H27年12月第3号_摂取不捨は信益同時の現生のご利益 - 正覚寺

正覚寺報平成 27 年 12 月第 3 号(りびんぐらいぶず 12 月第 3 号)−摂取不捨は信益同時の現生のご利益−
りびんぐらいぶず
平成27(2015)年 12 月第3号
摂取不捨は信益同時の現生のご利益
◆ご讃題
「即得往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。ま
た「即」はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。「得」はうべきことをえ
たりといふ。真実信心をうれば、すなはち無礙光仏の御こころのうちに摂取して捨て
たまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふと
き、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につきさだまるを「往生を得」とはの
たまへるなり。
(Ref『一念多念文意』
「註釈版聖典」P678-9)
◆摂取不捨は信益同時の現生のご利益
さて『一念多念文意』第二条の「即得往生
住不退転」の御文は、「願生彼国」に続く
御文であります。
「願生彼国」とは、
「如来様のご本願かなって建立された報土に生まれたいと願いなさい。」
でしたから、そのように如来様のご本願におまかせする(信心獲得する)や否や即座に摂
取不捨の利益に与り(受法得益同時)、現生正定聚の位に就き定まるのだということをおっ
しゃっていて下さるのであります。
これは現生(今生)でのご利益です。
阿弥陀如来の本願の報土に生まれたいと如来様におまかせする心の起こるとき、直ちに
如来様がそのおこころのうちにをさめとってくださり(摂取不捨)、そのとき即座に正定
聚の位(現生正定聚)に就き定まるので「住不退転」とおっしゃったのです。
このことは、『大経』の異本の『無量寿如来会』には「無量寿国に生ぜんと願ぜば、願
に随(したが)ひてみな生まれ不退転乃至無上正等菩提を得ん」と示されています。
「みな生まれ」が先行しますが、このうち「不退転」は、今生でのご利益であり、「無上正等菩
提」は、当来の利益であると先哲からお聞かせに与ってきたことに照らしても、「即得往
生」の「即」は、今生でのご利益に応じているとみるのが相応しかったのでした。
『一念多念文意』よりも前に宗祖七十八歳の御年に著された『唯心証文意』には、「住
不退転」とは、「即得往生」とは申すなり、と明示されてもいたのでした。
「『大経』(下)には「願生彼国」は、かのくににうまれんとねがへとなり。「即得往生」
は、信心をうればすなはち往生すといふ。すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ。
不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり。これを「即得
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H27 年 11 月 25 日発行
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往生」とは申すなり。「即」はすなはちといふ。すなはちといふは、ときをへず、日をへ
だてぬをいふなり。」(註釈版聖典 p703)とあるからです。
◆今生でのご利益「摂取不捨」の出拠は、『仏説観無量寿経』「真身観」(註釈版聖典 p102)
です。真身観は「無量寿仏の身相と光明を観ずべし」で始まります。
「無量寿仏に八万四千の相まします。一々の相におのおの八万四千の随形好あり。一々の
好にまた八万四千の光明あり。一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を
摂取して捨てたまはず。
(註)「相好」とは、仏や菩薩の身体に具わる優れた容貌形相のことをいう。この中で顕著なものを相、微細な
ものを好といい、両者を併せて相好という。通常、三十二相八十種好を数える(註釈版巻末註 p1511)
とあり、「その光明と相好は、心眼をして見たてまつらしむべし。このゆゑに念仏三昧と
名づく。」とあります。仏様のお姿をあおぐことは、精神集中した心の中で思い描くこと
(念仏三昧)と窺われます。
是に続いて次に「仏身を観ずるをもってのゆゑにまた仏心を見たてまつる。仏心とは大
慈悲これなり。無縁の慈をもってもろもろの衆生を摂したまふ。」(弊誌十一月第一号でもご
紹介)が続くのであります。
◆親鸞聖人は、「摂取不捨」については弥陀経讃第一首にお讃え下さってあります。
「十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけた
てまつる(註釈版聖典 p571)」。これにはかの有名なご左訓に「摂めとる。ひとたびとりて永
く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへとるなり。摂はをさめとる、取は迎えとる」と
あるはまさにご讃題の御文そのままです。
ここで、「念仏の衆生をみそなはし」とは、唯単に念仏の衆生をご覧遊ばすという平面
的な意味ではなく、そのお心は、「念仏者にお育てになって」の意であるとは瓜生津隆眞
先生の懐かしい御言葉でありました。
◆願力は四十八願各々に通じると窺われる
ところで、親鸞聖人は、善導大師の六字釈を更に展開された「六字釈」において「即得
往生」の「即得」について詳しく説き明かしていて下さいます。
「「必得往生」といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。「経](大経)には「即
得」といへり、釈(易行品十五)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて
報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は審(つまびらか)なり、自然
なり、分(わかち)極(きわむる)なり、金剛心成就の貌(かおばせ)なり」(註釈版聖典 p170)。
※尚、「必得往生」とおっしゃった善導大師の六字釈は次の御文であります。言南無者即
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是帰命、亦是発願廻向之義。言阿弥陀仏者即是其行、以斯義故必得往生(『観経疏』「玄義分」
「別時意会通」「六字釈」)三経七祖新全書 p673)。
六字釈から「即得」の御文の論理について本願叶って働きとなって下さった「願力」を
聞くことによって、とき・日をも隔てず報土往生の真因が決定する「信一念義の時剋釈」
を示していて下さることがわかります。
願力を聞くとは、第十八願成就文の即得往生の御自釈ですから、名号願力を聞くことで
あることは勿論、願力と仰せになったことによって、新たな展開が可能になるのではない
でしょうか。四十八願各々のご本願が叶って働きとなって下さった姿にも通じると頂戴で
きるからだと窺われるからです。
そのように頂戴する背景は、「往生浄土のいわゆる「ご安心の要(かなめ)」をまったく
知らない者にさえも阿弥陀仏の大悲は浸透しうる」との例示を以て示された徳永一道勧学
寮頭の『本願寺白熱教室の一文』(p83∼84)を見過ごすことができないからです。
即ち「願力を聞く」とは、一人第十八願成就文の名号を聞くことに留まらず(或いは、
その本義の上に)、衆生の各々の姿に応じて働いて下さる本願文が成就したときの願力そ
のものであると受け止めてご案内するのが、海外・現代社会伝道最前線に通じるご案内の
仕方ではないかと窺われるのであります。合掌。
◆庫裏の報恩講
1 2月 5 日(土)10時より
◆お聴聞の会(ご法話会) 1 2月 6 日(日)20時より
◆仏教婦人会例会
1 2月16日(水)19時半より
著作編集兼発行元(本願寺派 正覚寺内)〒520-0501 大津市北小松四五二番地
℡077-596-0166、FAX077-596-0196 住職 堅田 玄宥
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