証券界の重鎮に聞く - 日本証券経済研究所

証券界の重鎮に聞く
小貫氏が活躍された日栄証券は、お話の中にも
出てくるが、同じ野村系列のワールド証券と合併
になった小貫員義氏である。
た。今回ご登場いただくのは、日栄証券でご活躍
心にオーラルヒストリーのヒアリングをしてき
てきた。昨年は理由あって、地場証券の方々を中
証券史談を初めて、はや三年が経つ。これまで
に一九人の証券史談を『証券レビュー』に掲載し
の引き下げが目指された。こうした路線は、小貫
強化による債券営業の強化が図られ、株式依存度
は株式の委託売買依存度の高い会社であった。と
日栄証券という会社は、関東地区を地盤とし、
東北から九州まで広い店舗網をもつ会社で、元々
れていた。
業家として日栄証券、ワールド日栄証券に関係さ
―小貫員義氏証券史談(上)―
した後、ソフトバンク・インベストメントに買収
氏が社長時代も続いた。投資信託の募集や、店頭
ンベストメントに買収される平成一五年まで、創
されてSBI証券となり、現在に至っている。小
市場を中心とした中小型成長銘柄の営業に注力さ
ころが、昭和五〇年代後半から既発債売買部門の
貫氏は昭和三五年に入社され、ソフトバンク・イ
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判断に対する、トップマネジメントとしての見解
をお聞きするとともに、業界活動でも重責を担わ
れたことから、こうした二つのパートからお話を
お聞きしている。今回掲載したのは、その前半部
分 で あ り、 お 話 は 創 業 者 の お 話 を 中 心 と し て い
る。上西康之氏がなぜ証券界に入られたのか。そ
して、なぜ日栄証券の経営権を引き受けることに
摘したが、小貫氏の社長在任時以降、日栄証券が
倍の増加を見た。また、店頭株への注力を先に指
は約六億五、〇〇〇万円から一五二億円へと二三
れ、小貫氏の社長在任時に、受益証券売買取引高
支援とご協力なしには実現しなかった。ここに記
なお、今回の小貫様へのヒアリングの実施は、
立花証券代表取締役社長 石井登氏の多大なるご
栄証券近代化の取り組みを取り上げている。
かをお話しいただき、続いて、小貫氏入社後の日
なったのか。なぜ日栄証券が野村系列になったの
幹事証券となった店頭銘柄は、平成元年七銘柄、
して感謝の意を申し上げたい。
三一銘柄、平成五年四二銘柄と確実に増加してい
たのであった。
小貫氏の史談では、日栄証券のその時々の経営
― ―
110
小貫員義 氏
平成二年一六銘柄、平成三年二七銘柄、平成四年
証券レビュー 第56巻第2号
――集団取引ですね。
ジメントとしての見解をお聞きしたいと思いま
られたわけですけれども、日栄証券のトップマネ
のSBI証券〕に入社されて、最後は経営者にな
ます。今日は前半では、小貫様が日栄証券〔現在
――さっそくですけれども、始めさせていただき
ある上西康之が再建を依頼されまして、それで、
前、山種さんのところで専務をやっていた岳父で
と て も 忙 し く、 自 分 は で き な い と い う の で、 戦
そうです。ところが、山種さんも取引所再開前で
種二さんに、田中証券を救済してくれと依頼した
ンバンクの日本信託銀行が、親しくしていた山崎
創業者・上西康之の歩んだ道
す。それから後半では、証券界でいろいろな公職
田中証券の経営に参加することになったんです。
引所が再開する前に日証館で店頭取引が行われて
小貫 日栄証券の前身は田中証券といいまして、
明治四〇年に創業した会社なんです。終戦後、取
しょうか。
な会社だったのか、少しお聞かせいただけますで
か。
とになったのかをお話ししてよろしいでしょう
小貫 ええ、戦前ですね。ちょっと話がそれるか
もしれませんが、創業者がなぜ証券に関係するこ
らっしゃったわけですね。
―― と い う こ と は、 上 西 さ ん は、 昔、 山 種 に い
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小貫 ええ。そのときに田中証券は何か施策に失
敗して、経営不振に陥ったんですよ。それでメイ
におつきですので、そのときのご経験をお聞きし
いたでしょ。
たいと思います。まずは、日栄証券とはどのよう
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(上)―
証券レビュー 第56巻第2号
――よろしくお願いいたします。
小貫 創業者は、明治三四年七月一〇日に奈良県
吉野郡吉野町の国栖という村で生まれました。谷
崎潤一郎の『吉野葛』に出てくるあの辺りの村な
んです。そこで生まれまして、畝傍中学、関西大
学第一高等学校を出て、早稲田大学に入ったんで
す。しかし、体調を崩しましてね。早稲田大学を
中退して、吉野の実家へ帰ったんです。創業者の
家は、林業をやっている傍ら、吉野銀行という小
さな銀行を経営していたんです〔吉野銀行は明治
二八年八月の設立で、吉野郡下市町に本店を置い
ていた銀行〕。それで、父親が創業者のために、
和歌山に材木問屋を出してくれたんですね。それ
で、創業者は材木問屋を始めたんです。他方、実
家の吉野銀行は、昭和のパニックの後に「一県一
行主義」が採られましたでしょ。それで、奈良県
にあった数行が大合同して、南都銀行になったん
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証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(上)―
