3 最 初 に、編 集 者 から読 者 へ: 「経 済 学 小 説 」の誕 生 あのころ、おそらく 2014 年 の初 めごろだったと思 うが、私 は、小 さな出 版 社 の 編 集 者 として最 大 の危 機 に直 面 していたのかもしれない。我 ながら不 覚 であった。 と こ 戸 ま と 独 楽 戸 い さ 伊 佐 先 生 から原 稿 ファイルの入 ったメモリーをお預 かりしてのち、 先 生 との連 絡 がまったくとれなくなってしまったのである。 先 生 の奥 様 によると、「編 集 者 と会 ってくるよ」といって家 を出 られたそうである。 その日 、私 は、駅 の近 くの喫 茶 店 で(実 は、この店 以 外 で、先 生 と会 ったことは 一 度 もなかった)、確 かに先 生 から原 稿 ファイルを受 け取 った。その後 、先 生 は、 忽 然 と私 の前 から姿 を消 してしまわれた。私 は、先 生 が、その喫 茶 店 の近 くにお 住 まいだと勝 手 に想 像 していたが、実 際 は、どこにお住 まいだったのか、まったく 知 らなかった。ただ、いたって元 気 な奥 様 は、受 話 器 の向 こうで「戸 独 楽 は、おり ませんが…」と、妙 に余 韻 のある言 い回 しで、なんだか、「主 人 だったら、おります が…」というようにも聞 こえた。 いずれにしても、先 生 が消 息 を絶 って、すでに 1 年 近 くが経 った。ますます元 気 になっていく奥 様 に電 話 で相 談 すると、「出 版 は、あなたのよいようになさったら。 どうせ売 れないでしょうけど、印 税 のことなんて、気 にしないでちょうだい」と、あっけ らかんとしたものだった。 途 方 にくれて、上 司 の編 集 部 長 に相 談 をした。先 生 からお預 かりをした原 稿 を読 んだ上 司 は、「面 白 いじゃないか」と、予 想 外 の反 応 だった。さらに彼 は、「で も、俺 の頼 りない経 済 学 の知 識 では、いまひとつ分 からんところもある。お前 、経 4 済 学 に不 案 内 な読 者 のために、各 篇 に解 題 を書 け。『経 済 学 博 士 』様 なんだ から、御 安 い御 用 だろう」と、これまた予 想 外 の提 案 をしてきた。 確 かに、私 は、「経 済 学 博 士 」の学 位 を持 っている。しかし、学 位 は取 ったも のの、パッとしない論 文 ばかりとあって、大 学 の職 に就 くことができなかった。いくつ かの職 を転 々として、今 の出 版 社 にひろわれた。そういえば、就 職 面 接 のときも、 人 事 部 長 から、「お前 は、『経 済 学 博 士 』なんだから、経 済 書 の編 集 ぐらいでき るだろう」といわれた。というわけで、執 筆 者 の先 生 がいらっしゃらないまま、私 が各 篇 の解 題 を書 きつつ、先 生 の本 を編 集 する運 びとなった。 編 集 作 業 もたけなわに入 ったころ、編 集 部 長 は、「ところで、本 のタイトルはど うしようか」と私 に聞 いてきた。先 生 が「〈定 常 〉の中 の豊 かさについて」というタイト ルらしきことを話 しておられたのを思 い出 して、それを提 案 したら、上 司 は、「論 文 のタイトルみたいだな。でも、よく考 えてみると、それがふさわしいかもしれんな。サブ タイトルには、『経 済 学 小 説 の試 み』とでも付 けておけ」と命 じた。独 特 のひらめき があったときの彼 の言 葉 に、私 はけっして逆 らうことができなかった。 先 生 がいわれていた〈定 常 〉については、説 明 が必 要 かもしれない。といって、 以 下 は、すべて先 生 からの受 け売 りであるが… 日 本 語 で「〈定 常 〉的 な」といっても、英 語 で'stationary'とか、'steady'と かといっても、うまくニュアンスをつかむことができない。いずれの言 葉 でも、事 態 が 「じっと止 まっている」かのように響 くからである。