りびんぐらいぶず_称名憶念することあれども - 正覚寺 - FC2

正覚寺報平成23年7月号(りびんぐらいぶず7月第2号)_称名憶念することあれども
りびんぐらいぶず
平成23(2011)年7月第2号
称名憶念することあれども
◆ ご讃 題
「か の名 義 のごとく 、如 実 に 修 行 して相 応 せ んと欲 す」 とは、か の無 礙
光 如 来 の名 号 は、よ く 衆 生 の一 切 の 無 明 を破 し、よ く 衆 生 の 一 切 の志 願
を 満 て たま ふ。
しか る に 称 名 憶 念 する こ とあれ ど も、無 明 なほ 存 して所 願 を満 てざ る は
い か んとな らば 、如 実 に 修 行 せざ る と、名 義 ( み ょ う ぎ ) と相 応 せざ る に よ る
がゆ ゑなり。
(Ref『教 行 証 文 類 』信 巻 、註 釈 版 聖 典 P214、
『往 生 論 註 』下 巻 「起 観 生 信 章 「名 号 破 満 、七 祖 註 釈 版 聖 典 P103)
◆はじめに
残暑お見舞い申し上げます。
住職にとり今年の胸突き八丁の六月末「龍谷教学会議(略称「龍教」)での研究発表」、七
月後半の「安居(あんご)懸席」も終りを告げました。
親鸞聖人七百五十回忌の年にはと決断し、冥々の裡(めいめいのうち)の御はからいに
恵まれてか、すこぶる高いハードルであったにも関わらず、わが身に不相応にも楽しい成
果を頂戴致して参っております。龍教での課題は、安居で新たに進展した姿で現れて下さ
いました。
目標は高く掲げ、果敢に挑戦するに如くはありません。
実は、「龍教」では、発表のあくる日に如来様のお導きでか、山口の波佐間 正己先生に
御遇いさせて戴き、「時代即応の教学についてー親鸞聖人の魅力」というご労作を頂戴致
し、お蔭をもちまして、如来様の還相回向の御働きのまことに漸くにして少しづつ眼を開か
れつつある昨今でございます。
そのいちいちを具体的にご紹介する程に席が温まりませんが、それに替えてこの間に
如来様より賜った一つのご指南をご紹介させて戴くことでございます。
◆称名・憶念することあれども
ご讃題の信巻引文は、『論註』(下)のご指南「称名憶念することあれども」であります。
実は、曇鸞大師 (どんらんだいし) は、唯単に「称名することあれども」ではなく、もともと
「称名憶念することあれども」とおっしゃっていたのでした。
【E-Mai l】mhkatata@pluto.dti.ne.jp、平成23年7月 29 日発行、Ver.6
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正覚寺報平成23年7月号(りびんぐらいぶず7月第2号)_称名憶念することあれども
お名号の働きによって、衆生はその無明の闇を破られ、お救いに与るのだけれども、しか
し、唯単に、称名・憶念したとしても、尚、無明が残ることがあるのだと仰るのです。
ここで「称名」は、南無阿弥陀仏と口に称えることであり、「憶念」は信心の別名です。
ですので、尚、無明が残る前提として、曇鸞大師は、「お念仏」と「信心」を区別しては居ら
っしゃらないことが判るのであります。
ただし、尚、無明が残るとおっしゃるのですから、如来様から賜る本願力廻向(=他力)の
念佛、信心ではないことだとわかります。
さて、無明が残るのはどういう理由によるかといえば、有名な「二不知三不信(にふちさん
ふしん)」であります。
「二不知」とは、阿弥陀如来が、「実相身(じっそうしん)=おさとりの身」であり、「為物身(い
もっしん)=物(衆生)のための身=衆生をお救い下さる身」であることを衆生(私)が知らな
いことを申します。
言い換えれば、阿弥陀仏の正覚(おさとり)は、唯単に仏自らの為ではなく、衆生救済のた
めに成就されたものだという謂れを知らないことを申すのであります。
次に、「三不信」とは、
①心が淳(あつ)くないこと、
②信心が一(いつ)でないこと、
③信心が相続(そうぞく)しない事だと曇鸞大師はおっしゃいます。
やや言葉を足して頂戴してみますと、
「信心が淳くない」とは、あるときは、お浄土に往生したいと思い、あるときは、往生した
くないと思うことをいい、
「信心が一でない」とは、信心が決定(けつじょう)していないことをいい、
「信心が相続しない(=持続しない)」とは、余念が間に入り、その結果、信心が断絶する
ことだと仰るのです。
驚くまいことか、まさに、衆生(私)のいい加減な日常の姿のそのままであります。
このように、曇鸞大師のご指南を窺いますと、お念仏といい、信心といい、いつでも陥り
がちな落とし穴が潜んでいる怖さが知られます。
けれども、大事なことはこういうことではないでしょうか。
曇鸞大師は、自力のはからいの入り得る余地において、念仏と信心とを特段峻別してい
らっしゃるものではないことであります。
これが、実践的には、お念仏のみを自力が入り得る余地のある対象として信心と分離し
て信心獲得前の存在を許さないとするご常教との違いであります。
