東北証券界の歴史を語る

東北証券界の歴史を語る
―後藤毅氏証券史談(上)―
期決算では、受入手数料に占める委託手数料の比
れていたことである。荘内証券も平成二六年三月
買依存からの脱却にかなり早い時期から取り組ま
が、これらの会社に共通することは、株式委託売
ころ地場証券の経営者の方にお話を伺っている
つ老舗証券会社である。この連載では、ここのと
史をもち、また東北地区では最も多い店舗数をも
ある。なぜ、そうした文化が生まれたのかが、筆
の脱却が叫ばれ、実際にそれが行われていたので
年の免許制開始前から荘内証券では株式依存から
株式売買に依存することが多かったが、昭和四三
ビッグバン以前の地場証券の経営は、大口顧客の
期 か ら、 債 券 営 業 に 注 力 し て い た こ と で あ る。
リングに臨んだ。まず、荘内証券がかなり早い時
筆者らは、後藤氏へのヒアリングに際し、事前
準備の過程でいくつかの関心をもって、このヒア
いると言えよう。
率が高いものの、それ以前は六〇%程度で推移し
者らの一つ目の関心である。
今号の証券史談にご登場いただくのは、荘内証
券の後藤毅会長である。荘内証券は約七〇年の歴
ており、ブローカー業務依存からの脱却が進んで
― ―
1
まり、山形も二・八%にとどまっている。ちなみ
に大都市部(千葉、東京、神奈川、愛知、大阪)
では、貯蓄残高が一、三一八万円、そのうち預貯
金 が 五 七・ 〇 %、 株 式、 投 資 信 託 へ の 投 資 額 が
七・二%であり、貯蓄残高に占める預貯金比率こ
そ、それほどの差が見られないのに対し、証券投
資の比率は著しく低いことが分かる。そこで、筆
者らは東北地区の証券会社経営は、相場が好きな
た調査では、東北六県の貯蓄残高が平均で九六〇
る。他方で、金融広報委員会が平成一六年に行っ
酒田五法を編み出した本間宗久を生んだ街でもあ
り、コメ相場が開かれていた街である。そして、
も に、 江 戸 時 代 以 来、 米 会 所、 米 穀 取 引 所 が あ
また、東北での証券投資の実態である。荘内証
券が立地する酒田の街は、米の集積地であるとと
著にみられる地域でもある。こうした人口減少、
が営業地盤とする山形県、秋田県は人口流出が顕
次に、昨今、地方創生が叫ばれているが、東北
地方は人口流出に直面している。特に、荘内証券
した。これが二つ目の関心である。
ではないかと仮説を立て、その点についてお聞き
な顧客関係を維持し、経営を成り立たせているの
少数の大口顧客(農家や山林地主など)と長期的
万円、そのうち預貯金が五七・九%であるのに対
それとそれに付随して起こる相続に伴う資産流出
― ―
2
後藤 毅氏
し、株式、投資信託への投資額が二・二%にとど
証券レビュー 第56巻第9号
今号では、荘内証券が債券投資に早くから取り
組 ん だ 背 景、 そ し て 東 北 の 投 資 家 の 特 徴 を 中 心
つ目の関心である。
に地場証券が存在しないのか。これが筆者らの四
なぜか。そして、なぜ東北経済の中心である仙台
かも、その二社が山形県を本拠とするが、それは
が、東北地区の地場証券は現在二社になった。し
か、 こ れ が 筆 者 ら の 三 つ 目 の 関 心 で あ る。 最 後
に 対 し て、 ど の よ う な 施 策 で 対 応 さ れ て い る の
立されたのか、あるいはまた、そうではなくて、
す。御社の成り立ちは、複数の業者が集まって設
し、有価証券業整備要綱によりまして、証券業者
まず、御社は昭和一九年一二月に設立されたと
お聞きしておりますけれども、当時は戦争中です
といったことをお話しいただければと思います。
に残っておられることや、東北の地場証券の特徴
県の証券界の歴史を振り返っていただいて、印象
聞きしたいと思います。また、後半では、東北六
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の整理統合がかなりされていた時期だと思いま
に、お話頂いた内容を収録している。
御社が単独で作られたのか、そのあたりの設立の
経緯についてお聞きしたいのですが…。
昭和一九年一二月に設立されました〔有価証券業
債券販売から始まった
荘内証券の歴史
―― そ れ で は 始 め さ せ て い た だ き た い と 思 い ま
整備要綱では、山形県には証券業者は一社とする
す。本日のお話は、前半と後半に分けまして、前
予定であったが、和嶋氏ら業者が山形県内の実情
後藤 当社は、先々代の和嶋茂兵衛が作った和嶋
債券部を母体にして、市内の同業者を吸収して、
半は御社の歴史とトップマネジメントについてお
東北証券界の歴史を語る ―後藤毅氏証券史談(上)―
証券レビュー 第56巻第9号
などを陳情し、複数の証券業者が認められること
となり、山形市内のほかに、和嶋債券部が酒田市
内の同業者を吸収して、荘内証券が設立された。
なお、その際、本間家をはじめ、酒田市内の経済
人などが出資に応じたとされる〕。和嶋債券部と
いうのは、昭和二年に創立されまして、〔日本〕
勧業銀行〔現在のみずほ銀行〕の債券を売ってい
たんです。山形県内で最初に債券を販売したのが
和嶋債券部で、この地域に証券の知識を広めるの
に、一役買っていたようです〔和嶋債券部は昭和
二年四月に設立され、勧業債券を販売していた。
また、和嶋債券月報を刊行して、経済や証券投資
に関する知識の啓蒙も行っていた〕。どういう経
緯で、勧業銀行の債券の販売に携わったのかはよ
く分かりませんが、戦争が激しくなったときに、
勧業銀行の資料とかいろいろな帳簿類とかを酒田
に疎開させようか、という話し合いもされていた
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東北証券界の歴史を語る ―後藤毅氏証券史談(上)―
ようで、かなり勧業銀行との関係は密接だったと
思います。
――勧業銀行の…。
後藤 勧業銀行が焼失を恐れた書類や帳簿類を、
