兜町の重鎮に聞く - 日本証券経済研究所

兜町の重鎮に聞く
今回、証券史談にご登場いただくのも、兜町の
中小地場証券の纏め役として活躍された十字屋
続けてお話をお聞きしてきた。
彌氏、丸国証券の渡邊靖國氏と兜町のリーダーに
た極東証券の菊池葊之氏以来、藍澤証券の藍澤基
ヒストリーを掲載してきた。今年七月号に掲載し
一昨年三月から、「証券レビュー」に証券史談
と題し、戦後証券史を彩ってきた方々のオーラル
は、兜町の地場証券では珍しく裁定取引を中心に
と と も に、 も う 一 方 の 収 益 源 で あ っ た 自 己 売 買
十字屋証券は、戦前に現物商から身を興し、戦
後、免許制導入までは、大口顧客(大地主や政治
の創業からの歴史を中心にお話をお聞きした。
廃業は業界に衝撃を与えた。今回は、十字屋証券
の歴史をもつ老舗証券会社であっただけに、その
―安陽太郎氏証券史談(上)―
ホールディングスの安陽太郎氏である。安氏が経
行ってこられた。こうしたブローカー業務の大口
衣替えした会社である。十字屋証券は、約八〇年
営されている十字屋ホールディングスは、平成二
顧客集中は、先代以来、欧米のプライベートバン
家、地場筋)を中心としたブローカー業務を行う
四年三月に廃業された十字屋証券が投資顧問業に
― ―
84
を取り上げた。
また、安氏は証券界に入る前から、証券会社は
「 顧 客 資 産 を 増 や す こ と に こ そ、 そ の 使 命 が あ
る」と叩き込まれ、証券界に入られてからもその
ことを理想とし、その実現を目指されてきた。免
許取得後、十字屋証券では、従来の大口顧客に加
え、機関投資家の注文獲得に注力された。そのた
中心」の経営モデルへの転換と「大口顧客依存の
入とともに大蔵省が打ち出した「ブローカー業務
れてきたことに起因している。しかし、免許制導
クやマーチャントバンクをモデルに、経営が行わ
半部分では、なぜ、そうした経営体質の構築を目
い経営体質の構築が目指された。今回の史談の後
れた。こうして、個人投資家との取引に依存しな
投資顧問会社の設立、専用投信の販売などを行わ
で、投資アドバイザリーを証券業の本流と捉え、
め、機関投資家からの出資受け入れや、また一方
是正」は、大口顧客に取引が集中していた十字屋
指したのかという点を取り上げている。
る。今回の史談の前半は、免許制導入とそれに伴
い、十字屋証券が免許基準に適合するビジネスモ
デルへの転換を、どのようにして行ってきたのか
― ―
85
安陽太郎氏
証 券 に と っ て は、 大 変 な 苦 労 が あ っ た よ う で あ
兜町の重鎮に聞く―安陽太郎氏証券史談―(上)
氏〕が書かれた『かたつむりの記』によれば、御
社は現物屋からスタートし、その後、昭和一五年
く経営環境の変化について、非常に激しい変化が
す。そこで、昭和四〇年以降の地場証券を取り巻
纏め役であったと複数の方からお聞きしておりま
ります。そして、最後に安様は兜町の地場証券の
た議論について、お話をお聞きしたいと思ってお
会の要職もお務めですので、安様が参加されてい
お聞きして参りたいと思います。次に、東証や協
して、最初に十字屋証券の歴史に関するお話を、
きます。本日の史談の基本的な進め方といたしま
――それでは、さっそくですが始めさせていただ
後はいっぱしの相場師だったわけですよ。明治の
なり、その後独立して外務員兼投資家となり、最
安 う ち の 創 業 者〔 安 常 三 郎 氏 〕 の 証 券 界 デ
ビューは、初めは調査マン、そして歩合外務員に
しょうか。
業されるに至った経緯をお聞かせいただけますで
れたと書かれていました。まず、十字屋証券を創
され、戦後も特定の富裕層の機関店として営業さ
で地場筋や富裕層、特に政治家や財界人を顧客と
辿ってこられたかと思います。御社は当初、外交
られて、そして戦後に連なっていくという歴史を
十字屋証券の創業と戦前期の経営
あったかと思いますので、そのあたりについても
三七年だと思うんですが、たばこの専売法という
― ―
86
にお父様が〔東京株式取引所の〕実物取引員にな
お聞きしたいと思っております。
施行され、葉煙草の買い付けから製造販売まで、
のが施行されました〔明治三七年に煙草専売法が
まず、十字屋証券の歴史からお話をお聞きして
参 り た い と 思 い ま す。 安 様 の お 父 様〔 安 弘 一 郎
証券レビュー 第55巻第2号
兜町の重鎮に聞く―安陽太郎氏証券史談―(上)
国営で行われることになった〕。それまで、うち
の祖父は、たばこの葉っぱの買いつけだとか、た
ばこ屋さんへの販売という仕事をやっていたんで
す。
――葉たばこの…。
安 葉たばこ。ところが、専売法で私営の業者が
みんな…。
――全部国有化されますよね。
安 うん、それで転職することになったんです。
――たばこ専売法の施行前は村井煙草だとか、岩
谷 天 狗 煙 草 だ と か、 そ う い う と こ ろ で 働 い て い
らっしゃったわけですか。
安 うちは岩谷天狗煙草。
― ―
87
証券レビュー 第55巻第2号
――天狗煙草にいらっしゃったわけですね。
安 うちの祖父は天狗煙草です。ところが、それ
が国有化されてクローズしたわけです。当時、祖
父はまだ二〇代後半だったと思うんですが、
「俺、
どうしよう」と友達に相談したら、その友達がア
ルバイトだけど、蛎殻町で商品相場の場況を書く
仕事ならあるよと…。そういうアルバイト口を見
つけてくれましてね。それで、『時事新報』で場
況を書いていたんです。社員じゃないんですが、
寄稿すると原稿料がもらえるんですね。一、二年
書いていたんだと思うんですが、相場解説がすご
く分かりやすいし、よく当たったんだそうです。
――蛎殻町ということは、要するに米ですね。
安 米でしょうね、当時ですものね。証券取引所
は開設して一三〇年ぐらいですよね〔東京証券取
引所の前身の東京株式取引所は、明治一一年に設
― ―
88
兜町の重鎮に聞く―安陽太郎氏証券史談―(上)
立された。以来、日本の取引所の歴史は一三七年
を経ている〕。
――そうですね。
安 だから、多分、明治の終わりから大正のはじ
めぐらいのころだと思いますが、商品より株の方
が マ ー ケ ッ ト が 大 き く な る と い う の と、 い い レ
ポートも書いているので、うちの祖父をある証券
会社が引き抜いて、そこの調査部だとか、顧客宛
てのレポートを書くようになったんです〔安常三
郎氏は、山文証券の野口清三郎氏に引き抜かれ、
同社の日報の記事を書いていた〕。そこで場況を
書いていましたら、レポートを出すたびに贔屓の
お客さんができるわけです。そして、お客さんの
中 か ら「 お 前、 俺 が 応 援 し て や る か ら 独 立 し ろ
よ」と言われまして、大正一三年に独立して、こ
こ〔現在、十字屋ホールディングスがある場所〕
― ―
89
――取引員になられた。
引員になった〕。
一五年に㋳印安弘一郎商店として、東株の実物取
昭和一三年には安商店を十字屋商店に改称。昭和
和八年に株式取引員の免許取得の準備をはじめ、
安商店という名の現物店を開業した。そして、昭
商店で歩合外務員として勤務し、大正一三年ごろ
国の大連に渡った後、再び東京に戻って遠山芳三
受けて、山十という株式現物店を開くが失敗。中
経緯は次のようであった。野口清三郎氏の世話を
物店を開いてから、東株実物取引員になるまでの
年に実物取引員になったのです〔安常三郎氏が現
で小さなお店を開いたのです。その後、昭和一五
されていた…。
―― と い う こ と は、 高 橋 財 政 以 降 の 景 気 が よ く
か残っていなかったんです。
