大量消費時代の申し子、百円ショップのはじまり 溝入茂

巻頭コラム
大量消費時代の申し子、百円ショップのはじまり
廃棄物資源循環学会 ごみ文化研究部会・行政研究部会
溝入 茂
百円ショップが元気です。こんなもの迄という商品が所狭しと陳列され、外国人の客も珍しくあ
りません。百円ショップという店舗の形態、その起源を探ると戦前までさかのぼります、さらに海
外にまでひろげると、元祖といいますかそもそもの始まりはアメリカにたどり着きます。今回はご
み問題を反対側からみて、消費者の購買行動に関連して百円ショップのはじまりを探っていきまし
ょう。
百円ショップを今回取り上げることになったきっかけは
例によって古い新聞記事です。1919 年 4 月の朝日新聞にこ
んな写真がありました。タイトルにある世界の最高建築って
なんだろうと記事を見ると、「世界の五仙十仙均一店の元祖
逝去したウールワース氏 本部の建築は世界で最高の建築
物室の数一万」となっています。仙はセント、米カナダ英に
十セント店を 900 店ほど展開していたウールワース商会の
創始者フランク・ウールワース(58)の逝去を報せる記事です。
ウールワースは 1852 年生まれ、生家は貧しかったのです
が地元の商業学校を卒業し 19 歳の時に生家近くの雑貨店で
商売人としての第一歩を歩み出します。その後いくつかの失
敗、回り道を経て 1879 年ペンシルバニアのランカスターに
“Woolworth’s 5 and 1O Cent Store”を開店します、これ
が実質的な 10 セントショップの始まりです。事業は景気後
退をくぐり抜けて順調に拡張し、ついには全米にひろがるチ
ェンストアに成長します。その象徴が 1913 年にニューヨー
ク・マンハッタンに竣工したウールワースビルです。高さ
240 メートルは当時の世界最高で、ビルは 1966 年にアメリカの歴史建造物に指定されています。無
一文の若者が世界最高のビルを建てる、まさにアメリカンドリームです。
均一店の波は日本にも波及します、というか均一商法は日本にもありました。円タク、円本、十
銭鍋、十銭文庫、一銭洋食・・・。切りがいいからでしょうかこんなのもありました、1926 年 5 月の
朝日新聞からです「五十銭均一で大角力あす初日」。相撲の初日を民衆デーとして桟敷席以外の席を
五十銭均一で売り出したのです。当時のほうが集客努力をしていたのでしょうか。ちなみにその頃
の帝劇は最高が 8 円、最低が 50 銭です。
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均一商法は百貨店でも取り入れられていました。次に示すのは 1925 年の高島屋と伊勢丹の新聞
広告です。なぜか両方とも九十銭均一です。大台に少し欠ける値
段付けという手法はこの頃もあったのですね。サルマタ 2 枚 90
銭、メリヤスズロース 2 枚 90 銭・・・、値段の感覚が想像出来ませ
んが、安売りの目玉だったんでしょう。ただ、百貨店の均一商法
はあくまで臨時の催し物で常設の売り場を設置するものではあ
りませんでした。均一商法は「安かろう悪かろう」のまがい物商法
という風評を覆せなかったのです。
この状況を大きく変えたのが高島屋の本格的進出です。高島屋
は 1930 年に大阪の南海高島屋に常設の十銭均一売り場を設置し
ます。これがわが国のチェーン型均一店の最初とされています。
高島屋はかねてから均一商法に積極的でしたが、この南海高島
屋の常設売り場開設以降大都市を中心に急速に展開をすすめ、
はやくも 1931 年末には 26 店に達しました。最終的には独立型
店舗の高島屋ストアとして全国で 100 店以上になりましたが、
太平洋戦争によりほとんどが閉鎖します。
高島屋の進出と成功は大きな話題となり、新聞各紙がその模
様を伝えています。
1931 年大阪時事:これからの百貨店
テン・センス時代 南海
高島屋の試練好成績に他店も歩みよるか
1931 年大阪朝日:財界六感
十銭均一店の進出
1931 年都:時代の新商売 婦人にも極容易な十銭ストアー 全
国各地に続々殖える一方
1932 年大阪朝日:不景気のお蔭で育った十銭均一店
素晴らし
き安さの魅力
1935 年東京日日:デパートと小売店の中間
