耕雲の歌論 - NAOSITE - 長崎大学

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Title
耕雲の歌論
Author(s)
稲田, 繁夫
Citation
長崎大学教育学部人文科学研究報告, 21, pp.一-五; 1972
Issue Date
1972-03-22
URL
http://hdl.handle.net/10069/32265
Right
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耕
論
稲
田
繁
にか、またいかようにまなぶべきものにか﹂と尋ねたのに対し、答
て、法談のついでに大和歌の道に及び、 ﹁此道のおこりいかなる事
夫
王は為世の女従三位為子から生まれられ、続後拾遺集、新千載集の
歌風よりも、より複雑な境地を求めていったと考えられる。宗良親
宗良親王の指導を受けたことから、二条派を克服し、その平淡美の
のことわりまた則これにあり。
なし。天地におくれてもまたしかなり。是万物の根源なり。和歌
り。此一性は天地にさきだちてあらずという時もなく、ところも
万物の性は不生不滅なり。生滅にあつからざる性、万理を具足せ
これは古今仮名序に和歌の起源を、﹁この歌、あめつちのひらけはじ
といって、和歌は天地開開以前の万物の本性から出発するものであ
を受けられたが、南朝王事のため、幾十年の間、東国流離漂泊の多
り、その本性は万物の生滅にあずからないところの、不生不滅の一
まりける時よりいできにけり﹂、とあるのに対して述べたもので、
朝夕親近して、この道を問ひ奉りし程に、日頃のあやまち氷のご
天地わかれてありといふは、なほ皮相の上のことばなり
とく消え、雲のごとくにとけて、露ばかりの力量も出来にけるに
である。不生不滅の一性とは仏法でいうと、耕雲は禅僧ではあるが
性で、万物の上にわたる万理を備えた宇宙の根源であると考えるの
活体験の表白がみられるのである。このような傾向は宗良親王に
た耕雲に受けつがれ、しかも歌論としてまとめられたのである。耕
ることによって無生忍をさとらしめられるのである。和歌はこの一
無量寿如来であり、尽十方無碍光如来であろう。この一性に帰一す
つまり森羅万象は不生不滅の性を根源として展開するのであるか
うちにありとあるわざ、何事かこの歌の道をはなれたるや。
山川草木は地につくなり。日出でておき、日入りてふし、天地の
天地あひわかれ、陰陽たがひにきざして、日月星辰は天に付き、
性から出発するというのである。だから、
歌合序、耕雲歌巻一軸歌序などで見ることができる。いま、これら
耕雲口伝は耕雲が白河の東、華頂山奥南禅寺禅栖院に隠棲後十余
年後の応永十五年三月下旬、粟栖野の辺に山居している僧が訪ね来
耕雲の歌論︵稲田︶
一
によって彼の歌論の特質をみていくこととする。、
雲の歌論は応永十五年の序のある耕雲口伝、応永二十一年の七百番
や、後には新葉集撰定のことをさへ委附せられ︵耕雲口伝︶
難の御生活が二条派の主知的技巧的な歌境を打破して、生々しい生
撰者である従兄為定の指導を受けられたので、二条派の歌風の影響
の性理説と仏教思想との総合の上に立って思索的に説いている。
歌
える形式になっている。その初めに和歌の本質とか本性を彼の独自
の
耕雲は南朝末期の重臣であり、従って系統として二条派の流れを
雲
汲む歌人であるが、吉野行宮における現実生活のきびしさと、更に
[
二
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二一号
