京都証券界の重鎮に聞く くのは、丸近証券の勝見昭氏である。 お話を続けて掲載している。今回、ご登場いただ 以降、地方地場証券の経営者の方々にお聞きした オーラルヒストリーを掲載してきた。今年四月号 「証券レビュー」では二〇一二年三月号以来、 証券史談と題して戦後証券史を彩ってきた方々の オーラルヒストリーの実施にあたり、筆者らの一 分ずつとなっており、ブローカー業務依存からの 入手数料に占める株式と投資信託の比率は、約半 いたようである。他方、近年の業績を見ると、受 ばらくはサヤ取りを中心としたビジネスをされて きたとされる。丸近証券も例外ではなく、戦後し ―勝見昭氏証券史談(上)― 丸近証券は、明治一〇年に創業された曽野作太 郎商店を前身に、約一四〇年の歴史をもつ老舗証 つ目の関心は、「サヤ取りから個人投資家との取 両市場間の価格差を利用したサヤ取りを主にして 券会社であるとともに、日本初の社債引受を行っ 引への移行がどのようにされたのか」である。 脱却が進んでいると言えよう。今回の勝見氏への た証券会社でもある。京都の証券会社は、東京市 場と大阪市場の間に位置することから、歴史的に ― ― 93 るが、一体どのようにして、世代を超えたお付き 合いをしようとしてきたのか」ということであっ た。 一回目の今号では、勝見氏が丸近証券に入社さ れたころのお話から始まる。勝見氏はサヤ取りを 中心とした商売を早い時点から疑問視し、電電債 を糸口に個人顧客の開拓に奔走される。また、京 都市場の特徴として、旦那衆のネットワークが存 じのとおり、京都には複数の老舗地場証券が残っ また、京都証券界に目を転じると、全国的に証 券会社は集約、撤退の方向に進んでいるが、ご存 る。こうしたサヤ取りから個人顧客を中心とした 経営者などの注文を受注されていたことが分か 友人関係などのネットワークを活用し、オーナー 在していることが挙げられるが、勝見氏は地縁や ている。しかも、どの会社も「世代を超えたお付 商売への変転を中心に、お話をお聞きしている。 産管理営業が標榜され、世代を超えた顧客との関 係性維持が目指されている。筆者らの二つ目の関 心は、「戦禍に遭わなかった京都では、戦前から のお金持ちを顧客にして商売してきたと考えられ ― ― 94 勝見 昭氏 き合い」を謳っている。現在、各証券会社では資 証券レビュー 第55巻第10号 厳しくて、朝来はったら、表の戸を開けて敷居の はるのをお迎えしたわけです。中井正造氏は大変 場立ちから始まる と こ ろ に ゴ ミ が 残 っ て へ ん か、 ま た、 店 の 中 へ だきまして、どうもありがとうございます。本日 ――今日は、本当にお忙しいのに、お時間をいた ましてね。 物すごういろいろ細かいところまでチェックされ 入ったら、電気の傘を触ってゴミがないかなど、 のお話は前半と後半とに分けまして、前半では丸 そういう細かいところ、隅々まで気をつけると いうことが、今ではどれだけ情報をようけ集める ず、勝見さんの証券界での生活は、場立ちからス しか御社の前身である曽野作太郎商店は、何人か ――今、中井さんのお話が出ましたけれども、た います。朝は一人早く来て、トイレから廊下、庭 だったわけですね。 ― ― 95 証券界でのキャリア 近証券のトップマネジメントとしての見解をお聞 かという考えにつながっていると思うんですね。 タートされたとお聞きしておりますが…。 も、社長さんが入られたときは、中井さんが社長 も含めてみな掃除して、それが終わったら、表で 中井正造氏〔当時の丸近証券社長〕が自転車で来 勝見 私が入ったときは、中井さんが社長で、そ の下に大林富次郎氏がいらっしゃいました。さら の方が出資されて作られたかと思いますけれど 勝見 私は、丁稚からスタートしました。丁稚奉 公時代が一番自分の人生で役に立ったなと思って 界の歴史について、お聞きしたいと思います。ま きしたいと思います。また、後段では京都の証券 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(上)― 証券レビュー 第55巻第10号 に、専務的な人で小谷助七さんという方がいはっ たんですね。 ――勝見さんが会社に入られたのは、何歳のとき ですか。 勝見 私が入ったときは一六歳ですわ〔勝見氏は 一 六 歳 か ら、 丸 近 証 券 で ア ル バ イ ト を 始 め ら れ た〕。 ――一六歳ですか。 勝見 それまで日吉ヶ丘高校に通っていたんです よ。 ――ああ、今熊野の…。 勝見 今の京都の美大ですわ〔日吉ヶ丘高校の前 身は京都市立美術高等学校であり、さらにその前 身は京都市立美術工芸学校である。この学校の併 ― ― 96 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(上)― 設として京都市立芸術大学の前身となる京都市立 絵画専門学校が設立された。ただし、戦後日吉ヶ 丘高等学校に設置された美術工芸科は、現在の京 都市立銅駝美術工芸高等学校となっている〕。そ こで多少絵画もやっていたんですね。そのときの 親友のお父さんは、ほとんどが人間国宝でして、 例えば、松竹を興した白井〔松次郎〕さんとか、 堂本漆軒さんとかの息子が同級生でした。ただ、 絵画では食べていけんさかい、別の仕事をしよう かということで株式の方へ入ったんです。高校時 代の親友は、この仕事をする上で、非常に役に立 ちました。 ――御社に入社されたのはどういう理由でしょう か。たまたまですか。 勝見 昭和二四年に京都証券取引所が再開された 当時、証券界は非常によかったんです。しかし、 ― ― 97 切らなあかんか分からんから、縁故関係の人は採 人員整理した後の募集ですから、いつまたクビを し、各社とも人員整理をしたんですね。こうして その後、不況になったんですよ。当社もそうです 立ちになったんですね。 に、丁稚奉公みたいな下働きをして、それから場 入ったんですね。そして、先ほど言いましたよう もうちょっと高い金額を提示してくれて、それで す。 ね。そこへ私が応募して採用されたということで ――場立ち時代の京証はどうだったんですか。 勝見 そうそう、場立ちになったんです。 ――京証〔京都証券取引所〕の場立ちですね。 ― ― 98 らないということで、公募で募集がされたんです ――それは昭和何年ぐらいのことですか。 勝見 場立ちには、二種類の人間がいましたね。 