2・広州市場

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2012.04.25. 成蹊教養・文化人類学の考え方
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2012/04/25 - [2]
前回:4つのキーワード
普遍性
1.

たとえば「人類」であるかぎり、どこかで共通点はあるはずで、
なにかしらわかり合える部分はあるだろうし、地球上で暮らす
ひとびとが持っている文化に違いはあれど、ひとが「文化を持
っている」こと自体は普遍的であろう
多様性
2.

とはいえ、個々のひと・文化の特徴はさまざまであろうし、そ
の多様性を留保することは、おそらく大事なことだろう
個別性
3.

普遍性と多様性の両方をつきつめていけば、「個別性」とその
尊重というのがひとつの究極点にあるのかもしれない
相対性
4.

個別性の尊重について考慮するには、お互いを入れ替え可能と
する考えかた=「相対性」についての理解が必要となろう
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2012/04/25 - [3]
前回:文化の多様性(=異文化)の重要性

もしも地球上の全人類がおなじ文化を持ち、おなじこと
ばを話し、おなじように行動して、おなじ考え方をする
としたらどうだろうか?



確かに英語を覚える苦労は必要なくなるが、非常に殺風景で味気
ない世界が出現することもまちがいない
それはもはや「人間」の世界ではなく「ロボット」の世界に近い
つまり「人間らしい」ということの多くは「多様性・異
文化」が支えてくれている


考え方の違う他者にいらついたり傷ついたり、誤解が生じてトラ
ブルになることもあるだろう
けれども「わかり合える」という「人間らしい体験」は、そうし
た他者がいるからこそ成り立つ
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2012/04/25 - [4]
前回:相対的な視点の重要性

多様な異文化を肯定するのであれば、できるだけそこで
摩擦を減らし、共存していくためのスタンスが必要にな
ってくる



「自分の常識が正しい」という考え方は「他人の常識は間違って
いる」という否定につながる
けれども相手から見れば、相手の常識が正しく、自分の常識は間
違っている、ということになるはず
では、自分と相手と、どっちが本当に正しいのだろうか? それ
は、だれかが決めることができるのだろうか?
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2012/04/25 - [5]
映像資料:広州市場



市場で売られているものを、ノートなどにひとつひとつ
書き取りながら、まず観る。
市場ではねこが食用として売られている。必然的に「ね
こを食べるという〈異文化〉」がそこに存在することに
なるが、それについてどう思うか。また、この講義を受
けている他の人々はどう考えていると思うか。
別紙を参照しながら、自分の選んだ選択肢番号(数字と
アルファベット)それぞれを、インプレッションペーパ
ーの右上に 2A 5E 3B などと記入してください。
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2012/04/25 - [6]
異文化接触・異文化理解の問題

自分たちとかなり・全く異なる文化と接した場合、




「わたしたちとは違うけれども、それをとやかくいうことはでき
ない」「あれはあれでありだろう」は、果たして異文化理解のス
タンスとして適当なのか?
それは「わかったふり」をしているだけで、実はそれ以上の理解
を拒絶・否定している可能性はないか?
あるいは、すべて受け入れて、自分たちも同じようにふるまえば
理解したといえるのだろうか?
「自分たちの文化とは違う」という文化の差異に対して、
どのようなスタンスで臨むのか?
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2012/04/25 - [7]
自分を中心に考えてしまうこと

「日本人の感覚からすると、ねこはペットであって、食
べるものではない」→「ヘンな食文化だ」





土を食べる民族もいれば、カブトムシの幼虫をごちそうとする民
族もいるし、豚の血液をおいしいとする民族もいる
が、大事なのは、絶対的に・誰から見ても「変わっている」食
物・食文化というのはない、ということ
「ヘンな食文化」という考え方の裏には「自分たちはヘ
ンじゃない」という前提がある
これは、日本人だけでなく、世界のひとびとに共通する
普遍的な考え方=自文化中心主義 ethno-centrism
「異文化理解」においては自文化中心主義はとても厄介
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2012/04/25 - [8]
猫食をめぐって(1)

まず大事な点は、1から6までのスタンスに、善悪が存
在するわけでは「ない」、という点


真剣に考えて出た答えであるかぎり、どれも正当である
次に重要なのは、「1 絶対に許せない」から「6 自
分も食べた」へと順々に進みさえすれば、他者理解が実
現するわけでも「ない」という点

「食べたらわかる」などということはない
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2012/04/25 - [9]
猫食をめぐって(2)

ねこが広州市場で食用として売られているのをみて、中
国の文化への不信感を抱くのは短絡的である



ねこを食べるのが中国国内のどのような人々であるのかわかって
いるだろうか? (部分→全体への安易な拡大)
ねこを食べるという行為が、中国文化(あるいは、中国のある一
部の地域・一部の階層の文化)全体のなかに位置づけられる、あ
る一つの小さな要素であるということをわかっているだろうか?
(文化の総体性の無視)
ねこを食べる理由が、たとえば非常に人道的な目的であったりす
る可能性を考慮しただろうか? (行為の背景にある文脈の無
視)
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2012/04/25 - [10]
「文化の翻訳」という問題(1)

たとえば、日本人―鯨の関係と、中国人-ねこの関係を
等値と見ること、はよく試みられる



それはショックを緩和する意味で、大切なはじめの一歩
ただし、それは「翻訳」であって「理解」ではないのに、「理解
した気になる」のが問題
cf. むずかしい英語の(あるいは独語/仏語の)哲学書を、
がんばって日本語に翻訳したとする


それはその哲学書の「内容」を理解したことになるか? という
と、ならないはず
鯨への置換は「文化の翻訳」にすぎない
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2012/04/25 - [11]
「文化の翻訳」という問題(2)




古池や 蛙飛び込む 水の音
と、
Old pond---frogs jumped in---sound of water(ラフ
カディオ・ハーンの英訳)
両者を、完全にイコールで結ぶことは、むり
だからといって、両者がまったく違う、ということでも
ない
両者の相互理解について語るには、何万の言葉を費やさ
なければいけないだろう →文化の問題も同じでは?
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2012/04/25 - [12]
異文化理解とはどういうことか?-中括

中国における猫食の背景




まず、全員が食べるわけではもちろんない
全ての中国国民に「ペット」という感覚が欠如しているわけでも
ない
猫<虎(あるいは蛇<龍)という比喩的関係
同様の事例は、他にもないだろうか?


韓国における犬食
日本におけるうなぎ食

猫食の背景を知っての「翻訳」と知らないでの「翻訳」
は意味が違うし、当然「理解」にも差がでる

異文化理解とは、そうした「文化の背景・理由・詳細に
ついて知る(知ろうとする)こと」である