「〔史談〕証券界の重鎮に聞く—井阪健一氏史談(上)—」を掲載しました。

証券界の重鎮に聞く
京証券取引所の副理事長も歴任された井阪健一氏
務められ、その後、野村投資信託委託の社長、東
野村証券で、優れた営業成績を残されて副社長を
方々にご登場いただいていたが、今号と次号は、
きた。今年に入ってからは、地場証券の経営者の
「証券レ ビュー」では、証券史談 として、これ
まで一九名の方に行ったインタビューを掲載して
日興証券との出来高競争があった。NN戦争の当
めになっている時期に、「NN戦争」と呼ばれた
からのお話である。井阪氏が株式担当常務をお務
きしている。二つ目は野村証券の役員になられて
営業畑で活躍された。この営業時代のお話をお聞
の内支店長になられるまでの約一五年、一貫して
店、大阪支店、梅田支店を経て、昭和四二年に丸
―井阪健一氏史談(上)―
に、証券界で辿って来られた軌跡をお聞きした。
れたのか、などをお聞きしている。三つ目が野村
されると、渋谷投資相談所からはじまり、渋谷支
お話は、大きく四つの論点に分けてお伺いして
いる。一つは野村証券でご活躍になったころのこ
投信委託の社長在任時のお話である。井阪氏は営
事者として、当時、どのようなことを思っておら
とである。井阪氏は昭和二八年に野村証券に入社
― ―
87
る。
これらの論点のうち、今号では、第一の論点を
中心に収録している。井阪氏が野村証券に入社さ
れたころは、大手四社の収益格差がそれほど大き
くはなかった。ところが、井阪氏が支店長になら
れた昭和四〇年代になると、大手四社の中でも野
村証券の収益が群を抜いていく。まず、筆者らの
副理事長として、これまでとは一転、市場の番人
か、そのお話をお聞きしている。最後が、東証の
それほどまでに信託財産の拡大に尽力されたの
託の信託財産拡大に尽力された。なぜ、井阪氏は
ものの次々に新たな取り組みを行い、野村投信委
ふるさとファンドの設定、その他実現しなかった
業体を通じた販売強化、公開販売専用ファンドや
付や、「貯蓄株セット」の販売に、その一端が窺
熱心であった。具体的には「百万両貯金箱」の配
方で、野村証券は戦後、大衆資金の導入に非常に
さがそれを実現させたのかもしれない。しかし一
ことが知られている。したがって、ノルマの厳し
され、営業マンには厳しいノルマが課されていた
ん、当時、野村証券は「ノルマ証券」などと揶揄
ら生まれてきたのかということであった。もちろ
関心は、野村証券の営業の足腰の強さが、どこか
となられたわけだが、両者の間にあるギャップな
える。今号では、このあたりの疑問を井阪氏にお
― ―
88
井阪健一 氏
ど、当時感じておられた疑問などをお聞きしてい
証券レビュー 第56巻第4号
聞きしている。
またま当時は就職難でしてね。
――昭和二八年卒業の人で、就職難の中で就職し
資をしておられたということをお聞きしておりま
証券に入社されたのでしょうか。お父様が株式投
卒業されて野村証券に入られます。どうして野村
います。井阪様は、昭和二八年に大阪経済大学を
――それでは、さっそくお話をお聞きしたいと思
ネをもらって未払い分の授業料を払いに行ったん
と連絡が来ましてね。それで、おふくろからおカ
払っていないから、このままだと学籍を抜くぞ」
井阪 学生時代は遊んでばっかりおって、夏休み
に実家へ帰っとったら大学から「前期の授業料を
ことを聞いたことがあります。
野村証券入社の経緯
すけれども、そのことも関係しているのでしょう
です。そのときは夏休みで学生は不在だったんで
――三重のご出身でしたね。
― ―
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た人を「花のニッパチ」といいますね。そういう
か。
大学へ真っ先に求人を出していて、二番目が日興
を卒業したら就職しなければならなかったんで
井阪 三重県は岡三証券が地場でしてね。祖父の
すが、証券会社は手が早いんですな。野村証券が
井阪 ええ、我が家は祖父の代から株が好きらし
いんです。私は伊勢の河崎町という問屋街の出身
証券〔現在のSMBC日興証券〕だったんです。
す。私は昭和二八年に大学を卒業しましたが、た
だったので家を継ぐことはできませんから、大学
で し て、 実 家 は 代 々 石 炭 屋 で し た。 た だ、 次 男
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(上)―
証券レビュー 第56巻第4号
代から岡三証券と取引していたこともあって、頭
の中に証券というものがあったのか、誰も学内選
考を申し込んでいなかったので野村証券と日興証
券にポンと申し込んだんです。ですから、一番目
に求人が来ていた野村証券と二番目に来ていた日
興 証 券 を ポ ッ と 受 け た。 た ま た ま そ ん な ご 縁 で
す。
――ああ、そうですか。
井阪 うん。大阪経済大学というのは、戦前、昭
和高等商業学校といって、黒正巌さんという京都
大学の経済学部で教授を務められた先生が、私財
を投じてつくられた大学なんです。大阪経大から
は、日興証券とか山一証券、大和証券には卒業生
が入っていましたが、野村証券には誰も行ってい
なかったらしくてね。まぁ、「新規開拓だ」とい
うことで挑戦しました。
― ―
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証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(上)―
当時は、大学のルールで一遍に二社まで選考を
申し込み、最初に採用通知が来たところに行くと
いうことになっていたんです。私は野村証券と日
興証券に応募しましたが、野村証券のほうが一日
か二日早く採用通知が届いたので野村証券へ入っ
たわけです。
私は大阪経大の二期生なんですが、野村証券に
入ったのは私が最初なんです。そういうことがあ
りまして、いろいろしんどいこともあったけれど
も、大学の後輩のためにも途中で「辞めた」と言
うわけにいかんじゃないですか。そのままずっと
辛 抱 し て い た と い う 経 緯 で す。 な ぜ 野 村 証 券 に
行ったんだと聞かれると、夏休みにたまたま大学
へ行ったところ、求人の張り紙があったから受け
たということです。