は鵠沼の住まいと、戦災で焼失した浜町の土地し
ただ、戦後のどさくさで、理由ははっきりしな
いんですがみんな取り上げられちゃって、終戦時
こっちに別荘を持っていましたからね。
祖父は相当お金を持っていたみたいです。あっち
たんですね。だから、戦争勃発のときに、うちの
な夜な相談して、資金を出し合って株を買ってい
自分で店を開きながら、株好きなお客様たちと夜
かし当時、株は儲かったらしいんです。それで、
な混乱というか、いろんな事件がありました。し
は、戦時体制に入っていくわけですから、政治的
安 う ち は 茨 城 県 の 出 身 な も の で、 日 立 が 好 き
なったときに、軍事株だとか戦時株を中心に売買
安 取引員になったわけです。大正一三年から一
六年間ぐらいの間は現物店だったわけですが、昭
和一五年に取引員になったわけです。当時の日本
証券レビュー 第55巻第2号
― ―
90
だったようです。
――当時の状況を考えると、いい銘柄ですよね。
安 いい銘柄でしょう。日産コンツェルン。日立
の動向については、インサイダーじゃないんだろ
情報に詳しかったみたいです。うちの祖父が一番
金を作ったのは日立だと聞いています。
が入っていたらしいんです。根本正さんという代
る、こういうことをやるというのはいろいろ情報
いたということですが、そのお客さんというのは
数の大口の顧客から、大部分の利益を上げられて
――そして、戦後になるわけですが、戦後も少人
大口取引中心の ビジネスモデルの構築
議士がいましたでしょ。
資産家の個人ですか。
い た ん で す。 根 本 さ ん と い う の は 大 政 治 家 で い
の港区〕三田にあって、そこから早稲田に通って
安 衆議院議員。うちの祖父は、根本正代議士の
書生だったんです。根本さんのお宅が芝区〔現在
たちですよ。それとやっぱり地場筋というか、証
か。そういう、あの時代にお金が創れる立場の人
家。 政 治 家 と い っ て も、 例 え ば 県 会 議 長 さ ん と
オーナーだとか、戦後成金だとか、あるいは政治
――国会議員ですね。
らっしゃったものですから、そういうご縁もあっ
券界に何らかのかかわりを持っていた人たちです
安 実態は個人ですが、形は会社形態を採ってい
た 方 も い ら っ し ゃ い ま し た。 地 主 さ ん や 会 社 の
たのかもしれませんが、茨城県だとか、あの辺の
― ―
91
う け れ ど も、 日 立 が こ れ か ら あ あ い う こ と を や
兜町の重鎮に聞く―安陽太郎氏証券史談―(上)
安 和三郎さん。
――佐藤和三郎さん。
と聞いています。
番』というのを書きましたよね。あの佐藤さんだ
ね。うちの一番大口のお客様は、獅子文六が『大
人は、「僕は三菱が好きだ」と言って、東京海上
金持ちというのは売り買いをしないんです。ある
安 戦後です。もちろん、戦前からの方も数名い
らっしゃいましたけどね…。ただ、戦前からのお
開拓された方ということですか。
――戦前からの顧客ではなくて、戦後、お父様が
安 うん、牛ちゃん。彼なんかが、うちのお客さ
んだったんです。彼は、皆さんご承知のように有
――牛ちゃん。
様では、売り買いをしてくれる人と、バイ・アン
ですから、戦前からのお客様と戦後開拓したお客
です。それ で、売らない。「これはうち の資産な
― ―
92
やキリンビールといった三菱の株ばっかり買うん
名な方ですが、うちのお客さんというのは、ああ
ド・ホールドで長いこと投資する人と、投資に対
――大体、その当時、お客さんが二、三〇人だっ
んだ」と言って、幾ら値上がりしても売らない。
いうふうに証券界に昔いたが、いろんな事情で証
する考え方がちょっと違っていましたね。
を持っている方々です。お客様はいろいろバラエ
たと本で読んだことがあるんですけれども。
安 まあ主力客はそうでしょうね。
ティーのある人たちでした。
た人。一口で言えば、相場が好きで上手く、資産
券界から去られたけれども、資産を結構持ってい
証券レビュー 第55巻第2号
と新株が一緒になりますから、〔新株で〕品渡し
て親株を売りつないでおく。決算が終わると親株
株の方が安かったんです。ですから、新株を買っ
ので、親株が三〇円も四〇円も高く買われて、新
の差は一〇円しかないのに、流動性があるという
が、親株は信用取引が出来て流動性が高い。配当
し た か ら、 親 株 と 新 株 と 我 々 は 言 っ た わ け で す
す。昔は増資をする場合、額面割当でやっていま
安 ディーリングと今では言いますが、当社が得
意としていたのは裁定取引。特にさや取り商いで
ディーリングと大口のお客さんの売り買いで…。
―― そ う す る と、 免 許 制 に な る 前 と い う の は、
安 そういう意味です。
いう意味ですかね。
――よく売り買いされるお客さんが二、三〇人と
引というのは、空売りしたら最終日に買い戻さな
売って親株を買っておいたりしました。発行日取
高くなっちゃってね。そういうときは、発行日を
あまり動いていないのに、発行日取引株が物凄く
少ないものを買うわけです。そうすると、親株が
で、短期で株の売買益を上げたい人は、証拠金の
入された〕。これもまた証拠金が少なくて済むの
させた「発行日決済取引」となって各取引所で導
硝子事件を契機に、「仮上場制度」やそれを発展
決定から株式発行までの間に行った権利取引。旭
建整備法に基づいて設立された第二会社が新たに
〔取引所上場会社による株主割当増資や、企業再
当社はどちらかというと増資新株とか、あと当
時、発行日〔決済〕取引というのがありましてね
しゃったけれども…。
証券さんなんかは東西の裁定取引もやっていらっ
― ―
93
発行する株式を割り当てられる投資家が、割当の
をするという形の裁定取引をしていました。安藤
兜町の重鎮に聞く―安陽太郎氏証券史談―(上)
思っても売りものがなく、買い戻せなくなって、
きゃいけないわけです。ところが、買い戻そうと
安 日計りはやらなかったですね。
い。
ケースが数回あり、解合いが行われた〕。
引で買い建てた株を、現引きなどで買い戻せない
安 日計りをやっていた人は、大体が消えちゃっ
たですね。昭和二〇年代、三〇年代の相場は数年
ね。
―― 普 通 は、 兜 町 の 方 々 は 日 計 り が 多 い で す よ
解け合いなんかがあったそうです〔発行日決済取
――旭硝子事件ですね。
手 の 筆 頭 で し て ね。 う ち の 父 は 売 り 方 の 一 員
だったそうです。山種さんを非常に尊敬していた
で短期売買をやるわけですよね。ところが、三年
頭さんや何かが、会社から任された金額の範囲内
かけられたことはなかったですか。
安 あまりなかったですね。うちは小ぢんまりし
― ―
94
お き に 暴 落 が あ り、 暴 落 の た び に 短 期 売 買 の 業
ものですから、山種さんが「今度あれがおもしろ
に一遍ぐらいドカンと暴落が来ると、大幅に損が
者、業者というより、会社の株式部長と称する番
いよ」と言うと、「そうですか」と言って、裁定
出て、もう止めるという繰り返しでした。
額面割当増資がなくなり時価発行時代になって、
当社は転換社債で裁定取引を行っていました。
――日計りではなくて…。日計りはあまりやらな
――御社は、そういうふうに番頭さんなどに損を
取引をやっていました。昭和四〇年代になると、
安 旭硝子事件。山種〔種二〕さんがこれの売り
証券レビュー 第55巻第2号
ね。
たくさん稼ごうなんていう意思はなかったです
だと。儲かるからといって、このときとばかりに
すよ。ほどほどに利益が上がれば、それでいいん
あまり荒稼ぎをする必要はないという感じなんで