です〔南都銀行は、昭和九年六月に御所銀行、八
木銀行、吉野銀行、六十八銀行が合併して設立さ
れた〕。
――南都銀行ですね。
小貫 ええ。昔は、土地のお金持ちがちょっとし
た 銀 行 を 作 っ て い ま し た か ら、 い ろ ん な 銀 行 が
あったと思うんですけれども、とにかく吉野銀行
は南都銀行になったんです。一方、東京から実家
に帰った創業者は、先ほども言いましたように和
歌山で材木問屋をやっていたわけですが、二〇代
の 前 半 で 関 東 大 震 災 に 遭 遇 し た ん で す ね。 そ れ
で、鈴木商店と組んで、吉野の杉をどんどん関東
地方へ送ったわけですよ。
――関東大震災の後の復興に向けて…。
小貫 ええ。あのころは、木材が復興需要のため
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証券レビュー 第56巻第2号
に暴騰していたんですね。一本三〇銭の材木が、
二円五〇銭ぐらいまで約八倍暴騰したそうです。
創業者は二〇万本扱いまして、当時のお金で五〇
万円儲けたんだそうです。それで、和歌山に湊御
殿と呼ばれるような総ヒノキ造りの豪邸を建てた
んです。私の家内もそこで生まれたんですけれど
も、ただ、昭和五年の世界恐慌で、材木問屋が破
産しちゃったんです。それで、私の家内や家族を
全部吉野の実家へ送って、自分は単身で東京へ出
てきたんですね。
――小貫様の奥様が、上西家のお嬢さんだったわ
けですか。
小貫 そうなんです。創業者には三人の子どもが
いまして、家内は長男、次男の間に生まれた長女
なんですよ。話がそれましたが、創業者は材木問
屋が破産した後、東京へ出てきたわけですが、当
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たんです。
ができたので、山種さんに頼まれてそこへ入社し
そして、昭和八年八月に山崎種二商店株式仲買部
を馳せていた山崎種二さんと知り合ったんです。
す。そのときに、若いけれども相場師として勇名
結 局、 蠣 殻 町 辺 り で 米 相 場 を 張 っ て い た そ う で
時は不況ですから、何も定職がないわけですよ。
知って、そこで、新潟市場が閉まるまで思いっき
み る と、 ま だ 新 潟 だ け は 場 が 立 っ て い る こ と を
二・二六事件の勃発で株は大暴落しましてね。
しかし、その日、創業者が会社へ出てきて調べて
種さんと一緒になって売ったわけですね。
です。創業者は当時、営業支配人でしたので、山
れ以上売れない」というところまで売っていたん
ため、山崎種二商店は株式仲買部を作って、従来
い上げるようになり、米相場は機能停止になった
穀統制法が施行され、政府が公定相場でコメを買
ら株式へ転身されたんですよ〔昭和八年の秋に米
――米の統制が始まったころに、山種さんは米か
じている」として憲兵隊に拘引された〕。
売りし、大儲けした山崎種二氏は、「反乱軍と通
も…〔二・二六事件勃発直前に新東株を大量に空
山種さんは憲兵隊に捕まっちゃったんですけれど
営基盤がそのときに強化されたんですね。ただ、
まではいかないですけれども、山崎種二商店の経
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り売ったそうです。それで、大儲けして、盤石と
の米取引から株式取引に転身した〕。
小貫 ええ、そんなことがありましてね。その功
――そうでしたね、たしか。
さんは「売って、売って、売りまくって、もうこ
小貫 そうです。そして、創業者が入社して二年
目に二・二六事件が起こりました。それまで山種
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(上)―
役になったんだそうです。そういうことで、創業
人とか、関係する人が占める中で、創業者は取締
になったんです。周りはみんな山種さんの身内の
績で、山崎種二商店へ入社して三年目には取締役
和二四年に田中証券の…。
常に会社の業績はよかったんです。ところが、昭
ローリングを作って販売したんです。だから、非
こにフローリングを敷いていたので、創業者はフ
店から山崎証券に名称を変更した〕におりまし
――経営破綻…。
者は終戦まで山崎証券〔昭和一九年に山崎種二商
て、山種さんの右腕として活躍したんです。
ら、石山さんに頼まれて、そこの社長になったん
木 の 知 識 が あ る し、 証 券 の 仕 事 は あ り ま せ ん か
う会社があったそうです。創業者は吉野出身で材
吉さんが関係している、深川に木材乾燥工業とい
学をされたりしていたんだそうです。その石山賢
吉さんと非常に親しくされていて、一緒に工場見
山種さんは「ダイヤモンド社」の創業者の石山賢
しかし、終戦を迎えますと創業者は、一旦証券
の世界から材木の仕事に戻るんですね。それは、
材〔工業〕に買い取ってもらって、それで田中証
さんを通じて、木材乾燥工業の株を全部、三井木
らっしゃったんだそうです。ですから、水上達三
さ ん と 縁 戚 関 係 に あ っ て、 非 常 に 親 し く し て い
に三井物産の社長をされた水上達三さんが、山種
で、木材乾燥工業との両立は難しい。そこで、後
さんの依頼ですから、断ることもできない。他方
ていたんでしょうね。また、他ならぬ恩人の山種
券業務をやっていましたから、証券に魅力を持っ
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小 貫 う ん。 そ れ で、 再 建 の 依 頼 を 受 け た ん で