― ―
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証券が五店舗、野村証券四店舗、山一証券が三店
ていました。四社とも銀行と違って店舗網が稠密
証券各社がデパートに投資相談所というのを作っ
んに営業する投資相談部というのがありまして、
当時の営業には、いわゆる外へ出ていって外交
する営業部と、店舗や百貨店の店頭などでお客さ
配属になりました。
から、「どこでもお任せします」と答え、営業に
井阪 入社しますと「何をやりたい」と聞かれま
して、営業しかないということも知っていました
に配属になったんでしょうか。
――野村証券に入られますと、すぐに投資相談部
を作って、そこがお客さんの受け皿になっていた
ミナルには、デパートの中に投資相談所というの
に投資相談所が設けられていた〕。いわゆるター
貨店、京浜百貨店、松屋銀座、池袋日停ビルの中
張所があり、その他白木屋、銀座松坂屋、東横百
た。支店が上野、新宿、堀留、浅草に設置され、
野村証券の東京での店舗展開は次のようであっ
相談所を設けていました〔昭和二八年四月時点の
は白木屋〔かつて日本橋に存在した百貨店で、東
野村証券も新宿、上野、浅草、堀留には支店が
ありましたが、渋谷には東横百貨店に、日本橋に
舗、日興証券が一店舗開設していた〕。
じゃありませんし、店舗網を広げると言ってもそ
んです。昭和二〇年代は各社とも、証券会社はま
投資相談所とその機能
こまで間に合わなかったんでしょう〔昭和二八年
だ資金的に制約があったのでしょう。百貨店の中
営業所、出張所として日活ビル営業所、丸ビル出
― ―
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横百貨店が合併して東急百貨店となった〕に投資
四月時点で、大手四社の都内での支店数は、大和
証券レビュー 第56巻第4号
に投資相談所を出店し、そこを一つの拠点、橋頭
井阪 そうです。専ら個人投資家向けです。
例 え ば、 先 ほ ど の お 話 で 白 木 屋 に 投 資 相 談 所 が
――投資相談所は支店の近くにあったんですか。
か。
人 を 相 手 に、 営 業 し て お ら れ た と い う こ と で す
れたということですね。それは、たまたま来た個
堡にしていましたね。
あったとおっしゃっていましたが、日本橋だと本
――ということは、主として個人営業をしておら
店がありますが…。
せんでしたから。渋谷支店が開店したのは昭和二
井阪 いや、必ずしも支店の近くということでは
なかったと思います。当時は渋谷に支店はありま
京王井の頭線もあるでしょう。ですから、東横百
渋谷は、東急東横線沿線は富裕層が多いですし、
わけです。私は最初にそこへ配属になりました。
支店と違う点というのは、法人営業はほとんどさ
してデパートの中に作られたということですが、
――投資相談所というのは、支店とは別のものと
に 開 設 し て い た が、 日 興 証 券 の 渋 谷 営 業 所 開 設
います〔山一証券は渋谷支店を昭和二四年一二月
んはまだ渋谷に支店を持っておられなかったと思
んは渋谷に支店を持っておられましたが、日興さ
― ―
93
井阪 そうです。個人営業が主ですね。デパート
の店頭で、個人のお客さんの受け皿になっていた
八年の年末ですよ〔渋谷支店は、昭和二八年一二
貨店というのはお客さんが多く、渋谷は非常に忙
れないというくらいですか。
しくて営業成績がよかったのです。当時、山一さ
月二二日に営業を開始している〕。
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(上)―
まで、専務取締役を務められた〕。事実、営業成
〔瀬川氏は昭和二七年二月から昭和三一年一一月
ところだ」と、そうおっしゃっていましたからね
務だったと思うのですが、「ここは絶対に伸びる
でも、その頃から野村証券は渋谷を非常に有望
視していました。当時、瀬川〔美能留〕さんは専
は、昭和三二年一〇月のことであった〕。
になったんです。
井阪 ええ。その半年後ぐらいに美竹町に渋谷支
店ができ、投資相談所所属の人が渋谷支店へ配属
相談所で働かれたわけですね。
店の投資相談部に配属となって、デパートの投資
――ということは、昭和二八年に入社されて、本
ます。
井 阪 い や、 サ ー ビ ス ス テ ー シ ョ ン と は 違 い ま
す。投資相談所はれっきとした営業所で、営業の
「サービスステーション」というやつですか。
出して、商品を売りたいだろうし、一方で、野村
がいないんですよ。デパートもいろいろな店舗を
井阪 そうです。デパートの投資相談所というの
は男性社員三、四人と、事務手続をやる女性社員
― ―
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績がよかったので、野村証券は渋谷の東口、美竹
拠点です。根本的に異なります。サービスステー
証券にとってもデパートへのテナント料が高いか
――それから外交に出られたんですか。
ションでは、株式は扱えなかったし、投資信託の
ら、投資相談所にそんなスペースがとれませんか
しか人がいませんから、外交できるほどには社員
申し込みの受付または取り次ぎの形だったと思い
―― 投 資 相 談 所 と い う の は、 社 史 に 載 っ て い る
町〔現在の渋谷一丁目〕に支店を作るんです。
証券レビュー 第56巻第4号
井阪 ええ、それはもちろん。
か。
は株でも投資信託でもよかったということです
――投資相談所の主たる顧客は個人で、扱う商品
らね。
れで、今日はこのお客さんが券面を持って帰りた
ください」とお客さんに伝えてあるんですね。そ
ら、「株券を出すときには二、三日前に連絡して
井阪 ええ。大きい金庫を持っているのは本店で
すから、預かりは全部本店にあるわけです。だか
――百貨店の投資相談所でやるわけですか。
けど、来店客は多いし、非常に営業成績もよかっ
井阪 デパートの投資相談所は受け身ですね。外
交に出かけるほどの陣容じゃありませんから。だ
に、お客さんが来店されるのを待って…。
―― た だ、 自 分 た ち か ら 外 交 を す る こ と は せ ず
――車で取りに行かれていたんですか。
来られたらそこで受け渡しをするんです。
