )の 紫香楽宮址か らも異 口径 Cl形 が 出土 して い る。 これが 8世 紀
(1)飛 鳥寺
(6世 紀)
〔
奈良国立文化財研究所〕
(2)飛 鳥寺
(6世 紀)
(7世 紀)
(7世 紀)
〔
奈良国立文化財研究所〕
(3)吉 野宮滝
(4)川
原寺
(1.5)
〔
奈良国立文化財研究所〕
図 -7
古代大和の上管
0
―
,0
20
30cm
うと
の ものか ど うか は っ きり しな いが、紫呑楽宮 は 8世 紀 に聖 武天皇 が造営 した宮殿であ り、
ここに も平城京 の 技術 が影 響 して いた と見 なす ことがで きる (2.20)。
平安 時代以後 の上管 は、 その 出土例 が非常 に少 な くな る。 そ こで まず古代・ 中世 にお
ける水道 の 概要 につ いて述 べ てお こ う。
仏教 の伝来以後、名僧 道昭・ 行基・ 空海 らは諸国を行脚 して、布 教 のみな らず土木建
築 な ど も自 ら指導 に 当た ったため、地方 に も文化が広が った。 中で も井戸 は最 も通俗的
に普及 した一 つ で あ る。 また、河川 ・ 池沼・ 泉 よ り、飲料水 や灌漑用水 を引 く技術 も発
達 し、主 と して木樋 ・ 竹樋・ 石樋 を使 うよ うに な る。 しか し、土管の使用例 は少なか っ
た (3.5)。
また京都 の 平安京 は都市造成 の 大規模建設 が進 め られて はいるが、飲料水 は井戸、排
水 は開溝 を主 に したためか水道管 その ものが 少 な く、土管 もあま り使用 されなか った。
次 に、 平安・ 鎌倉時代 の 空 白期 を補填す る法 隆寺 の上管 について述 べ ると、同寺か ら
は平安 中頃 の もので Bl形 の玉 縁部 の欠除 した もの 、鎌倉 時代初期 の D3形 、および室
町時代 中頃 の E2形 が 出上 して い る。 その うち D3・
E2形 の異 口径土管 は、最初か ら
土管成形 のための 芯型 を用 いて い る。 もっ とも行 基葺式丸瓦 は、大 和 で は奈良時代後期
以後 は殆 ど造 られて いないので 芯型 を流用 しないの は当然で はあるが、 その芯型 も時代
と共 に水道管 と しての機能 を果す べ く改良 が加 え られて い る。
室 町 の戦 国時代 には、 図 -9F2形 のよ うな ソケ ッ ト付土管 が登場 した。 出土地 は今
の ところ、表 -1に 示す よ うに奈良県 に多 いが、 その ほかで は、 東大阪市 の 友井東遺跡
の場合 は、灌漑用配水管 と想定 され る瓦質土管が発見 されて い る(1.29)。
法 は、従 来 の瓦 にはない紐 つ くり法 であ った。
いずれ も成形
また室 町か ら桃 山時代 に比定 され る B3形 の上管が、京都地方 の勝龍寺城 (長 岡京市 )
および平安六角堂 (京 都市 内 )か ら出上 した。共 に玉 縁部 が 0.5cmと 短 く印籠式 と呼称す
べ き形状で あ る (1.6)、 (1.26)、 (1.27)、 (1.28)、 (4。 14)、 (4。 15)。 この B3形 はその ほ
かに京都府・ 大阪府 か らも出上 して い る し、 また後述す る江戸時代 の上 水道 に Bl形 な
どと共 に使われ て い る。 そ して さ らに遠 く中国 の唐代遺跡 か らも出上 して いるが 、無論
関係が あ るか ど うか判 らない (2.10)。
以上 の よ うな土管 の流れ とは別 に、 各地 で その地方独 自に考え 出 され た土管 も出上 し
て い る。
愛知県 日進 町 にあ る猿投窯系列 の岩崎子7号 窯か らは、約 60cmの 細長 い D2形 の異 口径
土管 (須 恵器 )ん ヾ
出上 して い るが、之 は 7世 紀後半 に比 定 されて いる。 また同 じ系統 の
小牧市藤 岡 2号 窯か らも同時代 の 長 さ40∼ 50cm程 度 の よ く似 た土管が 出上 して いる(1.8)
(lj:伝
努 で は岩手 県東和町 の北製 雪 か らも、総延長約 250mの 水道 遺跡が発見 された。
その水道 には 1本 の 長 さ約 72cm D 2形 の上管が使用 されて いた。 その設置 は、 16世 紀 よ
りは以前 の ものだ といわれて い るが明確で はない (1.9)。
つ0
4.近 世
応仁 の乱以後、戦禍 に荒廃 した国土 も、織田・ 豊臣・ 徳川時代になると当時の諸侯が、
農政を重点施策 と して治 山治水 に努 めたので、逐次復興 していった。 そ して灌漑用水 を
整備す るとともに、城 下町 には水道 を引 くようになる。それ らは藩政 によったため、従
来 に較 べて規模 も大 き く、工法 も発達 した。特 に市街を通 る配水路 は暗渠 とし、主 とし
て木樋 が使われ たが、そのほかにも幹線 には石樋を、枝管 には土管 または竹管 も使用さ
れた。
4.1上 水道用上 管 藩政時代の初期の上水道 には、まだ土 管 は使用 されなか ったが、 そ
の改修工事 には逐 次使われ るようになった。 その時期 は1640年 代以降と思われ る。次に、
近世に土管を使用 した上水道を列挙す る(3.4)。
長崎
長崎狭 田水樋
熊本 宇土轟水道
大分
中津水道
山口
越 ヶ浜水道
広島 福山水道
香川
高松水道
兵庫
赤穂水道
愛知
茨城 水戸笠原水道
宮城
仙台四 ツ谷堰用水
名古屋 巾下水道
この うち土管を使 った代表例 として、赤穂水道 について述 べ る(4。
9)、
(4.10)、 (4.11)。
赤穂 は千種川の河 口にあ って、入海 の地 に発達 したデル タ上 に形成 された城下町であ
る。従 って堀井 は飲料水 としては使用 で きず、城下町 として機能す るには、まず上水道
が必要 であ った。慶長 19年 (1614)に 起工 し、 3ヵ 年かか って元和 2年 (1616)に 完工
す るが、導水路 には石造、給水路 には木樋・ 竹樋が使われた。その後、正保 2年 (1645)
に水源を移 して水量の充実をはか り、市街および城内に土管 も使用 した。それが天保 の
頃 (1830∼ 44)に なると、石造 りであ った本管 も木樋 に換 え られ、さらに土管 (内 径 30
cm)に 取 り換え られて い く。 このよ うに赤穂水道 は、昭和 19年 に近代水道 が施設 され る
までは、改修工 事 が繰 り返 し行われ、その都度土管 に換えて きたため、その種類 は非常
に多 い。明治前期以前 の上管をまとめて、図 -8に 紹介す る。
一方、江戸 で は、 この時代 に神田 。玉川・ 亀有・ 青山 。三 田・千川 の各上水 が完成す
るが、いずれ も木樋・ 石樋で、土管は使用 されなか った (3.2)。
ただ、私設 として、美
】
西
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奮
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を
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良
砲
各
キ
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土管 とは差別イとした、近代土管 に通 じるものであった (2.15)。
4.2灌 漑用土管 わが国では、河川 。池沼の灌漑用水が発達す るかたわ ら、地形上水利
が得 られな い地方では、積極的にため池を築造 して田畑へ水 を引いた。中で も播磨 (兵
庫県)・ 讃岐 (香 川県)・ 和泉 (大 阪府)な どは、特 にため池 の多 い地方である(3.10)。
その導水路 は木樋が主 であったが、土 管 も一部 には使用 された。
江戸時代における灌漑用上管の製陶地 は、常滑・ 備前・ 信楽 などが あげ られ る。
『
ぃ梶
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毎
層
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[琵 喜
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塗
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ど
売
語
写
暦
哲
穀
」
:法 こ
ζ
高
泉
14
0
(1)本
管用瓦樋
(6)マ
(江 戸時代)
杷X3)支 管給水用瓦樋
(江 戸時代)
佃)刻 印名のある給水管
(江 戸時代)
10
20
30cm
ンガン釉土管
―
(明 治時代)
(⊃
白素地 ヘラ ロ土管
(8)支 管給水用瓦樋
(江 戸時代)
(9)伊 部焼 ロクロ成形土 管
(5)支 管給水用瓦樋
(江 戸時代)
(江 戸時代)
10伊 部焼土管
(俗 称鉄砲継ぎ)
(江 戸時代)
図 -8
赤穂水道 の上 管 (4.9)、
(4.10)、 (4.11)
RJ
図 -9
23
土 管 の 形状分類表 〔
クグ リと呼ばれ る梨縫土管が 出上 して い る (2.14)。 その形状 は図 -9の うち、 ソケ ッ ト
付 の Fl・
F2形 が殆 どで不完全 なが ら近代土管に最 も近 い ソケ ッ ト付 で あ った。 この
上 管 は常滑焼 の 甕 と同 じよ うに全国 に普及す る可能性 はあ ったが、 その事例 は乏 しく、
同 じ知 多半 島内で も状 には木樋 を使 うのが 通例 の状態 にあ った。
なお常滑焼 に似 た ソケ ッ ト付土管 が、法 隆寺 か らも 2種 類 出上 した。 1つ は粘上 で 円
筒形を造 ってか らソケ ッ ト状 に開 い た もので江戸時代初期 に編年 され る もの 、 も う 1つ
は円筒形 を造 ってか らソケ ッ ト部 を張 りつ けた もので 江戸元禄時代 に編年 され る もので
あ る。共 に常滑焼 の上管で はな い。
備前焼土管 は、享 保元年 (1714)と 六年 に造 った記録があ る。 「撮要録 」 に瓶樋 と書
かれて い るのが それで、特徴 と して は形状が C2形 で 長 さは90cmと 長 く、 よ く焼 かれて
い る。灌漑用の ほか、 瀬戸 内海沿岸 の塩 田に も古 くか ら使われて いたよ うで あ る (2.18)。
信楽焼土管 で は、元 文六年 (1741)の 紀年銘 の あ るものが 見 つ か った。今 の と ころ江
戸時代以前紀年銘 の あ る土管 は、全 国 で これだ けで あ る。信 楽地方 か ら出土 した土 管 は、
図 -1の Al・
(2.19)
16
A2・ Cl・ El形 な ど多岐 にわた ってお り、全般 に小形土 管が多 い。
5.明 治
幕末・ 明治維新 には、お雇 い外国人 が 多数来 日 して、わが国 の文明開化 に直接影響 を
及ぼす。彼 らによ って 上下水道 。鉄道 な どの技術 も導入 され、同時に上管 もまた近代化
へ の道 を歩 む ことにな った。 中で も土管 は英国人 の影響力が大 きか った。
5,1外 国人居留 地 の下水道用土 管
(1滓 申
戸居留地 神戸 は、安政 5年 (1858)に 締結 された 「日米修好通商条約 」に基 づ い
て、慶応 3年 (1867)に 兵庫港 を開港す る。 そ して 同時 に外国人居留地 の建設 も決 った
が、その居留地 は地形上排水が悪か ったので 、街 の建設前 に都市計画 を策定 し、下水道
も組み入れ ることに な った。 その計画 は英国 の 」。W.ハ ー トに依頼 した。彼 は慶応 4
年 (1868)来 日早 々居留地 の計画図 と下水道設計図を作成す る(3.5)。 明治 5年 に工 事
は竣 工 し、彼 は英国 へ帰 るが、 1868年 に書 かれ た彼の設計図 によると、居留地 の南北 に
走 る煉瓦積管 は 6筋 で、 その断面 は円形 と卵形 の 2種 類 が あ り、延 1.9kmで あ った。 ま
た、それ に接続す る東西 に走 る枝管 は、内径 23cm、 80cmの 上管で、延長 4.6kmに も及 び、
当時 と して は画期 的 な工 事 であ った。
その上管 の形状 はす べ て図 -10に 示す よ うな西洋土管 であ った。現在 その上管 は、 ま
だ埋設 されて い る遺構があ るので、最近神戸市 はテ レビカメラを ロボ ッ トで 下水管内部
へ 侵入 させて、 その内面 を撮影 した。今 の ところ輸入か国内産かよ くわか らない。国内
産 とすれば英国人 の指導 による、堺 の煉 瓦工場 あた りが有力である (4.12)。
土管 A
土管 B
煉瓦積
卵形管
図 -10
播磨町 。江戸町・ 伊藤町道路横断図
神戸外国人居留地下水道
神戸市下水道局〕
」 w.ハ ー トの設計 した上管 〔
.