す。先ほど申しましたように、創業者も戦前、証
です。当時、進駐軍は日本家屋の畳を上げて、そ
証券レビュー 第56巻第2号
小貫 ええ。それで、昭和二四年五月に依頼を受
けて、田中証券に入って、七月には商号を日栄証
中証券を譲り受けたわけですね。
――木材乾燥工業を売却して手にしたお金で、田
券を三五〇万で譲り受けたんです。
も田中証券についていたお客さんなのでしょう
に外交していたお客さんなのでしょうか。それと
ですけれども、当時、御社がお客さんにされてい
――昭和二四年に田中証券を引き受けられるわけ
順調に来たわけです。
たのは、創業者が山崎証券にいらっしゃったとき
券に変えたわけです。
陶を受けただけあって、それ以後、自分の処世を
けれども、山崎種二商店に入って、山種さんの薫
小貫 こうして田中証券を再スタートさせたんで
す。創業者は若いときは相場を張っていたんです
――商号変更されたわけですね。
して創業した老舗で昭和一一年五月二一日、田中
うのは、明治四四年に有限会社田中亥三郎商店と
中証券は歴史がありましたからね。田中証券とい
小貫 それは、元々田中証券のお客様だった方々
だと思いますね。先ほども申しましたとおり、田
顧客を獲得されたんでしょうか。
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か。どちらなのでしょう。それとも新たに外交で
ガラッと変えたんです。当時の証券業界では異色
証券株式会社になったんですよ。
満々として徹底的に仕事に打ち込んだようです。
それで、負債を二年ですっかりなくして、爾来、
――もともとのお客さん…。
と 言 わ れ る よ う な、 堅 実 経 営 を 目 指 し て、 闘 志
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(上)―
――ああ、そ うですか。「売りの近藤紡 」ですよ
玉をとってきていましたから、創業者は伊藤忠の
同時に先物でヘッジするでしょう。そういう法人
です。丸紅とか伊藤忠とかは綿花を輸入すると、
山崎繊維というのは、繊維取引では大手だったん
らでしておくことで、ヘッジしていたんですね。
社を作って、証券での収益の変動を商品取引を傍
の枠もそんなに大きくないでしょ。
た。そうすると、うちなんか小さいから信用取引
は 信 用 取 引 で や る わ け で す が、 金 払 い が 悪 か っ
必ず日栄証券が出るんですよ。ところが、近藤紡
に毎日の大きな手口は出るんです。そうすると、
小貫 うん。近藤紡は一回で一〇万株とか、二〇
万株の取引を出してくるんです。当時、日経新聞
ね。
越後〔正一〕さんたちと非常に親しくしていたん
創業者の偉いところは、ある時点でバサッと近
藤紡の注文を切っちゃったの。それが日栄証券の
小貫 ええ。田中証券から引継いだ顧客に加え、
少しずつお客様を増やしていったんですね。創業
で す よ。 ま た、 近 藤 紡〔 近 藤 信 男 氏 〕 と も 親 し
次の発展につながったと思います。というのも、
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者の偉かったのは、山崎繊維と日栄米穀という会
かった。
すから。その頃に、我々が入ったわけですよ。で
それ以来、個人営業を地道に広げていったわけで
――ああ、名古屋の…。
増やす。相場も「証券よ、こんにちは」と言われ
たように、よくなってきて、証券の時代になった
すからそれ以来、社員の意識改革をやる。社員も
小貫 近藤紡は日栄証券の大口のお客様だったん
ですよ。
証券レビュー 第56巻第2号
守しましたから、着実に利益を増やしていったん
と伸びていったんですよ。そして、堅実経営を固
でしょ。それと歩を合わせて、日栄証券もグーッ
小貫 それは、創業者が昭和三五年に、アメリカ
の 証 券 市 場 を 視 察 に 行 き ま し て ね。 そ れ ま で は
うか。
ね。それはどういった経緯で入社されたのでしょ
ですね。
――じゃあ、機関店のような仕事もされていたん
かし、アメリカの証券市場を視察すると、
「あぁ、
の経営者には向かないと考えていたようです。し
〔上西泰蔵氏〕が、日本冷蔵〔現在のニチレイ〕
に、日栄証券の監査役になっているんですよ。
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「生き馬の目を抜く兜町」では、学卒は証券会社
だけれども…。
これは日本の証券界も変わる。証券会社も近代化
――それを解消して個人営業を開拓していったん
にいたんですね。
――ニチレイですね。
――小貫様は大学をご卒業後、横浜ゴムに就職さ
当時、正月には創業者の自宅へ役員を呼んで、
小貫 ええ。当時の日栄証券は、完全な創業者の
ワンマン会社ですから、私も家内と結婚した翌年
れ て、 そ の 後、 日 栄 証 券 に 入 社 し て お ら れ ま す
日栄証券入社の経緯
小貫 それが創業者の偉いところです。
ですね。
しなきゃいけない」と考えを改めたようで、長男
小貫 近藤紡のね。
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(上)―
あった会社が、「テクニシャンを派遣してくれれ
るとき、インドのボンベイ〔現在のムンバイ〕に
自社製品を東南アジアに販売していたんです。あ
当時、今の双日の前身の日綿実業を窓口にして、
帰ってきたところだったんですよ。日本ゼオンは
