京都証券界の重鎮に聞く 丸近証券は前号でも触れたとおり、近年の業績 を見ると、受入手数料に占める投資信託の比率は れたお話を中心にまとめた。 取りから個人顧客の開拓へと商売を大きく転換さ 縁、友人関係などのネットワークを活用し、サヤ は、勝見氏がサヤ取りに疑問を感じ、電電債や地 今号の証券史談は、前号に引き続き、丸近証券 の勝見昭氏のオーラルヒストリーである。前号で として、人をなかなか信用しないところがある一 をお聞きした。勝見氏によれば、京都の人の特徴 るが、具体的にどのような取り組みがされている でも、「世代を超えたお付き合い」を標榜してい き合いが模索されている。京都の多くの証券会社 「資産管理型営業」を標榜し、世代を超えたお付 に つ い て お 聞 き し た。 現 在、 多 く の 証 券 会 社 で ―勝見昭氏証券史談(下)― 半分近くとなっている。このことからは、丸近証 方で、一旦信頼関係を築くことができれば、長期 たお話をお聞きしている。次に、京都市場の特質 券が投信販売に注力されている姿が窺えよう。今 的な取引関係を維持できることを挙げておられ のか。そして、そうした営業手法が採られた背景 号では、株式営業から募集物営業への転機となっ ― ― 90 る。そのため、法律改正などの情報提供や一家の なっている。 で あ ま り 語 ら れ な か っ た こ と に つ い て、 お 話 に なく、スタートアップ期に、地場の証券会社がエ 行の役割は認められているものの、それだけでは ども、御社もネット取引をされていましたよね。 ――それでは、バブル崩壊後の話になりますけれ 位置づけと新顧客の開拓 ネット取引の営業組織内への 資産管理を通じて、時間をかけて信頼関係を築く ことの重要性を指摘されている。 また、ハイテクベンチャー企業が多数輩出され ている京都の特質として、一般に京都銀行の果た ンジェルを集める役割を果たし、リスクマネーを 勝見 ネット取引はしていたんですけどね、これ はシステムの肥大化と採算性を考えたら、なかな こと。しかし、結果的に大阪証券取引所と合併す 京証券取引所との合併を考えていた人たちがいた 不要と考えていたことや、会員証券の中では、東 ている。それによれば、京都財界自身が取引所を そして、最後には京都証券取引所が大阪証券取 引所と合併するに至った経過についてお話になっ なりますので、これも止めました。 イトオーバーになって、やられると大変なことに 勝 見 止 め た。 そ れ と デ ィ ー リ ン グ も 止 め ま し た。ディーリングをやっていても儲からんし、ナ ――それで、もうお止めになられたわけですね。 か採算が合わんわけですよ。 供給していたことも指摘されている。 るに至った理由はどこにあったのかなど、これま ― ― 91 した役割が強調される。しかし、勝見氏も京都銀 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(下)― しょうか。 勝見 ネット取引はね、今までと違うお客さんを どうして入れるかということが一つ。それからも arrowhead んですか。 小口投資家を、新たなお客さんとして取り込むと ――ディーリングをやめられたのは、 勝見 以前です。私とこが止めた後、 arrowhead が入って、アルゴリズム取引の問題が出てきまし いうことが目的だったんです。この方々は、抽選 の問題だけではなくて、もっと以前に止められた た。いわゆるステルス戦闘機みたいに、一〇〇万 がどこで当たるや分らんから、いっぱい口座を作 なことでね。 〇何秒という速さで注文を出しているというよう 街からシカゴまで専用回線を通していて、〇・〇 ないわけですよ。それで、当社がそのとき打ち出 勝見 違うお客さんをどうしてとるかということ ですね。ただ、IPO狙いのお客さんは長続きし は違うお客さんを作ろうとしたわけですね。 ――IPO狙いの人ですね。そういうこれまでと う一つは、いわゆる新規上場株を欲しがっている 株の注文を一、〇〇〇株ずつに割って、ものすご るわけですよ。 ――ネット取引については、一時期されたけれど したのは、私とこに預かり資産がこれだけなかっ ― ― 92 い速度で注文をバリバリと出しよる。しかも、ア も、 止 め ら れ た と お っ し ゃ っ て い ま し た け れ ど たら、ご注文は受けられないという…。 織の中に位置づけようというお考えだったんで も、そもそもネット取引をどういうふうに営業組 メリカの事例では、それをやるところはウォール 証券レビュー 第55巻第11号 ね。 勝見 ええ。だけど、その後は大手がネット取引 に 入 っ て き ま し た か ら、 止 め た と い う 経 緯 で す ――条件をつけられたんですね。 断したということです。 て、ネットよりも対面営業だというふうに経営判 の場合は人気で動くから…。そういうこともあっ 店頭へ聞きに来られる。それで取引はネットでや るわけですけど、日本は全然違うんですよ。日本 私 は 昔、 野 村 の 井 阪〔 健 一 〕 さ ん と か、 芦 谷 〔源治〕さんとかのアドバイスで、ニューヨーク の意見を聞けるということが重要やと思い直した を聞いていたんですね。それで、やっぱり他の人 いって、営業マンの意見を聞いている」という話 結 局、 お 客 さ ん が 店 頭 で こ れ を 買 い た い け ど と 「ネット証券は、ネット取引だけではやれない。 そ れ ま し た が、 ニ ュ ー ヨ ー ク へ 行 っ た と き に、 ニューヨーク証券取引所の見学もしました。話が 建したわけですけど、バブルのころ、営業の戻り 勝見 そういうことです。それと私とこはさっき 申し上げたように、固定経費を落として財務を再 いうことですね。 スが大事だということで、それから撤退されたと んを入れようとしたけれども、やっぱりアドバイ て、そこに依存していたのを、少し新しいお客さ ―― つ ま り、 大 口 顧 客 が た く さ ん い ら っ し ゃ っ 過去の失敗から学んだ堅実経営 んです。アメリカの投資家は、財務分析を物すご を払うというのは時代遅れやと大蔵省が言ってい リ チ ャ ー ド・ チ ャ ッ プ マ ン 氏 の 協 力 を 得 て、 うやるんですよ。それで売買する銘柄を決めて、 ― ― 93 へ何遍も見学に行っているんですよ。米国野村の 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(下)― でも他に二社は、戻りの外務員〔歩合外務員〕を と、後々証券会社は潰れると思って、当社と京都 の が、 正 し い 払 い 方 な ん だ。 全 部 固 定 給 に す る は、きばったもんにはそれだけ給料を払うという 務 員 の 社 員 営 業 化 が 指 導 さ れ た 〕。 そ れ で も 私 事件を起こす可能性があることを指摘し、歩合外 会社へのロイヤリティが低いため、顧客と組んで 益相反の可能性があること。また、歩合外務員は は顧客からの委託売買手数料に直結しており、利 社の総合証券化が進む過程で、歩合外務員の収益 ましたよね〔昭和五〇年代末頃から、中小証券会 多かったんですよ。 す。それで、私が二〇代のときは、給料の遅配も をすぐに払ってくれないということがあったんで 営業経費に関連して、私とこで昭和三〇年代に 問題になったんは、お客さんが信用取引の立替金 化に対する対応能力も高いと思います。 報酬を支払う方が公平ですし、また経営環境の変 分からないわけですよ。つまり、出来高に応じて も、今は固定給を支払うことが可能でも、将来は 報われなければ、優秀な人材が流出します。しか 報いる方法で、成果に平等な対応であり、努力が よく働く方々に営業成績にあった報酬を支払う 方が公平だと思うんです。努力した方々には一番 す。 券〔 現 在 の ば ん せ い 証 券 〕 は 固 定 費 に し た ん で をしなかったわけです。他方、大盛証券と萬成証 ――それは多分、昭和三〇年代の証券経営の大き 勝見 払ってくれない。それで一部の職員がそれ を立て替えたりしてね。 ――払ってくれない。 堅持したわけです。いわゆる営業経費の固定費化 証券レビュー 第55巻第11号 ― ― 94 勝見 私は若いときにそういう経験をしているの で、社長就任後ずっと信用取引の立替金が月末に な問題点だったと思いますね。 用で何十万株も買うたんです。 渡したんです。そうしたら、その人が新井組を信 えたことがあって、私の懇意にしている物すごう 勝見 それで以後の判断は、投資家がしはったら よろしいことですから。