和嶋債券部に避難させようかという話まであった
ようです〔荘内証券が設立されたころ、東京への
空襲が激しさを増したため、和嶋茂兵衛氏の自宅
に帳簿などが運ばれたとされる〕。幸い、戦火に
よって勧業銀行が焼失することはなかったんです
けれども…。
――当時、東京大空襲などがありましたから、友
好な取引先などに書類などを預かってもらおうと
いう動きがいろいろあったと思いますね。
後藤 おそらくその流れだと思いますよ。このこ
ろ は、 私 は ま だ こ の 会 社 に 入 社 し て い ま せ ん か
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証券レビュー 第56巻第9号
ら、詳しいことはよく分かりませんけれども、当
社の社史にそういうことが書かれています。
――勧業債券を販売されたということですが、販
売されたのは、勧業大券か宝くじつきの債券のど
ちらですか〔日本勧業銀行は普通債券と特殊債券
を発行し、普通債券には、勧業大券と勧業小券が
あった。勧業大券は額面金額が五〇円以上で、発
行条件はその時々の金融情勢によって決まり、償
還の際に割増金がつかない、一般社債と同質の債
券であった。他方、勧業小券は日本勧業銀行だけ
に発行が認められた債券であり、額面金額は五〇
円以下で、発行条件はその都度、大蔵大臣の認可
を受けていた。また、債券を抽選償還する際、元
金に一定金額を上乗せする割増金が付与された。
この債券は「済崩販売」と言われる月賦販売が行
われ、初回の払込が終われば抽選の権利を得られ
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東北証券界の歴史を語る ―後藤毅氏証券史談(上)―
た〕。
後藤 いわゆる勧業銀行の債券を取り扱っていた
ことは知っていますが、細かなことまではちょっ
と分からないですね。
――どちらを販売されていたかは、ご存じではな
いわけですね。
後 藤 は い。 戦 後、 宝 く じ が つ い た も の が 随 分
あったらしいですけれども、このころはそういう
債券があったのかどうかも存じ上げません。
――勧業証券というのは二種類発行されていまし
て、今でいう利付債みたいなものと、宝くじつき
の少額債券の二種類出していたんです。
後藤 ああ、そうですか。それは社史に書かれて
いなかったので、存じませんでした。
― ―
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――そうですか。どちらを販売されていたかは書
かれていないんですね。
とされる〕。
――両替商だったんですか。昭和二年に和嶋債券
―― 和 嶋 債 券 部 は 和 嶋 茂 兵 衛 さ ん が 作 ら れ た と
後藤 はい、酒田です。
本店は酒田にあったんですか。
――昭和二年に作られた和嶋債券部というのは、
ども言いましたように、戦時中のことですから証
きものがあったらしいんですよね。それで、先ほ
後藤 先ほども少しお話いたしましたが、社史に
よれば、当時、この地域にも複数の証券業者らし
られたんでしょうか。
荘内証券になるまでの過程は、どういう過程を辿
部をお作りになられたわけですが、それから今の
おっしゃっていましたが、となりますと、和嶋と
券業者の統合が命令されて、山形は一社に纏めよ
前、一体何をしていらっしゃったんですか。米の
―― 和 嶋 茂 兵 衛 さ ん は 和 嶋 債 券 部 を 始 め ら れ る
大蔵省から複数の業者が認められたわけなんで
なんです。それで、一社にまとめるのではなく、
物ですので、そうした特殊な事情を説明したよう
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後藤 はい。
いうのはオーナーのお名前ですね。
ということになっていたんです。しかし、山形と
取引とかでしょうか。
す。ですので、当社は、庄内地方にあった複数の
いうのは内陸と庄内とでは、まったく経済圏が別
後藤 そうです。オーナーの名前です。
後藤 両替商です〔和嶋家は両替商を営んでいた
証券レビュー 第56巻第9号
業者をまとめて発足したようです。
は、どういう理由だったんでしょうか。
村さんが取締役をされていたとのことでしたが、
後藤 いや、よくは分かりませんが、和嶋茂兵衛
と個人的なつき合いがあったんだと思います。
奥村さんがこちらにいらっしゃった理由というの
実は設立当時、野村証券にいらっしゃった奥村
綱雄さんが、当社の役員をされているんです。だ
から、設立したころは、野村証券から営業のバッ
代目社長、和嶋茂男という方も、このご縁で野村
――荘内証券は和嶋債券部を中心に、個人商店を
嶋家の後裔の方が二代目を継がれたということで
証券に入社されているんです。
――戦時中、このあたりに複数の証券業者があっ
したが、和嶋家以外の方の後裔の方は、御社にい
まとめ上げて設立されたわけですね。そして、和
たということでしたが…。
後藤 現在は先代の和嶋茂男の息子さんが、鶴岡
支店に勤務していますが、それ以外の方はおりま
らっしゃらないんですか。
―― 戦 争 中 に 証 券 業 者 は 法 人 化 し な き ゃ い け な
せんね。
後藤 おそらくあったんだと思います。
かったことと、統合が命令されましたので、その
まとめ上げて現在の荘内証券を作られたんじゃな
糾合した側の末裔の方は、もうこの会社にいらっ
――和嶋家の後裔の方がいらっしゃるけれども、
ときに和嶋債券部が中心となって、複数の業者を
いかなという感じがいたしますね。ところで、奥
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クアップを受けていたんですね。また、当社の二
東北証券界の歴史を語る ―後藤毅氏証券史談(上)―
家 以 外 の 方 で、 初 め て の 社 長 に な ら れ た ん で す