ていたので、目が行き届いていますからね。父も
や、思い出話などがありましたら、お話いただけ
す が、 免 許 制 の 導 入 に 関 し て ご 苦 労 さ れ た こ と
はかなりご苦労されたのではないかと思うわけで
ております。そうしますと、証券業免許の取得に
許を交付しないという方針があったようにも聞い
で、特定顧客だけを対象にしている業者には、免
三日事務連絡で、過去数年間の市況沈滞時の手数
様々な制約が設けられました〔昭和四一年五月一
い っ た こ と や、 幅 広 い 顧 客 を 確 保 せ よ と い っ た
ローカー業務で経常収支率一〇〇%を確保せよと
―― と こ ろ が、 免 許 制 が 導 入 さ れ る と き に、 ブ
きたんです。
ヨーロッパとアメリカを四〇日間ぐらい視察して
産性本部が主催する欧米証券視察団に加わって、
ました。また、うちの父が昭和三四年に、日本生
いうと特定顧客にサービスをするという業態で来
― ―
95
ますでしょうか。
料収入の実績を基準として、有価証券売買損益を
当時はまだ昭和三〇年代ですから、日本の証券
市場がどういう方向で発展していくかという絵は
証券会社の使命と現実のギャップ
除外して収支を均衡させることが求められた。ま
なかったわけですが、視察を通じてうちの父は、
安 そうですね。先ほどから申しておりますよう
に、私の会社はスタートの時点から、どちらかと
た、免許制実施要領でも求められた〕。また一方
兜町の重鎮に聞く―安陽太郎氏証券史談―(上)
中 堅 ど こ ろ か ら 参 加 し た の は、 三 洋 証 券 の 土 屋
団員は、副団長が大和証券の〔岡村新市〕会長、
話されていたそうです。このときに参加していた
市場はどうあるべきか、ということを団員たちと
すが、小池さんは旅行の間中、将来の日本の証券
られて、なかなか博学でもいらっしゃったわけで
国三さんのご長男で、オックスフォード大学を出
のように、小池さんは小池銀行を創業された小池
この視察団の団長を務められたのが、小池厚之
助さんという山一証券の会長さんでした。ご承知
です。
商売をするべきだ、というふうに思ったそうなん
裕層とか金融機関といったプロ集団を相手にした
たいな、一般大衆を顧客にするのではなくて、富
ベートバンクやイギリスのマーチャントバンクみ
証券会社というのはヨーロッパスタイルのプライ
は山一に行け」と言われて、山一証券に就職した
さんの主張される路線が正しいと思うから、お前
なって、父にどこへ行こうかと言ったら、「小池
も、大学卒業を前に、証券会社に就職することに
う で す。 私 が 大 学 を 出 て 山 一 証 券 に 就 職 す る の
日本の証券業は行くべきだというお考えだったよ
ていた〕。ですから、小池さんはそういう路線で
入金、再割引手形、コールマネーによって調達し
調達も預金ではなく、優良公社債を担保とした借
は公社債引受業務を中心としていた。また、資金
は銀行と称していたが、小池国三が無担保の借金
もともと合併以前の小池銀行というのは、マー
チャントバンクスタイルなんですよね〔小池銀行
省から一、二名参加されていたようです。
してうちの父がメンバーで、それに取引所と大蔵
〔保雄〕さん、安藤証券の安藤〔俊三〕さん、そ
― ―
96
を嫌い、預金への依存を忌避していたため、業務
〔陽三郎〕さんですとか、ナショナル証券の坂口
証券レビュー 第55巻第2号
と、会長の理想と現場は全然違いましてね。
た わ け で す。 と こ ろ が、 山 一 証 券 に 入 っ て み る
そういう路線の証券会社なんだと思って僕を入れ
思うんです。うちの父は、山一証券というのは、
路線を引き継いできた部分があったからだと僕は
当時の山一証券は、「事業法人の山一」と言わ
れていたんです。それはやっぱり小池国三さんの
わけです。
て、山一証券を退社するわけです。
う。こんなところにいても何も参考にならないか
経 っ た と き、 う ち の 父 に「 山 一 の 現 場 は 全 然 違
山一証券へ入社したんですが、一年半か二年近く
ていっちゃうという感じです。僕は昭和三八年に
派が強くて、小池さんの路線はだんだん細くなっ
安 対抗してというか、強気で負けん気が非常に
強い社長でしたからね。山一証券の社内では大神
るのに対抗して、大神さんが…。
なんかもたくさん採って、それでマスセールスと
ら、あらゆる面で競争に負けたくないので、社員
おっしゃいましたが、社長さんは本当の意味の証
会社の理想と現実のギャップに啞然とした」と
――山一証券で仕事をされている過程で、「証券
ら、山一を辞めてアメリカに留学したい」と言っ
当時は大神〔一〕さんが社長をなさっていたん
ですが、大手四社の中でも当時の山一証券は、ま
いいますか、一般大衆を対象とした営業路線を拡
安 僕は、山一証券へ入る前に、アメリカの証券
か。やっぱり理想があるわけでしょう。
券業の理想というのはどういうものとお考えです
――野村が営業力をバックに、規模を拡大してく
大させていったわけです。
だ ト ッ プ シ ェ ア だ っ た と 思 う ん で す よ。 で す か
兜町の重鎮に聞く―安陽太郎氏証券史談―(上)
― ―
97
のノルマというか手数料稼ぎで、想像もつかない
まぁ、お客さんの利益なんてそっちのけで、会社
ところが、山一証券に入ってみると、僕は池袋
支 店 の 個 人 営 業 か ら ス タ ー ト し た ん で す が、
を強く持っていたわけです。
た。ですから、証券業に対してそういうイメージ
資産を増やすことなんだと叩き込まれていまし
学在学中に彼らから証券業というのは、お客様の
もちろん、うちの父の関係もあるんですが…。大
とかが、どういうわけか知り合いだったんです。
ンチにいらっしゃったすごく営業力があった方だ
なっていたんです。それから、日系人でメリルリ
の ス ミ ス・ バ ー ニ ー に い て、 い ろ い ろ お や り に
す。吉井さんは、昭和三〇年代からニューヨーク
んの息子さんの吉井栄さんと知り合いだったんで
券業をやっていた、例えばソニーの吉井〔陛〕さ
会社の人ですとか、日本人でもアメリカで長く証
安 やはりいい商品だと思えば、夜夜中まで営業
――お若いのに。
て、社長表彰までいただきました。
件だという得心が得られたものを一生懸命売っ
オープン投信があったんです。これはいい投資物
た。当時、山一証券が運用していた、すごくいい
方 で 上 げ ま す と 言 っ て、 マ イ ペ ー ス で や り ま し
われれば、それは上げますと。ただ、自分のやり
ら、例えば月間一〇〇万円の手数料を上げろと言
僕は自分の信条を曲げるわけにはいかないの
で、そういう営業には一切関わらないで、会社か
た。
なったわけですけどね…。これは違うと思いまし
よ。 だ か ら、 そ れ が 行 き 過 ぎ て あ あ い う 破 綻 に
だというくらい、もう無茶苦茶やっていたんです
ようなことでも、法律に触れなきゃ何でもいいん
証券レビュー 第55巻第2号
― ―
98
る。こういう仕事こそ証券会社の営業だと固く信
かったことが分かるし、お客さんも喜んでくださ
に リ タ ー ン が 返 っ て く る と、 自 分 の 考 え が 正 し
しても苦労にならないんです。お客様にそれなり
事件が始まるでしょう。
昭和四十年三月だったんですが、すぐ山一証券の
山一証券を辞めたんです。ところが、辞めたのが
そうしたら「いいだろう」ということで、それで
――五月ですからね。
「お前、それどころじゃない。ともかく、しばら
どね。だから、山一証券の現実が理想とあまりに