に 入 っ て、 日 本 ゼ オ ン に 出 向 し て、 イ ン ド か ら
当時、私も仕事を一つやり遂げたところでして
ね。というのは、私は元々技術屋として横浜ゴム
す。
券を大きくしてもらいたい」と言ってきたんで
義兄と私に「日栄証券の経営に参画して、日栄証
ように、アメリカ視察から帰国した後、創業者は
員との交流はあったんですね。先ほど申しました
加していましたから、そのころから日栄証券の役
新年のお祝いをやっていたんです。私や義兄も参
待を受けたんですよ。
若造が、日綿実業の社長から、非常にご丁寧な接
寄ってほしい」と呼ばれましてね。三三、四歳の
ら、 福 井 社 長 か ら「 帰 り に ぜ ひ ニ ュ ー デ リ ー に
してね。そして、私が仕事に成功したものですか
が帰るときに、福井社長がインドに来られていま
らっしゃったんだそうです。それで、たまたま私
長さんが、日綿実業がインドから綿花を輸入して
業の中興の祖と言われる、福井慶三さんという社
約 半 年 間、 ボ ン ベ イ で 技 術 指 導 を し た ん で す
が、結果は非常に成功しましてね。当時、日綿実
技術指導に行ったんです。
本ゼオンに出向して、ボンベイの会社へ約半年、
三、四歳だったんですけれども、同じ古河系の日
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いるんで、毎年三月に定期的にお見えになってい
ば、製品を試験的に使ってみてもいい」って言っ
また、日本に帰ってきてからも、日本ゼオンの
社長がボンベイでの成功を非常に喜んでくれまし
た そ う な ん で す ね。 そ れ で、 当 時、 私 は ま だ 三
証券レビュー 第56巻第2号
月に入社しまして、義兄と力を合わせて会社の近
頑張ってみようか」と思いまして、昭和三五年九
度は日栄証券に入って、証券会社の近代化に一つ
者から誘われたものですから、「それじゃあ、今
ようになっていたときだったんです。そこへ創業
使命も、まぁまぁ何分の一かは果したかなと思う
す。ですから、私もこれで一応、技術屋としての
て ね。 ボ ー ナ ス を 弾 ん で く れ た り し て い た ん で
何でも出来る「芳栄商事」という会社を作ったん
の会社を廃業した際に残った財産で、葬式以外は
ただ、両社とも内容はよかったものですから、そ
したから、私たちの進言を聞いてくれましてね。
いしたんですね。創業者は割合器量の大きな人で
を廃業して、証券一本でやってもらいたいとお願
これはどうかなと思ったので、創業者にその二社
米穀が同居していたんですよ。我々は、ちょっと
あったんですけれども、同じ階に山崎繊維と日栄
ですね。
代化に取り組んでいくんです。
日栄証券の近代化
――ホウエ イというのは、「豊」に「栄 える」で
小 貫 「 芳 し い 」 に「 栄 え る 」 と い う。 吉 野 の
「吉」をもじって名付けたんですね。次に、社員
すか。
められたのでしょうか。
ね。というのも当時は、創業者のワンマン会社で
の意識を改革しなきゃいけないと考えたんです
小貫 まず業務の一本化から始めました。という
の は 当 時、 日 栄 証 券 は ビ ル の 一 階 に 営 業 窓 口 が
⑴ 兼営業務の廃止と社員の意識改革
――近代化というのは、どういったところから始
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(上)―
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小貫 ええ。しかし、ワンマン会社では近代化で
き ま せ ん か ら、 社 員 の 意 識 改 革 に 着 手 し た ん で
――無限責任ですね。
なっちゃうんですから。
し 会 社 が お か し く な っ た ら、 自 分 の 財 産 が な く
要なんですよ。だから、社長も必死ですよね。も
からの融資を受けるときも、社長の個人保証が必
会社ですし、規模も小さな会社でしたから、銀行
は無理もないことなんですけれどもね。そういう
すから、みんな社長を見ているわけですね。それ
えたんです。
たい、「日栄にしよう」というので、「日栄」に変
当時は、場立ちが伝票を書くときに、皆この屋
号を書いていたでしょ。それを「サシロク」って
ク、サシロク」と言うんです。
は 今 で も「 日 栄 証 券 」 と 言 わ な い で、「 サ シ ロ
ていただいていたんですけれども、越智通雄さん
係で、創業者も福田さん、越智さんと親しくさせ
らっしゃって、応援されていたんですよ。その関
と で、 山 種 さ ん が 福 田 さ ん と 非 常 に 親 し く て い
さんの娘婿の方なんです。群馬の同県人というこ
小 貫 そ の こ ろ の 話 で す ね。 そ れ か ら、 我 々 が
入 っ た こ ろ は、「 銀 行 よ、 さ よ う な ら。 証 券 よ、
⑵ 学卒者の採用
――それは昭和三六年ごろのお話ですか。
いうのは、我々にとっては、いかにも受け入れが
す。まず、創 業者と三人で相談し まして、「和心
越智道雄さんってご存知ですか。福田〔赳夫〕
「日栄」に屋号も変えたんです。
ら「 サ シ ロ ク 」 と 言 っ て い た ん で す が、 そ れ を
作りました。日栄証券の屋号は、田中証券時代か
一体」という社是を作ったんです。社旗と社章を
証券レビュー 第56巻第2号
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当応募が来ましてね。六〇人を採用したんです。