私は今までずっと、その りますからね。 ――現引きしてもらえば顧客の支払い能力が分か 言っています。 ら、お客さんに「現引きしてくださいと言え」と しい貸出しはしませんよ。このことも考えて営業 す。野村証券でも一人の口座に会社の純財産に等 た か ら、「 会 社 の 純 財 産 以 上 の も の を 人 に 貸 す 長が「あと一〇〇万株買わしてくれ」と言うてき 勝見 その人一人で、私とこに信用が五〇億円ほ どあったんです。それにもかかわらず、その副社 ――新井組ね。 大地主で不動産業をやっている、あるお客さんを 全部入らへんのやったら落とすなと言うているん ことを言い続けてきました。それ以来、私とこは をしないと…。 か 」 と 怒 っ て、 ス ト ッ プ を か け た こ と も あ り ま 何十年と信用取引の立て替えはゼロです。ここも 名迎 ちょっと特異なとこです。そうやないと、いつ何 時潰れるか分からしませんから…。 例えば、私とこも野村証券から副社長を 2 ― ― 95 です。それから、もし信用の保証金が足らなんだ 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(下)― 結局、中井正造氏と大林富次郎氏からやってくれ と言われて、それが成功したという話をしました ――次へ行きまして、地場証券は株式委託売買へ そのときも大林富次郎氏からは、「こんなしよう とで、㊥、中期国債ファンドを入れたんですね。 株式営業から募集物営業への転機 の依存が非常に高いと言いますよね。 もない商品を売るな」と怒られました。個人営業 ね。しかし、もう少し先を読まなあかんというこ 勝見 高い。 では株が大体四五%、投信が五四%ぐらいになっ 収入を得られていたんですよね。ところが、現在 も九〇年代は、約九〇%以上がブローカー業務で ――ちょっと調べてみたんですけど、御社の場合 林富次郎氏を怒ってくれたんですよ。彼はもとも ん、間違うてるぞ。これは売らなあかんで」と大 永 治 郎〔 後 の 西 村 証 券 創 業 者 〕 さ ん が、「 富 さ 次郎氏からは怒られたわけですよ。しかし、西村 たわけですね。ワリコーを売ったときも、大林富 ― ― 96 のときと一緒ですわ。その次はワリコーを募集し ていますよね。 いう金融機関が行っていたのですが、立替金や融 そもそも、京都信用金庫の始まりは、京都証券 取引所の集団取引清算業務を京都繁栄信用組合と とが大阪商事〔現在のみずほ証券〕の京都支店長 で、興銀系ですから。 先ほど、私が個人営業して怒られたけれども、 となんです。 その成り行きをお話ししますと、まずこういうこ 勝見 そんなもんですよ。昨年の商いは投信が四 七%です。それが私とこの物すごい強みですわ。 証券レビュー 第55巻第11号 話が逸れましたが、私はしんどい方を選ぼう、 これが楽な道につながるんだという考え方ですか いただいたんです。 会社として、京都証券取引所の加入会員となって 都証券取引所理事長と大林富次郎氏の紹介で保証 治郎氏に譲渡されたんです。そして、中井正造京 券の営業権を大阪商事の京都支社長だった西村永 長は金融清算機構の業務に専念するため、榊田証 作りました。この時、榊田証券の榊田〔喜三〕社 資のことも考えて、京都証券界で京都信用金庫を ――京都の場合ね。 すからね。 人に営業をかけたんです。学校法人は全部お寺で して、既発債で売ってしまおうと考えて、学校法 会社で抱いて、販売手数料の七〇%を相手方に渡 ただ、そのときに、まぁ、どうしても一億、二 億残る月もあるんですよ。こういうときは、もう 常に営業の足腰を強くした、力になったんです。 すよ。新規資金導入に努力したんです。それが非 勝見 京女〔京都女子学園〕やったら本願寺とか ね。しかも、京女の財務には私の姉がいたから。 ら、私とこは興銀〔日本興業銀行〕と母店契約を 結んだんです。京都では私とこと西村証券の二社 介で面談した時、「大学法人の財務責任者に勝見 そういうパイプをどれだけもっているかが重要な に、前年同月より〔販売額が〕減額したら、母店 さ ん が お ら れ る が …」 と 聞 い て こ ら れ た の で、 が母店契約を結んだんです。そうすると、乗換手 契 約 を 解 消 さ れ る わ け で す ね。 そ れ が 非 常 に よ 「私の姉です」と答えましたら、一段と強固な繋 んですね。数年後、他の学校法人と金融機関の紹 かった。みな募集物に死に物狂いできばったんで 数 料 が み な 入 る ん で す よ。 た だ し、 そ の 代 わ り 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(下)― ― ― 97 ――先ほどのお話だと、歩合外務員が非常に多い ―― 嵌 め 込 み 先 を ち ゃ ん と 抱 え て い た わ け で す せんか。 合の人たちは募集物をやろうとしますと嫌がりま がりができました。 ね。 勝見 そりゃ嫌がります。 というお話だったかと記憶しているんですが、歩 勝見 抱えてなあきません。他にも〔京都〕文教 大学ってあるんですよ。 は、買い付けた会社と別の会社で償還していると い う 仕 組 み で や っ て い た ん で す ね。 法 人 の 中 に 七〇%は戻したけれども、それでも儲けが出ると ると償還手数料も入るわけですね。販売手数料の 債の償還は、全部私とこがやったんです。そうす として売ったわけですが、そこが持っていた割引 勝見 先に言った手持ちになったやつを、個人の 資産家の大口販売の開発につなげようと、既発債 ――家政学園ですね。 たんです。 の店舗と隣の棟を、タニヤマムセンと等価交換し かんということで、ソニーの京都支店だった現在 であったんです。しかし、やっぱり建て替えない 証券会社」と紹介されたこともある、木造の建物 るところに、週刊朝日の特別編で「古い京町屋の は、もうちょっと北、今はエディオンになってい 勝見 これはちょっと長くなりますけど、先ほど ちょっとお話しましたが、もともと私とこの店舗 …。 ― ― 98 ――それでも募集物がそれだけ売れたというのは ころもありました。 証券レビュー 第55巻第11号 〇%払う」と言って、引き抜きしたから京証の理 けです。それで、私が場立ちをしていたときの友 せ し て も い い と 書 い て あ る ん で す〔 平 成 元 年 の しかし、当時、統一経理基準では、外務員の報 酬規定に三五%プラス通信費として、五%は上乗 事会で問題になったんですよ。 人が、他社にようけいましたし、協和会の幹事長 『証券会社の経理と決算』によれば、歩合外務員 そうしたら、大蔵省から「木造の建物が鉄筋の ビルになったら、固定経費が上がるから、収支バ を長くやった信用もありましたので、スカウトし に対する報酬は、一般的には委託手数料の三五% ランスをまとめた書類を提出せよ」と言われたわ て一〇人以上入れたんです。それで、収支バラン に、 通 信、 逓 信 費 と し て 五 % を 加 算 し た 合 計 四 ――歩合として雇ってですね。 れば、その第三条で、「東京証券業協会会員の東 和四六年に東京証券業協会と東京証券外務員協会 時、 外 務 員 の 営 業 報 酬、 戻 り は 三 〇 か ら 三 五 % 起きたんです。ちょっと話がそれますけれど、当 れる。ただ、東証の「外務員に対する給与基準」 り、実費戻しが当時から行われていたことが窺わ 他に実費の支払いを妨げない」と規定されてお ― ― 99 スをとろうとしたわけです。 勝見 歩合として。それでその人についていたお 客さんの信用も同時にいただけるわけですね。そ 京証券外務員協会の会員に対する手数料の割戻率 〇%とされている。また、時代は少し遡るが、昭 れで大蔵省も、これならいけるなとなったんです は、委託手数料の三割五分以内とする。ただし、 や っ た ん で す。 そ れ を 私 は「 私 と こ へ 来 た ら 四 の間で締結された「外務員協会との協定書」によ けど、外務員への営業報酬を巡って、問題が一つ 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(下)― ――そうでしたね。受注戻しですね。 えたんです。 そのただし書きを利用して、四〇%戻すことを考 信、逓信費に関しては規定されていない〕。私は の 三 五 % 以 内 と す る 旨 が 定 め ら れ て い る が、 通 では、歩合外務員に支給する給与は、委託手数料 ね。 相手として出てきたんが、京都銀行です。