H26年6月第2号 - 正覚寺

正覚寺報平成 26 年 6 月第 2 号(りびんぐらいぶず 6 月第 2 号)−ぜひにこいとのお喚び声ー
りびんぐらいぶず
平成 26(2014)年6月第2号
ぜひにこいとのお喚(よ)び声
◆ご讃題
大聖(だいしょう)易往(いおう)とときたまふ 浄土をうたがふ衆生をば
無眼人(むげんにん)とぞなづけたる
無耳人(むににん)とぞのべたまふ
(Ref『浄土和讃』九十番「諸経讃」註釈版聖典 P572)
◆はじめに
梯
実圓和上がお浄土にお還りになりました。
あのにこやかで弁舌さわやか、歯切れ良く論理構成鮮明なご講義をもはや承れないのか
と思うと寂しさは尽きず、ふとこみあげる涙を禁じ得ませんが、不肖には不思議な感動さえ湧
き上って参るのであります。
それは、「いつか、私もまた間違いなくお浄土に参らせて戴けるのだ」という確信でありま
す。何しろ、往生浄土の御法義の幾多の疑問を解きほぐし、お導き戴いた和上様がお浄土にお
還りになったのですから。
和上様は、時折、ふとご講義の合間に、
「法然聖人には一遍お合いしたいもんやなあ、ああ、そうか、もうじき会えるか」
とおっしゃったことでありました。
◆忘れ得ぬ思い出から
忘れ得ぬお声は、お電話でお聞かせ戴きました。
昨秋、南米開教区の仏教婦人大会のご縁から戻ってお礼状とお土産をお送り致しましたら、
即、お電話を頂戴しました。
「皆さんおよろこびになったことでしょう。」
「はい、幸いに、私としてはこれ以上ないというご縁を頂戴して参りました。」
思い返せば、昨年二月、行信教校に和上様をお訪ねし、今秋、南米開教区を支援訪問致しま
すと申して、恐れ多くも、弊紙二月三月分六通を、「もし、ただ今、不肖がお話しせよと承れば、
このような理解になりますがよろしゅうございましょうか」と和上様にお目通し戴いたのでご
ざいました。
四月、和上様からお言葉を頂戴しました。和上様はにこにこしながら
「堅田さん、これでよい、行ってらっしゃい」と
私はこれを釈迦の発遣(はっけん)のお言葉と頂戴し、十年前に南米で開催された和上様の世界
佛婦大会基調講演を手掛かりに、ご法話次第を組み立てて行ったのでありました。
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その中核になるのが、信不具足(しんふぐそく)に係ります。それは、(お浄土に参らせて戴け
る)道があると信ずるだけでは足りず、得道(とくどう)の人ありと信ずることができなければ
信不具足になると。
得道の人の典型が妙好人であります。
因みに、六連島(むつれじま)のお軽同行がいらっしゃいます。お軽さんは、
「昨日聞くのも今日また聞くも
ぜひにこいとのお喚(よ)び声」
とお歌いになり、称えつつ聞こえて下さる如来様のお喚び声に聞遇(もんぐう)していらっしゃっ
たのでありました。
◆聞遇(もんぐう)の原点
聞遇の原点は、観経の見遇(けんぐう)に由来します。
憂悩(うのう)する韋提希(いだいけ)の求めに応じて「まさになんぢがために苦悩を除く法を
分別し解説(げせつ)しよう」と釈尊が仰せ下さるや否や、弥陀三尊が、空中に住立し給うたの
でした。釈尊のお心に呼応して「『除苦悩法』とは私だよ」と阿弥陀様がお姿を現された出来事
は郢・匠(えいしょう)の故事に喩えられています(Ref 七祖註釈版聖典 P423)。
(註)左官の郢人(えいひと)の鼻の先に付いた土を、求めに応じて大工の匠石(しょうせき)が手斧(ちょうの)を一閃し
て傷つけずにこれを落とした故事であります。
「お姿そのものが声なんです。」今も胸底に響く和上様のお言葉です。
ご讃題からもそのことが判ります。
釈尊のお声に呼応して住立空中された阿弥陀様の「お姿」こそは、煩悩成就の凡夫を喚(よ)び
覚まそうとして働いて下さる「お声」そのものだと頂戴するのであります。
お喚び声を通して如来様にお遇いすること(聞遇)は、目の辺りお姿にお遇いしている(見
遇)ことと何ら変わりがないからです。これを聞見一致(もんけんいっち)と称して浄土真宗では
大切にされてきたのであります。
釈尊なき後も、苦悩の衆生が居る限り、留め置かれた大経のみ教えなればこそ、これをお聴聞し念仏者に育てら
れさえすれば、如来様のお声はお聞かせに与れるからです。
◆聞遇の根拠を第十八願文に聞く
第十八願文は、
「至心信楽欲生我国乃至十念」とあります。三心と十念が誓われている御文であります。
三心の客体(何を信じるのか)は、成就文の「聞其名号」との対比、如来会の第十八願文の「聞
我名」との対比から「名号」であることが知られます。
そうすると、第十八願文の三心は、「阿弥陀如来のお名号をお聞かせに与って、それを拠り
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所に、疑いなく、お浄土に生まれたいと欲うこと」であり、十念はサンスクリットの原語 Citta(心
念)では、「お浄土に生まれたいと十回思う事だ」と云われてきました。
でもどうやってお名号をお聞かせに与るのでしょう。また、煩悩成就の凡夫にとって生まれ
たこともない世界に生まれたいと一度でも欲(おも)うことは、至難の業です。
そこで、善導大師は、観経下々品を手掛かりに十念を十声の称名だと確定して下さったの
であり、法然聖人はこれを受けて「お念仏なさい。お念仏すればお浄土に生まれることが出来
る。お念仏は本願に誓われた行だから」とおっしゃったのでありました。
親鸞聖人は、行巻と銘文で如来様の側からと衆生の側からの両面に亘って六字釈をお示し
