3・広州市場と異文化理解

4・猫食と自文化中心主義
2011.10.12. 帝京・文化人類学Ⅱ
4・猫食と自文化中心主義
2011/10/12 - [2]
映像資料:広州市場


市場ではねこが食用として売られていた
ということは、必然的に「ねこを食べるという〈異文
化〉」がそこに存在することになるが、それについてど
う思うか


自分のスタンスについて
また、この講義を受けている他の人々はどう考えている
と思うか

他人のスタンスについて
4・猫食と自文化中心主義
自分は「猫食文化」をどう思うか
2011/10/12 - [3]
4・猫食と自文化中心主義
否定派・中間派・肯定派
2011/10/12 - [4]
4・猫食と自文化中心主義
ほかの人はどう思ったと思うか(1)
2011/10/12 - [5]
4・猫食と自文化中心主義
2011/10/12 - [6]
自分を多数派と思うか、少数派と思うか?
1
絶対いや
2
見たくない
3
まあどうぞ
4
勧められたら
5
機会があれば
6
食べた
A
B
C
D
E
F
G
否定多
中間多
肯定多
否定少
中間少
肯定少
均分
多
少
少
少
多
多
少
多
少
少
少
多
多
少
少
多
少
多
少
多
少
少
少
多
多
多
少
少
少
少
多
多
多
少
少
少
少
多
多
多
少
少
4・猫食と自文化中心主義
ほかの人はどう思ったと思うか(2)
2011/10/12 - [7]
4・猫食と自文化中心主義
2011/10/12 - [8]
自分を中心に考えてしまうこと

「日本人の感覚からすると、ねこはペットであって、食
べるものではない」→「ヘンな食文化だ」





土を食べる民族もいれば、カブトムシの幼虫をごちそうとする民
族もいるし、豚の血液をおいしいとする民族もいる
が、大事なのは、絶対的に・誰から見ても「変わっている」食
物・食文化というのはない、ということ
「ヘンな食文化」という考え方の裏には「自分たちはヘ
ンじゃない」という前提がある
これは、日本人だけでなく、世界のひとびとに共通する
普遍的な考え方=自文化中心主義 ethno-centrism
「異文化理解」においては自文化中心主義はとても厄介
4・猫食と自文化中心主義
2011/10/12 - [9]
[再]異文化接触・異文化理解の問題

自分たちとかなり・全く異なる文化と接した場合、




「わたしたちとは違うけれども、それをとやかくいうことはでき
ない」「あれはあれでありだろう」は、果たして異文化理解のス
タンスとして適当なのか?
それは「わかったふり」をしているだけで、実はそれ以上の理解
を拒絶・否定している可能性はないか?
あるいは、すべて受け入れて、自分たちも同じようにふるまえば
理解したといえるのだろうか?
「自分たちの文化とは違う」という文化の差異に対して、
どのようなスタンスで臨むのか?
4・猫食と自文化中心主義
2011/10/12 - [10]
[再]猫食をめぐって



まず大事な点は、1から6までのスタンスに、善悪が存
在するわけでは「ない」、という点(真剣に考えて出た
答えであるかぎり、どれも正当である)
次に重要なのは、「1 絶対に許せない」から「6 自
分も食べた」へと順々に進みさえすれば、他者理解が実
現するわけでも「ない」という点(「食べたらわかる」
などということはない)
ねこが広州市場で食用として売られているのをみて、中
国の文化を否定してしまうのは短絡的である


ねこを食べるのが中国国内のどのような人々であるのかわかって
いるだろうか? (部分→全体への安易な拡大)
ねこを食べる理由が、たとえば非常に人道的な目的であったりす
る可能性を考慮しただろうか? (行為の背景にある文脈の無
視)
4・猫食と自文化中心主義
2011/10/12 - [11]
異文化理解とはどういうことか?-中括

中国における猫食の背景




まず、全員が食べるわけではもちろんない
全ての中国国民に「ペット」という感覚が欠如しているわけでも
ない
猫<虎(あるいは蛇<龍)という比喩的関係
同様の事例は、他にもないだろうか?


