史遊会通信 No.226 (1) . 日 土( 当 ) 日受付 先(着順 ) ) ① 「 隼人 とは 」 古(代史懇話会代表 柴田弘武先生 竹村紘一先生 平山牧人 東(京吉備文献研究会代表 ) ④「熊襲と吉備と邪馬台国と日本建国の謎」 (九州の歴史と文化を楽しむ会会長) ③「森浩一先生と隼人と熊襲」菊池秀夫 ( えみし 学会会長 ) ② 「 蝦夷 とは 」 ) 『地域学と町人学者』 12 月 10 日 メインテーマ 平成 25 年 「隼人と熊襲、そして蝦夷」 No.226 号 サブテーマ 今 年 の 読 書 特 集 号 会員の活動 柴田弘武氏 月 『森浩一先生を偲ぶ会と追悼講演会』 日時 場所 大塚初重先生 会費千五百円 十三時半 ~ 十六時半 来賓挨拶 会費は無料 港勤労福祉会館第一洋室 定(員百名 田町駅五分 / 地下鉄三田駅一分 28 十一時 ~ 十二時 追悼講演会 偲ぶ会 12 JR ◎ ◎ ◎ 例 会 の お 十二月忘年会 知 ら せ 時 平成二十五年十二月十一日 水( 場 六千円 学士会館 日 会 費 午後六時~八時 会 ) 出欠のご返事は十一月二十七日まで 演 小田紘一郎氏 四階セミナールーム 場 千代田区立日比谷図書文化館 午後六時~八時 時 平成二十六年一月二十二日 水( ) 一月例会 日 会 講 テーマ 文学・音楽等雑話 源氏物語と平家物語と井上靖 およびワーグナー 一月号自由執筆 森下征二、佐藤健一、 村上邦治の諸氏 締切十二月末 史遊会通信 No.226(2) 三戸岡 道夫 今年読んで感動した本 「禅の心」小関栄著 この 「 禅 の 心 」 は 二十 ページほどの 小冊子 であるが、禅に関する哲学が凝縮されていて、 感動的 であった 。 著者 はここ 七年間 ほど 坐禅 を 続 けているの であるが 、 その 体験 の 上 に 立 って 、 坐禅 とは 何 か 、 坐禅 の 心構 え 、 坐禅 の 歴史 、 坐禅 と 無 の 精神 など 、 広範囲 にわたって 述 べられてい る 。 坐禅 を 長 くやっていると 無我 の 境地 にな り 、 それは 無 の 心 となり 、 そして 悟 りの 境地 へと 入 って 行 くのである 。 私 がとくにこの 書 の 中 で 関心 を 引 かれたの は、 「無の心」と「脳の動き」とは、どのよう な 関係 にあるのか 、 という 項目 であった 。 こ れまで 禅 や 脳 に 関 する 本 は 若干読 んだことは あるが 、 本書 のようなことが 書 いてあるもの はなかった 。 それは要約すると、次のようである。 人間 の 脳 は 、 平常時 には β 波 が 出 ている 。 それが 坐禅 を 始 めると 、 脳内 セロトニン 神経 部分 ( たとえば 自他 の 区別 とか 、 言葉 で 物事 まず α 波 が 出 てくると 、 大脳 の 中 の 理性的 来 るであろうし 、 禅寺 には 坐禅 を 組 む 畳 の 上 などの 大 きい 病院 には 、 「無我」科の部屋が出 いいわけである 。 したがって 今後 、 大学病院 に 禅寺 へ 行 って 坐禅 を 組 むのではなく 、 病院 を 考 えるとか 、 いわば 大脳 の 大脳 たる 所以 の に 注射針 が 置 いてあって 、 坐禅 を 組 むか 、 注 が 関係 して 、 大脳 の 働 きが 抑 えられ 、 α 波 や 働 き ) の 働 きが 抑 えられる 。 そして 更 に 進 む 射 を 打 つか 、 選択 できるようになるのではあ に 行 って 脳 へ α 波 や θ 波 を 注入 してもらえば と θ 波 になる 。 θ 波 が 入 ってくると 、 外 から るまいか 。 θ 波 が 出 てくるというのである 。 脳への刺激がなくなるので、休む状態になり、 りには 目 を 瞠 るばかりであるので 、 小関栄 の 最近 の 医学 や 情報技術 のめざましい 進歩 ぶ が 押 さえられてしまうのである 。 「禅の心」も、このように読んだのである。 睡眠 モードに 移 っていき 、 全体 に 大脳 の 働 き 以上 のことを 一口 で 言 えば 、 て、人間社会の仲間入りをしてくるであろう。 これからはロボットも 、 そろそろ 具体化 し が 入 り 、 大脳 の 論理思考的部分 の 活動 が 抑制 町 を 歩 いていて 、 すばらしい 美人 だったり 、 ( 無 の 境地 とは 、 医学的 に 脳 に α 波 や θ 波 された 状態 である ) するとロボットの 大脳 に α 波 や θ 波 を 当 て 親切 な 人 だったり 、 商店 の 店頭 サービスが 一 α 波 や θ 波 を 投入 すれば 、 医学的 に 無 の 境地 たら 、 どうなるのであろうか 。 ロボットは 無 ということになるのである 。 に 達 することが 出来 るのではないかと 思 うの 我 の 精神 になれるのか 。 