を挙げたのはこういう立場からで、
心といふは歌のすがたなり。節理也。このことわりは万物の上に
うべき肝要の条々﹂の第一に﹁歌を詠ずるとき心を本とすべき事﹂
吟詠して花をあはれみ、露をかなしぶは、既にことばに落ちたれ
において歌の道と合一するのであると説くのである。しかし、
ば、和歌の第二義門也。歌の真体にはあらぎるべし。歌をば日本
というのは、前述した﹁万物の性は不生不滅なり。生滅にあつから
ころでなくてはならないというのであろう。そこから、三代集、と
ざる性、万理を具足せり。﹂の発展で、その心は万理に通ずるまこ
備りて人の私とするところにあらず。
にこそあらめ。
し﹂たが、歌の心を本としなければ、 いかに弁説巧みに、 容儀よ
といって高く評価し、 新古今は﹁文質合土﹂して ﹁淳古の風一変
く、文章伎芸世にすぐれても、身を立て世を治むるに足らざる如き
りわけ古今集はしなは足らないが、 ﹁ことわり聞えておもしろし﹂
えは、既に無住法師などが取りあげており、
といって、 ﹁花をあはれみ、露をかなしぶ﹂のは、 ﹁既にことばに
和歌の一道を思とくに、散乱麓動の心をやめ、寂然静閑なる徳あ
しかし﹁詞は歌の文﹂であり﹁かざり﹂であるから、歌をよむの
ものであるといって、万理を且ハ足、万物の根源たる万物の性から出
に心を本とするけれども詞をえらばなければ歌の姿がいやしくな
発するまことの心こそ﹁歌のことわり﹂であるというのである。
つまり﹁生死の動乱﹂を超えて、まことの人生を生きていくのは、
る。新古今に至ると﹁詞の花にほひ妙にして、−錦繍を織りみだ
り。又思すくなくして、・10をふくめり。惣持の義あるべし。惣持
ような、耕雲のいう不生不滅の万物の本性に通ずる﹁真言﹂である
ればならないというようになるのである。 ︵注1︶だから耕雲も
らないといっている。耕雲は系統的には二条派であるが、為世以下
君子なり﹂と孔子のいうように、詞の上に更に詞を選ばなければな
とばと思う場合でも十分に推考し詞を選択して、 ﹁文質彬々として
し、金石を合奏する﹂に至ったが、 ﹁つぎつぎの歌人どもは、その
唯寝食をわすれ、万事を忘却して、朝夕の風の声に心をすまし、
二条派は定家の詠歌大概の﹁詞不可出三代集﹂とか、 ﹁近代之所詠
身だにも心得ぬことを詞にまかせてくさりづけ﹂るものが多い。そ
雲の色にながめをこらして、 ちりのまのあだごとに心をみだら
出之心詞難一句三号可除棄之、七八十年号来所詠之詞努々不可下用
のであるから、 こういう表現こそが﹁和歌の第一義門﹂であり、
ず、一大事を心にかけたる人の、いつも胸中に大疑団のあるがご
いというのである。その心を詞に移すのには、たとえ十分に良いこ
とくにて、あかしくらせば自然に歌に心浮かみ
先達の教をそむく風道を守る神意にも違ひ侍べし。悪知識にひか
之﹂という制禁詞を厳重に守り、
れは歌の本意ではない。 ﹁心をもととしての詞﹂でなければならな
詠み出だされるものであると考えるのである。こういう立場から、
﹁歌の真体﹂であるとするのである。この考え方が心敬に至って更
に徹底し、和歌の本領は﹁無常述懐を心門の旨としてllはかなき
詠歌において心の問題が重要な要件となってくる。 ﹁初心の人の心
世の中のことわりをもすすめ侍る﹂ ︵ささめごと︶べきものでなけ
仏の真言を堅く保持しなければならないのであるが、和歌とはこの
といふは即陀羅尼なり︵沙石聖上五本︶
おちたれば、和歌の第二義盗﹂で、 ﹁歌の真体﹂ではないとする考
これによりて、心ざしをのべ給へるは、唯この深理あるによれる
の陀羅尼なりと古人これを云へり。又、神明、仏陀、菩薩、聖衆
ら、 ﹁天地のうちにありとしあるわぎ﹂は万理を具足するこの一性
