平城京の条坊制-その実態と展開- - 奈良女子大学

Nara Women's University Digital Information Repository
Title
平城京の条坊制-その実態と展開-
Author(s)
佐藤, 亜聖
Citation
佐藤亜聖: 都城制研究(1) (奈良女子大学21世紀COEプログラム報告
集 Vol. 16), pp. 67-79
Issue Date
2007-11-30
Description
シンポジウム「古代都市と条坊制」(2005年8月6日開催)の報告内
容; シンポジウム「古代都市と条坊制」(2005年8月6日開催)の報
告内容
URL
http://hdl.handle.net/10935/2738
Textversion
publisher
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平城京の条坊制
- その実態 と展開佐藤 亜聖
は じめに
平城京の条坊制 は古 く幕末期の北浦定政氏 による詳細 な研究 に始 ま り、関野貞氏、喜田
貞吉氏の論争 を通 じて深みを増 し (
喜田1
9
0
6・関野1
9
0
7
)
、岸俊男氏 によって集大成 された
感がある (
岸1
9
8
8
)
。しか し近年の発掘資料の増加 は、平城京の条坊 をより具体的、視覚的
に復元す ると同時に、新たな問題点 を次々に喚起 している。 本稿 では近年の調査研究事例
を通 して得 られたい くつかの見解 を中心 に、主に考古学的知見か ら平城京の実態 について
0
0
5
年 8月 6日に奈良女子大学で行 われたシンポジウム 「
古代
検討 したい。なお、本稿 は2
都市 と条坊制」 において行 った発表 をもとにしている。 発表 に際 しては事務局か らい くつ
かの課題 をいただいた。本稿ではこの うち、
①条坊制の実態、
(
参条坊制施工の影響、(
彰その
後の条坊制、 に主眼を置いて考察 を行 う。 なお、本稿で扱 う座標値 は、作業の都合上、 日
本測地系 を使用 し、世界測地系導入以降の座標値 に関 しては国土地理院配給の座標変換 プ
J
GDを使用 して旧座標- と変換 した。
ログラムTKY2
1.条坊制施工の影響
和銅
3(
7
1
0
)年 3月、元明天皇 により都が藤原京 より平城京- と移 された。平城京の建
設 はす さまじい大工事であった と思われ、 これまで も平城宮付近や法華寺付近で、市庭古
墳や木取 山古墳、つい先 ごろも法華寺 に隣接す る位置で (
仮)法華寺垣 内古墳 とよばれる
0
0
5
)
。これ ら大型
大型前方後円墳の削平 されたものが見つかっている (
奈良市教育委員会2
古墳 の破壊 は条坊制施工の規模 をうかがわせ るものであるが、条坊制施工以前の耕地や集
落 などの景観 はどういった ものであったのだろうか。 これを知 るのに良好 な遺構群が奈良
市西大寺北 に位置す る西隆寺旧境内周辺で検出されている。
西隆寺旧境 内周辺で検出されている平城京建設以前の遺構 を抜 き出 した ものが図 1であ
る。 これを見 ると、西隆寺の遺構、西隆寺以前の平城京関係遺構 に切 られなが らも小規模
な古墳時代の溝が多数残 ってお り、その多 くが直線 を指向 して全体 として方形区画 を形成
0
-5
0m区画の規模 を有すると考え られ
していることが看取 しうる。 方形区画はおお よそ3
るが、遺存が悪 く正確 な規模の推定 は困難である。 2
0
9
次調査区を横切 る溝 (
S
D3
5
0:奈文
9
9
3『
西隆寺
研1
』
)は検出幅 2-3m、深 さ45cmを測 り、粘土質 と砂質の土が互層を成す堆
積構造か ら一定量の流水があった もの と考 えられ、水 田の港概用水路 と考 えられている。
埋土内か らは 6世紀代の土器が出土 している。 S
D3
5
0より北側の小規模溝群 は少 しずつ方
位 を東 に振 ってお り、S
D3
5
0
付近 はN-約4
0
0
-W、2
9
9
次調査付近 はN-約3
2
0
-Wの方位
を測 る。 これは秋篠川西岸 に張 り出す微高地の形態 に規制 された結果であると考 えられる
-6
7-
/
,