(2)横 浜居留地 横浜 は安政 6年 (1859)に 開港 し、それに伴 なって外国人居留地 も
整備 した。造成後、道路 と下水道 を設ける ことにな り、その設計 を英国の R.H.ブ ラ
ン トンに依頼 した。彼は灯台建設の 目的で慶応 4年 (1868)に 来 日した ものだが、 ほど
な く居留地 の測量 に着手 し、明治 2年 現地 の改造監督 になって、 4年 には旧居留地 の道
路工事、下水道工事を完了 した (4.4)。 下水道 は、 『地下の陶器 のパ イプで直接に海 に流
す方式で排出』 (英 国領事 の記録)し 、そのパ イプには 『口径 5寸 或ハ 7寸 余 ノ瓦管』
(神 奈川県文書)を 使用 したが、その ことについてブラン トン自身は、次のよ うに回顧
している(4.2)(4。 3)。
『排水管 について は、 日本 の役人 によ く説明 して現寸大 の図面を渡 しておいたところ、
ある日試作品を持参 した。それは幾分軟 らか く、焼 きが十分で なか った ものの、十分 に
使用 で きそうな製品であった。その後 これに改良を加えて、必要量を供給できる手はず
が整 った (3.6)。 』
ところが、 この土管は地 な らしで多 くが割れて しまったので、 さらに耐圧性を加え、
ようや く解決す る。 この上管は旧居留地 の各地 より出土 してお り、 それを見るといずれ
も屋根瓦 と同 じ燻 し銀色であ り、形状 は図 -9の F3形 であ った。土管 (瓦 管)に は
「瓦甚 一本横仕入 」の刻印があ り、 ブラン トンの指導 による国産品であることがわか っ
た。
ブラン トンは明治 4年 、横浜新埋立居留地 の改良計画 に入 る(4.5)。 「横浜新埋立地道
溝造 り勘定積 り書」 によると、土管の使用数 は直径 15cm2970本 、同28cm1005本 、継管 1
30本 とな っている(2,17)。 神奈川県は この上管を 5年 に組山頼二郎 を通 じて、常滑 の鯉
江方寿へ注文 した。そ して横浜 の請負業竹内萬次郎が、瓦製の実物見本を携帯 し、真焼
水甕のよ うに極 めて堅牢 に焼成 して もらいたい と依頼 したのである。発注数は内径 15cm、
長 さ共に61cmの 2種 類各 1万 本ずつ ということであ った。方寿は、従来 とはちが
う真焼の近代土管を同年 の うちに納入 したが、プラ ン トンの検査で注文品 と違 うといわ
れ、採用 されなか った。そこで方寿は、幾多の改良を加 え、木型 による成形法でようや
23cm、
く納入す ることがで きた (2.16)。 この成功は、常滑で西洋式土管を大量 に生産す る濫傷
とな り、常滑焼土管が他産地 を圧す る原動力にもな った。
この注文数が新埋立居留地用 の数倍であったことについて、横浜下水道史 の編集者早
稲 田稔は、 『居留民 の各戸用 のほか、当時既に居留地外にも大下水があり、新築 の場合
には各戸 に埋 下水 を設け、大下水 に接続 させ ることを義務づ けて いたので、 これ らに使
用す るために大量 の物が必要だ ったのだ ろ う。』 と推測 している(4,3)。
なお神奈川県は13年 か ら居留地下水道 の全面改修工事を計画 し、 17年 に起工、20年 に
竣工 した。その構造 は煉瓦積による卵形管を主管 とし、枝管 には内径 15cm・ 21cmの 上管
を延 5.7kmに わた って使用 した。
5.2鉄 道用上管 鉄道用上管 とは、鉄道が田畑を横切 るとき、左右の田畑の水路が断た
れ るので、その水路 を連結するために設けた ものを い う。 この鉄道用土管 は、わが国最
初 の鉄道か ら英国製輸入土管が用 い られた。
OO
(1)新 橋 ―横浜間鉄道 鉄道用上管 に関す る文献 は非常 に少ないが、 その 中で 「鯉江
方寿翁 」には次 のよ うな記 事 が あ る。
『明治 5年 京濱鐵 道 の工 事 に際 して翁 は大 いに視察 の 必要を認 め、旅装 を整 へ て 出発 し
英吉利 の製品 を見て大 いに感ず る所が あ った。営時 の英吉利製 はソケ ッ ト無 しの竹 筒様
の上 管で催 目は外部 か ら別 に土管 製 の輪 を歓 めた もので あ った (2.16)。 』
この上 管 の形状 は直 円筒 の A形 で、 1897年 発行 の フラ ンスの著書 に紹介 されて い る こ
とは既 に述 べ た。
わが国最初 の 鉄道 とな った新橋 一横浜 間 の 鉄道 は、英国 のモ レン・ シェパ ー ド・ デ ュ
ー イ ングの監督 の もとに、 明治 3年 に着 工 し、 5年 に完成 した。 そこには上記 の よ うに
英国製輸入土管 を使用 して い るが、 この上 管 は今 の ところ出上 して いない。従 って その
実体 はよ くわか らな いが 、別 に上水道で西洋式 A形 土管が 出上 して い るので 、 そ こで 後
述す ることにす る。
(2)大 阪 ―神戸間鉄道 関西地 区で は大 阪 一神戸 の 区間が、英国の エ ングラ ン ドを指
。
揮者 と して、明治 3年 に起工 し、 7年 に完成 した (3.8)。 軌条を は じめ とす る鉄 材 セ
メ ン トな どは英国か ら輸入 し、石材・ 木材 な どは国 内産を使 っている点 は、関東 関 西 と
もに同 じであ るが、関西 は堺 の 煉 瓦 を多 く使 って い るのに対 し、関東で は煉瓦 を用 いず
に専 ら石材を使用 して い る点が異 な って い る (3.7)。
ところが、肝心 の上管 につ いて 触
れ た記録 は全 くない。推測す るに、関東 と同 じよ うに輸入品 の可能性 が強 いが 、国 内産
とすれば、や は り英国人 の指導 によ り、堺 の 煉 瓦工場で製造 した可能性 も残 されて い る。
(3)京 都 一大阪間鉄道以後 京都 一大阪間 は、英国人 の指導監督 によ り、 明治 10年 に
開通す るが、前記 2線 と異な る点 は、建設 資金 の捻 出難 のため、極力国内産 の 資材 を使
土管 の場合 も例外 ではな く、鉄道寮 京都
出張所 は、京都・ 伊賀・ 堺・ 淡路・ 備前・ 長崎・ 常滑 の各製陶地か ら、数十種 の 見本 を
蒐集 して、 その比較検討 を行 な った。 その結果、最高品質 だ った常滑真焼 土管が採 用 さ
って 、 工 事費 を節減す ることにあ った (3.8)。
れ ることにな り、内径 15cm。 23cm。 30cm、 長 さ61cmの 3種 類合計数万本 を鯉江方寿 が受
注 した (2.16)。 常滑焼 土管 は前述 の 横浜新 埋立居留地 向けの上管で苦労 した教訓 が 、 こ
こに一 抜 に福 に転 じ、 これを契機 と して その 名声 は全国 にあまね く広 が る ことにな った。
表 -2は 官設私設鉄 道 を集計 した年度別全 国鉄道 開業距離表であるが、土管 の 使 用量
も これ に比 例す る もの と思われ る。 この 表 によると明治 10年 代 は逐次増加 し、 20年 代 に
な ると恐 らく土管 の生産が間に合 わな いほどの需要増 にな る。勿論、全数 で はな い に し
て も、常滑焼土管 が その 中心的役割 りを果 した ことは確か であ る。
nυ
表 -2
明
治
年度別全 国鉄道開業距離表 (3.9)
治
明
kⅢ
km
明
治
km
3
0
15
78
27
289
4
0
16
119
28
27ヱ
5
29
17
28
29
348
6
0
18
155
80
754
7
38
19
116
31
759
8
0
20
262
32
867
9
43
21
512
38
348
10
0
22
361
84
275
11
0
23
423
35
840
12
13
24
510
86
415
13
40
25
249
37
320
14
89
26
109
38
145
備考 i86年 までは明治期鉄道史 資料、37・ 38年 は鉄道局年報 (3.9)
39年 以降は鉄道国有法 により統計が変 ったため消略 (2.4)
5。
3上 水道用上管 江戸時代の上水道 は木樋 が中心であ ったが、 中には伝統的土管 を使
う所 もあ った。 ところが明治に入 ると、西洋式近代土管や鋳鉄管が輸入 され、上水道 に
も採用 されて旧来 の木樋 と共存す る。明治 20年 横浜 に近 代上水道が布設 され、 さ らに20
年頃か ら国産鋳鉄管が出廻 るようになると、土管 は簡易水道や、小規模 の水道 に活路 を
見出すようになる。
(1)横 浜水道会社
)
(神 奈川県
「鯉江方寿翁 」によると、 『明治 6年 横浜高島町 に
上水道 の敷設 され るに就 いて土管の注文が来た。内径 1吹 5吋 (43cm)長 3唄 (91cm)、
内径 5吋 (18cm)長 4唄 (122cm)の 2種 合 せて数千箇であ った。』とあるが、 これ は
横浜水道会社 の ことである(2,16)。 この上水道 は明治 4年 に起工 され、 6年 に完成 して
い るが、 12kmに 及ぶ導水路は木樋を埋設 し、高島町より先の幹線・ 枝線 には土管 も併用
されて い る。 しか し、漏水事故などの理 由で、 7年 には経営に行 きづま り、 その後神奈
川県庁 の所管 とな って再 々改修 したが、 14年 頃には手が つ け られない状態 にな り、 つい
にそのまま放棄 された(3.4)。
(2)横 須賀造船所用上水道
)
明治 4年 、横須賀製鉄所は横須賀造船所 と
改称 し、艦船の建造、修理を主 に した事業 に発展す る。 しか し、水不足のため、造船所
建設工事首長 のフランス人 ウェルニー は、 7 km離 れた走水か ら水道を引 くことに した
(3.3)。
(神 奈川県
最初 は鉄管を使用す るつ もりで いたが、結局、土管を使 って明治 8年 か ら翌年
にか けて布設 した(3.4)。
この上管は図 -11の ように形状 はA形 で、内径 12.5cm長 さ約 lm、 接合部 には継手土
∩υ
Oと
区分
色
主
ぎ
輪
れんが色
長 さ 40イ ンチ (約 lm)
内径 5イ ンチ (約 125m)
干蒸抜きの台部と思われる
つ
管
れんが色
8イ ンチ (約 20o■ )
6と
インチ (約 10cm)
81イ
外径
6;イ ンチ
管厚
幸インチ
外観
両切、 ツケ ッ トな し
内部
やや黒 く焼かれている 上管同様
強度
普通上管程度
(約 10cm)
(約 2 cln)
ンチ (約21 5cm)
1イ ンチ (約 25α 取
)
外側前面横す じ入 り
普通上管程度
モルタルに似て いるが、
む しろセメジ トのみが硬
化 した ものに近 く、かな
り堅い。
:ξ
とど
の
も
::I`夕 ,:ど
図 -11 横須賀造船所用上水道組立推測図 (4.6)
管を嵌め こんだ もので ある(4.6)。 その表面には明 らかに押出機械成形 とわかる縦条痕
があり、継手 は図 -3に 示す西洋式煙管が使用 されて いることか ら、輸入土管 と思われ
る。その裏付け として、 「横須賀海軍船廠史」に 『水道管買入 二就 テハ 四度梯 トシ三 ヶ
コ
二
月毎二三千五百弗 ヲ沸 ヒ追テ該注文品到着 ノ上残部 ヲ支梯 フ コ トトシエ事 著手 スル
トトナ レリ。 』 と ドル高耕 いにな っている記録があ る(4.6)。
)
明治 12年 秦野町 にもコ レラが流行 した (3.4)、 (4.7)。
それを契機 として、町では上水道 の設置を検討 して きたが、財政状態がよ くなか ったの
で、神奈川県庁の指導 の もとに、鉄管をあきらめ、常滑焼土管を使用す ることに した。
それは21年 に起工、23年 に竣工 している。 この上管の形状 はA形 で内径 6 cm、 9 cm、 15
(3)秦 野町曽屋水道
(神 奈川県
長さ61cmの 上管合計約 1万 本であ り、図 -3に 示す ように継手上管で接続する西洋
式水道 である。異形 としては図 -9F4形 の ソケ ッ ト付、 Gl形 のよ うなフラ ンジ付 な
cm、
ど 7種 類あり、堅形 の水道栓 も土管で製作されて いた。
納入 に際 し80ポ ン ドの水圧試験 を行 な ったところ、わずか 8分 の 1の 合格率だ った。
そこで常滑では製作 に改良 を加えて無事納入す ることがで きた。ちなみに、 この水道管
は大正 12年 の関東大震災で破損がひどか ったので、その後鋳鉄管 により大改修が行 なわ
れて い る。
うと
(4)福 島水道
)
福島周辺は元来飲料水 に乏 しく、昔か ら掘抜井 を何度 も試
掘 しているが、いずれ も不成功 に終 っている。明治 11年 檜 の箱樋を用 いて約 4 kmの 水道
を設置 し、 18年 にはこれを松 の考1り 抜 き管に改 めて、改良拡張工事 を行 なった。 しか し、
(福 島県
それ も漏水 のため22年 には木管を常滑焼土管に改 め、再び拡張工事を行 なった。 この導
水管 は内径24∼ 30cmの 上管、ため桝 は内径61cmの 上管が使われて い る(3.4)。
)
古川市 は宮城県のほぼ中央 にあり、昔か ら市内を流れ る川
の水 を飲料水 として きたが、決 して質のよい飲料水 とはいえなか った、市 では何度 も水
(5)古 川水道
(宮 城県
道計画が練 り直 され、よ うや く明治 16年 になって竹管を布設す ることで決着 した。 とこ
ろが、宮城県は土管 を使 うことを推奨 したので、結局、内径 12cmの 上管を採用す ること
にな り、専門家を招 いて 隣の大崎村で製作 した。水道は 6か 所 の泉か ら、市街 の47か 所
の共同または専用井 まで布設す る工事で、 17年 に竣工 している。
しか し、 この上管は破損が多 く、22年 の拡張工事 の際、前記秦野町を参考に して、常
滑焼土管 に布設換 えされた(3.4)。
(6)鋳 鉄管 と土管 わが国に鋳鉄管が輸入 された明治初年以来、各地で近代水道設置
の要望が高 ま ったが、最初にその実現 を見たのは、明治 18年 に着工 し、20年 に竣工 した
横浜水道 である(3.4)。
神奈川県庁 は、 16年 英国の Ho S.パ ーマーに横浜水道 の設計調査を委嘱 した。パ ーマ
ーは英国より 5人 の技師を呼んで、工事を進 めた。その水道 の幹線 は内径 20cm以 上 の鋳
鉄管 とし、枝管 まで入れて総延長87.2kmに も及ぶ膨大 な工事で、90mご とに消火栓 も設
置 した。パ ーマーは竣工後消火栓 か ら放水試験を行ない市民を驚ろかせた りして、水道
の認識向上 に努めたので、鋳鉄管を使用 した近代上水道が、わが国にもようや く定着す
ることにな った。
鋳鉄管 は英国またはベルギー産が多か ったが、20年 の釜石鉱山を皮切 りに して国産化
が始 まり、その後需要 の増大 に伴 なって、数多の工場が新設 され、鋳鉄管業界 は急速 に
伸 びてい った。
一方、土管 はポ ンプによる加圧送水がむず か しいため、近代上水道では採用 されなか
ったが、財政 の乏 しい地方 の 自然流下式筒易水道や、特定区域 の小規模用水 として活路
を見出 していった。 明治 における、土管を使用 した簡易水道 の一覧表 を表 -3に 揚げ る。
つと
うと
表 -3
変工 寄
明治 における土管を使用 した簡易水道 (3.1)(3.3)
簡 易
水 道
名 称
使 用 導 水 管
15cm土 管
献
文
3.3
32
山形県椎澤村 上水道
10・
32
山形県飯塚村 上水道
3.3
34
長崎県神 ノ浦村水道
15cm土 管
鉄管 。15cm土 管
35
山形県女 鹿簡易水道
9.lcm土 管
3.1
38
東京府 泉津村 上水道
7.6cm土 管
3。
40
徳 島県池 田町水道
3.1
41
山梨県東光寺簡易水 道
鉄管・ 23cm土 管
鉄管 。6。 lcm土 管
43
茨城 県水 戸市一部地区上水道
23cm土 管
3.11
44
】ヒ海道小檸市 一 部地 区仮設水 道
鉄管・ 15cm土 管
3.1
44
東京府 八 丈 島三 根村 上水道
鉄管・ 9。 12cm土 管
3,3
10・
3.1
3
3.1
5.4下 水道用上 管 横浜や神戸 の外国人居留地 には、土管を使用 した本格的下水道が整
備され たが、 これ らは一般 の 日本人には直接縁 のない ものであ った。
ところが、明治 10年 に コ レラが大流行 し、 12年 には コ レラによる死亡者が、全国で 10
万人を越 えるほどの猛威を応、るうと、上下水道 の整備をは じめ とす る生活環境改善 の必
要性が、強 く叫ばれ るよ うにな り、中で もスラム化が進行す る大都市 ほど放置で きない
環境 に追いこまれた。そ こで不完全なが ら、まず東京 より下水道工事 が始ま った。 こう
した伝染病対策 に追われた時期を第 1期 とす ると、30年 代以降、 ようや く環境衛生につ
いて着手す る時期を第 2期 とす る。 この時期 は、ち ょうど日清戦争を経て工業 が勃興 し、
人 日の都市集中化 を招 いたため、汚物や汚水 に悩まされて、都市 の生活環境 が悪化 した
時期 で もあ った。その対策 として、38年 には、下水道法・ 飲食物取締法・汚物掃除法 な
ども制定 されて い る(4.1)。