二
れて同罪にしづまん人、翼々心をめぐらし給ふべきにや。日本紀
ありて、 大やうらかによみもてゆく﹂ と、年月を重ねて垢が落ち
うな歌を手本として﹁よの常にあるさまに心正しく、心ひとすぢ目
このような歌はマー9詞正しくて一ふしある﹂歌であるから、このよ
て、 ﹁心深く艶なる歌おのつから出来る﹂ものであって、初心の時
万葉集の言どもよみて人もしらぬことしりたるよしするさま、朝
というのは直接には京極派の自由清新の詞の用い方に対する攻撃で
世の和歌秘伝抄︶
の心をそこにふくませて、艶にはかりがたくよめる体﹂を﹁よりす
から、歌道に得道した歌人が﹁自由自在に詞にあらはさねども、そ
野にみちみちて自炊清楽とかやしたる道の魔障不可勝斗こそ︵為
あるが、同時に三代集の詞から一歩も出ないようにするという二条
派の歌詞に対する立場が明らかである。ところで耕雲は
しかれども世の末になるにしたがひて、歌の数おほくなりゆけ
ゆる余情の歌であり、艶にはかりがたくよめる体﹂とは、毎月抄の
に詞にあらはさねども、 その心をそこにふくませた﹂ 歌とはいわ
くて、反って次第に下がっていくものだといっている。 ﹁自由自在
ちり案じ﹂て強いてたしなみよむことは、歌が上がらぬだけではな
あらば、 後々の集詠ずべき事異論あるべからず。 たとへまた古
る。定家もこのような歌を﹁わざとよまんとすべからず。稽古だに
定家十体でいう麗様、有心体などに関係する妖艶美をいうようであ
ば、さいひては歌出来がたし。ただゆうゆうとしたることばにて
といって、 二条派よりも遙かに詞の自由さを考えているようであ
ある。
も入候へば、自然によみいださるる事にて候﹂と言っている通りで
今、後撰の詞なりとも、聞きあしき詞かへすがへす不可詠。
る。このように詠歌において耕雲は心を本としながらも詞もゆるが
前掲のような歌はあくまで初心者の﹁常に本として学ぶ体﹂であ
って、いわば初心者の基礎的な学習歌であるから、唯﹁詞正しくて
せにせず、文質合兼を主張していたところに二条派歌風から抜け出
ようとした意欲がうかがわれるのである。
一ふしある﹂を主旨として挙げたのである。従って、 ﹁万理を具足
のは
初心者として﹁学びてわうかるべき体﹂ではあるが、彼の最も価
して根源的に肝要な詠歌態度の出発点であったのである。
ある。 ﹁ことわり聞える﹂ということは彼のいう性理に叶った歌と
し﹂﹁和歌のことわり﹂の普遍性をもった歌として取りあげたので
さくら散る木の下かぜはさむからでそらに知られぬ雪ぞふりける
あきとだにわすれんと思ふ月影をさもあやにくにうつ衣かな
貫之
同
はるの夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空 定家
ことしより花さきそむるたちばなのいかで昔のかににほふらん
よられつるのもせの草のかげろひて涼しくくもる夕立の空
値を認めて挙げた歌は、
家隆
西行
よしの山やがて出でじとおもふ身を花ちりなばと人やまつらん
あけばまた秋のなかばも過ぎぬべしかたぶく月のをしきのみかは
耕雲の歌論︵稲田︶
三
定家
西行
耕雲が初学の人に﹁常に本として学ぶべき体の歌としてあげたも
三
ると﹁邪路におつべき事決定なり﹂といって、 ﹁千年の後、若し給
ろし﹂といい、初心の人がこのような体を面白く考えて学ぼうとす
など六首であって、﹁これらは上手の風骨を尽して幽意微詞おもし
いふ事書にあるべからず﹂というのは二条派が墨守する制隠詞主義
と、 ﹁新葉集撰定の事をさへ委附せられ﹂たが、 ﹁此道の秘事など
求められなければならなかったと思われる。耕雲も耕雲口伝による
