聞即信 - 正覚寺

正覚寺報平成 28 年 3 月第 1 号(りびんぐらいぶず 3 月第 1 号)−聞即信−
りびんぐらいぶず
平成28(2016)年 3 月第 1 号
聞即信(もんそくしん)
◆ご讃題
「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をきき
て疑ふこころなきを「聞」といふなり。また、きくといふは、信心をあらわす御のりな
り。「信心」は如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。
(Ref『一念多念文意第二条』「註釈版聖典」P678)
◆はじめに
ご讃題は、本願成就文を親鸞聖人自ら御自釈下さった和語のお聖教『一念多念文意(いちね
んたねんもんい)』のお言葉です。
お聴聞は、何をお聞かせに与るのかと問えば、阿弥陀如来のお慈悲、お名号の謂われ、法蔵
菩薩のご本願の物語ですよね。
物語とお聞かせに与って「ああ有り難かった」となるのでしょうが、それだけだとなかなか
自分のものにはなりません。
ですので、折角大切のご讃題ですから、ただ鷹揚に聞くのではなく、一つ一つ押さえて頂戴
するのがよろしいようでございます。
それには一つの手法がございますので、それをご紹介しましょう。一つ一つの要素を確実
に押さえる一つの手法には 5W1H による方法があります。新聞記事では最初の 500 字の中に
全部その要素が込められていると云われます。今ご讃題は百文字余です。文字数としては手
頃なんですね。ところで 5W1H ってなんでしたっけ。Who,When,What,Where,Why,How だったですよ
ね。尚、間違いなく結果を招来することを目指すにはプロセスアプローチという手法がありま
す。ここまでが導入です。
◆ご讃題の要素の確認
ご讃題の中からそれらを具体的にお訊ねして見ることに致しましょう。
◆何を聞くのでしょう
①本願の名号と②本願、如来の御誓ひですね。両者の関係性は、お名号が結果でご本願が
原因ですね。「関係性」ってとっても大事な概念です。ここで「其の名号」とありますが、「其
れ」って何でしょう。これは頭の隅っこに置いておいて下さいね。
◆どのように聞くのでしょう
疑うこころのない仕方できくことですね。
本願を聞いて疑う心のない状態であるから、聞と信は同じだ、「聞即信」だと仰せですね。
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H28 年 3 月 1 日発行
Ver.4
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正覚寺報平成 28 年 3 月第 1 号(りびんぐらいぶず 3 月第 1 号)−聞即信−
如来様のお救いに与る第十七願第十八願の構造を形成する三つの要素(「聞名」と「信心」と
「称名」です)のうち聞と信、聞名と信心が実は完全に同じだと親鸞聖人はおっしゃったんです。
これは、とても大切なことですから忘れないようにしましょうね。
実は、信心というのは、生活次元では、何かを信ずるという風に取られやすい概念です。願
文に至心信楽とあるけれど、何を至心に信楽するのかよくわからないというのが龍谷大学で
長い間の課題だったことからもそのことが判ります。
親鸞聖人の素晴らしいところは、その信心を生活次元の言葉「聞」と一つだとお示し下さっ
たことです。浄土真宗は、信心一つでお救いに与る、その信心というのは「聞」そのものだ、
「聞即信」だと親鸞聖人は仰せ下さったのです。このことから、浄土真宗は、また「聞の宗教」
だとも云われているのであります。
◆誰が聞くのでしょう
ご讃題の御文の直前に「十方のよろづの衆生」とあります。これは一体誰のことでしょう。一
般的な表現はともすれば自分には無関係の遠い世界のお話だと受け止めがちです。お聴聞
で大事なのは、衆生とあれば、どこか遠いところの衆生ではなく、それは私だと押さえて頂戴
することが大切だったんですね。
◆「Who(誰)」にはもう一つの押さえが必要ですね。ご讃題には「みのりなり」とありますが、親
鸞聖人、お釈迦様、阿弥陀様、一体、どなた様のお法(みのり)だったのでしょう。本質的には阿
弥陀如来そのお方だったのですね。
◆あと残り、When(いつ),Where(どこで),Why(なぜ)は、何でしょう。これは、直接御文にありま
せんね。お聴聞の皆様でご意見を交わして戴けないでしょうか。でもそれには何時間も必要に
なってしまいますね。
ここでは簡単に申しますと、今生を生きる私は、私自身が苦悩の有情であるということを
一向に知りません。私は現代っ子ですからと聞くことがあります。その私自身が苦悩の有情で
あることに目覚めるとき(When)、ところ(Where)(両者を合わせて状況(Context)と頂戴する
といいですね。そのお答えを求めて如来様のお慈悲に遇わせて戴くことにあったんだ(How)
となりますね。私は、実は苦悩の有情であったということ、それがそうとお知らせに与ること
は衆生にとりとても大事なことだったんですね。
◆聞其名号の「其れ」とは何か
では、聞其名号の「其れ」って何でしょう。それには、ご讃題の直前にある御文にお訊ねしな
くてはなりません。ご讃題の直前には、第十七願成就文のお言葉がございます。
「十方恒砂の諸仏如来が無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃嘆したまふ」というのが
その御文です。無量寿仏というのは阿弥陀如来です。そう云われるからには、既に法蔵菩薩の
ご本願が成就され、阿弥陀如来となられ、衆生救済のお姿であるお名号が仕上っていて下さ
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る。阿弥陀如来は、苦悩の有情を救う為に自らはお名号に姿を変えて働きかけようとお誓い
下さっていたからです。
だから無量寿仏の不可思議な功徳を讃嘆するということは、お名号の功徳を讃嘆すること
を意味します。
讃嘆の主体は、第十七願文の御文からは、お悟りを開かれた十方の諸仏方です。
十方世界の無量の諸仏のお一人がお釈迦如来ですから、この人間世界では、お釈迦如来が
無量寿経一巻を縷々(るる)説き述べ給うことを指すことになります。
縷々説き述べ給う行為が讃嘆に当たる。それは、広くご讃嘆なさることだというので、これ
を広讃(こうさん)と称してきたのです。ですので、第十七願成就文の讃嘆は広讃だ。
ここでは「広讃」を表す。その広讃を聞くと云うことは、お名号の謂われをしっかりと頂戴する
ことだと言われてきました。
◆お謂われをお聞かせに与ることの困難性
ところが、広讃をお聞かせ戴くこと、お名号のお謂われを頂戴するということは、実は、容
易なことではありません。超越的で形而上学的な論理をお聞かせ戴くことは容易なことでは
ない。それは、聞く者の理解力に依存しますし、聞く耳が育つまでにお聞かせに与るには、長
い間のお育ての時日が必要だったからです(※)。そこで、いよいよ第十七願文の願意をお訊
ねすることになるのです。合掌。
(後書き)※→仮に、聞其名号の対象から略讃を除外し、広讃だけだという風に捉えると、お同行の育つ道を閉ざし
てしまう畏れがあるのではないでしょうか。合掌。
◆仏教壮年会お聴聞の会 三月六日(日)二十時より
◆仏教婦人会例会
三月十六日(水)十九時半より
◆彼岸会
三月十九日(土)十四時、十九時半より
◆本願寺常例布教出講
四月一日(金)昼の座∼四日(月)晨朝まで
昼の座→十四時∼、夜の座→十九時∼、晨朝→六時
著作編集兼発行元(本願寺派 正覚寺内)〒520-0501 大津市北小松四五二番地
℡077-596-0166、FAX077-596-0196 住職 堅田 玄宥
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