ロボットは 道徳行為 番 いいのはロボットである 、 という 世界 が 来 である 。 現在 そのようなことが 医学的 に 出来 においても 人間 に 勝 ることが 出来 るのか 。 ロ すると次のようなことが考えられる。 るのか 、 出来 ないのか 、 それは 知 る 由 もない ボットはどこまで 発達 するのか 、 夢 は 果 てし るかも 知 れないのである 。 が、しかし最近の著しい医学の進歩から見て、 なく 拡 がるばかりである 。 これからは 坐禅 などをしなくても 、 大脳 に 将来必 ずそのようなことが 可能 になるのでは ないかと 思 われる 。 するとこれからは 無私 の 心境 に 達 するため 史遊会通信 No.226(3) 『 敗者の古代史』 ほか 柴 田 弘 武 今年 の 八月 、 森浩一氏 の 『 敗者 の 古代史 』 ( 二〇一三年六月二一日刊 ) を 読 んでいる 途 中 、 八月六日 の 朝刊 に 著者 が 亡 くなった 記事 が 載 り 驚 かされた 。 私 は 著者 を 直接知 ってい るわけでなく 、 膨大 な 著作 や 論文 のほんの 一 部 しか 読 んでいないがかねてから 氏 の 考古学 の 確 かさ 、 文献資料 の 扱 い 方等 に 深 い 尊敬 の 念 を 抱 いてきた 。 それだけに 何 か 因縁 みたい なものを 感 じたものである 。 本書 は 、 「饒速日命と長髄彦」の章から「大 友皇子の死とその墓」まで一九の章に分けて、 『 日本書紀 』 や 『 古事記 』 に 表 れる 古代史上 の 敗者 が 取 り 上 げられている 。 いずれも 考古 学 を 踏 まえての 人物 ・ 事件 の 解釈 で 説得力 が ある ( もっとも 私 はその 全 てに 納得 している 訳ではないが…)。 この 本 の 最後 に 新人物往来社 の 深萱真穂氏 との 短 い 対談 が 載 っている 。 その 中 で 深萱氏 の 「 日本 には 『 判官 びいき 』 という 言葉 があ ります 。 敗者 の 立場 から 歴史 をみる 、 という 姿勢 が 欠 けていたのは 不思議 です 」 という 問 いてある 言葉 の 裏 の 事件 や 歴史 を 読 み 解 くの 研究 しかしてこなかったのです 。 しかし 、 書 ほうが 楽 だから 、 史書 に 書 いてあるとおりの に 対 し 、 森氏 は 「 研究者 の 問題 ですね 。 その アイヌ語に『 る。キサリ持ち=耳持ち、キサリ=耳である。 き 傾頭 を 持 つ 者 の 両手 の 位置 は 耳 の 後 ろにあ 頭 を 持 ち 上 げれば 自然 に 傾頭 となる 。 そ のと 潟 ( 秋田 ) や 千葉県 の 木更津 の 地名 もその 地 耳。地形では耳のように kisar- が、研究者の大きな仕事であるはずです。…」 突出している部分∧ key 耳 sar 尾 ∨ ?』 とあ るとおりだ」といい、 『奥の細道』で有名な象 研究者 にとって 耳 の 痛 い 言葉 が 氏 の 遺言 に 形が耳形だったことによるものとしている。 と 答 えています 。 なったのは 、 いかにも 町人学者 らしい 生 き 様 なお 「 キサ 」 を 「 象 」 の 字 で 書 くのは 『 和 『日本語になった縄文語』 鈴木健著 言 ったからだ 、 としている 。 私 は 吉野 に 行 っ 長者也 」 とあるように 、 古代 では 象 をキサと を 示 しているように 思 えた 。 鈴木氏には『常陸国風土記と古代地名』、『縄 たとき、「象の小川」「象山」がなぜ「キサの 岐佐 … 大耳 、 長鼻 、 眼細 、 牙 文語の発掘』(共に新読書社刊)などがあるが、 小川 」 「キサ山」と呼ばれるのか不思議に思っ 名抄 』 に 「 象 本書 は 私家版 である 。 氏 はアイヌ 語 は 縄文語 たことがあったが、これで氷解した。 目 が 覚 めるようであった 。 そのほか「スガル乙女」 「因幡の白兎」等々 の 伝統 を 引 き 継 いでおり 、 アイヌ 語 を 介 すれ ば 「 紀 ・ 記 」 や 「 万葉集 」 などの 解釈困難 な 言葉 も 理解 できるとして 、 多 くの 実例 を 挙 げ て実証している。私は大いに啓発されている。 か(はかり を)以て、持傾頭者 き( の 怒 りに 触 れて 殺 されてしまう 。 その 葬儀 の 番多 いのは 千葉県 で 、 二位 が 茨城県 、 三位 が している 。 私 も 本書 で 前方後円墳 が 全国 で 一 本書 については 本誌前号 で 中山 さんが 紹介 『古墳が語る古代史の「虚」』 相原精次著 さりもち 及)び持帚者 は(はきもち と)し」とある。 群馬県 であること ( 因 みに 奈良県 は 八位 ) を 例 えば 『 書紀 』 神代第九段 で 、 天稚彦 が 父 岩波大系本 の 頭注 に 「 キサリの 語義未詳 。 持 知 って 改 めて 驚 かされた 。 