勝見 義務。義務というのは、これ買うてくれ、 これ売ってくれというふうになったら、場にさら ――義務。 勝見 二種類。一つは義務でしている人。 ――二種類。 勝見 そうですね、昭和二六年ぐらいのことです ね。朝鮮戦争の後でしたね。 じゃ入りたくないと言いましたら、中井正造氏が 勝見 そうですね。そのときに、初任給は一、六 〇 〇 円 を 提 示 さ れ た ん で す け ど、 一、 六 〇 〇 円 されたということですか。 ――朝鮮動乱の後、市況がよくなったときに入社 証券レビュー 第55巻第10号 京証は、市場内が非常に活気に溢れていたんです うという人がいましたね。とにかく、そのときの 売りに来たら買うという人と、もっとサヤを抜こ よ。つまり、義務感で誰かが買いにきたら売る、 抜 く 人。 私 は 一 生 懸 命 サ ヤ を 取 っ て い た ん で す 動くと、他市場で売ったり、買ったりしてサヤを し玉を出すわけですね。もう一つは他市場の値が 業協会の申し合わせにより、親株が上場株の場合 す。しかも領収書を売買していたんですよ〔証券 空機などの未上場株の商いがよく出来ていたんで 財閥解体に伴って分割された会社、例えば川崎航 を通して発注していた〕。それからもう一つは、 なるまでは、大手証券でも売買注文を地方取引所 インでつなぎ、売買注文を一括管理できるように ラインにより、大手証券を中心に支店間をオンラ されていなくとも、予約売買が認められた。当時 ――サヤ取りができたわけですね。 勝見 そうそうそう。そやから、物すごう活気が あったんですよ。当社でも、私を含めて場立ちが ――いわゆるヘタ株取引ですね。 ― ― 99 よ。 ――市場内が…。 新株や、第二会社の株式割り当てが盛んに行われ は割当決定通知の翌日から、実際には株券は発行 勝見 やっぱり通信基盤がまだ過渡期ですから、 出し入れの差〔価格差〕が非常にありましたから ていたため、権利株が大量に出回っていた〕。 勝 見 当 時 は、 野 村 証 券 の 京 都 支 店 も 全 部 京 都 〔証券取引所〕へ出すわけですから〔第一次オン は、集中排除法で指定された大企業の分割による …。 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(上)― おられました。 観覧席があったんですが、そこで失神した女性が のものであった〕。京都証券取引所の中に大きな の大幅な下落率を記録し、この下落幅は当時最大 暴落のことで、東証修正平均株価は前日比一〇% 連の指導者スターリンの死去を契機に起きた株価 〔スターリン暴落は昭和二八年三月五日に、旧ソ 事 で、 一 番 劇 的 な こ と は ス タ ー リ ン 暴 落 で す ね 一〇人ぐらいいたと思いますね。その当時の出来 鎖預金との関係というより、朝鮮戦争特需により れていましたね〔スターリン暴落前の活況は、封 すごい活況で、お客さんも観覧席に物すごう来ら 〇%の財産税が課された〕、〔株式の売買は〕もの 強 制 的 に 申 告 さ せ、 そ の 申 告 額 に 対 し て 最 大 九 時に施行された臨時財産調査令により、財産額を 表され、その翌日より預金を封鎖し、これらと同 一年二月一六日に幣原内閣により、新円切替が発 は最大で一〇分の一になってしもたから〔昭和二 すよ。そやから、その後どんな暴落があっても、 勝 見 暴 落 で。 ど ん ど ん 下 が っ て い き ま す か ら ね。そら、もうストップ安でね、すごかったんで ――失神。あまりの暴落で…。 もう一方では勝見さんのように、サヤを積極的に は一方でマーケットメーカーみたいな人がいて、 ――先ほどのお話に戻りますけれども、場立ちに であったと考えられる〕。 企業収益が急激に回復したことが、ブームの要因 それほど驚きはしなかったですね。 ておられましたが…。 取りに行く場立ちの方がいらっしゃったとお話し このスターリン暴落までは、封鎖預金で買った 株が物すごく値上がりしたのに対して、封鎖預金 証券レビュー 第55巻第10号 ― ― 100 勝見 場立ちの中には、注文を書いといたら誰か 来よるさかいということで、後ろの休憩室で将棋 をさしていて、そのまま放っておるのがようけい るわけですよ。せやから、あるもんはもらおうと ――一旦自己売買で消化する。 ――翌日またぎはしない。 勝見 そうそう。それで、昼から売るわけです。 ナイトオーバーは絶対しませんでしたから。 いうことです。もし、それで〔約定〕できたらお てだけでなく、もう一つは、他社が動いているの ともできますしね。それからお客さんの注文とし る人は、両方とって、お金が一銭もなかっても金 じられていた〕。そやから、場立ちでも商才があ 勝見 そのときは、今と違いまして、差金決済が できたわけです〔当時も差金決済は、法的には禁 ――全部日計りで。 勝見 翌日には絶対にまたがない。 仮にでけへんだら、でけへんだで、本社の場電 を聞いてる者が「他市場でこんな注文があるよ」 に ほ っ と き よ る の が あ っ た ら、 日 計 り で 丸 近 が 儲けができたわけですよ。 と言うてくれて、場電が他市場とつないでとるこ 買 っ て お く と か、 そ う い う こ と も し て い ま し た はあったけれども、東京をはじめとして、他の取 よ。 ――ああ、自分のところでも。 引所の会員ではありませんよね。 ――その当時、御社は京都の証券取引所の会員で 勝見 そうそう。 ― ― 101 客さんに喜ばれるわけですから。 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(上)― のを聞いてきて、それを本社の株式〔部〕の女の 勝見 それは、会社の場電が電話をしょっちゅう かけて、他の市場にこういう売り物があるという …。 ――他市場の板情報というのは、どういうふうに 勝見 そうですね。東京、大阪へ集中していきま 取引が東京、大阪へと移っていきますよね。 ――スターリン暴落の後、昭和三〇年代になると ね。 勝 見 え え、 益 茂 証 券 と か、 福 井 の 大 崎 証 券 と か、安藤証券、木村証券や丸國証券とかからです ――じゃなかったんですか。 子が黒板に今、何ぼ、何ぼ、玉はいくらと全部書 す。 証券〔現在の証券ジャパン〕あたりから聞いてい ――他市場からの市場情報は、つなぎの日本協栄 …。 