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寝屋川市支化財資料 7
寝屋長者屋敷 跡伝 承地
一 二 寝屋 川市水道局寝屋配水場築造 に伴 う
発掘調査概要報告十
1984・ 3
寝 屋 川 市 教 育 委 員 会
寝屋川市支化財資料 7
寝屋長者屋敷跡伝 承地
十
寝 屋川市水道局寝屋配水場築造 に伴 う
発掘調査概要報告一―
1984・ 3
寝 屋 川 市 教 育 委 員 会
は
メ
,ゞ
き
室町時代 か ら江戸 時代 にか けて書かれた『 御伽草子 』は、広 く世 の人 々に読 まれ
親 しまれて きま した。その 中 で も有 名な「鉢 かづ き姫」 の物語 は、本市 の寝屋地区
を舞台 と して書 かれた もので あ ると言われてお り、鉢 か づ き姫 の住 ま い した寝屋長
者屋敷跡 と伝 え られて い ると ころ もあ ります。地元 の寝屋地 区 は もとよ り隣 の打上
地 区 において も鉢 か づ き姫 にまつ わ る多 くの伝承 が今 も人 々の間 に伝 え られて いま
す。
このた び寝 屋川市 水道局寝屋配水場築造 に伴 う事前 の発掘調査 を実施 し、そ の調
査報告 をま とめ る運 び とな りま した。調査地か らは、竪穴式住居跡・ 井戸・ 溝・ 耕
作痕 と考 え られ る溝等 が発見 され、遺物 と して は縄文 時代 か ら中世 にか けての数 多
くの遺 物 が 出土 し、 この地域 が縄文時代 か ら中世 にか けての複 合遺跡 で あることが
半1明 しま した。
調査地周辺 は、まだ まだ静 かな田園地帯 であ りますが、開発 の波 が ひ しひ しと押
し寄 せて こよ うとして います。本市教育委員会 と しま して は、文化 財を保護 し後世
の 人 々に伝 え るべ くこれか らも一層 の努力 を重 ねてまい りたい と存 じます。
今回 の調査 の実施 に あた って は、寝屋川市 水道局 の 多大 な るご協力 を受 けた こと
は もち ろん の こと、地元 の方 々、調査事業 にご協力、従事 された関係諸氏 に深 く感
謝 の意 を表す次第です。
昭和 59年 3月
寝屋川市教育 委員会
教育長 坂
中
侠
例
口
1.本 書 は、寝屋川市 水道局 寝屋配水場築造に伴 う寝屋川市 大字寝屋所在 の寝屋長
者屋敷跡伝承地 の発掘調査概 要報告書であ る。
2.本 調査 は、寝屋川市教育委員会が寝屋川市水道局 の依頼 を受 けて実施 した もの
で あ る。
3.本 調査 に要 した費用 は全 て寝屋川市水道局が負担 した。
4.調 査 は、発 掘調査及 び整理業務 を含 め 、昭和 58年
7月 1日 に着手 し、昭和 59年
3月 31日 完了 した。
5.発 掘調査及 び整理 は、寺前治一寝屋川市文化 財保護審議会会長 、頼川芳則 同志
社大学講 師を調査顧 問 と し、寝屋川市教育委員会 社会教育課塩 山則之を担 当者 と
し、補 助員 と して松 田祥子・ 奥 田達 治・ 増 崎勝敏が あた った。
6.本 書 の作成 に つ いて は、塩 山が執筆 、実測
。 トレース は松 田・ 平野敦 子 が 、写
真撮 影 は塩 山が それぞれ担 当 した。
7.発 掘調査 の進行・ 報告書 の作成 な どにつ いて は、大阪府教育委員会 文化財保護
課、財団法人枚方市 文化 財研 究調査会 、東大阪市教育委員会 勝田邦 夫氏、 四条畷
市教育委員会野 島稔 氏、交 野市教育委員会鵜 飼満男氏 の各氏 の御 指導・ 御教示 を
頂 き、寝屋川 市 水道局 の全面 的 な協力を得 た。記 して厚 く感謝 の意 を表 します。
目
次
は し が き
I位
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・・
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境 ―・
1
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Ⅱ 調 査 に至 る経 過 …
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5
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中●
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・…
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・… Ⅲ
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・中●