三六年に遅まきながら大卒を募集しましたら、相
こんにちは」という時代でした。ですから、昭和
にかくお客様を大事するとともに、創業者の考え
りしました。我々は小さな証券会社ですから、と
て、顧客とのコミュニケーションを図ろうとした
――六〇人とはまた大量に…。
金も私達が入社したときは、二億五〇〇〇万だっ
きたんです。お渡しした資料に、昭和三六年以降
を引き継いで、堅実経営を旨にした経営をやって
小貫 ええ。当時の社員が一二〇人ぐらいでした
から、相当な数ですよね。それで、彼らが四月に
たんですが、昭和三八年に五億円に増資をしてい
てね。当時、技術革新の盛んなころでしたから、
になっちゃったんですか。
――ああ、そうですか。じゃあ、一〇〇人ぐらい
― ―
123
の業績の推移をまとめてありますけれども、資本
入社しますと、秋谷に健康保険組合の保養所があ
ます。
――そのあと不況が続いたと思いますが、従業員
小 貫 大 分 辞 め ま し た。 四 〇 人 ぐ ら い 辞 め ま し
数は、そのときに大分減りましたか。
光」という社内報を出しまして、社員のコミュニ
た。
新 製 品 の 紹 介 と か、 参 考 銘 柄 と か を こ れ に 載 せ
では月刊で「調査レポート」というのを作りまし
ケーションを活発化させました。それから、営業
それも、義兄と私が主として担当して、外部か
ら の 講 師 を 呼 ん で や り ま し た。 さ ら に は、「 栄
て、缶詰めで研修するんですよ。
るでしょう。新入社員をそこへ一週間連れて行っ
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(上)―
まぁ、そんなことで、創業者はその後、義兄に
社長を譲ったんですよ。そのあたりから、創業者
た。
なったわけですけれども、四〇人ぐらい辞めまし
えって経費が少なくなって済んだということにも
ま し た ね。 ま ぁ、 経 営 上 も 赤 字 で し た か ら、 か
それほど減りませんでしたけれども、辞めていき
た新入社員を採っていましたから、トータルでは
小貫 昭和三八年かな。そのころにガッと辞めま
したけれども、毎年何人かずつ、高校、大学を出
――そうです。
小貫 そうですね。不況になったのは昭和三七、
八年ですよね。
心なんですけれども、度量の大きい、そして決め
大きく打てば大きく響く名鐘のような、非常に細
ち ょ っ と 破 格 の 勲 三 等 を い た だ い た ん で す ね。
創業者は昭和四五年、七〇歳になったとき、勲
章をもらったんですけれども、あのころとしては
た。
を継いで、中小証券のまとめ役として活躍しまし
すから、山種さんが引退された後、山種さんの跡
人たちの意見をまとめる腕前があったんです。で
小貫 そうですね。創業者は若いときに大変な苦
労をしましたから、非常に人間的にも味のあると
にしていかれるわけですか。
――そうして創業者の康之氏は、業界活動を中心
から我々が一応経営を引き継いだ形になってくる
たら大胆に実行に移すという豪気な人柄で、証券
我々から見ていると、小さく打てば小さく響き、
業界でも非常に信頼を得ていましたし、親しまれ
― ―
124
いうか、それから、非常に独特な口調で、業界の
わけです。
証券レビュー 第56巻第2号
なったんですね。その中でも、うちはそれ以前か
⑶ 免許申請と堅実経営
――なるほど。そして、免許の申請になるかと思
資本金を五億円にした会社もありましたので、随
も、免許制導入の直前になって、倍額増資をして
ていたわけです。
い ま す が、 株 式 を 収 益 の 中 心 に 据 え て い る 会 社
分苦労された会社もありました。そこと比較する
ら資本金を五億円にしていましたし、業績も堅調
は、免許の申請にかなり苦労されたようですが、
と、当社の場合はそれほどの苦労もなく、免許基
でしたからそう苦労もしなかったんですけれど
御社の場合は株式中心とはいえ、堅実な経営をさ
準をクリアできたと思うんです。
三菱UFJモルガン・スタンレー証券〕、小柳証
です。あのときは水戸証券とか東光証券〔現在の
しょ。ですから、免許申請をした年の一二月に、
定 を、 全 国 の 部 店 長 に 徹 底 し な き ゃ い か ん で
小貫 まぁ他社ほどの苦労はなかったと思います
ね。ただ、免許申請をするにあたって作った諸規
― ―
125
れ て い た の で、 そ れ ほ ど ご 苦 労 も な か っ た で す
――免許申請に関しては、ご苦労は特になかった
券〔 現 在 の 三 菱 U F J モ ル ガ ン・ ス タ ン レ ー 証
鎌倉の円覚寺で三日間、全国部店長研修会を開き
わけですか。
券〕、それからうちと、千代田証券〔現在のむさ
ました。なぜ円覚寺なんだと思われるでしょ。円
くても、免許申請をできるだけの体力はあったん
し 証 券 〕 は、 資 本 金 五 億 円 で、 本 省 直 轄 会 社 に
小貫 そうですね。免許制を迎えるときは、堅実
経営に徹していましたから、そんなに無理をしな
か。
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(上)―
開いたんですけれども、朝五時に起きまして、ま
んです。そんな関係もありまして、そこで研修を
覚寺の朝比奈宗源師の長男がうちのお客様だった
て、翌年の免許制を迎えたわけですね。
員服務規定とか、そのほかの諸規定を勉強しまし
からね。ですから、社長以下役員も三日間、営業