なぎになられたんですか。先ほど名前の挙がった ありませんよね。そのときに、どこへ注文をおつ ― ― 102 勝見 ほかは会員じゃないです。 いているんですね。せやから、市場から電話がか ――御社は京証の会員権を持っていらっしゃいま らっしゃったのですか。 勝見 そのときは、先ほど少しお話した丸國証券 とか木村証券、ほかにも安藤証券や大阪の廣田証 したけれども、東京や大阪の会員権はお持ちでは 勝見 日本協栄は違います。 けです。 かってきたら、こういう銘柄はすぐ答えられたわ 証券レビュー 第55巻第10号 いうのも当時、当社が主としていたのは、京都市 んな注文があるかも控えておいて…。 勝見 それは地方の業者がどんだけ丸近を信頼し てくれているかというね…。そやから、益茂にど 券など、いろいろなとこと取引がありました。と 場と他市場とのサヤを取ることで、それで食べて いたからです。 勝見 いや、上場株。当時は市場と仕切り売買の 両方がありましたから。その後、規則が変わった ――それは店頭株ですか。 業を始めたんです。そうしたら、中井正造氏から けれども…。 勝見 前のことです。 り、証券恐慌の前のことですね。 ――バイカイが認められていた時代ですね。つま 「勝見君、うちはようけ財産があんのやから食べ ていけるさかい、かっこ悪いから個人のお客さん を採るな」と何遍も怒られたことがあります。 ところが、結果はさにあらずでした。数年後に は中井正造氏から、「個人営業をやってくれ」と になりましたからね。 頼まれるわけですから…。 ――福井の益茂証券から情報をというお話でした 勝見 そうそう、ダメになった。 ――証券恐慌以降、バイカイは禁止されて、ダメ が、 な ぜ 福 井 の 益 茂 に つ な ぐ 必 要 が あ っ た の で しょうか。 ― ― 103 ただ当時から、私はこれでは丸近は残れないと 疑問視していたんですよ。そやから、私は個人営 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(上)― 時事通信は専用電話を引いていましたからね。 京に繋いでもすぐにかからなかったんですけど、 書いて、それを張るわけですね。当時は個人が東 勝見 そうでした。市場の上には時事通信社の電 話聞きがいて、東京、大阪の気配を聞いては札に らね。 すが、それ以降は、それはできなくなりましたか ――当時は、バイカイがあったからできたわけで せてほしい」と言うたことがあるんです。 コンピュータで配信してほしいのと、その中から UICKの情報をビデオで流すんではなく、全部 支店長だったんです。その人に、私は「社長、Q る〕。その次の社長は、日経新聞のニューヨーク であった圓城寺次郎氏であり、第二代社長に元大 ね〔QUICKの初代社長は日本経済新聞社社長 社長になられたQUICKという会社があります 私は、小学生のころに電気回路を作って、京都の 経由に変えたんです。また、私とこの一階にQU そういうこともあって、私とこが日本で初めて QUICKの専用回線を外して、インターネット どういう情報を使うかは、私らに処理権限を持た 知事賞を取っていましたから、日興〔現在のSM ICKの電子掲示板があったでしょ。あれも、私 ― ― 104 蔵省証券局長であった志場喜徳郎氏が就任してい その後に、情報ラインが電話から短波無線、つ まり日本短波放送に変わったんです。ところが、 BC日興証券〕から六鹿〔現在の東海東京証券〕 とこが関西で初めて入れたんです。そういうふう 京都の証券会社は、ラジオを作れなんだんです。 からみな、私がラジオを組んで納めたんです。 京都銀行とか中信〔京都中央信用金庫〕とか、い に先、先を見据えてやってきました。そやから、 私とこは先ほども言いましたように、情報収集 に力を入れていまして、元証券局長の志場さんが 証券レビュー 第55巻第10号 ろいろなとこがみな私とこを見に来たんですよ。 引かれたら、そこへ飛び込んで、電電債の買い取 わけです。そして、買い取った債券をまとめてよ りで注文を取って、新規のお客さんにしていった 電電債の買い取りで その業者に売っていたんです。これが非常に成功 しましてね。それを丸近では私だけがやっていた 個人顧客の開拓 て、農林系金融機関などの余資金融機関へ売りに んです。 勝 見 昭 和 三 〇 年 代 だ と 思 い ま す ね。 と い う の も、私が注目したのが、電電公社の加入債ってあ 行ったわけですね。 何年ぐらいのお話ですか。 りましたでしょ。 勝見 一人一人から買い集めて、それをまとめて 売ったわけです。集めるのはなかなか大変な仕事 ―― 個 人 か ら 債 券 を 買 い 取 っ て、 そ れ を ま と め ――電電債ですね。 お客さんにも喜ばれて、私どもも喜ぶ。さらに大 引いていた商売人がぎょうさんいましたから、私 しいけどお金はない。それをやりくりして電話を ていましたね。 は、電電債をきっかけに個人のお客さんを開拓し 手 も そ れ で 喜 ぶ わ け で す か ら ね。 と に か く 当 時 ですけど、案外利ザヤはあるわけですよ。それで 勝見 加入債は電話を引こうと思ったら、必ず買 わなあかんかったわけです。ところが、電話は欲 は寺町通を今出川通まで歩いて、新しい電話線が ― ― 105 ――個人営業を勝見さんが始められたのは、昭和 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(上)― ――なるほど。ということは、電話線が新しく張 勝見 隔地間のサヤ取りですよ。 間のサヤ取りがむしろ収益源だったわけですね。 のサヤ取りがうまくいかなくなり…。 ――しかし、京証が地盤沈下していくと、隔地間 られたと思ったら、そこへ飛び込んで、顧客開拓 をされたわけですね。 勝見 まず電電債でやったんです。京都でそんな んやった人は誰もいません。それをやったわけで 勝見 うまくいかなんだ。それで私は場が引けて から、個人営業をしながら、ボランティアでやっ す。 や っ ぱ り ど こ に 目 を つ け る か は 重 要 で す よ ね。かっこも悪かったし、人にも笑われましたけ たことが後々非常に役に立ったということです。 からのお金持ちが生き延びていましたから、京都 てみますと、京都は爆撃を受けていませんし、昔 ――すごく目がきくお話ですよね。