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…
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・………
・… ・中
要 ― ・
6
Ⅲ 調
Ⅳ
置
査
と
の
環
概
……・… … Ⅲ
…Ⅲ
…・…………………
物 ・… …………………… Ⅲ
遺
V遺
Ⅵ お
,・
物
わ
観
察
り
8
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表 …・
…………………………………………………………… 13
に 。
図
版
次
寝 屋長者 屋敷 跡 伝承地 周 辺 遺 跡 分布 図
15
図版 2
調査 地 位 置図
16
図版 3
調 査地 周 辺 字 切 図
17
図版 4
遺
18
図版 5
竪穴式住居実測図
19
図版 6
調 査地 区断 面 図
20
図版 7
調 査地 区断 面 図
21
図版 8
出土 遺 物 実 測 図
22
図版 9
出土 遺 物 実測 図・ 石器
23
図 版 10
遺
構
24
図 版 11
遺
構
25
図 版 12
遺
構
26
図 版 13
竪 穴 式 住 居
27
図版
1
井 井
図 版 14
構
図 版 15
図
戸
1
28
戸
2
29
図 版 16
出
物
30
図 版 17
出土 遺 物・ 石 器
31
図 版 18
出
土
遺
物
32
図 版 19
出
土
遺
物
33
図 版 20
出土 遺 物
器
34
土
遺
`陶
挿
挿図
1
井戸
2断 面 実 測 図
図
目
次
I.位
置 と 環 境
寝屋長者屋敷跡 は、大 阪府寝屋 川市寝屋地 区を中心 と した地 に、民間伝承 と して
今 なお伝 え られて い る。寝屋長者屋敷跡伝承地のあ る寝屋 地 区は、大阪府 と奈良県
の府県境 に連 な る生駒 山系 の 西側斜面 か ら派生す る洪 積 層 の寝屋川市東部丘 陵 の東
端 、交野市 と境 を接 した海抜 45統 前後 の丘陵地形 に立地 して い る。
この寝 屋地区周辺 の調査 は、過去 数度 の表面採集調査が実施 されたのみで、本格
的な調査 は 、今回調査 を実施 した地 区 の 東約 200駒 で交野市教育 委員会 によ って 昭
和 50年 国鉄片町線復線化工事 に伴 って実施 され た国鉄片町線星 田駅西遺 跡 の調査だ
けであ る。
生駒 山系 の 西 に広 が る台地 は 、お もに大阪層群 によ って形 成 され、北 は京都府八
幡市 の八 幡丘 陵 (男 山丘 陵 )、 枚方台地 か ら、南 は四條畷市 の南野丘陵 まで つづ く
淀川左岸 に形成 された広大 な丘 陵及 び台地 であ り、寝屋長者屋敷跡伝承地 の あ る寝
屋川市東部丘陵地域 は、 ほぼその 中心 に位置 して い る。
この丘 陵地域 には 、旧石器時代 か ら各時期 を通 じて数 多 くの遺跡が知 られて い る。
旧石器 時代 には、有舌尖頭器 。国府 型の ナイフ形石器 。石核 。翼状素1片 等 を 出土
した枚方 市楠葉東遺跡 、国府型 の ナ イフ形 石器・ 石刃を用 い た小型 ナイフ形石器・
掻器 ・ 石核 が 出上 した 津 田三 ツ池遺跡 、 津 田三 ツ池遺跡 と穂谷川 をは さんで対 峙
す る藤阪宮 山遺跡 で は、切 り出 し状 の小型 ナイフ形石器・ 国府型 ナイフ形石器・ 細
石器 ・ 石核 な どが 出上 し、 藤 阪 南 遺 跡 か らは木葉 状尖頭器が 出上 して お り、交北
城 の 山遺跡 か ら国府型 ナイフ形 石器 、星 ケ丘西遺跡 か らも国府型 ナ イフ形 石器 、小
倉東遺跡 か ら小型舟底形 石器 、藤 田土井 山遺跡 か らは有舌尖頭器 が 出土 して い る。
交野市 の神宮寺遺跡 か らは、国府型 ナイ フ形石器 。有舌尖頭器・ 石核等 が 出上 し、
星 田付 近 な どで も尖頭器 が 出上 して おり、 布 懸 遺 跡 か らは、 小型 の ナ イフ形 石器
が 出上 して い る。寝屋川市高宮遺跡 か ら国府型 ナ イフ形 石器 が 出上 し、太秦遺跡 で
は、 ナイ フ形石器 、打上で ナイフ形石器 がそれぞれ表面採集 されて い る。四條畷 市
更良岡山遺跡 では、 ナイフ形石器・ 削器・ 彫器・ 舟底形石器 。大型両刃 の礫器が出
上 し、 有 舌 尖 頭 器 を出上 した南山下遺跡 、 木 葉 状 尖 頭 器 を出土 した岡山南遺 跡、
-1-
ナイフ形石器が採集 されて い る忍 陵遺跡 な ど20遺 跡を こえる旧石器時代 の遺跡が数
多 く点在 して い る。