事をして、同じ修行道場で、営業員服務規定を中
がりましたね。御社の利益もかなり上がっていま
――そうですか。免許制になってから、相場が上
ず朝比奈宗源師の講話を聞くんです。それから食
心に、営業方針とかを研修するんです。
――証券会社の経営者の方で、理系の方というの
― ―
126
すね。
受 け た と き に、 新 た な 気 持 ち で ス タ ー ト し よ う
は珍しいかと思うのですけれども、理系であった
小貫 順調に来たわけです。
と、それなりの意義のある研修じゃなかったかと
が 故 に、 特 色 を 出 せ た こ と と い う の は あ る の で
小貫 技術屋出身である私が、自分の能力を生か
すために手がけたのは、法人部および債券部を作
しょうか。
年ぐらいのことですね。
が技術屋さんの優良企業を紹介してもらって、そ
りましてね。そして、銀行や他の会社から、社長
小貫 ええ。免許の申請に合わせて作ったいろい
ろな規定を、部店長に徹底する必要がありました
――免許申請当時のことですから、昭和四一、二
思います。
ね。これを三日間続けまして、来たるべき免許を
そして、午後になると社長以下、庭などの掃除
もしましたし、夕食後も座禅堂で座禅をしまして
証券レビュー 第56巻第2号
産電機といったところの幹事を獲得したんです
ネクス〕、パシフィック航業〔現在のパスコ〕、国
薬、日本サーボ、加藤スプリング〔現在のアドバ
ですが、当時、株式の方は大和ハウスとか久光製
部は三菱地所の社債の引き受けから始まったわけ
そこで、私は昭和三五年九月に入社して、昭和
三六年に法人部と債券部を作ってもらって、債券
合うでしょう。
ら、相手の企業も技術屋は珍しいといって、話も
由利〔裕三〕君と私の四人しかいなかった。だか
そして青山小学校、府立一中で同期の金十証券の
の平原〔聡宏〕さんと金万証券の南波二郎さん、
身の人というのは珍しく、その当時は、平原証券
しゃったように当時、証券会社の役員で技術屋出
ういうところをフォローしていったんです。おっ
を得たいなと思っていましたから…。
て、どうしても自分の実力を示して、社員の信頼
うことだけでは、社員の信頼も得られないと考え
収益が倍増したんです。私は、上西の一族だとい
ら、私が入って二年目、三年目くらいに、うちの
か ら 四 倍 ぐ ら い で 寄 り つ き ま し た か ら。 で す か
それを売って、売買益がバカッと出たということ
に分配した残りを手持ちしておいて、公開当日に
らえたわけです。当時は引受株式のうち、お客様
れるんです。ですから、二割くらいのシェアをも
から我々のような中小が一社か二社、副幹事に入
引受手数料というのは、当時、委託手数料の三
倍ですし、また、あのころは四社が主幹事、それ
が上場しています。
もありましたよね。大体、公開株というのは三倍
が、 こ れ は み ん な 経 営 者 が 技 術 屋 出 身 な ん で す
そういうことで、技術屋という経歴を生かして
引 き 受 け で 成 功 し た も の で す か ら、 創 業 者 が 当
ね。昭和三六年後半ぐらいから、そういうところ
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(上)―
― ―
127
うちの業績が上がった」と言ったものですから、
証券は公社債専門の会社だったでしょ。
小貫 ちょっと時期は遡るんですが、野村証券が
戦前に東京へ出てきましたよね。それまでは野村
時、山種さんに「うちの小貫がこういうことで、
山種さんが創業者に「一度、小貫さんに来るよう
れで、私が挨拶に行ったら、山種さんは「日栄の
――はい、戦前はそうでしたね。
に言ってください」とおっしゃったんですね。そ
実力者」とおっしゃって下さいました。
――東京の久保田証券と大阪の吉川証券を買収し
小貫 元々は公社債専門の会社だったんですけれ
ども、東京へ出てきて株式課を作ったんです。
がなかったとは言えませんよね。
て、作りましたね。
れたわけですね。少し話は変わりますが、御社は
しょうけれども、非常に堅実な経営に徹してこら
――なるほど。ということは規模は小さかったで
村さん、瀬川さん、北裏さんは三人とも関西の人
券に株の注文を取りに行っていたんです。この奥
業者は山崎証券の営業担当の役員として、野村証
が北裏〔喜一郎〕さんだったんだそうですよ。創
野村系列となる由縁と社長派遣
野村証券と親密な関係にありましたけれども、両
なんですよ。奥村さんが滋賀県、北裏さんが和歌
小貫 その当時、野村証券の株式課の課長は奥村
〔綱雄〕さん、係長が瀬川〔美能留〕さん、主任
者の関係はなぜ始まったんでしょうか。
― ―
128
技術屋出身であったことで、技術的な話も分か
りますから、その点では他の人よりは得をした面
証券レビュー 第56巻第2号
の出身なんですね。そんなことで、瀬川さんとは
山県、それから、瀬川さんは何と奈良県の吉野郡
小貫 ええ。
――そうですよね。
ですから、創業者が田中証券を引き受けるとき
に、野村証券に一割、それから瀬川さんにも個人
という感じがしましたけどね。
御社のように堅実な経営で、非常によく似ている
本当に肝胆相照らす仲になったんですね。
的に株を持ってもらったんです。こうして、日栄
和三二年一一月に大阪日栄証券を合併し、日栄証
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129
――大阪のいちよし証券〔当時は一吉証券〕も、
証券は野村系になったわけです。私も、後々考え