おくわけです。そして、お客さんが投資相談所に
本店に車で取りに行って、支店に株券を用意して
渡しも…。
― ―
95
いと言っていると連絡しておいて、毎朝、社員が
たんです。
――受渡決済はどうされていたんですか。
井阪 お客さんが店頭に来られるんですよ。
――そうなりますと、お客さんの売買代金の受け
井 阪 う ん。 受 け 渡 し は 毎 朝 社 員 が 車 で 本 店 へ
行って、株券を持って来ていましたよ。
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(上)―
井阪 やります。 その代わり、「大きな金 額の出
金を希望する場合は、前もって言ってください」
資相談所は支店の下部組織と位置付けられてい
きますし、支店の小型店舗のようなものです〔投
ションとは違って、出張所ですから営業活動もで
とお客さんに伝えてありました。もちろん、今は
た〕。
の支店の一部、あるいは本店の機能の一部、出張
――デパートの投資相談所は、法律的には最寄り
年ということでしたが、野村証券が大衆資金を導
りました。井阪さんの野村証券入社は、昭和二八
⑴ 「野村の百万両貯金箱」の配付
――そうですか。投資相談所についてはよく分か
野村証券の経営哲学と証券貯蓄
もうそんな組織じゃありませんよ。昭和二〇年代
の話ですから。証券会社が店舗をワアッと各地に
展開して、多店舗展開できるようになったのは、
所だったということですか。
のころに始めていますよね。
ました。野村証券の渋谷の投資相談所は、「東横
す。この遠藤さんという方は有名な宣伝部長でし
井 阪 こ れ は、 当 時 の 宣 伝 部 長 だ っ た 遠 藤〔 健
一〕さんが、奥村〔綱雄〕社長に進言されたんで
入するのに大きく貢献した「百万両貯金箱」をそ
井阪 そうです、出張所ですね。野村証券は「投
資 相 談 所 」 と い う 名 前 で し た が、 会 社 に よ っ て
百貨店投資相談所」という名称だったと思いま
た。 こ の 人 が、 木 で 作 っ た 昔 の 千 両 箱 を 模 し た
は、何々出張所とか営業所という名前を使ってい
す。 た だ、 先 ほ ど お っ し ゃ っ た サ ー ビ ス ス テ ー
― ―
96
昭和三〇年代に入ってからです。
証券レビュー 第56巻第4号
というと投資でしょう。だけど、遠藤さんの考え
「百万両貯金箱」を作られたんです。通常は証券
井阪 それ位の件数だったと思います。
るそうなんですけれども…。
もらい、月一回事前に決めておいた日に集金に伺
一%か、二%を「百万両貯金箱」に入れておいて
きに、これは縁起物ですからと日々の売り上げの
「野村の百万両貯金箱」でした。貯金箱を配ると
ごくそのアイデアを買ったんですね。その尖兵が
う方は、非常にアイデアマンで、奥村さんは物す
蓄」という言葉を作られたんです。遠藤さんとい
ら、それは「 証券貯蓄」だという ので、「証券貯
てもらおう。毎月継続して投資してもらうのだか
井阪 うーん、当時、私は営業の新人ですから、
詳しい数字は知りませんが二五~二六万件と聞い
円に上ったとされる〕。
で二五万五、〇〇〇個に達し、集金額が一一〇億
箱の配付数は、昭和三三年一一月までの約五年間
めに「百万両貯金箱」を配付したとされる。貯金
掛貯金制度にヒントを得て、投資信託の募集のた
ですよね〔野村証券は昭和二八年四月頃から、日
まったということなんですね。一箱四万円ぐらい
―― そ の 五 年 間 で 一 一 〇 億 円 ぐ ら い の お 金 が 集
― ―
97
は証券に投資してもらって、それを継続的に続け
うんです。そのために、貯金箱に貯まったお金を
ていました。それがいわゆる証券貯蓄のベースに
――なるほどね。他社は追随してこなかったわけ
なったことは確かでしょう。
集金するだけの女性を採用していましたね。
を五年間で二五万五、〇〇〇箱ぐらい配付してい
――記録によれば、野村証券は「百万両貯金箱」
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(上)―
や る も ん だ。 だ か ら コ ス ト 倒 れ に な る よ 」 と、
井阪 他社は、「証券というのはそんな小口の金
額単位じゃない、一件当たりもっと大きい単位で
ですか。
んです。ですから、ただお客さんが貯めたお金を
ていませんでしたから、営業活動ができなかった
りまして、この人たちは当初は外務員資格を持っ
説明をした上で「やりませんか」と言ってお渡し
するわけですね。一方で集金人さんという人がお
クールにみていたと思います。
す よ ね。 野 村 証 券 の 経 営 哲 学 の エ ッ セ ン ス は、
井阪 うん。この「百万両貯金箱」というのは、
野村証券の経営哲学ともピタッと合っているんで
――戦前の感覚じゃそうなるでしょうね。
が奥村さんの発想です。だから、人件費がかかり
する人に集金してもらったわけです。そのあたり
やっていると効率が悪いですから、それを専門と
貯蓄の趣旨を説明して、納得して頂いた方に貯金
集金するだけなんです。つまり、営業マンが証券
ピープルズ・キャピタリズムという考え方でした
すぎてコスト倒れになるというので、他社は貯金
ですよね。
――「百万両貯金箱」は見込み客に配付するわけ
――貯金箱をもらって、実際に投資家になった方
に圧倒的な差をつける種になったと思いますね。
を辛抱して耐え抜いたんです。そのことが、他社
箱をやらなかったんでしょうな。野村証券はそれ
井阪 見込み客というか新規のお客さんにです。
営業マンが外交に行って、お客さんに証券貯蓄の
― ―
98
箱をお渡ししする。しかし、営業マンが集金まで
から。
証券レビュー 第56巻第4号
なアイデアを出して「一日の最初の来店客の売り
井阪 いろいろな人がいたと思います。八百屋さ
んとか魚屋さんもいらっしゃいましたから。様々
かがでしょうか。
持っている方ではなかったかと思うのですが、い
と い う の は、 恐 ら く 個 人 で も あ る 程 度 の 資 産 を
学、経営理念の具体化につながっていたと思うん
と が、 奥 村 さ ん、 瀬 川 さ ん、 北 裏 さ ん の 経 営 哲
「証券投資から証券貯蓄へ」変えていく。このこ
その実践ツールが「百万両貯金箱」だったと思