――そうしますと、後藤様はオーナーである和嶋
後藤 ええ。和嶋茂兵衛さんの孫に当たる方だけ
で、それ以外の末裔の方はおりませんね。
しゃらないわけですか。
は、思いもよりませんでした。
ロパーとして長年やってきたものが代表になると
後藤 そうです。二代続いたオーナー企業である
荘内証券でしたが、私のような高卒で入社し、プ
――病室での取締役会だったわけですか。
がありまして、私が社長に指名されたんです。
一室を借りての取締役会(決算役員会)が行われ
ことです。先代が入院療養中の酒田市内の病院の
れた取締役会なんですよ。平成一一年五月七日の
すけれども、終戦直後は東北六県に、証券会社が
門に配属されたというふうにお聞きしているんで
年に会社にお入りになられまして、最初に営業部
――なるほど。分かりました。会長様は昭和三四
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か。
たんです。 そのとき、議長である 先代から、「自
二七社ありました。
免許取得と債券営業への注力
分 も 昭 和 三 九 年 に 代 表 に な っ て か ら、 今 日 ま で
後藤 東北六県でね。
で、社長を交代し、若返りを図りたい」との発言
や っ て き た。 こ こ に き て 体 調 も 万 全 で は な い の
の和嶋社長から私が社長のバトンタッチを要請さ
後藤 はい、そうです。実は、今でも鮮明に記憶
に残っていることがあるんですよ。それは、先代
証券レビュー 第56巻第9号
すか。
は終戦直後から、御社と山形証券だけだったんで
城、山形で二七社あったんですけれども、山形で
――はい。つまり、青森、秋田、岩手、福島、宮
「経営者交代」とその辺まで言われたんじゃない
業員でして、関係部署にはおりませんでしたが、
ら相当やられたんでしょうね。私はそのころ一営
る損失を出したことがあるんです。それで当局か
業所で不祥事がありまして、当時の資本金を上回
取得にはご苦労もあったのではないかと思います
たんじゃないかと思います。そうしますと、免許
されていたと思います。おそらく御社もそうだっ
――当時、地場証券の多くは株式を中心に営業を
す。
と…。
さんが「じゃあ、息子さんをお返ししましょう」
遣を要請しに行ったんですよ。そのときに、奥村
んがおられたときですから、野村証券へ人材の派
後 藤 当 局 か ら こ の ま ま じ ゃ ダ メ だ と …。 そ れ
で、先々代の和嶋茂兵衛が、当時まだ奧村綱雄さ
――監督当局から…。
ですか。
後藤 いや、酒田に三社あったんですよ。この一
〇万都市に、当社と酒田証券、それからお米屋さ
ので、免許取得に関わるお話を次にお聞かせいた
ころのお話をお聞かせいただければと思います。
後藤 そうです。先ほども言いましたように、先
――野村証券にいらっしゃった…。
だけますでしょうか。また、あわせて証券恐慌の
後藤 当社で苦労したのは、昭和三八年に新庄営
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ん出身の荒木証券と、地場証券が三社あったんで
東北証券界の歴史を語る ―後藤毅氏証券史談(上)―
代の和嶋茂男は一五年くらい、野村証券に勤めて
課、日比谷支店長などを歴任し、昭和三九年一月
店、 山 形 支 店 を 経 て、 上 野 支 店 長、 公 社 債 引 受
証 券 に 入 社 し、 場 立 ち か ら 本 店 営 業 部、 仙 台 支
後 藤 戻 っ て こ ら れ た ん で す。 先 代 の 和 嶋 茂 男
は、野村証券で公社債引受課におったこともあっ
帰ってこられたということですね。
―― 野 村 証 券 に 入 社 さ れ て い た 二 代 目 さ ん が、
茂男が当社に戻ってくるんです。
に野村証券を退社して、荘内証券の社長を務めら
て、当社へ帰ってきてから、「これからは株だけ
おられました〔和嶋茂男氏は、昭和二三年に野村
れた〕。
いったんでしょうけれども、先々代の和嶋茂兵衛
ま野村証券にいれば、おそらく相当のところまで
ね。将来を嘱望されておったらしいので、そのま
後藤 そうです。そして、当時は、野村証券の数
寄屋橋と日比谷の支店長を兼ねておったんです
ていたわけですね。
――なるほど。一五年ほど野村証券でご勤務され
稼ごう」とおっしゃって、それが合い言葉になっ
経験から、「割引債を中心に、募集物で人件費を
があったんですよ。しかし、先代が野村証券での
うわけではなかったんです。債券もある程度取引
すけれども、当時から当社は、株式一本やりとい
ういうこともあって債券もある程度はやっておっ
部を前身としているというお話をしましたが、そ
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ではいけないぞ」と…。当社はもともと和嶋債券
が人材派遣を要請したところ、「息子さんをお返
たんですね。
たんです。取扱高としては株式ほどでもないんで
ししましょう」ということになって、先代の和嶋
証券レビュー 第56巻第9号
し、これをきっかけにして割引債の大キャンペー
取扱高としてはそんなになかったんですよ。しか
引債を取り扱ったことはあったんですけれども、
相応の額面にまとまれば、大手顧客に転売したり
話債券の買い取りもしていましたよ。また、それ
各地区の公民館とかに営業員が出向きまして、電
後藤 もちろん取り扱っていました。ちょうど農
村部で集団電話の架設が始まりましてね。それで
れたんですか。
ンを始めまして、本当に人件費を割引債で稼いだ
もいたしました。
営業現場は、「あらら、すごいことを言う人だ
な」と思いましたよ。というのも、それまでも割
んですよ。当時は割引債をいくら売っても、これ
ましてね。それで、ゆくゆくは株式で六、株式以
ある」ということで、みんな債券営業にも注力し
中心としていたわけですが、「債券営業も必要で