誉
文J
i
N
・
2
2
7
次
ー\ 二
Z j
i
J
t
2
1
0
次
公文L
文仰2
1
9
次
き
文l
J
F
2
2
3
2
1
次
0
0
Ⅹニー
1
4
51
・
・
・
[
∃
条文研3
4
4
次
条文研3
2
4
次
奈文研3
2
0
次
市教委2
0
7
次
図 1 西隆寺周辺の平城京以前の遺構 (
S=1/
2500)
が、 このような微地形の制約 を受けなが らも小規模溝群 は広範囲に展 開 している。 これに
対 し、当該期の居住域は2
2
3-2
1
次・
2
2
8
次・
2
9
9
次に集中し、小規模溝群の広が りは居住域
のそれを大 きく凌駕 している。 このことか ら小規模溝群が居住空間の区画 といった、集落
0
9
次調査 S
D3
5
0の埋土観察 を重視す ると、小規模溝群
に伴 う溝でない事 は明 らかであ り、2
は耕作 に伴 う遺構 であると考 えることが 自然である。 もちろん後の条里型水 田の ような区
画内が満作化 した耕地景観ではなかった と考 えるが、大規模 な方形区画の存在 は効率の良
い水廻 りを生み出 し、高い生産性 を創 出す る。 おそ らく当地域 は 6世紀段 階でかな り開発
の進んだ地域であった と考 え られる。 また、その経営主体 については当地 を本貴地 とし、
後 に秋篠 ・菅原氏 に分化 した土師氏 の存在 も十分 に想定 しうる。
各報告書 にはこれ らの溝、特 に小規模 なものは詳細 な報告がな く、現在 の ところこうし
た地割が平城京直前 まで施工 されていた積極的な証拠 は提示で きないが、発掘調査の結果
-6
8-
か らは平城京に先行する条里地割の痕跡は確認で きず、 また古墳時代の小規模溝が残 って
いる状況で条里遺構のみが削平 されることも考えに くいことか ら、平城京、特 に右京北辺
付近は平城京以前に条里制の地割はな く、 自然地形に制約 された地割の上に条坊が施工 さ
れた もの と考えたい。
ところで、慶雲 4年 (
7
0
7)遷都の詮議が命ぜ られ、翌年の元明天皇による平城遷都の詔
が出されたのを皮切 りに、平城京の造営は急 ピッチで進んだ事が 『
続 日本記』の記録か ら
読み取れる。 同書を紐解 くと、元明天皇の行動 として和銅元 (
7
08)年 9月1
4日に、菅原へ
行幸、同20日には平城の地に巡幸 し地形 を観ている。 さらに、 1
1
月 7日には菅原の地の民
9
0余家 を遷 し、布穀 を与えているほか、同 2 (
7
09)年 8月2
8日には車駕 を平城宮へ進め、
駕に従 える京畿兵衛の雑格 を免除、 9月 2日には車駕 を巡 らし新京の百姓を慰撫 している
。
同年1
0月2
8日には、「
近年都 を遷 し邑を替えることで百姓に動揺が広がっている。 度々鎮撫
を加 えているが一向に安堵 しない。朕 はこの事 を甚だ哀れむのであ り、 この度今年の調租
を悉 く免除するものである」 という意の詔が出ている。
これ ら一連の記録か らは、平城京造営にあた り多数の邑の移動、耕地の消失があったこ
とが窺 える。 西隆寺旧境内周辺で検出されている方形区画は、 自然地形 を利用 した耕地開
発 の到達点 とも言 える耕地景観であった と考 えられる。 新京造営 に伴ってこの ような耕
地 ・居住地を破壊するという事 は、その保障が天皇の行幸 を必要 とするほどの事態であっ
たことを窺わせ る
。
さらに、 これ ら古墳時代の土地利用 は自然地形 をうまく利用 して最大限の収穫 を得 る設
計であ り、長年にわた り連綿 と培われた営みの結晶であった と考 えられる。 これに対 し条
坊制はそれ らをほぼ全否定する形で造営 されたもので、 まさしく国家的モニュメン トにふ
さわ しい ものであった といえよう。
2.平城京条坊の基本構造
このように平城京造営 とそれに伴 う条坊施工は、周辺地域 においても画期的事業であっ
た事 を指摘 したが、では条坊の実態はどういうものであったのであろうか。
平城京の条坊制の基本構造 は既 に先学 によって詳細 に検討 されている。 これ ら先学の研
究 をもとに概略を記載す ると、一辺1
3
3m (
約3
7
5大尺 (1大尺 -0.