私たちから見 的に組織された。全国の各証券取引所所在地には 別会員の証券実務の実践を通じた研究や親睦を目 〔 証 券 協 和 会 は 証 券 会 社 や 関 係 機 関 の 従 業 員、 特 勝見 昔、東京、大阪はじめ取引所のあるところ にはみな、証券協和会というのがありましたよね ― ― 106 ど、私はそれをやったわけですよ。 の業者の方は、そういったお金持ちをお客さんに 証券協和会が設置され、その全国組織として全国 ――例えば…。 していらっしゃったのかなと思いましたけれど 証券協和会連合会が置かれていた。なお、全国証 野村証券との関係強化のきっかけ も、御社の場合は必ずしもそうじゃなくて、隔地 証券レビュー 第55巻第10号 券協和会連合会には関東支部と関西支部があり、 をしていたので、協和会を通じて、そういう人た 〔政美〕さんとか…。私は何十年も協和会の世話 だ っ た 保 田〔 茂 〕 は ん と か、 市 場 部 長 だ っ た 泉 例えば野村証券では、東京には山岸〔明〕市場 部長という方がいたんですよ。大阪やと株式部長 よその業者とつながったわけですね。 事長になっているんですよ。それで東京や大阪の していた〕。私は二〇代で、京都証券協和会の幹 支部には大阪、京都、広島、福岡がそれぞれ所属 で、幹事長が両方をまとめることになっていまし な る も の の 部 門 委 員 会 が 置 か れ て い た 〕。 そ れ は受渡関係など、各地の協和会によって内容は異 務委員会の下に、第一部会は市場関係、第二部会 協和会と呼んでいたんです〔証券協和会には、総 勝見 協和会という団体は第一部会と第二部会と いうのがあって、第一部会は市場部長の会、第二 団体は…。 ――不勉強で申し訳ないんですが、協和会という なことをしていました。 ちと友好関係ができたんですわ。例えば、ある地 たから、幹事長は経理部長の会も市場部長の会も 関東支部には東京、札幌、新潟、名古屋が、関西 方の証券会社から、平和不動産をある値段で一〇 両方行かなあかんわけです。そやから、幹事長は ると、私は野村の友人に電話するわけですよ。そ かし、京都市場にはそれだけの玉がない。そうす 私は幹事長でしたから、簿記と法律の知識もつ わけです。 当然ブックキーピングと証券法に精通してな困る ― ― 107 部会は経理部長の会でして、それをひっくるめて 万株買うてくれという注文が入ったとします。し ういった取り次ぎをして話をつけたり、いろいろ 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(上)― かかってきて、「勝見君こんなんあるんやけど、 私が協和会を通じて、いろいろな会社と関係を 構築していたので、大林富次郎氏から場に電話が いましたね。 ていましたけど、時に地方の人たちとも調整して 売ってくれたとかね。まぁ、多くは大手と話をし 勝 見 君 そ れ 売 っ た る わ 」 と 言 っ て、 京 都 市 場 で ね。そうしたら、ある大手が「分かった、ほな、 や け ど、 市 場 に な い さ か い、 玉 を 探 す わ け で す ですね。例えば、ある株を買いたいとします。そ がサヤ取りのときに玉の調整で非常に役立ったん ういう地方の人たちともつながりができて、これ 州やったら前田証券〔現在のふくおか証券〕、そ 券の人たちはもちろん、札幌の上光証券とか、九 尾梅吉氏は、中国合同電気(現在の関西電力)も するわというんで、発電事業をされたんです〔牛 来るさかい、わしとこは金融業をやめて電気屋を ど〔牛尾梅吉氏は、姫路銀行(現在の三井住友銀 いる〕。牛尾さんは銀行もやってはったんですけ 日本で初めての証券業者による全額引受募集して 社債を、野村徳七商店、牛尾梅吉商店とともに、 郎商店は、京都電気鉄道が明治四三年に発行した しているんです〔丸近証券の前身である曽野作太 を、野村徳七さんと姫路の牛尾梅吉商店とともに は、 私 と こ は 昔、 日 本 で 初 め て の 社 債 引 き 受 け 以 前 か ら 野 村 証 券 と の 関 係 は あ り ま し た。 そ れ ら始まったんです。第二と言いましたのは、それ そやから、私とこは現在、野村証券と関係が深 いわけですが、第二の野村証券との関係はここか ― ― 108 いたし、友好関係もできたんです。それは大手証 ど っ か 売 る と こ な い か 」 と 言 わ れ る こ と も、 経営していた〕。 行)を経営していた〕、これからは電気の時代が しょっちゅうありました。 証券レビュー 第55巻第10号 昔 か ら こ う い う こ と で、 野 村 証 券 と は 関 係 が あったわけですが、今、野村グループが当社の私 ありますよ。 ハーローの本社には、中井正造氏の写真が貼って ハ ー ロ ー に な っ て い る ん で す よ。 せ や か ら 上 田 合理化しようとなって、新しく作った会社が上田 いで言えば、為替取引もやっていました。これを 勝見 そうそう、牛尾治朗さんのお祖父さん。そ れともう一つ、野村さんと、牛尾さんとの付き合 す。 らっしゃったということを聞いたことがありま 治朗さんのお祖父さんですよね。相場の世界にい ――牛尾梅吉さんというのは、ウシオ電機の牛尾 ――それはどういう理由でですか。 に、大蔵省と揉めましてね。 勝見 野村からシステムを入れることになったわ け で す。 と こ ろ が、 こ の シ ス テ ム を 入 れ る と き 入を…。 ――野村コンピュータシステムからシステムの導 たわけですよ。 で私とこは自社コンを入れていたのを野村に変え タ入れてくれへんか」という話になって、それま に会いに来られて、「勝見さん、このコンピュー ピュータシステムのことと思われる〕の社長が私 す。また、現在の当社のシステムは野村のSTA できた野村証券との関係が礎になっているわけで 型の…〔昭和六三年に三洋証券は新川にディーリ ぐらい前の話ですけど、三洋証券が新川にドーム 勝見 京都の調査官が、「丸近は三洋証券のコン ピュータを入れろ」というんです。