)
東京府では下水論議 が活発化す る中で、下水改良場所 の
検討 tと 入 り、明治 16年 、当時 もっともスラム化が進み、下水 の疎通 も悪 く、伝染病 の発
生 条件 が揃 って い た神 田地区をまず指定 した。 そ して内務省お雇 い工 師 H.D。 レーケ
(1)神 田下水道
(東 京府
ランダ人 )の 意見をただ した上で、 17年 にな って下水道 の第 1期 工事 に着手 した。
その基本計画は、排除方式 は雑排水・ 雨水一緒 の合流式 とし、構造 は暗渠で本管は煉瓦
積 の卵形管 に外側 を コ ンクリー トで蔽 った もの、枝管は円形土管 を使用す るとい う内容
(オ
であ った。第 1期 工事 が終 ると東京府 は翌年第 2期 工事 を隣接地 に着工 した。構造的 に
は第 1期 と大体同 じで、その配管の長 さは表 -4に 示す ような ものであつた (3.5)。
つ0
0と
表 -4
内
管
土
神田下水道 の配管距離表 (3.5)
管
煉
径
さ 第 1期
厚
第 2期
合
計
Cm
Cm
m
m
m
24
3.0
466
300
766
30
3.6
803
205
1008
86
3.6
688
562
1250
61
4.6
0
120
120
△
言
十
1957
1187
8144
瓦
管
300
なお 19年 に東京府 は第 3期 工 事 も計画 したが、 財政難 のため 中止 せ ざるを得 なか った。
この 神 田下水道 は、わが 国、近代下水道 の標本 と しての意 義 も大 きか った。
(2)大 阪市
(大 阪府
)
大阪市 は明治 22年 頃、市 内の 下水溝が約 350kmに もな り、 そ
の浚渫費 もかな りの 額 に達 したので、 まず、 旧市 内の 下水道改良事業を進 め ることに し
た。 これ は暗渠 にす る計画 の もとに、従来 の 下水溝 の 内面を コ ンク リー トで塗 って 新 し
い U字 溝を造 り、 その上 に石蓋をお、
せ る方式 であ った。 また、 溝 幅が 30cm程 度 の ものは
埋 めたてて 、中に内径 30cmの 上管を布設す ることに した。
その工 事 は27年 に着手、 30年 に完了 して、一応 旧市 内 は暗渠 とな る。 そ して、 さ らに
31。
32年 度 には拡 張 工 事 を実施 し、 32年 か ら 5か 年継続事業を第
2次 計画 と して進 めた
が、 ペ ス ト病患者が発生 したため、計画を早 めて34年 に完成 させ た。全体 の下水暗渠 は
130km、
土管 は47.5km、 接続土管 は43.5kmに も及んで い る (4.8)。
(3)仙 台市
(宮 城 県
)
仙台市 は明治 24年 よ り上下水道 の 調査 に入 り、 26年 W.K。 バ
ル トンに設計 を委 嘱 したが、 30年 には 中島鋭治 を顧間 に迎え 、 その 指導 の もとに市全体
の 下水道調査お よび設計 を始 めた。 その結果、 バ ル トン提案 の分流式排水法 を改 めて合
流式 に した。下 水道 はす べ て 暗渠で、内径 86cmま での 小形管 は常滑焼土管を使用 し、内
径 46∼ 76cmは モル タル管、 それ以上 は長 方形暗渠を石 と煉 瓦 で構築 し、一部 には煉瓦積
卵形管 も使用 した。工事 は82年 か ら始 め、大正元年 に竣 工 したが、 その使用上 管 は2.5
kmに 達 した。 この 下水道 工 事 で画期的だ ったの はモル タル管 の 使用 であ る。基本的には
小形 管は土管 だが 、 76cmま での大型管 はモル タル管 と した。 このモル タル管 は製 作 全部
を直営 と し、43年以 降 は鉄 筋 コ ンク リー ト管 の 製造 に切 り換 え た。 この鉄筋 コ ンク リー
ト管 は37∼ 40年 の 東京市 下水道基本計画 当時 にお いて 、中島鋭治指導の もとに設計 した
のが わが国 の濫傷で あ り、 その実施 は40年 横浜築港埋立地 の 排水用 に使用 した の に始 ま
,(3.3)。
だ
この工 事 で 小形管 は土 管、大形管 は鉄筋 コ ンク リー ト管 とす るわが国近代 下水道 の形
態が確立 された。
(4)名 古屋市
24
(愛 知県 )
名古屋市 の 下水道敷設事業 は明治41年 に始 ま って、大正 12
年 に竣 工 す るとい う、そ の 間 16年 にわ た る大 事業 で あ った。事業 は中島鋭治 を顧 間 と し、
専任技師 には茂庭忠次郎が当た った。上管 は内径 12∼ 46cmと し、内径 53∼ 186cmの もの は
す べ て 鉄筋 コ ンク リー ト管 と した。
また、茂庭 は、土管の寸法形態規格等 を定 め るために、 その強度試験 を繰 り返 し行 な
って、製造業者 に対 し学術的改善 の指導 にあた った。 当時 の常滑陶器 同業組合長伊 奈初
之忍 らは、 その指導 の もとに製造法 に改良 を加え、奮励努力 した結 果、 同業者 一 部 の 反
発 はあ った ものの 、 よ うや く品質 も確立 し、42年 にな って 名古屋規格 を定め ることが で
きた。 この 規格 は、やがて東京 。大阪を は じめ、わが国の上管規格 の基本 にな り、土 管
業界 の 発展 につなが る重大 な 内容 で あ った。
ちなみ に東京市 の近 代下水道 工 事 は、 中島鋭治 の 設計 によ り、大正 2年 によ うや く実
施 を開始す ることにな った (3.5)。
(5)そ の他 の都市 上記以外で明治 時代 に起 工 し、土管を大量 に使用 した都市下水道
は、下関市 と広 島市 が あ る。 それ以 外 で土管 を使用 した下水道 は、大正以降 に工 事 が 始
ま った。
下関市 は、 W.K.バ ル トンの設計 で、分 流式排水法 を取 り、明治 26年 に工 事 に入 った。
下水管 はす べ て土 管を用 い、 内径 15。 24・ 80・ 36cmの 4種 類 で、その総延長 は 8.8kmに
及 び、30年 に全工 事 を完了 した。
広 島市 は、 明治 41年 よ り下水道 工 事 に着手 し、大正 5年 予定通 りの工 事 が完 了す る。
下水 管 は 内径 12∼ 42cmま で は薬 引本焼土管 と し、 内径 46∼ 61cmを 上管 または モル タル管、
それ以上 は現場打 ち コ ンク リー トか コ ンク リー ト塊 によ り構築 した。使用 した上管 は 97
.lkmに も及んで い る(3.5)。
これ まで上水道 。鉄道用上管 について述 べて きたが、土 管 の
用途 は土 木・ 建築・ 製造 工 業 の 各分野 で、 給拶F水 用・ 液体輸送用・ 送風管・ 煙 突 な どに
使われ、灌漑用水 。道路・ 港湾 を は じめ、工場・ ビル・ 店舗・ 一般家庭 の小 日需要 に至
5.5土 管 の広範 な使用先
るまで 、生活環 境 に密 着 して発展 して い った 。 また、土 管 の 種類 も明治末期 には並 形
(一 般用 )・ 厚物 (下 水道用 )・ 特厚物 (鉄 道用 )の
3種 類 とな り、そ のほか に も角半
径形・ 丸半径形 の 開溝用、井戸筒・ 煙管・ 電績管お よび異 形土管 などが 製作 されて、 そ
の用途 も多岐 にわた って いた。 次 に建 築お よび製造 工 業 の 2例 について述 べ る。
(1)建 築 明治初期 よ り始 ま った石造・ 煉瓦造建築 は、政府 の威信をかけてお雇 い外
国人 に委嘱 し、大規模 の建築が築造 され たが、 15年 頃 よ り日本人 の設計 によ る建築 も増
して くる。 これ ら明治を象徴す る建築物 には 中坪 が 設 け られ、内外部 の排水 には多 量 の
上管が使用 された。
その 代表例 と して帝国大学 内に建造 した工科大学本館 の工 事をあげ る。 この建 築物 は
辰野金吾 の設計で、建坪 2700♂ の 2階 地下 1階 建 (附 属 工 場 は別 に 840ピ )の 煉 瓦 造 で
あ り、 明治 21年 に竣 工 す る。 そ こに使われ た土管 は 「建築雑誌」によると、 『本館 廻 り
上 中室共尾州常滑焼土管内径 一 尺 中坪廻 り内径八寸建樋枝管 内径六寸総 テ勾配百分 ノー
25
割合継手 「モルタル 」使用溜升煉化石積縁石 トモ据付』 と書 かれてお り、土管 は内径 18
・ 24・ 30cmを 使用 している(4,13)。
(2)製 造工業 製造所の代表例 として、伊達家下屋敷だ った仙台坂
東大井 )の 仙台味噌醸造所 について述 べ る。
(現 東京都品川区
この遺跡 は近世か ら近代 にかけての味噌醸造 に関する様相が、 よ く調査 された好例で
・浸漬す るための洗
あ って 、そ こか らは土管が 100本 以上出土 した。敷地内は大豆を洗浄
い場、お よび大豆を蒸す 5基 の竃などと共 に、排水施設 も確認 されている。排水施設 は
土管 による暗渠排水用が殆 どであ り、その方式 は汚水・ 雨水 を分離 しない合流式で、土
管 16列 、枡 9基 が検出された。
土管 の形状 は、大部分は近代土管 の図 -9F4・
の もの、長 さ50cm内 径 8・ 1lcmの
F5で 、長さ65∼ 69cm内 径 18・ 23cm
ものの 4種類 であ り、その他 に F2形 および大正以降
の土管 も含まれていた。調査 の結果、大部分 は明治20∼ 30年 代 の常滑焼土管であること
がわか った (1.30)。
6.ま
とめ
中国 には、今より4000年 以上 も前か ら土管があ った。まだ屋根瓦がなか った頃であ る。
その土 管は朝鮮半島を経由 し、 6世 紀 にな ってわが国へ瓦 とともに渡来 した。 しか し、
寺院・ 宮殿 には使われたが、屋根瓦 のよ うには広 く普及 しなか った。わが国は木材 に恵
まれ、水道管 には木樋が多 く使われたか らである。
その後 16世 紀 にはソケ ッ ト付土管が奈良を 中心 として登場す る。 これは近代土管 に最
も近 い形状 であった。
17世 紀 より藩政時代 に入 ると、各藩主 は農政を主体 として灌漑用水 に注 力 し、木樋・
石樋・ 竹樋 とともに土管 (土 樋)も 使用す る。 また、上水道 を必要 とす る所で は、 まず
木樋 中心 の水道 を築造 し、その後腐朽す るにつれて土管に取 り換えて い った。
明治維新以後 は西洋式上管が導入 され、伝統的土管か ら西洋式近代土管へ と移行 して
い く。 そ して上下水道 。鉄道用上管 として短期間に急激に発展 してい った。46cm以 下 の
上管 は自然流下式の水道管 としては、最適 の資材 とされ、明治末期 には使途 の道が開か
れ、 ここに大正以降の発展 の基盤が確立 されたのである。そ うした路線づ くりに心血 を
注 いで きた一部 の製造業者、お よび厳 しか ったが育成 も忘れ なか った一部 の需要者 には
頭の下が る思いがす る。
小稿 は長い土管の歴史 の うちか ら 「土管が どこに、 どう使われて きたか」をテ ーマの
中心 と してまとめてみた。 その資料収集 には、万全を期 したつ もりだが、今 まで未開拓
の分野 だ っただ けに、未消化の点について はご叱正を賜 りたい。
最後 に小稿を草す るにあた り、実 に広範 な方 々の ご教示を いただ いた。 ここに深甚 な
る謝意を表す る次第である。
26
31
用
文
献
1.考 古学
(1,1)神 宮司鷹 「古事類苑」 (1909)
(1.2)大 脇 潔 「飛鳥 の寺 」い保育社 (1989)
(1.3)奈 良国立文化財研究所飛鳥資料館 「飛鳥 の寺院遺跡 1 -最 近 の 出土 品 一」
(1975)
(1.4)奈 良国立文化財研究所飛鳥資料館 「飛鳥 の源流 」ltl関 西 プ ロセス (1991)
(1.5)奈 良県立橿原考古学研究所 附属博物館 「1989年 度発掘調査速報展 10」
(1989)
(1.6)平 安京調査本部 「平安京六角堂 の発掘調査 」①古 代学協会 (1977)
(1,7)九 州歴史資料館 「収蔵資料 目録表 4」 (1987)
(1.8)浅 田員 由 “猿投窯 におけ る土管の生産 について "「 愛知県陶磁資料館研究紀
要 4」 愛知県陶磁資料館 (1985)
(1.9)板 橋 源 「岩手県東和 町北成 島水道遺跡 」 (1969)
(1.10)谷
豊信 “中国 における排 水管 の歴史 "「 下水文化研究
第 2号 」
下水文化研究会 (1988)
(1.11)韓 国国立 中央博物館 「国立 中央博物館 図録 」韓国通川文化社 (1986)
(1.12)韓 国国立扶餘博物館 「扶餘博物館 陳列品図鑑 」三和 出版社 (1977)
(1.13)韓 国国立慶州博物館 「目立慶州博物館 図録 」韓国通川文化社 (1988)
(1.14)韓 国国立慶州博物館 「菊隠 李養 略 蒐集文化財 」韓国通川文化社 (1987)
浩 ― 「井辺 八幡 山古墳 」同志社大 学文学部考古学教室 (1972)
(1.16)奈 良県立橿原考古学研究所 「馬見丘 陵 にお ける古墳 の調査 」 (1974)
(1.15)森
(1.17)奈 良国立 文化財研究所 「川原寺発掘調査報告 」 (1960)
(1.18)奈 良国立文化財研究所 「平城宮発掘調査報告 Ⅵ」 (1975)
(1.19)奈 良国立文化財研究所 「薬 師寺発掘調査報告 」 (1987)
(1.20)奈 良県立橿原考古学研究所 「奈良県遺跡調査概報 」
(1982・ 1989)
(1.21)奈 良市教育委員会 「奈良市埋蔵文化財調査概要報告 J(1980。 1983・ 1985・
1987・ 1988・ 1990)
(1.22)興 福寺 「興福寺防災施設 工 事 。発掘調査報告書 」 (1978)
(1.23)奈 良女子大学 「奈良女子大学構 内遺跡発掘調査概報 Ⅱ」 (1984)
(1.24)齊 藤孝正 “尾張 におけ る飛鳥 時代須恵器 生産の一 様相 " ,「 名古屋大学文学
部研究論集史学 86」 名古屋大学 (1990)
(1.25)働 京都府埋蔵文化財調査研究 セ ンター 「京都府遺跡調査報告書
第 7冊 」
(1987)
(1,26)長 岡京市教育委員会 「長 岡京市埋蔵文化財調査報告書 第 5集 」 (1991)
(1.27)堺 市教育委員会 「堺環濠都市遺跡発掘調査概要報告 」 (1990)
(1.28)大 阪府教育委員会 「亀井
埋蔵文化財発掘 調査概要報告書 」 (1988)
27
(1.29)大 阪府教育委員会 「友井東 埋蔵文化財 発掘調査概要報告書」 (1983)
(1.80)品 川 区遺跡調査会 「品川 区埋蔵文化財調査報告書 第 7集 仙台坂遺跡 」品
川 区教育委員会 (1990)
2.窯 業史
(2.1)
EMILE 80URRY 「INDUSTRIES CERAMIQUES」 GAUTHIER― VILLARS ET FILS,
IMPRIMEURS― LIBRIRES (1897)
(2.2)
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(2.3)
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Green wood & son (1900)
& Sohn, 8runschwet, Deutschland (1907)
(2.4)① 工学会 「日本工業大観 」工政会 出版部 (1925)
(2.5)① 大 日本窯業協会 「日本近世窯業史陶磁器工業編 J(1922)
(2.6)ω 大 日本窯業協会 「日本窯業大観 昭和 8年 」 (1983)
(2.7)素 木洋 一 「セ ラ ミックスの技術史 」技報堂 出版lMl(1983)
(2.8)永 原慶二 、山 口啓二 「講座 。日本技術の社 会史第 4巻 窯業」lMl日 本評論社
(1984)
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(2.10)下 間頼 ― 「技術文化史 12講 」森北 出版 m (1983)
(2.H)宗 宮重行 “下水道 の生 いたち と陶管 " ;「 厚陶管の現状 と将来 」 日本学 術振
獲皿笠
当
(2.12)い
(2.13)森
(1975)
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日本 の タイルエ 業史 」
(1991)
郁夫 「かわ らの ロマ ン」毎 日新 聞社 (1980)
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(2.14)柿 田富造 “
(1991)
(2.15)滝 田貞 ― 「常滑陶器誌」常滑 町青年会 (1912)
(2.16)常 滑 町史編纂会 「鰹江方寿翁 」 (1921)
(2.17)吉 田 弘 「鯉江方寿 の生 涯 」愛知県郷土 資料刊行会 (1987)
(2.18)間 壁忠彦 “
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(1980)
(2.19)平 野敏 三 “信楽焼 の歴史 と技術 " ;「 日本 の や きもの 5 信楽 J講 談社