います。「百万両貯金箱」をベースにし、「証券貯
経営哲学の一つの現れだと思います。
蓄」という言葉で投資を継続することによって、
上げを、そのまま貯金箱に入れてみてはどうです
です。
――そうですね。そういう意味では「百万両貯金
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99
か」とか、「売り上げの中から一、〇〇〇円とか
か、そういうビジネスの発想ですよ。
井阪 それに、当時は田んぼの中に、投資信託の
立看板がいっぱい立っていたんですよ。ご存じな
箱」というのは、証券民主化運動の一つの具体化
ですよね。
今、野村のミディさんと呼ばれています。あれは
いですか。
――それは知りませんね。
やっぱり証券の大衆化ピープルズ・キャピタリズ
いう奥村さん、瀬川さん、北裏〔喜一郎〕さんの
ムをやるには、それぐらいの陣容が必要なんだと
それが証券貯蓄というので育って、婦人証貯係は
そ ん な こ と で、 野 村 証 券 は い わ ゆ る 大 衆 化、
「証券民主化」の尖兵になったことは確かです。
一 〇、 〇 〇 〇 円 を 入 れ て み て は ど う で す か 」 と
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(上)―
井 阪 う ん。 そ う い う キ ャ ッ チ フ レ ー ズ の も と
に、昭和二〇年代から三〇年代、岩戸景気ぐらい
――ありますね。
集していましたね。
社で月間一〇〇億円から一、〇〇〇億円単位で募
井阪 今でも田んぼの中に「仁丹」とかの立看板
があるでしょ。
井阪 あれと同じように、列車から見えるところ
どころの田んぼに立看板がバーッと並んでいたの
――集金係は集金だけをしていたということでし
まで、投資信託が一般に浸透していきました。一
です。
な。 日 興 さ ん は「 ニ コ ニ コ 投 信 」、 山 一 さ ん は
まってくると「今度貯まったら、何を買ったらよ
井阪 毎月、何日に集金に来ますというのを、お
客さんと決めてあるんですよ。だんだんお金が貯
― ―
100
た け れ ど も、 と い う こ と は、 あ る 程 度 お 金 が 貯
まってきたら、お客さんが店に行って注文を出す
「投資信託なら山一証券」、野村証券は「野村の投
ろしいでしょう」と相談を受けるようになるんで
ということですか。
資信託」という標語を書いた立看板を立てていた
い金額ですから株は買えません。だから、まぁ、
客さんのところへ行くんです。ただ、最初は小さ
すね。相談を受ける段階になると、営業マンがお
――それがキャッチフレーズだったんですね。
んです。
井 阪 も ち ろ ん。 各 社 が そ れ ぞ れ 標 語 を 作 っ て
ね。大和さんは「大和のオープン投信」だったか
――列車の中から見えるように…。
証券レビュー 第56巻第4号
て、現在のような形になったわけですね。
ら、ミディさんはそういうところが出発点となっ
資格を取ってもらうようになったんです。ですか
がいいだろうと、ミディさんに第二種証券外務員
係の女性にも証券外務員資格をとってもらった方
と、集金係が集金だけでは効率が悪いので、集金
そうして段々と証券貯蓄の裾野が広がってくる
それで投資信託を買ってもらったりするのです。
井阪 ああ、地域担当制ね。外交の効率化を図る
ために、そういうことをやるべきだと…。
度が徹底されるようになった〕。
て効率的な営業ができるように、地域責任管理制
複している地域があった。そこで、それを整理し
れていなかったこともあり、支店の営業地域が重
たが、当時は支店ごとの営業地域が厳密に定めら
集金人は担当地域を決めて、集金効率を高めてい
たものである。その背景には、昭和三七年頃から
集金人を連携させた営業活動を推進させようとし
は、各営業マンの担当地域を決めて、営業マンと
そ れ ぞ れ 営 業 員 が 地 域 …〔 地 域 責 任 管 理 制 度 と
制度なのかと申しますと、地域を限定しまして、
採りになられているんですよね。これがどういう
一〇月に、得意先地域責任管理制度というのをお
⑵ 地域責任管理制度の導入
――話が少しそれますが、野村証券は昭和三八年
にも外務員資格を取ってもらったのですが、相談
ふうになっていったんです。それで集金係の女性
に外交効率も集金効率も上げなきゃいかんという
井 阪 そ う、 や っ て い ま し た ね。 今 言 っ た よ う
に、証券貯蓄の裾野が広がってくると、地域ごと
て、タイアップして営業していたんですね。
――この制度では、営業員に集金係を何人かつけ
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(上)―
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「百万両貯金箱―集金担当者」が「証券貯蓄―
ミディさん―証貯管理者」という型に進化して
す。
う に な っ て き て、 だ ん だ ん 進 化 し て い っ た の で
貯管理者というのを置かなきゃいかんよというよ
がさらに広がっていくとミディさんを管理する証
に営業マンが乗っかっとったんだけど、証券貯蓄
らないと…となったわけですね。そして、集金係
からないことが出てきたので、そういう制度を採
を受けているうちに女性の集金人さんでは話が分
も、随分行き方は違ったと思います。
動をしていましたから、一概に四大証券といって
ました。野村証券はそういうふうな発想で営業活
た。それは証券民主化運動の一つの柱になってい
い投資物件への投資を勧めていくというものでし
いうのは、様々な手段によって、あらゆる層によ
確ではありません。ただ、野村証券の経営哲学と
してどうだったかはうろ覚えなので、必ずしも正
す。当時私は支店の営業マンでしたから、制度と
いったのです。それが制度化され定着していった
――他社とですね。
井阪 うん、遅かったですね。野村証券も大和さ
んも遅かったですよ。
てくるのが遅いですね。
――野村証券というのは大阪が発祥で、東京に出
井阪 そうです。
井 阪 昭 和 三 〇 年 代 の 後 半 か ら だ っ た と 思 い ま
れとも昭和三〇年の後半のことですか。
⑶ ピープルズ・キャピタリズムの実現に向けて