私が山一証券にいた当時、もう山一証券は追い
詰められていたわけです。収入は主に営業店が稼
く余裕が出るまでうちの会社で働け」と言われま
も違ったわけです。
ぐわけですから、営業にプレッシャーがかかるわ
してね。それで、計画は実現しなかったんです。
安 株価が下がってくるし、そうすると十字屋証
券のお客さんもごたごたしだすでしょ。それで、
けです。だから、営業は理想なんて言っていられ
てね。それで、僕はアメリカに行きたいと思って
したから。それを見て、これは違うなと思いまし
な帰っちゃダメだと、そういう営業をやっていま
メリカ留学に行くまでの、しばらくの間…。
合外務員で戻られますけれども、それは後々のア
――ということは、十字屋へ戻られたときには歩
ない。ともかく、今日は何百万円上げなきゃみん
いたので、父に「山一を辞めて、二、三年、アメ
安 それもあったし、アメリカではみんな歩合な
んですよ。
リカで勉強してきたいんだ」と言ったんですよ。
― ―
99
じているわけです。いまだに信じているんですけ
兜町の重鎮に聞く―安陽太郎氏証券史談―(上)
安 コミッション。アメリカでの証券マンの話も
いろいろと聞いていたし、私の理想が自分自身の
――コミッションブローカーですよね。
は、うまくやればすごいお金になりますからね。
え る お 金 が 必 要 な ん で す。 歩 合 外 務 員 と い う の
間を作って、相談が来ると、私どもと取引してく
――どこかへトレーニーで行かれて戻って来られ
ださいというやり方なんです。だから、自分で使
収益とお客様の利益を一致させて、お客様を儲け
やしていくということをやらせてくれ」と言った
た二世の方で、歩合外務員で会社へ戻られる方は
させることですから、父に「歩合で、お客様を増
わけです。
当時、僕の営業のやり方は、どぶ板を渡って一
軒一軒飛び込むとかではなく、ゴルフ場の会員に
引いているんです。
い」という素朴な原則がありまして、それが糸を
す。 う ち の 祖 父 の 頭 の 中 に、「 自 分 で 稼 い で こ
――まずは自分の理想に近づける。
気にしないで、自分で…。
あの人がどうしている、こうしているというのは
わけです。それに近づけようと思っているから、
安 いないでしょう。僕はさっき申し上げたアメ
リカの証券マンという、証券マンの理想像がある
― ―
100
珍しいと思うんですけれども。
なったり、当時はまだ若かったから青年会議所や
安 そうそう。
いろんなグループに入って、信頼できる友人、仲
商工会議所、ロータリークラブだとか、そういう
我が家は、うちの父も祖父と一緒に証券会社を
始 め た と き に、 や っ ぱ り 歩 合 を や っ た ら し い で
証券レビュー 第55巻第2号
というお考えでおられたということですかね。
――そのためには歩合の方がむしろ合理的だろう
て、免許制のときかその直後に持ってもらったわ
「うちと住友銀行で少し持ちましょう」と言っ
ん〔 現 在 の 三 井 住 友 銀 行 〕 と 親 し か っ た か ら、
けです。そういうきっかけで大和証券さんと住友
安 合理的だと。
長をなさっていた方なんです。「こういうことで
ね。それで相談したのが、当時、大和証券の副社
資本をもう少し分散させなさいと言われまして
いたんです。これでは公共性がないからダメだ、
です。うちの会社の株式は、父が一〇〇%持って
安 免許制の導入は昭和四三年ですよね。そのと
き、たしかに経常収支率や資本構成も言われたん
際のご苦労など…。
――免許制導入時の話に戻しまして、免許取得の
に、大和さんから営業担当の役員を受け入れまし
〇%ぐらいを持ってもらったんです。それと同時
いしたんです。それで、大和さんに株の五%か一
す。だから、その次に親しかった大和さんにお願
証券に株を持ってもらうわけにはいかないわけで
の力がすごく弱くなっていたものですから、山一
安 まあ、親密ではあったんです。僕は山一証券
にいたんだけど、特融を受けた直後で、山一証券
はなく…。
――もともと非常に親密な関係先であったとかで
銀行さんが出資してくれたんです。
行政から言われているんだけど、どうしたものだ
て、営業マンも少し募集しました。それから、当
― ―
101
免許制導入と収益基盤の再構築
ろうね」と言ったら、大和証券さんは住友銀行さ
兜町の重鎮に聞く―安陽太郎氏証券史談―(上)
安 トップ一〇の…。その人たちがどういう売買
をして、手数料をどれだけ払ったのかっていうの
――トップ一〇の…。
リストを出させるんですよ。
時、大蔵省の検査官が来ると、上位一〇人の顧客
という計画で免許をいただいたと思います。
きは、三年先ぐらいにはこういうふうにします、
を受け入れるように経営体制を変えろ」と言われ
安 ですから、それは集中し過ぎているし、問題
があるということで、「もうちょっと広くお客様
――すごいですね、それは。
お客様で七〇%ぐらいを稼いでいたと思うんで
免許制前の当社の収入は、トップ一〇人ぐらいの
いえないとして、指導が行われた〕。ところが、
収入を維持しているものは、経営基盤が健全とは
惑売買等に依存する等正常でない営業体制により
証第六八五号通達にて、自社又は特殊の顧客の思
思うんです〔昭和四二年三月二三日に出された蔵
たと思います。
には対応できませんので、計画を出しただけだっ
営業収益の大口依存からの是正というのは、すぐ
安 ええ。株主構成の是正というのは、すぐにで
きますからすぐに対応しましたが、顧客の拡大や
けれども、計画を立てることで…。
――つまり、実態としてはまだできていなかった
ましてね。多分、僕の記憶では、免許を受けると
を集中的に見るんです。多分そのとき、規制が五
す。
ちょうど、昭和四〇年半ばからマーケットも非
常によかったので、営業員を募集したり、他社か
― ―
102
〇%以内じゃなきゃいけなかったんじゃないかと
証券レビュー 第55巻第2号
クリアするために相当苦労したわけです。父は、
常収支率が何%じゃなきゃいけないという規制を
作っていたわけですから、さっきおっしゃった経
ま し た。 そ れ ま で は 自 己 売 買 で 利 益 は ほ と ん ど
らも来てもらったりして、だんだん拡大していき
合うように会社を作り変えていったわけです。
ることもできないよねということで、免許基準に
めてこの会社に入っていましたので、ここで止め
いう路線もあるねと…。ただ、僕が山一証券を辞
方が何人もいらっしゃいました。うちだってそう
ろんな副業に力を入れて、証券業から転換された
うことですね。
――免許制の導入が、いかに影響を与えたかとい
こんなやかましいことを言われるなら、免許を受
たときがありました。
――それはつまり、廃業するということですか。
安 要するに、免許制が行われたというのは、免
許制以前はマーケットがすごくゆがんでいたわけ
証券業をやっていたわけです。多いときは一、〇
ですね。その前は登録制ですから、いろんな人が
――商売替え。
証券会社数が最も多かったのは、昭和二四年度末
安 廃業というか…。
安 そうです。セントラル商事という貸金業をさ
れていた、網中〔喜三郎〕さんという方がいらっ
の一、一二七社であった〕。
〇〇社以上あったんじゃないでしょうか〔戦後、
しゃるんですが、彼も以前はセントラル証券とい
う証券会社をやっていたんです。その他にも、い
― ―
103
けるのは止めようかというふうに真剣に考えてい
兜町の重鎮に聞く―安陽太郎氏証券史談―(上)
に免許を与えようというふうになったわけです
会社の基準をちゃんと作って、それに適う者だけ
て、免許制を導入することによって、新しい証券