描写の中で「川雁 傾頭者 の 意 は 、 纂疏 に 『 謂挙死人頭者 』 とあ る 」 とある 。 これについて 鈴木氏 は 「 死者 の 史遊会通信 No.226(4) 今年感動した三冊の本 中 山 喬 央 『考古学の散歩道』田中琢・佐原真著、岩波 ポズナニ 大学教授 となるユゼフ = コストシェ ナと 、 ベルリン 大学 でコッシナに 学 び 、 後 に これがベルリン 大学教授 グスタフ = コッシ 涯 を 没後関係者 が 会 いより 綴 ったものである 。 科明治十五年入学 ) 第一期生 である 同氏 の 生 本書 は 早稲田大学 ( 東京専門学校邦語法律 ヴェルサイユ 会議 は 住民投票 でその 帰属 を が 病没 した 事 もあり 、 明治三十年古河商店 に 法律事務所 に 入 るが 、 明治二十七年 に 岡山氏 同氏 は 明治十九年弁護士試験 に 合格 、 岡山 決 めることとし 、 住民投票 は 一九二一年三月 入 り 三等副支配人 に 就任 、 足尾鉱毒問題 に 対 フスキの 論争 である 。 %、ポーランドへの併合を 応 する 事 となる 。 明治三十一年 、 庶務課長 に に実施、投票率 %、ドイツへの残留希望 %に達したが、戦勝国はドイツに厳しく、 就任、足尾鉱毒予防工事を完了させている。 南沙諸島 では 、 中国 の 考古学研究者 が 漢民族 との 間 で 領有問題 が 発生 している 西沙諸島 や エルである 。 次 いでヴェトナムやフイリピン 今 、 世界 で 考古学 が 最 も 盛 んな 国 はイスラ 是とした。一度はポーランド国も消滅した。 呼 んで 、 それを 領土 として 回復 することを 国 が 住 んでいたとする 地域 をドイツ 人 の 原郷 と ある 。 ナチスドイツは 、 かってゲルマン 民族 アの 主要部分 をポーランド 領 と 決定 したので この 地方 の 工業地帯 の 大部分 を 含 む 上 シレジ であるが 、 古河家 をめぐる 様々 な 問題 、 金原 の 辞 、 附録 まで 入 れると 八一五頁 に 及 ぶ 大著 棄 が 行 なわれた 年 であった 。 渋沢栄一 の 追悼 ン 会議 で 日英米仏四国条約調印 ・ 日英同盟廃 が 東京駅頭 で 中岡良一 に 刺殺 され 、 ワシント 官最初 の 海軍大臣事務管理 に 就任 した 原首相 たかも 日本産滞銅 は 七万 トンと 称 せられ 、 文 大正十年 、 古河合名理事長 に 就任 する 。 時 あ 正六年 には 早稲田大学評議員 ・ 維持員就任 、 その 後大正二年 、 古河合名会社理事就任 、 大 自由執筆で「史遊会通信」二二五号に掲載。 「虚」』 相原精次、彩流社、二〇一三年。 『古墳が語る・呪縛された歴史学・古代の 営に関する側面的情報等も得られて面白い。 明善 ・ 田中正造等 との 関係 、 早稲田大学 の 経 『昆田文次郎君の生涯』後昆会、一九二九年。 くのであろうか ? ドの 自殺 と 、 田中琢 の 考古学引退 とに 結 びつ これがコッシナを 激 しく 非難 したチャイル が二重写しとなる、と田中琢は結んでいる。 そこにコッシナとコス トシェフスキの 闘 い の遺構や遺物を求めて調査している。 は 求 めるものものが 97 40 新書 、 一九九三年 。 今年 の 一月二十七日 、 「アジアの青銅器」シ ン ポで 、 金関恕 はチャイルドが 六十六歳 で 死 んだのは 自殺 だった 。 だから 田中琢 も 六十歳 で 考古学 を 止 めるんだといって 、 学会 から 去 ってしまった 、 という 発表 をした 。 たまたま その 事 を 、 白石市教育委員会 の 日下氏 に 知 ら せたところ 、 面白 い 本 がありますよ 、 といっ て教えてくださったのが本書である。 本 書 一 八 二 頁 か ら の4 考 古 学 の 戦 争 に は 「 シレジア 地方 」 いまのポーランド 領 のシロ ンクス 地方 、 について 、 一九二〇年英国首相 ロイド = ジョ ― ジはシレジアは 昔 からゲルマ ン 人 のものであり 、 この 土地 に 対 するポーラ ンドの 主張 は 理解 できない 、 としたが 、 ポー ラ ンド 人 は 、 歴史 が 始 まってこのかたシレジ アはスラブ 人 の 住 む 所 であり 、 何世紀 ものあ いだにはドイツ 化 したところもあったが 、 十 九世紀 には 再 びスラブ 人 のポーランド 民族 が 復活 したのであり 、 その 住民 の 核 は 終始 スラ ブ 人 だったと 主張 した 。 60 史遊会通信 No.226(5) 今年感動した本 小田紘一郎 る 一( 講座四十五分 であるもので 五〇〇回近 く放 送された 解)説、原文朗読、解釈となっており、解 説の他、原文のみをとり出し聴いている。