――それは昭和四〇年代に入ってからですか。そ
のが、今の型です。
証券レビュー 第56巻第4号
― ―
102
すか。
いう生き方を選択した背景にはあるということで
日興証券が押さえていたことも、野村証券がそう
――だから、東京の優良法人客を既に山一証券や
井阪 もちろん。目標にあったのはメリルリンチ
です。
いておられますね。
リルリンチを理想とした、という趣旨のことを書
――『野村証券二五年史』の序で、奥村さんがメ
井阪 いや、それはあまりなかったように思いま
な 層 の よ り 多 く の 人 に、 証 券 に 馴 染 ん で も ら お
リズムということを標榜して、重層的にいろいろ
井 阪 う ん。 野 村 証 券 の 生 き 方 と し て、 奥 村 さ
ん、瀬川さん、北裏さんがピープルズ・キャピタ
――あぁ、そうですか。
ぼうして、証券投資を大衆化するという考え方は
くの人に勧めるピープルズ・キャピタリズムを標
ませんが、メリルリンチも証券をあらゆる層の多
井阪 でも、メリルリンチが「百万両貯金箱」の
ようなことをやったかというと、それは聞いてい
あったんですね。
――既にそのときには、そういうふうな考え方が
う。それが証券民主化の世界だからというので、
当然あったと思います。
――貯金箱というのが、いかにも日本的な発想で
野村証券は電力株一〇〇株運動とか、電力株を一
生懸命になって売りましたからね。それも大きな
意味での証券貯蓄の一環ですから…。
すよね。
― ―
103
す。
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(上)―
井阪 お墓。だから、夜に営業マン同士で一杯飲
むと「墓まで来たぜ。次はなんだろう。いやあ、
パーク)の販売を行った〕。
と合ったんでしょう。時流に合わせて、うまくア
いろいろ大変だァ」と…。
井阪 そうです。だから、そのあたりは、いわゆ
る証券民主化運動と野村証券の経営哲学がピタッ
ピールしたんじゃないでしょうか。それが昭和二
〇年代、三〇年代に野村証券が、証券不況でも持
――野村証券は証券貯蓄を標榜して、重層的に顧
営業時代の思い出
――足腰が強い会社にしていったと…。
ていったわけですが、井阪さんは昭和四二年八月
― ―
104
ち堪えた要因になったのではないでしょうか。
井阪 はい。足腰が強くなった。営業マンはいろ
いろ鍛えられましたけどね…。というのも、株式
に、丸の内支店長になられますね。
――はい。それまではずっと…。
客獲得に努めて、四大証券の中でも規模が拡大し
営業をやって、投資信託を売って、貯金箱まで配
井阪 ああ、昭和四二年でしたね。
んです。そうしたら今度は墓地を売れと…。
井阪 渋谷支店九年、大阪営業部二年、梅田支店
三年です。
野 村 不 動 産 は 芝 生 霊 園( 現 在 の 相 模 メ モ リ ア ル
――霊園も造成されていましたね〔昭和四一年、
になりますが、野村不動産という子会社ができた
らないかんわけですから…。これはもう少しあと
証券レビュー 第56巻第4号
――渋谷支店から大阪支店、梅田支店に移られる
波放送のアナウンサーの声が変わったりしたら、
また、主婦でも経済に対する感覚が鋭いのは大
阪 だ っ た と 思 い ま す。 渋 谷 支 店 の お 客 さ ん と は
「ここ、買いとちゃいまっか」と電話がかかって
―― や っ ぱ り 東 京 の お 客 さ ん と 大 阪 の お 客 さ ん
ちょっと違ったと思いますね。そもそも、大阪の
間は、ずっと営業、外交回りをされていたんです
は、随分違うものですか。
しょ。だって、日本の資本主義の発祥は大阪の堺
くるわけです。そういうお客さんが大阪にはいま
井阪 まあ、やっぱりお客さんによるんですが、
大阪のお客さんは相場感覚が鋭いというのは言え
筋通ですからね。あそこに、いわゆるナニワ資本
か。
たと思いますね。例えば、「相場が動いてきそう
の 大 店 が 集 ま っ と っ た わ け で す か ら、 そ こ に い
したね。
だ」と言って、電話がかかってくるのは、大阪の
らっしゃる人たちは、女性も経済感覚が鋭いです
井阪 そうです。
方が早かったですな。特にそういうお客さんが、
ね。
支店長になられるまでの間、営業で活躍されたわ
― ―
105
本町筋や丼池は繊維街で繊維商社がありましたで
私のところにおられたのかも分かりませんけれど
大阪にいたときに、あるお米屋さんがお客さん
にいらっしゃって、その人は脱穀機で米をつきな
けですけれども、ちょうどその時期は、野村証券
――そうですか。井阪さんが昭和四二年に丸の内
がら短波放送を聞いているんですよ。それで、短
も…。
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(上)―
しゃった「百万両貯金箱」を用いて、地道に小さ
と い う か、 そ の 差 の 背 景 と し て、 先 ほ ど お っ
てくると差がグーッと開きましたよね。その格差
思うんですけれども、昭和四〇年不況の頃になっ
証券と他の三社はそれほど大きな差はなかったと
すね。つまり、昭和二八年ぐらいには、まだ野村
がグーッと規模が大きくなった時期だと思うんで
券を持って、野村証券に来られるんですよね。
ときには、お客さんが山一さんから引き出した株
あったでしょ。ですから、山一さんの経営危機の
時、山一さんが同じビルの中で壁一つ隔てた隣に
昭和四〇年不況のとき、先ほどもお話したとお
り、 私 は 梅 田 支 店 に お っ た ん で す け れ ど も、 当
かったんじゃないでしょうかね。
券に対して親しみを持ってくださっていました。
てくれるわけですよ。大阪のお客さんは、野村証
行ったら、「野村の番頭はん、番頭はん」と言っ
さ ん か ら の 信 頼 感 も あ り ま し た ね。 特 に 大 阪 へ
営業の厳しさもあって、それから、やっぱりお客
井阪 それはベースにはあったと思いますね。野
村証券の経営哲学があって、その上に野村証券の
思いますし…。
ていたことを覚えています。
みたいな商いをしてはいけません」とおっしゃっ
い。こういう同業者が困っている時に火事場泥棒
は 大 丈 夫 で す 』 と 言 っ て 止 め ろ。 元 へ 戻 し な さ
北裏社長は、「絶対にそれは受けるな。『山一さん