3
5
5m)
)四方 を-坪 と
し、南北 4列、東西 4行の十六坪 をもって-坊 とする基本設計 をもち、各坊 は大路 によっ
て区画、坊内は坊間路、条闇路 により2分割、坊 間小路、条間小路 によってさらに分割 さ
れていた。平城京の計画基線 は、朱雀 門心 と羅城門心、朱雀大路心 を結んだ線 によって、
N-
0 0
1
5′41
〝
-W に振れる方位が導かれている
。
さらに近年平城京研究の現状 を整理 された武田和哉氏の研究によると、平城京の条坊道
路 は、基本的には大尺設計 を基 に規則正 しく設計 されているが、道路によっては同 じ道路
であ りなが ら幅員が異なるものがあ り、三条大路のように設計基線の角度が場所 により僅
-6
9-
か にずれる例があるな ど、予想以上 に複雑 な様相 を里 してい ることが指摘 されてい る (
武
田2
0
01・2
0
0
2
)
。
このような条坊道路 に区画 された居住地内の様相 は、 いわゆる四行入 門制のような決 まっ
た分割方式が確定 してお らず、坪内を1
/
2、 1
/
4、 1
/
8、 1
/1
6、 1
/
3
2のように様 々に分割利用
していた ことが判明 してい る。
3.右京北辺付近の条坊
0
0
4年 に平城京右京北辺付近 の発掘調
筆者の勤務す る財 団法人元興寺文化財研究所 は、2
査 を行 った。 ここではこれ までその位置等不 明な点の多か った一条北大路 を検 出す る事 が
で きた。一条北大路 は側溝心 々距離 1
7
0
0c
m(
大尺4
7
.
8
8、小尺 5
7
.
5
2
) を測 り、微妙 な数字で
はあ るがおお よそ5
0
大尺 を基準 として設計 されている と考 え られる。 一条北大路 は これ ま
03-1
6
次調査 (
奈文研 昭和 5
2年度概報)、第 1
1
2-7次調査 (
奈文研 昭和 5
3年度概報)、
で1
第1
31-2
7次調査 (
奈文研 昭和 5
6
年度概報、 1
03
次調査 の延長)、奈良市教育委員会第4
3
0次
1
年度概報) において北側溝 とされ る ものが検 出されているが、 いず れ
調査 (
市教委平成 1
も若干の振 れがあ り、一条北大路 を決定す るに至 っていない。今 回の調査 では確実 な一条
北大路 を検 出 した ことに よ りこれ ら一条北大路 の各側溝 について評価 を行 うことが可能 と
なった。詳細 は割愛す るが、座標値 の明確 な ものについて各港 の振 れ を計算 してみ る と、
1
2-7次調査SDO
2
ABとの関係 は
今 回見つかった一条北大路北側溝 (
以下今 回調査地) と1
2
8mで EOo1
8′ 2
8〝
-Sの方位 を測 る。 一条北大路 は本来東 で北 に振 れ るはずであ
東 に4
り、 S
DO
2
ABでは推定 ライ ンと約 3mのずれが生 じる。 このずれについては今後 の調査 の
進展 を待 ちたい。 これに対 し、奈 良市4
3
0次調査 との関係 を計算 してみる と西へ5
71
mでW
Oo 8′ 8〝
-Sとい う数字が導かれる。 この数字 は武 田和哉氏が算出 した平城京束西条 の
方位平均値 W Oo 9′1
6〝
-Sに近似す る (
武 田2
0
01
)
。すで に井上和 人氏が指摘 す るよ う
に一条北大路 と推定 され る遺存地割 はこの推定線 と一致 し、その規模 も同一である (
井上
2
0
0
3)
。道春地割 との整合性 か らも一条北大路 についてはほぼその規模、位置 を特定で きた
とい えよう (
図 2)。
7
6次
次 に西二坊大路であるが、 この道の良好 な検 出例 として奈良市教育委員会 による第2
調査がある (
奈良市平成 5年度概報 )
。 ここでは側溝心 々距離 1
6mの道路遺構が検 出 されて
お り、西側清心の振 れは N Oo1
5′5
9〝
-W を測 る。 この数字 は平城京の計画基線 である朱
雀大路 の造営方位 N
O
o
1
5′ 3
9〝
-W と大差 ない範 囲でお さまる。
右京西隆寺旧境内の条坊構造 については南北 N Oo1
9′5
0〝
-W、東西W Oo1
8′5
8〝
-S
を設計基準 と仮定 し、議論 が行 われてい る (
小野 1
9
9
0・1
9
9
3
)
。西隆寺計画基線 の一つ に
なった一条条間北小路 は、南北側溝が見つか ってお り、設計基線が想定 されてい るが、 こ
れが従来の算 出方法か ら得 られる推定値 よ りも約 1
1
m前後北 に寄 っていることか ら、 「
奈良
時代初頭 の条坊設定の段 階か ら何 らかの理 由で坪境小路 の位置が北側 にずれていた ことを
-7
0-
図
2
右
京
北
辺
の
調 査 区 と 周 々 の 調 査
奈文研2
27
次
岬 4
ヽ
′
奈文机
22
8次
奈文研2
2321
次
ハ
ト 丁
奈
文
研
2
Q
条
文
研
2
0
諾
蔭
□
0
2
4
2
、
∫
「
'
9坪
旧来計算値 よりも
11
m 北に存在
●
U7
[讐
2
奈
9
9
文
次
研
1
2
)
ロ
西隆寺1
9
次
●
>
,
◎
∃
莞
肇
'
T
題
隆
=
匂◎
●西
珍
1
一
5
□
奈文
1
6
l
条条間北′
2
T
坪
T
7
.