かつて、stationary state は、 〈定 常 〉状 態 でなく、停 止 状 態 と訳 したので、いっそうそういう響 きがあった。 しかし、〈定 常 〉状 態 というのは、外 側 から見 ると、確 かに「じっと止 まっている」 ように見 えるが、内 側 に入 ってみると、相 反 する方 向 の力 がぶつかり合 って、それ らの力 が「ちょうど釣 り合 っている」ような状 態 といった方 が正 しい。たとえば、経 済 が停 滞 しているように見 える背 後 で、経 済 規 模 を縮 小 しようとする力 と、それを 拡 大 しようとする力 がぶつかりあって拮 抗 しているような状 態 である。先 生 の原 稿 は、どれも、これも、視 線 を外 側 から内 側 に移 しながら、時 には、かなり手 荒 な方 5 法 で読 者 を外 側 から内 側 に連 れ込 んで、一 見 停 滞 感 が漂 っている今 の経 済 社 会 に、活 発 な新 陳 代 謝 の契 機 を見 出 しているものばかりである。 それにしても、編 集 部 長 は、〈定 常 〉がこの本 のタイトルに「ふさわしい」などと、 なぜ思 ったのであろうか。不 思 議 である。不 思 議 といえば、なぜ、上 司 は、サブタ イトルに「経 済 学 小 説 の試 み」と思 いついたのであろうか。確 かに、先 生 は、「経 済 学 のロジックと現 実 経 済 のデータからいっさいずれていないフィクションを書 い てみたい」といつもいっておられて、先 生 の原 稿 は、まさに、「経 済 学 小 説 」だった からである。 先 生 が書 かれた短 篇 のそれぞれに解 題 を執 筆 する作 業 は、結 構 楽 しかった。 といっても、最 初 から呑 気 にやっていたわけではない。 もしかすると、この原 稿 は、「先 生 の遺 書 」ではないかもしれないと思 い、原 稿 で黒 塗 りになっているところを色 抜 きしてみたが、他 愛 のないことしか分 からなかっ た。 もしかすると、数 字 に謎 が掛 けてあるかと思 い、図 表 の元 データを確 認 したら、 公 表 統 計 そのままで、いっさい脚 色 しておらず、拍 子 抜 けしてしまった。 もしかすると、論 理 の進 め方 に秘 密 が隠 されているかと思 い、経 済 学 者 になっ た大 学 院 時 代 の同 級 生 (といって、風 采 の上 がらない研 究 者 だが…)に相 談 し たが、小 説 で用 いられている経 済 学 のロジックは、当 たり前 すぎるものばかりで、 最 新 理 論 なんてものはいっさいなく、陳 腐 な理 屈 の羅 列 なのだそうだ。 しかし、そうした私 の徒 労 や同 級 生 の感 想 は、経 済 学 のロジックと現 実 経 済 のデータを重 んじる「経 済 学 小 説 」にぴったりであった。 そうこうしているうちに、本 書 は、「先 生 の遺 書 」なんかでなくて、浮 気 性 の先 生 のこと、本 書 の執 筆 に単 に飽 きてしまって、「戸 独 楽 戸 伊 佐 」というペンネーム とともに、原 稿 を放 り出 されただけなのだと確 信 するようになった。もしかすると、先 生 は、原 稿 を放 り出 したくなったというよりも、こんな学 者 らしくない原 稿 を書 いて いて、ちょっぴり恥 ずかしくなられてきたのかもしれない。先 生 は、きっと、なにか他 6 の仕 事 を元 気 よくなさっていて、奥 様 やお子 様 と仲 良 くお暮 らしになっているにち がいないと思 うようになってきた。 紆 余 曲 折 はあったものの、先 生 の新 たな試 みであった「経 済 学 小 説 」が誕 生 する瞬 間 に立 ち会 えたことは、編 集 者 として幸 せだったのかもしれない。(2015 年 2 月 吉 日 記 ) 立 退 矢 園 ( Ya s o n o T A C H I N O K U ) 最 初 へ
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