韓国における犬食
日本におけるうなぎ食

猫食の背景を知っての「翻訳」と知らないでの「翻訳」
は意味が違うし、当然「理解」にも差がでる

異文化理解とは、そうした「文化の背景・理由・詳細に
ついて知る(知ろうとする)こと」である
4・猫食と自文化中心主義
2011/10/12 - [12]
自文化中心主義/文化相対主義

自文化中心主義とは、自分の文化の基準で周囲をはかり、
自分と異なる点について、ヘンだ・おかしい・間違って
いる・劣っている・遅れている、などと判断する立場


それだけ聞くと、ずいぶんよくないスタンスのようだが、ひとは
誰でも成長過程で「自分の文化」を形づくっている以上、完全に
この見方を排除することは極めて難しい
文化相対主義とは、相手の文化も自文化同様しっかりと
した「体系」を持っており、そのひとびとの間で共有・
学習され、継承・ブラッシュアップされてきたものであ
るから、互いに尊重されあうべきものだ、と考える立場

それだけ聞くと、とてもすばらしいスタンスだが、これを実現す
るためには、i. 相手の文化を(コミュニケーションを重ねた上
で)きちんと認める、ii. 自文化を相対化・客観視(3次元的に眺
める)する、iii. 全体の中での位置を(自他ともに)把握すること
が必要であり、なかなか簡単に成し遂げられるものでもない
4・猫食と自文化中心主義
2011/10/12 - [13]
「真の異文化理解」の不可能性(1)

ねこ食の話から異文化理解とは「その文化の背景/理由/
過程について〈知る・知ろうとする〉」ことと述べた


知るためには、コミュニケーションと言語が不可欠
ところが、言語を媒介とするかぎりは、言語自体のもつ
制約によって、100%信頼できるコミュニケーションは
行ない得ない

ある語が指す内容について、話者Aと話者Bが想定する内容が一致
しているかどうかを確認する手段はない
語
内容A
A
内容B
B
4・猫食と自文化中心主義
2011/10/12 - [14]
「真の異文化理解」の不可能性(2)


100%信頼できるコミュニケーションが成立しない以上、
対話に基づいて得られる理解には、常に誤解がどこかに
は生じている
では、どうせ誤解があるなら、面倒な思いをして対話し
なくてもいいのか?



だれかがそうしたスタンスをとることを止めることはできない
(文化相対主義の限界)
だからといって、みんながみんな対話をやめてよいとも思えない
……どうせ100点とれないから試験勉強はしない? 30点よりは
50点がましだから、ちょっとでもがんばる?
「理解できる」のではなく「理解しようとすることがで
きる」だけだが、「理解しようとする」のとそれを放棄
するのとの間には、大きな差がある
4・猫食と自文化中心主義
2011/10/12 - [15]
なぜ異文化を理解しなければならないのか

そのひとつの理由は「理解の相互性・相対性」に基づい
ている


もうひとつの理由は「知らなくてもいいが、知っていれ
ばよりよいことがあり得る」という点


理解(≒知ること)がコミュニケーションに基づくのだとすると、
その回路を一方的に閉ざすことは適切ではない
たとえば「方言」という文化を共有できるケースとできないケー
ス、どちらがよりシンパシーを得られるだろうか?
結局のところ、異文化理解は、他人への理解・他人との
コミュニケーションと似た次元にある
4・猫食と自文化中心主義
2011/10/12 - [16]
異文化理解-まとめ(1)
異文化理解とは「まあそれもありだろう」と認めるこ
とではない
異文化理解とは「やってみること」でもない
異文化理解とは、その行為や考え方の背景を理解する
ことである
1.
2.
3.
a.
b.
だから、ある意味、だれにでもできる(猫好きであっても猫食
は「理解」できる)
逆に、やろうと思わなければ、できない(簡単に流すことはで
きない)
異文化理解は(基本的には)ことばやコミュニケーシ
ョンを媒介として成り立つ
4.
a.
b.
だから、100%完全に理解することはできない(言語の限界)
自分のことば・自分の文化は、役立つとも言えるし、邪魔にな
るとも言える(基準点としての自文化 vs 自文化中心主義)
4・猫食と自文化中心主義
2011/10/12 - [17]
異文化理解-まとめ(2)
異文化理解とは、つまるところ、全然知らない「異文
化」に対して働きかける不断のプロセスである
5.
a.
b.
全然知らない0の状態から、実現不可能な理想の100の状態をめ
ざして、0よりは10、10よりは30……の理解を続けていこうと
するひとつの〈プロセス〉である
「理解しよう」という動的 dynamic な〈プロセス〉であって、
「理解した」という静的 static な〈状態〉ではない
異文化理解は、個人としての他人の理解と似通ったも
のとしてとらえて、ほぼさしつかえない
6.
a.
他人を理解することは必要か? 他人を理解することは可能
か? という問いに対して、個々人がどういうスタンスをとる
のか、という問題と、本質は同じである