ただ、 そ れ と、 野 村 ア セ ッ ト の 商 品 を 売 っ て い る の は、京都では私とこだけです。後から有力な競争 ている一つの要因でもあるんです。 売がかなり多いですし、それが私とこが生き残っ わけです。そういうことがあって、今も投信の販 産が、今も私とこの預かり資産として残っている しょ。それで、分配金の多さに引きずられたお客 ― ― 100 銀行の投信販売にはいろいろ問題もありますわ 勝見 それをみな、知らなかったんですね。私は 統 一 経 理 基 準 を み な 理 解 し て い た け れ ど も …。 しかも、彼らはノルマ営業と言って、毎月〔販 売額を〕減らしたらいかんさかい、物すごい闘争 さんとトラブルになっていますよ。そもそも、私 ――トラブルがたくさん出てきましたね。 をやっていたわけでしょ。減額したら、その分の とこは分配金の大きいもんは売りませんしね。分 和 光〔 現 在 の み ず ほ 証 券 〕 の 出 身 で、 全 員 ワ リ ワリコーの手数料がつかないから、必死で売って 配金競争には加担しない。目先の利よりもっと先 コーを売っていたんで、嫌がらないわけです。 いたわけですよ。そのとき、彼らが持ってきた資 勝見 銀行が販売に注力していた投信は、毎月分 配でタコ足配当をしていた商品も多かったで で、話を戻すと、スカウトした人は、ほとんどが 証券レビュー 第55巻第11号 した。投資信託も市況の先を考えないと…。当社 んで、底のときに募集に入るということをやりま しているわけですよ。そやから、その失敗から学 勝見 そうそう。それと、私が投信を扱ったとき に、一〇〇円が六〇円になったとか、何遍か失敗 ――無分配のものを売ると…。 当社の信頼性の強化につながっています。 の利を見て、お客さんに喜んでいただく。それも るんですよ。 アドバイスをしたということが、将来に生きてく 食いしてはりません。丸近の営業マンがそういう 買ってくれはったお客さんは、半分以上がまだ利 をお願いして、八億円売ったんですよ。そのとき 品を、一ドル七五円から八〇円のころに、「ドル 勝見 通貨をかえて、アメリカの国債とか株式を 組み入れた投信とかね。私とこは、ドル建ての商 ――通貨選択型。 すけれども、京都の地場証券はどこも堅実経営を ― ― 101 資産を持ちましょう」と、国際通貨への分散投資 は地元で転勤もなく、お客さんと長いお付き合い 勝見 そうそう。どういうふうに経営者が考える かということが大事ですよ。それともう一つは、 旨にしておられますよね。また、二代、三代と非 世代を超えた顧客関係構築の秘訣 最近三年ほど大成功してんのは、いわゆるドルに 常にお付き合いが長いお客さんが多いというふう ――それでは、御社に関する最後の質問になりま かえて…。 ――底値で売りに出すと…。 になりますから…。 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(下)― 勝見 先ほども言いましたが、とにかくお客さん のところへ行っても、奥さんを味方にすること。 はどんなことをされているのでしょうか。 世代を超えて顧客関係を維持するために、御社で ると非常に羨ましいことと思うんですけれども、 ができるというのは、他の地域の地場証券からす に聞いています。地方の地場証券でそういう営業 も長いお付き合いができる原点になっています。 そういうことを通じて、丸近の営業マンが信頼 してもらわなあかんと思うんですね。それが今で にする必要があります。 るため、有価証券では果実の管理は、堂々と実名 ます。税法上の真の名義人は、果実の管理者であ も、私は、「正しい名前にしなさい」と言ってい こ と で す。 最 近 で は〔 株 券 の 〕 電 子 化 の と き に ―― 奥 さ ん や お 子 さ ん と の お 付 き 合 い を 意 識 さ 変わりましたけど、私が必ず言うことがただ一つ らっしゃるんです。この間に、二回くらい税法が た、その一方で、先ほども言いましたように、投 で、 今 は そ れ を 一 生 懸 命 や っ て い る ん で す。 ま 勝見 そういうことですね。これからの時代は、 生前に資産を分配する人が増えてくると思うの ― ― 102 それから、息子さんやその奥さんにも、営業して から、遺言状作成相談の仕事ができんのでも、奥 れ、お客さんとの信頼を構築しているから、親子 あるんで す。それは、「税法が変わ るときは、全 信 の 販 売 に も 注 力 し て い ま す。 そ や か ら、 私 は 三代のつき合いができるんだという…。 部正しい名前にしなさい。これが鉄則だ」という それからもう一つは、親子三代付き合うてる人 で、 今 で も 五 億 か 七 億 ぐ ら い 資 産 が あ る 人 が い さんから信頼されているからです。 いる内容が分かるようにしておくことです。です 証券レビュー 第55巻第11号 投資する場合は、そのときの買い付け手数料をゼ をもらわはって、それをもう一遍、同じ投信に再 ず私とこがやっていることは、お客さんが分配金 分配型の投信もたくさんありますから、やむを得 〇万円の投資枠を食い潰すんですよ。また、毎月 を追加購入すると、再投資した金額分、年間一〇 金として投資家に還元し、その分配金で同じ投信 ね。「再投資型」の場合、収益分配金を一度分配 ただ、NISAには問題もあって、配当が再投 資 さ れ る「 再 投 資 型 」 の 投 資 信 託 が あ り ま す よ んで」と言っているんです。 資信託に一番向いているから、投信も売らなあか トップセールスの人にも、「NISAの口座は投 います。それからもう一つは、これから投資家が めの商品やということで、これに今、力を入れて ですから今、私らがやっているのは、NISA をどれだけ継ぐか。NISAは投資信託販売のた す。 とも考えないといけないから、いろいろ難しいで どれだけの営業固定経費で育てられるかというこ んですね。営業マンが預かり資産を集めるのに、 な私とこが負担しますよということも言うている 管するのに手数料がかかるんやったら、それもみ ゼロにしているんです。さらに、お客さんがよそ る場合には、これも私とこは買い付けの手数料を 億円と持っている分配型投信の分配金を再投資す 足らんようになるやろうと思うてますから、これ ― ― 103 でも投信を多少持ってはって、それを私とこに移 ロにしているわけです。 それともう一つは、NISAはしょせん一〇〇 万円のものですから、NISAの口座だけじゃな の対応もせなあかんと思っています。 増えてくると、そのときにカウンターレディーが くて、課税口座でお客さんが五、〇〇〇万円、一 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(下)― ――それも、資産管理の一環として使えるとお考 勝見 使えるかと思ったんやけども、あれはあん まり役に立ちませんでしたね。私どもが販売した えになられて、販売されたということですか。 うので、多くのお客さんの注文が取れなかったと 商品が、変額個人年金保険の「北斗七星」という というのも、これは数年前に大手証券の京都支 店で起きたことなんです。一昨年の暮れに税法が いうことがあったんです。それで、地場の重要性 信託型の商品で、掛捨型の保険販売ができなかっ 変わるというときに、担当者がおらへんからとい をお客さんが分かってきて、地場でも口座作っと たんです。 勝見 役に立たなんだ。私とこは、掛捨型保険も 全部ネットで売らしてほしかったんですけど、ア ― ― 104 こというふうになったんです。ですから、カウン が自由化されたときに、すぐにアリコジャパンの リコジャパンが提供してくれた商品は、ネットで ――役に立たなかった。 生命保険を売られますよね。 取り扱うことを許してくれなかったんです。 が出来たんです。 コの商品を販売したことによって、日本での販路 すから、アリコジャパンにとっては、当社がアリ 勝見 売りましたね。当社が日本の証券会社で初 めてアリコジャパンの商品を販売したんです。で ――一九九〇年代にビックバンがあって、手数料 ターレディーの配置もこれからの課題です。 証券レビュー 第55巻第11号 は戻りません。 思います。京都は他の地域と違って戦災に遭いま ⑴ 信頼構築と長期取引 ――次に、京都の証券界の特徴をお聞きしたいと なか信用してくれないんですよ。そやから、京都 京都へ来たんですよ。