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正覚寺報平成23年7月号(りびんぐらいぶず7月第2号)_称名憶念することあれども
何よりも「称名憶念することあれども」が典拠であります。
◆称名破満釈は、その上でのお示しだった
ご讃題の教行信証「信巻」引文は、『論註』(下)のご指南そのものでありました。
一方、「行巻」の「称名破満釈・称名転釈」は、『論註』の引用そのままではありません。
行巻の「称名破満釈(しょうみょうはまんじゃく)」は、次の通りです。
「しかれば名(みな)を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を
満てたまふ。称名は則ちこれ最勝眞妙の正業なり。正業は則ちこれ念佛なり。念佛は則ち
これ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏は即ちこれ正念なりと、知るべしと」(Ref 註釈版
P146)。
前段の下線部は宗祖が『論註』の御文をそっくり借用して「名号」を「称名」と置き換えら
れたと言われております。行巻の主題が、衆生の行位として与えられた称名であることを
示している典拠の御文であります。
後段の下線部、「称名は則ち」以下の転釈は、宗祖のご自釈であります。
注目すべきは、転釈最後の御文「南無阿弥陀仏は即ちこれ正念なりと」であります。
ここで同じ「すなわち」であっても「則ち」は、AならばBの一方通行であるのに比して、
「即ち」は、必要十分条件を意味します。
それ故、「南無阿弥陀仏(お名号)は、即ちこれ正念なり」とおっしゃるのがお名号の必要
十分条件であることが知られます。
では一体、「正念」というのは、何を意味するのでしょうか。
嘗て、私は、「正念」とは「信心」だと窺ったことがあります。
しかし、『愚禿鈔(ぐとくしょう)』には次の様に記されてあります。
「正念」の言は、選択摂取(せんじゃくせっしゅ)の本願なり。
また第一希有(けう)の行なり。
金剛不壊(こんごうふえ)の心なり(Ref 註釈版聖典 P539)。」と。
「第一希有の行」とは、行巻引文の『十住毘婆沙論』「地相品」の脚注ご註釈で「本願の大行
を指す」と註釈されています(Ref 註釈版 P149)。
そうすると、南無阿弥陀仏のお名号は、正念である。
またその構造は、①阿弥陀如来の選択摂取のご本願(第十八願)であり、
②本願の大行であり、
③如来様から賜る真実の信心(本体はお名号)
だということになります。
これは一体何を意味しているのでしょうか。
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実は、これこそがお名号が躍動してお働きになるお姿を示していることになるのであり
ますまいか。
お名号は、ご本願の願いの許に、衆生(私)の上に無礙光如来の名(称名)となって届いて
下さり、今生でまどろむ私を喚(よ)び覚まし続け、信心となって宿って下さるのであるとい
うのであります。
なるほど、「信巻」結示には、
「しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふ
ところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべ
し。」(Ref「信巻」結示、註釈版聖典p229)
と仰せでありました。
これが、信巻のみならず、行巻をも合わせた結論だと窺わせて戴いております。
以て、衆生浄土往生の正因は、行信不離の大行・大信であると知られるのでありました。
合掌
(後書き)随分難しいことを申し上げました。
最後に、いつもの言葉で易しく如来様をお讃え申し上げましょう。
「阿弥陀如来は願いを込めた眼差しの許に
『お母さんだよ、あたしだよ』と喚び続けて居て下さることでありました。
それ故、衆生(私)は、南無阿弥陀仏と称えてお喚び声に直々に遇わせて戴こうではあり
ませんか。と。合掌。
(お願い)本誌は、親鸞聖人のみ教えに確かに遇わせて戴く為に、阿弥陀如来より賜るお念
仏の信心(お念仏と信心は決して別々に離れて存在するものではなく、実はお名号の躍動
して働いていて下さる一つのもの)を頂戴し生き生きと表現することを目指しております。
諸先輩方には、お気づきになることがございましたならば、どうぞ一つ忌憚なきご指摘、
ご指導を賜りたく存じます。合掌。
◆親鸞聖人七百五十回大遠忌参拝ご案内
平成二十三年十月十一日(火)に団体で参拝致します。
唯今、世話方様が御世話下さって参拝のお申込みを受け付けております。
五十年に一度(その意味では、私達にとって、最早、今生に最後)のご法縁にお遇い下さいますよ
うご案内申し上げます。
◆正覚寺仏壮例会 毎月第一日曜日午後八時より
◆仏婦例会 毎月十六日午後十三時(八月は休会)。
◆正覚寺盆会を八月二十三日十時より営みます。
著作編集兼発行元 (本願寺派 正覚寺内)
〒520-0501 大津市北小松四五二番地 ℡077-596-0166、FAX077-596-0196 住職堅田 玄宥
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