3・広州市場と異文化理解 2011.10.5. 帝京・文化人類学Ⅱ 3・広州市場と異文化理解 2011/10/5 - [2] 異文化接触・異文化理解の問題 自分たちとかなり・全く異なる文化と接した場合、 「わたしたちとは違うけれども、それをとやかくいうことはでき ない」「あれはあれでありだろう」は、果たして異文化理解のス タンスとして適当なのか? それは「わかったふり」をしているだけで、実はそれ以上の理解 を拒絶・否定している可能性はないか? あるいは、すべて受け入れて、自分たちも同じようにふるまえば 理解したといえるのだろうか? 「自分たちの文化とは違う」という文化の差異に対して、 どのようなスタンスで臨むのか? 3・広州市場と異文化理解 2011/10/5 - [3] 異文化へのスタンス 「自分たちの文化とは違う」という文化の差異に対して、 どのようなスタンスで臨むのか? 1. 2. 3. 4. とりあえず「自文化中心主義」には注意が必要であるが…… 「ふーん、そうなんだ、ま、それもありじゃん?」……それは 実はそれ以上の理解をやめてしまっている思考停止では? 「わかりました、あなたのやりかたを100%受け入れ、実行し ます」……それは「自文化否定主義」みたいなもので、長くは 続かないのでは? 「よーし、食べてみたぞ、これでおれはお前のことがよくわか った!」……そんなに話は単純ではないだろう(じゃあ、ピザ を食べたらイタリア人のことがわかるのか??) 「わたしはわたし、あなたはあなた、お互いとやかく言われた くないでしょう? だから、黙ってて」……それを突き詰める と多様性過多になって共同体は崩壊するのでは? 3・広州市場と異文化理解 2011/10/5 - [4] 「文化の翻訳」という問題(1) たとえば、日本人―鯨の関係と、中国人-ねこの関係を 等値と見ること、はよく試みられる それはショックを緩和する意味で、大切なはじめの一歩 ただし、それは「翻訳」であって「理解」ではないのに、「理解 した気になる」のが問題 cf. むずかしい英語の(あるいは独語/仏語の)哲学書を、 がんばって日本語に翻訳したとする それはその哲学書の「内容」を理解したことになるか? という と、ならないはず 鯨への置換は「文化の翻訳」にすぎない 3・広州市場と異文化理解 2011/10/5 - [5] 「文化の翻訳」という問題(2) 古池や 蛙飛び込む 水の音 と、 Old pond---frogs jumped in---sound of water(ラフ カディオ・ハーンの英訳) 両者を、完全にイコールで結ぶことは、むり だからといって、両者がまったく違う、ということでも ない 両者の相互理解について語るには、何万の言葉を費やさ なければいけないだろう →文化の問題も同じでは? 3・広州市場と異文化理解 2011/10/5 - [6] 猫食をめぐって まず大事な点は、1から6までのスタンスに、善悪が存 在するわけでは「ない」、という点(真剣に考えて出た 答えであるかぎり、どれも正当である) 次に重要なのは、「1 絶対に許せない」から「6 自 分も食べた」へと順々に進みさえすれば、他者理解が実 現するわけでも「ない」という点(「食べたらわかる」 などということはない) ねこが広州市場で食用として売られているのをみて、中 国の文化を否定してしまうのは短絡的である ねこを食べるのが中国国内のどのような人々であるのかわかって いるだろうか? (部分→全体への安易な拡大) ねこを食べる理由が、たとえば非常に人道的な目的であったりす る可能性を考慮しただろうか? (行為の背景にある文脈の無 視)
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