ら、 行 政 も そ う い う お 行 儀 の 悪 い 業 者 は 排 除 し
す。そういうことがあちこちで起きたものですか
たいなことをして価格を吊り上げていたわけで
株を投信が一〇%も二〇%も買って、株価操作み
特定の五銘柄ぐらいだと思うんですが、その流通
を、各社が猛烈にやったわけです。山一証券も、
なって、しかも投資信託の基準価額競争というの
しょ。あれは運用預かりによって資本構成が悪く
安 それで、いろんな事件が起きたりして、さら
に山一証券が第一回目の日銀特融を受けましたで
すとね。
――そうですね、営業をしていた会社数でいきま
け じ ゃ な い し、 そ の 間 い ろ い ろ な こ と が あ っ て
た〕。もちろん免許だけでふるいにかけられたわ
九 月 末 時 点 で、 東 証 の 正 会 員 数 は 八 三 社 で あ っ
何社にまで減っていたと思いますよ〔昭和四三年
員一二社であった。〕。免許制の直後はたぶん八十
証券取引所再開時の正会員数は一一六社、才取会
したときの正会員は一一六社あったんです〔東京
業しました。だって、昭和二四年に取引所が再開
安 もちろん、自主的に廃業されたのは、当時、
取引所の正会員と言われる中でも一〇社以上、廃
業者はたくさんありましたか。
すけれども、やはり兜町でも自主的に廃業された
主的に廃業するという業者がたくさんあったんで
受けるのはもう止めようかというお話をされまし
――先ほど、自主的に証券業を止めよう、免許を
…。
― ―
104
たけれども、地方では免許を受けられないので自
ね。
証券レビュー 第55巻第2号
――不況もありましたしね。
歩合、両方とも…。
もあったんですけれども、御社の場合は、社員、
安 両方でしたね。特に、大手証券で営業をされ
ていたOBの人達を何名かまとめて採用しまし
安 ええ、減少していったんです。
――ということは、免許を受けられるときに特に
た。
安 資本は割合裕福でしたし、会社のサイズも小
さかったもので、コストもあまりかからなかった
か。
――資本金の面では、特にご苦労はなかったです
大きなご苦労というのは、収入構成と資本構成を
安 それから人的構成です。
いましたけれども、やっぱり歩合の人を中心に採
か ら、 そ ん な に 苦 労 し た と い う こ と は な い で す
――先ほど、他社からも採用したとおっしゃって
られたわけですか。それとも社員営業ですか。
あ小ぢんまりやっていたという印象です。
ね。山一証券に象徴される証券不況でも、まあま
安 いや、あのときは、もちろん社員も相当採り
ましたけれども、歩合さんも採りました。
――例えば、ちょうどその当時、証券不況だった
ものですから、他社をお辞めになった外務員の方
を、歩合外務員として積極的に採ったという会社
― ―
105
是正することだったわけですか。
兜町の重鎮に聞く―安陽太郎氏証券史談―(上)
安 まぁ、そうなんです。結局、僕は個人客の回
転商いで商売をやるなんてナンセンスだと思って
その後バブルの頃に、今度は富士銀行〔現在のみ
行が御社の株式の五%を持っていたわけですね。
先ほどお話しになったように、大和証券や住友銀
しょうか。今度は資本構成の問題に移りまして、
正するのに苦労されたところだったということで
構成、売り上げの構成といったところが、主に是
――ということは、資本面というよりむしろ人的
いう人たちを引き受けてくれますかという話なん
関は人員構成が上の方で詰まっているから、そう
さい」とおっしゃるわけです。要するに、金融機
「株を持たせなさい。それから、人を受け入れな
プ に「 ど う し た ら い い で し ょ う 」 と 言 っ た ら、
文もらおうやと…。それで、ある保険会社のトッ
とかに行き着いたわけです。そうだ、ここから注
とか、保険会社だとか、銀行だとか、事業会社だ
いたので、それじゃあ手数料をたくさん払ってく
ずほ銀行〕や、朝日生命が大和証券や住友銀行と
です。じゃあ、それをやりましょうと。ただ、株
れるところはどこだろうと考えたら、信託銀行だ
同じぐらいのシェアの株式を保有する大株主に
式は五%の〔保有〕上限がありますから…。
人営業の強化を目的に銀行からの出資を受けられ
安 独 禁 法 で ね。 そ れ で、 富 士 銀 行、 三 井 信 託
――独禁法でありましたものね。
― ―
106
機関投資家からの資本受け入れと
その目的
なってきます。ちょうどその当時、都銀が証券会
たのでしょうか。
社の系列化を進めていましたけれども、これは法
証券レビュー 第55巻第2号
て、発注もいただいたわけです。そうすると、個
ころに株を持ってもらって、人も出向してもらっ
〔現在の三井住友信託銀行〕、朝日生命といったと
まったので、特金運用をやったわけです。
き渡るわけです。すると、すぐに二、三〇〇億集
も、うちに出向者が来ているから、情報はすぐ行
ると、祭りの寄附じゃないけど、ほかの株主さん
―― そ し て、 富 士 銀 行 か ら 出 資 を 受 け ら れ ま す
安 山一からの出向者はいませんでしたが、山一
出身の営業マンは数名いました。
なかったんですか。
――この当時、古巣の山一証券からの出向者はい
人 客 に 無 理 に 依 存 し な く て も、 会 社 の 収 益 は カ
そうこうしているうちにね、朝日生命さんが勉
強会をやろうよというので、朝日生命さんの有価
証券部と我々で、月に一回ぐらい勉強会を開いた
んです。何回ぐらい開いたかちょっと記憶にない
ちに、当時、運用競争というか、財テクブームが
と、 国 際 部 の 新 設 や、 そ れ ま で 持 っ て お ら れ な
けれども、五回以上、一〇回ぐらいかな。そのう
盛んになってきましてね。
図っていかれますよね。それは、金融機関からの
か っ た 支 店 を 新 宿 に 作 ら れ た り、 業 務 の 拡 大 を
――特金ですね。
受け皿を用意するという側面も…。
安 そういう面もありましたけれども、当時はバ
出資や提携を受ける一方で、銀行からの紹介客の
安 特 金 を お た く で 運 用 し て よ と い う 話 に な っ
て、「朝日さ ん、五〇億円ください 」と言うと、
「いいですよ」と五〇億円出してくれた。そうす
― ―
107
バーできるというふうに思ったわけです。
兜町の重鎮に聞く―安陽太郎氏証券史談―(上)
ブルの発生で、証券会社は大繁盛でした。他社に
所 を 貸 し て あ げ る か ら、 テ ナ ン ト で 入 り な さ い
と。「今度、う ちがビルを作るから、そ のいい場
そのときに、うちに出向していた社員が、「社
長、これは絶対、支店を広げなきゃダメですよ」
れでいいのかなと思いだしたんです。
の顧客へのサービスに特化していたけれども、こ
じゃないですか。うちは支店を持たないで、特定
ますが、物すごい勢いで証券業務が拡大していた
なったわけです。昭和六〇年ぐらいだったと思い
も自分のやり方でいいんだろうかと、半信半疑に
い」と言われたわけです。それで、当時、証券業
券会社の社長が運用をしているのは好ましくな
すが、「実態はお前がやっているじゃないか。証
に、僕はアドバイザーという形はとっていたんで
安 ま ぁ ね、 昭 和 五 七 年 に 社 長 に な っ た ん で す
が、 た ぶ ん 昭 和 五 八 年 か 五 九 年 に 臨 店 検 査 が 来
言って…。
ら、社長自らそんなことやるのはけしからんとか
い た わ け で す け れ ど も、 そ れ に 対 し て 大 蔵 省 か
――当時、特金、ファントラでかなり運用されて
安 昭和五七年。
よ」とか、そういう外の声が非常に大きくなって