くさんありましたので…。それまで当社は株式を
コー、ワリチョー、ワリフドーとか、とにかくた
ていましたので、そのノウハウをどんどん取り入
後藤 特に先代は、野村証券で公社債引受課にい
たこともあって、債券営業のノウハウを積んでき
かれる方が多いように思うんですけれども…。
て、自分の会社に戻ると、債券営業の重要性を説
――野村証券にトレーニーでいらっしゃった方っ
などをしていましたよ。
当時、割引電話債券を使って投信販売のセールス
れて、みんなで債券営業に注力したんですよね。
外で四を稼ごうというのが、長らく当社の社是に
なったんですよ。
――このころですと、電話債券も取り扱っておら
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で止めろということはなかったですからね。ワリ
東北証券界の歴史を語る ―後藤毅氏証券史談(上)―
しょうか。
的にはどのようなセールスをしておられたので
――割引電話債券を使っての投信販売とは、具体
立商業高校を卒業したら、東京に行って働きたい
後藤 ええ。私は昭和三四年に入社したわけです
けれども、私は次男坊で、本来は地元には残る気
に本荘と新庄に営業所を…。
がなくて、上京志向が強かったんです。地元の県
後藤 額面の五〇%は割電を買っていただいて、
残った五〇%で投信を買っていただくわけです。
ですが、ということは、当時は歩合外務員の方は
――なるほど。債券営業に注力されたということ
んです。そうして、試験と面接が終わって学校に
いか」と推薦されまして、面接に行くことにした
荘内証券という会社があるけれども、受けてみな
たわけです。入社した年の六月に新庄と本荘に営
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と思っていました。ところが、学校から「地元に
あまりいらっしゃらなかったんですか。
帰りましたら、合格通知が来ていたんです。これ
――全員、社員営業だったんですか。
後藤 ええ。入ってからしばらくの間、株価は上
――ちょうど株式ブームの時期ですね。
業所ができまして、それから一気にドーンと従業
員が増えたんですね。
――昭和三四年に入社されたわけですが、同じ年
からは、歩合外務員は当社にはいないです。
後藤 私が入社する前には、歩合外務員がいたよ
うなことも聞いていますけれども、私が入社して
も一つの縁かなと思いまして、荘内証券に入社し
後藤 当社にはいないです。
証券レビュー 第56巻第9号
すからね。
――昭和三六年七月まで、株価は上がっていきま
で…。
昇していましたから、みんな戦力になりましたの
で…。
数は、三〇人いたかいないかだったと思いますの
後藤 いや、そのころはまだそんなにはいってい
ません。だって、私が入社したときの当社の社員
すか。
すか。
い採られたんですか。相当な人数を採られたんで
――そして、証券恐慌の直前から割引債の販売に
したからね。
後藤 まぁ、それは新卒ばかりじゃなくて、中途
採用であちこちから中年のおじさんも入ってきま
――その中で二〇人弱が新入社員ですか。
後藤 私が入社した年は、新卒が本店には三人、
鶴岡支店には二人かな。あと新庄と本荘に営業所
注力されて、それが認められて免許取得というこ
――この時期に、会長様を含めて新卒は何人ぐら
ができた六月前後から、中途採用で十数人入って
後藤 一応そういうことだと思います。ちょうど
免許をいただくころ、私は鶴岡支店で営業をやっ
とですか。
――ということは、一年間に二〇人程度ですか。
ておりました。当然、鶴岡支店の目標管理額とい
きたと思います。
それで御社の社員が一〇〇人ぐらいになったんで
― ―
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斉藤 例の岩戸景気ですね。
東北証券界の歴史を語る ―後藤毅氏証券史談(上)―
うのがありますので、それをいち早くクリアする
ないんです。
が、あまりそれまでの経過というのは、詳しくは
ら「免許が下りた」というのは電話で聞きました
上げるのに必死でした。ですから、先代の社長か
た他の二社は、昭和四三年の免許制移行のときに
後藤 そういう話は一切聞いていませんね。だか
ら、なかったと思いますよ。しかし、酒田にあっ
う、そういう話はなかったんですか。
社 単 独 で は 難 し い か ら、 他 社 と 合 併 せ よ と か い
――手数料がですね。免許を取得する過程で、御
こそこコミッションは入ってきていましたよ。
――ということは、免許取得に関する苦労とか、
一緒になったんですが、免許基準を越えることが
――当時のこととして印象に残っているのは、割
二、〇〇〇万円、後者は過去数年間の市況沈滞時
東 京、 大 阪、 名 古 屋 以 外 の 非 会 員 業 者 の 場 合 は
― ―
16
べく、免許のことはそっちに置きまして、成績を
そういう話はあまりご存じないですか。
緒になったんですね〔免許基準として、最低資本
できなくて、日栄証券〔現在のSBI証券〕と一
後藤 あまり知らないですね。社史に載っている
ことぐらいしか分かりません。
引債の販売をともかく一生懸命やったということ
の手数料収入の実績を基準に、有価証券売買損益
金額基準や財務面での基準が設けられた。前者は
ですか。
することが求められた〕。そして、日栄証券の酒
を除外して収支均衡することを目途に支出を圧縮
後藤 そうです。あのころは本当に一生懸命やり
ました。ですから、ある程度株式が悪くても、そ
証券レビュー 第56巻第9号
ストメントに買収され、SBI証券となった〕。
〔日栄証券は平成一五年にソフトバンク・インベ
日栄証券はSBI証券になっていますけれども…
六月に、日栄証券へと営業譲渡している〕。今、
田支店になったわけです〔酒田証券は昭和四二年
ヤモンドとは言わない。証券会社も同じだ。どこ
イヤモンドは多方面に全部光らなきゃ、良いダイ