今から三〇年 の次の大株主になっているのは、協和会を通じて R‐ Ⅳ で す け ど、 こ れ も 野 村 の 電 産〔 野 村 コ ン 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(上)― ― ― 109 抑えるには外部へ出した方がええと思っていたわ げていたら、余計コストがかかるから、コストを 理能力を超えるたびに、システムの処理能力を上 もっと情報量が増えてくると考えていたんで、処 客さんからの信頼性が高まるし、何よりこれから ど、私は、コンピュータは外部に出した方が、お 贅沢なもんよう入れたな」と言われてね。そやけ すから、あ る会社の人からは、「勝 見君、そんな の地場証券はみな、自社コンを入れていた時代で のシステムを入れたわけです。当時は、まだ京都 なもん聞かんでええ」と言うてくれたんで、野村 勝見 あれができた頃の話です。そのときに本庁 で、ある課 長さんと話をすると、「 勝見君、そん ――ディーリングルームですね。 ングルームを竣工した〕。 た。一店舗のランニングコストとして、年間二、 たんですが、物すごいスピードで全部閉鎖しまし それからバブル崩壊後の証券不況のときに、当 社は京都市内に本店のほかに、店舗が三店舗あっ にして経費をうんと抑えているんです。 これも京都では私とこだけですが、そういうふう 況やコンプライアンス関連業務も受託している〕。 設立された。また、最近では営業店の業務管理状 資で、バックオフィス業務を受託する会社として 村証券と野村総合研究所、野村土地建物の共同出 出しています〔日本クリアリングサービスは、野 う証券ビジネス〕という野村証券が作った会社に 検査も日本クリアリングサービス〔現在のだいこ いうことを考えて、野村ビジネスサービスとか、 今 も、 私 と こ の 経 理 マ ン は 二 人 し か お り ま せ ん。これは、営業コストをどうやって抑えるかと ― ― 110 証券代行へアウトソーシングに出したからです。 けです。 証券レビュー 第55巻第10号 〇〇〇万円ぐらい要りますから、それを本店に全 証券不況とドラスチックな んです。 さんがだいこう証券〔ビジネス〕の社長になられ アウトソーシング 部集約したわけです。また、繋ぎ先も山本〔晃〕 たときに、「 勝見君、今度、東証会員に なりたい そもそも私の経営哲学は、景気の悪いときにど んな手が打てるか、そして、景気の悪いときをど れましたね。 いただいています。これでも相当コストを抑えら 検査もお願いしたりして、手数料面ではご理解を ぎ先をだいこうへと変えたんです。その代わり、 たんですけども、全部だいこうへ振り向けて、繋 ら、私とこの注文は〔日本〕協栄証券に出してい ――だいこうをメインにして、バックアップ機能 ようにはしています。 で、今でも証券ジャパンにも電話をかけて繋げる か ら、 別 の パ イ プ も 持 っ て な い か ん と い う こ と 勝見 日本協栄ではなくなって、だいこう証券に 一〇〇%出しています。ただ、万一のことがある ――じゃあ、今は繋ぎ先は日本協栄ではなく…。 れているわけですね。 として証券ジャパンというふうに、二本立てにさ ば景気のいいときに、お金を使うんじゃなく、景 んだけ味方につけるかということなんです。例え 気が悪いときにお金を使うことを考えなあかんと 勝見 BCPの問題もありますから、一応二本立 てにしているんです。それからもう一つ、私が社 言うんです。不況をチャンスに出来るかが重要な ― ― 111 か ら、 協 力 し て や 」 と 言 わ れ た ん で す。 そ や か 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(上)― 勝見 ということは、一ヶ月一万円の経費は、一 〇年で一二〇万円になるわけだから、そのことも ――一〇年たてばね。 は、一〇年間で一二〇万円になりますわね。 で 考 え ろ と い う こ と で す。 一 ヶ 月 一 万 円 の 経 費 内でやかましく言うているのは、経費は一〇年間 なっています。 勝見 そうです。せやから私とこの社員は、昔は 百 何 人 い た ん で す け ど ね、 今 は 三 〇 人 ぐ ら い に ――かなりドラスチックですね。 た。 に現物株券の受け渡しをやってもらっていまし 証券の中に法律上の支店を作って、だいこう証券 ていて、バブル崩壊後には店舗も閉めて、省力化 いろいろと売買に伴う残務処理がありますから、 勝見 事務関係は、社員二人とアルバイト一人の 三人と、あとは注文を繋いだり、伝票整理とか、 ― ― 112 よく考えて、経費の使い方を考えるように言って ――そのうち、事務関係の方は何人ぐらいいらっ されたというお話でしたが…。 に は、 日 本 証 券 業 協 会 で 監 査 を 担 当 し て い た ス しゃるんですか。 勝見 全部アウトソーシングです。そもそも検査 などのアウトソーシングの前に、現物株券の受け タッフが一人おります。 それに四人ぐらいいます。あと、検査、管理部門 渡しから外注しているんです。茅場町のだいこう ――先ほど、検査もすべてアウトソーシングされ シビアに考えるということです。 いるんです。つまり、私とこの会社のイズムは、 証券レビュー 第55巻第10号 〔大学〕を出た女性で、外営業をしたいというの 前、野村証券の大阪支店からも、「うちに四年制 四大卒の女性営業員の導入と がいるんやけど、うちでは女性に外営業はさせて て、注文も取っていますからね。 ターレディーは〔証券外務員の〕資格も持ってい の人員は、半分もいないんですよ。また、カウン もしていますが、それを含めてもバックオフィス 勝見 あとはほとんど営業ですね。カウンターレ ディーの二人は投信の後整理とか、いろんな処理 ――あとの方はすべて営業ということですか。 す。というのは、女性営業員はみな細かい仕事を 書作成とか、信託業務と半分つながった業務をし そういう女性が、今、もう六〇歳ぐらいになっ てきているんですね。そして今は、彼女らが遺言 るんですよ。 ウンターレディーにするのに、一〇年ぐらいかか んです。けれども、一週間で辞めました。私とこ いないから、引き取ってくれ」というので入れた 「断る営業」 日本の証券会社で、四年制大学を出た女性をカ ウンターレディーにしたのは、私とこが初めてな 大事にしますし、家庭の大蔵大臣と親しくしてい て言うてもあかんというんです。それは二〇年と け売るとおっしゃいますけど、現時点だけを捉え 客さんは、全部上場会社の役員です。せやから、 できるんです。