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(2.20)桂 又 二 郎 「時代別古信楽名品図録 」光美 術 工 芸lMl(1974)
3
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(3.1)内 務省 「上 下水道 二関 スル調査書 J(1909)
(3.2)① 土木学会 「明治以前 日本土木史 」 (1936)
(3.3)中 島工 学博士記念事業会 「日本水道史 」 (1927)
28
(3.4)llll日 本水 道協会 「日本水道史 」 (1967)
(3.5)llll日 本下水 道協会 「日本下水道史 ―技術編 J(1988)
(3.6)リ チ ャー ド.H.ブ ラ ン トン、徳力真太郎訳 「お雇 い外人 の 見た近代 日本 」
講談社学術文 庫 (1986)
(3.7)日 本 国有鉄道 「日本国有鉄道百年史第 1巻 」 (1969)
(3.8)① 鉄道建設業協会 「日本鉄道請負業史 明治篇 」 (1967)
(3.9)野 田正穂 。原 田勝正・ 青木栄 ― 「明治期鉄 道史資料第 8巻 」 日本経済評論社
(1980)
(3.10)竹 内常行 「日本 の 稲作発展 の基盤 一溜池 と揚水機 J伽 古今書院 (1980)
(3.11)① 日本 工 学会 「明治 工 業史 土木編 」 (1980)
4.地 方史
(4.1)東 京都下水 道局 「下水道東京 100年 史 J(1989)
(4.2)横 浜市役所 「横浜市史 第 3巻 」 (1968)
(4.3)早 稲 田稔 “下水道 ことは じめ " ;「 下水道局報 N624∼ 51」
横浜市下水 道局
(1979-86)
(4.4)樋 口次郎編訳 「横浜水道関係資料集 1862∼ 97」 横浜 開港資料館 (1987)
(4.5)横 浜 開港資料館 「R.H.Brunton日 本 の灯 台 と横浜 のま ちづ くりの父」
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(4.6)横 須賀市水道局 「横須賀市水 道史 」 (1973)
(4,7)秦 野市水 道局 「秦野水道百年史 」 (1990)
(4.8)大 阪市下水道局 「大阪市下水道事業第 1巻 」①大阪市下水道技術協会 (1983)
(4.9)赤 穂市史編 さん専 門委員会 「赤穂市史 第 2・ 5巻 」赤穂市役所 (1982)
(4.10)廣 山莞道 “赤穂藩 の上 水道 " ;「 赤穂市市勢要覧 」赤穂市役所 (1960)
(4.11)赤 穂市教育委員会 「史跡赤穂城跡本丸 発掘調査報告書 Ⅲ」 (1986)
「堺市史 第 5編 」 (1930)
(4。 12)堺 市役所
(4.13)秋 吉金徳 “帝国大学 内工 科大学新築仕様概 略並精算 " ;「 建築雑誌」第 22号
建築学会 (1888)
(4.14)岐 阜市歴史博物 館 「信長・ 秀吉 の 城 と都市 」 (1991)
(4.15)土 山公仁 “信長系城郭 におけ る瓦 の 採用 につ いての予察 " ;「 岐阜市 歴史博
物館研究紀要 4J岐 阜市歴史博物 館 (1990)
29
1.は
主
目
濁池西古窯址群 の発掘
木
修
じめに
濁池西古窯址群 は常滑市久米濁池 の地 に所在す る中世古窯跡 である。県道久米、乙川、
内山線 の拡幅工 事 に伴 い平成 3年 1月 16日 よ り 1月 81日 にか けて常滑市教育委員会 によ
り調査が実施 された。当初現状地形か ら推定 して窯体位置か ら離れた灰原部 の末端が工
事区域にかか るもの と考え られたが、調査 の結果、現地形 は開懇 など後世 の人為的改変
を受けた もので古窯操業時の地形 と大 きく変わ っていることが判明 した。そ して遺跡 の
うち窯体一基が焼成室か ら焚 き日にかけての縦半分弱が工事区域 にかかることにな り、
さらにその窯に続 く灰原部及び隣接窯の もの と推 定 され る灰原が重 なって堆積する状態
で検出された もので ある。古窯跡 は溜池 の濁池 の】L西 部 に位置 し、溜池 の ある谷を挟ん
だ南方 には濁池古窯址群が存在す る。 この地 は篭池古窯址群、鎗場 。御林古窯址群、高
峰古窯址群 など中世前期 の大規模古窯址群が密集す る地域 に相当す る。本窯 の所在 は比
較的早 くより知 られてお り、柴垣勇夫氏によ り報告 されて い る鎌倉 へ供給 された瓦 も本
窯の一群 よ り出さ した もの と推定 され る。今回の調査 で は京都 へ供給 された瓦の 出土は
あ ったが鎌倉系 の瓦は認め られず、敢えて名称を濁池北 とせず西と したが両者は近接す
るもの と考え られ る。
本窯出土品中、最 も注 目され る軒丸、軒平瓦 は、その瓦 当文か ら少な くとも軒平 瓦の
方は京都 の仁和寺南院出土 の もの と同文であ り同疱の可能性 も高 い。仁和寺南院出土の
この軒平瓦 はすでに昭和49年 常滑市誌別巻 『常滑窯業誌』の編纂 にあた り当時京都国立
博物館 の難波 田徹氏より知多古窯産の可能性が極 めて高 い とい うことで資料提供を受け
該書 に写真掲載 された もので ある。今回同文瓦 と考え られ る出土品を得た ことで執筆者
の杉崎 章氏 より提示 された原写真により印刷 の不鮮明 な部分が解消 され、 同文である
ことが判明 した次第である。またその後 1990年 刊 の 『愛知県陶磁資料館研究紀要 9』 に
おいて柴垣勇夫氏が写真を提示 している仁和寺南院出土宝相幸文軒平瓦 は上記、 『常滑
窯業誌』掲 出例 と同一資料 と考え られ、本窯 出土品 と同文 である。柴垣氏 の記述に従え
ば仁和寺南院の堂塔建立 は1131年 以降の ことで あ り瓦葺 の丈六堂建設は保延元年 (1135)
である。先 の仁和寺南院出土瓦は、その創建時に尾張か ら運ばれた もの と考えて大過な
い とす るのが柴垣氏の見解 である。
本窯出土瓦 は共伴す る大量の山茶碗、山皿等 の型式編年か ら生産年 代を推定す ると12
世紀 の後半 に相当 し第二・ 四半紀あたりに位置づ けるのを妥当とす る。従 って、仁和寺
南院創建時 に供給 された ものとは考え難 い もので ある。
また仁和寺 と古窯所在地 との関係か らその供給体制 について議論がみ られ る。常滑・
半田市域 に所在が伝 え られ る中世荘園、堤 田荘 は仁和寺領であ った とす る所伝がある。
堤田荘 は藤原氏 の荘園 として成立 し治暦二年 (1066)藤 原頼通 の弟、教通 によって仁和
寺 に寄進 されたとす るのがその伝である。本窯周辺で過去に採集されて い る瓦が仁和寺
よ り出土 していることか ら、 この地 の瓦生産が荘園領主 としての仁和寺 へ送 られた もの
∩υ
つ0
と考え本所 ―荘 園 の 支配 関係 を物語 るとす る見解が一 つ であ る。 これ に対 し、知多 の瓦
の供給地 で は知多以外 の 産で あ る瓦 も多 く出土 してお り、広範 な瓦産地 の広が りを院政
期寺 院造営 の各国割 りあて とそ こに積極的 に関与 した国行官人 層 の活動か ら解釈 し、国
司層 と瓦二人 集団 との系列で その生産 体制 を理 解す る もので あ る。近世地誌類か ら復元
され る荘園分布 で は、濁池 西古窯 の所在地 は堤 田荘 でな く八条院領 の 大野荘 の範囲 に合
まれて い る。寄進地系荘 園 の 荘域 が丘陵山林部 にどの よ うな境界設定 をお こな って いた
か不 明 な点 も多 く、近世地誌類 の記述 に多 く依存す ることはで きな い。 また本窯 の操業
年代が仁和寺創建期 よ り50年近 く遅れ ることは寺院創建 と国衡 との 関係 で は直接把握 し
きれ ない問題 を含 んで い るよ うに思われ る。
軒丸瓦 の方 は、 これ まで 木窯周辺 出土 とされて きた宝相幸文軒丸瓦 で はな く東海市 の
社山古窯、権現山古窯 な どか ら出上 して い る蓮幸 文軒丸 瓦であ る。瓦 当文 を形成す る型
は工人 集国 の移動 に伴 って 移 った ことが証 明 されてお り、文様 自体 も窯 の 分布地 で、 あ
る程度の ま とま りを見せて い る ことを考え合 せ ると工人 集団 の 活動域 を文様 か ら復元す
ることも大略可能で あ る。 そ う した見地か らは本窯 出上 の軒平、軒丸瓦 の 文様 は系統 と
して】ヒ部集団 との近 縁性 を 看取す ることが可能で あ る。
2.検 出遺構
本窯 で は 1基 の 窯 とそれ に伴 う前庭部及 び灰原の一 部 を確認す ることがで きた。 しか
し、窯 体 は主軸 よ り右側半分 強が今回 の調査対象外で あることと、焼成室上部が後世 に
お け る開墾や 自然流失 な どの影響 を受 けて い るためその全 容を明 らか にす ることはで き
なか った。 また、窯体 に付設 され る排水溝及 び ピ ッ ト等 の施設 につ いて も検 出 され なか
った。窯 体 は害窯構造 を なす もので 、標高 51.Omか ら52.Omに か けての 傾斜地 に築窯 さ
れてお り、以下 その 概要 につ いて述 べ ることにす る。
第 1号 窯
残存す る窯体 は焚 口か ら焼成室前半部 までで、平 面 プ ラ ンにお ける全長 は、
4.9mを 計測す る。床 面 の 傾斜 は焚 口か ら 0.7mの 地点 まで はわずか に下向 し、そ こか
らはほぼ水平 を保 ち、焼成室 に入 ると徐 々 に傾斜が加わ り、焚 日か ら 2.7mの 地点 か ら
は約 15度 、 3.7mの 地点 か らは25度 の傾斜 とな る。
側壁 は燃焼室でみ ると、床面 よ りほぼ垂直 に立 ち上が り、通烙孔 と思われ る A一 A″
(図 2参 照 )で は床 面 よ り膨 みを もって立 ち上が り、 その後大 き.く カーブ しなが ら天丼
へ 続 くもの と考え られ る。 また焚 口部 の側壁 は赤褐色 に、分烙 柱寄 りで は灰 褐 色を呈 し
て よ く焼 き締 ま ってお り、 A一 A力 で は側壁 の貼 り替え も確認で きた。分烙柱 は未調査
区域 に含 まれて い るため確認で きなか った。
前庭部 は、窯体 の主 軸 上 で 計測す ると、焚 口か ら 7.Omの 地点 まで残存 して い る。焚
日か ら 2,Omの 地点 まで はわず かな凹地 にな って い るが、 その後 はゆ っ くりと傾斜 して
灰原 へ と続 いてい る。
灰原 は前庭部 の左 下方 に広 が り、土層 の 堆積状況 をみ る と、地 山面 の 直 上 に、灰層
(遺 物層 )→ 黄褐色粘質土層 (築 窯排土 )→ 灰層 (遺 物、焼土等 を多 く含む )の 三 層 が
基本層位 とな る。
31
遺物 は灰 層 中 に多 く含 まれて い たが、軒平瓦 (図 8参 照 )に ついて は灰 原部下方 の黄
褐色粘質土層 中 (図 3に 出土地点明記 )よ り検 出 した。
3.出 土遺物
第 1号 窯 とそれ に伴 う前庭部及 び灰原 部 よ り出上 した遺 物 は、 コ ンテ ナ箱 に して約
8
箱分 であ るが、窯内よ り出土 した遺物 はほとん ど皆無 に等 しいため、 本書 で は前庭部及
び灰原部 よ り出土 した遺 物 について扱 うことにす る。 また、量 的 に見 た場 合、山茶碗、
山皿が 大半 を 占め ることにな るが、 それ以 外 の器種 と して碗 (高 台無 )。 片 口鉢・ 甕・
羽釜・ 瓦 (軒 平瓦、平瓦・ 軒丸 瓦・ 丸瓦 )な どで構成 されて い る。以 下器種 ごとに詳細
を記 して い く。
碗 (高 台無 )(1)
平底底部 か らほぼ直線的 に立 ち上が った体部 は日縁 下 の締 めナデ
によ リー旦 薄 くな り、わず か に外反 し、丸 く仕上 げ られた日端部 へ と続 く。全体 的 に厚
手で、特 に立 ち上が り部分 の器壁 は 1.8cmを 計測す る。底 部 は ロ ク ロか らの切 り離 しの
ままにな ってお り、 その外面 には糸切 りの痕跡 に加 えて、砂 粒痕が認 め られ ることか ら、
焼台直上 または床面直上 にて 焼成 された もの と考え られ る。 調整 は回転 ナデによる もの
だが、 日縁部 か ら口端部 の 仕上 げ調整 は特 に丁寧 に行われ て い る。
山茶碗 (2∼ 26)
図示 し得 た山 茶碗 は底部か ら口縁部 までが 半分以上残存 して いる も
ので 、古式の形態 を もつ もの ばか りであ る。 なか には 1例 のみで あ るが、 高台を意識 的
に高 くして、 一般 的 な山茶碗 とは区別 した もの も含 まれ る (2)。 この 山茶碗 の 高台高
は 1.lcm、 底径 は 6.6cmを 計測 し、他 例 よ り高台高で 0.5cm高 く、底径で は l cm前 後小
さ くな ってい る。 また成、整 形 も非常 に丁寧 に行われて い る。
(3∼ 26)は 一般 的 な山
茶碗 で あ る。底 部 は回転糸切 り技法 によ って ロ ク ロよ り切 り離 されてお り、 その外面 に
は糸切 りの痕跡が認 め られ るが、 なか にはナデ消 して い る もの もみ られ る。底部 の外端
に付 く高台 は断面形が 三 角形 を呈 す るが、重ね焼の 要因 も加わ り、潰れて低 くな って い
る もの もあ る。 また 高台 の 末端 には粗殻痕が認 め られ る。底 部か らの立 ち上 が りはわず
かな 曲線を もって 体部 へ と続 き、 日縁下 で は締 めナデによ る凹みが生 じ、 わずかに外反
して、 日端部 は丸 く仕上 げ られて い るもの と、平坦 面を もつ もの とに分 かれ る。底部 内
面中央部 には、 す べ ての 資料 に↓
旨ナデ取 りの痕跡が認 め られ るが、回 しなが ら取 る もの
と一 方方 向 に取 る もの とが あ り、作 り手 の癖 による もの と考え られ る。調 整 は ロ ク ロに
よる回転 ナデが施 されて い る。焼成 は良好 で、 黄灰色を呈す る。
山皿 (27∼ 58)
山皿 は山 茶碗 とともに本窯 の主体 とな る遺 物 であ る。 その大 半 が高台
を伴わ ない もので あ るが 1例 のみ 高台を もつ古式 の形態を有す る もの が 出土 して いる。
(27)は 高台を伴 うもので あ る。高台 はやや 粗雑 な付 け方で、 その末端 に は粗殻痕が認
め られ る。平坦 面 を もつ底部 か らやや内弯気味 に立 ち上が り、 口縁部 で はわずか に外反
し、 その末端 は丸 く仕上 げ られて い る。 (28∼ 58)は 無高台 の もので 底部 は ロ ク ロか ら
切 り離 しのままにな って い る。全体 の形状 は高台を有す る例 とほぼ 同様 で あ るが、無高
台 の もの は日縁部 の締 めナデが 強 く、体部 中央 に比 較 的明瞭 な段差が 生 じて い る。成整
形等 は山 茶碗 と同様で あ る。
32
片 口鉢 (59∼ 61)片 口鉢 は灰原部 の比 較的下方 よ り出上 して いる。 図示 し得 た ものは
3例 で す べ て 高台 を伴 うもので あ る。 (59・ 60)は 破片資料 の復元実測 であ るた め各部
。2cm、 厚 さ0.5
の 計測値 にやや疑間が残 るが大形 の形態 を もつ もの と考え られ る。 高 さと
cmの 高台 は帯状 に回転 ナデによ って 丁寧 に張 り付 け られて い る。 また高台 の 末端 には砂
粒痕が認 め られて い る。底部 か らの 立 ち上が りは緩やか なカ ーブ を も って 口縁部 へ と続
き、末端部 は上 方 へ突 き出 して い る。器壁 は立 ち上が り部分でやや厚手 にな って い るが、
全体的にみて均 ―で あ る。調整 は回転 ナデによ るの もであ るが、下腹部 に 2∼ 8 cmの 幅
で 回転 ヘ ラ削 りが施 されて い る。 (61)は 小形 の タイプであ る。山茶碗 の重 ね焼の失敗
品を焼台 と して再利用 した ものが 、 自然釉 によ り底部 に貼 り付 いて しま って い る。成、
整形 は大 形 の タイプ と同 じで あ る。
甕
(62・ 64・
65)全
体 の 器形 を知 り得 る資料 はな く、押 印文 を もつ胴部片 の 他 は口縁
部 資料 1例 を復元実測 したに とどま る。
(62・
64)は 口縁部 か ら肩部 に至 る資料で、古
式 の形態 を もつ。肩部 は張 りが な く、頸部か ら日縁部 へ 向けて大 き くカ ーブ をえが きな
が ら外反す る。 口端部 は丸 く仕上 げ られ、そ の 内側 には凹線を一 条 め ぐらせ て い る。調
整 は頸部か ら口縁部 へ かけて は横位方 向 のナデによ るもので あ るが、肩部 内面 には指圧
痕 や粘土紐 の継 ぎ目痕が顕者 に認 め られ る。 また肩部外面 には押印文 が 帯状 にめ ぐって
お り、そ の 文様原体 は押圧がやや弱 いため、明確で はな いが、 7列 の 縦縞文 と考え られ
