りびんぐらいぶず - 正覚寺

正覚寺報平成23年7月号(りびんぐらいぶず7月第1号)_たえず私によびかけます
りびんぐらいぶず
平成23(2011)年7月第1号
お領解文の現代版
「浄土真宗の救いのよろこび」(その3)
たえず私によびかけます
◆ ご讃 題 「浄 土 真 宗 の 救 いのよ ろ こび 」
一、阿弥陀如来の本願は
南無阿弥陀仏のみ名となり
二、このよび声を聞きひらき
永久に消えない灯火が
三、如来の大悲に生かされて
南無阿弥陀仏を称えつつ
四、この世の縁の尽きるとき
さとりの智慧をいただいて
五、宗祖親鸞聖人が
浄土真宗のみ教えを
かならず救うまかせよと
たえず私によびかけます
如来の救いにまかすとき
わたしの心にともります。
御恩報謝のよろこびに
真実のみちをあゆみます
如来の浄土に生れては
あらゆるいのちを救います
如来の真実を示された
共によろこび広めます。
( R e f 『 拝読『浄土真宗のみ教え』
))
◆はじめに
ご讃題は、教学伝道研究センターの先生方が著された御文であり、御門主もお慶びだっ
たと仄聞しております。
そのようなこともあって、実は、近頃、当組の連続研修会でも毎回、伝統の「お領解」に続
いて拝読するように致しております。
ところが、頂戴するうちに、ご文への少なからぬ疑問が積み重なって参ります。
本日は、その辺りを取り上げてみる事に致しましょう。
◆どのようにしてよびかけて下さるのか
ま ず 、 最 初 の 疑 問 は 、「 南無阿弥陀仏のみ名となり、たえず私によびかけます」と
あ る 「 た え ず 、私 に よび か け て く だ さ ると いう が 、そ の 仕 方 は 、 一 体 、 ど の よう に
し て よ び かけ て 下 さ るの か と い う疑 問 であ りま す 。
一 昔 前 なら 「 そ の どの よ う に し て 」と いう の が 自 力 の は から いじ ゃと 切 って 捨
て ら れた こ と でし ょ う 。
【URL】http://syohgakuji.web.fc2.com/、【E-Mai l】mhkatata@pluto.dti.ne.jp、平成23年7月3発行、Ver.2
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け れ ど も 、そ れ では 現 代 人 に 対 し て い か にも不 親 切 です 。
その回 答 は、実 は、仏 説 無 量 寿 経 の四 十 八 願 の直 後 の重 誓 偈 (じゅうぜいげ)
の御 文 「名 聲 超 十 方
究 竟 靡 所 聞 (みょうちょうちょうじっぽう
くきょうみしょもん)」
に 示 さ れ て あ り ます 。
阿 弥 陀 如 来 は「お名 号 の声 (聲 )となって聞 こえなかったら、仏 にならない」
と の お心 で あり ます 。
名 の声 となって届 こうとお誓 いになっている以 上 は、声 をお聞 かせ戴 くとい
う 仕 方 が 大 切 にな っ て ま い り ます 。
実 は「声 」と言 う字 は、戦 後 の当 用 漢 字 であり、元 の字 は「聲 」であります。
その字 の構 造 から窺 えることは、声 に出 して口 にとなえ、(その耳 に)聞 かしめ
ず ば お く ま い と の 如 来 様 の おこ こ ろ と頂 戴 でき ます 。
ですから、まず、何 にもまして、お名 号 は称 えよとの如 来 様 のおこころと頂 戴
す る こ と がで き る と 窺 わ れ ま す 。
声 に 出 し て口 に 称 えれ ば 、 確 か に 間 髪 を いれ ず 「 南 無 阿 弥 陀 仏 」と 聞 こ えて
下 さいます。
如 来 様 の お 心 の ま まに 称 え れ ば 、 南 無 阿 弥 陀 仏 と 聞 こ えて 下 さい ま した 。
「如 来 様 のおこころのままに」というのが、如 来 様 の仰 せの前 に疑 いの蓋 を
さしはさまないという浄 土 真 宗 の信 心 (信 心 の姿 =信 相 )に他 ありませんから、
聞 こえて下 さったものは、唯 今 直 々にお浄 土 から端 を発 して私 の胸 底 に響 い
て 下 さ っ た 如 来 様 の お 喚 び 声 だ と気 付 かせ て 戴 き 、頂 戴 す る ばか り なの です 。