縄文時代 にな ると、早 期初 めの編年基準 とな った尖底 の押型文を つ けた「 神宮 寺
式上器 」 と して、 学史上有名な交野市神宮寺遺跡、神宮寺式 に後続す る枚方 市穂谷
遺跡、四條 畷市 田原遺 跡 、大東市 寺川堂 山下遺跡 が あ り、前期 には、枚方市穂谷遺
跡、 津 田三 ッ池遺跡、 寝 屋 川 市 高 宮 遺 跡 が 知 られて いる。中期 にな ると、 キ ャリ
パ ー式上器 を 出上 した交野 市 星 田旭遺跡 、船元式上器 を 出土 す る四條 畷市南 山下跡 、
砂遺跡 が あ り、後期・ 晩期 には 、小児棺 と して 使用 され た可能性が つ よ い埋甕 を出
土 した枚方市交北城 の 山遺跡、寝屋川市小路遺跡 、中津式 。滋賀里式・ 船橋 式上器
等 を出上 した四條畷 市更良岡山遺跡が所在 して い る。
弥生 時代 には、畿 内第 I様 式新段階 の壷及 び甕 をそ れぞれ 出上 した四條 畷市 田原
遺跡、雁屋遺跡、大 東 市 中垣 内遺跡が あり、中期初頭 には、甕 の口縁部端部 にキザ
ミロが め ぐる畿 内第 Ⅱ様式 の上器 を 出上 し、河 内平野 と枚方台地 の接点 に位 置 し、
高地性集 落 と して注 目され て い る寝屋 川市太秦 遺跡 、竪穴式住 居 と高床 式 の掘立柱
建物や井戸 か らなる集落 の一 部 と、42基 の方形 周溝墓 な どの墓 域が発見 された枚 方
市交北城 の 山遺跡 や田の 日山遺跡が あ る。後期 にな ると、淀川 左岸地域 の遺跡数 は
膨大 な数 にの ばり、焼 けおちた住居跡を検 出 した枚方 市長尾西遺跡、集落 と墓 域 を
区画す るV字 溝等 を検 出 した星ケ丘 西遺跡 、小型傍 製重圏文鏡・ 分銅形土製品を出
上 した鷹塚 山遺跡 、六 角形 の建物跡 を検 出 した 山之上天堂遺跡 、寝屋川市 において
は 、後期 の長頸壷片を 出土 した寝屋 遺跡 、池 の瀬 遺跡、小路遺跡が知 られて い る。
古墳 時代 には 、淀川 をのぞむ 台地上 に築かれ 、吾作銘 四神 四獣鏡 な ど八面 の銅鏡
を出上 した枚方市万年寺 山古墳 、画文帯神獣鏡・ 銅鏃・ 碧玉製の鏃形石製 品等 を出
土 した藤 田 山 古墳 、 前方 後円墳 5基 、 円墳 3基 か らなる交野市森 古墳群、 粘土椰
内 か ら硬玉 製 勾 玉、 ガ ラス製小玉 な どを 出土 した妙見 山古墳、 全長約 80駒 の前方
後 円墳 で長 さ約 6.3れ 、幅約 1統 、高 さ約 0.7紀 の竪穴式 石 室 を有す る四條 畷市忍
ケ丘古墳 が知 られて いる。中期 にな ると二 重の空濠 を もつ枚方市牧野 車塚古墳 、 ノ
プチ伝 承を もつ禁 野 車 塚 古 墳、 筒形銅器・ 巴形銅 器 ・ 横矧板鋲留短 甲 な どを模 し
た形象埴輪等が 出土 した り、方形 の周濠 をめ ぐらす 円墳 な どが検 出 された交野市寺
-2-
・ 草塚 古墳群 、四條畷市墓 の堂古墳が あ る。後期 にな ると、枚方市 中宮古墳 群、朱
II市 にお いては、 神武東征
彩 の石室 を もつ 白雉 塚 古 墳、 交野市 倉治古墳群、 寝屋サ
伝承 を もつ トノ山 (高 塚 )古 墳 、太秦 1号 墳 。廻 シ塚古墳 を含 み 、六鈴鏡 や三環鈴
な どが 出上 して い る太秦 古墳群、北河 内地方最大規模 の横穴式石室 (無 袖型 )を も
つ 円墳 の寝 屋 古墳 、江戸時代『 河内名所図会 』に「八 十塚 (や そつ か )」 と して紹
介 されて い るが後世 の開墾等 のためほ とん どその姿 を消 して い る打上古墳群 、長 さ
3縮 、幅 1.5乳 の板状 の花 南岩 を下石 と し、そ の上 に直径約 3碗 、高 さ約 1.5η の
花 蘭岩 の 巨石 を置 き、奥行 2.3駒 、幅 0,9統 、高 さ 0.7駒 に くりぬいた両袖式 の横
口式石榔 を有 し、国 の史跡 に指 定 されて い る古墳 時代終末期 の もの と して著名な石
の宝殿や、蓋形埴輪 のほか 多数 の埴輪 を出土 した四條 畷市更良岡山古墳群が ある。
切妻造 りの家形埴輪 や円筒埴輪 を 出上 した四條 畷市 岡山南遺跡、人物埴輪 の頭部
や蓋 形埴 輪 を 出土 した忍 ケ丘 駅 前 遺 跡 、 5世 紀後半 の 多量 の製塩 土器 を出土 した
中野遺跡 、石敷製塩炉 や方形周溝状 の周溝 内か ら四体分 の小 型 の古代馬 (蒙 古系馬 )
の骨 を出上 した奈良井遺跡 な どの古墳時代 の集 落 もあ る。
高宮廃寺跡西側 の高宮遺跡 が ある丘 陵頂上付近 で は、一辺 約 1統 の 巨大 な柱穴を
もつ掘立柱建物群 や 、一辺約 4η の竪 穴式住居群が発見 されて お り、掘立柱 建物群