小貫 そうですね。いちよしさんもうちも三和銀
行〔現在の東京三菱UFJ銀行〕がメインで、昔
――でしょうね。何か非常によく似た経営方針だ
て み て も、 四 社 の 系 列 に 入 る の な ら ば、 野 村 系
――なるほど、そうですか。お話を伺っています
なぁと思いまして…。
から非常に親しいんですよ。
と、証券業界の序列としては、大手四社、投信一
だったことはよかったなと思っています。
〇 社、 運 用 五 社 と い う 言 葉 が あ り ま し た け れ ど
も、御社は運用五社の次ぐらいに位置される、か
なり堅実な証券会社でしたよね。
小貫 そうです。資本金五億で、本省の直轄会社
ですから。
――大阪日栄証券という会社がありましたね〔昭
小貫 後ほどちょっと触れようと思ったんですけ
ど、うちは大阪に支店があったんです。
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(上)―
年九月、大阪証券取引所職員のみを組合員として
よ。それで創業者が頭にきたわけです〔昭和三五
た 五 人 が、 日 栄 証 券 の 一 般 分 会 を 作 っ た ん で す
小貫 ええ。昭和四〇年だったと思いますが、大
阪支店に組合ができまして、それで、市場部にい
券大阪支店とした〕。
会長が、いちよしさんの社長だったんですね。
越すことになったんです。そのときの大阪の地区
んが「そこへどうだ」ということで、そこに引っ
阪支店が移転して、空いたものですから、瀬川さ
また、大阪駅前の阪神ビルにあった野村証券の大
ことをパッとやるほうなんで、市場部の五人が組
の 五 人 は、 大 阪 証 券 労 働 組 合 に 加 入 し、 分 会 を
て新発足した。小貫氏がお話になっている市場部
働者に組合員資格を与え、大阪証券労働組合とし
合と合併の際、原則として大阪地区の証券関係労
見たらいいんじゃないか」と言ってくださったん
を執行すればいいから、そうしてしばらく様子を
小貫 ええ。それで福田さんが、「協会員 として
大阪に残れば、あとは会員業者を窓口にして注文
――ああ、福田堅一郎さんじゃないですか。
合を作ったら、大証の会員を脱退したんですよ。
いた大阪証券取引所労働組合が、大証仲立会員の
作ったものと推測される〕。
――激怒されたんですね。
――これはいつごろのお話ですか。
たんですよ。
です。それで、うちは協会員として大阪には残っ
小貫 ええ。当時、淀屋橋にうちの支店があった
んです。創業者というのは、なかなか思い切った
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130
従業員によって組織されていた全仲立証券労働組
証券レビュー 第56巻第2号
大阪の組合って物すごく強くてね。まぁ、しか
し、福田さんがとりなしてくださったから、うち
証券取引所の会員を脱退している〕。
ます〔日栄証券は、昭和四〇年一月二二日に大阪
ら、おそらく昭和四〇年ぐらいじゃないかと思い
小貫 私が社長になったときに、大証の会員に復
帰 し た わ け で す け れ ど も、 そ の 二 〇 年 前 で す か
して、日本冷蔵を辞めて、日栄証券に入るわけで
いますから、それで日本冷蔵に入ったんです。そ
から「日本冷蔵に来ないか」と誘われたんだそう
経験を買われて、日本冷蔵の木村〔鉱二郎〕社長
らも、全国の港をほとんど回ったみたいで、その
採っていませんし…。そして、水産庁に行ってか
というのは珍しかったんです。もちろん公募では
は大阪に残ったんですよ。いちよしさんも非常に
すが、非常に勉強家で、業界ではプロフェッサー
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131
です。慶応出身では、役人としては将来が知れて
業績のいい会社ですよね。
と言われるくらい…。
ポートを出してもいます。それから、二世、三世
――学者肌の方なんですね。
小貫 義兄はなかなか理想主義の方で、戦後の食
糧事情を改善するのに、「俺が先頭に立って」と
の 懇 親 の 場 で あ る「 三 和 会 」 と い う の が あ る で
ていると思いますよ。話が少し戻りますが、ご長
いうぐらいの気概を持っていたんで、まず農林省
しょう。三和会は懇親の場ですから、どうしても
男さんが社長になられたわけですが…。
に入ったんですよ。当時、慶応義塾大学から役所
小貫 ええ。例えば信用取引でも、徹底して信用
取 引 の 仕 組 み を 調 べ る ん で す ね。 そ う し て、 レ
――堅実な会社ですね。御社と経営体質がよく似
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(上)―
しごかれて」なんて言われたこともありましたけ
ある社長からは「いやあ、上西さんには徹底的に
宿題を出して、それを添削するんだそうですよ。
会もやりましてね。私の聞いているところでは、
というのを作って、自分よりも若い人たちと勉強
じゃダメだというので、三和会に「業務研究会」
遊 び が 主 に な っ て い た ん で す よ ね。 で も、 こ れ
さ ん が 五 年 ぐ ら い 社 長 を や り ま し た ね。 で す か
退任して会長に就任するわけです。その後、後藤
んに来てもらいましてね。それで、義兄は社長を
まして、創業者が瀬川さんに頼んで、後藤昭治さ
野村証券から社長を迎えようかということになり
も、野村証券から情報をもらうためにも、一度、
