H27年5月第2号_本願招喚の勅命の及ぶところ - 正覚寺

正覚寺報平成 27 年 5 月第 2 号(りびんぐらいぶず 5 月第 2 号)−本願招喚の勅命の及ぶところ−
りびんぐらいぶず
平成27(2015)年5月第 2 号
本願招喚の勅命の及ぶところ
◆ご讃題
弥陀の名号となへつつ
信心まことにうるひとは
憶念の信つねにして
仏恩報ずるおもひあり
(Ref『浄土和讃』
「冠頭讃」
、註釈版聖典 P555)
◆はじめに
「六字釈」は、未信の行者に対する声の念仏のお勧めに端を発する。されば、「六字釈」から明ら
かにされた「本願招喚の勅命」こそは、伝道教学のエンジンとなることが明確になった。
また、信心正因を力説された聖人が、晩年、お弟子様たちに念仏往生をお勧めになった。
これは、如来様のお喚び声に遇わせて戴く(「聞遇」)には、実践面が重要であると思し召された
からであろうと窺われる。
◆信前念仏お勧めの根拠
果たして、御消息第二十五通には、「往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をお
ぼしめして、御念仏(おんねんぶつ)候ふべし。わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩を
おぼしめさんに、御報恩のために、御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろま
れとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ(Ref 註釈版聖典 P784)と仰せである。
これは、林 智康先生よりお教え戴いた信前念仏をお勧めになった文証である。何より信因称報
と一連にお示し戴いたところが意義深い。この御文により先生は、「往生不定の人は自分の往生を
思って念仏を称えるべき」と仰せ下さった(Ref 弊誌平成二十七年一月第三号)。
【考察】蓋し、口伝抄、更には「正定業たる称名念仏をもって往生浄土の正因とはからいつのるすら、なほもって凡夫
自力の企てなれば報土往生かなふべからず」の改邪抄の御文等(註釈版 P936)を先駆けとし御文章での頻用を以
て確立された信前行後を標榜する信因称報のご法義は、今後、慎重に再考されねばなるまいかと窺う。
◆大行釈/六字釈
ここで改めて行文類を伺えば、
「◆発願回向(ほつがんえこう)といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。」
と仰せである。「衆生の行」は、如来様が本願成就し衆生に廻向された行だったのである。また、
「◆大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。」と仰せ下さってある。この御文には主語が
ない。主語がない日本語の特徴に鑑みれば、如来行がそのまま衆生の行になる。
是は、大行がそれまで仏法のご縁に遇ったこともない凡夫の行にもなることを意味する。
【URL】http://syohgakuji.web.fc2.com/ 【E-Mai l】mhkatata@pluto.dti.ne.jp
H27 年 5 月 3 日発行 Ver.4
p1
正覚寺報平成 27 年 5 月第 2 号(りびんぐらいぶず 5 月第 2 号)−本願招喚の勅命の及ぶところ−
何よりも、出体釈に衆生の状況(Context) についての限定がないことは、大行は、信心獲得前の
行者(未信の行者)にも及ぶことを意味する。
このことより「称える意味すら知らない凡夫も称えつつ覚えず無碍光如来のお育てに与る」こと
になる。 ここに、伝道教学の根拠が存する。
◆宗教哲学上の哲理「聞遇」
お木像ご本尊は、目に見える阿弥陀様のお姿、観経第七華座観は、「住立空中尊」に由来する。
その本質は、大慈悲だと承った。
大慈悲とは、弘願のみ教え、仏名を聞かしめてお救い下さるお名号の働きだった。
六字釈から本願招喚の勅命は、声の念仏のお勧めに立脚することは先に承った。
されば、称えれば、直ちに耳に聞こえて下さる音声(おんじょう)こそは、仏名を聞かしめる本願招
喚の勅命、如来様のお喚び声を意味する。
ここに“宗教哲学上の哲理”が存する。
色も形もない法界から五感の群生海に現れ給うたお名号の具体的な働きだからである。