と竪穴 式住居群 とは、長 い柵列 によ って 区画 されて い たよ うで あ り、出土遺物か ら
飛鳥・ 白鳳 時代 の集落遺跡 で、 この地 に居住 した人 々によ って 白鳳 時代初期 に高宮
廃寺が倉1建 された ことが知 られて い る。 い ま高宮廃寺跡 の 西塔推定地 には 、天萬魂
命 を祭神 とす る延喜式 内社大杜御祖神社 が 鎮座 して い るが、昭和 55年 の調査 におい
て北 西約 50駒 の旧社殿伝承 地 か ら神 社遺構 と推定 され る 2間 × 3間 の掘立柱建物跡
を検 出 して い る。 さ らに西約 150紀 には、江戸時代讃良郡 の一の宮 とされ先 の天高
魂命 の子神 を祭神 とす る延 喜式 内社高宮神 社 が鎮座 して い る。
古代寺院 と して は、枚方市 中山観音寺跡 、交野市長法寺跡 、寝屋川市太秦廃寺跡 、
高柳廃寺跡、寝 屋川市 と四條 畷市 にまたが る讃良 寺跡、 正法 寺跡 な どがあ る。
中世 の集落遺跡 と しては、井戸・ 溝 。掘立柱建物跡 を検 出 した交野市 外殿 垣 内遺
跡、 中世 ∼ 江戸時代 までの遺 構 を検 出 した星 田駅 西遺跡 、 旧東 高 野街道沿 いで中
世 の遺物 の散布 をみ る寝屋川市寝屋遺跡 、寝屋東遺跡、鎌倉時代 か ら室 町時代初期
-3-
に属│す る掘立柱建物や石群遺構を検出した国守遺跡t室 町時代の井戸 12基・ 溝・
掘立柱建物跡を検出した四條畷市忍ケ丘駅前遺跡があるなど、中世以降東高野街道
沿いの集落が多く出現するようになって くる。
このように周辺各市において注目すべき遺跡の分布がみられる。
-4-
Ⅱ 調 査 に 至 る経 過
室町時代 か ら江戸 時代 の初 めにか けて つ くられた『 御伽車子 』の「 鉢か づ き」 に
は、「 中昔 の ことにや有 けん、河内 国、交野 の辺 に備 中守 さねたか とい う人 ま しま
しけ る。云 々」 (岩 波 日本古典文学大系『 御伽草子 』よ り)と あ り、 この地域 に広
大 な長 者屋敷が あ った と、鉢 か づ き姫 の伝 承 とと もに広 く人 々の 間 で語 り伝 え られ
て きた。
今回調査 を実施 した寝屋 は 、古代 にお いては交野郡 に属 し、村名 の 由来 は交野 の
星 田に 中心が あ った「 星 田牧」 の従事者 の宿泊所 を設 けたのが この地 であ った こと
に よ るとか、 東高野街道 を往来す る旅人の布施屋 の設 備が あ った ことによ る もの で
あ るとい う説 が あ り、 この 地 に比 較的古 くか ら集 落 の あ った ことが推 察 されて いた。
今 回調査地 の東約 200れ で交野市教育委員会 によ って実施 された国鉄片町線星 田駅
西遺跡 か らは、中世か ら江戸 時代 にかけての集落 の一 部 を検 出 してお り、 また周 辺一
帯 か ら土師器 片や瓦器辺 など中世 の遺物が採集 されて い る。
昭和 52年 4月 、寝屋川市水道局 によ り寝屋川市大字寝屋 96の 2番 地 (字 名萩原 )
に配水場 の築造が計画 された。寝屋川市 教育委員会 は、寝 屋川市 水道局 と協 議 を重
ね、事前 に発掘調査 を行 う ことが決定 し、試 掘調査 を実施 した。
試掘調査 は、昭和 57年 12月 に東西 25η 、南北 2紀 の トレンチを南 より第
第
3、
第 4ト レンチ と して 4本 、第
3、
1、
第
2、
第 4ト レンチの間 に東西 2碗 、南】ヒ5乳 の
トレンチを第 5ト レンチ とす る計 5本 の トレンチを設定 して遺構 の保存状態及 び基
本的 な 層序 を確認 す るために実 施 した。そ の結果 、第
1、
第 2ト レンチで耕上 下約
30節 で 中世 の遺 物包含 層、 50師 下で溝状遺構 を検 出 し、第 3、 第 5ト レンチで は落
ち込 み状遺構及 び溝状遺構 を検 出 した。調査地 の北端 に設定 した第 5ト レンチで は、
後世 の削平 が はげ しく、耕上 の下 はす ぐに地 山 とな って お り、遺物・ 遺構 を検 出す
る ことはで きなか った。
以上試掘調査 の結果 か ら、金調査 対象面積約 2100π の うち北側 の一 部を本調査 の
範囲か ら除外 し、約 1800π について全 面調査 を昭和 58年 7月 1日 よ り実施 した。
-5-
Ⅲ 調 査 の 概 要
今回 の調査地 は、寝 屋川 市大字寝屋 96の 2他 で 字名 を萩原 といい、交野市 と境 を
接 し現在 の寝屋 の集 落 の東端 に位置す る旧水 田地で ある。
調査 の対象面積 は、約 2100ア で あ ったが、昭和 57年 12月 に実施 した事前 の試掘調