素材として歌うのには、どうしても二条派的なものを超えたものが
るが、また一方、歌風そのものは二条派ながら、南朝悲運の生活を
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第一二号
みもや似せん﹂と言う程である。 ﹁春の夜の﹂の歌は新古今集の特
への耕雲としての批判であるばかりでなく、宗良親王を中心とする
南朝歌人おしなべての立場を代表するものであろう。
なども、西行の最も円熟した作で、西行の生活のきびしさから行さ
同
このようにして二条派の行き方を乗り超えようとする耕雲は、詠
鬼神を感ぜしむるこそこの道の詮要なれ﹂
り。iただよみいだす歌六義にかなひて、人倫をもやはらげ、
大方趣向だに心得たらば、 肝要はただすきのこころざし一つな
これらの歌を﹁幽玄高妙の真体を備へり。知音にあらずば悟りがた
評価している歌である。それらの歌は二条派の理想とした平淡美の
のとして取りあげているのであるが、それらは実は耕雲が最も高く
耕雲が右に挙げたような歌は初心者の簡単に真似てはいけないも
抑そのものになること、三揃はねば叶はず。下地のかなふべき器
のは心敬や世阿弥等であり、世阿弥が能楽習道の要件として、
中世芸術において、これを激しい精進修行道として確立せしめた
とするのである。
のことわりが会得され、すきの心ぎしが深まると歌がよまれてくる
といって、不生不滅の万物の性に同化する心境に立つところに和歌
歌ではなく、新古今調の最も中核的なものであった。こういう傾向
をいっており、心敬もささめごとに、
量一、心にすきありて、懸道に一行三郷なるべき心一、又算道を
ただ数寄と道心と閑人との三つのみ、大切の好士となるべくや
は、たとえ耕雲が二条派歌風の流れを汲んでいても、正徹などに近
ているところであるが、歴代和歌勅撰呼号之五に、新葉集雑中にあ
というのは、能の道を好く精神が旺盛で、 一心不乱に努力すること
る二条縁定に千首の歌を遣わした時とか、続後拾遺集撰集の時とか
る趣味的好事家的なる程度においていっているのではなく、道とし
と、数寄つまり好くことの大切さをいっているが、好くことは単な
教ふべき師一なり。
の宗良親王の詞書によると、血縁関係までありながら、足利氏をは
いものということができるであろう。
ばかって続落拾遺集に入馬出来なかったことが直接の動機と思われ
新葉集編集の動機については、すでに先学によって明らかにされ
ってしまうといましめている。
し。﹂といって、初心者が、安易にこれらの歌を会得したからとい
って、真似ようとすれば、歌ざまを損じ﹁ただありの平懐歌﹂にな
歌において
ふる畑の岨の立つ木にみる鳩の友よぶ声のすごきゆふぐれ
西行
津の国のなにはの春は里なれやあしのかれ葉に風わたるなり
徴の一つである夢幻的な情緒を醸し出す定家の代表歌であるし、
湿を発得する人、千万人の中に一人出来る事あらば、おのつからよ
四
ついた胸にひびく迫力と余韻をたなびかせている歌である。耕雲は
四
ての能楽、連歌を高く尊び熱愛することを第一の要件としているの
であって、耕雲の詠歌における態度もこれらと通ずるものである。
まだ耕雲口伝は初心者のための入門書という立場から述べられてい
るが、 ﹁唯堅固の初心のためにしるす﹂ということのなかに、不退
転の精進をもって歌道を修行しようとする初心者を前提としている
口吻が見え、禅僧としての禅修行的な芸道精神がうかがわれるので
ある。 ︵46・8・4︶
論に及ぼした仏教思想の影響﹂
注1 長崎大学教育学部人文科学研究報告、昭和46年第20号拙稿﹁中世歌
耕雲の歌論︵稲田︶
五