耳で文 ニーベルングの指環」 「パ 」「 ン」 「トリスタンとイゾルデ」「 ニュルンベルグの マイスタージンガー 章を聴きつつ、目で訳本 瀬(戸内源氏 を)追うこと もあり、全体を理解する上で実に有効である。と のたそがれ で)あり、全部で十五時間を超える大作 である。ドイツ語で歌われているのを訳文を見な ルジファル」等がある。中でも指環は、四部作 ラ( インの黄金、ワルキューレ、ジークフリート、神々 ①源氏物語およびその関連書 にかく文体が古文であって、流れるような美しさ 一、 感動というより熱中した本 又(は音楽 と)して ②平家物語 ム と 後 期 ロ マ ン 派 らし い 美 し い メ ロデ ィ が 随 所 がら聴いているが、なかなか疲れる。壮大なリズ ③ワーグナーのオペラ・楽劇、を挙げておこう。 とリズムに格調があるが、和歌 古(今集等 が) 根底 にある。こんな奥ゆかしい文章が昔の日本にはあ いずれも世に知られた大作の古典である。 に出てくるが、その奥には深い思想、哲学があり、 新潮社 、 「) 源氏物語の世界」日(向一雅、岩波新書 、) に行ってバイロイト版 実(況録音で、サバリッシュ 理解するのに手間取っている。今年の秋、演奏会 意図、項目別問題点等については、まだまだわか 「源氏物語」 大( 野晋、岩波現代文庫 等)も何回も ったのだと感じ深い思想と合せ楽しんでいる。又、 二、ここ一〇年近く源氏物語を中心に読み 聴(き 、) 大筋はほぼ理解できたと思っているが、その真意、 関連書として、「源氏物語ものがたり」島(内景二、 ら な い 事 が多 く 、最 近 、つ れ づ れに ま かせ つ つ 、 やベームが 指揮している を) 求められたことは 幸 せであった。多くの名指揮者の演奏に接している。 ② 一 〇 年 前 に や は り C D で 求め て い たも の で 四、源氏物語とワーグナーの比較などなかなかユ つらつら考えている。その為の有効な手段として、 読んだ。 他 の も の と 比 較 する こ とで あ る との 考 えの 下 に 、 は 確 か な 愛 の 陶 酔 や愛 の 二 重 奏 が 随所 に 見 ら れ 下り、 重( 衡が鎌倉に下るところ や) 最後の大原御 考えさせられる。又、死においても後者は男と女 るが、前者にはそれがあるのか、愛とは何か等を ニークであると自分ながら思っているが、後者に ① ② ③ に 接し て いる 。 この 他 に 井上 靖 、徒 然 草 、 十二巻の朗読である 嵐( 圭史 。) 前者と異なり漢文 調でリズム感があり、私の好きなところは、海道 いることは、「人生」と「人間」について鋭い考 枕草子等をもひもといている。これらに共通して 察がなされていることである。又、歴史をも知る 幸 後( 白河法皇が建礼門院を訪れていくところ で) ある。源氏物語も平家物語もいずれも人間造型に 今年は、朝日やNHKのカルチャーセンターに 性に焦点があるように思われる。同時に、池上彰 も優れているが、前者は主として女性、後者は男 ここ数日間に感じたことであるが、権力 政( 治 と) ことになる。 出向き、専門家の話を聞き、なるべく率直な質問 人間 愛( の) 問題は両者に共通であるとの思いを、 改 め て 「 桐壺 の 巻」 を 読ん で 強 く意 識 して い る 。 の合体としての 死 愛(と死 が) 多いが、前者はそれ ぞれ別に死ぬ。これらは、何を意味しているのか。 をしたいと思っており、今、実行中である。 一郞の「平家物語」 角( 川書店 、上中下巻 も) 、清 盛の見方等独特であって面白かった。吉川英治の ① の テ キ スト は 、 NH K 文 化セ ン タ ーよ り 出 三、もう少し具体的に書いてみよう。 な事は、くりかえし、くりかえし読み、聴くこと ③ ワーグナーのオペラ・楽劇には、 「さまよえ であると痛感しつつ年も終ろうとしている。 くわしくは別の機会に譲りたいが、何よりも大切 「新平家物語」 講( 談社 に)は手がつけられず来年 へ持ち越しである。 で放送されたもので 講(師、鈴木一雄、九年二ヶ月 るオランダ 人」、「タンホイザー 」「ローエングリ 版されている講座である。一〇年以上前にラジオ かかっている 一) 時間半 のテープが 約二五〇巻 あ 史遊会通信 No.226(6) 今年感動した三冊の本 講談社選書 村 上 邦 治 ①『伊勢神宮と出雲大社』 新谷尚紀著 今年 は 、 伊勢神宮二〇年毎 の 「 式年遷宮 」 と 、 出雲大社六〇年 ぶりの 「 大遷宮 」 が 重 な り 、 これら 古社 に 、 注目 があつまった 。 しか し 両社 の 創建 について 、 多 くの 説 があるもの の、いまだ定説とされるものはない。 本書では、倭に代わる「日本」という国号、 大王 に 代 わる 「 天皇 」 という 称号 の 成立 は 、 七世紀後半 の 天武 ・ 持統朝 とし 、 その 存立思 想 は 、 伊勢神宮 の 創建 にあったとする 。 