査 による結果 か ら、遺物 。遺構 の検 出 されなか った北端 の一 部 を除外 した約 1800π
につ いて本調査 を実施 した。
まず、東西南北 10η 四方 区画 に基準杭 の設定 して区画設定 を行 ない、東西方向を
】ヒか らAラ イ ン、 Bラ イ ン、 Cラ イ ン、 Dラ イ ン、 Eラ イ ン、 Fラ イ ン、 Gラ イ ン
と し、南北方 向を東 か ら 1ラ イ ン、 2ラ イ ン、 3ラ イ ン、 4ラ イ ン、 5ラ イ ン、 6
ライ ンと命名 し、北東杭 を基 準杭 としA-1、
A-2、 A-3…
……
と した区画
を設定 して実施 した。
今 回 の調査で検 出 した主 な遺 構 と して は、井戸
2、
竪穴式住居跡
1、
溝、耕作痕
等 であ る。
1.井 戸
今回 の調査で検 出 した井戸 は、す べて素掘 りの井戸 で あ る。
井戸 1.(図 版
14 )
上端で直径 0.6駒 、深 さ 0.6駒 、底部 の直径 0.5陶 を測 る円形 の堀 り方で、
井戸底 の 中央が さ らに直径
0。
15紀 の 円形 の掘 り方で深 さは、 5紀 まで確認 した
が不 明で ある。井戸の内か ら遺物 は木片 が数点 の みで あ った。 この井戸 は、約
20側 の耕上下 の床土 か ら掘 り込 まれて いる。
井戸 2.(挿 図
1、
図版
15)
上端で直径 1.5η 、深 さ 0.4紀 、底部 の直径 1.2統 を測 る円形 の掘 り方で、
井戸底 は平担で はな く起状が あ る。井 戸 内部 か らは、数点 の上 師器片 を 出土 し
た にす ぎな い。
2.竪 穴式住居
(図 版
5。
13)
一辺 4.5統 、周壁 の残存高約 30節 を測 り、隅丸方形 の プ ラ ンを呈 して い る。南
東壁 よ り 3.5統 を残 して、北西 は削 除 されて い る。柱穴 は浅 く約 10側 の深 さで あ
-6-
る。遺物 は、土師器 の 小破 片が 出上 しただ けであ る。
3.溝
調査地 の ほぼ全 域 か ら検出 してお り、溝底 の レベ ル よ り南東 か ら北西 へ 走 る流
路 と、 東 か ら西 へ の流路 の溝 に大丹1で きる。溝幅 は、 0.3η ∼ 0.5駒 、深 さ 0.1
97b∼
0.2駒 で U字 状 を呈 して い る。
遺物 はほ とん ど出土せず 、土師器、瓦器 の小破片 を 出上 して い るにす ぎ ない 。
4.耕 作 痕
D-3で 検 出 してお り、東北 か ら西南方 向 に走 る もので あ り、幅約 0.2η 、深
さ約 0.2碗 の U字 状 を呈 して い る。遺物 は 、土 師器 。瓦器等の小破 片を出上 して
い る。
0。
P.40.9507m
1.黄 褐色粘質土層
2.暗 褐色砂質土層
3.灰 褐色砂質土層
4.黄 褐色粘土層
5。
灰褐色粘質土層
挿図
-7-
1
井戸
2断面 実測図
Ⅳ
遺
物
今回 の調査 地か らの出土遺物 は、弥生式上器 。須恵器・ 土 師器・ 瓦器 。上釜・ 土
錘・ 磁 器・ 陶器・ 石鏃・ 剥 片、貨銭等が、遺物包含層・ 溝・ ピ ッ ト等か ら出土 して
い る。 しか し、 その 多 くは小破片 で器 形 の復原 は困難 なため、器形復原 できる土器
及 び土錘 。ナイフ形石器・ 石鏃・ 貨銭 についてのみ 報告す る こ とにす る。
土
錘 (図 版
8015-1∼
5)
5点 を 出上 してお り、全て棒状 の ものに粘上 を巻 きつ けて 成形 し、表面 はナデ
調整 を行 って い る。
長 さは、 3∼ 4師 前後 、胴部径 は、1.0∼ 1.5側 の太 さを も って いる。
それぞれの土錘 は、中心部 に 3翻 前後 の孔 をあけて い る。
胎土 には細砂粒 を若干含む程 度で精選 された材料 を使用 してお り、表面 もナデ
調整 も丁寧 で ある。焼成 も良好 で淡赤褐色 や赤褐色 を呈 して い る。
弥生式上器 (図 版 8・
15-7)
底部 のみの 出上で あ る。
土 師質小 皿 (図 版 8015-6)
復原 口径約 9節 で、整形 は雑 で あるが胎土 は精 良で あ る。
瓦
器
椀 (図 版 8・
15-8)
復原 日径約 14師 、高台が ほぼ退化 してお り、調整 は雑 で ある。
砥
石 (図 版 8・
15-9)
1点 出土 して い る。石材 は不 明で四面が使用 されてい る。
ナ イフ形 石器 (図 版 9・
16-1)
-8-
石材 はサ ヌカイ トで、 素材 は翼状剥 片を利用 した もので あ る。
石
鏃 (図 版 9。
16-2∼ 17)
16点 出土 して お り、石材 はチ ャー ト 2点 (5・
17)と サヌ カイ ト15点 (2.3.4.