蓋し、住立空中尊のお姿にまみえることは本願招喚の勅命に遇わせて戴くこと(見遇は聞遇)だ
ったのである。第九真身観には「仏身を観ずるをもってのゆゑにまた仏心を見たてまつる。仏心と
は大慈悲これなり。無縁の慈をもってもろもろの衆生を摂したまふ。」とあることからも首肯できる
(Ref『観経』、註釈版聖典 P102) (Ref 弊誌平成二十七年二月第一号、同一月第一号)。
◆信前念仏は実践上必須である根拠
信前の念仏が実践上必須であることは、冠頭讃に示されてある(Ref 浄土和讃「冠頭讃」注釈版
p555、弊誌平成二十年三月第二号、十二月第五号)。
◆弥陀の名号となへつつ
憶念の心つねにして
信心まことにうるひとは
仏恩報ずるおもひあり(冠頭讃)
冠頭讃では、称名念仏が真っ先に謳われ続いて信心まことにうるとあるので、信心を頂戴する
に際しては、まず念仏している姿が前提となる。信前念仏教学立脚の根拠である。
ここで、◆「信心まことにうる」を「弥陀の名号を称へる」ことより先に位置づけることの是非に
ついては先哲のお言葉が残されてある。「親鸞聖人は、実践を重視されたお方であるから、『弥陀
の名号称へる』というのが先になければならない。信を先にすると観念の信心になってしまう」と
は、瓜生津隆雄和上のお言葉であり(Ref すねいる CD)、◆「念仏のない信心では観念論に陥ってしま
う」とは、梯 実圓和上の常の仰せであった。
◆三願転入は、念仏が必然の前提
◆至心・廻向・欲生と
名号の真門ひらきてぞ
十方衆生を方便し
不果遂者と願じける(第六十四番)
【URL】http://syohgakuji.web.fc2.com/ 【E-Mai l】mhkatata@pluto.dti.ne.jp
H27 年 5 月 3 日発行 Ver.4
p2
正覚寺報平成 27 年 5 月第 2 号(りびんぐらいぶず 5 月第 2 号)−本願招喚の勅命の及ぶところ−
◆定散自力の称名は
をしへざれども自然に
果遂のちかひに帰してこそ
真如の門に転入する(第六十六番)
(Ref『浄土和讃』第六十四、六十六番、註釈版 P567,8)
【考察】化身土文類の三願転入は、宗祖の実践的必然の視点からの表現であるのに対して、第二十
願のご和讃は、ご本願の視点からの表現になっている。そこでは念仏は必然の前提であることが
知られる(Ref) 弊誌本年二月第二号)。
◆名聲(みょうしょう)にまみえるのである
奇しくも、第五十回龍谷教学会議で下田正弘教授は、 「浄土仏教経典は、諸伝統の統合と
いう形で出現したものであり、仏名を称えることに集約され、遂に人の姿を取った仏像はなく
なり、純粋な言葉となって現れた。経をよむとき、音になり、声が現れる。佛の世界が現れる」
と結ばれた(Ref)平成 26 年 10 月 7 日龍谷教学会議第 50 回記念大会、下田正弘「大乗経典の出現と浄土思想
の深化」。
【考察】「仏像はなくなり」は、いささか勇み足であると窺われるからこれを不問に付すとして、
「経を読むとき、音になり、声が現れる」との宗門外からのご指摘は、瞠目に値する。
蓋し、経典(大経)を読むことは広讃であり、南無阿弥陀仏と称える略讃と別物ではない。
されば、「お念仏するとき、音になり、声が現れる。その声、名聲にまみえるのである。
残るは、第十七願の諸仏の咨嗟称我名と「無碍光如来のみ名を称える」衆生の称名とが何ゆゑ
同位になるかと問えば、全く仏の本願力回向だからであるかと窺う。
◆結論
「称えれば直ちに聞こえて下さるお名号こそは、阿弥陀如来の本願招喚の勅命であり、信心獲得
前の行者にもその功徳は及ぶ」とご案内でき、これこそ、伝道教学の柱となるかと窺う。合掌。
◆お聴聞の会(ご法話会)五月三日(日)二十時より
◆仏教婦人会五月度例会五月十六日(土)十九時より
◆正覚寺降誕会・初参法要五月十七日(日)十三時半より
著作編集兼発行元(本願寺派 正覚寺内)〒520-0501 大津市北小松四五二番地
℡077-596-0166、FAX077-596-0196 住職 堅田 玄宥
【URL】http://syohgakuji.web.fc2.com/ 【E-Mai l】mhkatata@pluto.dti.ne.jp
H27 年 5 月 3 日発行 Ver.4
p3