井阪 だって、山一さんが危機を迎えていると言
われていたときですからね。そのときに、野村の
――ああ、引き出して…。
だ か ら、 そ う い う 野 村 証 券 に 対 す る 信 頼 も 大 き
― ―
106
なお客さんを開拓していくということがあったと
証券レビュー 第56巻第4号
たから、山一さんが危機を迎えたときは、梅田支
れた〕。私は昭和四〇年に梅田支店へ異動になっ
六月から昭和四三年一一月まで、副社長を務めら
井阪 北裏さんは、私が梅田支店のころは、副社
長じゃなかったでしょうか〔北裏氏は昭和三四年
たんですか。
――北裏さんは、そのときはどういう役職にあっ
しないよ」と言ったことを覚えています。あのと
日本経済がひっくり返るよ。そんなバカなことは
もし山一さんが倒産したら証券界だけじゃなくて
私は「日銀がちゃんと手当てするから。あなた、
しかし、このときの山一さんの経営危機には日
銀特融がすぐに決まりましたからね。ですから、
言って、その話をしましたよ。
は よ か っ た で す な。 う ち は 今、 大 変 で す わ 」 と
―― 営 業 は 大 変 厳 し か っ た、 辛 い こ と も お あ り
― ―
107
店にいたんですよね。
きは、大蔵大臣の田中角栄さんが日銀特融を決め
聞にスクープされて、取り付けが起こったわけで
だったというお話でしたけれども、このころ野村
てそれで止まったんでしたね。
すから。
井阪 ああ、言われていました。
証券というのは、「ノルマ証券」とも言われてい
ましたよね。
あ、うちは大変なことになりましてね。野村さん
よ。 そ う す る と、 手 洗 い に 行 く と、 隣 で「 い や
井阪 当時、山一さんと同じ富国生命ビルにいる
でしょう。手洗いが共同でしたから一緒なんです
ろですよ。昭和四〇年五月に山一の経営危機が新
――昭和四〇年は山一が経営危機の真っ只中のこ
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(上)―
ありでしょうか。大体、野村証券の営業の皆さん
――その厳しさについて、何かもう少しお話がお
りませんけど…。
ね。他社から見たら鼻持ちならなかったかも分か
は、厳しさを受け入れて頑張ってこられたわけで
書いたり、他社からはそういうことを言われまし
井阪 数字的な目標額が、他社より多かったこと
は確かだろうと思います。マスコミが面白がって
すけれども…。
証券の内部で形容をされていたと聞いておるので
――井阪さんは「営業の鬼」というふうに、野村
顧客の地域特性
たけれども、それを外に向かって、「我々はこれ
れるんだ、社員として鍛えられるんだという誇り
れたノルマを超えることで営業マンとして鍛えら
けど、それは酒の席で言っているだけで、与えら
し、他社の人から冷やかされたりしましたよ。だ
自 嘲 的 に「 ヘ ト ヘ ト 証 券 」 と 言 う の も い ま し た
井阪 いやいや、特別なものは何もありません。
露いただけたらと思うんですが…。
チをしていらっしゃったのかというのを少しご披
れども、どういったお客さんにどういうアプロー
残していらっしゃったとお聞きしているんですけ
――そう形容されるほど、常に優秀な営業成績を
― ―
108
すか。
だけ目標額があるんですよ」と言える話じゃあり
井阪 ハッハッハッハッ。鬼じゃなくて仏なんで
すけれども…。
みたいなものも、ある意味で醸成されていました
いたでしょう。だから、社内でも一杯飲みながら
ませんからね。野村のマークがヘトヘトになって
証券レビュー 第56巻第4号
と思います。
を信頼して売買していただいたということだろう
「じゃあ、君の言うとおりやってみよう」と、私
で す ね。 か な り の 資 金 を お 持 ち の お 客 さ ん が
て、可愛がっていただいたということだと思うん
ただ、いいお客さんができて、その方に信頼され
ういう人は、おカネの単位が大きいんですよね。
繊維系商社の社長さんもいらっしゃいました。こ
る綿花、綿糸、綿布の相場をやっていらっしゃる
ね。ですから、お客さんの中には、三品と言われ
なんですが、割合、相場が好きな方が多いんです
営業部のお客さんというのは、やっぱりお金持ち
会社の部長さんとか、社長さんへの、いわゆる貯
業も多かったし、一方で中央部へ出てくると、大
地への営業展開ですから、割合、奥さん方への営
ターミナルにある支店ですよね。ですから、住宅
井阪 私は渋谷支店が長かったんですけれども、
渋 谷 支 店 と い う の が 大 体、 住 宅 地 を 控 え て い る
でしょうか。
――特に何か、他の人と違うというのはあったん
手が出ました」なんていうことを言うものだか
「 何 番 ポ ス ト か ら 声 が 上 が っ て い ま す 」 と か「 拍
また、短波放送のアナウンサーも「どこどこの
ポ ス ト に、 場 立 ち が 集 ま っ て お り ま す 」 と か、
さんにはそういう人がいましたね。
う鋭い電話がかかってくるんですよ。大阪のお客
を伝えているときに、アナウンサーの声が変わっ
を熱心に聞いていて、「井阪さん、この株のこと
― ―
109
先ほども少しお話しましたが、普段から短波放送
蓄的な営業活動をしていました。
ら、そういうのを大阪のお客さんというのは非常
てきたよ。何かあったでしょう」なんて、そうい
ところが、大阪支店に転勤すると、大阪支店の
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(上)―
に敏感にキャッチして…。
よね。だから、バーンと相場へチャレンジされる
お客さんというのは、特に大阪支店に多かったと
どこの出身ですか。こざとへんの「阪」は珍しい
か。そのと きは、「井阪さん、井阪とい う名字は
だから、渋谷支店から大阪支店の営業部に転勤
すると、引き継ぎでお客さんを回るじゃないです
でも若干感じましたね。
なって、そのお客さんにロータリーエンジンとい
う ど こ の こ ろ、 私 は 大 阪 支 店 の 営 業 部 に 転 勤 に
がロータリーエンジンを開発したんですよ。ちょ
できましてね。当時、東洋工業〔現在のマツダ〕
井阪 ですから、強いて大阪の特徴というのを挙
げれば、相場に対する鋭さがまず一つですね。あ
思いますね。