そやけど、お客さんはなか 勝見 ナショナル証券とか山種証券〔ともに現在 のSMBCフレンド証券〕など、物すごうようけ 京都証券界の特質 せんでしたので、昔からのお金持ちがずっと残っ というのは思うように営業がしにくいんです。 ますからね。京都で信用を得るには一〇年はかか れたりしていますし、今まで千年以上騙されてい 勝 見 そ う そ う、 そ う い う こ と で す ね。 で す か ることができるということですか。 ――一旦、信頼関係ができると、ずっと長く続け ― ― 105 ――大名貸しとかでね。 ていますよね。 ――外者に対しては。 勝見 そうそうそう。だから、反対に言うたら、 一旦信用してもらえると、長いお付き合いができ 深いんですよ。そやから、間口は狭うても、絶対 潰れない。それから京都の人の特徴として、人を るんです。 ります。一方、失墜した信用は二〇年、三〇年で のも、江戸時代だったら大名とかを信用して潰さ あまり信用しないということもあります。という 勝見 京都独特のよそと違うとこは、昔から税金 は間口で取ると言われますけど、京都はみな奥が 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(下)― 代、三代とお付き合いが続いているお客様がいる ら、当社は転勤がありませんので、営業マンも二 京都の人は、人をあまり信用しないと先ほど言 いましたけど、よそから京都に来たって、すぐに よ。 をして、残った五%、つまり、出るときの五%で は、お客さんのとこへ行ったら、九五%は世間話 勝見 そうそう。くっつき過ぎもあきません。そ う は 言 い な が ら も、 私 は や か ま し く「 営 業 マ ン して…。 ――逆に、あまりくっつき過ぎると、悪いことを ですね。 ば、京都ではなかなか商売ができないということ ――人間と人間の関係を時間をかけて作らなけれ ではすまされません。 かも分かりませんしね。一度問題が起きると一人 私とこは、おかげさんで商売が続けていけてるの 人もいますしね。 仕事の話をしろ」と言っています。これはどうい マンは注文をとってすぐ帰りますけど、世間話を せるわけです。最初から仕事の話をしたら、営業 勝 見 京 都 の 人 は な か な か 変 え な い で す。 そ れ を作ると、なかなか変えないですね。 ――確かに京都の人は、例えば、一旦銀行に口座 ― ― 106 はお客さんに信用してもらえないですよ。それで うことかと言えば、世間話というのは税法改正の 勝見 そうそう、時間をかけて作っていかなあか んのです。 通じてお客さんとの信頼関係が築けるわけです 話ですね。そういう話をした後で、仕事の話をさ 話や相続税の話とか、時代の変化とかいろいろな 証券レビュー 第55巻第11号 て、家族ともお付き合いをせなあかんと思うんで る こ と が で き ま す よ と …。 そ う い う こ と を 言 う 〇万円まで、生きている間にお子さんに資産を譲 せ や か ら、 今、 私 ら が 一 生 懸 命 言 う て る こ と は、生前贈与をうまく使えば、二〇年で二、二〇 の役員で税法の勉強をしています。 長〕の市田〔龍〕先生のご指導を受けて、私とこ ど う い う こ と か と 言 う と、 太 田 昭 和 の 関 西 ブ ロ ッ ク 長〔 新 日 本 有 限 責 任 監 査 法 人 大 阪 事 務 所 れも使うてるんですよ。 も特徴ですね。そやから、私とこは今、営業でそ で、京都の奥さんは、物すごうケチケチなところ きなあかんということです。またもう一つは、私 勝 見 そ う。 そ や か ら、 営 業 マ ン は そ れ を 読 ん で、お客さんの資産をどう譲っていくかを提案で ――つい最近は、相続税も変わりましたしね。 私とこへずっと来てはります。 の人は亡くならはったんですけど、まだ奥さんは い結果になったと生前に喜ばれてました。今、そ いただいたため、法定相続人の方々も含めて、い を受けていました。何度かのご相談を経て、人生 ういうふうに分けたらええのや」と何遍もご相談 億という 資産をもってはって、「 社長、これ、ど ――一家の資産管理を通じてお客さんを捕まえて えて、会社で遺言状の書き方とかの研修もしても がおられるんですけど、その方には法務管理に加 ― ― 107 の分岐点において当社が良いアドバイスをさせて すよね。 いくと。 らっているんです。営業マンがこういう知識をつ とこの法務管理をしてもらっている司法書士さん 勝見 そうそう。せやから、あるお客さんは何十 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(下)― きませんから。 けていないと、お客さんとの長いお付き合いはで 売ってもろたお客さんは、下がらんか、下がらん 取 引 の 売 り を 使 え る 営 業 マ ン で す。 信 用 取 引 で 社もみんな二代、三代のお付き合いということを ――京都の証券会社は、御社だけじゃなくて、他 しょう。 がる楽しみの両方を持ってもらうということで かと待ってはります。つまり、上がる楽しみ、下 言っておられますが、他の会社もそういうことを そやけど、それがでけへん営業マンには、昔か ら「頭と尻尾は人にくれてやれ」と言われますけ ど、全部取ろうと思わず、お客さんとのコンセン ば、意外と株が好きとか。あまりそういうのはな の 投 資 家 の 方 の 特 徴 っ て 何 か あ り ま す か。 例 え ⑵ 京都の投資家の特徴 ――ちょっと話がガラリと変わるんですが、京都 ます。 の鉄則として仕手株は絶対なぶらんようにしてい ういうことが一番信頼されます。それから、当社 されて、長いお付き合いに繋がるし、京都ではそ サスをしっかりとった上で商売するように、厳し いですか。 ――逆張りをされるということは、底のときに現 勝見 他社も同様だと思います。 勝見 一言で言ったら、やっぱり逆張りをする人 が多いということですね。私とこでお客さんと長 物を買ってもらって、天井と思われるときは、信 く言っています。そうすると、お客さんから信頼 いお付き合いをしている営業マンの特徴は、信用 ― ― 108 されているんですか。他はご存じないですか。 証券レビュー 第55巻第11号 用の売りを立てておくと…。 かっていますよね。 同じように地場証券が多く残っているのは北陸だ バックアップをどうやってするかもよう考えてい 問 題 が な い 証 明 を し て も ら え る と …。 そ う い う で言っているわけですよ。そやから、クレームや プなんやから、ありがたいこっちゃで」と、社内 り、「上司が挨拶に回るというのは、バックアッ 「そうじゃないんだ」と言っているんです。つま い う 担 当 者 も い る わ け で す よ。 だ け ど、 私 は、 の西院から自宅まで、人の土地を通らんでも帰れ 商店は創業者が西京極の大地主さんで、大体阪急 都証券は、昔、風間商店と言うたんですよ。風間 勝見 背景事情は、みなそれ相応の資産を持って いるということが、一番大きいと思います。今の も、その背景事情などをもしご存じでしたら…。 現 状 は、 全 国 的 に も 特 異 だ と 思 う ん で す け れ ど ――そんな中、地場証券が多く残っている京都の 勝見 そうですね。 け で、 他 の 地 域 は み ん な 集 約、 撤 退 の 方 向 に 向 勝見 そうそう。それで、私とこはお客さんと長 いお付き合いをするために、「上司はお客さんと こへ回れ」と言っています。もちろん、私も回り ます。また、お客様のご意見を伺うことで、トラ たと…。 勝見 京都の証券界も、私が入社したときは三〇 ――それはえらい大地主ですね。 ブルの未然防止につながります。 ⑶ 地場証券が集約されない理由 ――京都には地場の証券会社が四社ありますね。 ― ― 109 ます。中には、上司が回ったら、何で来たんやと 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(下)― 社以上あったのが、現在は集約が進んでいます。 先見性をもった企業として、生き残ることに努め が重要と考え、拡大より良質な企業として、また る老舗企業のように、独立系として生き残れるか 勝見 今は金融資産と不動産になっていると思い ま す け ど ね。 そ や け ど、 人 の と こ は 分 か り ま せ ですか。 ――その資産は、今は金融資産になっているわけ ことですね。 ています。ですから、当社はステータスよりも、 ん。一般論としては金融資産と不動産やと思いま 今は各社がオーナー企業として、いかに京都にあ 不況をチャンスと考え、経営判断のスピード力と すけどね。 