◆よび声を聞きひらくとはどういうことか
こういう疑問が出るのはその用語使いに根ざしているからだと窺えます。
よび声を「聞きひらく」という用語は、生活用語ではなくまことに不自然だからです。
これは、本当は二文に分けて示すべきところだったのかもしれません。
すなわち、南無阿弥陀仏と聞こえて下さると音を聞き受ける動作段階が第一段階、
次に、唯今聞こえて下さった南無阿弥陀仏が実は「必ず救うまかせよ」との如来様か
らのお喚び声だったのだと、お名号のいわれに頭が下がり、疑いの蓋が説き開かれた状
態が第二段階であります。
む し ろ 、 こ の よ う に 言 葉 を 足 し て み ま す と い う と 、 第 二 段 階 は 、「 如
来の救いにまかす」という趣旨だったと頂戴することができます。
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◆御恩報謝の具体的姿は何なのか
第三聯は、伝統教学の抱えて来た難点をそのまま踏襲してきたことに基づきます。
それは、伝統教学ではお念仏と信心を別個のものと捉え、信心が先でお念仏は信心獲
得した後の報恩感謝ですよという説明の仕方をしてきたからです。
そんな説明の第二の難点は、お念仏さえしておれば、御恩報謝になるのだから、社会
と関って積極的な生き方に発展するには及ばないと言う風な社会との関わりではまこ
とに消極的な姿勢を奨励しかねないことにあります。
南無阿弥陀仏と称えることは、御恩報謝段階で初めて関わるプロセスではなく、実は
如来様のお喚び声に遇わせて戴くに際して如来様がお与え下さった仏の口の行い(口
業)を頂戴して営む段階で既に関って居たからでありました。
御恩報謝の営みという意味では、寧ろ、自分一人の胸の裡の信心だけの世界に留まる
のではなく、唯今できる社会的な関わりの中でお返しをしていくことにあったというべ
きところです。
◆この世の縁の尽きるとき云々について
浄 土 真 宗 は 如 来 様 の お さ と り の 境 界 に 往 く の も ( 往 相 回 向 ) 、そ の 世 界
か ら 還 っ て く る の も( 還 相 回 向 )如 来 様 か ら 本 願 力 廻 向 さ れ た 大 願 業 力
によるのだという二回向のご法義であります。
だ か ら 、死 ん だ 後 、お 浄 土 か ら 還 っ て 来 て 、 あ ら ゆ る 命 を 救 う と い う
の で は 、未 経 験 の 先 の 世 界 の お 話 を 語 る こ と に な り 、本 当 に 困 っ て し ま
います。
実 は 、 教 行 信 証 の お 悟 り の 巻「 証 巻 」 は 四 分 の 三 迄 が 還 相 回 向 釈 な の
です。
こ れ は 凡 夫 の 還 相 を 語 っ た も の と い う よ り は 、阿 弥 陀 如 来 が お 悟 り を
開 か れ た そ の 功 徳 が 今 生 で 苦 悩 す る 衆 生( 私 )が こ れ か ら 如 来 様 の お 悟
りの世界に往き生れる上に証果の悲用(しょうかのひゆう)として回向さ
れて働いて居て下さるのだと受け止められるのです。
し て み れ ば 、こ の 世 の 縁 の 尽 き る 前 か ら 、既 に 衆 生( 私 )に は 如 来 様
のお名号の功徳が届いていたのであり、現生正定聚(げんしょうしょうじ
ょうじゅ)のままに如来様のお救いの働きを喜ぶ仕組みが働いて居るの
ですから、それで十分だと窺われるのです。
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で す か ら 、還 相 後 の 利 益 に 及 ぶ に 際 し て は 、今 生 の 衆 生 が お 救 い に 与
る利益に留めおかれる方が無難なのではなかったでしょうか。合掌
◆親鸞聖人七百五十回大遠忌法要団体参拝は、十月十一日(火)でございます。
お同行の皆様にはどうぞ心して御待ち受け下さいますようご案内申し上げます。
◆正覚寺仏壮例会 毎月第一日曜日午後八時より
◆正覚寺仏婦例会 毎月十六日 十三時半より
著作編集兼発行元 (本願寺派 正覚寺内)
堅田 玄宥
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