そし て 、 祀 られた 天照大神 のモデルは 、 持統天皇 としている 。 記紀神話 に 、 出雲 が 重要 な 位置 を 占 めてい るのは 、 伊勢神宮 と 対 をなすものとして 、 出 雲大社 が 創建 された からである 。 すなわち 、 「 内 なる 伊勢 」 と 「 外 なる 出雲 」 の 構築 であ る 。 これにより 、 王権神話 で 政治 は 皇孫 に 、 神事 は 大己貴神 、 との 分業 に 、 説得力 を 与 え たのである 。 その 為出雲 の 存在 は 、 不可欠 で あり 、 八世紀 から 始 まる 、 出雲国造神賀詞奏 上儀式が、中央で重視されたのである。 本書 は 、 「神話と歴史」を厳密に区分し、隋・ 記載 の 区分論 や 、 考古学 の 新 しい 成果 を 取 り を論証している。定着しつつある『日本書紀』 期 に 現在 の 祭祀 が 確立 し 、 今日 に 至 ったこと を 、 七世記末 とした 。 両社 は 、 その 後 、 平安 唐 、 半島情勢 の 影響 を 検証 、 記紀神話 の 成立 直すことを薦めたい。時宜を得た本である。 多 くなった 今日 、 本書 の 視点 から 、 再度読 み 納得 するものが 多 い 。 神話 が 語 られることが らも、日本の独自性を出そうとしたとの説は、 著者 の 、 五世紀以来 、 中国 の 影響 を 受 けなが 張を、誠実・丁寧に批判・反証を行っている。 新潮選書 「 私 」 を 挿入 することにより 、 著者独自 の 古 ら 律令国家成立 までの 通史 である 。 わざわざ 日本古代史 を 代表 する 学者 の 、 縄文時代 か 上田正昭著 ③『私の日本古代史(上・下)』 入 れ 、 両社 の 創建 を 、 より 厳密 かつ 、 広 い 視 野 から 、 結論付 けている 。 遷宮 で 話題 となった 今年 、 多 くの 方 に 、 最 講談社学術文庫 新の成果をまとめた本書を薦めたい。 ②『古事記とはなにか』 神野志隆光著 本書 の 特徴 は 、 「全体が部分に偏在する」とい 基層 であるとの 信念 より 、 古代人 の 精神 や 信 本書 の 特徴 の 一 つは 、 縄文 こそ 日本文化 の 代観 で 、 構成 されている 。 う 立場 から 、 改 めて 『 古事記 』 を 分析 してい 仰 を 詳述 しており 、 弥生 、 古墳時代 につなが 本書は、九月に学術文庫として出版された。 ることである 。 邪馬台国 については 、 当時中国内 の 抗争 と る 日本文化 の 流 れを 追及 している 。 確立 に 必要 な 天皇 の 正統性 を 、 確証 するため 文献により、著者独自の見解を出している。 著者 は 、 『古事記』はあくまでも、律令国家 に 纏 められたもので 、 『日本書紀』とは、別個 最後 に 、 『天皇 』 ・ 『日本』は、天武朝期に確 立 し 、 対外的 に 日本 の 存在感 が 増 し 、 律令国 な論理と構造をもっている、と主張する。 そのため 「 記紀神話 」 という 形 で 一 まとめ 家体制強化 につながったことを 、 主張 してい 著者 の 八世紀 までの 日本古代史研究成果 を にして 、 『古事記』と『日本書紀』を、正当に 記』は、あくまで、天皇の神話の歴史であり、 集約 し 、 初心者 にも 理解 しやすく 配慮 されて る。これは①の新谷尚紀と同様である。 「 天皇 を 軸 とした 神話 の 思想史 」 としてとら いる。さすが第一人者の日本古代通史である。 問わずにすましてきたことを批判する。『古事 え 事 を 、 強調 するのである 。 また 本書 では 、 これまで 多 くの 研究者 の 主 史遊会通信 No.226(7) 藤原咲子の『母へ の詫び状』 新 井 宏 我家 では 、 新田次郎 と 藤原 ていの 夫婦 が 何 か と 話題 になる 。 幼子 を 三人 かかえ 、 満州 から 陸路 、 朝鮮北 部 を 通 り 、 朝鮮半島 を 南下 して 日本 に 引 き 揚 げる 凄惨 な 逃避行 を 描 いた 藤原 ていの 『 流 れ る 星 は 生 きている 』 は 、 昭和二十四年 のベス トセラーとなった 。 映画化 の ためにボストン バックに 百万円 を 入 れた 男 がやってきた 。 気 象庁 に 勤 める 夫 の 新田次郎 の 月給 が 一万円 の 時代 である 。 新田次郎 はその 頃 から 帰宅 すると 、 狭 い 隣 室にこも って何か を書き 始めて いた。『 強力 伝 』 で 、 昭和二十六年 のサンデー 毎日 の 懸賞 小説 に 応募 して 、 一等 に 当選 し 、 昭和三十一 年 の 直木賞 に 輝 く 出世作 である 。 何 よりも 面白 かったのは 、 当選 の 連絡 が 入 った 時 に 、 新田次郎 が 藤原 ていに 向 って 『 強 力伝 』 の 原稿 を 机 にたたきつけながら 「 ざま あみろ」と言って渡した場面である。 