・ 6∼ 16)で ある。
凹基 無茎式 の もの (2∼ 9)と 、平基無茎式の もの (10。 11)と 、凸基有 茎式 の
もの (12∼ 15)と 、欠損等 によ り形状 の 不明 な もの (16・ 17)が 出土 して い る。
今 回 の 調査で、 これ らの石鏃 に伴 う土器 の 出土 は弥生 式上器底部一点 のみ であ
るけれ ども、今後 この地域で これ らの 時期 の遺跡発 見 の可能性 を示唆 して い る。
貨
銭 (図 版 17-1∼ 7)
7点 出土 してお り、不 明の 2点 を除 きすべ て 北宗銭 であ る。
-9-
V遺
物 観 察 表
貨
銭
古 銭 名
図版及 び
図版番号
鋳
造
年 代
天聖 元賓
17- 1
天
聖
元
年
1023年
熙寧元賓
17- 2
熙
寧
年
間
1063∼ 1077年
元豊通賓
17-3
元
豊
年
間
1078∼ 1085年
紹聖 元賓
17-4
紹
聖
年
間
1094荘 1097年
聖宋 元賓
17- 5
建 中靖 国 元 年
永□□賓
17- 6
不
明
不
明
□□□□
17- 7
不
明
不
明
D-4
膏
抑
南区 トレンチ
床 土
D-3
青灰抑
曙
E-3
1101年
床 土
区採
器
翼版 及 び
図版番号
類
量
法
底部直径
4.6翻
弥生式 土器 晃
-7
椀
-6
晃-8
唯絲
器
特
徴
内、外面 とも磨滅 が
著 しく調整 は不明
残存高 2.2蝕
唯縞
土師 質小 皿 晃
瓦
D-2
攀
南表
種
備考
4土
一
D床
土
出土 地点
鋳 造 年 代 (西 暦 )
9例 ・平底 で 、やや外反 ぎ
1.4側 みに体部 はたちあが り
国縁部端 で ま る くと じ
る
14例
4.9例
低 い高台が付 き 日縁
部 に 1条 の沈線 。
整形 は雑 。
―-10-―
台土 。焼 成
色調・月
備
考
。外面淡 褐色 、 表 採
内面黒褐色
O小 砂粒 を多 く
含む
。良
。白黄褐色
。良質
。硬
溝状 遺構
O黄 白色
F-4
。良 質
灰褐色砂質
土層
O軟
石
器
石
鏃
石
鏃
石
鏃
石
鏃
石
鏃
石
鏃
石
鏃
石
鏃
石
鏃
石
鏃
石
鏃
石
鏃
石
鏃
石
鏃
石
質
25,1
12.3
6.2
サヌカイ ト
-2
22.2
17.5
3.5
サスカイ ト
-3
24.0
17.9
-4
22.3
16.8
3.8
-5
18.2
12,7
2.8
-6
21.7
12.0
-7
25.8
16.6
3.0
0.8
サ ヌカ イ ト
晃
-8
22.8
13.5
2.2
0.55
サスカイ ト
晃
-9
14.3
14.9
4,0
0.6
サヌカイ ト
盈-10
23.0
17.3
2.05
サヌカイ ト
-11
32.4
23.0
-12
38。
9
15.0
―-13
34.5
16.1
58
一-14
22.0
14,0
3.4
―-15
49,9
21.2
―-16
21.0
11.1
晃-17
15.2
13.8
晃
晃
盈
晃
亀
盈
0.9
サ スカイ ト
サ スカイ ト
0.4
チ ヤ ー ト
サ ヌカイ ト
6
1
6.0
サヌカ イ ト
9
6
1
2.55
サヌカイ ト
9
6
1
サスカイ ト
出土 地点
D-1
青灰 色 粘 質 土 層
G-4
灰褐色粘質 土層
C-3
青灰色粘質 土層
3土
一
E床
鏃
η
l)
1土
一
D床
石
さ ≫
7
鏃
(η
9
石
盈-1
み
厚
重く
ナイ フ
形 石器
図版 及 び
図 版番号
最
類
却祠
く
現
薇め
く
種
C-2
青灰色粘質土層
E-3
青灰色粘質土層
C-3
青灰色粘質土層
D-1
青灰色粘質土層
E-4
青灰色粘 質土層
E-2
青灰色粘 質土層
E-4
青灰色粘質 土層
B-3
青灰 色粘質土層
9
6
1
0.8
サヌカイ ト
9
6
1
サ ヌカイ ト
9
6
1
3.0
サ ヌカイ ト
チ ヤー ト
―…11-―
南地区 ZZ
C-3
青灰色粘質土層
D-3
青灰色粘質 土層
ZZ①
備 考
土
錘
錘
島-1
土
錘
土
錘
土
錘
土
錘
島
島
種
最大径
(η η附)
41.5
13.5
-2
管 状 土錘
37.4
11.7
-3
管 状 土錘
43.1
11.0
管 状 土錘
40.9
13.4
管状土錘
34.6
11.2
径
(翻 )
3.3
7.85
4.4
1.8
4.3
出 土 地 点
G-4
灰褐色砂質 ELE
F-4