後藤 私は、先代から奥村綱雄さんのダイヤモン
ド経営について、得々と聞かされましたね。「ダ
斉藤 これは本当に野村イズムですよね。
いました。これが奥村綱雄さんのダイヤモンド経
から見ても光るような会社であれ」とよく言って
――債券の募集をそれだけしていれば、当局とし
営だよと…。
しょうかね。
――こうして免許を取得されたわけですが、荘内
つなぎ先の転換と関係強化
とでしたね。野球で言えば、欲しいものは投手力
証券は会員業者ではございませんけれども、注文
後藤 先代が昭和三九年に当社へ帰ってきて、第
一番目に説いたことは、債券の募集に注力するこ
だ。株はバッティングみたいなもので、三割打つ
村証券ですか。
はどちらにつないでいらっしゃったんですか。野
かし、ピッチャーは何勝かする投手は必ず各チー
ときもあれば、二割しか打てないときもある。し
ムにいるわけですから、勘定できるんだ。証券の
後藤 現在は三菱UFJモルガン・スタンレー証
券につないでおります。私は昭和三四年に当社へ
世界で言えば、それは割引債だよと…。
― ―
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ては、安定経営の基盤があると見たんじゃないで
東北証券界の歴史を語る ―後藤毅氏証券史談(上)―
入社しましたが、その当時は、本店と新庄営業所
興証券〕の新潟支店につないでおったんです。そ
そして、鶴岡支店が日興証券〔現在のSMBC日
いので、発注先をばらして…。
ていたから、一社だけだとちょっと割当額が少な
――当時は、信用取引の枠が各社に割り当てられ
保するために発注先を変えていたようです。
れから、本荘営業所は大和証券の秋田支店につな
後藤 そのとおりですね。しかし、それでは問題
が起きてきたんです。例えば、野村証券に入って
は野村証券の山形支店につないでおったんです。
いでおったんですよ。
いる担保物件を、他の証券会社へ売ったとかね。
あったことが背景にあるんです。当時、信用取引
りませんでした。それは、信用取引の枠の問題が
支店に行きましたけれども、野村証券一本ではあ
後 藤 当 社 の つ な ぎ 先 は、 野 村 証 券 一 本 で は な
かったですね。一番多くの注文が野村証券の山形
ておられた理由は、何かあるのでしょうか。
はなかったんですね。支店ごとにつなぎ先を変え
いから発注したんでしょうね。担保物件をあちこ
回らなくて、どんどん注文を出して、どこでもい
るんですが、当時はセールスマンもそこまで頭が
店、本荘営業所は大和証券秋田支店と決まってい
後藤 基本的には先ほど言いましたように、本店
は野村証券山形支店、鶴岡支店が日興証券新潟支
件として入れたものを、こっちにと…。
――それはお客さんの都合で、野村証券へ担保物
― ―
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――御社は奧村さんが役員になっていらっしゃっ
の枠が非常に厳しかったらしいので、その枠を確
たわけですけれども、つなぎ先は野村証券一本で
証券レビュー 第56巻第9号
ちに売るわけですよ。そうすると、受け渡しが大
変なわけですね。
後藤 できたんだと思います。だからこそ、発注
先が複数あることによる不都合を解消するため
――なるほどね。今と違って、厳格にはされてい
から帰ってくるんです。先代が野村証券にいたと
て、昭和三九年に先代社長の和嶋茂男が野村証券
に、廣田証券に一本化したわけですから…。そし
ませんからね。それで、一本化しようと…。
の方が光亜証券〔現在の三菱UFJモルガン・ス
き、上司に奥村義雄さんという方がおられて、そ
後藤 まあまあ、そうですね。こういう不都合が
出てきまして、それである時期に廣田証券へ一本
タンレー証券〕の社長をされていたんですよ。そ
――なるほど、分かりました。信用取引の枠の問
一月から、昭和五〇年一一月まで光亜証券の社長
亜証券に転換したんです〔奥村氏は昭和四一年一
ういう関係から、昭和四二年八月につなぎ先を光
題から三社に分散して発注していたのを、廣田証
を務められた〕。
後藤 そうです。ただ、光亜証券に一本化するの
も相当な時間がかかったんですよ。建て玉の問題
化されたわけですね。
――それで昭和四二年ぐらいから光亜証券に一本
券に一本化されたとのことですが、廣田証券に一
本化されたのは何年ぐらいのことですか。
後藤 昭和三七、八年かな。
――つなぎ先を廣田証券に一本化されたわけです
が、信用取引の枠は確保できたんでしょうか。
― ―
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化したんです。
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証券に一本化したんです。
とかいろいろありましたから、時間をかけて光亜
と合併し、国際証券となった。その後、国際証券
は、昭和五六年に八千代証券と野村投資信託販売
――廣田さんとのおつき合いというのは、どうい
さ証券、平成二一年にはモルガン・スタンレー証
三菱証券となり、さらに平成一七年にUFJつば
は平成一三年に三菱系の証券会社四社と合併して
う関係から始まったんですか。
券となる〕。
券と合併し、三菱UFJモルガン・スタンレー証
後藤 それは、当時の鶴岡支店長が、非常にシン
プルな店構えと仕事のやり方がいいということ
後藤 そういうことです。つなぎ先が光亜証券に
変 わ る と、 そ れ ま で と 違 っ て タ イ ム リ ー な 情 報
ま し た の で、 今 の つ な ぎ 先 が 三 菱 U F J モ ル ガ
らに三菱UFJモルガン・スタンレー証券になり
それで光亜証券が三社合併で国際証券となり、さ
つなぎ先を光亜証券へと変えられたわけですね。
――しかし、先代社長がお戻りになられて、再度
いますが、それから二〇年くらい東京と酒田を隔