激 しい 夫婦 であった 。 「収入が多いのが、えらいんじゃないぞ……」 「 いつ 私 がいばりましたか 」 「 毎日 だ 」 ではなかろうかと 。 郎 は 、 女房 に 先 を 越 された 男 を 演 じていたの 咲子 は 小学校六年生 の 時 、 はじめて 『 流 れ 「お父さんはひがんでいるんですよ」 しかし 、 我 が 家 での 評価 が 極 めて 高 い 夫婦 ら 死 を 考 えたことがある 。 母 が 、 赤 ん 坊 の 咲 る 星 は 生 きている 』 を 読 んで 、 その 絶望感 か 次男 の 藤原正彦 は 日本 を 代表 する 数学者 で 子 の 命 を 引 き 替 えに 二人 の 兄達 を 生 かそうと であった 。 あるが 、 両親 から 受 け 継 いだ 資質 で 、 すばら 迷 ったのが 本当 だったのであろうかと 。 母 の そのことが 永年母娘 の 間 のわだかまりにな 愛 を 独占 したい 年頃 であった 。 しいエッセイを 数多 く 書 いている 。 『 若 き 数学者 のアメリカ 』 では 日本 エッセ イスト・クラブ 賞 、 二百万部 を 超 えたベスト っていた 。 咲子は夢の中で父にしばしば問いかけた。 セラー『国家の品格』も出している。 正彦 の 描 く 新田次郎 は 四歳 から 四書五経 を 「 本 の 中 の 赤 ん 坊 は 私 じゃないよね 。 おは の 本 はおはなしだよ …… 」 「 そうだよ 、 決 まっているじゃないか 。 あ なしだよね 」 学 び 「 卑怯 を 憎 む 」 サムライであった 。 その サムライと 気丈 な 藤原 ていのやりとりが 実 に 面白 いのである 。 前置 きが 長 くなってし まったが 、 実 は 、 今 そして 四十年後 、 偶然 、 実家 の 書庫 から 咲 子宛 のメッセージを 付 けた 『 流 れる 星 は 生 き 回紹介 しようとしているのは 、 彼 らの 末娘 、 藤原咲子の『父への恋文』と『母への詫び状』 ている 』 の 初版本 が 見 つか り 、 再読 して 「 母 が 子 ども 達 を 必死 に 守 り 、 生 き 抜 こうとして である 。 その 中 に 、 こんな 文章 があった 。 女 を 苦 しめていたのであるが 、 その 「 小説 」 いた姿に感動する。ある意味で、 「小説」が彼 父( は 『) 流れる星は生きている』を書く母 の 背 を 押 しながら 、 作家 としての 自信 をひそ それにつけても 、 この 本 によって 、 私 が 小 が 事実 を 超 えて 訴 えかけていた 。 母 の 著作 であることは 間違 いないが 、 父 とい 説を書けない理由が判ったような気がする。 かに 得 た 。 …… 『 流 れる 星 は 生 きている 』 が う 名編集者 を 得 て 完成 した 作品 …… 。 すなわ ち 「 母 の 日記 をもとにした 一遍 の 小説 」 とも ある 。 そして 気 がついた 。 実 は 、 小説家 の 新田次 史遊会通信 No.226(8) 岩波書店 朝日新聞出版 新日本古典文学大系 平 山 善 之 今年感動した三冊の本 ①「続日本紀」 ②「人間と戦争」荘子邦雄 ③「幕末維新変革史」宮地正人 縄 の 妻 は 、 百済王明信 といい 桓武天皇 の 生母 き 直 しが 繰 り 返 された 為 ではなかろうか 。 継 を 久 しぶりに 懐 かしく 思 い 出 した 。 得 ない 気持 ちにさせる 本 である 。 大学 のゼミ うしたらよいか 、 と 考 えさせる 、 考 えざるを ③ ある新聞書評では、この本は前国立歴史 高野新笠と同族、正三位尚侍に登った女性。 継縄 は 桓武天皇 と 合作 で 、 天皇 に 累 が 及 ば 民俗博物館長 であり 、 近代日本史学会 の 大御 所 である 著者 が 「 満 を 持 して 送 り 出 した 物語 ぬよう苦心して書き上げたのであろう。 ② 著者は当年九三歳になる刑法学者。 的歴史学 の 大作 」 という 。 著者 は 広汎 な 資料 を 実証的 に 鋭 く 分析 しつ 私 が 半世紀前 、 刑法総論 の 講義 を 聴 き 、 演 習 に 参加 させて 頂 いた 恩師 である 。 当時 ご 自 つ 、 現在 の 価値基準 や 結果 から 判断 していな 続日本 紀 は 謎 が 多 い 。 桓武天皇在世中 にそ か 」 と 感銘 を 受 けたものである 。 一方 では 、 るのを聞いて、「これが大学の講義というもの なざしを 向 けている 。 上 は 天皇 から 下 は 庶民 にまで 愛情 に 満 ちたま いか常に自省する。そして当時を生きた人々、 の 治世 まで 書 かせたのは 何故 か 。 長屋王事件 呑 むと 必 ず 童謡 を 歌 われる 純粋無垢 な 方 。 