灰 褐色砂 質土層
F-4
灰 褐色砂質土層
8
管 状 土錘
孔
″
土
器
量>
版及び
図版番号
重く
類
さ>
鍮
長
'図
種
一
-5
4
5
︲
島
―…12-―
6. 15
3.0
2.8
D-2
床
土
B-2
青色色 粘質 土層
備
考
Ⅵ
お わ り に
『 河内国交野郡寝屋長者鉢記 』
国
(『
寝 屋川市誌 』所収 )に 、「 これは弘安二年
河内
交野郡 に寝屋 と申す所 に大長者 あ り。唐土 にて は、信濃 の 国善光寺如来 をゑんぶ断
金 を以て造立 したる天笠 の 月蓋長者、我朝 にては長者 の頭 たる寝屋備 中守藤原実高 と申
して、屋 敷 の東西十 二 丁 、南北 四丁 にて東西 に大門あ り。 (略 )」 とあ り、寝屋 の地 に
広大 な長者屋敷 が あ ったと、寝屋長者 の娘鉢か つ ぎ娘 の伝承 とともに広 く人 々の 間 に語
り伝 え られて きた。平尾兵吾氏 は、 その 著書『 北河 内史蹟史話』 の 中で「 □碑 に伝 え ら
れて居 る長者邸址 は、大 字寝 屋字萩原 に あ って 、萩原及垣 内 の一 部東西拾試 町南北四町、
東西 に大 門 が あ ったので 、東 門 の あ った所を、今 も門 日 と称 し比所 に濠 を埋立て た跡 が
残 って居 る」 と記 して屋敷跡 の地 を考 察 して い る。
今回調査 を実施 した区域 は、小字名萩原 の一部 で 、平尾兵吾氏 の推定す る屋敷 跡地 に
あ たるところで 、現在 の 寝屋 の集 落 の東端 に位置す る旧水 田地 で あ る。
今回調査 で発 見 された遺 構 は、竪穴式住居 1棟 、井戸 2基 、溝 及 び耕作痕 と推定 され
る溝状遺構 、落 ち込 み状遺構 が確認 されて い る。遺物 としては 、 ナ イフ形石器 、石 +、
弥生土 器、須恵器 、土 師器 、瓦器、土釜、土錘 、砥石、陶磁器類 、貨銭等 の 旧石器時代
か ら近世 に至 るまで 幅広 い時期 の ものが 出上 して い る。 これ ら出土 遺物 の うち、近世 の
陶磁器類 が床土 内 よ り多数 出上 して い る ことは、 この付近一帯が近世 において 開墾 され
水田化 され た ことを示 して い る。
現在生駒 山地西麓 で旧石器時代 の遺物 を出土 す る遺跡 と しては、 20ケ 所確認 されてお
り、寝屋川市 内 にお いて も太秦 、打上 、高宮 の各 遺跡で それぞれナイフ形石器が出上 し
て い る。今回 の調査地 の周 辺で は、東 南約 700駒 の ところに小型 の ナイフ形 石器等 を数
多 く出上 した交野市布懸遺跡が所在 してお り、今回出上 のナイフ形石器 は 、 旧石器 時代
研究 に一 資料 を提 出す るもので あ ると さ らに縄文 時代 、弥生 時代 の石鏃 及 び弥生時代後
期 の上器底 部 を出土 して い る ことは、 この付近で はキ ャ リパ ー式上器 を出土 した縄文時
代中期 の交野市星 田旭遺跡以外 に知 られて いな い現 状 において 、今後周 辺 で 縄文 、弥生
時代 の遺跡発 見 の可能性 が 考 え られ る。
竪 穴式住居 について は、後世 の削平 の ために その保存状態 は非常 に悪 く、 と くに北西
側 は完全 に削平 されて しまって い る。 また、竪穴式住居 内か らは、少数 の上 師器 が 出土
しただ けで 時期 を明確 にす る こ とは困難 で ある。
―…13-
今回 の調査 では、『 御伽草子』「 鉢か づ き」 の伝承 にある寝屋 長者屋敷跡 に直接関連
す る遺構 は確認 す る ことはで きなか ったけれ ども、同時期 (中 世)の 遺物 、遺構 と して、
溝及 び耕作痕 と推定 され る多 数 の溝状遺構 と落 ち込 み状遺構 を確認 し、瓦器片 等 が これ
らの遺構 内か ら出土 して い る こ とな どか ら、人 々の生活 の場 が この地域 に営 まれて い た
ことを うかが い知 る ことがで き、 さらに寝屋 の地 や近 隣 の地 には、寝屋長者 や 鉢 かづ き
姫 に関連す ると伝 え られて い る数 多 くの遺跡や遺物が残 されてお り、今後 さ らにそれ ら
の詳細 な調 査研究 を実施 して い く必要 があ るで あ ろ う。
―…14-―
図
版
図版1 寝屋長者屋敷跡伝承地周辺追跡分布図
0
1
2
3
4
5
6
7
8
9
菅相塚