でんな」と言いながら、少しご挨拶した程度なん
うのは、ローターがこう回って、エンジンがピス
――そういう情報に敏感なんですね。
で す ね。 と こ ろ が、 次 の 日 に 電 話 し て み る と、
トンとこう違って、スピードがこれだけ出るんだ
――なるほどね。
「さようか。そんなら井阪さん、どれぐらい相場
けれども、燃費がいいんだとかいろいろ話すわけ
井阪 敏感。これはある意味では、相場を追いか
ける商人根性というか、そういう商機に対して咄
がうまいか一回、一つ乗ってみまひょうか」とい
ですよ。そ うしたら、「ほう、ほんなら 野村の番
嗟に反応する鋭さ、こういう特徴は証券投資の面
うようなことが、電話のやりとりでできるんです
頭はんの言うことを一回聞いてみて、一口乗って
― ―
110
と大阪で、ある鉄鋼問屋の方に大口のお客さんが
わ。東京のお客さんにはそういう人はいないです
証券レビュー 第56巻第4号
みまひょうか。何ぼいきまひょう」といって、一
〇〇万株単位で売買してくれるんですよ。
――それは大きいですね。
井阪 そういうお客さんが二、三人おられました
ね。当時は、ナニワダラーというのがね…。
い、特徴が見えないくらい大きいのです。
――特にそういう特徴はないわけですか。
井阪 そう。幅広で資金の奥行が深いのですよ。
「貯蓄株セット」の販売と
投資相談
いって、東京にはない特徴でしたね。名古屋はガ
言葉がありましたでしょ。大阪はナニワダラーと
井阪 ナニワダラー。当時、吉野ダラーとか、泉
南の玉ねぎダラーとか言ったお金持ちを形容する
〇万円、三〇万円、五〇万円と四段階に分けて…
いうのは、例えば、五〇〇株単位で一〇万円、二
すけれども、ご存じですか。「貯蓄株セット」と
ト」というのを販売したと社史に書いてあるんで
―― 株 式 営 業 で も 昭 和 三 六 年 に、「 貯 蓄 株 セ ッ
チャマンと言いましたね。
い株価が低迷している大型株を、五〇〇株単位で
〔「貯蓄株セット」とは、利回り採算が採れるくら
――ガチャマンね。繊維機械でガチャマン。
階に組み合わせ、投資家の予算と好みに合わせて
一〇万円、二〇万円、三〇万円、五〇万円の四段
井阪 東京は大きいから。そういうすべての資産
が 包 含 さ れ て 纏 ま っ て、 資 産 の 出 所 が つ か め な
― ―
111
――ナニワダラー。
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(上)―
三銘柄ぐらいを組んでパッケージにして…。
井阪 それは株式を売るときに、一つの銘柄だけ
を集中して買うという買い方もあれば、最初から
優良株に投資しやすいようにしたものであった〕。
けれども、今流に言えばポートフォリオ投資なん
井阪 ポートフォリオを組んでお客さんに提示す
ると…。我々は「セット販売」と言っていました
――そうですね。
販売方法の一つのテクニックでしょうな。今で言
うふうに、パッケージにしたわけですね。いわば
よ、五〇万円だったらこれだけ買えますよとかい
ね。そうすると、三〇万円ならこれだけ買えます
て、 こ れ を 何 株 か ず つ パ ッ ケ ー ジ に す る ん で す
住金〕と日立製作所とトヨタ自動車を組み合わせ
したんですね。例えば、八幡製鉄〔現在の新日鉄
井阪 うんうん、三〇万円あったらこういうセッ
トでどうですか、という組み合わせを作って販売
――ミニ投資信託みたいな感じで…。
せて組み込んでいくわけで、そのころから、株式
かじゃなくて、営業マンがお客さんの好みに合わ
いですし…。それは必ずしも値上がりするかどう
どの銘柄を組み込むかは、支店でそれぞれ営業
会議をやって、銘柄を調べて、自由にやってもい
みたいにしていたんですね。
ケージを作って、Aセット、Bセット、Cセット
り、 東 京 電 力 を 入 れ て み た り、 い ろ い ろ な パ ッ
器 だ と か を 組 み 合 わ せ た り、 日 清 紡 績 を 入 れ た
も買えませんから、一〇〇万円以下だったら三銘
ですよ。でも、一〇〇万円で二〇銘柄も三〇銘柄
えば個人投資家向けのポートフォリオ投資ですよ
を一本銘柄で販売するという株式営業のやり方
― ―
112
柄くらい、例えば、三越とトヨタ自動車と松下電
ね。
証券レビュー 第56巻第4号
社とはちょっと違ったかも分かりませんね。
フォリオ投資の営業とがあって、そのあたりは他
と、複数の銘柄を組み合わせる、今で言うポート
持たせて、西の三銘柄、関西電力・大丸・松下電
位で自由にやれるわけです。また地域的に特色を
チップ三銘柄とか、これは支店単位・営業マン単
――そういうお商売をされていたことは、あまり
合わせればいいわけです。それには何の制約もな
で、お客さんと相談しながら三銘柄ぐらいで組み
器と組んで買うとか、各業種から一銘柄ずつ選ん
聞かなかったですね。
思えばいわゆるポートフォリオ投資らしき萌芽
――そうですね。個人のお客さんとの話し合いで
― ―
113
かったです。ただ、発想、考え方というのは、今
井阪 今思えば、いわゆるポートフォリオ投資と
いう考え方は、セット販売の中に根差していたん
が、そこから窺えますよね。
れなくて、個々の銘柄で「何の銘柄当たったか」
決めていくということは、その個人に合ったポー
井阪 そうです。お客さんと相談しながら、パッ
ケージを 考えるわけです。お客 さんが、「いや、
トフォリオを形成していくという…。
…。
回りのいい銘柄を一つぐらい入れよう」とか、組
子どもの学資にしたいんで、ガスとか電力とか利
井阪 例えば、東京ガス・東京電力・三越を組み
合 わ せ て み た り、 ト ヨ タ・ 松 下・ 東 レ の ブ ル ー
―― 貯 蓄 株 セ ッ ト に 組 み 込 ん だ 銘 柄 と い う の は
とかは、一杯飲むと話題になったんだけど…。
用とかポートフォリオ投資なんていうことを言わ
だと思いますよ。当時はまだ、ポートフォリオ運
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(上)―
み入れる銘柄を決めていくわけですね。そうする
もちろん、当時は電話で「これ、上がりそうで
すからいきましょう」という営業もしていました
るんです。顧客との人間関係も深まるし…。