九 ① 六国史の二番目「続日本紀」四〇巻の原 身 の 学説 を 構築中 の 時期 で 、 よく 「 ゆうべ 、 文 を 読 み 下 し 文 の 助 けを 借 りて 通読 してみた 。 寝 ないで 考 えたのだが 」 と 講義 の 冒頭言 われ をはじめ 、 多 くの 陰謀 、 反乱 、 誅殺 の 真相 は 三歳 の 今 も 変 わらない 。 「 近代刑法思想史研究 」 「刑法総論」など著 が 、 幕末 、 平田国学 は 特 に 地方豪農 ・ 豪商 ・ する 。 従来 の 維新史 ではあまり 触 れられない また 「 平田国学 」 派 が 果 たした 役割 を 指摘 不明、道鏡と称徳天皇の間柄も謎だ。 通読 しても 謎 は 謎 のままだが 、 第一 の 謎 は 医者 といった 層 に 多 くの 門人 を 持 った 。 この 今年 、 「一学徒兵の思想史」という副題のも 書 は 多 いが 専門外 でも 「 和辻哲郎 の 実像 」 な ていた 為 だと 。 彼 の 父光仁天皇 は 井上皇后 と とに 、 戦争 という 巨悪 に 対 する 激 しい 憎悪 と 同時 に 、 天皇 とか 藩 といった 組織 を 法人 と 私 はこう 考 える 。 即 ち 桓武天皇 は 自分 の 治世 他戸皇子 を 殺 して 桓武 に 皇位 を 譲 った 。 自 ら 平和 の 尊 さを 主張 する 本 を 刊行 された 。 そこ して 客観的 にみる 考 えかたがあった 。 個人 の 門人達 のネットワークが 内外 の 情報 を 迅速 に はその 光仁 の 意志 に 背 いて 同母弟早良皇子 を には 新聞 に 報道 された 記事 、 多 くのひとの 著 個人 への 忠誠 という 封建的観念 から 脱却 した ど 優 れた 著述 を 著 されている 。 皇太子 の 位 から 追 った 。 二度 の 造都 と 征夷 で 作 や 発言 が 、 法学者 らしい 丹念 さで 集 められ 近代的思考 が 当時 の 志士達 にあったというこ がどう 後世 に 伝 わるか 、 極 めて 神経質 になっ 民衆 に 負担 を 強 いた 。 これで 神経質 にならな ている 。 同時 に 始 めと 終 りに 掲 げられたト ル とを 教 えてくれる 。 よって 編纂 されたが 、 菅野真道 による 前半 に 唯 、 この 本 は 読者 に 「 だから 、 こうせよ 」 と 哲学 によって 裏 づけられていることがわかる 。 た 、 という 事 である 。 伝播 し 、 地熱 となって 変革 の 原動力 にもなっ いほうが 異常 であろう 。 ストイの 反戦論 などで 著者 の 戦争反対 が 深 い 先立 って 献上 されている 。 しかも 三五巻 から 教 えをたれるものではない 。 読者 をして 、 ど 続日本紀 の 後半二〇巻 は 、 腹心藤原継縄 に 四〇巻 、 肝心 の 部分 は 献上日不明 である 。 書 史遊会通信 No.226(9) 今年感動した三冊の本 漆 原 直 子 読 みやすい 。 が 、 私 は 著者 の 立 ち 位置 にやや つとして 出版 されている 。 ページ 数 も 薄 くて の 出版社 より 『 ふるさと 文庫 』 シリーズの 一 で 、 受 ける 感想 は 異 なるのである 。 それとも 全 く 関係無 い 第三者側 として 見 るか 征服者側 に 立 つか 、 被征服者側 に 立 つか 、 国司 が 交替 して 行 ったが 、 藤原鎌足 の 孫 であ された 。 その 後 、 石川難波麻呂 、 藤原宇合 と 当時 の 常陸国司安部狛秋麻呂 から 編纂 が 開始 は七一三年 和( 銅六年 元) 明天皇の命により、 土記は古事記とほぼ同時代に『常陸国風土記』 「 古事記 」 編纂一三〇〇年 の 年 であった 。 風 ベントを 開催 している 。 ちなみに 、 昨年 は 、 歴史資料館 では 、 それに 因 んだ 企画展示 やイ 年 の 年 にあたるとして 、 茨城県内 の 博物館 や 今年 は 「 常陸国風土記 」 編纂詔命一三〇〇 ふるさと 文庫 『常陸国風土記』そのものは 但(し、後世の改 ているとしている。一点目については、私は、 どう 移植 し 、 どう 繁栄 を 極 めてかが 記述 され る ″ ことだという 。 大和朝廷 がどんな 文化 を 〝 我 が 常陸国開拓 の 実相 を 克明 に 記述 してい 土記 と 大 きな 違 いであるという 。 二 つ 目 は 、 景 の 表現 において 文学的価値 が 高 く 、 他 の 風 ているのだが 、 文章自体 が 華麗 で 、 叙情 や 叙 述 べている 。 まず 一 つ 目 に 、 漢文体 で 書 かれ 国風土記 』 を 二 つの 点 から 高 く 評価 したいと る物を出している。著者は解説の中で、 『常陸 シリーズもので 、 他 にも 茨城県 の 地史 に 関 す 通 り 「 茨城 」 という 〝 ふるさと ″ を 意識 した ていると 、 縄文式土器 の 文様 や 吉備 の 楯築遺 文化 との 類似性 を 感 じる 。 