ハイテクベンチャー企業が ゆる戦後の封鎖預金での株式売買で儲けて、その 勝見 例えば、一つは山とか土地を持っていると いう一族の流れですね。それともう一つが、いわ 都銘柄と言われるハイテクベンチャー企業がたく ム、村田製作所、オムロン、日本電産といった京 もつ京都ですが、一方で、京都には京セラやロー ― ― 110 先進的な取り組みで生き残り策を図っています。 ――会社が資産を持っていらっしゃるということ 数多く誕生した金融的背景 後お金を使わずに、しっかりコツコツと残したと さ ん あ り ま す。 京 都 で こ う い う ハ イ テ ク ベ ン 資産を持っていらっしゃるんですか。 いう人もいますね。それを今も持っているという ――地場証券がたくさん残っているという特徴を ですが、一般論で結構なんですが、どういう形で 証券レビュー 第55巻第11号 よって生まれた危機意識、つまり京都が次の時代 の ベ ン チ ャ ー の 原 点 は、 明 治 天 皇 の 東 京 行 幸 に 水焼に行きつくということが挙げられます。京都 勝見 まず、こういったハイテクベンチャー企業 が多くできた背景としては、もとはその多くが清 す。そのときに出資した人は、この近くの方々で 会 社 を 作 っ た わ け で す。 そ れ が 現 在 の 京 セ ラ で それで、前任の青山〔政次〕さんと二人で新しい すけど、新任の上司がそれをさせなんだんです。 〔ニューセラミックス〕の開発をしていたわけで に勝てないと、一〇〇〇年の技の上に一段、二段 に生き残るための策にあったと考えています。日 す〔京セラの創業当時の資本金は三〇〇万円で、 チャー企業が数多く誕生した、金融的な背景など 本が世界からの技術導入と外貨不足をどうするか 宮木電機製作所社長の宮木男也氏とその関係者が の創造性豊かな技を積んでいきました。 迷ったその時、日本の手仕事の技がロンドン万博 一三〇万円、同社専務の西枝一江氏が四〇万円、 があったのかお聞かせいただけませんでしょう で世界に評価され、焼物、手先を使う細工、彩色 同社常務の交川有氏が三〇万円、残りの一〇〇万 か。 から工芸品等で外貨を稼いだんです。そして、そ 円を青山氏や稲盛氏などが技術出資したとされ 技 術 に 発 展 し、 京 都 の I T、 電 子 部 品 系 ベ ン る〕。 ― ― 111 京セラの稲盛〔和夫〕さんは松風工業〔現在の 松 風 〕 に い て、 稲 盛 さ ん は そ こ で セ ラ ミ ッ ク の清水焼や七宝が今度は世界の最先端セラミック チャー企業の原点となりました。京の匠は時代を 先読みし、新しいモノづくりに取り組まねば時代 このご町内と言えば、昔、電気屋街だったわけ です。それは火事になるので、お寺のお灯明に電 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(下)― 四 条 通、 五 条 通 と と も に 寺 町 通 で あ っ た と さ れ 最初に家屋電灯が灯いたのは、先斗町や新京極、 気が使われたことに由来しているんです〔京都で び、シャープ製品の卸売を開始した〕。 が、昭和三年に早川金属工業所と特約店契約を結 ム セ ン は、 ラ ジ オ や 電 気 器 具 を 取 り 扱 っ て い た みな持っているわけですよ。例えば、寺町通にエ へと成長した〕。そのときから、小銭をコツコツ 勝見 それを売った。そやから、数年前までは、 いつでも宴会のときは、吉永小百合さんを挟んで ――鉱石ラジオですね。 る。その後、寺町通は大阪の日本橋に次ぐ電気街 ディオンというお店がありますけど、昔はタニヤ 両横には、谷山会長とシャープの代表者が座る。 んは、シャープペンシルの後にラジオを作ったん 彼は早川徳次さんを助けたんですよ。早川徳次さ 勝見 私とことは物すごい仲でした。タニヤマム センに谷山茂三郎さんという人がいたんですが、 ――タニヤマムセンでしたね。 氏が東京で事業を開始する際、谷山茂三郎氏は二 山〔茂三郎〕さんは支援もされたわけです〔松本 た〕。そやから、彼が会社を創業するときに、谷 パイオニアの創業者である松本望氏と結婚され 機、今のパイオニアの創業者は、谷山茂三郎さん ― ― 112 マムセンと言いました。 ですけど、売るところがなかったんです。それを 〇〇円を貸与したとされる〕。それから、京都の ずっとそういう関係やったんです。また、福音電 谷山茂三郎さんはトラックに何台分かを引き受け ハイテクベンチャーで、陶器から転じた会社をも の娘婿なんですよ〔谷山茂三郎氏の娘・千代氏は て、それを全部売ったんです〔もともとタニヤマ 証券レビュー 第55巻第11号 う一つ挙げれば、村田昭さん。 ――村田製作所ですね。 職後、彩光社を設立、さらには立石電機製作所を 設立したとされる〕。 勝見 そういうつながりがあるわけですよ。私は 昔から、立石さんの注文をよくもろうていたんで ――センサーね。 田製作所を創業〕。そのとき当社の取引先の資産 すが、みなつながりがあるからなんです。あと、 勝見 彼が村田製作所を作った〔碍子などを生産 していた実家の陶器商を転じて、昭和一九年に村 家にお願いして、エンジェルとしてようけ資金を この辺りから出た起業家では、よく大林富次郎氏 勝見 そうそうそう。そやから、京都のハイテク ベンチャーは全部、焼き物を起源にしているんで ――御社が出された。 あり、そのガラススクリーン研究部門が独立し、 す〔大日本スクリーンの前身は石田旭山印刷所で この印刷屋はんやで」と言っていた人がいるんで が私に「今、リヤカーを押して行かはる人な、そ す。京セラは松風工業の別れやし、立石電機も、 大日本スクリーンが誕生した〕。 ――そういった会社にお金を出されたのが、この すが、その人が大日本スクリーンを作ったわけで その前は変圧器のスイッチを、焼きもんで作って イッチを作られたんです〔立石一真氏は、実家が 辺りの人たちということですね。つながっていま いたんです。そこから分かれて、彼はマイクロス 伊万里焼盃の製造販売をしており、兵庫県庁に就 ― ― 113 出したんです。 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(下)― トリートで、裏通りの御幸町通は天皇陛下が通ら あるんです。また、昔、寺町通は京都のメインス には、ベンチャービジネスとのつながりがようけ ンションに貸してはるんです。そやから、この街 分の創業の地やから「絶対売らん」と言うて、マ でハイテクベンチャー企業を立ち上げた方で、自 んです。このマンションの土地の所有者は、そこ 勝見 つながっている。そやから、お金を持って いたということです。この裏にマンションがある すね。 するときに、一番の引き受け手になってくれたと 勝見 京都銀行の果たした役割は、私とこがエン ジェルを集めた次の段階、つまり事業を大きゅう に本店を京都市内に移転した〕。 で、昭和二六年に京都銀行に改称し、昭和二八年 商 工 銀 行、 丹 後 産 業 銀 行 が 合 併 し て で き た 銀 行 都銀行は昭和一六年に両丹銀行、宮津銀行、丹後 していて、貸付先がありませんでしたでしょ〔京 は、京都市内の優良な貸付先はよその銀行と取引 したよね。それを蜷川〔虎三〕知事が、本店を市 ―― よ く 京 都 の ベ ン チ ャ ー 企 業 の 話 に な り ま す の 時 に、 現 在 の 京 都 ハ イ テ ク 企 業 の 大 株 主 と な 行はベンチャーを育てたと言われるわけです。そ ― ― 114 内 に も っ て き た わ け で す か ら、 移 転 後 し ば ら く れる道でした。 と、必ず京都銀行が果たした役割が強調されます り、有力地方銀行となった今も、ベンチャーの資 いうことです。だから、そういう意味で、京都銀 よね。京都銀行はもともとは京都の北部にあった 金力になっています。 まで京都市内に一つしか支店を持っていませんで 四つの銀行を、戦時中にくっつけた銀行で、戦後 証券レビュー 第55巻第11号 勝見 来てくれた。 て資金供給し、その次に京都銀行が…。 ――じゃあ、最初は御社などがエンジェルを集め 勝見 そうでしょ。それからもう一人よう面倒を 見はったんは、榊田喜三さん。 金供給をしたという話をよく聞きますよね。 だけでなく、株式を額面で引き受けたりして、資 本経済新聞」の平成一九年九月二九日付け記事 持っているという記事が載っているんです〔「日 株式含み益を全国の銀行の中で一番ぎょうさん 経新聞を見られたら分かるんですが、京都銀行が しましたように、明治時代に都が京都から東京に 持ってはるんです。