る。 また縦縞文 に斜線文 を組 み合 わせ た文様形態 を もつ胴部片 もみ られ る (65)。
羽釜
(63) 底部 は欠落 して い るが、おそ らく丸底 と考え られ、下胴部 よ り緩 やか なカ
ーブを もって立 ち上が り、直立 す る体部 か ら内傾す る日縁部 へ と続 く。 また 口縁下 4.5
cmを 計測す る体部 との境界 には羽が付 け られて い る。羽 は体部 よ り水平方 向 に後 付け さ
れ た もので 、回転 ナデによ る調整が加え られ、そ の端部 は丸 く丁寧 に仕 上 げ られて い る
が、 羽下部 と体部 との接合面 には継 ぎ目が明瞭 に残 ってい る。整形方法 は、 中胴部 か ら
羽下部 まで は縦位 のヘ ラナデ、 日縁部 は回転 ナデによ るが 口端下部 には強 い締 めナデが
施 されて いる。体部 内面 で は下胴部か ら中胴部 と上胴 部 に横方向 のヘ ラ削 りが施 されて
い るが 下胴部 か ら中胴部 へ か けて の それ は特 に著 しい。
軒平瓦
(66) 瓦 当文 の一 部 が欠落 してお り、全体 の文様構成 には不明 な点 が残 るが、
復元図を作成 して観察 してみ ると、京都府仁和寺南院 出土 の宝相幸文軒平瓦 と同文 と考
え られ る。以 下 この 資料 につ いて 記 す。文様面 における左右の幅 は24。 lcm、 上 下 の 幅 は
平瓦部凹面 と瓦 当部上外区 の 接合点 が曖 味 のため明確 で はな いが、約 6.3cmを 計測す る。
瓦 当部 は後付 けされた もので 深顎形 を呈す る。上外区 は段差 の あ る枠 で区切 られ、脇区
に至 って は左 側 は消滅す るが、右側で は少 しず つ段差 が無 くな り、下外 区 の 始 ま り付近
で、 その ライ ンが消滅す る。 内区 は比較 的深 く押 し込 まれた 中 にあ り、 その 縁 には上 下
に 18個 ず つの連珠文が認 め られ る。右側縁 よ り派生 した蓮花 (華 )文 は 5つ の 単位 で構
成 され るが、細部 について観察 してみ ると、蓮 弁 の数や形状 に相違点が認 め られ る。 そ
れぞれの枝葉 は上 転・ 下転 を交互 に繰 り返 し、それ に伴 う様 に蓮 弁 も流れ る。平瓦部凹
面 の 反 りは比較的強 く、表面 には糸切 りの痕跡 に加えて、焼成 時 に付着 した と思われ る
つ0
砂粒が認 め られ る。端部はヘ ラ状器具 によるナデ調整が施 されている。
軒丸瓦 (68) 丸 い輪郭 の 中 に文様を組み入れた瓦 で、1例 のみ出土 した。断片的な資
料 のため全体 の形状 は不明であるが、残存す る文様構成 か ら全体を復元 して観察 してみ
る。瓦当部 の直径は13.5cmと 考え られ、比較的大形 の複弁蓮花 (華 )文 の 中 に蓮子の数
が 9個 ある。蓬弁間には間弁 も認 め られ、 これ らを包み込む様にやや太 目の 内区が め ぐ
っている。そ して、わずか に間隔を空 けて細 い二重の外区内縁が認め られ る。 また丸瓦
部凹面 には縦方向 に強いヘ ラナデ調整 が施 されている。
丸瓦 (67)
玉縁が付 く資料 で、玉 縁 の長 さは 7.5cmを 計測する。凹面 には糸切 り痕 に
加えて、布 目痕が認 め られ、凸面 には縄 目状 の叩 き目痕が残 る。端部及 び両側面 と、そ
の内側にはヘ ラ状器具 による面取 り調整が施 されている。
70)
断片的 な資料 であるが、わずか な反 りを もつ ものである。凹面 には糸
切 り痕、凸面には糸切 り痕 に加えて縄 目状 の叩き目痕が認め られ る。端部 は丸瓦 と同様
平瓦
(69・
に面取 り調整が施 されて いる。 また、 (70)の 資料 には凹面 にとビ割れを補修 した痕跡
が認め られ る。
34
(単 位
出土 遣 物 計 測 表
琴
出
構
N CJ‐
山
茶
十
41j
A2区
碗
日
点
Rll庭 濁
`火
N GttB 5区
N GttA 3区
碗
灰
西
層
N6西 A5区
NGttB 4区
N GttA Z区
NGttB 4区
7
N
N
N
N
9
1
GttA
GttA
GttA
GttA
5区
2区
3区
3区
雨 庭部 火層
前庭部灰層
N GttA 3区
3
層
`火
N GttB 4壁
N6西 A5区
4
NG西 不 明
N GttA 2区 前 庭 部 灰 層
NGttB 4区
NGttA 3区
7
N GttB 4区
NGttB 4区
と
皿
7.65
76
79
47
Э
5 75
5,65
7.8
5 Z【
68
64
68
4 75
○
○
76
77
7.45
8 05
R 45
7 35
78
Ⅸ
N GttA 4区
N GttA 3区
N GttA 3区
N GttA 3区
N GttA 4区
N GttA 2区
NGttB 4区
NG7
N
N
N
N
B4区
GttA
GttA
GttA
GttA
N GttB 5優
NG
NGコ A4区
N GttA 4区
NG
詢
百
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i
瓦
瓦
不 明
3.1
47
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50
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3.9
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48
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52
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8 1
45
50
76
84
7 65
28 9
34 3
250
Э (ナ デ 消 シ )
43
3 55
1 8
22
19
2.0
)
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○
O
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ZU
0
20
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1.95
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○
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)
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95
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1 85
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○
①
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⑫
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19
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ン )
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2.0
11.2
)
○ (ナ デ 消 シ )
20
22
1 9E
20
4.8
18 65
ティ
肖シ
○ (ナ デ 消 シ )
2.1
3
前庭部灰層
ナテ消 シ)
O
5
7
7 65
2区 前 歴 部 灰 層
3区
4区
4区
N GttA 5じ
瓦
○ (ナ デ 消 シ )
○
3
N GttA 3区
平
52
(ナ デ 消 シ )
1,t」
4.3
8 15
NGttB 4区
軒
○
2 1
80
8_1
N GttA 3区
)
4 75
25
83
も
Ⅸ
NGttA 3区
釜
○
○
4 95
75
デ 消 シ)
52
52
48
3_7
前庭部灰層
N GttA 4区
(ヒ ロイ
ア5て
O(ナ
O
O(ナ
NGttB 5
餐
O
53
5_0
26
N GttA 3区
N GttA 3区
鉢
5 05
68
85
シ)
○ (ナ デ 消 シ )
O(ナ デ 消 シ )
0
○ (ナ デ 消 シ )
70
43
N GttA 4
口
5,45
54
54
5 1
16 75
)
D
O
N GttA 4区
片
)(ナ デ 消
b
Ⅸ
N GttA 4は
NGE A4区
4
○
50
N GttA 5
NGttA 2区 前 庭 部 灰 層
N GttA 2区 前 オ
N GttA 2区 前 庭 部 灰 層
N GttA 4区
NGttB 4区
1
4 55
52
48
58
55
53
60
55
54
55
)
○ (ナ デ イ ン )
(ナ デ Y肖 シ )
デ消 シ
O
N GttA 4区
5
57
59
ン
56
8 75
72
70
8 1
80
70
(ナ デ コ
0(ナ
69
7.0
NGttB 4区
1
①
5,9
56
48
N GttA 4区
N GttA 2区
(高 台 付
75
も
③
5 75
NGttA 5区
山 IIE
62
6 4
58
も
糸 切 り痕
言
50
55
N GttA 4区
NGttA 4区
6
67
器
74
65
N G tt13 4区
4
151)
159
5 1
Rll庭 淵
径
10 0
53
N GttA 2区
2
底
cm)
20
'
○
○ (ナ デ 消 シ )
D
O(ナ
デ消 シ
,
Э
○
○
10 55
11.5
9_b
2 0)
(オ 協
幅〕
A4送
NGロ B4区
N GttA 3区
NGttB 4区
NGttA 4区
NGttA 4区
35
A一
︱
色
A一
B一
︲
■
′
B 一
A一
B 一 C 一
C 一
l
C 一
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:
│
2 mII
第 1図
A
第 1号 窯窯体実測図
I
M
0
l
l
5m
l
第 2図
遺跡測量及びグ リッ ト設定図
^υ
●0
ω
引
軒瓦出土地 点
第 3図
灰原層序図 (ア ルファベ ッ トは杭 を表す)
│
と
灰層
9。
灰層 (遺 物・窯廃物を含む)
8.
6.
7.
茶褐色砂質土層 (遺 物を含む)
黄白色砂質土層
窯内廃物層 (窯 壁・ 焼台)
築窯巧,土 層 (赤 黄色粘質土層)※ 瓦出土
5.
灰層 (遺 物を含む)
暗赤褐色粘質土層 (攪 乱 ?)
表土層
」
D一
A一
│
第 4図
38
[
│
出土遺物 (山 茶碗・ 1は 高台無碗、2は 灰釉碗系 )
く
て
三
三
三
9
::::][::::,'ラ
子
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6
竹
9
3
頂
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0
4
1
5
乳 反豆 勇
2
3
監て茎×6て王発
58
10cm
0
│
第 5図
0
!
│
出土遺物 (19∼ 26山 茶碗、27∼ 58山 皿、27は 高台付山皿 )
39
0
l
第 6図
出土遺物 (59∼ 61片 口鉢、62甕 )
t
J
10cml
nυ
И件
ノC■ 争
と
シ
\
=―
出土遺物 (63羽 釜 、 62・ 64。 65甕 <印 花文 の拓影 >)
41
乙レ
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〇
︱︲︱︲︲↓︲︲︲︱︱ヨ
﹁
日昨蘇沼︶ 尽埋引 翌 団 ∞器
︵
・
‐
│
‐
:Ⅲ
::::::::::::::::::::::::::::::::::::]
│
第 9図
出土遺物 (67丸 瓦、 68軒 丸瓦、69,70平 瓦 )
43
EoO一
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〇
伊
﹁︱ ︱コ司︱︱ヨ
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食υ
刀付
正 法寺 古 窯 の研究
中
1.は
野
晴
久
じめに
正法寺古窯 は常滑市市場町五丁 目に所在 した中世古窯である。調査は愛知県の急傾斜
地崩壊対策工事 に先立 ち1987年 8月 4日 か ら18日 にかけて緊急 に実施 された。古窯 の所
在 は、 1983年 に杉崎 章氏 によって発表 された 「知多古窯址群 の終末 と常滑窯の 出現」
『常滑市民俗資料館研究紀要 I』 によ って確認 されてお り、その概要 もある程度知 られ
ていた。
調査以前 に崖露頭面に既に窯体 の断面が一部現われてお り、地形か ら推 して窯体 の遺
存状態 は悪 く、その規模 も小さいことが考 え られたため、その調査 は工事直前 に短期間
で実施 され る運びとな った ものである。窯が所在す る丘 陵 は、現在標高24.8mを 最高所
とす るが、その上部が削平 され公園、保育園、民家等が建て られてお り、さらにその】ヒ
側 の丘 陵末端 には文明八年 (一 説 に文明十六年)倉 1建 の常滑市保示町 に所在す る西山浄
土宗正住院 の末寺 にあたる正法寺が建 つ。一方、丘 陵の裾 には民家が密集 してお り、江
戸時代以来 の 旧街道 もす ぐ近 くを走 ってい る。窯 の築かれた丘 陵が窯体 の一部切断 を伴
って農状 にな ってい るのは、 この地域が古 くか ら常滑 の 中心部 であり、市街化 も早 い段
階か ら始 っていた ことによると考え られ る。 また古窯か ら直線距離に して50mほ ど】ヒ側
の丘陵裾部 には丸石積 で急傾面を覆 った遺構 が存在 した。 これについては昔の舟付 き場
であ った とす る伝承が残 されているが、その伝承 に従えば近世 の街道 より更 に丘陵寄 り
に位置す ることか ら推 して、その構築 は近世初頭かそれ以前 とい うことになる。 この遺
構 も既 に工 事 のため消滅 し、その年代を推定す ることは現在不可能であるが、 この丘 陵
は知多半島の丘 陵群が最 も沿岸部 まで延びた支丘であ り、中世期 において、その裾近 く
に汀線があ ったことを想定することは、け して困難ではない。従 って正法寺古窯 の操業
時の環境を復元すれば、波打ちぎわまでせ り出 した丘陵の末端傾斜面に窯が築かれ、汀
線 と丘 陵 との間の狭 い平坦地や丘陵上 の 開けた平地に二人達 の住居が点在 した もの と推
測 され る。 また、 この丘陵を東側 へ 300mほ ど入 った地点には中世末期、緒川水野氏 の
端城 と して常滑城が築かれて いたとされ る。初代城主 の水野忠綱 は享禄二年 (1529)卒
といわれ、城を築 いたの は忠綱 の父、水野清忠 の代 とされる。従 って、 この地域 は15世
紀後半 頃 になって周辺 に割拠する土豪勢力 の伸長 とともに、 しだ いにその戦略的 な圏域
に組み込 まれて いったことが想定 され る。その主たる要因は三河 一成岩 ―常滑 ―伊勢 と
つな ぐ海上交通路 の支配 であ ったことが指摘 されてお り、その証例 として『言継卿 日記 』
弘治二年 (1557)二 月の条 にみえ る山科言継 の 岡崎 一三河大浜 一成岩 ―常滑 一伊勢長太
と辿 った交通路の記述が引かれて いる。
正法 寺古窯が戦国期 における海上交通路 の線上 に位置 し、 その立地 自体が海岸 に近 接
してい ることは、製品の流通を考 える上で極めて示唆に富んだ背景を提供す るもの とい
えよ う。
7I
刀付
2.検 出遺構
調査 によ って 検 出 された遺構 は、窯 体 一基のみで あ る。 そ して、 この窯体 も多 くの部
分が既 に消失 してお り、わずか に燃 焼室 の 奥部 と分烙柱 (通 烙孔 )、 そ して焼成室 の基
部 の みで その全 様 を知 ることはで きな い。検 出され た部分 は平 面 プ ラ ンで 長 さ
5。
2m、
うち燃焼室部 1.64m、 通烙孔部 1.42m、 焼成室部 2.14mに な る。窯体最大幅 は焼成室 中
ほどに 3mほ どの値 を もった と推定 され るが、焼成室左側 の壁部が ほとん ど消失 してお
り計測不可能 であ る。
燃焼室
床面 のプ ラ ンで 分烙柱側 1.48m、 焚 き口側 1.26mと 焚 き口に向 って 、 その幅
を 次第 に狭 くす る。分焔 柱 か ら焚 き口にか けて の約
lmま で は床面、壁部 ともに硬質 に
焼 け締 った状態であ るが、 それよ り前方 は軟質でわずか に火烙 を受 けた痕跡 を残す程度
であ った。 この軟質部 は、崖の露頭面 に近 く、 その遺 存状態 が悪 く検 出面 はかな り劣化
の進んだ状態 と考え られ る。床面 は焚 き口部 に向 けて 20度 の 角度 で傾斜 して い る。 また
燃焼室 と通烙孔 の床面 の境 に約 20cmほ どの 段差 が認 め られた。壁 は高 さ 1.4mほ ど遺存