6
西
m
隆
西隆寺3
寺
ト□
路
5
次
○ ′
R
奈文研
条文研3 0 9 次
0
ー一
条粂閉路
0
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・
=^
L
6
T
I
I
A
0
0
0
0
9
6
T
・
I
A
1
4坪
図 3 西隆寺周辺の条坊 (S-1/2500)
- 71-
」
騒け
川
A
l
oom
示す」 とされている (
中島2
0
0
1
)
。一条条間北小路 と西二坊坊 間西小路 との交差点のⅩ座標
は -1
4
5
,
0
7
8
.
8
0
0であ り、今 回の調査成果か ら導かれる推定一条北大路 と西二坊坊 間西小路
交差点 Ⅹ座標 -1
4
4
,
9
5
1
.
1
8との距離 は座標距離 でおお よそ1
2
7
.
6
mとなる 一条北大路 と一
。
条条間北小路 の位置関係 は若干寸詰 ま り気味 に、条坊規格 を意識 して存在 していることが
わか る (
図 3)。
ではその他の右京域の東西道路 はどうであろ うか。一条条閉路 は西隆寺四次で北側溝が、
奈 良市2
0
7
次 で南 側溝 が検 出 され て い る 西 二坊 坊 間西小 路 交差 点付 近 の座 標 は Ⅹニ
。
ー1
4
5
,
2
0
9
.
6を測 り、一条北大路 との座標距離 は2
5
8
.
4
mとやは りやや寸詰 ま りで、朱雀 門を
元 に した条坊推定線か らはやは り北 に寄 る。 これに対 し次 に良好 な東西道路検 出地点 とし
て奈良市2
8
3
次調査 において検 出された、西二坊大路 ・二条条閉路交差点では、推定線 に一
致す る位置 に道路遺構が検 出されている (
奈 良市平成 5年度概報) ほか、一条南大路 は推
定線 に遺存地割が残 ってお り、一条南大路以南 は推定線 と大 きなずれはない と思われる。
つ ま り平城京右京 は一条南大路か ら一条条 閉路 の間において南北距離 にずれが生 じている
と考 え られる。 このずれの範囲 と原因についてはなお検討が必要であ り、一条南大路の検
出が待 たれる。
4.平城京右京北辺坊 について
平城京右京 には北側 に二町分の張 り出 しがある。 これは北辺坊 と称 され、現在 まで複数
の研究者 によ り様 々な解釈が行 われている 整理す ると
。
・平城京建設当初か ら存在 した条坊 である
・平城京建設当初 にはな く、西大寺 ・西隆寺の設置 に伴 い新 たに設置 された条坊 である
・もともと存在 しなかった し、その後 も存在 していない
・中世、西大寺が北側へ支配力 を拡大す る中、新 たに設置 した地割である
といった説が括抗 している。 これ らの議論の中で問題 となっている点 は、 まず北辺坊 の条
坊 区画が存在す るのか否か、存在す るとすればいつ頃の遺構 なのか、存在す るとすれば ど
ういった規模 なのか、存在 しない とすれば道有地割 りは何 なのか、 とい う点 を明 らかに し
な くてはな らない。
先 に述べ た右京北辺の発掘調査 では、調査 に並行 して行 われた水路工事 に伴い、 2箇所
の確認 トレンチ をあけることがで きた (
図 4)。 いずれ も工事途 中に作業 を止めての緊急
調査 であったため不備 な点 も多 いが、 まず はっ きりしたことは、確認 トレンチ 1において
西二坊大路東側溝 を検 出で きなかった事である。 遺構検 出面 は 1区遺構検 出面 より2
0
c
m程
度高 く、 また ピッ ト等 は残存 していたため、道路側溝が完全 に削平 される可能性 は考 えに
くく、やは り西二坊大路東側溝 は北辺坊側 には存在 しない可能性が高い。北辺坊地域 では
これ まで も複数の地点 において条坊遺構 の存在す るはずの地点が調査 されているが、明確
に遺構 を検 出 したのは宮 に近い部分のわずか1
箇所 のみであ り、あま りに検 出頻度が低い と
-7
2-
喝聖こ
こ=:
跡 確認トレンチ1
L
I
I
I
I
1
図 4 右京北辺の調査 (S-1
/
800)