こうした精神は、先ほども申 京都信用金庫はようけ京都のベンチャーの株を タートアップ期に投資しているから、京都銀行と 勝見 榊田さんとこは、もともとは京都の証券会 社 の 決 済 機 関 で し た。 そ ん な こ と も あ っ て、 ス ――京都信金〔京都信用金庫〕ですね。 で、有価証券の含み益が全国の地方銀行でトップ 移り、京都では「再開発が京都の生き残る道だ」 勝見 そやから、京都銀行は物の考え方、社風は よそと違うんですよ。例えば、三年か四年前の日 であることが報じられている〕。それは、さっき という危機感が生まれました。こうした「危機を 土を生み出したと思います。 チャンスに」する精神が、新しい物にくいつく風 言うたベンチャー企業の成長段階で、京都銀行は ようけ面倒を見たからなんです。 ――京都銀行は、ハイテクベンチャー企業へ融資 ― ― 115 ――そういうことですか。 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(下)― 理事長は新規上場が京証存続の「カナメ」と考え ういうことをしておられたか、内容をご存じでし 合をやっていたらしいんですけれど、囲む会でど て、その後、上場企業が取引所を囲む会という会 ど も、 中 村 理 事 長 が ワ コ ー ル か ら い ら っ し ゃ っ ――今度は京都証券取引所の話に変わりますけれ ね。 し た し、 経 営 的 に も 厳 し い 時 期 が 続 き ま し た よ 所は単独上場銘柄も二〇年あまり出てきませんで かったということですね。しかし、京都証券取引 う わ け で す ね。 そ れ で、 あ ま り 実 態 と し て は な ――上場予備軍からの賛同が得られなかったとい ておられました。 たら、お聞きかせいただきたいなと思っておりま は既に、そんなもんをやったところで、みなが京 ――賛同というのは、どこからの賛同を得られな なんと…。 ― ― 116 京証と大証の合併秘話 す。 勝 見 囲 む 会 は 賛 同 を 得 ら れ ず、 う ま く い か な かったということです。それと、もうそのときに 勝見 これはやろうと思うたんやけども、なかな か京都証券取引所会員の賛同を得られなかったん 都証券取引所を見放していましたし、むしろ、京 かったんですか。 勝見 やっぱりその〔上場〕予備軍ですね。中村 そもそも私が考える京証の一番の失敗は、財界 からトップを入れたということです。当時、他に 証があったら、支店がいつまでも賦課金を払わん ですね。 証券レビュー 第55巻第11号 使いにくいですわな。 永治郎氏とか、大林富次郎氏とかは、先輩やから 自分の使いやすい人を選んだんです。そら、西村 れていた村岡〔秋司〕氏はその人らにさせずに、 も有力者はいたんです。しかし、当時理事長をさ ら つ な ぐ か が 役 目 で し ょ。 そ れ が で き る の は、 を、どういうふうに融和して、中立性を保ちなが ん で、 そ の 理 事 長 は 上 場 企 業 と 一 般 投 資 家 の 中 り動けないんですよ。やっぱり取引所は公器のも 金融機関とつながっていますわね。それで、あま ――証券界からではなく、京都財界から出した。 当時、京都財界の中で、京都証券取引所の将来 を考えた議論は、もう既に「京都証券取引所は不 うんですよ。 勝 見 私 は そ れ を 提 案 し た ん で す け ど ね。 そ れ と、財界と言っても大阪じゃない、地元財界から いたかもしれませんね。 ――そうですね。官僚OBなら東証と合併させて 券会社の人を入れることはできたんですよ。それ ていただいたわけです。しかし、そのときに、証 塚本〔幸一〕さんだったから、やむを得ずワコー かったんで、そのときの京都商工会議所の会頭が ― ― 117 やっぱり証券の経験者が一番いいと、私はそう思 勝 見 こ れ が 例 え ば 財 務 省 の O B を 入 れ て い た ら、ひょっとしたら、もっと違う結果になったか 要なもん」というふうに結論が出ていたわけで 入れたということが失敗だったと思うんです。地 を村岡はんがみな消したんです。 ルの副社長であった中村〔伊一〕氏を理事長に出 元企業は、資本関係とかいろいろなことで地場の す。 そ れ で、 財 界 で も 人 を 探 し た け ど 出 て こ な もしれませんよ。 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(下)― 勝見 それも三顧の礼でやっと来ていただいたわ けです。それともう一つの問題は、中村はんは、 んを推薦したわけですか。 考えていたけれども、立場上、仕方がなく中村さ ――じゃあ、塚本さん自身は、もう京証は不要と ――なぜですか。 えなかったんです。 す。ところが、京都銀行だけが慣例を守ってもら 日前にきて、お金も四日目に全部入っていたんで 勝見 京都の地場証券が信用されてなかったんや ね。それで、 私はやかましく中村氏に、「場勘銀 ワコールと京都銀行との間にいろいろなことがあ りますから、当番銀行〔京証の決済銀行〕の中に 行の話し合いで解決してくれ」と言うたんですけ 勝見 そうそう。場勘銀行は一週間ずつみんな回 り持ちしていたんです。京都銀行が入ってきて、 ――場勘銀行の中に…。 は、東証と合併しよう思うたんですよ。それも、 き な 問 題 や っ た ん で す。 そ れ で 私 と 中 村 理 事 長 け で す。 そ れ で、 私 が「 潰 そ う 」 と 言 う た ん で ― ― 118 京都銀行を入れてくれと言ってきたんです。 どういうことが起こったかというと、京都銀行が 京 都 の 経 済 界 が 京 証 を 不 用 と 考 え る な ら、 早 期 ど、彼は京都銀行に理解していただけなかったわ 当 番 の と き は、 五 日 目 に し か お 金 を 払 わ な い か に、まだ余力のあるうちに〔東証と合併すべき〕 す。あまり表に出来んことやけど、それが結構大 ら、証券会社が一日か二日、立て替えなあかんよ と思ったんです。 な、東京証券取引所の約定証の信用で、株券は一 うになったわけです。他の銀行が当番のときはみ 証券レビュー 第55巻第11号 すよ。全証連という問題もありましたから…。 せなあかんかったのは、京都の地場証券の社長で ですし。そうでしょう。そやから、主として話を 係ないでしょ。無かったら分担金も要らへんわけ 京証を通さんでええのやから、そんな話あまり関 勝見 私と中村理事長は、東証と合併しようと考 えていたわけですよ。支店会員にとっては、別に たね。 理事長から話があったことをおっしゃっていまし さんにお話をお聞きしたときに、鶴島さんも中村 ――その話は、東証の社長をされた鶴島〔琢夫〕 会長も同じことを考えておられた。 たらええやないかとも思いましたし…。ちょっと 投資をする余裕もありませんし、別に母店を使う 勝見 だけど、丸近としては東証の特別会員にも ならへんと決めていましたよ。というのは、先行 京とか大阪とか。 ――会員権が欲しければね。京証じゃなくて、東 す。 員権を買うたらよろしいやんか」とも言うたんで そういう人たちには、「それなら東京か大阪の会 員じゃなくなる」という人もおられましたから、 も言わへんかったわけです。誰かが口出しせな、 ――中條〔安雄〕さん。 話がそれますけれども、私の友人で、香川証券の 先ほども言いましたように、もう意味はないと みな思っていたわけですよ。せやけど、みなが臭 もうどうにもならへんわけですよ。そやから私が 言うたわけです。一方で、「京証がなくなると会 勝 見 こ の 方 も 東 証 の 会 員 に な っ て い ま せ ん で しょ。採算を考えて、東京の会社を母店にした方 いもんには蓋をかぶせとこという考えで、誰も何 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(下)― ― ― 119 勝見 そうそう、今村さんもおられましたね。 いらっしゃったんじゃないですか。 ――その会には、今村証券の今村〔九治〕さんも 券の井阪さんがされたこともありました。 場証券は会を作っていたんですよ。座長を野村証 後藤〔毅〕さんの考えです。こうした独立系の地 アルプス証券の久保田〔壽穂〕さんとか、荘内の が合理的やないかというのが、私とか中條さん、 を買って長男に経営させていましたからね。 