し、 ほぼ垂 直 に立 ち上が るが 1.2mほ ど上が った ところか ら天丼 ア ー チヘ と移行 して い
るよ うに見受 け られ るが天丼 は検 出 しえなか った。
分焔柱 (通 烙孔 )
その 焚 き口側 で床 面 幅 1.52m、 焼成室側 で 2.3m、 長 さは平面 プ
ラ ンで 1.42mに な る。 中心 よ りやや左側 に寄 った位 置 に分烙 柱 があ り、通烙孔 は右側が
やや広 くな る。通烙孔 の床面 は40度 の急角で傾斜 してお り、右側 の床面 にはわずか に段
が つ いて い る。分烙柱 は掘 り抜 きで作 られてお り、 その形状 は長楕 円柱を呈 し、基部 は
太 く上方 にい くに従 って細 くなる。基部 の 長軸 は 1.4m、 短軸 は長 い個所 で 0.5mほ ど
で あ る。残存 高 は 0.5m程 度 で大 半 は欠損 して い るが残存部 の 頂 で計測す ると長軸 1.1
m、 短軸 0,34mに な る。
焼成室
平面 プ ラ ンでその基部 は床幅 2.3m、 中央部 に向けて その 幅を拡 げ、 その後
減幅 して い くと考え られ るが、その部分 は既 に消滅 して い る。残存 して い る部分で確実
に計測 で きる最大床幅 は2.36mで あ るが基部か らわずか に 0.2mほ ど上 った位置で あ る。
右側 の壁 は左 側 に比 べ 多少遺存度 が良 く 2mほ ど残 って お り、 その末端で床幅を復元す
ると 3mほ どにな る。床面傾斜 は緩 く20度 弱で燃焼室床面 の傾斜 と変 らない。通烙孔部
の床面傾斜が強 いため焼成室基部 と燃焼室最 奥部 で は比高差が 1.2m近 くもあ る。
以上、窯体 の遺存度 は非常 に悪 いなが ら幸 いに燃焼室、分焔柱 (通 烙孔 )、 焼成室 の
主要 な要素 が部分的にで はあれ残存 した ことで 、 その特徴 を他窯 と比較す ることが可台ヒ
であ る。正法寺古窯 の窯体 を構成す る各要素 は、 中世知多古窯 址群 に普遍的 に存在す る
地下式害窯 と比較 し格段 の相違点 を見 出す ことはで きな い。砂層 に掘 り込 まれた各部分
は、 その 築窯技法 の点 で も同一であ った と考 え られ るので あ る。 しか し、 この窯を特徴
48
づ ける長大 な分烙柱 と、そ の両側 の急傾斜を も った通烙孔 は、その存在 によ って 焼成室
と燃焼室 とを
lm以 上 の段差 で 分 けてお り、類例 を既知 の知多古窯址群 中 に認 めえない
もので あ る。他 にそれ ほど特異 な現象 で はな いが焼成室床面 の傾斜 が 20度 弱 と緩 い点 も
本窯 の性格を考 え る上 で は注 目され る。
平安末期 に成 立す る知多 の 客窯群 は鎌倉時代 に入 って 長大化 の傾 向を見せ始 め るが、
その過程で焼成室床面 の緩傾斜化 と平坦であ った燃焼室床面 の傾斜化 を伴 って くる。 さ
らに通烙孔部 の 床面傾斜 が 段差 を もつ ほどに急傾斜化 す ることも終末期 の窯体 で しば し
ば指摘 されて きた傾 向 で あ る。従 って正 法寺古 窯 の 窯体構造 に認 め られ る特徴 は、 いず
れ も知多古窯址群 の 中で生 じた窯 の新 しい傾 向 を顕著 に現わ した結果 と位置 づ ける こと
が可能であ り、 それ以前 の窯 との間に断絶を求 め ることは難 しい。 この連 続性 は窯体構
造 のみでな く、 いわ ゆ る馬蹄形焼台がわずか に 1点 の み なが ら出上 してお り窯詰法 の 面
で も認 め られ る ところであ る。
以上 の本窯 々体 に対す る位置 づ けは、窯体全部 の 要素か ら導 いた ものではない。例 え
ば焼成室 の 後半 か ら煙道部 にか けて、あ るいは焼成室 の天丼部 のよ うに未検 出の部分 が
地上 に構築 されて い た可能性 もわずか なが ら残 されて い るのであ る。 しか し、遺存 した
窯体 か らは、正法寺吉窯 を半地上式 の窯 と しうる要 素 を 見 出す ことは不可能 に近 い とい
わねばな らな い。
3検 出遺物
遺物 は本窯で焼成 され た製品群 と焼成 に際 して 使われ た窯道具の二 種 に大別 され る。
量 的 には製品 が圧倒的 に多 く、窯道具 はわずか に 2点 あ るの みであ る。製品 は、 33cm×
57cmの コ ンテナに 10杯 分 で古窯か らの遺物 出土量 と して は極 めて 少 な く、大半 が窯 内覆
土及 び窯周辺 の 採集品 で 占め られて ぃ る。
出土遺物 の 器種構成 をみ ると甕 と片 口鉢 が 最 も多 く、 その他 に少量 の壼 、山茶碗があ
るのみで本窯で生産 された製品 の種類 は非常 に少 ない。
全体 を復元で きた資料 は、わずか に 1例 のみで 他 は全て部分 的 に復元 しうる陶片
のみで あ った。 甕 と類別 された資料 の 中 に 1点 他資料 と全 く異 な る個体 があ り、 これ は
甕
異質性が高 く別種 と して捉 えた い。 一般 的 な甕 につ いて みれば、 その規格 に二 種 あ るこ
とがヤ
旨摘 で きる。 一つ は日径 40∼ 45cm程 度 の比 較的小 型 の甕であ り、他 は日径 51∼ 66cm
底径 17.8cm、 最大幅 64cmに 復元 され
た図 2-23を 含 んでお り、 その全体 を知 ることがで きる。大型甕 は復元可能 な口縁部 の
資料 がわずか に 3個 体分 あ るのみで、 しか も各 資料 と も口縁 の 1/8程 度 が残 った もので
に復元 され る大型 の甕 であ る。 前者 は器高 50。
8cm、
復元誤差 も大 きい。 しか し小型例 との比率でみれば器高 は70cm、 最大幅 は90cm程 度 の大
きさ と推測 され る。
甕 の 形態 は、 いわゆる N字 状折返 し口縁及 びその折 り返 し部が下方 に延び幅広 の縁帯
が頸部外面 に接着す るまで にな った口縁 を有す る もので 頸部 の独立度 は低 く、肩部 の端
∩υ
刀什
か ら、直立 ぎみに立 ち上が る程度で短 い。肩部 は直線的でよ く張 ってい る。肩部直下の
上胴部 に最大径があ り、底部 に向かいわずかに弯曲す る胴部が続 く。底部 は知多古窯址
群 の甕 一般 にみ られ るように小さい。頸部以下 の形 は鎌倉後半期 の甕 と比べ、 とりわけ
特徴的 な差を示 してはいな いが口縁部 の形態 は、その時代性 を反映 していると考え られ
る。
本窯 出上 の一般的甕は、 その日縁形態の違 いに基づ いて三種 に類別 しうる。 これを A
・ Bの 2種 に分 けて以 下記述する こととす る。 A類 、 いわゆるN字 状折返 口縁形態 であ
る。 この種 の 回縁部資料 は数が少な く、わずかに 3例 を図示 しえたのみである (図 11、 2、
3)。 しか もすべて小片 で日径を復元す るには誤差が大 き くな りす ぎるような
もので あ った。推定では図 1-1、
2が 口径40cm程 度、図 1-3が 50cm程 の日径になる
と考え られ るが図 1-1、 3の 2例 は歪み も大 き く確定す るのは困難である。 B類 はN
字状折返 し□縁 の折 り返 し部 が幅広 くな り、垂下 した下端が頸部 に付 くほど広 い幅 の縁
帯を有す る一群 である。 その 出土個体数 の多 さか らみて正法寺古窯で焼かれた甕の主要
な口縁形態であ った と考え られる。 B類 の 中 には幅広 い縁帯 を もちなが ら下端が頸部に
着 かず縁帯部 と顎部 との間に狭 いす き間が残 ってい るもの (Bl類 、図 1-4、 3-27)
縁帯部 の下部 は顕部 に接着 していなが ら、その断面 には折 り返 しに伴 って生 じた中空部
が認め られ るもの
(B2類 図 -5∼ 16、 2-18∼ 23、
3-25、 28)中 空部がつぶれ垂下
部全体が顎部 に密着 し中実の厚 い口縁 にな った もの (B3類 図 3-24、 26)に 細分可能
である。 この うち Bl、 3類 の資料 は少な く個別的 な偶然性の介在 した結果生 じた差 と
も考え られ ることか ら型式学的には Bl→ B3類 とい う流れを想定で きるが幅広縁帯 口
縁 のバ リエー シ ョンとして捉えるべ きもの とした。
A類 とB類 の比較では形態以外 に、その縁帯幅 に差を認めることがで きる。 A類 の幅
は3.7∼ 4.7cmの 中 にあ り、 B類 は3.6∼ 6.2cmの 間にある。 この比較 ではA類 が B類 の範
囲の域 内 に含 まれてお り、両者 の差 は4.8∼ 6.2cmの 域でのみ認め られ るとい うことにな
る。 しか しA類 の 中で 4 cm以 上の縁帯幅 を もつ もの は図 1-3-例 があるのみで他 の二
例は 3 cm代 に止 ってい る。逆に B類 の中で 3 cm代 の幅を有するのは図 1-5-例 のみで
しかない。 口縁 の縁帯幅 と口径 の大 きさの間には相関関係を認 め られ るようであ り図 1
-3を A類 の大型甕の日縁 と位置づ ければその広 さを無理な く理解す ることがで きる。
一方図 1-5は B類 の小型甕 に属 しているのである。 B類 の中で大甕 に属す る資料 はい
ずれ も縁帯幅が 5 cm以 上 もあり、小型甕の方 は多 くが 4 cm代 である。規格 の違いによる
縁帯幅の差 と同 じことは、その器壁 の厚 さに も認 め られ る。大型甕の頸部では、その厚
みが 1.5∼ 1.8cmに 達 し小型甕の方 は1.1∼ 1.3cmと 比較的薄手 に造 られて いるので ある。
他 に A類 の日縁 では縁帯上部の突出が明瞭 に作 られて い るのに比 べ B類 の方は、 その
突出が退嬰化 の きざ しをみせ るものがあ り、図 2-22の ように突 出部 よ りも、その 内側
の折返 した頂部 の方が高 くなっている例や図 8-28の ようにほぼ同 レベル にな って いる
例 などが含 まれて い る。
窯址 に遺存 した製品であるため多 くの個体 が焼成不良 の素焼 き状態であるか逆 に焼け
50
過 ぎによる変形を受けて い る。胎土中には砂粒を多 く含み、 ときお り小石大 の大 きな粒
子 も混入 している。色調 は素焼 き状 の ものでは黄褐色系の明るい色を し、焼締 った もの
は暗灰色、暗褐色 の色調を呈す る。その色は原料土中の鉄分 による発色である。
その成形 は ロクロ等を用 いず棒状 の粘土 を手でひね りなが ら積 み上げて い く技法 によ
ってお り、縦位 のヘ ラナデ、 ヘ ラ削 りによ って器表接合部 の密着を促進 させている。肩
部上半 か ら口縁部内側 にかけては回転 (自 転)ナ デが施 され丁寧 に器面調 整が行われて
い るが体部内面は成形痕がわず かに残 る程度の粗雑な ヨヨナデが行われて いるのみであ
る。
冒頭 に特殊例 として 除外 した図 3-29は 、その形が 18世 紀後半 の甕 と共通するもので
正法寺古窯 の製品 とは考え難 い資料 である。 口径は外縁部径で40.6cm、 口縁部 は断面 T
字状 を呈 し頂部 の幅は 3.6cmで ある。器高は40cmほ どと考え られ小型 の甕 と推定 しうる。
成形技法や胎上 の面で は正法寺古窯 の他 の甕 と変 るところがな い。焼成 は不良で素焼状
の もろい状態である。従 って使われていた ものが混入 したのではな く窯 に残 された もの
と見ざるをえな い。 その窯が本窯であると考える ことは、その形 か らか なり無理がある。
しか し、あえて これを正法寺窯 で焼 かれた もの と仮定 した場合、近世的な甕 の初現的な
例 とす るか、窯道具 のよ うな製品以外 の特殊品 として作 られた もの と して理解す ること
も、 ま った く不可能 ではない。ただ し後者である場合、本例が焼 き締 っていないことに
疑間が残 らざるをえ ない。本品 は窯内か らの 出土 で はな く窯の近 くで表採 された もので
もあ り、その位置づ けを保留 しC類 としてお きたい。
この器種 も全体 の形を知 りうる個体 が少な く全形を復元 しえたのは、わずか
に 2個 体分 にす ぎない。 そ して上半部 のみ復元で きた資料が他 に 2例 ある以外 は、 いず
れ も小片で復元困難 な ものばか りである。復元 された 4個 体 を見 ると、 いずれ も基本的
片 口鉢
な形態や規格、技法 には大差な く、 その細部 に違いを認め られ るのみである。
基本的形態は平底で50∼ 60度 の傾斜で上方 へ直線的 に立 ち上が る体部を もち口縁端部
を拡張 して縁帯状 に仕上げている。 口縁 の一個所 に外側へ突出す る形で注 ぎ日が付け ら
れて い るが注 ぎ日は口縁部成形後 に幅 3 cmほ どのヘ ラか棒状 の器具 を内側 か ら押 しつけ
旨を当てて当該部分 のみを変形 させた もので ある。体部内面 に条線 の刻み は全
外側 には才
く認 め られない。
成形技法 は甕 と同 じく粘土紐 の手びね りによる積み上げ とヘ ラによる整形で全体 の形
を作 り口縁部周辺 は回転ナデによ って丁寧 に仕上げ、内面 はヘ ラ痕 を消すように横位、
斜位 の ヨコナデを施 して い る。図 4-41で は内面 のヘ ラの木 目痕が消 えず に残 ってお り
内面 のナデ調整の粗雑 さを見せて いる。体部外面 には縦位 のヘラ削 り、ヘ ラナデ痕が一
般的 に認め られ るが手びね りの際 に生 じた指 の圧痕が部分的 に残 って お り器面の凹凸 は
激 しい。また焼成、胎土 はいずれ も甕のそれ とほとん ど同 じである。
個体間の差違に注 目す ると、まず図 4-41の みが他 と異な り回辺部 がわずかに内弯 し
注 ぎ日の突出度 も大 きいことが あげ られ る。 また細部ではあるが 口縁縁帯部 の形状 に差
民υ
があ り、類型 的 に区分す る ことが 可能で あ る。 A類 、 口縁端部 の拡張が ほ とん どみ られ
ず、器壁 の厚み と縁帯部 の 幅が ほ とん ど変 らな い もの。 (図 3-30∼ 35)B類 、 口縁端
部 の拡張が外側 にのみ 行われ、 内側 へ の突 出が無 い もの。体部 に比 べ 口縁部 の器壁 の厚
みが大 き く口端 の縁帯 は、 さ らに広 く作 られ る。 (図 3-36∼ 39、 4-40)C類 、 口端
の縁帯が内外両側 に行 われて お り断面 T字 状 を呈 す る。 器壁 の厚み は B類 と同 じよ うに
変化す る。 (図
4-41)
以上 の各類 に認 め られ る相違 は、 この系統 の 片 口鉢 の変遷 か
らみて A→ C類 へ とい う変遷 を型式 学 的にた どることがで きる。 しか し、 出土 品の総 数
があま りに少 な く他窯 にお け る類例 も少 ない以上 あ くまで型式学的 な推定 の域 を出る も
ので はな い。
本窯 出上 の片 口鉢 の規格 は、 日径 30.0∼ 33.4cm、 底径 12.8∼
18。
9cm、
器高 11.3∼ 12.5
縁帯幅 1,2∼ 1.7cmの 範 囲内にあ り、大小 の規格差 は認 め られ ない。 尚図 4-40。
cm、
41の 二 個体 の 内面 には日縁 か ら体部上 部 の位置 に一個所、押 印文が施 されて い る。押 印
文 は知 多古窯址群 において 甕 に一 般 的 に施 された もので あるが 14世 糸
己代 に属 す ると考 え
られ る知 多古窯末期 の 製品 中 に本窯例 と同 じく片 口鉢 内面 に押捺 した ものが ご く少数 な
が ら知 られて い る。 器形 の 細部 にお ける差 はあ る ものの 同 じ系統 の鉢 で あ り、 こ う した
特殊 な行為が共通 して い る ことは注 目す べ き現 象 であ る。
壺
出土個体数 は、わ ず か に 4点 と少 いが 系統 を異 にす ると考え られ る 3類 に区分す
ることがで きる。 A類 、短 いなが ら直立す る顎部 を もちヽその先端 を外側 に外反 させ 折
り曲げた部分を顎部 に接着 させ ることで月
巴厚 した回縁部 を形造 る もの 。 口縁外面 には折
り曲げによ って縁帯 が生 じ、 その 下端 は外方 に突起す る。 この類 に入 る個体 は図 4-42、
43の 二 例 あるが、 いずれ も口縁 か ら肩部 までの 資料 で胴部以下 は不明 で あ る。 日径 18.8
∼ 20。
2cm、
縁帯幅 2.5∼ 2.8cmを 計測す る。類例か ら推 して器 高 は35cm程 度 と考え られ る。
B類 、甕の型態をその まま全 体的 に縮小 した形 を もつ もので 、 いわ ゆ る不識壷 の祖型 と
な るよ うな壷で あ る。 (図
4-44)一 個体分 の 資料があ るの みで胴 中央 の部分 が欠損 し
て い る。 A類 との違 い は、 や は り口縁 の形態 にあ り、 この種 の 口縁 は単 な る折 り返 しで
はな く甕 の 口縁同様、 N字 状折返 しの手法 によ って成形 した もので あ る。折返 しの縁帯
