海藻を焼くーー明治の公害にはこんなものがありました

巻頭コラム
海藻を焼くーー明治の公害にはこんなものがありました
廃棄物資源循環学会 ごみ文化研究部会・行政研究部会
溝入 茂
手元にある新聞記事をデータベース化して分類しています。データベースというのはメンテナン
スをしっかりしないと、必要な時に必要な記事が見つかりません。先日古い公害関係の記事をみて
いると、こんな記事が目に入りました。タイトルは「湘南海藻焼却取締」、1903 年の朝日新聞です。
海藻を野焼きする?それを取り締る?これはなんだ、ということで今回はこの話です。
記事は全文 180 字程度のごく短いものです。その内容を要約すると
ヨード カ
リ
鎌倉から三浦半島にかけて海岸で、沃度加里の製造を目的に海藻を採集乾燥して焼却している
が、その際の悪臭が甚だしく、風致も損するとして付近の別荘所有者や避暑客から苦情が殺到
し、神奈川県知事が近く取締規則を設けて、作業は住宅より 30 間(約 55 メートル)以上離れる
こと、焼却時間は午後 10 時~午前 5 時、違反は科料に処する
というものです。作業場と住宅を離すというのはわかりますが、焼却時間を夜間に制限するという
のは、いまの感覚ではちょっと不思議な感じがします。
翌 1904 年に問題解決の記事があります。それによると、苦情は主に外国人からで、神奈川県知
事に対し取締を要請していたとのこと。これに対し県は、海藻焼却がこのあたりの漁民の収入の大
半を占め、規制は地域産業に打撃となることから苦慮していた。しかし外国人から盛んに苦情が寄
せられるため、ついに海藻取締法規則を制定するに到ったとしている。
この記事がある新聞紙面には旅順攻撃参加の軍人の肖像が掲載され、日露戦争の最中の時期であ
ることがわかります。日露戦争では日本は膨大な戦費を調達するためアメリカ、ヨーロッパで外債
を発行します。その際発行と引き受けを有利に進めるために日本の外国での評判にことに注意を払
います。この事件で結局県が規制に傾いたのは、外国人からの苦情であったということも背景にあ
ったのでしょうか。
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平成 27(’15)年 3 月 第 76 号
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ヨウ素はもともと海藻灰からとられ医薬品、肥
料として利用されていました。明治期にあった広
告を並べます。農業肥料、梅毒薬、リウマチ薬、
果ては痩せる薬、まめになる菓子とまるで万能薬
でした。
明治の初め、ヨウ素はチリが主な産出国で、日
本でも輸入品が巾をきかしていました。明治 20
年代に入ると海藻灰からヨウ素を回収する製法
が日本でも行われるようになり、はじめは湘南の
海岸で、その後房総で盛んに製造されるようになりました。図は熱海での海藻(主にカジメ)採取を
絵にしたもので、朝日新聞 1906 年です。こうして採ったカジメを海岸で乾燥し焼いて沃度灰にす
る過程で悪臭が発生するのです。この作業はカジメ焼きといわれていました。
昭和戦前期に化学工業中心の大コ
ンツェルンを築いた森矗昶をモデル
にした城山三郎の小説「男たちの好
日」(日本経済新聞社、1981 年)に、ヨ
ード製造のためのカジメ焼きの光景
が描かれています。「浜辺の一隅で
の簡単な焼き方といい、また異臭と
いい、死人を焼く時に似ているとい
うので『隠亡焼き』といわれるほど
である。」というから、相当の悪臭だったのでしょう。昭和 29 年に東洋書館から刊行された「日本
財界人物伝全集」の 18 巻に鈴木三郎助(味の素創業者)と森矗昶の伝記が収録されています。とも
にカジメ焼きからはじめて日本の化学工業を切り開いていった財界人です。森矗昶のところで「お
んぼ焼き」が書かれています、ちょっと長いですが引用します。
正規な火葬場のないこの地方では、死人を火葬にする場合は夜になってから浜の一定の場所に
薪を積上げてその上に棺をのせておんぼうが焼くのだが、その火が遠くからみえて、異様な臭
気が風の向きによって浜を流れる。カジメ焼きはあたかもそれに似て終夜濛々たる煙といささ