しかも、私とこの女性営業員のお て、奥さんに信頼されているから、こういう話が て い ま す。 男 性 は 一 人 も で き な い、 全 部 女 性 で かいう間、ずっと辛抱してきた結果なんです。以 ― ― 113 の女性は物すごう営業しています。そこまでのカ んですよ。よその人は、丸近は女性が投信をよう 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(上)― 毎月の営業上位五人の中に、相続とかの相談もで 勝見 定年フリーです。私の考えとして、株式投 資で儲けようと思うたら、地元の証券会社で営業 もいていいというふうにしているんです。以前は をしているということです。つまり、いつまでで 私とこのもう一つの特徴は、健康年齢という考え ングしても、残れていないと思いますね。また、 は投信を売っていなかったら、何ぼダウンサイジ 勝見 そうそう。昨年でも、投信の販売手数料が 四七%ですわ。これが物すごい強みです。私とこ 販売に熱心ですね。 ――営業成績上位に…。ところで、御社は投信の そういうセールスのお客さんは儲けがすごいで 信用取引を使ってヘッジしておけば、お客さん は上がっても、下がっても楽しめるわけですね。 いひんわけですよ。 ろが、信用取引を使える営業マンが、ほとんどい す。三〇年近く株式は右肩下がりですよね。とこ を儲けさせることはでけへんと思っているんで 考えています。というのも、私の信念として信用 ンのお客さんにしてもらわなあかんというふうに きる女性が二人ぐらい入っています。 九〇代の営業マンもいましたから。こういうふう す。ただ、私とこでも、信用取引の売りができる 経験を三〇年以上して、現在も残っている営業マ に、長年証券業務に携わっていることが、お客様 人は、顧問営業の三人ぐらいに限られているんで すよ。これはやっぱりお客さんとコンセンサスを しっかりとっておく必要があるし、私とこはそれ ― ― 114 取引を使うことができひん営業マンは、お客さん との素晴らしく良好な信頼関係に至るんです。 ――定年はなしですか。 証券レビュー 第55巻第10号 な額、買いたいと言うてきはったんです。せやけ また、過去にこういう話もありました。ある京 都の有名な本院のご住職が、ある会社の株を相当 ら、これは致命傷ですから。 て た け ど、 何 の 注 文 を と ら れ て ん 」 と 言 わ れ た 今日、丸近証券の営業が、耳元で何か小声で言う うているんです。万が一、家族が「おじいさん、 家族に証人になってもらわなかったらあかんと言 とが前提やから、お客さんのところへ行っても、 だけじゃなくて、二代、三代とお付き合いするこ 思うんです。 ん」と断ったんです。これが当社の営業風土やと ら 話 は 別 や け ど、 お 客 さ ん の 資 産 で は あ き ま せ られません。例えば、資産が何億円もあって、そ ちょっとリスクが高すぎるし、うちでは取引させ 「 顧 客 カ ー ド の 中 身 を 読 み ま し た け ど、 そ れ は に 直 訴 し に こ こ へ 来 は っ た。 せ や か ら、 私 は、 したら、やっぱり「何で買わさんのや」と、社長 はった。それで、私とこは断ったわけです。そう の 人 も「 あ る 会 社 の 株 を 買 い た い 」 と 言 う て き ― ― 115 のうちの一、〇〇〇万円か二、〇〇〇万円やった ど、私とこ は断ったんです。そう したら、「何で 業員の方が、三人ぐらいいらっしゃるということ ――そうすると、営業員には数十年の営業経験を 方 が 来 ら れ ま し た。 こ の 人 は ま と ま っ た お 金 を ですか。 ます。また、もう一人、ある支店に飛び込みで来 持ってきて、「株式投資でこれからの生活を設計 勝見 一〇年やそこらの営業マンでは、信用取引 もたれて、売りヘッジすら認めている専門的な営 したい」とおっしゃったそうです。ところが、こ られたお客さんでしたけど、定年を迎えた女性の 買わせへんのや」と、ここへ来はったこともあり 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(上)― の売りはできないです。また、よその会社で、大 阪の支店長などを経験した人も数人入っています が…。 京都の証券会社の主要顧客とは よね。 ――京都には、法人投資家が圧倒的に少ないです ――ということは、御社で三〇年勤めているとい 勝見 そうです。 勝見 いやいや。今、信用取引の売りにつなげる のは、やっぱり当社の生え抜きですわ。よそから 営をしているというふうに言われているんですけ ――京都の証券会社は、個人投資家を重視した経 ――大手から来られた方は、投信の販売がうまい とした地場企業とお寺や大学の教員だ、とお話を 林さんは、御社の主要な顧客は室町や西陣を中心 ― ― 116 うんじゃなくて、業界での経験が…。 入 っ て き た 人 が、 よ う 売 っ て い る の は 投 信 で す れども、以前に志村嘉一先生と小林和子さんが、 ということですね。 勝見 今はそういうことはないです。今も個人営 業が中心ですけど、中小企業の代表役員や上場企 さ れ て い る ん で す。 そ れ 以 降、 主 要 顧 客 層 は 代 わってきていますか、そうでもないですか。 す。投資信託はよう売っていますよ。 勝見 この方々は、投資家の安全安心と生活、人 生設計等を十二分に考えて最善を尽くしていま 大林富次郎さんにお話しをお聞きしたときに、大 ね。非常によう売ります。 証券レビュー 第55巻第10号 き、幹事は山一証券だったんですけれど、私も相 勝見 そう、上場企業のオーナー。例えばある電 子部品会社のオーナーとかね。同社が上場すると 主要な顧客にされたということですか。 ――じゃあ、上場した企業のオーナーさんとかを ていますね。 業のオーナーさんとか、エンゼルをお客さんにし 溥氏の祖父である山内積良氏には二人の娘しかな になったんです〔任天堂二代目社長であり、山内 るさかい、お前は任天堂の面倒をみいということ くなりになったんです。その時に、山内さんのお 大学を出ると、間もなく親〔お祖父さん〕がお亡 また、私はこういうつながりもあるんです。ど ういうことや言いますと、任天堂の山内溥さんは すが、それを当社が市場で全部消化したり…。 あるとき、山内溥さんをきつう怒った人がいる んです。