ま た、 光 亜 証 券 と は 人 的 な つ な が り も 深 め て
いったんですよ。昭和四四年ごろからだったと思
がたくさん入ってきました。
それまでなかったような非常にタイムリーな情報
の三社が一緒になって国際証券になってからは、
― ―
20
で、先々代の社長に紹介したんですね。それで、
先々代の社長が「じゃあ、そこにするか」という
が、 光 亜 証 券 か ら 入 っ て く る よ う に な り ま し て
ン・スタンレー証券になるわけですね〔光亜証券
ね。特に、八千代証券と光亜証券、野村投信販売
ことで、廣田証券に一本化していったんです。
証券レビュー 第56巻第9号
れましたが、他にはなかったのでしょうか。
報が入り易くなったことを利点としてお話になら
――つなぎ先を光亜証券に変えたことにより、情
の関係が強固なものになっていきましたね。
になりましたし、そういう交流を通じても、両社
て、若い人は若い人なりに情報交換もできるよう
ん で す よ。 そ れ で 人 の つ な が り が 随 分 で き ま し
年で行き来して、両社で野球の試合をやっていた
後藤 最初はたしか、キャタピラーのゼロクーポ
ン債の取り扱いから始めたと思うんですね。それ
んなゼロポンを取り扱いましたからね。
ずっと取り扱ってきましたし、ゼロポンでもいろ
斉藤 我々がゼロクーポン債を取り扱ったのは、
昭 和 五 六 年 ご ろ か ら だ と 思 い ま す。 そ れ 以 来、
じゃないかと思いますね。
は、全国の地方証券の中でも、当社は早かったん
き ま す の で …。 お そ ら く ゼ ロ ク ー ポ ン 債 の 販 売
絡むんで、為替と償還差益の両面で利益を追求で
えてもらいました。特に外債、ゼロクーポン債は
なってからは、我々の知らない商品をいろいろ教
後藤 光亜証券が合併した八千代証券は、外債に
非常に強かったんですね。ですから、国際証券に
た。お客様のニーズとも合致していましたので、
ス・ ド・ フ ラ ン ス、 G E な ど 多 数 取 り 扱 い ま し
か ら I B M と か、 ア ー チ ャ ー・ ダ ニ エ ル ズ、 ガ
――それも先代のお考えですか。
算で一八〇億円くらい取り扱ったと思います。
あの当時でも取扱高が大幅に増えまして、邦貨換
期間が経てば必ず上がりますし、為替の思惑とも
だったのではないでしょうか。ゼロクーポンは、
ま み の あ る 商 品 で し た し、 当 社 で 一 番 の 収 益 源
非常に大々的に当社でも取扱いました。非常にう
東北証券界の歴史を語る ―後藤毅氏証券史談(上)―
― ―
21
後藤 それもありますし、先ほども言いましたよ
うに、当社が注文をつないでいた光亜証券が国際
証券になりまして、旧八千代証券はそっち方面に
本間宗久を生んだ
酒田の投資家の特徴
――先ほど発注先を複数にされていたのは、信用
て、旧八千代の人とも仲良くなりまして、そうい
取引の枠の問題があったとおっしゃっておられま
非 常 に 強 み を も っ て お り、 野 球 大 会 な ど を 通 じ
う商品も出してもらったんですよ。
――八千代証券と言えば、平木〔三郎〕さんです
信用取引を多用されていたとも解釈できますよ
かったわけですよね。ということは、逆に言えば
― ―
22
したが、一社に発注していたのでは割当枠が少な
よね。
後藤 当社のお客様というのは、地元の商店主の
方であるとか、それから魚屋さん関係とかが主で
ね。つまり、御社のお客さんというのは、相場の
好きな方が多かったんですか。
取り扱わないで、トレジャリーストリップス債一
したね。酒田は毎日魚が上がりますので、魚屋さ
したし…〔本間家は酒田の豪商で、酒田五法を考
あと、酒田は米の集散地ですし、本間家もありま
んは魚の相場を毎日しておられるわけですよね。
本でやっていますよ。
ですね。最近では、一般企業のゼロクーポン債は
後藤 そうそう、平木さん。旧八千代証券の人た
ちとの人脈がきっかけになって、それでやったん
証券レビュー 第56巻第9号
ころは、大手のお客様が二、三人おられまして、
も、本間久四郎光本の三男である〕。私が入った
案したとされ、米相場で莫大な富を得た本間宗久
の社員が、そんなに大きいお金ではないですけれ
王とかがあったわけですけれども、そういう会社
の地域には鉄興社〔現在の東北東ソー化学〕、花
魚屋さんですね。そして老舗の旦那衆。あと、こ
ね。
――よく「酒田照る照る 堂島曇る あいの土山
雨 が 降 る 」 と か、 い ろ ん な 言 い 方 が あ り ま す よ
る 堂島曇る 江戸の蔵前雨が降る」という俗謡
があるんですよ。
後藤 本間宗久の酒田五法、ローソク足、罫線は
今や全世界で使われていますよね。「酒田照る照
発祥の地ですから、ちょっと意外な感じですね。
――酒田と言えば本間宗久さんですし、酒田五法
てはたくさんおられました。
ども、お客様になっていただいていて、頭数とし
毎日大きな商いをしておられましたよ。
れから置賜地方は生糸の産地ですよね。
後藤 内陸はね。
――大体、米とか生糸というと商品相場が連想さ
れますけれども、特に酒田には、お隣にあります
本間家に代表されるような相場師もいらっしゃい
ましたね〔荘内証券本店の隣には、本間家旧本邸
がある〕。ですから、歴史的には相場好きなお客
さんが多かったと思うんですが、そういったお客
さんはあまりおられなかったんですね。
後藤 私が入ったころは、やっぱり商店主さん、
― ―
23
――山形といいますと、酒田は庄内米ですし、そ
東北証券界の歴史を語る ―後藤毅氏証券史談(上)―
――ちょっと話がずれましたが、御社は商店主さ
ん、旦那衆を主たるお客さんとされていたとのこ
――私どもで作っております『日本証券史資料』
はいらっしゃらなかったんですか。
斉藤 地元酒田にこのような相場の神様がいたん
ですね。宿命めいたものを感じます。