いえる。 しか しなが ら、井上和人氏 は遺存地割 に北辺坊 の痕跡が明確 に残 っていることを
指摘す るが (
井上2003)、 これ まで一条北大路の位置が特定で きていなかったため、北辺坊
の遺存地割 について も疑問視す る声が多かった。 この ような状況下、右京北辺の発掘調査
で一条北大路 の規模が判明 した ことによ り、一条北大路 とこれ まで推定 されていた遺存地
割の整合性が保障 され、 これ に伴 って、一条北大路遺存地割 を基準 として推定 されていた
北辺坊遺存地割が妥当性 を持 った ものである可能性が出て きた。
この ように一条北大路が確定 し、道春地割が保障 され、北辺坊 の存在 を肯定す る可能性
が高 まったにも拘 らず、道路側溝がほとん ど検出されないのはどういった理由であろうか。
ここでは現状 のデー タでは解消が困難であることを認めつつ、 この相矛盾す る事実 を説明
す る一案 を提示 してみたい。
図 5は右京一条北辺三坊七坪 で行われた平城京第3
22次調査である (
奈良市平成 7年度概
-7
3-
図 5 平城京第3
2
2次調査全体図 (
S-1/
300)
報)。 この調査 は北辺三坊七 ・人坪坪境の検出が予想 されたが、調査の結果明確 な条坊遺
構 は見つかっていない。遺構 は主に奈良時代後期か ら平安時代前期にかけての、鋳造遺構
を伴 う建物群であ り、井上和人氏 は秋篠寺造営 に伴 う施設 とい う考えを提示 している (
井
上2
0
0
3
)
。この遺構群に一条北大路か ら推定 される坪境 ラインを投影すると、推定道路中心
部が一点破線部分にかかる 報告書の記述か らは他の遺構の遺存状況か らこの部分はそれ
。
ほど削平 を受けていない との事で、道路側溝 は存在 していなかったと思われる。 注 目すべ
きは調査 区全域 に広がる遺構 の密集度にもかかわらず、 この推定 ライン周辺には遺構が見
られない事である。 SB2
8は建物北半分がこの空閑地にかかる可能性があるが、この建物は
時期が不明で、全ての遺構 を切 っている事か ら新 しい ものである可能性 もある。 これ らの
事か ら、七 ・八坪坪境付近には、側溝 など道路施設は見 られないが、建物際か ら少 な くと
も 5m以上の幅を持つ、帯状の空閑地が存在 していた事が考 えられる。 建物群はこの空閑
地に妻 と側 を合わせて存在 してお り、空閑地 と建物群は有機的な関係 にあったことが想定
で きる
。
この部分が坪境 という性格上、何 らかの移動空間であった可能性は高い。 これが
道路であるという積極的な根拠 は今のところ見出せないが、西二坊大路で側溝が見つか ら
ないこと、3
2
2
次調査でも道路側溝が見出せないこと、 しか し遺存地割 りには北辺坊の痕跡
が残 ること、道春地割が一条北大路以南の京内に比べ不明瞭なことなどを説明するひとつ
-7
4-
の可能性 として、北辺坊の条坊 においては、道路側溝 を持たない通常の平城京 とは異なる
設計の条坊が存在 していた可能性 を想定す ることも可能ではないだろうか。その設置年代
や、北辺坊の規模、 こういった条坊区画が北辺坊全域 に通用す るものであるか等 は今 しば
らくの吟味が必要である。 しか しこれまで詳細 な検討 を行 うことな く 「
削平」の二文字で
片付 けていた条坊側溝の有無 について、改めて検討する必要があることと、北辺坊の条坊
設計が、通常の平城京内 とは異なっていた可能性 を視野に入れつつ今後調査が行 われるこ
とを望む。
5.平城京外京について
平城京 には特徴 的なもの として東側 に東西 3坊、南北 4条分の張 り出 しが存在 し、外京
と称 されている。 外京 は関野貞氏 による発見の後、設計規模が異 なる可能性や、興福寺の
6m西 にずれる事か ら、平城京設定後付加 された条
伽藍中軸線が推定 される条坊基線 より2
9
6
2
)、近年、東四坊大路 を検出し
坊であるという意見 もあったが (
奈良国立文化財研究所 1
た事、興福寺金堂基壇が地山削 り出 しの もので、地形的制約の中で伽藍配置が決定 された