務課長とかと親しくしていたので、五号免許とい
― ―
108
比べると当社の経営はパッとしなかったので、僕
きて、少し欲が出て、それまでの方針を若干変え
うのを作るべきだと…〔証券会社の営業免許は、
「第五号免許」とは、資産運用の助言業務をその
第 一 号 か ら 第 四 号 ま で し か な い が、 安 氏 が い う
て、 営 業 実 態 を 調 べ ら れ た わ け で す。 そ の と き
たんです。
――社長になられたのが…。
証券レビュー 第55巻第2号
べきであると訴えていた〕。
業務内容とするものであり、こうした免許を作る
資顧問業者による投資者被害の問題が生じていた
で、投資ジャーナル事件に代表される、悪質な投
年か六一年だったと思いますが、投資顧問法を改
な、年金専門の運用会社だったんです。昭和六〇
の は、 大 手 の 生 保、 銀 行、 証 券 の 子 会 社 み た い
てくださったんです。それまでの投資顧問という
安 運 用 助 言 業 務 が で き る。 そ う し た ら、「 分
かった、投資顧問業法を改定する」とおっしゃっ
――助言業務ができる。
作ったり、変えたりすると、すぐフォローアップ
やりなさいよ」と言うわけです。行政は、法律を
うとおり法律を改正したんだから、あなたはすぐ
くなかったんだけれどね、「せっかくあなたが言
顧問を設立した〕。いや、本音ではあまり作りた
〔十字屋証券は、昭和六一年一二月に十字屋投資
どもは大手金融機関系列以外の独立した運用会社
からであったとされる〕。じゃあというので、私
定して、個人の運用アドバイザーにも一任勘定を
がないと困るらしいです。
券による資産運用のニーズの著しい高揚、それに
その背景は、国民金融資産の急速な増大と有価証
〔投資顧問業法は、昭和六一年に制定されたが、
になって、形だけ作るわけにいかないから、人も
安 実 績 が。 そ れ で、「 ま あ そ う で す ね と。 じ ゃ
あ、当社が作りましょう」ということで作ること
――実績がちゃんと伴ってこないと…。
― ―
109
へ の 解 禁 第 一 号 で、 顧 問 会 社 を 作 っ た わ け で す
解禁する、一任業者の免許を与えるというふうに
伴う投資顧問業へのニーズの高まりがあった一方
制定すると業務課長が言ってくださったんです
兜町の重鎮に聞く―安陽太郎氏証券史談―(上)
い待遇を提示したら、いいファンドマネジャーが
手当てしなきゃいけないので、わりあい条件のい
安 行政もそういう「まがい」がいろいろ出てき
て事件を起こすので、業法を制定して、「ちゃん
あたりは懸念されていなかったですか。
べきじゃない」とか言われたことも、一つの要因
されるというのは、大蔵省から「社長自らがやる
――ということは、昭和五七年に特金営業を中止
いると、必ず何か世間を騒がす事件がきっかけな
よ」というふうになったんです。法律改正を見て
ド バ イ ス だ と か、 一 任 勘 定 を す る の は 違 法 で す
れでやりなさい。その免許を持たずに、勝手にア
来てくれて、それでスタートしたんです。
になってということですか。
んです。
――投資顧問業法は、中江〔滋樹〕の投資ジャー
体事件絡みです。
――大体そうですよね。規制が入るというのは大
――だから、投資顧問というのは、当時はノート
安 そうでしたね。あと、誠備事件なんてのもあ
たね。
― ―
110
としたところには免許をあげるから、ちゃんとそ
安 そうそう。
ナル事件がきっかけではなかったですか。
安 それで、法律措置をとる。
リアスのようなイメージもありましたよね。その
――あれも、中江藤樹の子孫だとか言っていまし
安 投 資 ジ ャ ー ナ ル 事 件 と い う の が あ り ま し た
ね。
証券レビュー 第55巻第2号
何せ、昭和三〇年代にお預かりした当初五〇〇万
――それで、個人の投資顧問業者の第一号になら
の男ですが、物凄く勉強もするし、頭が緻密でし
三五億円になったんです。彼は僕と同い年ぐらい
りました。
れて、そちらに資産を移したわけですか。
んな会合に出ていましたし、発行会社のトップク
円の資産が、一円も足さないで運用だけで最高で
安 そうです。当社が特金運用で運用していたお
客様には、受け皿ができたのでこちらでやらせて
ラスの人の話をじかに聞いたりできたものですか
てね。僕はどちらかというと情報源ですよ。いろ
いただきますということで、そちらに資産を移し
ら、そういうのをお土産に持ってきて、この社長
――投資アドバイザリーをする場合には、銘柄発
げるわけです。彼がいたからわりあい大きな失敗
です。そうすると、彼らがそれをダーッと調べ上
― ―
111
てもらったんです。
掘 と か 銘 柄 分 析 と か、 調 べ な き ゃ い け ま せ ん よ
をしないで来られたんですね。
のこの話はちょっと面白いぞと彼らに伝えるわけ
ね。それはお一人でやられるんですか。
安 その間は何か考えてやっていたんだと思いま
す。そうそうそう、外務員さんを増やしました。
がありますけれども、その間は。
――投資顧問業を始められるまでに、三年間の間
安 社内で。その一人が素晴らしかったんです。
――外部じゃなくて、社内で…。
安 いやいや、わりあい知的レベルの高そうな社
員三、四人でチームを作りまして…。
兜町の重鎮に聞く―安陽太郎氏証券史談―(上)
が よ か っ た か ら、 月 の 手 数 料 が 一、 〇 〇 〇 万 円
当時、大手証券で、社員営業だけど、マーケット
な形で預かった資産を運用していました。
五人ぐらいいて、その人から一任勘定に近いよう
をもらうというんじゃなくて、主力客が三人から
ブラックマンデー、 バブル経済とそれへの対応
だ、二、〇〇〇万円だというのはゴロゴロいたわ
け で す。 彼 ら が、 歩 合 外 務 員 に な れ ば 四 〇 % が
キックバックされます。有力な営業マンを一人呼
ぶと、その人が仲間を二、三人連れてきてくれる
――そうこうするうちに、ブラックマンデーで株
特金でつまずくんですが…。
ましたね。そのころですよ。
――ああいう方の名刺を見ると、大体「投資顧問
安 そうそう、飛ばしね。
価が暴落しますよね。ここから山一証券は、例の
室」と書いていますね。大阪なんかは、歩合外務
員で出来る人というのは運用もうまかったです
安 あのあたりもちょっと問題ですよね。お客様
を誤らせるというか…。だけど、当時の歩合外務
か何とか」でしたね。
いましてね、菊池〔廣之〕さんだとか、一〇人か
田淵〔節也〕会長とブラジルへ行くことになって
安 僕はたまたまブラックマンデーの一週間ぐら
い前に、ニューヨークにいたんです。野村証券の
――それは、御社は。
員さんの方は、みんな肩書は「投資顧問室 何と
よ。要するに、あちらこちらのお客様から手数料
― ―
112
んです。多いときは四、五〇人の外務員部隊がい
証券レビュー 第55巻第2号
「ともかく手持ちのポジションは少なくするよ
おけ」と連絡したんですよ。投資顧問会社にも、
れ。お客様にも危険な状態だということを伝えて
るかもしれないから、会社の手持ちの株は全部売
に会社へ電話して、「ともかくやばいことが起こ
がおかしいぞと思いましてね。それで、僕はすぐ
ていると、これはちょっとアメリカのマーケット
でいろんな会議に出て、ディスカッションを聞い
ました。ブラックマンデーの直前にニューヨーク
ンデーは、グリーンスパンが就任してすぐに起き
で、ちょっと先に行っていたんです。ブラックマ
が、僕はニューヨークに知り合いが何人かいたの
す。そのとき、ニューヨークで集合だったんです
ら一五人ぐらいの方々とブラジルに行ったんで