ケルトの 文様 を 見 まで 及 ぶ 。 ケルトの 文化 は 、 日本列島 の 古代 陸部 から 西 はイベリア 半島 とアイルランドに 古代 ケルト 世界 は 、 東 はアナトリア 半島 の 内 「 大陸 のケルト 」 と 「 海 のケルト 」 がある 。 二 つの 大 きな 文化 の 流 れがある 。 ケルトにも おいては 、 ギリシャ 文化 とケルト 文化 という きれいで 、 わかりやすい 。 古代 ヨーロッパに 説書 で 、 カラー 写真 も 多 くビジュアル 的 にも これはヨーロッパのケルト 文化 に 関 する 解 神話を読む』 二、 『図説 違和感 を 覚 えた 所 がある 。 この 本 はその 名 の る 藤原宇合 と 歌人 ・ 高橋虫麻呂 らが 主 として 竄が無いとして 、)当時の北関東地方を知る手 跡 の 御神体石 の 直孤文等 と 重 なって 来 る 。 さ 文化・芸術・ 編纂 し 、 8 年後 の 七二一年 に 完成 したとされ 掛 かりとして 重要 な 史書 だと 思 うのでそれで らに 、 フランスで 出土 した BC 3 ~ 2 C の 石 ケルトの歴史 る 。 現存 している 「 常陸国風土記 」 は 、 編纂 よいが 、 二点目 の 大和朝廷 の 行 いに 対 する 評 製の「双頭の彫刻」は、飛騨国の「両面宿儺」 一、『口訳常陸国風土記』 河野辰男著 当時 の 原型 のままではなく 、 鎌倉期 までは 原 価 で 、 著者 の 立 ち 位置 が 大和朝廷側 にあると を 思 わせる 。 またヨーロッパの 地名 は 、 ケル 筑波書林 型 の 完本 があったが 、 その 後 いつの 時代 かは いう印象を受けた。私は、 『常陸国風土記』は ト 語由来 のものが 多々 あるようだ 。 ユーラシ える 上 での 重要 な 記録書 であると 思 っている 。 ア 大陸 の 極西 と 極東 という 大 きな 隔 たりはあ 河出書房新社 不明 だが 省略 されて 、 天保十年 に 省略本 を 水 日本列島史 における 先住民 、 蝦夷 の 歴史 を 考 常陸国風土記 』 は 、 茨城県下 鶴岡真弓 ・ 松村一男著 戸藩の西野宣明が整理したものだという。 この 『 口訳 史遊会通信 No.226(10) るが 、 隣人 のような 気 がする 。 角川文庫 三、『知っておきたい「酒」の世界史』 宮崎正勝著 な 視野 で 事象 を 解析 する 。 説得力 に 優 れ 、 歴史 の 捉 え 返 しを 私 に 強 い た。 祖父 の 姿 を 求 めて 、 姉弟 は 僅 かに 残 る 、 かっ 『永遠の0(ゼロ)』 百田尚樹著 講談社 参考とした本である。世界の「〝酒″の歴史」 ての 知 り 合 いを 訪 ね 歩 き 、 戦争末期 にゼロ 戦 この 本 は 十月 の 「 飲酒 の 歴史 と 飲酒 の 今日 のみでなく 、〝 酒 ″ が 歴史 をどう 動 か して 行 の 飛行士達 の 追 い 込 まれる 苦悩 を 知 ることに 昭和二十年敗戦 の 三日前 に 特攻隊 で 逝 った ったかということについてもわかりやすく 書 なる 。 やがて 祖父 の 人間愛 に 辿 り 着 き 、 深 い 的問題 」 というテーマで 発表 した 時 に 、 主 に かれており 、 しかも 要点 がしっかり 抑 えられ 感動 を 覚 える 。 ご逝去 長 い 間当会 の 事務局 をお 勤 め 頂 いた 下山田 下山田允子さん 五月下旬 から 二週間 に 渡 り 、 シルクロード ( 幹事 ) ご葬儀は近親者のみで営まれたそうです。 心からご冥福をお祈り申し上げます。 で 逝去 されました 。 が 、 去 る 十一月二十九日 、 東京船員保険病院 さんは、五月以来病気療養中でした 楊 や 紅 柳 の 群 れを 愛 しんだ 。 西域物 を 読 み 返 し 、 沙漠 を 渡 ってゆく 風 、 胡 れであった 。 当時夢中 だった 井上靖 の 一連 の ン 沙漠 の 周囲 を 旅 した 。 高校生 の 頃 からの 憧 の天山南路、西域南道に沿いタクラマカ 一連の西域を舞台にした井上靖小説群 『楼蘭』・『敦煌』・『洪水』・『崑崙の玉』 ているので 、 大変参考 になった 。 飲酒 の 好 き な 夫 にも 読 ませてみたが 、 面白 かったと 感想 を 述 べていた 。 私の三冊 神 津 眞 久 第9回小林秀雄賞朝日出版社 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 加藤陽子著 明治 から 敗戦 までの 日本 の 経済 ・ 政治 ・ 外 交を従来にない切り口で掘り起こす。 本書 は 、 肌理細 かい 資料 を 背景 に 、 世界的
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