事 などが明 らかにな り、外京城 は平城京 と同 じ規格で条坊設定 され、平城京 と同時に設置
されたことが判明 している (
武田1
9
9
7
)。
ではその内部利用 についてはどうであったのであろうか。 これまでは、特 に疑問な く他
の平城京域 と同様坪内全域が宅地 として利用 された とイメージし、その街 区が中世都市奈
良成立の前提条件 となった として考 えられることが多かった。 しか し、近年増加 している
発掘資料 を整理 してみると、平城京外京が必ず しも従来考 えられていた ような安定 した街
路 区画の存在す る地域ではなかったことが指摘で きる。
左京 四条五坊七坪の調査3
7
7-5次や、左京四条五坊十二坪の調査3
8
8
次 (
奈良市平成 9
年度概報)、左京五条五坊十坪の調査2
9
4
次 (
奈良市平成 6年度概報)では条坊方向に合わ
ない斜行する溝や建物 といった遺構群が検 出されている。 また、左京五条四坊東四坊大路
9
5
次 (
奈良市平成 6年度概報)では大路側溝が見つかった ものの、坪内部には奈良
の調査2
時代の顕著な遺構が見つかっていない。左京四条五坊三坪の調査3
5
3-2次 (
奈良市平成 8
年度概報)、左京 四条五坊-坪 の調査 (
奈良市平成 7年度概報) において もや は り坪内に
ほ とん ど奈良時代 の遺構がない状況が確認 されている。 また、 これ ら遺構密度が希薄な地
域では多 くの地点で奈良時代か ら平安時代 にかけての旧河道が見つかっている
。
これ ら発掘調査 の結果か ら平城京の外京 は主要大路 を中心 とした条坊施設は成立 してい
たが、坪内の土地利用が極めて不安定であった と言える。 図 6は平城京外京城 を 1m コ ン
ターで書 き起 こし、 これまで見つかっている奈良時代の遺構 を落 とした図であるが、 これ
を見 ると外京城 に特 に六坊 を中心 として急 な傾斜地が縦断 していることがわかる。 これは
春 日断層 に伴 う断層地形 に起因す る斜面であるが、 この傾斜地にはほとん ど遺構が存在 し
ないことがわかる。 また、東五坊 には遺構が複数存在する事がわかるが、 これ も先 に述べ
-7
5-
図 6 平城京外京の地形 と奈良時代の遺構分布
たように非常 に不安定かつ京内に比 して希薄 な土地利用 を行 っていた地域である。
この ような状況か ら、平城京外京 は、①高燥 で寺院が立 ち並ぶ丘陵上地域、②傾斜地で
遺構 の希薄な地域、③平地ではあるが、丘陵か らの排水が集 り、土地利用が非常 に不安定
な地域、の 3つの地域 に分けられ、実際には丘陵上の①地域が利用可能な唯一の地域であっ
た といえよう。 この ような状況 は、外京が地形 的制約 を無視 した条坊道路 を敷設す るもの
の、宅地利用 の実態 をほ とん ど伴 っていなかったことを示 している。 条坊設定 目的の多様
性 を示す事例であろう。
-7
6-
6.その後の条坊
貞観 6 (
864)年、大和国司上申に 「
長岡京に遷都 して七十七年、都城道路変 じて全て田
畝 となる ・・
」とい う記述が見 える (日本三代実録)。長岡京、平安京への遷都 ののち平
城京 は廃都 とな り、次第に田甫 と化 した とされている。た しかに平城京内の条坊遺構の多
くは平安時代前半までに埋没 し、維持管理が放棄 されているが、廃都後 も埋没せずに残 る
道路 も複数確認 されている。 東三坊大路西側溝、朱雀大路東側溝、七条条闇路北側溝、西
二坊大路西側溝、九条大路南側溝、羅城外濠など 9世紀後半∼1
0世紀前半にかけて埋没す
る道路側溝が多 く見 られるほか、平城京東市へ物資を運んだ基幹運河であった東堀河 もこ
の時期 に埋没する。 さらに平城京の北の入 り口ともいえる 「うわなべ越え」の路 と一条大
路の交差点付近に存在する左京一条三坊十三坪には一辺 3m近い大型の井戸が存在 し、規
模の大 きな建物群が存在 したが、 この建物群 も 9世紀末か ら1
0世紀初頭 に廃絶する。
さらにこの時期廃絶するのは平城京条坊遺構だけでな く、下 ツ道側溝 などの基幹道路側