成 田遺跡
三井 南遺跡
秦 山遺跡
池 の瀬遺跡
寝屋 遺跡
寝屋東遺跡
茄子作遺跡
布懸遺跡
10 星 田駅西遺跡
11寝 屋 長 者 屋 敷 跡 伝 承 地
1 Km
18
19
20
12 星 田旭遺跡
13 寝屋南遺跡
21
15
16
17
22
23
24
25
14太 秦北遺跡
廻 シ塚古墳
太秦 一号 墳
神宮寺跡
―-15-一
鹿 の埴 輪 出土地
太秦廃 寺跡
太秦遺跡・ 太秦古 墳群
トノ山 (高 塚 )古 墳
寝屋古墳
打上遺跡
史跡高宮廃寺跡
高宮遺跡
響
d角
―…16-―
ゥ
◇
滸 ,ベ
図 版 2 調査 地 位 置 図
\ , /れ
\
図 版 3 調 査 地 周 辺 字 切 図
タ チ川
釜 土 μ扶洵
―-17-―
図 版 4 遺 構 図
落 ち込み状遺構
× D-3
o
10m
―-18-―
/
グ勿 物 笏 勿 勿 勿 勿 勿 物 物 物 %
一
―-19-
3m
2
1
0
C α
︱
/
/
B
B′
卜\陰艦添忌慈ヽ惟隠陰隠隠バ ︲
_+_
と
く ブ
Nヽ
一
A
A′
―
図版 6 調査 地 区断 面 図
9
C-1,D-1,D-2,E-2,E-3
東 南断面図
μ
O.P 41.2007m
D-4,C-4,C-3,B-3
北西断面図
O.P 41,3007m
14
13.黄 灰 白色粘質土 層
14.灰 褐色粘質土層
10.暗 黄灰色粘質土層
11.褐 灰色粘質土層
12.茶 灰色粘質土層
16.黄 灰 褐色粘質土 層
17.暗 灰褐色粘質土 層
15。
18。
青灰 褐色 粘質土層
2
2
7.灰 白色粘質土層
8.青 灰黄色 粘質土層
9.橙 灰色粘質土 層
︲
2
1.耕 土
2.暗 灰色土層
3.黄 灰色粘質土層
4.青 灰色粘質土層
5.灰 色粘質土層
6.灰 黄色粘質土層
0
2
北 断 面図
9
︲
E-4,E-3,E-2
16
暗 青灰色砂質土層
茶灰 色砂質土層
橙 色砂質土層
黄灰 色粘土層
青灰色砂質土 層
―…20-―
図版 7 調 査 地区 断 面 図
o.P 41.3007m
4
4
︲
E-2,D-2,C-2,B-2
西断面図
41.2007m
E-3,E-4,D-4
西断面図
o.P 41.2007m l
c-3,C-2
北断面図
。
7.& 9.0 1.2.
1.耕 土
2.暗 灰色土層
3.黄 灰色粘質土層
4.青 灰色粘質土層
5.灰 色粘質土層
6.灰 黄色粘質土層
灰 白色粘質土層
青灰黄色粘質土層
橙灰色粘質土層
暗黄灰色粘質土層
褐灰色粘質土層
茶灰色粘質土層
13.黄 灰白色粘質土層
14.灰 褐色粘質土層
15.青 灰 褐色粘質土層
16.黄 灰褐色粘質土層
17.暗 灰褐色粘質土層
18.青 灰色砂質土層
19.暗 青灰色砂質土層
20.茶 灰色砂質土層
21.橙 色砂質土層
22.黄 灰色粘土層
―…21-―
5
9
10a肥
図 版 8 出 土 遺 物 実 測 図
︱
︱
鳳︲
凹
w ◎
︱
4
-22-―
︲川V ◎
代︱
︲
︲︱
︲
船︲
︱︲
︱凹 ③
2
◎l ⑩
図版 9 出土遺物実測図 ・石器
︲ 4
◇
Ю 3
︲
▲
姶 導
ヽ
―-23-―
10θ π
1
0
17
◇
16
◆
員
一
一
一
星 軍 ¢
一
一
一
一
―
―
運
蝋
送
露
触
匙
図版 0
1 遺 構
落 ち込 み状遺構
-24-
図 版 H 遺 構
溝・ 耕作痕
一
・
一
や
一
一
一一
.
一
一
筑
一
一
i■iV4i
・
IⅢ │`
―
イlr苺 4■ ■
│■
■│,││1芸 轟轟│
溝 ・耕作痕
―-25-―
耕作痕・ 溝
図版 3
1 竪 穴 式 住 居
北西 よ り
-27-―
4 井 戸 1
図版 1
上 より
―-28-―
5 井戸2
図版 1
―…29-―
6 出土遺物
図版 1
―-30-一
7 出 土 遺 物 石 器
図版 1
ナ イ フ形 石 器 ・ 石 鏃
︲
轟 4
石鏃
―-31-
8 出 土 遺 物
図版 1
―-32-―
銭
貨
須 恵器
││││■
│ ││―
││■
―
■ ■
.
│―
│││
¶鍮
1案擦纂│1鯵│
土 師器
警
│
壊
鳶
│.│ゞ
、
事―■
ぽ
k鍵
瓦器 ・土釜
-33-―
0 出 土 遺 物 陶 器
図版 2
―-34-―
寝屋長者屋敷跡伝承地
一寝屋川市水道局寝屋配水場築場に伴 う
発掘調査概要報告一
昭和 59年
3月
集 行
編 発
寝屋川 市教 育委 員会
寝屋 川 市教 育委 員会