になりました。則ち「帰せよの命」と仰せになり、衆生がお救いに与りお浄土に往生していくた
めの行を如来様が既に発願して衆生に回向し施し与えて下さっていたのです(「発願回向」)
から衆生はかたじけのうございますと頂戴すれば良かったのであります。
「即是其行(そくぜごぎょう)といふは、すなはち選択本願これなり」とあるばかりですが、行巻は
法然聖人からの伝承の巻ですから、法然聖人の仰せのままに、ご本願に誓われた行と受け止
めて、お念仏すればよかったのでありました。
親鸞聖人は、後にこれを如来様が本願力回向していて下さる大行だとお示し下さったこと
でありました。こうして煩悩成就の凡夫に如来様の願いの通りに、如来様から賜った大行を行
ずる称名念仏の道が開かれていたのでありました。
実際に、南無阿弥陀仏と称えるとどうでしょう。称えれば直ちに聞こえて下さるものがあり
ます。南無阿弥陀仏です。聞こえて下さったお六字こそは、如来様が願い続けて居て下さった
お喚び声だったのです。私が勝手に称えるのではなく、如来様から賜った大行が私の上で働
いていて下さるお姿です。すると聞こえて下さった南無阿弥陀仏こそは、「その声は私だよ」
とお姿を現される如来様直々のお喚び声に他ならなかったことになります。
法然聖人は「信は一念に生まるととりて、行は多念に励むべし」とおっしゃいました。
お念仏は願文に誓われた如来様の行ですから、称えつつ聞き入るうちには、ああ、これが如来
様のお喚び声でございましたかと肯けるときがやって参ります。これを信は一念に生まると
いい、後に、親鸞聖人が信一念義に発展されたお心でありました。合掌。
(後書き)一文は、昨春、和上様にお目通し戴いた弊紙三月第一号「私は何を残しただろう」と同第三号「行に則ち
一念あり、また信に一念あり」を懐かしく繰り返し拝読しつつ、新たに肯けたところを認めたものであります。合掌。
(考察) 行巻の六字釈は、法の側から釈された法体釈と云われております。これまで「即是其行といふは、すなは
ち選択本願これなり」との余りにも短い御釈に戸惑いを覚えていたのですが、これも法然聖人からの伝承の巻と
考えれば、本願に誓われたお念仏をすることだから、親鸞聖人としては、これ以上敢えて詳細な釈をなさらなかっ
たと考えればよかったのだと窺わせて戴きました。
次に、尊号真像銘文(善導和尚の玄義分の六字釈の御釈)には「(六字の阿弥陀佛)というのは、即是其行であり、
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これは、法蔵菩薩の選択本願なりとしるべしとなり、安養浄土(に生まれさせて戴く)正定の業因なり」と記されて
あります。銘文はよく言われておりますように、六字釈を機の立場から釈した約機釈であることを勘案致しますと、
「法蔵菩薩の選択本願」というのは、お念仏することになりますから、他力の念仏を行ずることが、正定の業因とな
ると無理なく頂戴することができ、約機釈として整合性が保たれるのではないかと窺います。
本願力、お名号自体は、凡夫の与り知らぬ間も働き続けていて下さることは勿論でありましょうけれども、敢えて
即是其行だけを本願の名号だと頂戴すると、約機釈としての整合性が壊れてしまう懸念があるからです。
業因(ごういん)の語義について「“業因”とは、私たちを往生・成仏させる因となる力・働きそのものを表す言葉とし
て使われており、それは、「本願名号正定業」(正信偈)等と云われるように直接には本願成就の名号について云わ
れる」(新編安心論題綱要 P35)と記載されていたお蔭で、不肖は長く即是其行の解釈に不自由を来していました。
経典の御文を拝読致しますと、業因というのは、何もお名号に限定されてのものではない。行いは、ある結果を
もたらす因となるという意味であります。行えば道が付き、途が赴く世界からお迎えがやってきてますますその行
いが容易になるという恐ろしいことにもなります。
因みに、「無明と果と業因とを滅せんがための利剣は、すなはち弥陀の号なり。一声称念するに罪みな除こる
と」(Ref『教行証文類』「般舟讃」「註釈版 P169)からもそのことが判ります。
では、 “正定の業因”を法体名号に限り、称名に認めないとどういうことが起こるか、大行は、専らお名号の一人
働きの領域に閉じ込められ、聞見一致も、ダイナミックな聞遇体験も観念論の領域に追いやられ、お念仏の日常生
活におけるお同行の信心獲得の途を閉ざしてしまう懸念があるからです。
註釈版巻末註には、正定業を釈して「正しく衆生の往因が決定する業因とあり、善導大師の五正行の中、第四の
称名は、本願の行であるから正定業とされる」と寧ろオーソドックスな解説が為されています。
そう致しますと、学僧を志す者にはできる限り偏りのない情報を提供して、不必要な刷り込み効果をもたらさな
いためにも、註釈版巻末註と不整合を来している『新編安心論題綱要』の方こそ、複数の勧学和上様方の合議のも
とに見直さるべき対象になるのではないかと窺われますがいかがでございましょうか。合掌。
◆正覚寺ご法話会 六月一日(日)二十時より
◆仏教婦人会例会 六月十六日(金)十九時半より
著作編集兼発行元 (本願寺派 正覚寺内)
〒520-0501 大津市北小松四五二番地
電話 077-596-0166、Fax077-596-0196 住職 堅田 玄宥
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