溝、藤原宮西南外濠や同北西外濠 に取 り付 く溝 など平城京以外の古代道路、施設が廃絶す
るほか、近年大規模 な苑池がみつかった飛鳥京苑池遺跡 も池の埋没が 9世紀 より開始する
など、公的な権力によって維持管理されていた施設が同時期 に維持管理を放棄 されている。
おそ らくこれ ら古代的な施設の維持管理を担っていた組織の改変がその背景にあると考え
られる その後、五条条閉路 など残 された寺院を繋 ぐ道路や、二条大路、一条南大路、三
。
条大路 など大阪方面 ・京都方面 と外京 に発達 した都市奈良をつな ぐ、いわば自然な道が中
世 を通 して残る (
舘野2000、土居2001
、堀 1
9
98)。 ちなみに春 日祭優 は歌姫越えを通 り、一
条南大路 を通って奈良に入 ったことが玉葉などに記載 されてお り、現在奈良の南北方面の
主要街道 となっている般若寺 を通 る奈良坂越えは、記録では平安時代 まで主要なルー トで
はなかった と考えられる (
永島1
998)。
7
.平城京外京から中世都市奈良へ
平城京が歴史のかなたへ去 ったのち、実質奈良の中心 となったのが東大寺 ・興福寺 ・春
日大社 を中心 とした中世都市奈良である 中世都市奈良の成立 についてはかつて詳述 した
。
事があるのでそちらを参照いただ きたいが (
佐藤2005)、平城京廃絶後すんな りと門前に都
市が出現 したわけでは無い ようである。 先にも述べた とお り、そ もそ も平城京外京は東四
坊大路以西の京内とは異な り、地形的制約による不安定な利用状況 を呈 してお り、平安京
のように条坊 をそのまま利用 して都市化が行われた とは言えない。
図1
0・11は平城京外京城の1
0世紀か ら1
3世紀の遺構分布図である 遺構の分布 を見ると、
。
1
0世紀か ら11
世紀代の遺構 は非常に希薄で、分布箇所 も先 に述べた外京 3地域のうち最 も
安定 した段丘上の寺院周辺 に集中す る。 1
2世紀になって始めてのちに中世都市奈良のエ リ
アとなる領域 に遺構が多数分布するようになる
。
この中世都市奈良の領域 は、旧平城京外
京の枠 を超 えた広が りを持ち、独立 した都市の様相 を色濃 く有する。
-7
7-
また、都市の主要装置である市 は、鎌倉時代後期に西大寺律宗の関与により奈良の南、
古市 に存在 した福島市が移 されたほか (
安田1
991
)、奈良女子大の西側付近にあった北市、
現在の率川神社の南にあった と考 えられる中市がある。 北市 は南市 に先行すると考えられ
るが、鎌倉時代 を遡 るものではな く、中市 も応永21(
1
41
4)年に市立てが行われているな
ど、鎌倉時代以降、急速に都市整備が行われたことが窺 え、平安京-の遷都ののち取 り残
された部分が都市化 したというより、全てが失われたのち独 自に再出発 した都市である と
いえよう。 そういった意味では永島福太郎氏の 「
奈良の町は平城京の嫡子ではな く庶子で
ある」 とい う言葉は正鵠を射た表現であろう (
永島1
9
6
3)。
おわ りに
以上平城京条坊の成立が周辺に及ぼ した影響、平城京条坊の実態、平城京廃絶以降の条
坊 について述べてきた。本稿で明 らかにしたことは、以下の点に要約 される。
まず平城京造営以前に、右京北辺地域では自然地形に規制 された広域にわたる耕地が存
在 し、条坊制はこれを完全 に否定する形で出現 した。続 日本紀 に記 される天皇の度重 なる
行幸や住民慰撫政策はこうした耕地 を所有 し、権益 を有 した人物 ・集団を対象 とした もの
であった。 こうして強権の もと完成 した条坊であるが、右京北辺地域 は条坊制がやや変則
的な状態で存在 してお り、それは一条北大路の形態にまで及んでいるなど若干変則的な部
分 を含んだ ものであった。 また、平城京の複雑 さを示す一例である右京北辺坊 は、遺存地
割 りが評価できるにも拘 らず条坊遺構が不明確であることか ら、京内通常の条坊 とは異なっ
た規格の ものであった可能性がある。 さらに、平城京の大 きな特徴である外京は地形的制
