H27年11月第1号_仏身を観るものは仏心を見たてまつる - 正覚寺

正覚寺報平成 27 年 11 月第 1 号(りびんぐらいぶず 11 月第 1 号)−仏身を観るものは仏心を見たてまつる−
りびんぐらいぶず
平成27(2015)年11月第1号
仏身を観るものは仏心を見たてまつる
◆ご讃題
仏身を観るをもってのゆゑにまた仏心を見たてまつる。仏心とは大慈悲これなり。無縁の
慈をもって諸々の衆生を摂したまふ。
(Ref『観経』「真身観―摂取不捨「註釈版聖典」P102)
◆「仏身を観るものは仏心を見たてまつる。仏心といふは大慈悲これなり」(観経)。仏心はわ
れらを愍念(みんねん)したまふこと、骨髄にとほりて染(そ)みつきたまへり。たとへば火の炭に
おこりつきたるがごとし。はなたんとするともはなるべからず。摂取の心光われらを照らして、
身より髄にとほる。心(しん)は三毒煩悩(ぼんのう)の心までも仏の功徳の染(そ)みつかぬところ
はなし。機法もとより一体なるところを南無阿弥陀仏といふなり。
(Ref『安心決定鈔』「註釈版聖典」P1398)
◆はじめに
十月は、毎週のように親鸞聖人報恩講が組内末寺でお勤まりになる。二十四日からの当
院報恩講では、お客僧に四年ぶりで本願寺派布教使山本泉茂師をお迎えした。
師は、本願寺聞法会館で営まれる「常例法座」や「ご正忌お通夜」常連の布教使様であ
る。昨年は復活した南米開教区への特派布教使として仏教婦人大会へご出講戴いた。驚く
なかれ、師は、註釈版と七祖註釈版を毎日各々三十頁、十頁読み進め、四冊目も読み破ら
れつつある。お聖経を読み破るというのは師にとっては日常なのだ。
各座の御法話では身につまされる現実の出来事を踏まえて如来様のお慈悲をお伝え下
さった。現実社会で苦悩を抱えてうごめく衆生の真っ只中に、実は、仏心は、働き続けて
いて下さる有様をお伝え戴いたのだった。「火炭不離の喩え(仮※)をご讃題に仰ぐ御法話は
その一つである」(※→『観経』「法界身」の論註「火木不離の喩」(Ref 七祖註釈版 p82)。
阿弥陀如来のお慈悲は、苦悩が片付いて安堵したときにやっと賜るものではなく、三毒
の煩悩に苛まれるその真っ只中に入り込んで働き続けていて下さるのだった。そのお喩え
が炭と火の関係だったのだ。
摂取の心光は、われらを照らし給い三毒の煩悩に染みついて離れない。まるで炭に付い
た火の如くはなたんとしても離せるものではなく終に火とな(作仏)し給う。
仏の本願力は、衆生がそうと気付くよりも先に、衆生の苦悩の真っ只中に働いて下さるこ
とを顕す伝道上珠玉の御文である。
◆ご讃題に聞く
お喩えは、『安心決定鈔(あんじんけつじょうしょう)』所収である。同鈔は、作者不詳な
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るものの、第八代宗主蓮如上人の御指南によって本願寺派では真宗のお聖教とみなされて
いる(Ref 註釈版聖典 P1382)。
お喩えの趣旨は、「機法一体(きほういったい)」という安心の要(かなめ)を示さんが為
である。「機」とは、お救いに与る衆生、「法」とは、お救い下さる如来の救済力であっ
て南無阿弥陀仏のお六字こそは、両者が一体であることをお示し下さっている安心の要で
ある。
ご讃題の上では、末尾に、「機法もとより一体なる」とお示しであるから、第十八願に
誓われている仏の正覚と衆生の往生とが同時一体の機法一体であることを示して居る(Ref
桐溪順忍『教行信証に聞く』別巻 p36)。
これは、西山派の「往生正覚一体」の説きぶりと窺われる。衆生の浄土往生は、仏正覚
の十劫の昔に成就していることを指す。この眞実を昔の和上様は「法の眞実」と仰せであ
る。しかし、機法一体というからには「機の眞実」が疎かであってはならない。
法の眞実に安住した隘路に陥るとおみのりは停滞し、江戸末期、「昼寝安心」というな
まくらな頂戴しぶりを招いた。衆生往生は十劫の昔に成就しているのだから衆生は昼寝し