下部 は顎部 に密着 してお り甕 の 回縁形態 B類 の よ うな断面 の空洞 は存在 しない。 日径
19。
6cm、
縁帯幅
2.2cm、
器 高 は推 定 80cm、 最大径 は上 胴部 にあ り34.8cmに 復元 され た。
C類 、小型 の壼で短 い口顎 部 がわ ずか に外反 しつつ 直立す る短顕 壼 状 の器形 を とる。
(図 4-45)日 縁 に縁帯 はな く極 めて単純 な作 りであ る。 日縁 か ら肩部 にかけての破片
が一 点 あ るのみで 日径 10.4cm、 日端部幅 0,7cmを 計 る。肩 部上方 に幅 0.3cmほ どの先の丸
い箆状 器具 によ って沈線が施 されて い る。 本例 は甕 の C類 同様、他 に比 べ 著 しく新 しい
印象を受 け るものであ り採集 資料 で もあ ることか ら他遺 跡 よ り混入 した可能性 が 高 い も
の と考え られ る。
各類 とも甕、鉢 と同様 の 成形技法 によ ってお り胎上 の相違 もほ とん ど認 め られな い。
焼成状態 は A、
52
B類 はいずれ も悪 く素焼状であ るが C類 の個体 は硬質 に焼 け締 り表面 は
い
暗褐色、断面 内部 は暗灰色 を呈 し、肩部 はち じれ たよ うな 自然紬 が付着 して る。
窯 の焼成室 内覆上下部 、床面近 くよ リー 個体分 が 出上 した。薄手 に作 られ灰
の比 較 で は
白色 を呈 し、長石粒 が多 く含 まれ一部 は溶 出 して い る。 (図 4-46)原 料上
に
他器種 と著 しく異 な って お リー 見 して異質 で あ ることが看取 され る。高台 はな く底部
ロ
ロ
整
糸切痕 を残 し、細 い棒状 の ものの圧痕 が中央 に一 条付 いて いる。体部外面 には ク
形 に伴 う凹凸がかすか に残 り、 日縁 下部 が締 め られ て いる。 内面 はな め らか に仕 上げ直
山茶碗
線 的に な り底部 内面 中央 の いわ ゆ る見込み部 に指 ナデ痕が残 る。 口縁部 は角形で上下端
は シ ャー プに整形 されて い る。器体 は全体 にかすかなが ら内弯す る立 ち上が りを みせて
の
お り、器壁 は下胴部 と口辺部が薄 く中央部 が 厚 くな って いる。 日縁端部 か ら体部 内面
一 部 に淡緑色 の 自然釉 が薄 くかか ってお り底部 内外 と体部外面 は無釉で あ る ことか らみ
て重ね焼 きされた可能性 が高 い。
ってお り、
形態、胎土、色調、釉調 の いずれ を と って も知多古窯址群 の 山茶碗 とは異 な
重ね焼 きされた ものが 、わず か に一例 のみ遺 存す る とい う不 自然 さ もあ るた め本窯以外
の 製品 と考えた いが 、 その 出土状 態か らは正法寺 で 焼 かれた もの とせ ざ るをえ ない。
この 資料 は瀬戸市教育委 員会 の 藤沢良祐 氏 に実見 して頂 き、 その所見 と して は瀬戸 の
9型 式 )
山茶碗 と考え て 問題 はな く、 その所属年代 は 13世 紀末 か ら14世 紀 中葉 (第 8∼
工
と考え られ るとす る もので あ った。御教示 に従えば瀬戸 の製品 が常滑 に流通 し正法寺
人たちに使われて いた ものが 窯内 に入 り込 んだ とす る理解が妥当なところか と推測 しう
るが尚多 くの問題 が未解決 のままである。
いわゆる馬蹄形 の焼台 が 1点 と甕の口縁部片 を 2個 重ねて焼台 と した もの 1
点が 出上 している。馬蹄形焼台 は本 きく、床面接着面で直径 18cmほ どの不整 円形 である。
いる。
器 の置かれ る面は手 の押圧 で凹み、その周辺 の面 に一塊 りの上が付け加 え られて
窯道具
甕 口縁 の方 は小型甕 の口縁部片 14× 5
った痕跡が認 め られ る。 (図 1-17)
cmと
9× 6 cm 2個 を重ねた もので 、焼台 として使
べ
かな
押印文 片 口鉢に押印文 が施 されて いることは既 に述 たが甕の破片中 に もわず
が ら押印文 を有す る資料が存在す る。
鉢 に押捺 された文様 は図 4-41が 格子文 と二枚 の木葉を合成 した意匠、図 4-40が 斜
で3.1
格子文 で、 いずれ も長方形 の文様部 を もつ原体である。その幅は図 4-41が 最大部
cm手 元部 では2.6cm、 図 4-40は 2.8cmで あ り、文様部 の全体 を残 して いる図 4-41で は
その長 さは 7.7cmに なる。
「
甕の押印文 も長方形原体 を用 いてお り方形縁 どりの中 に 中Jの 文字 意 匠 と考え られ
る文様 を入れた もの、縦線区画 の 中 に車輪文 を配 した もの、綾杉文 を二段 重ねに した も
のの三意 匠が確認 された。 (図 4)(ヽ ずれ も一陶片 に一つの文様が残 るのみで連続的な
帯状押捺 は認 め られ ない。 その施文位置は肩部 の陶片 に残 るもの 2点 、上胴部 と推定
さ
つ0
氏υ
れ るもの 3点 である。後者については、あ くまで推定であるが肩部 とす るには内面整形
やその文様 の位置 などか ら無理があると考え られ る陶片である。文様原体 の 長 さは不明、
幅は 「中」字例が2.6cm、 車輪文例が 3.3cm、 綾杉文例が2.6cmに なる。前 2者 は複数片
出土 しているが綾杉文は 1片 のみの 出土である。
3.考 察
正法寺古窯 については、その年代的な位置づ け、窯構造 の性格および同種の窯の分布、
生産様相 の歴史的背景、生産構造 の あ り方 といった諸点が取 り敢えず考察の対 象 となる。
平安時代末期以来、中世 前期 を通 して8000基 を超えるほどの大規模な陶器生産地であ
った知多古窯址群は知多半島の丘陵部 のほぼ全域 にわたって形成 された もので ある。 こ
の 中世古窯群で生産 された製品については1950年 代以後の考古学研究によ り、 その編年
が確立 されてお り、その一到達点 と して今 日最 も広 く用 い られて い る赤羽一郎氏 の1984
年発表 の編年がある (注 1)。 赤羽氏 の '84年 編年 は12世 紀初頭か ら16世 紀 中葉 までの
450年 間を50年 単位で区切 り主要器種 ごとの形態変遷を 5段 階 9期 の流れ と してあとづ
けた もので あ った。その編年図によ って正法寺古窯を位置づ けるとすれば第 Ⅳ段階後半
か ら第 V段 階前半の 1400∼ 1500年 の 間 ということになろう。一方、杉崎 章氏 は既 に
1983年 発表の論文 「知多古窯 の終末 と常滑窯 の 出現」 において正法寺古窯か らの採集品
を もとに、その年代を第二型 式終末期 の後半 (15世 紀後葉∼ 16世 紀初頭)と す る見解を
提示 している (注 2)。 両氏 の ほぼ一致 した年代観か ら正法寺古窯の操業年代 は15世 紀
を中心 とするものであると捉えて大過ない もの と考え られる。 しか し、知多古窯址群 の
製品 に対す る編年については、近年 その再検討 の必要性に迫 られてお り、正法寺古窯 の
時間的位置づ けが知多古窯の総体的な編年の 中でどのよ うな根拠 に基づ くもので あるか
という視点か ら、より詳細 に検討を加えることは充分意義ある作業 といえよ う。赤羽、
杉崎両氏 の研究は、正法寺古窯相当期 の年代をその前後 の製品群 と比較 し、型式学的に
導 き出 した ものであ り、直接的な年代 についての指標を もとに しているわけで はない。
ただ し赤羽一郎氏の諸研究 は消 費地 における該期 の常滑製品の動向を配慮 して 行われて
お り、その研究を中心 に以下年代設定の根拠を検討 してみたい。
まず正法寺古窯の操業期間が一部重複す ると考 え られるV段 階前半 (1450∼ 1500年 )
の年代については1977年 の著書 『常滑・ 渥美』53頁 の記述か ら、その指標 とな る遺 跡 の
平井 口第 1号 窯出土品 と共通 す る幅広 の縁帯を持 つ常滑 の甕が名古屋市見晴台遺跡 で 出
土 していること。そ して、その甕に伴 う美濃製陶器類 の年代が 1450∼ 1500年 に相当 して
い ることによってその年代が求 め られて い る (注 3)。 そ して、 これに続 くV段 階後半
(1500∼ 1550年 )は 常滑市 の野間 口古窯が指標 となる。 1988年 の著書 『常滑・ 陶芸 の歴
史 と技法』62、 63頁 で赤羽氏 は野間 口古窯採集品について同種 の ものが名古屋市清水寺
遺跡より出上 してお り、 この遺跡が永禄 5年 (1562)に 廃棄 された丹下砦跡 で あること
を根拠 に野間 口古窯 の年代を1500∼ 1550年 に設定 されている (注 4)。 これ ら城館址等
の消費地遺跡 は、その廃絶年代か ら出土品の下限年代は設定で きて も、その生 産年代 と
54
の 間 に使用 された時間が介在す る。大甕 の よ うな 大型貯蔵具 は、 その過半を地 中 に埋設
した こと も想定 され破損す る確率 は食器類 に比 べ 低 く、 その使用期 間 もか な り大 き く見
積 る必要が あ る といえよ う。
次 に正法 寺古窯 の操業開始期 と重複す ると考 え られ るⅣ段階後半 (1400∼ 1450)と 、
その前半 (1350∼ 1400)の 設定根拠が問題 とな る。 しか し、管見 に触れ る限 りで は、 こ
の 年代設定 に対 し、 その根拠 を示す言及 は赤羽氏 の諸論考 には認 め られず、わず か に千
葉県小湊 町清澄寺経塚 出上 の応永 三 年 (1396)銘 を もつ 金銅製経 筒 と共 に 出上 した壷が
提示 されて い るのみで あ る (注 5)。 残念 なが らこの壷 に対応す る甕な ど他器種が どの
よ うな形態 を とる もので あるか は、 これ までの古窯 出土品中か らは判明 せず、 これ によ
ってⅣ段階前半 の様相 を認定す ることは難 しい。従 って 経塚 出土 品 な どか ら年代 の ほぼ
第 Ⅱ (前 )段 階 )の 資料 と先述 の第 V段 階 の 間は、広 島県
草土千軒町遺跡 の よ うな大量消費地 での状況 を参照 しつつ型式学 的 に相対編年 された も
の と推察す るので あ る。 そ して第 Ⅳ段階 の 甕 の特徴 につ いて赤羽氏 は、 前半 を断面 「引 」
確定 で きる 12世 紀代 (第
1、
形状 か ら 「N」 形状 へ の過渡 的形態、後半 を 口縁 の 縁帯 が肩 にきわめて近 づ くが、 まだ
縁帯 と肩上 部 の 間 にはす きまがみ られ、 口縁 の 断面 は、 アル フ ァベ ッ トの 「N」 状を呈
す るとい う説 明を加 えて い るので あ る (注 6)。 知多古窯址群 の 後半期 の製品 を代表す
る断 面 N字 状 の 口縁 を もつ甕 について 筆者 は越 前 (加 賀 )窯 の 元享 3年 (1323)銘 の 甕
や知多市 刀池古窯 の 製品等 か ら14世 紀前半 (1300∼ 1850)と す る見解を示 した ことが あ
る (注 7)。 今、 これに山梨県棲雲寺 の文和 三 年 (1353)銘 を もつ石塔 の下 よ り出上 し
た とされ る大甕 (注 8)。 愛知県南知多 町篠 島 の正 法寺 よ り至大通宝 (1310年 初鋳 )を
最 も新 しい例 とす る蓄銭容器 の 小型甕 を加 え ることがで きる (注 9)。 しか し、 その 初
現期 につ いて は、1989年 に知多郡武豊 町 の 中 田池古窯址群 Al号 窯か らN字 状 口縁 の 甕
が正元年 間 (1259∼ 1260)の 銘 と考え られ る紀年銘陶硯 とともに少量 なが ら出上 した こ
とで、 よ り古 く設定 せ ざるをえな い状況 に至 って い るのであ る (注 10)。 中 田池古窯 の
事例 を もとに N字 状 口縁 の甕 の年代を設定 し直す とすれば、 その 出現 は 18世 紀 中葉 とい
う ことにな り、 その後 半 か ら14世 紀 の 前半 あた りに最盛期があ った とい うことにせ ざ る
をえな い。 これ は赤羽 '84編 年 の第 Ⅳ段階を全体 に 100年 繰 り上 げて 位置づ け るもので
あ る。 そ して第 Ⅱ段階後半 をその前半 へ 吸収 させ第 Ⅲ段階 の大部分 を第 Ⅱ段階後半 に繰
り上 げ ることで全体 の整合性 を保 つ ことがで きる。 しか し、 この 操作 を経て も第 Ⅳ段 階
の1350∼ 1450年 の 100年 間が空 白 と して残 った ままなのであ る。
赤羽 一 郎氏 は 1990年 の 「常滑窯 をめ ぐる若干 の 考察 」にお いて 杉崎氏 が提示 した正法
寺古窯 の 採集品 について第 Ⅳ ―(2)期 (1400∼ 1450)に 位置づ け る私見を述 べ て いる。
(注 H)こ の段階 の 甕 の 日縁形態 は '84年 編年 の解説 で は断面 「N」 状 を呈 し、縁帯 と
肩上部 の 間 にはす きまが 尚認 め られ るとい うもので あ った。従 って正 法寺古窯 の 甕 A、
Bl類 が 当て はまる ものの B2、 3類 は第 Ⅳ ―(2)期 以後 の特徴 を具え るものであ る。 そ
の ため筆者 は正法寺窯 の '84編 年 での位置 を第 Ⅳ段階後半 か ら第 V段 階前半 に赤羽私 見
を知 りつつ も求 めたのであ る。 しか し、赤羽 '84編 年 の 第 Ⅳ段階 の空 白を考 え ると、正
Rυ
賢J
法寺古窯 出土 品群 は、 この空 白を埋 め うる可能性 を 有す る資料 と して大 きな意味を帯 び
て くる。以 下、 この観点か ら改 めて正 法寺 の 出土 品を検討 してみた い。
正法 寺古窯 出土品 中、年代 を考え る上で まず初 め に注 目され る遺物 は山茶碗で あ る。
瀬戸産 と考え られ る山茶碗が どの よ うな経緯で正法寺窯 に もた らされた のか疑問な点 は
残 されて い るが、その瀬戸 における編年上 の位置 は 13世 紀末か ら14世 紀 中葉 であ る。
(注 12)そ の 下限年代 を採れば正法 寺窯 の 開窯 時を示す資料 と して矛盾 な く受 け入れ ら
れ る。次 に片 口鉢 内面 へ の押 印文施文 が あげ られ る。 この種 の文様 が 甕以外 の 製品 に施
され るの は 13世 紀末か ら14世 紀前半 の 時期 であ るが、 鉢 へ の施文例 は 常 に少 な く特殊
'卜 体 (注 13)、 阿
な現象で あ る。 これ まで知 られて い る例 は知 多市加世端第 4号 窯で 2個
久比町上芳池古窯址群で 2個 体 (注 14)の 計 4個 体 の みで しかない。 形態的 には正法 寺
の鉢 の A類 に比 較的近 いが、全体 に薄手 で 縁帯幅 も狭 いな ど古 い要素を もつ もので あ る。
加世端 、上 芳池両窯 は他器 種 の形か らみて も14世 紀前半期 と考え られ る。そ して正法 寺
古窯 の鉢 A類 は、 それ に次 ぐ段階 と推定 しうる。以上 2項 目は、 いずれ も正法寺古窯 の
開窯期を 示す もので あ るが、 これを さ らに支持 す る要 素 と して篭 A類 を取 り上 げた い。
この甕 の 口縁 は赤羽氏 が 第 Ⅳ段階 の後半期 と した説 明 にその まま当て はまる もので あ る。
そ して、 また 14世 紀 中葉 の形態 と比較 して も大差 ない もので あ る。 これ らの要素を総合
す ると正法 寺古窯 の 築窯 は14世 紀 の 後半期 に求 め る ことが 可能 で あ ることにな る。先 の
空 白期 間 の 前半 が埋 まることになる。 その 後半 はど うであろ うか。
赤羽氏 によ る平井 口古窯 の位置づ けを肯定 し、 この 資料 と正法 寺窯 との比 較 を行 い、
正法 寺 の 若干 の 先行性が認定で きれば取 り敢えず この 問題を解消す ることがで きる。 こ
の比 較 で も っ と も良 くその 関係 を示すのが 片 口鉢 の 回縁形態 であ る。正法寺 の鉢 B類 は、
この窯で最 も多 くの個体 を もつ鉢 であ るが、 平井 口の鉢 は C類 が 報告 されて い る。 (注
15)平 井 口窯 よ り更 に新 しく位置づ け られ る野 間 口古窯 において もや は りC類 の系譜 を
引 く鉢が報 じられて い る。逆 に B類 は A類 の存在 を考 えれば A→ Cへ と縁帯部 の拡張 が
進む流れを想定で き、型式学的に B類 は C類 にわ ずか に先行す る可能性 を含む ので あ る。
次 に甕で あ るが A類 が平井 口にない ことを 除 けば正法寺 と平 井 口は良 く似 た甕 の 口縁 を
出上 して い る。正法寺 Bl類 、 B2類 、 B3類 の うち B2類 が平 井 回の報告書 で は認 め
られな い。正法寺 の 甕 の主体が他 な らぬ B2類 で あ り、 この類 が B3類 に型式 学的 にわ
ず かなが ら先行す ることは先述の通 りであ る。 また平井 回古窯 の 甕 の うち図示 された 4