約の大 きな不安定な土地利用が行われていたことも指摘 した。 これはのちの中世都市奈良
の形態 を規制する前提条件 にもなっている。
平城京廃絶後については、す ぐに条坊が消滅するのではな く、 9世紀後半か ら1
0世紀前
半に至るまでの間、何 らかの形で多 くの部分が維持管理 されてお り、下ツ道や藤原宮外濠、
飛鳥地域の苑地なども維持管理 されていた。 これ らの廃絶は公的機関の変質に対応 してい
ると考 えられる。 このような平城京の残照が消滅 したのち奈良の中心を担 うようになる中
2世紀、都市 としての完成が鎌倉時代後半に下 る
世都市奈良は、都市の基本形態の成立が1
ことか ら、平城京外京が連続的に都市化 した ものではないことを指摘 した。
これ らの検討か ら、古代都市平城京 とその基本構造である条坊制の成立は、それ以前の
土地利用 と大 きく一線 を画 し、 またその廃絶以降は中世に連続 しない、当地の歴史の中で
一時期巨大な花 を咲かせた国家のモニュメン トであった と評価で きよう。
注 ・参考文献
井上和 人
2
0
0
3 「平城京右京北辺坊考」
『
古代荘 園絵 図群 に よる歴史景観 の復元 的研 究 』1
9
9
9(
平成 1
1
)年度 ∼2
0
0
2
(
平成1
4)年度科学研究費補助金基盤研究 (
A)研究成果報告書。井上氏の各種業績 は近年刊行の著
-7
8-
書 にまとめ られている (
井上和人2
0
0
5『
古代都城制条里制の実証的研究』学生社)。
小野健吉
1
9
9
0 「条坊遺構及び東西両塔 ・四王堂の配置」
『
西大寺防災施設工事 ・発掘調査報告書』西大寺
小野健吉
1
9
9
3 「条坊遺構 と西隆寺」
『
西隆寺発掘調査報告書』奈良国立文化財研究所
岸
1
9
8
8 『日本古代宮都の研究』岩波書店
俊男
喜田貞吉
1
9
0
6 「
平城京の四至 を論ず (
二) ∼ (
七)
」『歴史地理 8-2-5・7-9』 日本歴史地理学会
」『中世の都市 と寺院』高志書院
佐藤亜聖 2
0
0
5 「中世都市奈良の成立 と展開
関野
」『東京帝国大学紀要
貞 1
9
0
7 「
平城京及大内裏考
武田和哉
工科第 3冊』東京帝国大学
1
9
9
7 「平城京外京条坊制考一興福寺伽藍中心線 との位置関係 について-」
『
奈良古代史論集』3 奈良古
代史談話会
」
武田和哉 2
0
01 「日本古代都城の条坊施工の一側面一幅員の変化する条坊道路の存在- 『
立命館大学考古学論集』Ⅰ
立命館大学考古学論集刊行会
」『条里制 ・古代都市研究』第18号
武田和哉 2
0
0
2 「平城京跡発掘調査の成果 と条坊制研究の課題
条里制 ・古代都
市研究会
0
0
0 『
古代都城制廃絶後の変遷過程』科学研究費補助金基盤研究 (
C)(2)研究成果報告書
舘野和己 2
土居規美
2
0
01 「
古代都市の変容」1
6
1
7
会奈良例会発表資料
」『西隆寺跡発掘調査報告書』奈良市教育委員会
「
南都奈良の交通路」
『
橿原考古学研究所論集』第1
3 奈良県立橿原考古学研究所
中島義晴 2
0
01 「
西隆寺伽藍
永島福太郎 1
9
9
8
永島福太郎 1
9
6
3 『
奈良』吉川弘文館
」『平城宮発掘調査報告 Ⅱ』
奈良市教育委員会2
0
0
5「
埋 もれていた佐紀の大型古墳」
『
奈良市塩蔵文化財セ ンター速報展示資料 』No
.
21
堀 健彦 1
9
9
8 「平安期平城京域の空間利用 とその支配」
『
史林』第8
1
巻第 5号 史学研究会
安田次郎 1
9
91 「
奈良の南市 について」
『
中世 をひろげる』吉川弘文館
奈良国立文化財研究所 1
9
6
2「平城宮の諸問題
〔
付記〕本稿 は2
0
0
5
年 8月 6日のシンポジウムでの発表 を、同年 に文章化 したものである。その後平城京南端下三橋遺
跡の調査 において、十条 (
仮称)関連遺構がみつかった事 により、平城京研究は新 たな局面 をむかえている
が、同遺跡調査 中で執筆 した本稿 にはその所見 はほ とん ど反映で きていない。いずれ新知見 を交 えた別稀 を
用意す る事でご寛恕願いたい。
-7
9-