ら、野村証券は「情報の野村」と言われるけれど
で は 一 体 ど ん な 営 業 を や っ て い る の か。 そ れ か
小貫 昭和四五年ぐらいから社長をやって、六、
七年やったと思います〔上西泰蔵氏は、昭和四六
のでしょうか。
さんに社長が代わられたのは、いつごろのことな
――先代の社長さんがお辞めになられて、ご長男
なったんです。ところが、昭和五九年秋に、野村
が、 そ の 後、 会 長 が 亡 く な っ た と き に、 会 長 に
義兄はその後、協会の理事として活躍しました
が、残念ながら昭和五九年にガンで亡くなったん
創業者は相談役になったわけです。
― ―
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れども…。
年に社長に就任し、昭和五三年一一月まで約八年
証券から、後藤さんを「いちよし証券の社長に迎
ら、その間は義兄は会長になって、私が副社長、
間、社長を務められた〕。先ほども申しましたよ
えたい」と要請されまして、後藤君は、いちよし
です。先ほど、私は副社長になったと言いました
うに、うちは野村証券が大株主でした。野村証券
証券レビュー 第56巻第2号
が、社長になって、その後、四年半社長を続けた
証券に移ったんです。それで会長になっていた私
す。
んも、後谷さんの後を継ぐ社長がいなかったんで
んですね。
ね。ただ、当時の社長は後藤君でしたから、創業
も私を代表者にしたいという考えがあったんです
亡くなりましたから、創業者としては、どうして
いて、次に、義兄にそれを譲ったけれども、先に
りましたでしょ。創業者がもちろん代表者で来て
小貫 ええ。そういうことなんです。私が会長に
なったのは、この業界には代表者という制度があ
ご経歴なんですね。
がいちよしさんへ行き、私がその後、社長に就任
えないか」とおっしゃってこられたので、後藤君
淵節也氏〕が私に「後藤をいちよしに出してもら
なかったようなんです。それで、大田淵さん〔田
の人の年次も踏まえて検討すると、後藤君しかい
副社長も野村証券から来られた方でしたから、こ
いなかったらしいんです。当時、いちよしさんの
小 貫 え え。 そ れ で、 後 谷 さ ん が 野 村 証 券 に、
「社長を出してほしい」と頼みに行かれたような
――後谷良夫さんですね。
者 が 瀬 川 さ ん と 相 談 し ま し て、 私 が 会 長 に な っ
したわけです。だから、会長を務めた後、社長に
――そういうご事情で副社長、会長、社長という
て、代表者になったわけです。
ね。
就任するというちょっと変わった経歴なんです
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んですけれども、野村証券にもすぐに出せる人が
しかし、野村証券が後藤君をいちよし証券の社
長にしたいと要請してきたんですね。いちよしさ
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(上)―
大田渕さんとは大正一二年の同年生れで業界の
同年生れの役員一〇数名で「癸亥会」〔田淵節也
氏が会長を務めた〕を作り、ゴルフ等の懇親会を
年 数 回 催 し、 大 変 親 し く さ せ て 戴 き ま し た。 現
在、生存者は石井久さんと私だけになりました。
アリングの内容をまとめたものである。文責は
当研究所にある。
※ なお、括弧内は日本証券史資料編纂室が補足
した内容である。
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※ 本稿は、二上季代司、小林和子、深見泰孝が
参加し、平成二七年八月三一日に実施されたヒ
証券レビュー 第56巻第2号
証券界の重鎮に聞く ―小貫員義氏証券史談(上)―
小 貫 員 義 氏
略 歴
大正12年5月21日 北海道出身
昭和21年9月 慶應義塾大学工学部卒業
昭和21年10月 横浜護謨製造株式会社入社
昭和30年5月 日栄証券株式会社監査役
昭和34年9月 日本ゼオン株式会社出向
昭和36年5月 日栄証券株式会社取締役
昭和37年11月 同社常務取締役
昭和42年11月 同社専務取締役
昭和48年11月 同社代表取締役副社長
昭和59年3月 同社代表取締役会長
昭和59年5月 東京商工会議所金融部会常任委員(~平成11年6月)
昭和59年11月 日栄証券株式会社代表取締役社長
昭和62年10月 日栄証券(亜州)有限公司会長(~平成元年6月)
昭和62年12月 東証正会員協会協会員理事(~平成元年6月)
昭和63年11月 社団法人公社債引受協会理事(~平成2年6月)
昭和63年11月 公社債引受同友会代表幹事(~平成2年6月)
平成元年6月 日栄証券株式会社代表取締役会長
平成元年7月 東京証券取引所会員理事(~平成4年6月)
平成元年7月 同所債券先物業務委員会委員長(~平成3年7月)
平成3年7月 同所会員委員会委員長(~平成4年7月)
平成4年7月 東証正会員協会副会長(~平成5年6月)
平成4年7月 財団法人日本証券経済研究所理事(~平成5年6月)
平成4年9月 財団法人証券奨学財団評議員(~平成12年5月)
平成5年6月 株式会社日本短波放送取締役
平成8年6月 日栄証券株式会社取締役相談役
平成10年6月 同社相談役
平成11年4月 ワールド日栄証券株式会社相談役
平成13年7月 同社顧問(~平成15年12月)
受章
平成14年11月 勲四等瑞宝章
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