ておれば足りるとしたのだった。江戸末期ばかりか、法体名号の如来様の一人働きでお救
いに与ることを取り違えれば、寧ろ、僧侶でさえ報恩講でさえお聴聞を疎かにしかねない
今日の情けない姿に陥る。
「それではいけない」と警鐘を鳴らされたのが三業惑乱直前の本願寺能化であった。
たといご本願にお誓い下さってはいても往生浄土はそれぞれの一人しのぎであるから、
お浄土に生まれたい(欲生我国)と願うことが大事だと。心理学的にもこれは大変重要な
指摘であるから、今日的観点からは寧ろ見直されてしかるべき警鐘と窺える。
では、蓮如上人はどうご覧遊ばしたかというと、機法一体の一体は如来の本願力回向に
よってもたらされると仰せ下さった。「タノメ(如来におまかせせよ)」との「(如来)の
仰せ」に対して「タノム(おまかせする)一念のところに「タスケタマフ(如来のお救い
が成立する)」という救いのプロセスが実は「南無阿弥陀仏」の姿として秘められてあっ
たのだと窺われる。
ここでは、お名号とは、お救い下さる如来とおまかせする衆生との関係性を動きを伴っ
て示されてあると緊張感を伴って頂戴するところが押さえどころである。
◆仏身を観るものは仏心をみたてまつる
火炭不離の喩えは、「仏身を観るものは仏心を見たてまつる。仏心といふは大慈悲これな
り」(観経)に続く御文だった。
ところが、観経の元の御文「仏身を観るをもってのゆゑにまた仏心を見たてまつる。仏心と
は大慈悲これなり。無縁の慈をもって諸々の衆生を摂したまふ。(Ref『観経』「真身観」註釈版聖典
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p102)」を拝読してもそのいわれはにわかには判らない。
仏身を観るをもってのゆゑにの「ゆゑに」とはどういうことを意味しているのであろうか。
仏身を観るの「観る」を為凡の救いの立場から頂戴してみると、浄土真宗のご本尊をお木像、
ご絵像で示して下さったものが今日の衆生が仰ぐご本尊である。お木像、ご絵像の「像」とは、
似姿を顕す。では、本体は何かと問えば、南無阿弥陀仏のお名号だったのだ。
南無阿弥陀仏のお六字の謂われについて親鸞聖人は、六字釈において「南無」の言は「帰
命」であり、その字訓釈を重ねて「本願招喚の勅命」であると明らかにして下さったのだった
(Ref『六字釈』「註釈版聖典 P170)。
「帰命」とは、帰せよの命、本願のお心から衆生を喚び覚まそうとして喚び続けていて下さ
るお喚び声だったのだ。
お浄土はお浄土からみるとその功徳が及ばないほとりはないから、無縁の慈を以て煩悩の
世界の衆生に働き続けていて下さる。
お浄土と救い主である阿弥陀如来は世界か救い主かの視点こそ異なれ一体である。
救い主は、今生の衆生には、その目で仰ぐことができる似姿となって迫って下さり、その本
質は、「ワレヲタノメ、ワレニマカセヨ」との声のお喚び声となって働きかけて下さる。
その仰せに「さようでございましたか」と頭を垂れるとき、衆生は、疑蓋無雑(ぎがいむぞう)
の信心を頂戴しているのだった。「行け」とのお釈迦様のみ教えの発遣に励まされ、「来たれ」
との阿弥陀様のお喚び声に喚び覚まされつつ歩む白道の東端に立った瞬間だった。
水火二河の煩悩に責めさいなまれつつも、三毒煩悩の心までも仏の功徳の染みつかぬと
ころなき仏心に支えられつつお浄土へと繋がる白道を歩むことになるのだった。合掌。
◆お聴聞の会(ご法話会) 1 1月 1 日(日)20時より
◆仏教婦人会例会
1 1 月16日(月)19時半より
◆庫裏の報恩講
1 2月 5 日(土)10時より
著作編集兼発行元(本願寺派 正覚寺内)〒520-0501 大津市北小松四五二番地
℡077-596-0166、FAX077-596-0196 住職 堅田 玄宥
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