個体 の うち 2個 体が 口縁縁帯 上部 よ り内側 の折 り曲げ頂部 の方が高 い もので あ る。正法
寺 にお いて も この種が少量 出上 して はい るが B類 の大半が縁帯部 の 方 が 高 い形 を と って
い る。 折 り曲げ頂部が最 も高 い形態 の 口縁 は野 間 口古窯採集品で も一 般的 に認 め られ後
出的要素 といえ よ う (注 16)。 他 に壼で は正法 寺 B類 の 壺が両者 で 出上 して いるが型 式
的先後 関係 を認 め ることは難 しい。 ただ し、平 井 日古窯 の この種 の 壼で 日径 10cm程 度 の
小型品が存在す ることは正法 寺 との違 いで あ る。 同種 の壼 は栃木県国分寺町 よ り渡来銭
の容器 と して 出土 して いる (注 17)。 渡来銭 の分析か ら最 も新 しい初 鋳年代 を もつの は
宣徳通宝 (1423∼ 1426)で あ り、可能性 と して は平井 口窯 よ り古 くな ることもあ りうる
食υ
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ので あ るが一 つの参考資料 とはな りうる。
尚、平井 口第 1号 窯 出上 の 甕 の うち図 3-3に 示 され た もの は、明 らかに後 出的 で 口
縁折 り曲げ部 の 内側が角形 にな り頂部が平坦化 して い る。 この種 の 口縁 は赤羽氏が駿府
城 内遺跡 におけ る駿府城築城以前 (1585以 前 )の 甕 と して提示 した資料 と共通す る もの
で あ る (注 18)。 これが 出上 して いることは、平井 口窯 の終末が 16世 紀代 まで下 るか、
あ るい は16世 紀代 の 窯が隣接 して存在 したか の いずれ かで あろ う。
以上 の対比 によれば正法寺古窯 の主 体 とな る製品群がわずかなが らも平井 日第 1号 窯
のそれ に先 行す る可能性 は非常 に高 い と考え うる ことにな る。 その仮定 を もとに正法寺
古窯 の操業年代 を推測すれば 1850∼ 1450年 とい う ことにな り、操業 の 中心期間 は1400∼
1450年 とい う ことにな る。 出土 遺物 の絶対 量が少 ない正法 寺窯 に 100年 の操業期間 を設
定す るの は多少無 理が あ ると も考え られ るが、 ひ とまず作業仮説 と して提示 し今後 の 検
討 を待 ちた い。
窯構造 につ いて は報告文 中で既 に指 摘 したよ うに正法寺古窯 は特異 な変化 を分烙柱、
通烙孔部 に もち なが らも依然害窯構造 を保 って い ると見 ざ るをえな い。 その特徴的構 造
の うち通烙孔部 の 段 差 は阿久比 町福住第 8、 4、
5、
6、
7、
21、
22、
23、
24号 窯 (注
19)や 同町上芳池第 4、 5号 窯、常滑市小森 Bl号 窯 (注 20)、 同市 高坂第 1号 窯 (注
21)な どにお いて 廟芽的 に認 め ることがで きる。 さ らに焼成室 の緩や かな傾斜や燃焼室
の傾斜 も同 じく上記 の窯 に認 め られ るので あ る。
筆者 はか つて 平井 口第 1号 窯 に関 して、 その窯が半地下式 の大窯 で あ った可能性 を指
摘 した ことが あ る (注 22)。 その根拠 は報告書 の記述 に 「大甕 の縁帯 が二重 または二 重
に 自然釉 で 接合 した破片が三個 ほど出土 した。 あ るいは、 これ らが焼台 の代用 をな した
もの と考え られ る。 Jと い う個所 を甕 の重ね焼 きによ って生 じた もので 、窯 の天丼部 が
高 くな ったため に窯詰法が 変化 した と解釈 した ので あ る。 しか し、正法寺古窯か ら同種
の 甕 口縁 を重ね た窯道具が 出上 した ことによ り、平井 口窯 の 引用 は報告通 り焼台 と考え
ざるを得 ない ことにな った。 しか し、 なお平井 口第 1号 窯 の報告文 中 には 7頁 に中型甕
の観察所見 と して 「口縁 上端 には外 の器物 を重ねて いた痕跡が あ り、胴部 に も一部 それ
が見 られ る」 とい う記述があ るので あ る (注 23)。 壺甕類 の重ね焼 きは大窯製品 に一般
的 にみ られ るの に対 し、 中世前期 の害窯 で はほ とん ど認 め られ ない現 象 であ る。 その甕
の重 ね焼 きが平井 口第 1号 で 行 われて いた とすれば、焼成品 の 全体 的 な類似点 の多 さや
甕 口縁 を重 ねた焼台 の共有 な ど正法寺古窯 にお いて も同様 の現象が あ った とす る推測 は
容易 で あ る。 しか し残念 なが ら正法寺古窯 の 出土品を精査 した 限 りで は壷甕類 に重ね焼
の痕跡 を見 出す ことはで きなか った。
赤羽 一 郎氏 は常滑 にお ける半地下式大窯 の 出現 につ いて 従来 16世 紀 中葉 に至 ってか ら
の こととされて きた。 しか し、 1990年 の論考 「常滑 をめ ぐる若子 の 考察」 において野 間
日古窯採集 の 壺 と類似す る資料が東京都八王子市 の八 王子城 よ り出土 してお り、その八
王子城 出土品 に環状痕跡 (筆 者 の重ね痕 )が 認 め られ ることか ら野間 口窯 の属す る第 V
57
―(2)期 (1500∼ 1550)に 「窯体構造、焼成方法、あるいは燃料 の種類 の面で大 きな変化、
換言すれば技術革新が図 られたと推定す るものである。」 として従来 の大窯出現を少 な
くとも50年 古 く遡 らせ るとも受け取れ る見解 と示 されて い る。赤羽氏 は重ね焼状の痕跡
を筒状 の焼台を想定する ことで理解 し、馬蹄形焼台か ら筒状焼台へ の移行を筆者のい う
重ね焼 きの存在 も認 めつつ技術革新 の一つ と捉え られて い る (注 24)。 環状痕 は近世の
甕にも一般的に認 めることがで きるので あるが、 この新 しい段階 (18世 紀代)の 甕の 中
に も少量 なが ら環状痕がな く、底部一個所が凹んだ甕が存在す る。 しか も、 この種 の甕
の焼成状態か らは日縁部 に他 の製品が拓 し込 まれた状態で焼成 された ことを示す ものが
ある。 この近世期 の事例は、最下段 の甕 において馬蹄形焼台か陶片再利用の焼台を用 い
た ことを示す もので ある。筆者 として も赤羽氏 の筒状焼台説を完全 に否定 しきることは
で きな いのであるが、蓋然性 として重ね焼 きの方 に一般性を認 めるので ある。壼甕類の
重ね焼成を以上の観点か ら見れば、窯 の焼成室 の天丼高 さえ充分あれば窯詰法の変化 は
生 じうることになる。正法寺窯出土品中に環状痕を もつ ものが皆無 であ り、焼成室 の天
井部構造 も不明な現状では、積極的に技術革新を正法寺段 階 に求 めることは不可能 であ
るが、平井 口第 1号 窯の報告を重視すれば、なおそのわずかな可能性が残 されているこ
とになる。
最後 に正法寺窯期 の窯 の分布 について検討を加 え ることに したい。赤羽氏は正法寺古
窯を第Ⅳ ―(2)期 に位置づ け、同期 の窯 として 6例 をあげている (注 25)。 常滑市北部 の
ダブガ脇、引ヒ崚 田古窯、 中東部の高坂古窯、中部 の天神古窯などがそれである。そ して
知多半島内の 中世古窯の動向 として、 この段階に窯数 の減少化 と旧常滑町域 への分布 の
,と して設定 されている。 しか し、 この現
集約化が認 め られ ることか ら 「集中化 B現 象 」
象 は第 Ⅳ ―(2)期 にあ ってはダブガ脇、北崚田両窯 のよ うに旧常滑町域外 の生産が残存 し
てお り、 「B現 象 が第 V― (2)期 の 旧常滑町域 への陶器生産 の集中化を示す現象であった
ことを確信 している。」とい う記述 により、 V期 後半 の野間 口段階 に完了す る現象 と読
み取 ることがで きる。 これは先の技術革新が もた らされた とする年代 と軌を―にす るも
ので ある。 しか し、筆者 のみ るところダブガ脇窯、】ヒ崚 田窯、高坂窯 の各製品 は、甕回
縁 の縁帯幅 の相対的狭 さや片 口鉢 口縁部 の縁帯 の未成熟 な こと、甕の押印文が帯状連続
施文 されていること、器種構成 に鳶 口壷を合む こと等、正法寺窯より古 い要素を含む も
のばか りであ り、年代 として 14世 紀中葉より新 しく設定 しうる要素はない もの と考え ら
れ る。赤羽氏の年 代観 にあてはめれば第 Ⅲ―(2)期 の窯 とす べ きもので ある。従 って、第
Ⅳ期 (1850∼ 1450)の 段階で既に旧常滑町域 への窯 の集約化、つ まりB現 象が完了 して
いたと結論 せざるを得 ないところである。
以上、正法寺窯に関す る考察は、その時間的位置づ けと、窯構造、そ して分布 といっ
た基礎的研究 に終始 し、該期 の生産構造に至 る前 に予定 した紙幅を過 ぎて しま った。 こ
の問題 については、 いずれ稿を改 めて考察す ることに したい。また論考 の主軸 は赤羽一
郎氏 の諸研究を基礎 にすえ、その批判的検討を通 してよ り史実に迫ろ うとす る形を とら
OO
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ざ るを え なか った。 中世 知 多古 窯研 究 の 第 一 人者 と して広 範 にわ た り多 くの 優 れ た研 究
を発表 され続 け て い る赤 羽 氏 の 業績 に拠 らず に、 この 種 の 研 究 を深 化 しえ ないのが 現 状
で あ る と認 識 した結 果 で あ る。文 中、氏 の 所説 を 曲解 、誤 引 した惧 れ もな しと しな い。
ひ とえ に筆者 の 未 熟 の た めで あ り御寛怒願 うと ころで あ る。
尚、常滑 市 民 俗 資料 館 で は 1989年 11月 に 「室 町 の 壺 」 を題 す る特 別展 を実施 した。 図
5∼ 図 11は 、 その 際 に近 在 の 所 蔵家 各氏 よ り借用 し展 示 した ものの一 部 で あ る。 この う
ち図
5-47は 平 井 口窯 段 階 、 図 5-48は 野 間 口窯 段 階 に相 当す る と考 え られ る。 その 他
の 耳 付 、刻 文 付 、 あ る い は無 文 の 壺類 や縁 帯 口縁 の 退 化 した甕 に つ いて は野 間 口窯段 階
か らそれ以 降 の 近 世 初 頭 、 つ ま り1500年 ∼ 1650年 の 期 間 内 に常 滑 の 地 で 生 産 され た もの
と考 え られ る。 い ま、 これ らの 資料 に つ いて生 産 地 の 同定 や その細 別 をす る余裕 はな い
が、壺 類 は祖 母 懐 茶 壺 な ど との 共通性 も看 取 され 、 いず れ機 を改 めて 考 察 す る ことに し
た い。
ニュ
注 1『 常滑焼 ―中世窯 の様相 ―』考古学 ライブラ リー23、 赤羽一郎者、 1984年 、
ー・ サイエ ンス社
注 2『 常滑市民俗資料館研究紀要 I』 常滑市教育委員会、 1983年 、所収
ヽ
注 3『 常滑 渥美』 日本陶磁全集 8、 赤羽一郎 月 野田勝 一者、 1977年 、中央公論社
注 4『 常滑 陶芸 の歴 史 と技法』赤羽一郎著、 1983年 、技報堂出版
注 5注 3文 献70頁 解説文及 び54頁
注 6注 1文 献48、 49頁
注 7「 知多古窯址群 における山茶碗 の研究 一その編年 に関す る試論 ―」中野晴久
『常滑市民俗資料館研究紀要 I』 1983年 、所収
「鎗場 。御林古窯址群 の編年的研究」中野晴久 『知 多古文化研究 2』 知多古文化
研究会、 1986年 、所収
「中世 の古窯」中野晴久 『新修半 田市誌』上巻、 1989年 、半田市
野正文 『丘 陵 一甲斐 丘陵考古学研究会 会報 ―第 10号 』
注 8「 棲雲寺 出上 の常滑大甕 」月ヽ
甲斐丘陵考古学研究会、 1984年
注 9「 愛知県 における銭貨埋納容器の諸例 一埋納容器の変遷 と蓄銭貨幣
『愛知県陶磁資料館研究紀要 5』 愛知県陶磁資料館 、 1986年 、所収
注 10『 中 田池古窯址群 その
1』
奥川弘成他
―」柴垣勇夫
武豊町教育委員会、 1990年
注 11「 常滑窯 をめ ぐる若干 の考察」赤羽一郎 『知多半島の歴史 と現在No
2』
日本福祉
大学知多半島総合研究所、 1990年 、校倉書房、所収 28頁
ー
注 12「 山茶碗 と中世集落」藤沢良祐 『尾 呂 愛知県瀬戸市定光寺 カ ン トリ クラブ増
設工事に伴 う埋蔵文化財発掘調査報告 』本文編瀬戸市教育委員会、 1990年 、所収
己中葉 )と す る こと も不可能 ではな
尚、藤沢氏 の所見 としては第 9型 式 (14世 糸
いが、第 8型 式 (13世 紀後葉 か ら14世 紀前葉 )に 生産 されたと考える方 がより妥
当とす るものであつた。貴重 な御教示 に感謝 した い。
59
注 13『 加世端第四号窯』白菊古文化研究所、 1963年
注 14『 上芳池古窯址群』阿久比町教育委員会、 1990年
注 15『 愛知県知多古窯址群』愛知県教育委員会、 1962年 、所収、 6頁
注 16注 9柴 垣論文 において 11頁 に示 された岡崎市舞木 町出上 の常滑製 の甕 は形態的に
正法寺 の甕 B2、
B3類 と共通す る。そ して甕内に納 め られた銭貨
25000枚 の う
ち最 も新 しい初鋳年代を もつ ものは1868年 初鋳 の洪武通宝 とされて い る。 この年
代か ら甕 の生産年代を推定すれば遅 くとも1400年 を前後す るあた りに求 めること
がで きる。
注 17『 国分出土渡来銭』上野川勝、栃木県国分寺町教育委員会、 1991年
注 18注 11赤 羽論文 29、 30頁
注 19『 福住古窯址群』新巽 ヶ丘団地関係遺跡調査団、1978年
注20『 小森古窯址群』常滑市教育委員会、1990年
注21『 高坂古窯址 群』常滑市教育委員会、 1981年
注22「 近世常滑焼 にお ける甕 の編年的研究 ノー ト」中野晴久 『常滑市民俗資料館研究
紀要 I』 常滑市教育委員会、 1986年
注23注 15文 献、第二 章平井 回古窯址群、山田英輔氏執筆部分。
注24注 H文 献 30、 31頁
注25注 11文 献 28頁
60
遺
図版番号
口
径
底
径
口縁縁帯 幅
器
高
考
備
甕
焼成 による歪み人、茶褐色
3.7cm
1-1
1成 良 好 、 暗 灰 色
3.7
1-2
1-3
1-4
1-5
1-6
1-7
1-8
1-9
1-10
毛成 に よ る歪 み大 、茶褐 色
4.7
焼成良 好 、暗灰 色
焼成良好 、淡灰色
〃
暗褐色
焼成不 良 、黄 白色
1-11
1-12
1-13
1-14
1-15
1-16
1-17
2-18
42.7 cm
2-19
2-20
2-21
2-22
2-23
3-24
38.0
3 -25
3-26
3-27
3-28
3 --29
6.4
焼 成 不 良 、 灰 白色
〃
責褐色
〃
黄 白色
焼成良好 、暗掲 色
〃
暗灰 色
4.0
軍h出 上、焼成不良、黄白色
焼 成 良 好 、補 修 痕 あ り
〃
暗褐色
44.1
40.1
44.2
42.0
40.6
41.5
51.7
55.5
66.1
40.6
50.8cm
17.8cm
窯 内 出土 、焼 成不 良 、黄褐 色
焼成良 好 、暗次 曳
窯 内 出上 、焼成不良 、黄 自色
名成不 良 、黄 自色
焼 成良好 、暗灰色
焼成不良 、赤褐 色
□
3-30
3-31
33.4
11.6
13.9
3-32
3-33
3-34
3-35
3-36
焼成良好、褐色、表面ニ リ
2
30.0
窒 内出上、焼成良好、暗灰色
焼 成良好 、暗褐色
焼 成不 良 、淡褐 色
3
″
″
11.3
12.8
暗褐 色
茶褐 色
窯 内 出土 、焼 成不 良 、黄 白色
焼 成長好 、茶褐色
3-37
焼成不 良 、黄褐 色
3-38
31.2
32.0
4-42
4-43
18.8
20.2
4 -44
19. 6
4-45
10.2
4-46
13.6
1.5
1.7
〃
赤褐色
士
電
3-39
4-40
4-41
不良、淡灰色
十一
2.5
2.2
13.1
1焼 成不 良 、淡黄色
(29.0)│
1焼 〃
淡灰色
成良好 、暗灰色
山
茶
碗
4.8 1焼 成良好 、灰 白皇
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窯体実測図
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正法寺古窯窯体 (焚 口側 よ り)
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正法寺古窯窯体 (焼 成室側 よ り)
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12 (4-42)
(1-17)
11 (4-44)
平成 4年 3月 20日 発行
常滑市民俗資料 館
究
研
紀
要
V
編
集
常滑市民俗資料館
発
行
常滑市教育委員会
印 刷
株式会社 平和堂