うまくいかなんだけども、東京でベンチャー企業 企業の上場予備軍を買った方がええというので、 そやから、中條さんも東証の会員権を取って、 支店まで作るお金があったら、東京のベンチャー す。 て、中国株を先頭きって始めはった会社もありま ん や っ た ら、 中 国 の 方 が 儲 か っ て い る と か 言 っ 国株の実績が大分あったんで、東京の会員を取る がされていましたね。 さとファンドを販売されたという話を、今村さん ――その会合から井阪さんが音頭をとって、ふる 勝見 そうそう。エンジェルになった方がええと 考えたわけですね。 とるなら、エンジェルになった方がいいと…。 ないでいらっしゃいますもんね。東証の会員権を ――中條さんは今も大阪の証券会社を使って、つ にはならなかった。それから、山形証券の女性社 長はご主人が亡くなってから、そこはもともと中 ――独立系地場証券の中で、最近銀行と提携する 勝見 そういう話があったね。そやから、そこら のメンバーは、お金は持ってるけど、東京の会員 証券レビュー 第55巻第11号 ― ― 120 会社が増えてきていますでしょ。 をずっと納めてきた人の意思を尊重せよ」と言う 話を戻しますと、私は、「京都証券取引所は公器 の機関だから、公の機関なら、今まで上場賦課金 勝見 そうですね。札幌の上光さんとこは銀行か ら人を迎えはったでしょ。 勝見 数年前に会うたときに上光さんは「銀行か らようけ人を入れたけど、上光で残っとる人の方 よね。 ――上光証券は北洋銀行から人が来られています よ。問題はそこが一番大きかったんです。当時、 大阪の金融、経済界はメンツがなくなるわけです 東証と合併できなかった一番大きな理由は、京都 東証との合併を言うたんは私ぐらいです。それと たんやけども、何人かから反対が出て、最後まで がよっぽど役に立つ」と、当時、言うてはりまし 大反対したんは、関西電力の秋山〔喜久〕さんな いた話です。 んです。これは会議に出席した中村理事長から聞 ――北洋銀行から来てもらったけれども…。 ――なるほど、大阪のメンツが潰れると…。 ――それで結果的には大証と合併しますね。 勝見 潰れるということです。 勝見 そうそう。証券は銀行と違って、売ってい る商品が元本保証やないからね。ところが、証券 会社の営業マンは、多少でもチャレンジ精神がな かったらあかんのに、銀行から来た営業マンは恐 れてやらへんでしょ。これは、昔から言うでしょ。 ― ― 121 の取引所が東京と合併するようなことになると、 たね。 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(下)― 証連に入っている人は一人も入れへんで。そうい 事会に出たときも、巽〔悟朗〕さんは「京都の全 たり、いろいろしていました。そやから、私が理 勝見 ただ、合併のときに、大証はダウンサイジ ングの途中やったわけですよ。千里の土地を売っ 勝見 ないね。 ていない。 かったわけですか。あまり積極的に取引所もされ こか新規上場銘柄をとろうという動きもあまりな らい単独上場がありませんでしたが、その間、ど ――互応化学工業が単独上場するまで、二三年ぐ う条件でやったら、やむを得ん」と言うていまし 勝見 それはね、まあ一生懸命やろうという動き の一環ですね。例えば、そのとき京証で一番よう もやっておられましたよね。 は単独上場銘柄を獲得しようというプロジェクト ――その一方で、一九九〇年代中ごろには、京証 でしょうか。 ちょっとご存じでしたらお聞かせいただけません ダメだというふうに却下されたという話を聞いた うふうに大蔵省に申請したら、投機性が高いから れる直前に、個別銘柄の先物取引をやりたいとい ――京都証券取引所が、取引所集中義務が撤廃さ できてたんは京都ホテルなんですね。ところが、 こ と が あ る ん で す け ど も、 こ の あ た り の こ と を 大株主は日本冷蔵〔現在のニチレイ〕ですから。 勝見 これはね、やっぱり京都市場で言われるこ とは、あまりレバレッジをかけるもんは好まない それを出してしもうたら、もうないと…。 土地やということですね。 ― ― 122 た。それが真実です。 証券レビュー 第55巻第11号 うことがあるんですよ。私とこも、実は商品取引 勝見 そやから、千何百年もの間、京都の人は財 産を守れてきたわけでしょ。そういう土壌やとい ――京都の投資家が…。 んは五人ぐらいしかいませんし…。 ね。当社でも、オプション取引をしているお客さ 投資をしてまですることはないと反対でしたけど 者がもう生き残れへんし、背に腹はかえられんか らやろうということだったと思います。私は設備 をやったことがあるんですよ。そやけど全くダメ しましたよね。それはどういう経緯があったんで ――しかし、個別銘柄先物取引を京証はやろうと 引所があれば、経営的に厳しくなることは、最初 というのは近過ぎますよね。狭い地域に三つも取 三つの取引所が再開されます。京都、大阪、神戸 ――戦後、取引所が再開されたときに、近畿には すか。 からある程度は分かっていたと思うんですが…。 勝見 それが徐々に存在する意味がなくなってい くんですね。特に、通信回線が普及してから、一 勝見 それは一部の人がやろうと思うたんです。 ――ああ、一部の人が。現物の出来があまりにも 段と意味がなくなったんですね。 …。 ―― そ う い う こ と で す ね。 そ れ で 廃 止 し よ う と 悪いので、それにかわる収益源を何か作りたい。 そこで、先物をと…。 勝見 そうそう。私は初めから反対したし、大手 証券でもあまり言わなかったですよね。一部の業 ― ― 123 やったんです。 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(下)― を提起し、そこで地方取引所の再編が取り上げら れた〕。 勝見 ああ、出ていましたね、出ていました。そ の話は、協和会の幹事長をしてるさかい、大体分 勝 見 当 時、 ワ コ ー ル が タ イ に 工 場 を 作 っ た か ら、私は理事長とタイへ行ったことがあるんです だけが、京都証券取引所を必要やと思うているけ かります。 よ。その往復の飛行機でも「地場証券のいくつか ど、支店会員はもう京都証券取引所は不要やと思 やから、止めどきが肝心や。このまま続けても誰 職金も三倍払えるし、誰にも迷惑をかけへん。そ けですか。 ――そのときに京都では、再編の話はなかったわ 〔常和〕さんたちが地方取引所再編論といったレ 証券というのがありましたでしょう、つなぎ機関 ――あと、取引所のかかわりで言いますと、京都 京都証券誕生の経緯 ポートを出されましたよね〔坂野氏の私的研究会 〔京都証券は昭和二六年に作られた大阪市場への ― ― 124 うてる。今やったら、まだ資産もあるさかい、退 も喜ばへん。早いうちに止めよ」と、私は言うて いるんです。 ――勝見さんがお止めになろうとおっしゃったの は、多分、平成になってからだと思うんですけれ であった証券研究会が、「全国証券取引所構想」 ど も、 昭 和 四 〇 年 ぐ ら い か ら 大 蔵 省 で は、 坂 野 頭をとって止めましたけど…。 勝見 あのときはね、最後まで残りたいという人 が多かったんです。神戸は石野〔成明〕さんが音 証券レビュー 第55巻第11号 れていた。昭和四一年ごろは、京都証券への注文 約九〇%が京都証券を通じて大阪市場に取り次が つなぎ機関で、京都証券取引所の出来高のうち、 になって、それでつなぎ機関を作ったわけです。 回線を引いた方が、費用の削減になるということ きて、一社でやるより、全社が共同で大阪へ専用 比べて半減したのに加え、支店会員からの利用も 文は漸減し、昭和五一年には取扱高が一〇年前と 市場への取り次ぎしかできない京都証券経由の注 の後、東京市場への一極集中が加速すると、大阪 これを潰すことになって、協栄証券に引き継いで て、それでつないでいたんです。後に労基問題で 勝見 京都は、時事通信が専用回線を引いていた んですが、その次に、京都証券が専用回線を引い ――それをみんなで分担して…。 ― ― 125 の五三%が、支店会員からの注文であったが、そ 二%にすぎなくなっていた〕。 もろたときも、地場証券はみな出資に応じたわけ です。 ――それで、協栄を通じて東京とか大阪に注文を 勝見 出した。私とこは一〇〇%協栄に出した。 そ や け ど、「 手 数 料 が 高 い 」 と 文 句 も 出 た ん で れ ど も、 あ れ は ど う い う 経 緯 で 作 ら れ た ん で す 勝見 それまで各社は母店をもっていたわけです が、専用直通回線をもっていたのは、わずかだけ す。