億株、二一三億円の実績を上げたと書いています
トで一二万人の株主が誕生して、出来高が一・七
――社史によりますと、昭和三六年六月から昭和
けになるんですよね。
よ。しかし、 それだけではなくて、「実 は土地を
ね。かなりの数ですね。
と、いわゆる投資相談というのが落ち着いてでき
売って、まとまったカネができたんだけれども、
井阪 野村証券全体ですよね。
いうふうにお使いになる予定ですか」と聞いて、
りました。例えば、「そのおカネをゆくゆくどう
ね。
の、野村証券の貯蓄株セットの販売実績ですけど
―― 昭 和 三 六 年 六 月 か ら 昭 和 三 七 年 の 四 月 ま で
わけです。そういう株式営業もやりましたね。で
応しいポートフォリオを相談しながら組んでいく
ろ、鉄鋼株とかが猛烈な増資をし始めますけれど
ちょっとおかしくなりかけた時期ですね。そのこ
――そうです。ちょうど相場がピークを迎えて、
― ―
114
三七年四月までの一〇カ月弱の間に、貯蓄株セッ
どういうふうにしたらいいだろう」という相談を
「子供が学校に行くときの学資にしたい」とか、
井阪 ああ、一〇カ月ですね、じゃあ。
すから、こういう考え方が、一つの発想のきっか
思っているんだ」とか答えてくれると、それに相
「三年先にちょっと商売の規模を大きくしようと
受けて、お客さんと投資相談をすることも結構あ
証券レビュー 第56巻第4号
他社から見ると、理屈っぽかったと思いますよ。
加して、いろいろとディスカッションをします。
井阪 そうですね。そういう発想は営業企画が立
てるんです。それには本店営業部長や支店長も参
で抜こうじゃないか、支店の預かり資産を何百億
言われていましてね。じゃあ、うちは預かり残高
ですね。渋谷支店の預金残高が二〇〇億円だとか
支店というのは、物すごいおカネを集めていたん
――当時から…。
だけど、そういう新しい発想が、いろんなお客さ
円にしようとかいうことを、支店長同士では話し
も、ちょうどそのときに合わせてやっているんで
んを開拓するのに役立ったと思います。
証 券 会 社 に は な か っ た と 思 う ん で す け ど ね。 割
すね。
昔からのお客さんは、「何か上がりそうな銘柄
を 教 え て く れ や 」 と お っ し ゃ る ん だ け れ ど も、
合、野村証券はそういうことを自由に、支店単位
んと相談しながらなるほどなというような組み合
後に出てきましたね。
――野村証券というと、推奨株売買とかいうのが
― ―
115
井阪 ええ。そういう考えが、野村証券には当時
から確かにありましたよ。当時、富士銀行の渋谷
「いやいや、そうじゃなくて、こういうふうに組
で考えてやっていましたね。
わせを、お客さん向けのポートフォリオとして作
井阪 ええ。
合っていたみたいですね。そういう発想は、他の
み合わせでやってみませんか」と言うわけです
ろうという発想だったんですよね。
よ。一見すると理屈っぽいんだけれども、お客さ
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(上)―
なくて、配当利回りのいいこの銘柄を組み入れた
井阪 自由です よ。お客さんと相談し て、「学資
にするんだったら、そんな値動きの荒いものじゃ
客さんが相談して決められたわけですか。
――この当時は、まだ自由に銘柄を、担当者とお
山一さんは富士銀行だったかな。
井阪 そのあたりはよく分かりませんけれども、
日興さんはもともと三菱のグループですからね。
…。
――はい。そう聞いたことがあるんですけれども
ら営業していましたね。それが、野村証券の顧客
――芙蓉グループですね。
か三二年ぐらいことだったらしいんですけれども
るんですが、ご記憶にございますか。昭和三一年
を取り上げてやったのが最初だと聞いたことがあ
たしか今の三菱重工が合併する前のいずれか一社
――まぁ、推奨販売政策というのは、日興証券が
で、山一さんが傾いたときには日銀が前面に出た
は な か っ た で す け ど ね。 た だ、 昭 和 四 〇 年 不 況
言い方であって、必ずしもその系列ということで
は三菱系が多いとか、そういうような漠然とした
村証券は三井系が多いとか、山一さんと日興さん
事証券の比率が大和さんは住友系が多いとか、野
― ―
116
らどうですか」とか、そういうことを相談しなが
の分母を広げていく一つの武器になったと思いま
…。
んだけれども、山一さんへの救済資金を富士銀行
すね。
井阪 日興証券ですか。
たね。だけど、それは厳密な意味じゃなくて、幹
井阪 うん。他方、野村証券はどちらかというと
三井で、大和さんは住友の筋だと言われていまし
証券レビュー 第56巻第4号
が多く出していたことは確かですし、三菱銀行も
出していましたね。
※ 本稿は、西山政一氏、岡本博氏にご同席いた
だき、二上季代司、小林和子、深見泰孝が参加
し、平成二七年七月二八日に実施されたヒアリ
ングの内容をまとめたものである。文責は当研
― ―
117
究所にある。
※ なお、括弧内は日本証券史資料編纂室が補足
した内容である。
証券界の重鎮に聞く ―井阪健一氏史談(上)―
証券レビュー 第56巻第4号
井 阪 健 一 氏
略 歴
昭和6年2月17日 三重県生まれ
昭和28年3月 大阪経済大学経済学部卒
昭和28年4月 野村証券株式会社入社
昭和42年8月 同社丸の内支店長
昭和44年11月 同社本社営業部長
昭和46年7月 同社株式部長
昭和47年11月 同社取締役
昭和51年12月 同社常務取締役
昭和54年12月 同社専務取締役
昭和58年11月 同社取締役副社長
昭和58年12月 野村証券投資信託委託株式会社取締役社長
平成2年6月 同社取締役会長
平成3年7月 証券投資信託協会会長(~平成4年6月)
平成5年7月 東京証券取引所副理事長(~平成11年6月)
平成7年11月 藍綬褒章 受章
平成11年6月 平和不動産代表取締役社長
平成11年7月 大阪経済大学理事長(~平成17年7月)
平成15年6月 アリアケジャパン株式会社社外監査役(~平成27年6月)
平成15年11月 旭日中綬章 受章
平成18年6月 平和不動産代表取締役相談役
平成19年6月 同社相談役
平成22年6月 同社顧問(~現在)
平成27年6月 アリアケジャパン株式会社社外取締役兼監査等委員(~現在)
― ―
118