【第8回】長尾為景と上条定憲 三分一原の戦い

【第8回】長尾為景と上条定憲 三分一原の戦い
プロフィール
財務官僚の不遇
政権の裏には必ず財務を差配する者がいる。た
だ、現代と決定的に違うのは、金を握っている者
が必ずしも権力者になるとは限らない、という点
本名:渡邊 豊
昭和36年 新潟市生まれ
新潟南高校・京都花園大学文学部史学科卒
平成18年 小説「峠」で新潟日報文学賞受賞
主な著書『武者たちの黄昏』
『最後の決断 戊辰戦争-越後四藩の苦悩』
(共に新潟日報事業社)
現在 北越銀行勤務
である。
例えば樋口(直江)兼続は財務官僚だった。彼
の才覚を最も正確に評価したのは秀吉だったと思
う。財務官僚が不遇だった時代がまさに信長、秀
吉以前と以後の時代で、コスト計算のできる石田
景為
1
景忠
景恒
2
景守
はない武士」に貶められたのだと思う。それは前
田利家、大久保長安といった戦費を計算、生産で
きる者たちも同じだったろう。足利と徳川、ふた
つの幕府に共通するのは、財務官僚を一段低く位
置づけたことである。
越後の金庫番
こうせんがた
為景の時代の越後にも「公銭方」と呼ばれた財
忠景
務官僚たちがいた。中でも段銭請取状の発給者と
景信
たんせんうけとりじょう
景仲
古志長尾
宗景
実景
顕景
く為景の時代の越後の金庫番だったのだろう。こ
景春
孝景
能景
8
景英
房景
為景
9
?上田長尾?
?
?
?
景実
房景
清景
顕吉
房長
下田長尾
邦景
5
白井長尾
景春
清景
3
4
高景
菅名長尾
徳叟
岳英
重景
7
景誠
景信
政景
晴景
景虎
10
益峯
景房
頼景
6
憲景
景虎
景勝
景勝
(上杉輝虎・謙信)
11
三成や直江兼続は、結局は家康によって「武士で
おおくままさひで
して、その名が目立つのが大熊政秀である。恐ら
の大熊が為景と上条定憲の間に讒言を吹き込んだ
と言われている。
大熊の書状は領主本人ではなく、すべて側近に
宛てられたものだった。これが財務官僚の限界
で、領主とは直接やりとりができない。金は握っ
ているが身分が低いのである。側近の口から入る
讒言は思いのほかリアルに聞こえたのかもしれな
い。それも計算したうえでの行動とも考えられ
長尾氏系図 「新潟県史 通史編2 中世」より
る。因みに、公銭方の役職は子の朝秀に受け継が
(数字は越後守護代の歴代数。?は父子である確証のないことを示す)
れるが、朝秀は謙信の時代、武田信玄の調略に
ホクギンMonthly 2015.9
乗って出奔してしまう。何代かに渡って鬱積した
感情がそうさせたのかもしれない。
外務官僚の活躍
天文(てんぶん)の乱
天文2(1533)年6月、一度は収まった二人の
争いは再燃する。坂戸城(南魚沼市)の長尾房長
(上田長尾氏)らが上条方につき、蔵王堂(長岡
為景が最も気をつかったのは京の幕府の動静
市)の長尾景信(古志長尾氏)らが為景方につい
だった。古河公方も関東管領もこの頃すでに幕府
た。天文4年、為景は京の神余実綱を通じて幕府
とは一線を画している。為景の立ち位置はまさに
を動かし「御旗」を拝領した。数の劣勢を幕府の
房定の頃の越後守護の様で、京の意向を汲んで関
威光で補おうとしたのだろう。定憲は自ら蒲原津
東に睨みをきかすというものだった。その立ち位
(新潟市)に下って揚北の本庄、黒田らを味方に
置を実現するために京に駐在して幕府と為景を繋
つけ、さらに出羽の砂越、会津の葦名にも出兵の
いでいたのが京雑 掌 役、神余実綱という外務官
依頼をした。葦名はこれに応え菅名荘(五泉市)
僚だった。
に軍を進めている。為景は府中に追い込まれた。
きょう ざっ しょう やく
かな まり さね つな
神余氏は、元は安房の国人だったが、どういう
わけか上杉氏の被官になった。少なくとも実綱の
父昌綱の時代から京に駐在し、越後上杉氏の外交
官を務めた。実綱は京の公家や禅僧らとコネク
ションを持ち、彼らを通じて細川、畠山といった
管領家と繋がりを持った。この時代、為景が最も
三分一原の戦い
天文5年4月、府中に迫った上条軍の主力は宇
さだみつ
かきざきかげいえ
佐美一族の生き残り定満と柿崎景家率いる兵およ
さん ぶ いち はら
たかくに
そ三千。為景は保倉川がつくる湿地、三 分 一 原
しろかさぶくろ
(上越市頸城区三分一)で野戦を戦う決断をす
接近したのが管領細川高国である。その高国を通
もうせんくらおおい
じて為景は毛氈鞍覆と白傘袋の使用許可を得た。
長尾家は守護家としての格式を幕府から許された
のである。神余氏はこの活躍により、この後、実
ちかつな
綱から子の親綱へと外交官としての役割を引き継
いでゆくことになる。
る。迎え撃つ為景軍は旗本を中心におよそ二千。
午前中は上条軍が優勢だったが昼になって柿崎景
家が寝返り、最後は為景方が勝利した。辛うじて
府中は守ったものの、為景にとってそれは局地戦
の一勝利に過ぎなかった。
上条定憲の存在
為景の目が京や関東に向いていたのに対し、上
条定憲は近隣の領主間の争いを調停して実力を発
揮していた。佐渡の宮浦城を中心とした抗争や出
さ ごし
羽の砂越、武藤の争いなどを収拾させている。定
憲にはそれだけの力があったということだろう。
享禄4(1531)年、為景の有力な後ろ盾だった
管領細川高国が亡くなった。上条定憲がこれを見
過ごすはずはなかった。この京の政変を機に、二
人の争いは5年に及び続くことになる。それは新
興勢力長尾氏と既存勢力上杉氏の存続を賭けた戦
いでもあったのだろう。
上越市頸城区上三分一 「三分一ヶ原古戦場」の碑 保倉川と北陸道の交差する下にある
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