の戦前編第九巻に、相場道文献ということで、本
後藤 山持ちは株よりは割引債でしたね。割引債
を中心にドサッと買う人は、山持ちにおりました
とですが、例えば、山林地主だとか、そういう人
間宗久の残したものを復刻して収録したのです
ですね。
――旦那衆というのはどういうお商売をされてい
後藤 株じゃなくて。
――株ではなくてね。
が、 や は り 御 社 に は チ ャ ー チ ス ト が 多 い ん で す
後藤 今は全部ネットで出ますのでね…。昔は自
分で引いてやっておったんですけれども、当時は
お客様も自分の持っている銘柄を全部、自分で罫
線をつけておられたもんですよ。
た方なんでしょうか。
それから時計屋さんとかですね。私の記憶では、
――お客さんも。
後藤 二ミリとか三ミリの方眼紙につけていらっ
しゃいましたよ。今はインターネットで検索すれ
時計屋さん、歯医者さんが多かったですね。歯医
後藤 何代も続いてきた鋳物屋さんとかそういっ
た老舗、それからセメントの二次製品を扱う方、
ば出てきますもの…。
― ―
24
か。
証券レビュー 第56巻第9号
行われていました。そして、明治になってからも
が有名ですが、江戸時代には帳合米取引が盛んに
それと先ほども少し話が出たかと思うんです
が、酒田はコメの集積地であり、また、本間宗久
かったですね。
しょう。ですから、投資に乗りやすいお客様が多
者 さ ん は 金 歯 の 関 係 で、 金 相 場 に 非 常 に 敏 感 で
ね。
後藤 回転が早いというか、見切りも早かったし
――回転が早いですか。
とか、そういう人は早かったですね。
かいうのはなかったですね。やっぱり商店主さん
ですから。そんなに、何度も取引をしてくれると
ら。それと、農家の方はどっちかというと保守的
する理解は高い地域だと思うんですよね。ただ、
れども、あのころはやっぱり農家の方たちも相場
――昔、酒田や鶴岡に米の取引所がありましたけ
― ―
25
酒田米会所、後の酒田米穀取引所がありまして、
お客様は農家や山林地主ではなく、老舗や時計屋
はされていたわけですよね。
――じゃあ、荘内証券さんがお相手されている農
後藤 私は、それは分からないです。
んに多かったわけでもないわけですね。
じゃなくて、意外に保守的な方が多かったという
家 の お 客 さ ん は、 そ ん な に 株 好 き と か 相 場 好 き
後藤 農家でも大きい人はおりましたよ。おりま
し た け れ ど も、 そ う 絶 対 数 が い な か っ た で す か
――では、別に農家や山林地主が、御社のお客さ
さん、歯医者さんが多かったと記憶しています。
コメの取引が行われていたこともあり、相場に対
東北証券界の歴史を語る ―後藤毅氏証券史談(上)―
後藤 保守的で、いわゆる持ちっ放しとか…。
ことでしたが…。
らっしゃったんですよ。そういう方々がお持ちの
と か、 そ う い う 時 代 に 買 わ れ た 方 が た く さ ん い
――長期保有を前提に…。
子に嫁をもらうとか、一時的な出費がかさむとき
株主割当増資などが行われまして、旨みが甘受で
株式は、最初こそ小さかったんですが、だんだん
後藤 何かお金が必要なときがあれば、その分だ
け 売 る と か ね。 そ う い う お 客 様 が 多 か っ た で す
に売りにいらっしゃるんです。
も出ましたから、万が一のときにも…。
――昔は電力株と言えば資産株で、安定的に配当
度はありましたね。
を持っている人は、株式に対する理解度はある程
くさんの方が持っているんですよ。そういうもの
しょう。細かい株券なんですけれども、それをた
ど も、 地 元 の 方 に 株 式 を 引 き 受 け て も ら っ た で
ね。 今 は 様 々 な 電 子 部 品 を 作 っ て い ま す け ど も
磁気テープを作っていた主力工場があるわけです
後藤 いらっしゃいますね。本荘に当社の営業所
があるんですけれども、あそこは平沢にTDKの
長さんなどはいかがでしょうか。
多くの生産拠点を設けた〕。そこの関連会社の社
市〕に平澤分工場を開設し、その後も秋田県内に
ね〔 昭 和 一 五 年 に 平 澤 町〔 現 在 の 秋 田 県 に か ほ
――例えば、TDKの工場とかが秋田にあります
きるような大きさになったんですね。それで、息
ね。どこでも同じですけれども、戦後、今の東北
後藤 額面五〇〇円のものが額面以下の払い込み
― ―
26
電力、当時は東北配電と言っていたころですけれ
証券レビュー 第56巻第9号
すが、TDKが東京電化と言ったころに、まだ株
二、三人おりましたですね。ちょっと話はそれま
ね。そういうことで、関連会社で大きいお客様が
値段になったわけですから。
ね。それこそバブルのころ、花王の株価も相当な
社の大きいお客様が何人かいらっしゃいましたよ
たでしょ。
随分聞きました。だって、すごく値上がりしまし
上昇して「よかった」とおっしゃっていたのは、
会社がものすごく大きくなりましたから、株価も
られた方々がたくさんおられたんです。その後、
どんどん参加しているぐらいですから、当社のお
後藤 変わっていますね。先ほど言った旦那衆が
いなくなった。そして、今は若い人が、ネットで
るのでしょうか。
職業というか、層というのはずいぶん変わってい
内証券に入社されたころと、今とではお客さんの
――結構いらっしゃったわけですね。会長様が荘
― ―
27
価が安かったときがあって、そのときに株主にな
――そのほかにも上場企業の工場もありましたよ
――今のお客さんは、四〇代後半から七〇代が多
客様も年のころで言えば、四〇代後半から七〇代
株 を 持 た れ て い て、 そ れ が ど ん ど ん 増 え て い っ
いわけですか。
ね。
て、退職したときにはかなりの株数になったとい
後藤 そうですね。ただ、高齢化で代がわりが進
が一番多いですね。
う話も聞いていますよ。そういう人の中から、当
後藤 ええ。酒田には花王があります。地元の従