協栄の手数料が高い要因はいくつかあったん …。 だったんです。ところが、情報の伝達が変わって か。 ――京都の地場証券で作られたかと思うんですけ 勝見 ありました。 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(下)― か潰れていったために、だんだん注文が減ってき ブロックした商店街 四条通の店舗進出を です。それは新潟証券取引所であるとか、いくつ たわけですね〔もともと京都証券は、証券取引所 め、会員業者が少なくなると、注文が減る運命に を作られたということもお聞きしたんですけれど ――そういうふうに、京都の地場証券で京都証券 の会員業者が出資して作ったつなぎ機関だったた あった〕。 たでしょう。 ― ― 126 も、昔から四条通には大手四社のお店がありまし ――広島もそうですね。 ――しかし、ずっと四社以外の証券会社のお店は 勝見 あるある。 たのは、じかにつないで市場外取引をしたら経費 なかったですよね。最近は岡三とか…。 ―― し か し、 そ う い う 会 社 が お 店 を 出 さ れ る ま 勝見 山種とかいっぱい出てきた。 券取引所に手数料が払われたと聞きましたが…。 で、結構な時間があったと思うんです。それは一 説で聞いた話では、京都の証券界がみんなで四条 勝見 そうそう。あった、あった。 ――何か協栄を通じて出した注文からも、京都証 が助かるわけです。 勝見 だから、手数料を下げられへんわけです。 そうでしょう。京都証券取引所で協栄証券を使う 証券レビュー 第55巻第11号 勝 見 な い な い。 そ の と き に 一 番 反 対 し た ん は ね、四条繁栄会。あそこが証券会社、銀行は絶対 なことを聞いたんですけれども、それは…。 よ。だけど、四条繁栄会は失敗した。何を失敗し ケースを作ったり、いろいろなことをやりました 勝見 そう、それがあった。そのとき一番反対し た の が、 当 社 の 株 主 で も あ る 四 条 繁 栄 会 の 有 力 通に証券会社が進出するのを阻止したというよう 入れんと言うてたんが、地場の証券会社が反対し たか言うと、昔、阪急電車が、四条大宮から四条 者。その後、四条繁栄会は四条通に面してショー たというふうに言われてるんやと思いますね。 ら、いちよし〔証券〕さんは桃山に出したという 勝見 そういうことです。そうすると、京都に店 を出したかったら、違うところに出さなあかんか く、四条通の商店街が反対したと…。 ―― と い う こ と は、 証 券 界 が 反 対 し た の で は な にしてみたら、梁をみな入れ替えさせなあかんか が、今さらそんなことを決められても、阪急電車 に 商 店 街 に し よ う と 決 め た わ け で す ね。 と こ ろ 当時、大反対したんです。ところが、地下いうの を全部商店街にする」と言うたんですけど、その ―― だ か ら、 京 都 銀 行 も 四 条 通 に 店 舗 を 作 れ な かったんやと思いますけどね。もっと先を読まな 商 店 街 を 作 っ て、 自 分 ら も 店 を 出 し と い た ら よ ― ― 127 河原町まで地下化するときに、「四条通の地下道 わけです〔いちよし証券は、昭和四四年に伏見大 ら、できひんということになったわけです。そや かったわけですか。 から、地下を商店街にしようと言われたときに、 は人が通ることが分かって、四条繁栄会も数年前 手筋に伏見支店を開設した〕。 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(下)― あきませんわな。 のご経験から、京都市場の特質や特徴をお聞かせ シ ャ ッ タ ー 街 に な る の を 嫌 っ た ん で す。 そ や か は、金融機関は休日にシャッターを下ろすので、 勝見 真実はそういうことです。商店街の反対で 銀 行 も、 証 券 会 社 も 店 を 出 せ な ん だ。 と い う の いということですね。 先ほどから言うてますように、私は個人営業を して怒られて、㊥を売って怒られて、ワリコーを は存続できないようになっていますわね。 す。もう今までのように、今は株だけでは商売で 勝見 私の考えは、先をにらんで、どういう商品 を販売するか。そして、その商品に対応する組織 いただけますでしょうか。 ら、山種さんは新町の角に店を出したということ 売って怒られて、投信を売っても怒られた。私が ――なるほど、なるほど。じゃあ、それは聞き違 です。ところが場所が悪いでしょ。それもあって 投 信 を 売 っ た り、 婦 人 部 隊 を 作 っ た り し た と き ― ― 128 と人材を作るかを考えないといかんということで お客さんがつかなんだわけです。 ん、どんどんやってくれ。うちは二番手でやるさ に、 萬 成 証 券 の 藤 井 史 郎 さ ん は、 私 に「 勝 見 は 証券界での長年の経験から考える かい」と言わはった。そやけど、「二番手では利 例 え ば、 未 上 場 の 会 社 で す け ど、 京 都 に 卵 を パックする機械を作ったナベルという会社がある 益が出えへんで」と言うんです。 これからの地場証券経営 で六〇年以上ご活躍になっておられますので、そ ――最後になりますけれども、勝見さんは証券界 証券レビュー 第55巻第11号 から証券会社をやったけど、すぐに潰れた。五条 彼は、中央市場でバナナの叩き売りをして、それ の隣に、昔、清水商店という店があったんです。 そうやなかったら残れません。京都でも西村証券 そして、京都市場の特質としては、やっぱりお 客さんを大事にするということやと思いますね。 気張っておられますよ。 ることはできへんということで、今でも物すごう ということは、トップにならん限り、シェアを握 二位以下の会社は残りをみんなで割らんならん。 は、トップの会社がシェアの九割とかをとると、 してパックする機械を作った〕。その人が言うの んですよ〔ナベルは世界で初めて、卵を自動選別 す。苦しい方の道を選ぶことが、実は楽な道なん 地道に個人のお客さんを集めなあかんと思うんで てきました。そうして考えると、今は募集営業で なく、長期に亘って信用を得るかという努力をし して、各顧客の利に適う商いをするか、一時的で は京都の有力資産家が中心で、いかに情報を収集 客 さ ん を 集 め る と い う、 し ん ど い 方 を 選 ば へ ん ヤ取りに注力して、地道に足腰を鍛えて個人のお ところが、そのほとんどが潰れた。それは、個 人投資家の時代になっているにもかかわらず、サ 社が存在した〕。 を置いている四一社と府内に本店を置かない一一 〔昭和二四年一二月末時点で、京都府内には本店 は上原証券という店があったり、京都には証券会 です。 ― ― 129 かったからなんです。当社は創業以来、お客さん 通に今、中信の支店がありますでしょ。あそこに 社がもういっぱいあった。私がこの世界に入った ときには、京都に六〇社ぐらいあったと思います 株式投資も勝ち組は一握りです。私は今日、一 〇年後に企業が生き残れるかをよく考えに考えな 京都証券界の重鎮に聞く―勝見昭氏証券史談(下)― ければならないと思っています。それは、考える ――そろそろお時間が参りました。今日は本当に 勝見 そうそう。諸々のアドバイスをしてね。 しいことを考えて、他社より早く動く。営業員も 長い間、ありがとうございました。 ことをやめれば生き残れないと思うからです。新 考えて、考えて情報を集めて、そしてそれを分析 ても言うて欲しいということです。投資家は自分 平成二七年三月一〇日に実施されたヒアリング ※ 本稿は、滋賀大学経済学部教授二上季代司氏 と当研究所から小林和子、深見泰孝が参加し、 しなければなりません。お客様への満足度調査で の考えが先を読んでいるか、意見を求めます。そ の内容をまとめたものである。文責は当研究所 ― ― 130 一番多いご要望は、お客様に怒られることであっ ういうことを望む投資家は、三〇年、四〇年の投 にある。 ※ なお、括弧内は日本証券史資料編纂室が補足 した内容である。 資経験をおもちの優良な投資家の方々に多く見ら 徴があると…。 ということをやっているところに、京都市場の特 してあげる。そして、そういう関係を長く続ける イスしてあげて、資産を増やしつつ、資産管理も ――そういう意味では、お客さんに適切なアドバ れます。 証券レビュー 第55巻第11号
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