そ れが立石一真氏で、「お 前、 今の電子 ― ― 117 兄さんは生コン会社の灰孝という会社の面倒を見 当の労力を払ったんですよ。 である溥氏が任天堂を引き継いだ〕。私は山内溥 く、孝氏の主人である源蔵氏が灰孝、君氏の息子 ――お手伝いをされた。 溥さんの友人と何度か食事に行ったことがありま てんのや」と注意が出たんです。そのときに、そ 化の時代に合うようにせい」と言って怒らはった さん、それから京都新聞の政経部長、そして山内 勝見 上場するときに、向こうにしてみると、初 値を上手くつけたいですからね。それでいろいろ す。 の会社はある会社の株を何百万株持っていたんで 社に、「何である会社の株をそんだけようけ持っ なことをしたんですよ。例えば、役所からその会 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(上)― んです。そうして、しばらくしたら、マリオが発 本社の社長室から見えるとこにあるそうですよ。 何言うてんのや。わしが立石電機〔現在のオムロ とこでわしやってんのや」と言うたら、「お前、 らしいんです。そのときに、永守さんが「こんな たときに、立石一真さんが一遍工場見学に行った 立 石 一 真 氏 の 話 で は、 こ う い う 話 も あ る ん で す。日本電産の永守〔重信〕さんが会社を創業し ろいろあります。特に、金融機関の人との友好関 はつながっていたり、お客さんの紹介とかね、い 勝 見 そ れ は 一 つ は、 京 都 の 私 の 友 人 関 係 で す ね。もう一つは、大手銀行の支店長の何人かと私 んをどういうふうに開拓されたんですか。 ころで接点ができたんですか。それから、お客さ 売されたわけですよ。 ン〕を始めたときは、もっとボロい工場やで。こ 係に助けられました。 人 の 三 倍 働 け る か。 休 み の 日 も み な 働 か な あ か 社を作るときに「お前、会社をやるんやったら、 んのお母さんだそうで、お母さんは永守さんが会 うです。一人は立石一真氏。もう一人は、永守さ 関係から顧客を広げていったということですか。 進んでくると、今度は銀行の支店長さんやご友人 じてお客さんを開拓されていたけれども、時代が ――ということは、昭和三〇年代は、電電債を通 ― ― 118 ――例えば立石さんや山内さんとは、どういうと んな結構なことがあるか」と怒ったというんです ん。それができんのやったら、やれ」と…。今で も、永守さんのお母さんのお墓は、新しく作った 勝見 そうそう。それで、よそにあったもんが私 とこへ移管されてきたり…。祇園にある有名なお ね。創業時代の永守さんを怒った人は二人いるそ 証券レビュー 第55巻第10号 をよくやりました。例えば、佐伯〔勇〕さん〔元 券取引所があったころ、当社はM&Aのお手伝い さった。それからもう一つ挙げると、まだ京都証 行 の 支 店 長 の 紹 介 で、 私 と こ に 口 座 を 作 っ て 下 寿司屋はんがあるわけですけど、その人は大手銀 線となった〕。 昭和三八年に奈良電鉄は近鉄と合併し、近鉄京都 電鉄の所有株式も近鉄へ売却された。その結果、 電力社長であった太田垣士郎の斡旋により、京阪 が一般株主の株式を買い占め、また、当時の関西 勝見 昔、京都に奈良電鉄という会社があったん です。あれを私とこで集めて、それを佐伯さんに ――例えば近鉄だと…。 ど当社がやりましたから。 ましたから。それから岡山のある会社のもほとん 長、名誉会長〕のM&Aはほとんど私とこでやり ――岡山の会社が集めていたわけですか。 めました。これも相当集めたんですよ。 んの注文で、日本を代表するカラー印刷会社も集 勝見 それから都ホテルとかね。予定どおり集ま らなかったんは先ほども言った岡山のある会社さ ね。 ―― 線 路 沿 い の 個 人 株 主 か ら 買 わ れ た わ け で す 勝見 私とこには、あるときからの株主名簿をみ なとっていますから、それを見れば株主が分かり 売って、近鉄の京都線になったとかね〔奈良電鉄 鉄)の合弁で会社が設立され、戦後も両社の直通 ますので、株主さんに「明日、市場で売ってくれ は も と も と 京 阪 電 鉄 と 大 阪 電 気 軌 道( 現 在 の 近 運転が行われていたが、京都進出を目指した近鉄 ― ― 119 近 畿 日 本 鉄 道( 以 下、 近 鉄 と 略 記 ) の 社 長、 会 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(上)― 勝見 そのときは、そうですね。そもそも、京都 で は こ う い う 話 は、 祇 園 町 の お 茶 屋 に 財 界 人 が あったからできた商売ということですね。 ――ということは、やはり潤沢な資産がそもそも 勝見 そうそう。 か。 お金で買っておいて、近鉄に売るということです ――奈良電鉄の株のお話とかは全部、一旦御社の よ。 ら、絶対漏らしたらあかんのです。特に出入りす 勝見 そういうネットワークですよ。ただし、そ のお座敷で決まったことは漏れたら具合が悪いか ずっとあるわけですね。 ――ああ、なるほどね。旦那衆のネットワークが 勝見 そうそう。 かあの辺の名前が出てくるわけですか。 談でも、西村仁兵衛さん〔都ホテルの創業者〕と ――だから、以前、大林富次郎氏にお聞きした史 勝見 それで、そこで決まったことは、当社の先 駆者の高逸から、私とこへ一番に来るんです。 ― ― 120 は ら し ま へ ん か 」 と 言 っ て、 買 い 占 め た ん で す 寄 っ た と き に 決 ま り ま す。 当 社 の 大 林 富 次 郎 氏 る女性はね。 勝見 漏れて、よそから提灯をつけられたら、ど ――漏れたらね。 は、祇園の出身で知人が祇園町にようけいるわけ ――近侍がたくさんいるわけですね。 です。 証券レビュー 第55巻第10号 わけです〔曽野作太郎氏は京都取引所の第三代理 を出していますから、そういう信頼関係があった 井正造さんという歴代の京都証券取引所の理事長 れるかが大事なんです。私とこは、曽野さん、中 うにもならんでしょ。せやから、どんだけ信頼さ 友系がいつも注文を出していました。 わこ銀行〕というのがあったんですが、あれは住 勝見 やりましたね。そんなんがようけあったん ですよ。