起観生信(きかんしょうしん)のお心をうかがってみる - 正覚寺 - FC2

正覚寺報平成 25 年4月第3号(りびんぐらいぶず4月第3号)−起観生信のお心をうかがってみる
りびんぐらいぶず
平成 25(2013)年4月第3号
起観生信(きかんしょうしん)のお心をうかがってみる
起観生信とは、「観を起こして信を生ずる」と読むことができます。
浄土往生には、五念門の行があり、完成すると五念力が働いて下さり、お浄土に往
生して阿弥陀仏を拝見できます。
ところが、五念門は煩悩具足の凡夫には不可能ですので、阿弥陀如来が五念門を
成就してお名号となってその功徳が働き出していて下さるのです。
衆生はそのお徳を伺い、頂戴した信心をよりどころにお救いに与って参ります。
(Ref『浄土論註』巻下、七祖註釈版 P100-1)。
◆はじめにー課題のありか
ご論題「起観生信」の意図は、浄土真宗のご法義に則して頂戴してみよ、にあります。
この場合、「観」は、精神集中して対象をありのままに正しく捉える願生の行者の高度な毘
婆奢那(びばしゃな=観)を意味しません。
では、「起観」とは何かがご論題の義相にも及んで課題となるのであります。
「起観」は、阿弥陀様から回向された行信によってお救いに与る上での行に当たります。
そのような行は、凡夫が自ら重ねて積み上げる行ではありませんので、阿弥陀様から賜る法
の次元で捉えられます(空華学派の解釈)。
ところがそのものがらは、行巻では「大行とはすなはち無礙光如来の名を称するなり」と凡
夫の行いの上に具体的に示していて下さることも忘れてはなりません。
如来様の行でありつつ、凡夫の具体的行動を明らかにして下さっている受け止め方ができ
るか否かが課題ではないかと窺われます。
◆観行発生信心の義と課題
「観」とは、不虚作住持の本願力(※)を観想する徳相観であるという御釈があります。
※不虚作住持(ふこさじゅうじ)とは、虚しく作られたものではなく常に働き続けていて下さる意(Ref『論
註』「不虚作住持功徳成就」七祖註 P131)。
これは、起観生信についての解釈の一つ「観行発生(ほっしょう)信心の義」であります。
阿弥陀様の国土と如来様と菩薩様方の三厳二十九種のお荘厳が眼に訴えるお導きによっ
て、願力が衆生心中に及んで「信心」を発生して下さるという意味であります。
この釈義のありがたさは、まだ信心を発生していない(=未信の)衆生が観想によって信心
を賜るところにあります。
未信の衆生が、ただいま私の上に働き続けていて下さる如来様の本願力をこころにうかべ
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みることによって、とうとう「なるほどさようでございますか」と肯いて如来様のおこころに
遇わせて戴くことは、尊くも有り難いことだからです。
因みに『一念多念証文』には、『浄土論』の「観仏本願力 遇無空過者」について、「観」は願力
をこころにうかべみると申す、またしるといふこころなり。「遇」はもうあふ(あいたてまつる(脚
注))、もうあふと申すは本願力を信ずるなり」と親鸞聖人自ら御釈されていらっしゃる(Ref
註
釈版聖典 P691)ことからそれと頂戴することができます。
ところが、「観想する」という具合に衆生の行動次元で表現しますと、衆生の意識の上に現
れた行いになるではないか、その結果として、如来様から賜る最初の信が発生するというの
では、自力の行が他力の信を発生する懸念が残ってしまい妥当性を欠くという論難が入るの
であります。
なぜなら、本願力回向の行信はあくまで如来様から賜るものだからです。
これを避けるために、先哲和上様方は、観想するという衆生の行いそのものの結果ではな
く、観想されているお名号の功徳(仏徳)が衆生の行いの上に現れて(印現し)下さって、その
結果として、不虚作の本願力が及んでついに衆生の胸の裡(うち)に信心が発生して下さるの
だという具合にご説明になります。
未信の機の信心発生に対する論難に対しては、観想という行(法)は真実であるから、問題
がないのだとも云われています。
こうして発生する信心は、『浄土論』の偈頌の一行四句(世尊我一心 帰命尽十方 無礙光
如来
願生安楽国)に表された天親菩薩の一心帰命の願生であるので、第十八願文の至心信
楽欲生の本願三心を合した「初起の信心」に当たるということになります。
信心が「初起の信心」であることに徴して、このときの観想を「初起観」と言い習わしておら
れます。
◆御釈義に対する疑問◆
この御釈義に対しては、虞れながら、次のような疑問が沸き上がって参ります。
往相回向の行信の構造に徴して頂戴致しますと、観想(観行)もまた、本願力回向の法の次
元で頂戴することができる筈です。
そうだとすれば、観想は、行者の状態に依らないのですから「初起観」と云う限定は誤りで
はないかとの懸念が生じてしまいます。
なぜなら、大行の出体釈では、「大行とはすなはち無礙光如来の名を称するなり」とあって、
行者の状態は限定されていないからです。
また、観想(観行)という法が真実だとするならば、所観の仏徳が印現するなどという説明
も不要だったのではないでしょうか。
むしろ、浄土真宗のご法義に立脚して頂戴するのであれば、大行の出体釈に徴して、
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「三厳二十九種の荘厳を観想する行いもまた、本願力回向の賜物だったのだ」と頂戴すれば
よかったのではないかと窺われますがいかがでございましょうか。
◆観行生長信心の義
この御釈義は、信心獲得後の相続の観行によって相続の信心がいよいよ生長するという義
であります。一日百丈ずつ生長する好堅樹の喩えによります(Ref『論註』七祖註 P134)。
本釈義に対しては天親菩薩の一心宣布は初起の信心だから後続の観と信心に限定する釈
義には無理があるとの論難があります。
これに対しては、信心相続して他想(=自力疑心)間雑することなしとなり(Ref「行巻」註釈
版 P156、七祖註釈版 P52)といふ。何ぞ一心の偈に背かん(Ref『真宗叢書二巻 P63』)とあるこ
とより、後続の信心を対象として差し支えがないことが知られます。
◆起観即生信の義
この御釈義は、本願力を観見する観(観知)を起し(初起観)、一心願生の信心(初起の信心
を起こす義であります。
観と信との関係は、「聞即信」と同趣であるとし、「初起の観」と「初起の信心」とは、体一異
名(たいいついみょう)であると云われるのであります。
観は、「化身土文類」の『観経』の十三観の「諦観彼国浄業成者」を釈して「本願成就の尽十方
無碍光如来を観知すべしとなり」(「化身土巻」「三経隠顕」Ref 註釈版 P382)とある観知の意であ
るというのを根拠にしています。合掌。
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