んです。そういう匂いが分かるんだ。
はその匂いを嗅ぎましたね。やっぱり株屋さんな
かおかしいぞという匂いがあるんです。あのとき
ですよ。いろんな事件が起こる前には、これは何
これはちょっとやばいことになるよ」と言うわけ
イールド・ボンドの決済ができないとか言って、
ス ト ラ テ ジ ス ト と ご 飯 を 食 べ て い て、「 ハ イ・
キーでしたね。その直前に債券が強い証券会社の
四・九%下げる暴落となった〕。あのときはラッ
八 銭 下 が り、 二 一、 九 一 〇 円 八 銭 と 前 日 比 で 一
前日の二五、七四六円五六銭から三、八三六円四
ンデーが起きた一〇月一九日、日経平均株価は、
安 もう真っ青でね。あれは一日で一〇%以上、
一四%とか値下がりしたんじゃない〔ブラックマ
――ボードがみんな…。
――何か不穏なざわめきというか。
う」言ったんです。それで、帰ってきた翌日がブ
たという…。
ラックマンデーですよ。朝起きたら大暴落が起き
兜町の重鎮に聞く―安陽太郎氏証券史談―(上)
― ―
113
で、日独機関車論というのが出て、「日本とドイ
に プ ラ ザ 合 意 と い う の が あ っ た で し ょ う。 そ れ
いう感じだったでしょ。あのときは、昭和六〇年
安 不 穏 な。 そ れ か ら み ん な が 少 し 浮 き 足 立 っ
て、要するにゴムが伸びきっているような、そう
…。 何 か の き っ か け で 暴 落 す る ぞ と 感 じ ま し た
よ か っ た け れ ど、 こ れ は ち ょ っ と で き 過 ぎ だ と
いうのを僕は聞いて、今までマーケットが非常に
を舞台にディスカッションされていました。そう
経済の動きが非常にダイナミックにニューヨーク
金になって下がったんですね。そういう国際政治
ツは内需拡大をしてくれ。アメリカは双子の赤字
ね。
ルのときはいかがですか。
――それで、事なきを得たと。そうすると、バブ
を拡大させないためにいろいろやるから」という
ところが、ドイツが内需拡大について、昔イン
フレでさんざんな目に遭っているから強力に反対
して、それがブラックマンデーのきっかけになっ
安 バブルのときは、僕は昭和六二年、ダウ平均
でいうと二五、〇〇〇円ぐらいから以降の株価は
――ハイパーインフレになっていますからね。
五〇」の取引が開始した。「株先五〇」は、日経
〔昭和六二年六月九日、大阪証券取引所で「株先
大阪証券取引所で株の先物ができたわけですよ
たんでしたね。
安 ハイパーインフレの経験があるから。日本は
あれで内需拡大と金利低下でバブルへ持っていっ
平均株価に連動するよう選ばれた五〇銘柄の株式
説明できない、バブルだと思った。あのときは、
たわけですが、ドイツが協力を拒んだことが引き
― ―
114
合意があったわけです。
証券レビュー 第55巻第2号
は説明がつかない値段なんですよ。これはおかし
九一五円八七銭まで上昇した〕。ところが、これ
銭であったが、平成元年一二月末のそれは三八、
二年六月末の日経平均株価は二四、一七六円四〇
〔大証で「株先五〇」の取引が開始された昭和六
円 か ら 三 九、 〇 〇 〇 円 近 く ま で い っ た わ け で す
どん上げちゃって、二年半ぐらいで二五、〇〇〇
た〕。それで、先物取引が先行し裁定取引でどん
る決済の手段がなければならなかったためであっ
引が認められておらず、現物株式の受け渡しによ
取引法では現物の裏付けのない指数そのものの取
〇銘柄の株式をパッケージしたのは、当時の証券
をパッケージしたものを売買するものであり、五
て、スイスで厚遇されましたよ。
で、 事 な き を 得 た よ う で す。 後 で 随 分 感 謝 さ れ
かけに、日本株をバーッと売ったそうです。それ
たそうですが、彼は僕のアドバイスを一つのきっ
は一時的だ」と言ったそうで、僕は少数意見だっ
聞いたそうですが、ほとんどの人は「こんなもの
す。もちろん、あちこちの証券会社の人に意見を
方がいいよ」と言ったら、彼はすぐ実行したんで
聞くんですよ。僕はそのとき、「日本株は売った
て、「日本のバブルは破裂したんじゃないか」と
ト ッ プ が「 ち ょ っ と 会 い た い 」 と 急 遽 飛 ん で き
が、休みで家にいたら、スイスのあるファンドの
し ょ。 一 月 一 五 日 の 成 人 の 日 だ っ た と 思 い ま す
そして、平成二年の年初から株が下がり出すで
ね。
脇を固めようや、というスタンスで経営しました
い、うちはここで儲けないでいいから、ちょっと
兜町の重鎮に聞く―安陽太郎氏証券史談―(上)
― ―
115
…。
ある意味、私の理想とする運用方法を求めたわけ
よというのがそもそもの発想でしてね。これは、
持ってもらって、ウイン・ウインの関係を築こう
安 やっぱり、お客様に、我々の意思が完全に働
い た フ ァ ン ド を 買 っ て も ら っ て、 そ れ を 長 期 で
話をいただけますでしょうか。
と思うんですけれども。この取り組みの経緯をお
す。これは、中小証券ではかなり早い取り組みか
成六年にはインベスコ投信の単独販売が始まりま
を締めた経営をされていたわけですけれども、平
――その後、バブルが崩壊します。バブル期は脇
安 うちを定年で辞めた社員が、阿部さんのとこ
ろで総務部長か何かで入ったんです。その社員が
かけなんですか。
――阿部さんと接点をもったのは、どういうきっ
す。
たわけです。それで、専用ファンドをやったんで
それで販売は十字屋がやるというスキームを作っ
運用するから、入れ物はインベスコを借りよう。
やろう」となったわけです。阿部さんは、うちが
言うので、「僕もそう思う」と言ったら、「じゃ、
安 阿部さんのところね。阿部さんと話をしてい
ると、彼が「こういうのをやるべきだと思う」と
――阿部〔修平〕さんですね。
です。インベスコに投資信託の設定、運用をお願
来 て、 僕 に「 ス パ ー ク ス の 阿 部 社 長 は 素 晴 ら し
― ―
116
理想の運用を追求した 専用投信の販売
い し た の は、 ス パ ー ク ス と い う 投 資 顧 問 会 社 に
証券レビュー 第55巻第2号
て、シンガポールかどこかで運用の仕事をしてい
な か な か す ば ら し い 男 で、 今 は あ の 会 社 を 辞 め
そして、アドバイザーは阿部さんの会社の木村
〔寿克〕君という若い人だったけれども、これが
たんですね。
に、「こういうのを作ろうよ」ということになっ
れ で 何 度 か 会 っ て、 お 互 い に 話 を し て い る う ち
い。一回会ってくれ」と言ってきたんですよ。そ
ちゃったんです。それで、彼らがこちらの意思や
投資家になってもらいたくない投資家にまで売っ
思うんですが、そういう表面の数字作りで、本来
との意思疎通がうまくいっていなかったせいだと
すると、機関投資家は半年か一年して基準価額が
投資家に何十億って売っちゃうわけですよ。そう
は、営業が数字を作りたがるものですから、機関
短期間で償還することになったんです。というの
残高が八割も減ったとかいうことになって、採算
― ―
117
一、二割上がってくると、すぐ売るんです。営業
ますが…。
―― そ の こ ろ か ら、 ス パ ー ク ス っ て あ り ま し た
が合わないんですよ。我々の方も、態勢を整える
思惑とは関係なくドーンと売っちゃうと、投信の
か。
思うんです。
おうということで、二、三年で償還しちゃったと
ために社員を張りつけるわけですが、コスト割れ
になっちゃったんです。それで、もう償還しちゃ
安 野村にいたんです。ところが、この投信は、