例えば滋賀県に滋賀相互銀行〔現在のび て、M&Aを…。 …。 人 が 出 し て く れ た お 金 と、 御 社 の 資 産 も 使 っ て のお座敷で大体案件が決まって、そのときにいた ――ということは、今のお話をまとめると、祇園 引所理事長を務めた〕。 の人の息子さんが陸軍で偉い人になったからいう 稚をされていた大城戸〔傳次〕さんという方が、 というのは当社の暖簾分けなんです。私とこで丁 友系の人材が入っていたんです。もともと高木貞 勝見 そうそう、そういうことです。これは高木 貞〔証券〕が関係するんですけど、高木貞には住 ――あれも御社が…。 それで、自分はしないからということで、大城 戸商店を山主の元資産家であった高木〔貞三〕さ ことで、後を継がんかったんですね。 大城戸商店というのをされていたんですけど、そ 勝見 もう集まっていた人はすぐお金を出してく れますから…。 ――そして、一軒一軒小さな株主の持っている株 式を集めて、大きくして、近鉄などに売ってあげ ― ― 121 事長を、中井正造氏は第二代、第四代京都証券取 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(上)― より、申請は取りやめられた〕。 を行おうとしたが、京都財務事務所による説得に 消しに先立ち、川久保明社長は会社更生申し立て かとなったため、免許が取り消された。免許取り であることが近畿財務局の特別検査によって明ら 替額は累増し、しかも、そのほとんどが回収不能 せ、会社の財務内容が悪化した。その後も不良立 行ったものの、五億円近い立替金を会社に発生さ ろ が、 こ の 二 名 の 外 務 員 は 積 極 的 な 勧 誘 活 動 を 株主の縁故者である外務員二名を採用した。とこ 倍増資をした際、旧株主への条件として、旧筆頭 産額が資本金を下回ったため、八割減資の上、四 んです〔高木貞証券は、昭和五〇年一二月に純財 を継いだ人が、いろいろとおかしなことをやった 員になられたわけですけど、高木貞の方はその後 大城戸商店を止めて、私とこに戻って来はって役 んが引き受けたんですよ。それで、大城戸さんは ん で す け ど、 そ の 後 に 日 本 レ ー ス 株 買 い 占 め 事 んです。せやから、郷鉄工絡みでの実損なかった のはあかん」と言うて、断りに行ったこともある たんです。ですけど、私は「前受金が入ってへん こでも、取締役営業部長が何百万株の注文を受け これには、京都のフィクサーも絡んでいて、私と その後にこういうことも起こったんですよ。大 阪で郷鉄工事件って買占め事件があったでしょ。 よ。 めて、弟と組んでツーバイツーを作ったわけです 私とこの雰囲気とか会社の縛りが厳しいから、辞 と頼まれて、引き取ったんですけど、ところが、 「今、大手の投信販売にいる息子を入れてくれ」 の 営 業 マ ン で ね。 お 父 さ ん が 六 鹿 証 券 に い て 勝 見 ツ ー バ イ ツ ー と か ね、 い ろ い ろ あ り ま し た。そのツーバイツーも、張本人の兄貴は私とこ ――投資ジャーナルが関係した事件でしたね。 証券レビュー 第55巻第10号 ― ― 122 件っていうのもありましたでしょ。 ――日本レース株の買い占め事件ね、ありました ね。 思うんです。話は漏れるものであり、隠すと却っ て拡大して手に負えないようになりますから。 ―― 他 に も 京 都 で は 買 い 占 め 事 件 が あ り ま し た ね。十全会とか。 勝見 そこは私とこに、一件五〇万株とか何十万 株単位で、高島屋とか京都ホテルとか数社の発注 勝 見 四 日 目 に な っ て も お 金 が 入 っ て 来 な い ん で、私は、「売 る」と言うたんです けど、大林富 ――ショートしてしまったんですね。 ――四〇もの口座を使って…。 なったりしました。 作 っ て も ろ て ま し た か ら。 あ れ は 国 会 で 問 題 に も六〇万株ぐらいは手持ちになったんです。 次郎氏が反対して売らさなんだわけです。それで 勝見 四五ぐらいあったかと記憶しています。 が あ り ま し た ね。 私 と こ で、 四 五 ぐ ら い 口 座 を 私は近畿財務局へ行って、相談したんです。私は 行 っ て 相 談 し て、 全 部 処 分 し た ん で す。 そ や か したら知恵を出してくれるという考えですから、 勝見 全部法律上通っていますからね。ありがた わけですね。 ――あ、そうですか。いろんな名義で作っていた 困ったときは隠さずに近畿財務局へ行って、相談 ら、やっぱり、決断力が早よなかったらあかんと ― ― 123 勝見 それも仕手グループが物すごう買い占めし たわけですよ。この買い占め事件では、私とこで 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(上)― い の は、 全 部 三 日 目 に キ ャ ッ シ ュ で お 金 を く れ て、一遍も遅延したことはありません。金持ちて みなそういうことする、京都は。 ※ 本稿は、滋賀大学経済学部教授二上季代司氏 と当研究所から小林和子、深見泰孝が参加し、 平成二七年三月一〇日に実施されたヒアリング ― ― 124 の内容をまとめたものである。文責は当研究所 にある。 ※ なお、括弧内は日本証券史資料編纂室が補足 した内容である。 証券レビュー 第55巻第10号 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(上)― 勝 見 昭 氏 略 歴 昭和10年1月1日 京都府出身 昭和26年4月 丸近証券株式会社入社 昭和30年3月 同志社商業高校卒業 昭和56年11月 丸近証券株式会社取締役(~昭和57年12月) 昭和57年12月 同社常務取締役(~昭和59年5月) 昭和59年5月 同社専務取締役(~昭和60年11月) 昭和60年11月 同社代表取締役副社長(~昭和61年11月) 昭和61年11月 同社代表取締役社長(~現在) 平成4年7月 日本証券業協会地区評議会地区部会委員(~平成6年6月) 平成19年7月 同協会大阪地区別評議会委員(~現在) 平成25年7月 同協会インターネット証券評議会委員(~平成26年6月) ― ― 125
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