かはそれに似た強い臭気をただよわせるからだ。
それまで、捨てるか肥料として畑に漉きこむ程度の利用しかしていなかったカジメが巨額の富を
生むということで、しばしば紛争の種にもなっていきます。1914 年の外房では、大暴風の後に海岸
に漂着したカジメの採集をめぐって、近隣の漁民、農民、男女百名以上が乱闘を演じる事件を起こ
します。警察の介入により一旦さわぎはおさまりましたが、翌 1915 年には千葉地方裁判所に漂着
カジメの帰属をめぐって、カジメが生えている西崎村の 300 人が漂着先である富崎村の 200 人を訴
えるという、地裁始まって以来という多人数の訴訟が起こされました。
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房総の騒動まだあります。1908 年には房総の粗製ヨード製造業者を合同して総房水産が設立され、
折からの需要増を受けて生産量は年々増加しますが、1915 年に工場の煙突からの火の粉で近くの民
家が火事になるという事件が起きます。隣の鴨川では同じ 1915 年にカジメの売却をめぐって町当
局、漁業組合を巻き込む紛争が起きています。
戦後、ヨードの製法が変わったこともあってカジメ焼きは現在行われていません。ではカジメは
ふたたび海岸のごみに戻ったのでしょうか、いいえ、いまは特有の粘りを生かして食品に、また風
呂に入れてカジメ湯として利用する地方もあります。
溝入
茂のコラムバックナンバー
37号 遺跡とごみ箱 溝入茂
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39号 ハエを数える 溝入茂
40号 がれき処理を考える-震災後 1 年
溝入茂
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42号 ゴミの連作広告-積水化学の試み-
43号 ゴミの広告つづき-奇妙な広告編-
44号 箸休め-カツ丼食べて自白のシーンはいつから-
45号 渋谷塵芥焼却場のいま
46号 ペスト、ネズミ、ネコ -明治のイラストより
47号 ペスト、ネズミ(承前)
48号 最初の焼却炉特許のこと
49号 トルコへ行ってきました
50号 大正時代のウォークマン
51号 明治 36 年東京市のペスト騒動
52号 明治 36 年東京市のペスト騒動(承前)-焼き払いを中心に-
53号 東京大学の焼き払い-明治 34 年のペスト騒動
54号 新聞資料の横道 -紙面散歩の楽しみ
55号 学校の掃除は誰がするのか
-大正 3 年の論争
56号 学校の掃除は誰がするのか
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57号 ごみ坂についての考察(1)千代田区番町のごみ坂
58号 ごみ坂についての考察(2)新宿区市ヶ谷のごみ坂
59号 ごみ坂についての考察(3)-新宿区牛込のごみ坂
60号 ごみ坂についての考察 派生編 1
-乞食橋、貧乏神神社-
61号 第12回オリンピック東京大会
62号 チェコのごみ箱・クリスマスマーケット
63号 ごみ坂についての考察(その4)-湯島のごみ坂
64号 ごみ坂についての考察(その5)-駿河台のごみ坂
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65号 ボロと食器と一流店 - 昭和 11 年東京
66号 ごみ坂についての考察(その6)-麻布のごみ坂
67号 イタリアのパスクワ
-コモ湖とガルダ湖のごみ箱
68号 マントヴァ、ノヴァーラのごみ箱
69号 ごみ坂についての考察 派生編2 ―犬の糞新道1―
70号 ごみ坂についての考察 派生編3 ―犬の糞新道2―
71号 ごみ坂についての考察 派生編4 ―犬の糞新道3―
72号 ごみ坂についての考察 派生編5 ―犬の糞横町―
73号 明治期の掃除機広告から家事の電化まで
74号 大量消費時代の申し子、百円ショップのはじまり
75号 便器の広告-明治期にはおどろきの絵があった
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