りびんぐらいぶず_H27年6月第3号_伝道教学の萌芽

正覚寺報平成 27 年 6 月第 3 号(りびんぐらいぶず6月第 3 号)−伝道教学の萌芽−
りびんぐらいぶず
平成27(2015)年6月第 3 号
伝道教学の萌芽
◆はじめに
親鸞聖人が自力を全分に否定し絶対他力の中に自己を見出されたと云ってしまえば、それは、
聖人の宗教体験の結論のみを宗門内のみに通用する仕方で表現したに過ぎない。
しかし、絶対他力の働きの中に自己を見いだす迄の課程を自力の不断の拒否の自覚と見れば、
親鸞聖人の体験は文化的境界を越えて、パウロやルター等と共に人間の宗教性という共通の次
元に根ざしたものとして部外者にも分かり易く理解されるのではないか。
これが先のハーバードシンポジウムの「真宗学の国際化」のタイトルで永富氏が訴えた結論で
あった(Ref 永富正俊「親キ」p78)。
伝道教学の確立という課題は、旧くから認識されつつも果たされずに来た「教学の現代化」と
軌を一にする課題になる。信因称報のご常教のもとに看過されてきた親鸞聖人のみ教えに改めて
問い直すべきことが少なくともハーバードシンポが明らかにした示唆だったと見ることができる。
以下にその可能性を見てみる。
◆伝道教学の萌芽 その一
◆本願招喚の勅命を前面に押し立てる。
「初めてみ教えに触れる方に「南無阿弥陀仏」の御念仏は、感謝お礼の気持で称える御念仏で
あるといきなり云っても伝わらない。
現代人には「南無阿弥陀仏」は、感謝の御念仏だと説く前に阿弥陀様が私を喚(よ)んでいて下
さるお喚び声だと伝える方が理解され易いのではないか」と前門様は仰せ下さった(Ref2013 年 4
月『浄土真宗のこれから』P33)。
◆ところで、信前行後を標榜し、信前念仏は自力の懸念ありとしてこれを許さなかった信因称報の
ご常教下では、本願招喚の勅命も又信心獲得前に及ばしめず、声のお喚び声を許さない懸念があ
るので、はじめにこれを確認してみる。
果たして、桐溪和上は、招喚の勅命の及ぶ範囲につき、①念仏から信心への念仏は称名である
が、②信心より念仏への念仏は、自分の口から出る称名であってもそれは自分の口を借りて出て
下さる阿弥陀如来の招喚の声だとすると明かされた (Ref:桐渓順忍『教行信証に聞く-別巻』p41-42)。
ご常教下では信心獲得前の本願招喚の勅命を許さなかった動かぬ証拠である。
この繋縛に執着する限り、本願招喚の勅命も又、伝道教学としては機能しないことになる。
◆そこで、本願招喚の勅命の原点をお訪ねすることになる。出拠は、行巻の「六字釈」にある。そ
のもとになった経釈(きょうしゃく)の御文にお訊ねしてみると、『観経疏』は「別時意会通(べつじいえ
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つう)」の「いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。いかんが具
足す。」の善導大師の「六字釈」に発する。その『観経』のなかの「十声の称仏」とは、第十六観「下
品下生」の称仏である。
しからば、「本願招喚の勅命」は、念仏(=ここではご本願の思召しを頂戴する心念)かなわぬ者
へのお勧めだから、①未だ信心を頂戴していない者(未信の行者)を対象とする、②正しく声のお
念仏のお勧めに立脚する。
以て、「本願招喚の勅命」の原点には、未信の行者に名聲(みょうしょう)の音声(おんじょう)を聞かし
めんとお勧め下さったお心があると窺われるのである。「名聲」とは、大経に「名聲超十方」と重ね
てお誓い下さった御文である。
◆信前念仏お勧めの根拠
信心正因を力説された聖人が晩年、お弟子様たちになぜか念仏往生をお勧めになった(Ref
桐渓順忍『教行信証に聞く-別巻』p48)。
何ゆゑか、これは、如来様のお喚び声に遇わせて戴く(「聞遇(もんぐう)」)には、実践面を重要視
されたからだと窺われる。
果たして、聖人は、御消息第二十五通に「往生を不定(ふじょう)におぼしめさんひとは、まづわが
身の往生をおぼしめして、御念仏候ふべし。わが身の往生一定(いちじょう)とおぼしめさんひとは、
仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、
仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ」と仰せであった(Ref 註釈版聖典 P784)。
この御文により林 智康和上は「往生不定の人は自分の往生を思って念仏を称えるべき」と仰せ
になり、玉木氏は、これを秀逸とし、親鸞自身と真摯に向き合うことがこれからの真宗学の課題だ
と結ばれた(Ref 玉木興慈平成二十六年三月『真宗学』「往生一定と往生不定」P301,P302)。
◆伝道教学の萌芽 その二
「浄土真宗のご本尊は、海外開教のためにはお木像を本尊であるとするのが得策である。
なぜなら、お名号を意訳すると長々とした説明文になり、音訳すると意味不明の呪文と受け止
められかねないからである。
その上で、このお木像の本質は、阿弥陀如来の大慈悲を表すと説明するのが開教使の責務であ
る」と寮頭和上は仰せ下さった(Ref 徳永道雄 2013(平成 25)年 3 月 31 日発行「布教団通信第 35 号」『「無常
観」と「平生業成」』p65)。
寮頭和上のお勧めは、観経第九真身観(しんしんかん)の「仏身を観ずるをもってのゆゑに仏心を
見たてまつる、仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもってもろもろの衆生を摂す」の論理であり、
なにはともあれともかくもお御堂(みどう)に歩みを運んで戴いたお方にお伝えする伝道最前線に
有効な論理である。大慈悲、無縁の慈は弘願(ぐがん)(第十八願)のお心である。
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◆「ふと仰ぎみるお姿はー見遇から聞遇へー」
昨秋、当院を訪ねた若者が合掌礼拝の後に発した「どういうご利益がありますか」との問いは
実に多面的な問いと示唆を残した。
これに応じて誕生したのが仏教讃歌「ふとあおぎみるお姿は」だった。その歌い始めの元の歌
詞は「おたちむかいのおすがたは」だった。
御尊前に額ずくご縁に結ばれるお方は、例外なく木像ご本尊を仰ぐことができる。
「お立ち向かいのお姿」というのは、観経第七華座観の「住立空中尊」を出拠とする浄土真宗の
ご本尊だった。「お立ち向かいの」というのはぬかずいた衆生との空間的位置関係を表す。「立」に
は、善導大師が観経疏で明かされた「立撮即行(たちながら撮りて即ち行く)」「立即得生(立ち所に即ち
生ずることを得る」、「正定聚不退の位に就く」の三義が込められていた。
改定版の「ふと仰ぎみるお姿は」とは、今生に生を賜り長い人生の道行きを経て御本尊を見遇
するまでに辿った一人の命の姿を表す。彼が、勧められて念仏し聞名する日は遠くはない。
称えつつ、聞名しつつ、繰り返しお喚び声に頷いていく初門位の信から究竟位の信に至る姿は
自らが救いの目当てと眼開かれて念仏する者の姿に他ならない。
蓋し、観経流通分の「聞名→憶念→念仏」は、行者が絶対他力の働きを信知(深化徹底)する弁
証法的転換のプロセス(信楽師は、「課程的営為」と称される)を示して下さったと頂戴できる。
不肖は、その過程を本願成就文では「乃至一念」の「乃至」に込められていたのではないかと頂
戴してみるのである。合掌。
(後書き)四十年前に批判の矢面に立たれた信楽氏も、当時の勧学寮をおそらくは代表された稲城氏も
今や還浄された。この時期ならば、両氏もお浄土からにこやかに許しつつご覧戴くであろう。
折角、前門様や勧学寮頭にご提起戴いたのだから、この伝道教学の萌芽に衆知を結集して「体系的
な伝道教学」にまで育て上げるのは、我々に課せられた責務ではないかと窺うものである。合掌。
◆平成二十七年度龍谷教学会議第五十一回大会 六月二日(火)・三日(水)八時四十五分より
◆滋賀組仏教婦人会第一回役員会
六月四日(木)十時より
◆仏教壮年会主催
六月七日(日)二十時より
お聴聞の会(ご法話会)
◆滋賀組第ⅩⅣ期連続研修会
六月十三日(土)十三時
◆仏教婦人会六月度例会
六月十六日(火)十九時半より
著作編集兼発行元(本願寺派 正覚寺内)〒520-0501 大津市北小松四五二番地
℡077-596-0166、FAX077-596-0196 住職 堅田 玄宥
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