――阿部さんは野村にいましたよね。
安 ありました。ちょうど阿部さんがニューヨー
クから帰ってきてすぐのころですね。
兜町の重鎮に聞く―安陽太郎氏証券史談―(上)
――最初は長期で持ってもらうことを想定してい
た。
安 そう。
安 そうなんです。期間収益を求められているか
ら、「そんな、三年や五年なんて持っていられな
いよ、どうなるか分かんないんだから」と言うわ
り売れないんです。ところが、機関投資家は「い
き合ってさんざんな目に遭っていますから、あま
安 個人の富裕層を狙ったんです。ところが、個
人の富裕層というのは、あっちこっちで投信に付
品であったわけですね。
ではなくて、個人の富裕層を想定して作られた商
の回転売買をさせて手数料を儲けるとか、そうい
社の役割であると…。したがって、お客さんに株
あって、お客様の資産を増やすことこそが証券会
というか、そちらの方が本当は証券業のメインで
すと、社長様の考えというのは、若いころから一
――ということは、ここまでお話を聞いておりま
けです。
い話じゃない。つき合ってあげるよ」と、すぐ付
うことはあまりしたくない。そのためにはどうし
――ということは、主たるお客さんは機関投資家
き合ってくれるわけです。だけど、彼らはすぐ売
たらいいかというので、専用の投信を作ったり、
りだとか、そういうことをされてきたということ
― ―
118
貫して投資アドバイザリーというか、投資顧問業
るんですよ。
――一年毎の決算で少しでも利益を出しておかな
になるんですね。
機関投資家の注文が入るように出資を受け入れた
きゃなりませんからね。
証券レビュー 第55巻第2号
までは、お客様に売り買いをやらせても、お客様
の経済成長がピークアウトした昭和六〇年ぐらい
ことでしょう。それは儲けさせることです。日本
にできることといったら、投資家の欲求を満たす
安 僕はそう思っていたんです。今でもそう思っ
ているんです。要するに、証券業者として投資家
です。
の関係をどうやって作るかをずっと考えていたん
たないと思うんです。ですから、ウイン・ウイン
お客様にコンフリクトがあると、業として成り立
導を強くしてきましたけども。私は、証券会社と
れが目に余っているので、行政が是正というか指
に損をさせないである程度儲けさせることができ
※ 本稿は、滋賀大学経済学部教授二上季代司氏
と当研究所から小林和子、深見泰孝が参加し、
の内容をまとめたものである。文責は当研究所
平成二六年一〇月六日に実施されたヒアリング
ところが、経済成長がピークアウトしたのに、
同じやり方を未だにやっているわけです。これで
にある。
※ なお、括弧内は日本証券史資料編纂室が補足
した内容である。
はお客様と証券会社にコンフリクトが起こるわけ
ですよ。証券会社が儲けようと思えば、お客様に
手数料を払ってもらわなきゃいけない。お客様が
ずっとバイ・アンド・ホールドでもっていただく
と、証券会社は儲からない。投資信託だってそう
じゃないですか。本来は長く持っていなきゃいけ
ないものを、回転させていたでしょう。最近、そ
― ―
119
たんです。
兜町の重鎮に聞く―安陽太郎氏証券史談―(上)
証券レビュー 第55巻第2号
安 陽太郎(やす ようたろう)氏
略 歴
昭和16年1月29日 東京都出身
昭和38年3月 早稲田大学商学部卒
昭和38年4月 山一証券入社(~昭和40年3月)
昭和40年3月 十字屋証券入社
昭和45年11月 同社取締役(~昭和48年11月)
昭和48年11月 同社常務取締役(~昭和53年12月)
昭和53年12月 同社専務取締役(~昭和57年12月)
昭和57年12月 同社代表取締役社長(~平成24年3月)
昭和63年1月 日本証券業協会東京地区評議員(~平成3年6月)
昭和63年1月 同協会東京地区総務部副部会長(~平成元年7月)
昭和63年1月 東京証券取引所財務委員会委員(~平成元年7月)
昭和63年2月 日本証券経済研究所理事(~平成元年7月)
平成元年7月 日本証券業協会総務委員会委員(~平成3年6月)
平成2年7月 東京証券取引所会員監事(~平成3年6月)
平成2年12月 日本証券業協会個別オプション研究会委員(~平成4年6月)
平成3年7月 同協会システム化特別委員会委員(~平成5年6月)
平成3年7月 東京証券取引所会員理事(~平成5年6月)
平成3年7月 同取引所会員委員会副委員長(~平成5年7月)
平成5年7月 日本証券業協会業務委員会委員(~平成6年6月)
平成5年7月 日本証券経済研究所運営委員(~平成6年7月)
平成6年7月 日本証券業協会理事(~平成10年6月)
平成6年7月 同協会店頭委員会副委員長(~平成7年6月)
平成6年7月 同協会研修委員会委員長(~平成7年6月)
平成6年7月 同協会証券外務員資格試験委員会副委員長(~平成7年6月)
平成6年7月 同協会東京地区規律委員会委員(~平成7年6月)
平成6年9月 同協会経営問題研究会委員(~平成7年4月)
平成7年1月 同協会店頭登録基準検討等懇談会委員(~平成7年6月)
平成7年7月 同協会業務委員会副委員長(~平成8年6月)
平成7年7月 同協会業務市場監理委員会副委員長(~平成8年6月)
平成7年7月 同協会店頭登録委員会委員長(~平成8年6月)
平成8年7月 同協会業務委員会委員長(~平成9年6月)
平成8年7月 同協会政策委員会副委員長(~平成9年6月)
― ―
120
兜町の重鎮に聞く―安陽太郎氏証券史談―(上)
平成8年7月 同協会政策委員会経済法規委員会委員長(~平成9年6月)
平成8年7月 東京証券取引所業務委員会委員(~平成9年7月)
平成8年7月 同取引所債券先物業務委員会委員(~平成9年7月)
平成9年7月 日本証券業協会会員委員会委員長(~平成10年6月)
平成9年7月 同協会会員委員会証券業経理委員会委員長(~平成10年6月)
平成9年7月 同協会証券取引・業務の電子化委員会副委員長(~平成10年6月)
平成9年7月 同協会規律委員会委員(~平成10年6月)
平成9年7月 同協会特別融資審査委員会委員(~平成10年6月)
平成9年7月 同協会東京地区規律委員会委員(~平成10年6月)
平成9年7月 東京証券取引所会員委員会委員(~平成10年7月)
平成10年7月 日本証券業協会自主規制委員会委員(~平成11年6月)
平成10年7月 同協会投資者保護基金設立準備会委員(~平成10年11月)
平成10年7月 同協会東京地区評議員会評議員(~平成16年6月)
平成10年7月 日本証券経済研究所理事(~平成12年11月)
平成10年7月 東京証券取引所規律委員会委員(~平成11年1月)
平成11年7月 日本証券業協会政策委員会委員(~平成16年6月)
平成11年7月 東京証券取引所理事会副議長(~平成13年10月)
平成11年7月 同取引所会員監事(~平成13年10月)
平成12年11月 日本証券経済研究所評議員(~平成18年7月)
平成12年4月 東京証券取引所規律委員会委員(~平成13年10月)
平成12年7月 東京証券取引所組織形態のあり方に関する特別委員会副委員長
(~平成13年10月)
平成12年10月 同取引所組織形態のあり方に関する特別委員会小委員会座長
(~平成13年10月)
平成13年6月 同取引所組織変更準備委員会委員(~平成13年10月)
平成13年11月 同取引所社外取締役(~平成16年10月)
平成16年7月 日本証券業協会東京地区評議会委員(~平成19年6月)
平成18年7月 同協会会員監事(~平成20年6月)
平成18年7月 日本証券経済研究所監事(~平成20年7月)
平成24年4月 十字屋ホールディングス代表取締役社長
― ―
121