ラリーマン家庭には大歓迎
十銭店の魅力 サ
どうしてああ安いか
真ん中の写真は東京で一番大きな店だった高島屋十銭二十銭
ストア渋谷店の正面です。この規模の店で店員数は合計 30 名、
そのうち 23 名が販売担当の婦人店員です。
では何が売れていたのでしょう、下のグラフは 1938 年度の高
島屋ストア全店の合計です。売り上げは上から順にK菓子、D服
飾雑貨、L食料品、A玩具、F家庭用品です。菓子と食料品をた
すと約 40%が食品関連でした。食品と雑貨という売れ筋は現在
の百円ショップと変わりません。
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大成功に見えた高島屋の均一ストア形態が他の百貨店にまで広がらなかったのは奇異な感じも
受けます。これには商業組合法あるいは制定をめぐって大きく紛糾した百貨店法が関係しますが、
ちょっとややこしい展開なのとこのコラムの趣旨ではないので略します。
それはさておいて、実はこの頃セルフサービス店が日本でも出現しているのです。スリフト・マ
ートという名前で 1931 年に大阪堺筋の白木屋に新設されました。大阪朝日新聞の記事を引用する
と「客は売り場の入口に備え付けた籐製の買物籠をもって売り場内の商品を自由に選択して最後に
出口にある勘定場で支払をすることになっていて勘定場のほかには販売員がいない」まさしく今の
スーパーの販売形態です。この当時の対面販売、掛け値売り、買上げ品の配達といった形をすべて
廃し、加えて商品の仕入もすべて現金にしてその分販売価格を引き下げる手法で、十銭均一店への
対抗策でしたが、当時としてはあまりにも斬新だったためか普及するまでには到りませんでした。
ごみ問題を考えるにあたって、ごみだけに関心を特化させるのではなく周辺部分にも目を向けた
いものです・・・といいながら、なかなか手が回りませんが。
溝入
茂のコラムバックナンバー
37号 遺跡とごみ箱 溝入茂
38号 カーニバル・カーニバル・カルナバーレ 溝入茂
39号 ハエを数える 溝入茂
40号 がれき処理を考える-震災後 1 年
溝入茂
41号 カーニバル2012
42号 ゴミの連作広告-積水化学の試み-
43号 ゴミの広告つづき-奇妙な広告編-
44号 箸休め-カツ丼食べて自白のシーンはいつから-
45号 渋谷塵芥焼却場のいま
46号 ペスト、ネズミ、ネコ -明治のイラストより
47号 ペスト、ネズミ(承前)
48号 最初の焼却炉特許のこと
49号 トルコへ行ってきました
50号 大正時代のウォークマン
51号 明治 36 年東京市のペスト騒動
52号 明治 36 年東京市のペスト騒動(承前)-焼き払いを中心に-
53号 東京大学の焼き払い-明治 34 年のペスト騒動
54号 新聞資料の横道 -紙面散歩の楽しみ
55号 学校の掃除は誰がするのか
-大正 3 年の論争
56号 学校の掃除は誰がするのか
-その2
57号 ごみ坂についての考察(1)千代田区番町のごみ坂
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58号 ごみ坂についての考察(2)新宿区市ヶ谷のごみ坂
59号 ごみ坂についての考察(3)-新宿区牛込のごみ坂
60号 ごみ坂についての考察 派生編 1
-乞食橋、貧乏神神社-
61号 第12回オリンピック東京大会
62号 チェコのごみ箱・クリスマスマーケット
63号 ごみ坂についての考察(その4)-湯島のごみ坂
64号 ごみ坂についての考察(その5)-駿河台のごみ坂
65号 ボロと食器と一流店 - 昭和 11 年東京
66号 ごみ坂についての考察(その6)-麻布のごみ坂
67号 イタリアのパスクワ
-コモ湖とガルダ湖のごみ箱
68号 マントヴァ、ノヴァーラのごみ箱
69号 ごみ坂についての考察 派生編2 ―犬の糞新道1―
70号 ごみ坂についての考察 派生編3 ―犬の糞新道2―
71号 ごみ坂についての考察 派生編4 ―犬の糞新道3―
72号 ごみ坂についての考察 派生編5 ―犬の糞横町―
73号 明治期の掃除機広告から家事の電化まで
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