業員の方の中では、従業員持ち株会を通じて自社
東北証券界の歴史を語る ―後藤毅氏証券史談(上)―
んでいるんですよ。ですから、特に投資信託とか
で大きい商いをするときは、必ずセールスに加え
せんね。
から、当社はそんなにお客様が離れていっていま
んなで一緒に相談しながら商売をしています。だ
んな問題が起こると困るので、ご子息も交えてみ
は、相当高齢な方が多いものですから、後々いろ
やっています。そういう大きなお金を動かせる人
の ご 子 息 に も 同 席 し て い た だ い た 上 で、 商 売 を
――それはお取り扱いをされていたんですか。
上場する前は、銀行株の取引はありました。
ましたけれども、山形相互銀行や殖産相互銀行が
後 藤 当 社 に 限 っ て 言 え ば、 今 は な い で す。 た
だ、荘内銀行さんとか、今はきらやか銀行になり
ですか。そんなにはないですか。
未公開株の取引が盛んですよね。東北はどうなん
――ちょっと話が変わるんですけれども、北陸は
東北地区での未上場株取引の歴史
――御家族にも承認していただいた上で、お商売
― ―
28
て、上司、店長もしくは役員が同行して、お客様
をしておられるということですか。
――例えば、バス会社とか電鉄会社とか、そうい
は当時からないです。
後藤 当社でも、上場前の地元銀行株は取り扱い
ましたけれども、普通の製造業とか、そんなもの
後藤 そうそう、そうですね。同席していただい
てね。
証券レビュー 第56巻第9号
の株式に、多少の需要がありましたね。ただ、売
後藤 庄内交通という会社がありますけれども、
株主には優待をくれたんですよ。以前はその会社
う会社の株式の取引もないですか。
らね。あと、分かる人は、上場前で地元銀行の株
ていましたけれども、売りがほとんど出ませんか
ますと、我々が仲介して、相対取引をしてもらっ
中には、「売り注文が出たら教えてくれ」という
方もいらっしゃるんですね。それで売り注文が出
る人がいないんですよ。
算が合うから、「売りが出たらとにかく全部持っ
式の値段が額面近くだったころは、利回り的に採
――優待が欲しいから。
――なるほどね。他の地方では、地元百貨店株な
― ―
29
てこい」とおっしゃるお客様もいらっしゃいまし
た。
りに来た「しょいっこ」のおばちゃん方がいるで
たですね。
後藤 ここにも地場の百貨店がありますし、持っ
ている人はおったんですけれども、流通はなかっ
るんですけれども…。
んかも売買されていたという話を聞いたことがあ
か売りが出て来ないんですよ。一方で、お客様の
後藤 行商のおばあさんたち。その人たちが全線
パス券が欲しいものですから、一回持つとなかな
――はいはい、行商されていた方ですね。
しょう。
「浜のあば」と言いますか、市場から町に魚を売
後藤 優待で全線パス券をくれたんですよ。皆さ
ん ご 存 じ か 分 か ら な い で す け れ ど も、 い わ ゆ る
東北証券界の歴史を語る ―後藤毅氏証券史談(上)―
――未上場株取引に関連して、ちょっとお話をお
後藤 今現在は、当社では地場の未上場株の取引
はないです。ゼロに等しい。
の取引はほとんどないということですね。
――じゃあ、地元銀行が上場してから、未上場株
ので、そういう話は知らないですね。
後藤 そのころは店で営業の現場を走り回ってい
ましたので、そちらのほうに頭がいっていません
聞きになったことはありませんか。
そういう類いのものを仙台で作ろうという話が
興企業向けのマーケットができましたけれども、
財団法人東北産業活性化センター会長で東北電力
が参加し、平成二七年一一月二四日に実施され
※ 本稿は、荘内証券代表取締役社長斉藤透氏に
ご同席頂き、二上季代司、小林和子、深見泰孝
あったと聞いたんですけれども、そういう話をお
伺いしたいんですけれども、ちょうどビッグバン
会長の明間輝行氏や、東北大学の西沢昭夫氏らが
たヒアリングの内容をまとめたものである。文
とかいう話はなかったですか〔平成九年ごろに、
中心となって、中小・ベンチャー企業育成のため
責は当研究所にある。
※ なお、括弧内は日本証券史資料編纂室が補足
した内容である。
の電子取引システム「SENDAQ」を構築する
計画がされていた〕。
後藤 さあ、それは知らなかったです。
――例えば、大阪でナスダックジャパンとか、新
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前後に、仙台でベンチャー向けの新興市場を作る
証券レビュー 第56巻第9号
東北証券界の歴史を語る ―後藤毅氏証券史談(上)―
後 藤 毅 氏
略 歴
昭和34年3月 山形県立酒田商業高校卒業
昭和34年4月 荘内証券株式会社入社
昭和53年12月 同社取締役
昭和63年11月 同社常務取締役
平成4年6月 同社専務取締役
平成11年6月 同社代表取締役社長
平成11年7月 日本証券業協会東北地区評議員(~平成14年6月)
平成11年7月 同協会総務委員会委員(~平成12年6月)
平成11年7月 同協会東北地区規律委員会委員(~平成17年6月)
平成14年7月 同協会東北地区会長(~平成23年6月)
平成14年7月 同協会地区連絡委員会委員(~平成16年6月)
平成15年7月 同協会理事(~平成16年6月)
平成16年7月 同協会地区評議会委員(~平成23年6月)
平成18年7月 同協会総務委員会委員(~平成19年6月)
平成19年7月 同協会会員監事(~平成20年6月)
平成20年7月 同協会リーテイル証券評議会幹事会幹事(~平成23年6月)
平成21年7月 同協会証券戦略会議会員委員(~平成23年6月)
平成22年6月 荘内証券株式会社代表取締役会長(~現在)
<受章>
平成22年7月 ベスト証券人章
平成23年6月 旭日双光章
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